その日の夜も、翌日も、なんとなく伊織さんの顔を見ることができなくて、私は必要最低限の会話だけして伊織さんを避けた。
避けたと言っても同じ家にいるんだから顔を合わせないわけにはいかないのだけれど、でもなんとなく伊織さんも私の態度に気付いているのか、お昼ご飯を食べたらすぐにオリーブ園に戻ったり、ご飯を食べた後は自室に行ったりと二人きりで過ごす時間は減っていた。
このままじゃよくないとは思うけれど、でも今は伊織さんと顔を合わせるのが辛い……。とはいえ、いつまでもこのままでいいわけがないし……。
「どうしたらいいのかな……」
「何がどうしたらいいって?」
伊織さんが仕事に行ったあと、家庭菜園の水やりを終え、ボーッと座り込んでいた私に誰かが声をかけた。この島で私のことを名前で呼ぶ人なんて伊織さん以外にいないはず……。そう思って振り返ると、そこには昨日の辰雄さんが立っていた。
「た、辰雄さん!」
「おはよう、菫ちゃん」
「お、おはようございます」
「朝早くからごめんね。伊織いる?」
「伊織さんなら、少し前に出ましたが……」
「えー入れ違い? ま、しょうがないか。向こうに言ってから話すわ」
ケラケラと笑いながらそう言うと、そのままオリーブ園に向かうのかと思いきや辰雄さんはなぜか私の隣に並んでしゃがんだ。
「あの……?」
「ね、菫ちゃんの前だと伊織っていつもあんな感じ? 二人ってどういうふうに出会ったの? お見合い? 親同士が旧知の仲? それともまさか恋愛結婚?」
「え、えっと……」
早口で尋ねてくる辰雄さんになんて言っていいのかわからず口ごもってしまう。昨日、伊織さんはあんなふうに言っていたけれど、私の口からはそんなこと……。
「どうしたの? あ、もしかして喧嘩でもした? さっきのどうしたらいいのかなって伊織のこと?」
「え……いえ、その……そういうのじゃないんですけど……」
どうしたらいいのだろう。私はなんて言えば……。
でも、とにかく昨日の伊織さんの説明と食い違うことだけはさけなくちゃ。
必死に考えると、私はおずおずと口を開いた。
「そ、その……私、伊織さんのことまだよく知らなくて、その……」
「あー、そういうあれね、わかるわー。あるよね、そういうことって」
私の説明にいったいどう納得したのかわからないけれど「あるよね、そういうのー」と言いながら辰雄さんは私の隣にしゃがみ込んだ。
「あれでしよ? たぶん、菫ちゃんと伊織って家の都合とかで急に引き合わされて、菫ちゃんの方はまだ心の準備ができてないのに無理やり結婚させられちゃった感じじゃない? しかもそのまま島送りとかさ。そりゃ、しんどさしかないしどうしたらいいのってなるわなー」
「あ、えっと……」
「しかも島に来たら来たらで、伊織に家の中に閉じこめられちゃったりしてさー。余計に息も詰まっちゃうよね。そんなの俺だったら逃げ出したくなるわ。菫ちゃんは偉い」
うんうん、と一人頷く辰雄さんに――私は否定も肯定もせず曖昧に笑った。けれど、その態度に辰雄さんは納得してくれたらしい。もしかしたら、この時代はそういうことが結構あるのかもしれない。今でこそ親の決めた人と無理矢理結婚とか、初対面の人とお見合いとかあんまりなくなってきているけれど、そういえばドラマなんかでやっている昔のお金持ちの家ではそういう話も出てくるもんね。
上手く説明ができない私の代わりに、自分たちの生活に当てはめて答えを出してくれて助かっちゃった。
ホッとしている私をよそに、辰雄さんは話を続ける。
「それでそんな顔して、こんなところで愚痴ってたってわけかー」
「こ、これはその……。ちょっとギクシャクしちゃって……。そのせいで今、伊織さんと二人でいるのが少し気まずくて……。どうしたらいいかわかんなくて……」
「ははーん、伊織のやつ。まったく、女の子には優しくしなきゃいけないのに、ダメだなー」
面白おかしく笑うと、辰雄さんは「よしっ」と言って立ち上がると伸びをした。私も慌てて立ち上がると、めくれ上がったスカートを直した。
辰雄さんは、隣に並ぶとずいぶんと身長が大きく見える。昨日は伊織さんと同じぐらいの身長だと思ったのだけれど、恰幅がいい分辰雄さんの方がずいぶんと大きい気がする。けれど、圧迫感を感じさせない人の良さそうな笑顔で、辰雄さんはニッと笑った。
「俺に任せとけ」
「え……?」
「まあ見てなって。俺が伊織と菫ちゃんとの仲を取りもってやるよ。まあみてなって」
「あ、あの! 辰雄さん!?」
「おっと、じゃあ俺仕事行かなきゃだし。あ、今日の昼飯三人分用意しといて。よろしく!」
そう言い残すと、辰雄さんは私の声なんて耳にも届いていないようで……にこやかに手を振りながらオリーブ園へと向かってかけていった。
残された私は、昼ご飯三人分の意味をしばらく考えながら、まさかね……と半信半疑で、でも念には念を入れて三人分のお昼ご飯の準備を始めた。
家庭菜園での宣言通り、お昼になって伊織さんが帰ってくると――その後ろには、朝の宣言通り、ニコニコと笑顔を浮かべる辰雄さんの姿があった。
「ごめん、無理矢理押しかけられて……。二人分しか用意してないって言ったんだけど……」
「そんなつれないこと言わないで。大丈夫だよね、菫ちゃーん?」
伊織さんの後ろでウインクをする辰雄さんに……私は話を合わせることにした。
「あ……はい。一人分ぐらいなら余分にあるので……辰雄さんの分も大丈夫だと思います」
「……そうなの?」
「……はい」
「ふーん?」
私の言葉が不服だったのか、伊織さんは面白くなさそうな声を出して居間へと向かった。その後ろを辰雄さんがついてく。私は、伊織さんの不機嫌な理由がよくわからないまま三人分のご飯をよそうと、おかずと一緒にちゃぶ台へと並べた。
「いただきまーす」
「いただきます」
「……いただきます」
元気いっぱいに辰雄さんはお昼ご飯をかき込む。ちなみに今日はチキンソテーと付け合わせにインゲンとジャガイモの炒め物。少し黒こしょうをかけすぎたかなと思ったけれど、ピリッとしてていい味付けにできている。あとはコンソメスープがあれば言うことなしなんだけどあいにくコンソメなんてものはこの時代にはまだないようで。にんじんやタマネギをクツクツ煮詰めて塩こしょうで味を調えた野菜スープをつけることにした。でも、これはこれで優しい味で、濃いめのチキンソテーとよく合う。辰雄さんは特にチキンソテーが気に入ったようで、一瞬で食べ終わっていた。
「これ、美味い! 菫ちゃん凄いね!」
「あ、ありがとうございます」
「伊織は幸せ者だな。こんな美味い飯が毎日食べられるなんて」
「そうだね」
やっぱり、どこか機嫌が悪い気がする。何かあったのかと伊織さんの方を見ると、目が合った。
「っ……」
「え……」
今、目をそらされた……?
この数日、私の方が伊織さんを避けていたくせに、いざ自分が目をそらされるとこんなにも胸が苦しくなるなんて……。
私は俯くとご飯の続きを口に運んだ。でも、さっきまで美味しかったそれらはもう何の味もしなくて、ただパサパサとした何かをずっと食べているような、そんな気分だった。
「はー、美味かった」
一足先に食べ終わった辰雄さんが満足そうに言うのを聞いて、少しホッとした。
この時代に来て、伊織さん以外の人にご飯を食べてもらうのは初めてだったから……。そんなことはないとわかっていたけれど、伊織さんは優しいから、もしも美味しくないと思っていても言い出せないんじゃないかとほんの少しだけ不安だった。
「お口にあって良かったです」
「いやー、本当に美味かったよ。伊織が毎日、わざわざ家に帰ってまで飯を食ってた理由がわかったわ」
「そ、そんなこと……」
でも、そんなふうに言ってもらえると嬉しい。
「ありがとうございます」
そんなふうに喜んだのが間違いだったと気付いたのは、翌日のお昼の時間だった。
その日から、辰雄さんはなぜか毎日のようにお昼ご飯を伊織さんの家に食べに来るようになったのた。
最初こそ嫌がっていた伊織さんだったけれど、お互いに会話が少なくなっていた私たちにとって、辰雄さんがいるお昼ご飯の時間は唯一、家の中で話し声が溢れる時間だった。それに気付いたのか、次第に辰雄さんが来ることについて伊織さんは何も言わなくなり、私も当たり前のように辰雄さんの分のお昼ご飯を用意するようになった。
ただ、肝心の私と伊織さんはというと――。
「菫」
「……はい」
「……いや、なんでもないよ」
「そうですか……」
台風の日から一ヶ月が経とうとしているにもかかわらず、未だに気まずいままだった。とはいえ、少しずつではあるけれど以前のように会話ができるようになってきていた。ただ、お互い一定のラインからは踏み込まない。そんな見えない約束ができているようだった。
「それじゃあ行ってくるよ」
「いってらっしゃい」
その日の朝も、伊織さんを見送るために外に出ると、いつの間にか家の前の大きな木が赤や黄色に色づき始めていた。
初めてこの時代に来た頃は初夏だったけれど、いつの間にか外はすっかり秋の景色になり、あと二ヶ月もすれば冬が訪れようとしていた。
私は相変わらず伊織さんの家でお世話になったいたし、ご飯を作ったりお掃除をしたりと変わらない日々を過ごしていた。
……少し変わったことがあったとすれば、あの台風の日を境に土が怖くなくなったことだろうか。伊織さんの作っている家庭菜園で野菜を取ることもできるようになったし、なんなら伊織さんの代わりに来年の夏に採れる野菜を植えたりもした。
「――来年の夏、かぁ」
「どうかしたのかい?」
「あ、いえ……、月日が経つのって早いなぁと思いまして」
「……たしかに、そうだね」
つられるようにして、伊織さんも赤く染まり始めた木々に視線を向けた。
この頃になると私は、ぼんやりともう元の時代には戻れないのではないか、そう思うようになっていた。元の時代に戻れないことが悲しくないのかと言われれば全く悲しくないわけではないし、お母さんや椿のことだって気になる。でも、今は……。
「ああ、そうだ。裏の畑のにんじんがそろそろ採れると思うから――」
「じゃあ、今日のお昼はにんじんたっぷりのカレーにしますね」
「楽しみにしているよ」
ニッコリと笑う伊織さんに手を振ると、私は中に戻り、一人っきりになった家で洗い物をしながら考える。もしこのままこの時代から戻れないのだとしたら、これから先どうやって暮らしていくかを考えなければいけない。
今はこうやって伊織さんにお世話になっているから生活していられるけれど、いつまでも甘えるわけにもいかない。家事をしているとはいえ1円のお金も入れていない迷惑な居候でしかないのだから。それに……。
「っ……」
ズキッと胸が痛むのを感じる。これを考えるといつも胸が痛くなって、その先を考えることから逃げていた。でも、いずれ来るかもしれない未来を真剣に考えなければいけない。
もしも――伊織さんが結婚することになったら。と、いうことを。
今はまだ独り身だからいいかもしれないけれど、いつかきっと伊織さんにだって好きな人ができて本当のお嫁さんがこの家にやってくる。ううん、好きな人じゃなくてもおうちの都合でどこかのお嬢さんと結婚することになるかもしれない。
そのときに、私がここにいたんじゃあ絶対に迷惑になる。こんなにお世話になったのだ。伊織さんにこれ以上の迷惑をかけたくないし、かけられない。
それに……伊織さんの口から「もうこの家から出て行って欲しい」なんて言われたら、私は立ち直れないかもしれない。
だから、せめて伊織さんから言われるその前にこの家を出て行きたい。逃げているだけかもしれない。でも、好きな人が幸せになる妨げになることだけは避けたいのだ。
でも……。
「どうしたらいいんだろう……」
この時代で生活していくとすると、まず住む家がいる。ううん、家だけじゃない。布団や食器、それに調理器具やお皿なんかも揃えなければいけない。それから、働くところ。これがなければ、一人で生活なんてできっこない。
でも、ほとんど知っている人もいないこの島でどうすればそれらを得られることができるのか……それすら今の私にはわからなかった。
「はぁ……」
結局、答えが出ることはないままお昼の時間が来て、お昼ご飯を食べに伊織さんが家に戻ってきた、はずだった。
けれどガラガラと玄関の戸が開く音が聞こえて、振り返った私の視線の先にいたのは……辰雄さんだった。
「こんにちは、菫ちゃん」
「こんにちは、辰雄さん」
「今日もお邪魔するねー」
当たり前のように家に入ってくると、居間のちゃぶ台の前に座る。その後ろから呆れたように伊織さんが入ってきた。
「辰雄、僕より先に行くなよ」
「えー? 伊織ってばヤキモチ? 独占欲? そんなんじゃあ菫ちゃんに愛想尽かされちゃうよ?」
「うるさいな」
ケラケラと笑いながら言う辰雄さんに、伊織さんはもう一度「うるさい」と言いながらも辰雄さんの隣に座る。私は三人分のカレーをよそうとちゃぶ台へと運んだ。
「おかえりなさい、伊織さん」
「ただいま、菫」
先に伊織さんへと声をかけて、それから私は伊織さんとそれから辰雄さんの分のカレーをちゃぶ台に並べた。
「お待たせしました」
「ありがとねー」
「菫、いつも言っているけれど、こいつの分は用意しなくても大丈夫だよ。勝手についてきてるだけなんだから」
「ふふ、大丈夫ですよ。あ、そうだ。辰雄さんのはにんじんたっぷりにしておきました」
「え、俺にんじん苦手なんだけど……」
「文句があるなら食べるな」
お皿を取り上げようとした伊織さんから慌てて取り返すと、辰雄さんは舌を出してわざとらしく「べーっだ」と言う。
そんな二人の態度がおかしくて、思わず笑ってしまう。私の前では落ち着いた態度を取ることが多い伊織さんだけれど、辰雄さんと一緒にいると少年のような表情をする伊織さんが見えて楽しい。
最初、伊織さんがお昼に辰雄さんを連れて来たときは驚いたけれど……。
「ふふ……」
「どうしたの?」
「あ、いえ。辰雄さん、最初すっごくむりやり伊織さんについてきてたなぁって思い出しちゃって」
私の言葉に、伊織さんはこめかみの辺りを押さえる。そんな伊織さんとは正反対に、辰雄さんは笑いながらカレーを口に運ぶ。
「だって、せっかく伊織のあんな顔が見えたんだから、これは放っておく手はないと思ってな」
「僕はなんとしてでもあのときの君を止めておくべきだったと思っているよ」
「意外と嫌がってないくせに」
「ホント、仲がいいですね」
私の言葉に、辰雄さんと伊織さんは対照的な表情を見せる。でも、こんな態度を取っているけれど伊織さんが辰雄さんのことを嫌がっていないことを私は知っていた。
そして──もしかしたら辰雄さんは私たちの、ううん、私の話を聞いてこうやって家に来てくれるようになったのかもしれない、と私は思っていた。あの日、私たちのことをどういうふうに解釈したのかはしれないけれど、微妙な空気の私たちを心配して――。
伊織さんと二人きりで気まずかったあの時期、辰雄さんの存在に救われていたし、辰雄さんがいてくれたからきっと私たちは再びこうやって話をすることができるようになった。そう思うと、ついつい辰雄さんの分もお昼ご飯を作って待っていてしまうのだ。
「菫ちゃん、おかわり!」
「あ、はい。ちょっと待ってくださいね」
「おかわりぐらい自分で入れろよ。菫は君の召使いじゃないんだから」
「あーはいはい。菫ちゃんは伊織の奥さんだもんな。知ってるからそんな独占欲丸出しな顔で俺を睨むな」
「なっ……!」
口げんかをする二人を放っておいて、私は辰雄さんのお皿を受け取ると、カレーのおかわりをよそいに立ち上がった。
カレーを装いながらこっそりと二人の姿を覗き見ると──二人とも少年のような表情を浮かべているのが見えた。
伊織さんと辰雄さんが午後からの仕事に出たあと、私は家庭菜園に水やりをするために裏庭へと向かった。野菜に水をやりながら考える。辰雄さんに、相談してみようか――と。
この時代に来てから今まで、伊織さん以外にまともに話をしたことがあるのは辰雄さんだけだ。他の人に相談、という選択肢がなかったのもあるけれど、辰雄さんなら……もしかしたら力になってくれるかもしれない。そんな淡い期待を抱いてしまうほど、辰雄さんは私に対してもよくしてくれていた。
とはいえ、いつ相談しよう。伊織さんがいるときにはそんな話、絶対にできないし……。
「うーーん」
私は水やりをしながら、どうすれば相談することができるかを、ああでもないこうでもないと一人考え続けた。
いろいろな計画を考えたものの、結局私は翌日のお昼の時に、小さなメモを辰雄さんに渡すことにした。
相談したいことがあるから時間を作ってもらえないか、そう書いたメモを。
とはいえ、辰雄さんは伊織さんと同じ職場で働いているし、相談できたとしても少し先のことになるだろう。そう思っていたのに……。
「おはよう、菫ちゃん」
「た、辰雄さん? どうして……」
「どうしてって、菫ちゃんが俺に手紙をくれたんだろう? で? 相談したいことって?」
朝、伊織さんがオリーブ園に行くために家を出たあと、入れ替わるようにして辰雄さんが現れた。突然のことに驚く私に、辰雄さんはひょうひょうとした表情でそう言うとこっちにおいでと手招きをした。
「あの……?」
いつものように中に入るのかと思いきや、辰雄さんは私に家の中から出てくるように言ったのだ。不思議に思いながらも、私は靴を履いて家の外へと出た。
「中に入らないんですか?」
「今日は伊織がいないからね。俺一人で菫ちゃんしかいない家に入ったりなんかしたら俺伊織に何されるかわかんないよ」
「そ、そんなこと……」
「まあ、それは冗談にしても、よその奥さんしかいない家に男が上がり込むっていうのは周りから見てあんまりいいもんじゃないからね。だから俺はここで話を聞くから、菫ちゃんはその辺の掃除でもするふりをしといてよ」
辰雄さんに言われて、初めてそのことに気付いた。たしかに、この島の人は私のことを伊織さんの奥さんだと思っているわけだから、その伊織さんのいない時間に辰雄さんを中に引き入れているなんて――周りの人から見たら浮気とか不倫だって思われても仕方がない。そしてそれは私じゃなくて、伊織さんや辰雄さんの評判を下げてしまうことになるのだ。
「わ、私……ごめんなさい。なんにも考えてなくて……」
「ああ、いいのいいの。気にしないで。それで? 突然、相談したいことがあるってどうしたの? 伊織とまたなんかあった?」
「……あの、もしもの話ですよ? もしもの……。その……えっと……」
「ん?」
「もしも……この島で女の人が一人で暮らすとして……お仕事とか住む場所とかって……ありますか? あるとしたら、どうやったらそれを得ることができますか?」
私の言葉に、辰雄さんの表情が変わるのがわかった。そりゃそうだろう。同僚の嫁だと思っている私からこんな話をされてるんだもん。
もしも、なんて言っているけれど、こんなの伊織さんの家から出る相談をしているんだってことは、きっと辰雄さんだって気付いているに違いない。
「っ……」
「んー、そうだなあ」
でも辰雄さんは、そんな私の問い掛けに、真剣に答えてくれた。
「例えばうちのオリーブ園でも事務仕事なんかは女の人もいるし縫製関連とか、あとは海で海女仕事とか、まあ探せばあると思うよ。住むところは空き家があるから頼めば格安で貸してくれるんじゃないかな」
「そう、ですか」
「……菫ちゃん、この家出るつもりなの?」
「それは……」
思わず黙り込んでしまう私に、辰雄さんは困ったように頭をかく。そりゃあそうだろう。こんな相談……。
「まあ、深くは聞かないけどさ、一度ちゃんと伊織に相談した方がいいと思うよ」
「……はい」
「んじゃ、そろそろ行かないとまずいから。また何かあったら声かけてよ。じゃあね」
「あ、ありがとうございました」
辰雄さんに頭を下げると、手をひらひらと振りながらオリーブ園へと向かって歩いて行った。一人残された私は、これから先のことを伊織さんに相談することの気の重さに小さくため息をついた。
「菫、話があるからこっちにおいで」
「え……?」
それは、その日の夜のことだった。晩ご飯を食べ終わったあと、伊織さんが険しい表情で私を呼んだ。その表情に、私はああ、朝のあの話だと感づいた。
「……辰雄から聞いたよ。ここを出て行くつもりなんだって?」
「それは……」
やっぱり。
私はなんて言っていいかわからず、黙ったまま俯いた。
そんな私の態度に、伊織さんは声を荒らげた。
「どうして……!」
「それは……」
こんな伊織さん、初めて見る……。そりゃあそうだ、これだけよくしてくれているのに、こんなに迷惑をかけているのに勝手に家を出る相談を伊織さんではなく辰雄さんにしているのだから怒っても仕方がない。
「そ、その……そろそろこれからのことも考えて一人で生活できるようにしようかなって……」
「それならそれで僕に相談してくれればいいだろう?」
「こ、これ以上伊織さんに迷惑をかけたくなくて……」
いろいろいいわけしてみるけれど、どれも伊織さんは納得してくれない。私だってできるならこのまま伊織さんのそばにいて、伊織さんと一緒に暮らしていきたい。でも、そういうわけにはいかない。伊織さんには伊織さんの人生があって、そこにこの時代の人間じゃない私はいちゃいけないんだから!
「菫!」
でも、私がどんなに上辺だけの理由を説明しても、それを全て否定してここにいてもいいと言ってくれる。甘えちゃいけないという私に、もっと甘えていいんだと言ってくれる。
違う、そうじゃない。私は……私は……。
「私は、伊織さんのことが、好きなんです……」
「え……?」
「だから、もうこれ以上伊織さんのそばにはいられないんです。これ以上、伊織さんのことを好きになるのが、惹かれていくのが怖い」
「どう、して……」
「どうしてって! だって、伊織さんはいつか誰かと結婚するでしょう? そうなったときに、私の存在が絶対に邪魔になる。そのときになってやっぱりここからは出て行って欲しいなんて言われたら悲しいし辛い。それなら、まだ諦められる今のうちに……伊織さんのそばから……離れた、い……」
涙が溢れてきて、最後まで喋ることができない。こんなふうに気持ちを伝えるつもりなんかじゃなかったのに。優しいこの人にこれ以上、迷惑をかけたくなんかないのに……。
「……って」
「え?」
伊織さんが何かを言うのが聞こえた。でも、その言葉を上手く聞き取ることができなくて思わず顔を上げた私を――伊織さんが抱きしめた。
「っ……どうし……」
「好きだ」
「え……?」
「だから、僕のことを好きになって」
「う、そ……」
必死に絞り出した言葉に、伊織さんは優しく微笑んだ。
「こっちに来て」
伊織さんは私の手を引くと、壁にもたれかかるように座る。その隣に並んだ私の手を伊織さんはギュッと握りしめた。
「あ、あの……」
「本当は菫に伝えたかった。好きだと、ずっとそばにいて欲しいって。でも……君はいつか元の時代に帰ってしまうとそう思っていたから、気持ちを伝えられなかった。好きになってはいけないと思っていた。でも……」
伊織さんは、私の目をジッと見つめる。その目に私が映っているのが見えた。この時代で生きている私の姿が。
「もう離したくない」
「そばに、いてもいいんですか……? 邪魔じゃ、ない……?」
「僕が、菫にそばにいて欲しいんだ」
「っ……」
涙が溢れて止まらない。頬を伝う涙を、伊織さんの指先が優しく拭い取って、そして……。
「菫……」
ギュッと私を抱きしめる伊織さんの背中に、私はおずおずと手を回した。
抱きしめ返したその身体から伝わってくる体温はあたたかくて、そして優しかった。
「あ、あの……」
「うん?」
どれぐらいの時間そうしていただろう。私はそっと顔を上げると、そこには優しく微笑んでいる伊織さんの姿があった。
「どうかした……?」
まるで囁かれるようにそう言われると、心臓の音がどんどんとうるさくなって……。
「そ、その……ドキドキしすぎて、苦しいです」
「っ……」
「伊織さん?」
「そんな可愛いこと言われると、離せなくなるよ」
「え、ええ……!?」
「なんてね」
ふっと笑うと、伊織さんは私の身体を抱きしめる腕の力を緩めた。ホッと息を吐きながら身体を離すと、さっきまでのぬくもりがなくなってどこか寒くて、それから寂しい。
「そろそろ休む準備をしようか」
「あ、はい……」
私たちは順番にお風呂に入ると、寝る支度をした。いつものように居間に布団を敷こうとして……手を止めた。同じように自分の部屋に戻ろうとしていた伊織さんも私の方を向いた。そして……。
「あの……!」
「あのさ……」
お互いの声が重なって……私たちは顔を見合わせて笑った。
「何ですか?」
「菫こそ……」
「伊織さんからどうぞ」
しばらく押しつけ合ったあと、観念したかのように伊織さんは口を開いた。
「こっちで、一緒に眠らないかい」
「……私も、そう言おうと思ってました」
優しく微笑みながら、伊織さんは私の背中に手を回すと部屋の戸を開く。そこには敷かれた布団が一組あった。あそこで……。
心臓の音がうるさすぎて、全身が心臓になってしまったみたいだ。ここで、今から伊織さんと一緒に眠るんだ……。そう願ったのは私も同じなのに、いざ目の当たりにすると、足が動かない。
そんな私に伊織さんはふっと微笑むと、居間から私の布団を持ってきた。
「え……?」
「隣に敷くね」
「あ……」
二つ並べられた布団に、私は自分の勘違いが恥ずかしくなる。伊織さんはそんなつもりじゃなかったのに、私ってば……!
「大丈夫、君の準備ができるまでは何もしないよ」
「い、伊織さん……!」
「僕は、君がそばにいてくれるだけで幸せなんだ。それ以上はまだ求めないから、安心して眠りなさい」
その言葉にホッとしたような、残念なような……複雑な気持ちになりながらも私は伊織さんの隣の布団に入る。しばらくすると布のこすれる音がして、隣の布団に伊織さんが入ったのがわかった。思った以上に近い距離に、心臓がドキドキする。
「菫」
「っ……」
布団の隙間から伊織さんの手が入ってきて、そっと手を握りしめられたのがわかった。さっきの残念だと思った気持ちを撤回したい。だって、こうやって布団の中で手を握りしめられただけでこんなにもドキドキするのに、それ以上のことなんて絶対に無理! ドキドキしすぎて心臓が壊れちゃう!
そんな私の気持ちが伝わったのか、伊織さんはふっと笑うと優しく囁いた。
「おやすみ」
今まで何度も聞いたその言葉がこんなにも愛おしいものだなんて、私は生まれて初めて知った。
避けたと言っても同じ家にいるんだから顔を合わせないわけにはいかないのだけれど、でもなんとなく伊織さんも私の態度に気付いているのか、お昼ご飯を食べたらすぐにオリーブ園に戻ったり、ご飯を食べた後は自室に行ったりと二人きりで過ごす時間は減っていた。
このままじゃよくないとは思うけれど、でも今は伊織さんと顔を合わせるのが辛い……。とはいえ、いつまでもこのままでいいわけがないし……。
「どうしたらいいのかな……」
「何がどうしたらいいって?」
伊織さんが仕事に行ったあと、家庭菜園の水やりを終え、ボーッと座り込んでいた私に誰かが声をかけた。この島で私のことを名前で呼ぶ人なんて伊織さん以外にいないはず……。そう思って振り返ると、そこには昨日の辰雄さんが立っていた。
「た、辰雄さん!」
「おはよう、菫ちゃん」
「お、おはようございます」
「朝早くからごめんね。伊織いる?」
「伊織さんなら、少し前に出ましたが……」
「えー入れ違い? ま、しょうがないか。向こうに言ってから話すわ」
ケラケラと笑いながらそう言うと、そのままオリーブ園に向かうのかと思いきや辰雄さんはなぜか私の隣に並んでしゃがんだ。
「あの……?」
「ね、菫ちゃんの前だと伊織っていつもあんな感じ? 二人ってどういうふうに出会ったの? お見合い? 親同士が旧知の仲? それともまさか恋愛結婚?」
「え、えっと……」
早口で尋ねてくる辰雄さんになんて言っていいのかわからず口ごもってしまう。昨日、伊織さんはあんなふうに言っていたけれど、私の口からはそんなこと……。
「どうしたの? あ、もしかして喧嘩でもした? さっきのどうしたらいいのかなって伊織のこと?」
「え……いえ、その……そういうのじゃないんですけど……」
どうしたらいいのだろう。私はなんて言えば……。
でも、とにかく昨日の伊織さんの説明と食い違うことだけはさけなくちゃ。
必死に考えると、私はおずおずと口を開いた。
「そ、その……私、伊織さんのことまだよく知らなくて、その……」
「あー、そういうあれね、わかるわー。あるよね、そういうことって」
私の説明にいったいどう納得したのかわからないけれど「あるよね、そういうのー」と言いながら辰雄さんは私の隣にしゃがみ込んだ。
「あれでしよ? たぶん、菫ちゃんと伊織って家の都合とかで急に引き合わされて、菫ちゃんの方はまだ心の準備ができてないのに無理やり結婚させられちゃった感じじゃない? しかもそのまま島送りとかさ。そりゃ、しんどさしかないしどうしたらいいのってなるわなー」
「あ、えっと……」
「しかも島に来たら来たらで、伊織に家の中に閉じこめられちゃったりしてさー。余計に息も詰まっちゃうよね。そんなの俺だったら逃げ出したくなるわ。菫ちゃんは偉い」
うんうん、と一人頷く辰雄さんに――私は否定も肯定もせず曖昧に笑った。けれど、その態度に辰雄さんは納得してくれたらしい。もしかしたら、この時代はそういうことが結構あるのかもしれない。今でこそ親の決めた人と無理矢理結婚とか、初対面の人とお見合いとかあんまりなくなってきているけれど、そういえばドラマなんかでやっている昔のお金持ちの家ではそういう話も出てくるもんね。
上手く説明ができない私の代わりに、自分たちの生活に当てはめて答えを出してくれて助かっちゃった。
ホッとしている私をよそに、辰雄さんは話を続ける。
「それでそんな顔して、こんなところで愚痴ってたってわけかー」
「こ、これはその……。ちょっとギクシャクしちゃって……。そのせいで今、伊織さんと二人でいるのが少し気まずくて……。どうしたらいいかわかんなくて……」
「ははーん、伊織のやつ。まったく、女の子には優しくしなきゃいけないのに、ダメだなー」
面白おかしく笑うと、辰雄さんは「よしっ」と言って立ち上がると伸びをした。私も慌てて立ち上がると、めくれ上がったスカートを直した。
辰雄さんは、隣に並ぶとずいぶんと身長が大きく見える。昨日は伊織さんと同じぐらいの身長だと思ったのだけれど、恰幅がいい分辰雄さんの方がずいぶんと大きい気がする。けれど、圧迫感を感じさせない人の良さそうな笑顔で、辰雄さんはニッと笑った。
「俺に任せとけ」
「え……?」
「まあ見てなって。俺が伊織と菫ちゃんとの仲を取りもってやるよ。まあみてなって」
「あ、あの! 辰雄さん!?」
「おっと、じゃあ俺仕事行かなきゃだし。あ、今日の昼飯三人分用意しといて。よろしく!」
そう言い残すと、辰雄さんは私の声なんて耳にも届いていないようで……にこやかに手を振りながらオリーブ園へと向かってかけていった。
残された私は、昼ご飯三人分の意味をしばらく考えながら、まさかね……と半信半疑で、でも念には念を入れて三人分のお昼ご飯の準備を始めた。
家庭菜園での宣言通り、お昼になって伊織さんが帰ってくると――その後ろには、朝の宣言通り、ニコニコと笑顔を浮かべる辰雄さんの姿があった。
「ごめん、無理矢理押しかけられて……。二人分しか用意してないって言ったんだけど……」
「そんなつれないこと言わないで。大丈夫だよね、菫ちゃーん?」
伊織さんの後ろでウインクをする辰雄さんに……私は話を合わせることにした。
「あ……はい。一人分ぐらいなら余分にあるので……辰雄さんの分も大丈夫だと思います」
「……そうなの?」
「……はい」
「ふーん?」
私の言葉が不服だったのか、伊織さんは面白くなさそうな声を出して居間へと向かった。その後ろを辰雄さんがついてく。私は、伊織さんの不機嫌な理由がよくわからないまま三人分のご飯をよそうと、おかずと一緒にちゃぶ台へと並べた。
「いただきまーす」
「いただきます」
「……いただきます」
元気いっぱいに辰雄さんはお昼ご飯をかき込む。ちなみに今日はチキンソテーと付け合わせにインゲンとジャガイモの炒め物。少し黒こしょうをかけすぎたかなと思ったけれど、ピリッとしてていい味付けにできている。あとはコンソメスープがあれば言うことなしなんだけどあいにくコンソメなんてものはこの時代にはまだないようで。にんじんやタマネギをクツクツ煮詰めて塩こしょうで味を調えた野菜スープをつけることにした。でも、これはこれで優しい味で、濃いめのチキンソテーとよく合う。辰雄さんは特にチキンソテーが気に入ったようで、一瞬で食べ終わっていた。
「これ、美味い! 菫ちゃん凄いね!」
「あ、ありがとうございます」
「伊織は幸せ者だな。こんな美味い飯が毎日食べられるなんて」
「そうだね」
やっぱり、どこか機嫌が悪い気がする。何かあったのかと伊織さんの方を見ると、目が合った。
「っ……」
「え……」
今、目をそらされた……?
この数日、私の方が伊織さんを避けていたくせに、いざ自分が目をそらされるとこんなにも胸が苦しくなるなんて……。
私は俯くとご飯の続きを口に運んだ。でも、さっきまで美味しかったそれらはもう何の味もしなくて、ただパサパサとした何かをずっと食べているような、そんな気分だった。
「はー、美味かった」
一足先に食べ終わった辰雄さんが満足そうに言うのを聞いて、少しホッとした。
この時代に来て、伊織さん以外の人にご飯を食べてもらうのは初めてだったから……。そんなことはないとわかっていたけれど、伊織さんは優しいから、もしも美味しくないと思っていても言い出せないんじゃないかとほんの少しだけ不安だった。
「お口にあって良かったです」
「いやー、本当に美味かったよ。伊織が毎日、わざわざ家に帰ってまで飯を食ってた理由がわかったわ」
「そ、そんなこと……」
でも、そんなふうに言ってもらえると嬉しい。
「ありがとうございます」
そんなふうに喜んだのが間違いだったと気付いたのは、翌日のお昼の時間だった。
その日から、辰雄さんはなぜか毎日のようにお昼ご飯を伊織さんの家に食べに来るようになったのた。
最初こそ嫌がっていた伊織さんだったけれど、お互いに会話が少なくなっていた私たちにとって、辰雄さんがいるお昼ご飯の時間は唯一、家の中で話し声が溢れる時間だった。それに気付いたのか、次第に辰雄さんが来ることについて伊織さんは何も言わなくなり、私も当たり前のように辰雄さんの分のお昼ご飯を用意するようになった。
ただ、肝心の私と伊織さんはというと――。
「菫」
「……はい」
「……いや、なんでもないよ」
「そうですか……」
台風の日から一ヶ月が経とうとしているにもかかわらず、未だに気まずいままだった。とはいえ、少しずつではあるけれど以前のように会話ができるようになってきていた。ただ、お互い一定のラインからは踏み込まない。そんな見えない約束ができているようだった。
「それじゃあ行ってくるよ」
「いってらっしゃい」
その日の朝も、伊織さんを見送るために外に出ると、いつの間にか家の前の大きな木が赤や黄色に色づき始めていた。
初めてこの時代に来た頃は初夏だったけれど、いつの間にか外はすっかり秋の景色になり、あと二ヶ月もすれば冬が訪れようとしていた。
私は相変わらず伊織さんの家でお世話になったいたし、ご飯を作ったりお掃除をしたりと変わらない日々を過ごしていた。
……少し変わったことがあったとすれば、あの台風の日を境に土が怖くなくなったことだろうか。伊織さんの作っている家庭菜園で野菜を取ることもできるようになったし、なんなら伊織さんの代わりに来年の夏に採れる野菜を植えたりもした。
「――来年の夏、かぁ」
「どうかしたのかい?」
「あ、いえ……、月日が経つのって早いなぁと思いまして」
「……たしかに、そうだね」
つられるようにして、伊織さんも赤く染まり始めた木々に視線を向けた。
この頃になると私は、ぼんやりともう元の時代には戻れないのではないか、そう思うようになっていた。元の時代に戻れないことが悲しくないのかと言われれば全く悲しくないわけではないし、お母さんや椿のことだって気になる。でも、今は……。
「ああ、そうだ。裏の畑のにんじんがそろそろ採れると思うから――」
「じゃあ、今日のお昼はにんじんたっぷりのカレーにしますね」
「楽しみにしているよ」
ニッコリと笑う伊織さんに手を振ると、私は中に戻り、一人っきりになった家で洗い物をしながら考える。もしこのままこの時代から戻れないのだとしたら、これから先どうやって暮らしていくかを考えなければいけない。
今はこうやって伊織さんにお世話になっているから生活していられるけれど、いつまでも甘えるわけにもいかない。家事をしているとはいえ1円のお金も入れていない迷惑な居候でしかないのだから。それに……。
「っ……」
ズキッと胸が痛むのを感じる。これを考えるといつも胸が痛くなって、その先を考えることから逃げていた。でも、いずれ来るかもしれない未来を真剣に考えなければいけない。
もしも――伊織さんが結婚することになったら。と、いうことを。
今はまだ独り身だからいいかもしれないけれど、いつかきっと伊織さんにだって好きな人ができて本当のお嫁さんがこの家にやってくる。ううん、好きな人じゃなくてもおうちの都合でどこかのお嬢さんと結婚することになるかもしれない。
そのときに、私がここにいたんじゃあ絶対に迷惑になる。こんなにお世話になったのだ。伊織さんにこれ以上の迷惑をかけたくないし、かけられない。
それに……伊織さんの口から「もうこの家から出て行って欲しい」なんて言われたら、私は立ち直れないかもしれない。
だから、せめて伊織さんから言われるその前にこの家を出て行きたい。逃げているだけかもしれない。でも、好きな人が幸せになる妨げになることだけは避けたいのだ。
でも……。
「どうしたらいいんだろう……」
この時代で生活していくとすると、まず住む家がいる。ううん、家だけじゃない。布団や食器、それに調理器具やお皿なんかも揃えなければいけない。それから、働くところ。これがなければ、一人で生活なんてできっこない。
でも、ほとんど知っている人もいないこの島でどうすればそれらを得られることができるのか……それすら今の私にはわからなかった。
「はぁ……」
結局、答えが出ることはないままお昼の時間が来て、お昼ご飯を食べに伊織さんが家に戻ってきた、はずだった。
けれどガラガラと玄関の戸が開く音が聞こえて、振り返った私の視線の先にいたのは……辰雄さんだった。
「こんにちは、菫ちゃん」
「こんにちは、辰雄さん」
「今日もお邪魔するねー」
当たり前のように家に入ってくると、居間のちゃぶ台の前に座る。その後ろから呆れたように伊織さんが入ってきた。
「辰雄、僕より先に行くなよ」
「えー? 伊織ってばヤキモチ? 独占欲? そんなんじゃあ菫ちゃんに愛想尽かされちゃうよ?」
「うるさいな」
ケラケラと笑いながら言う辰雄さんに、伊織さんはもう一度「うるさい」と言いながらも辰雄さんの隣に座る。私は三人分のカレーをよそうとちゃぶ台へと運んだ。
「おかえりなさい、伊織さん」
「ただいま、菫」
先に伊織さんへと声をかけて、それから私は伊織さんとそれから辰雄さんの分のカレーをちゃぶ台に並べた。
「お待たせしました」
「ありがとねー」
「菫、いつも言っているけれど、こいつの分は用意しなくても大丈夫だよ。勝手についてきてるだけなんだから」
「ふふ、大丈夫ですよ。あ、そうだ。辰雄さんのはにんじんたっぷりにしておきました」
「え、俺にんじん苦手なんだけど……」
「文句があるなら食べるな」
お皿を取り上げようとした伊織さんから慌てて取り返すと、辰雄さんは舌を出してわざとらしく「べーっだ」と言う。
そんな二人の態度がおかしくて、思わず笑ってしまう。私の前では落ち着いた態度を取ることが多い伊織さんだけれど、辰雄さんと一緒にいると少年のような表情をする伊織さんが見えて楽しい。
最初、伊織さんがお昼に辰雄さんを連れて来たときは驚いたけれど……。
「ふふ……」
「どうしたの?」
「あ、いえ。辰雄さん、最初すっごくむりやり伊織さんについてきてたなぁって思い出しちゃって」
私の言葉に、伊織さんはこめかみの辺りを押さえる。そんな伊織さんとは正反対に、辰雄さんは笑いながらカレーを口に運ぶ。
「だって、せっかく伊織のあんな顔が見えたんだから、これは放っておく手はないと思ってな」
「僕はなんとしてでもあのときの君を止めておくべきだったと思っているよ」
「意外と嫌がってないくせに」
「ホント、仲がいいですね」
私の言葉に、辰雄さんと伊織さんは対照的な表情を見せる。でも、こんな態度を取っているけれど伊織さんが辰雄さんのことを嫌がっていないことを私は知っていた。
そして──もしかしたら辰雄さんは私たちの、ううん、私の話を聞いてこうやって家に来てくれるようになったのかもしれない、と私は思っていた。あの日、私たちのことをどういうふうに解釈したのかはしれないけれど、微妙な空気の私たちを心配して――。
伊織さんと二人きりで気まずかったあの時期、辰雄さんの存在に救われていたし、辰雄さんがいてくれたからきっと私たちは再びこうやって話をすることができるようになった。そう思うと、ついつい辰雄さんの分もお昼ご飯を作って待っていてしまうのだ。
「菫ちゃん、おかわり!」
「あ、はい。ちょっと待ってくださいね」
「おかわりぐらい自分で入れろよ。菫は君の召使いじゃないんだから」
「あーはいはい。菫ちゃんは伊織の奥さんだもんな。知ってるからそんな独占欲丸出しな顔で俺を睨むな」
「なっ……!」
口げんかをする二人を放っておいて、私は辰雄さんのお皿を受け取ると、カレーのおかわりをよそいに立ち上がった。
カレーを装いながらこっそりと二人の姿を覗き見ると──二人とも少年のような表情を浮かべているのが見えた。
伊織さんと辰雄さんが午後からの仕事に出たあと、私は家庭菜園に水やりをするために裏庭へと向かった。野菜に水をやりながら考える。辰雄さんに、相談してみようか――と。
この時代に来てから今まで、伊織さん以外にまともに話をしたことがあるのは辰雄さんだけだ。他の人に相談、という選択肢がなかったのもあるけれど、辰雄さんなら……もしかしたら力になってくれるかもしれない。そんな淡い期待を抱いてしまうほど、辰雄さんは私に対してもよくしてくれていた。
とはいえ、いつ相談しよう。伊織さんがいるときにはそんな話、絶対にできないし……。
「うーーん」
私は水やりをしながら、どうすれば相談することができるかを、ああでもないこうでもないと一人考え続けた。
いろいろな計画を考えたものの、結局私は翌日のお昼の時に、小さなメモを辰雄さんに渡すことにした。
相談したいことがあるから時間を作ってもらえないか、そう書いたメモを。
とはいえ、辰雄さんは伊織さんと同じ職場で働いているし、相談できたとしても少し先のことになるだろう。そう思っていたのに……。
「おはよう、菫ちゃん」
「た、辰雄さん? どうして……」
「どうしてって、菫ちゃんが俺に手紙をくれたんだろう? で? 相談したいことって?」
朝、伊織さんがオリーブ園に行くために家を出たあと、入れ替わるようにして辰雄さんが現れた。突然のことに驚く私に、辰雄さんはひょうひょうとした表情でそう言うとこっちにおいでと手招きをした。
「あの……?」
いつものように中に入るのかと思いきや、辰雄さんは私に家の中から出てくるように言ったのだ。不思議に思いながらも、私は靴を履いて家の外へと出た。
「中に入らないんですか?」
「今日は伊織がいないからね。俺一人で菫ちゃんしかいない家に入ったりなんかしたら俺伊織に何されるかわかんないよ」
「そ、そんなこと……」
「まあ、それは冗談にしても、よその奥さんしかいない家に男が上がり込むっていうのは周りから見てあんまりいいもんじゃないからね。だから俺はここで話を聞くから、菫ちゃんはその辺の掃除でもするふりをしといてよ」
辰雄さんに言われて、初めてそのことに気付いた。たしかに、この島の人は私のことを伊織さんの奥さんだと思っているわけだから、その伊織さんのいない時間に辰雄さんを中に引き入れているなんて――周りの人から見たら浮気とか不倫だって思われても仕方がない。そしてそれは私じゃなくて、伊織さんや辰雄さんの評判を下げてしまうことになるのだ。
「わ、私……ごめんなさい。なんにも考えてなくて……」
「ああ、いいのいいの。気にしないで。それで? 突然、相談したいことがあるってどうしたの? 伊織とまたなんかあった?」
「……あの、もしもの話ですよ? もしもの……。その……えっと……」
「ん?」
「もしも……この島で女の人が一人で暮らすとして……お仕事とか住む場所とかって……ありますか? あるとしたら、どうやったらそれを得ることができますか?」
私の言葉に、辰雄さんの表情が変わるのがわかった。そりゃそうだろう。同僚の嫁だと思っている私からこんな話をされてるんだもん。
もしも、なんて言っているけれど、こんなの伊織さんの家から出る相談をしているんだってことは、きっと辰雄さんだって気付いているに違いない。
「っ……」
「んー、そうだなあ」
でも辰雄さんは、そんな私の問い掛けに、真剣に答えてくれた。
「例えばうちのオリーブ園でも事務仕事なんかは女の人もいるし縫製関連とか、あとは海で海女仕事とか、まあ探せばあると思うよ。住むところは空き家があるから頼めば格安で貸してくれるんじゃないかな」
「そう、ですか」
「……菫ちゃん、この家出るつもりなの?」
「それは……」
思わず黙り込んでしまう私に、辰雄さんは困ったように頭をかく。そりゃあそうだろう。こんな相談……。
「まあ、深くは聞かないけどさ、一度ちゃんと伊織に相談した方がいいと思うよ」
「……はい」
「んじゃ、そろそろ行かないとまずいから。また何かあったら声かけてよ。じゃあね」
「あ、ありがとうございました」
辰雄さんに頭を下げると、手をひらひらと振りながらオリーブ園へと向かって歩いて行った。一人残された私は、これから先のことを伊織さんに相談することの気の重さに小さくため息をついた。
「菫、話があるからこっちにおいで」
「え……?」
それは、その日の夜のことだった。晩ご飯を食べ終わったあと、伊織さんが険しい表情で私を呼んだ。その表情に、私はああ、朝のあの話だと感づいた。
「……辰雄から聞いたよ。ここを出て行くつもりなんだって?」
「それは……」
やっぱり。
私はなんて言っていいかわからず、黙ったまま俯いた。
そんな私の態度に、伊織さんは声を荒らげた。
「どうして……!」
「それは……」
こんな伊織さん、初めて見る……。そりゃあそうだ、これだけよくしてくれているのに、こんなに迷惑をかけているのに勝手に家を出る相談を伊織さんではなく辰雄さんにしているのだから怒っても仕方がない。
「そ、その……そろそろこれからのことも考えて一人で生活できるようにしようかなって……」
「それならそれで僕に相談してくれればいいだろう?」
「こ、これ以上伊織さんに迷惑をかけたくなくて……」
いろいろいいわけしてみるけれど、どれも伊織さんは納得してくれない。私だってできるならこのまま伊織さんのそばにいて、伊織さんと一緒に暮らしていきたい。でも、そういうわけにはいかない。伊織さんには伊織さんの人生があって、そこにこの時代の人間じゃない私はいちゃいけないんだから!
「菫!」
でも、私がどんなに上辺だけの理由を説明しても、それを全て否定してここにいてもいいと言ってくれる。甘えちゃいけないという私に、もっと甘えていいんだと言ってくれる。
違う、そうじゃない。私は……私は……。
「私は、伊織さんのことが、好きなんです……」
「え……?」
「だから、もうこれ以上伊織さんのそばにはいられないんです。これ以上、伊織さんのことを好きになるのが、惹かれていくのが怖い」
「どう、して……」
「どうしてって! だって、伊織さんはいつか誰かと結婚するでしょう? そうなったときに、私の存在が絶対に邪魔になる。そのときになってやっぱりここからは出て行って欲しいなんて言われたら悲しいし辛い。それなら、まだ諦められる今のうちに……伊織さんのそばから……離れた、い……」
涙が溢れてきて、最後まで喋ることができない。こんなふうに気持ちを伝えるつもりなんかじゃなかったのに。優しいこの人にこれ以上、迷惑をかけたくなんかないのに……。
「……って」
「え?」
伊織さんが何かを言うのが聞こえた。でも、その言葉を上手く聞き取ることができなくて思わず顔を上げた私を――伊織さんが抱きしめた。
「っ……どうし……」
「好きだ」
「え……?」
「だから、僕のことを好きになって」
「う、そ……」
必死に絞り出した言葉に、伊織さんは優しく微笑んだ。
「こっちに来て」
伊織さんは私の手を引くと、壁にもたれかかるように座る。その隣に並んだ私の手を伊織さんはギュッと握りしめた。
「あ、あの……」
「本当は菫に伝えたかった。好きだと、ずっとそばにいて欲しいって。でも……君はいつか元の時代に帰ってしまうとそう思っていたから、気持ちを伝えられなかった。好きになってはいけないと思っていた。でも……」
伊織さんは、私の目をジッと見つめる。その目に私が映っているのが見えた。この時代で生きている私の姿が。
「もう離したくない」
「そばに、いてもいいんですか……? 邪魔じゃ、ない……?」
「僕が、菫にそばにいて欲しいんだ」
「っ……」
涙が溢れて止まらない。頬を伝う涙を、伊織さんの指先が優しく拭い取って、そして……。
「菫……」
ギュッと私を抱きしめる伊織さんの背中に、私はおずおずと手を回した。
抱きしめ返したその身体から伝わってくる体温はあたたかくて、そして優しかった。
「あ、あの……」
「うん?」
どれぐらいの時間そうしていただろう。私はそっと顔を上げると、そこには優しく微笑んでいる伊織さんの姿があった。
「どうかした……?」
まるで囁かれるようにそう言われると、心臓の音がどんどんとうるさくなって……。
「そ、その……ドキドキしすぎて、苦しいです」
「っ……」
「伊織さん?」
「そんな可愛いこと言われると、離せなくなるよ」
「え、ええ……!?」
「なんてね」
ふっと笑うと、伊織さんは私の身体を抱きしめる腕の力を緩めた。ホッと息を吐きながら身体を離すと、さっきまでのぬくもりがなくなってどこか寒くて、それから寂しい。
「そろそろ休む準備をしようか」
「あ、はい……」
私たちは順番にお風呂に入ると、寝る支度をした。いつものように居間に布団を敷こうとして……手を止めた。同じように自分の部屋に戻ろうとしていた伊織さんも私の方を向いた。そして……。
「あの……!」
「あのさ……」
お互いの声が重なって……私たちは顔を見合わせて笑った。
「何ですか?」
「菫こそ……」
「伊織さんからどうぞ」
しばらく押しつけ合ったあと、観念したかのように伊織さんは口を開いた。
「こっちで、一緒に眠らないかい」
「……私も、そう言おうと思ってました」
優しく微笑みながら、伊織さんは私の背中に手を回すと部屋の戸を開く。そこには敷かれた布団が一組あった。あそこで……。
心臓の音がうるさすぎて、全身が心臓になってしまったみたいだ。ここで、今から伊織さんと一緒に眠るんだ……。そう願ったのは私も同じなのに、いざ目の当たりにすると、足が動かない。
そんな私に伊織さんはふっと微笑むと、居間から私の布団を持ってきた。
「え……?」
「隣に敷くね」
「あ……」
二つ並べられた布団に、私は自分の勘違いが恥ずかしくなる。伊織さんはそんなつもりじゃなかったのに、私ってば……!
「大丈夫、君の準備ができるまでは何もしないよ」
「い、伊織さん……!」
「僕は、君がそばにいてくれるだけで幸せなんだ。それ以上はまだ求めないから、安心して眠りなさい」
その言葉にホッとしたような、残念なような……複雑な気持ちになりながらも私は伊織さんの隣の布団に入る。しばらくすると布のこすれる音がして、隣の布団に伊織さんが入ったのがわかった。思った以上に近い距離に、心臓がドキドキする。
「菫」
「っ……」
布団の隙間から伊織さんの手が入ってきて、そっと手を握りしめられたのがわかった。さっきの残念だと思った気持ちを撤回したい。だって、こうやって布団の中で手を握りしめられただけでこんなにもドキドキするのに、それ以上のことなんて絶対に無理! ドキドキしすぎて心臓が壊れちゃう!
そんな私の気持ちが伝わったのか、伊織さんはふっと笑うと優しく囁いた。
「おやすみ」
今まで何度も聞いたその言葉がこんなにも愛おしいものだなんて、私は生まれて初めて知った。