さざ波の向こう いつかの君へ

 そんな話をした数日後、朝ご飯を食べ終わった私に、伊織さんが声をかけた。

「今日は僕と一緒に出かけませんか?」
「え?」
「島を案内します」

 それは、退屈しきっていた私にとってありがたい話だった。

「でも、伊織さん仕事は……」
「今日は日曜日で仕事も休みなので大丈夫です」

 そういえば、今日はいつも着ている作業着を着ていない。今日の伊織さんの格好は、初めて会ったあの日と同じ、真っ白なシャツに紺色のズボンを履いていた。作業着姿を見慣れてしまったので、この姿でいられるとどこか落ち着かない。なんか、こう……胸がざわざわするというか、ドキドキするというか……。

「菫?」
「あ、はい。えっと……ホントにいいんですか?」
「はい」

 私のために貴重な休みを使ってもらうのが申し訳ない。この時代の人は週休1日のようで土曜日も半日は働いている。と、いっても伊織さんは土曜日の午後も働いている気がするのだけれど……。とはいえ、せっかく島を案内してくれるというのだから……。

「お願いします」
「じゃあ、これを片付けたらいきましょう」
「はい!」

 食べ終わった食器を流し台へと運ぶと、隣に伊織さんが立つ。私が洗った食器を、伊織さんは手際よく拭いてかごの中へと片付けてくれる。
 こんなふうに、誰かと並んで洗い物をすることなんて今までなかった。椿は食べたら宿題をしてたし、お母さんは夜勤で夕食の時間に家にいることはほとんどなかった。それが当たり前だと思っていたから、最初はこうやって二人で並んですることに戸惑いもあった。でも……。

「どうしました?」
「いえ、その……一緒にする人がいるって嬉しいなって思って」
「僕も、この島に来てからずっと一人だったので、こうやって菫が一緒にいてくれると嬉しいですよ」
「っ……」

 洗い物のことだとわかっていても、心臓が跳ね上がるのを止められない。伊織さんの言葉は、あまりにもストレートで私には刺激が強いときがある。……とはいえ、こういった言葉に他意がないことはこの数日でよーくわかったけれど。
 伊織さんはお人好しというか人がいいというか、親切な人だ。たまに島の人に何かを頼まれて遅く帰ってきたりする。そんなときはいつもお礼にもらった野菜や魚を持って帰ってくるのだ。

「そういえば、どうして私のことを拾ってくれたんですか?」
「それは……」

 一瞬、伊織さんが視線をそらした。でも、すぐにいつものように優しい笑顔を浮かべると手に取ったお皿を拭いて私に渡した。

「心細そうにしてたから」
「でも、もしかしたら私が悪い人だったかもしれないじゃないですか!」
「……君は、いつかの僕と同じ目をしていたから。一人でいるのが寂しいのに、周りに迷惑をかけないように必死に大人になろうとしていた子どもの頃の僕と同じ目を。だから、放って置けなかったのかもしれません」

 お母さんが自分を産んで死んじゃったと伊織さんは言っていた。お父さんやお兄さんが愛してくれたから、自分自身を責めることはなかったとそう言っていたけれど……。もしかしたら、伊織さんにも辛かった過去があったのかもしれない。

「それで終わりですか?」
「あ、はい」
「ありがとうございます。それじゃあ、行きましょうか」

 伊織さんに促されるようにして、私は久しぶりに外に出た。
 ちなみに、私が着ている服はあの日この時代にやってきたときのものではない。伊織さんがどこからか調達してきてくれた丈の長いスカートとブラウスだ。大正時代って、もっとこう着物とか着ているイメージだったんだけど、こういう服も売っているんだと最初はビックリした。ちなみにワンピースも何着か用意してくれたので着替えには困っていない。けど、これを伊織さんが選んだんだと思うと……ちょっと、いやかなり笑える。いったいどんな顔をしてこれを買ったんだろう。

「菫? 行きますよ?」
「あ、はい!」

 ロングスカートが足に絡みつくのを振りほどきながら、私は不思議そうに振り返る伊織さんの元へと走った。
 伊織さん曰く、小豆島は小さいけれど活気のある島で、45000人ほどの人が暮らしているらしく、漁師だったり農業だったりを営んでいるそうだ。
 それから……。

「そういえば、伊織さんの働いているオリーブ園はどこにあるんですか?」
「……もう少しいったところですが」
「行ってみたいです!」
「ですが……」

 なぜか伊織さんは困ったような表情を浮かべる。いったいどうしたというのだろう……。

「あっ……。私が行ったらまずいですか……? 部外者ですし……」
「それは大丈夫ですが……」

 少し考えるようにしたあと、伊織さんは「それじゃあ、行きましょうか」と行って歩き出した。私は伊織さんの困ったような表情の理由が気になったけれど、先に歩き出した伊織さんに置いて行かれないように慌てて追いかけた。

「ここが、オリーブ園です」
「これが……」

 伊織さんに連れられて行ったのは、伊織さんの家から歩いて30分ほどの場所にある果樹園のようなところだった。もう実がなっている木もあれば、まだ細くこれから大きく育っていくんだろうと思わせるものもある。これを伊織さんが……。

「凄いですね」
「大丈夫ですか? 気分が悪くなったりとか」
「え?」

 心配そうに私を見る伊織さんに――私はようやく先ほどの伊織さんの態度の理由《わけ》に気付いた。オリーブ園にはたくさんのオリーブの木が植えられている。植えられている、ということはそこには土や砂があるわけで――。
 だから、渋っていたんだ……。
 伊織さんの優しさに、胸の奥があたたかくなる。こんなふうに、誰かに気にとめてもらえるって、こんなにも嬉しいことなんだ。

「心配、してくれてたんですか?」
「それは……するに決まっているでしょう。またあんなふうに……」
「あ……」

 その言葉に、パッとなった気持ちが沈む。そりゃあそうだよね、この前みたいに過呼吸起こす寸前みたいになって倒れられたら迷惑だもんね……。
 しょんぼりとした私の頭上で、伊織さんが言葉を続けた。

「菫が苦しい思いをするのは嫌ですから」
「……え?」
「なんですか」
「そ、その……私のせいで伊織さんに迷惑がかかるのが困るから、じゃなくてですか……?」

 そう言った私を、伊織さんが怪訝そうな表情で見たあと、ため息をついた。

「僕に迷惑がかかるのは別にかまいません。でも、菫が苦しい思いをするのは見ていて辛い」
「伊織さん……」

 伊織さんの言葉は、私を優しく包み込んでくれる。伊織さんはわかっているんだろうか。こんなふうに言ってもらえることが、私にとってどれだけ嬉しいか。気付いているんだろうか。その言葉の一つ一つが、私の心の冷たくなった部分を、暖めているのかを。

「菫? やはり、気分が悪いのでは……?」
「ち、違います! 大丈夫です!」
「本当ですか?」
「はい!」
「そうですか」

 安心したように言う伊織さんの声があまりにも優しくて、涙が出そうになる。本当は、こんなふうにお母さんの言葉も素直に受け取りたかったのかもしれない。ううん、お母さんだけじゃない。いろんな人がどれだけ優しい言葉をかけてくれても、全て疑ってかかっていた。本当はそんなこと思ってないんでしょう? って。
 でも、伊織さんは違う。伊織さんの言葉は、ストレートに私の胸に届く。いったい、どうしてだろう……。

「それじゃあ、次の場所に行きましょうか」
「あ、はい」

 トクントクンと心臓が音を立てる。その音の正体はまだわからないけれど……。私は、不思議そうに私を呼ぶ伊織さんの元へと駆け出した。
 

 そのあと、島に一軒だけある服屋さんへと向かって私の服を買ってもらった。どうやら今着ている服なんかもここで買ってくれたようだ。

「何か欲しいものはありますか?」
「え、えっと……あの……」
 
 普段着は伊織さんが用意してくれたもので問題なかったのだけれど、下着だけは代わりに買ってもらうことができなかったから……。

「菫?」
「おじょうちゃん、どうしたの?」

 お店のおばちゃんが私の様子に気付いて話しかけてくれる。私は、伊織さんに聞こえないように、おばちゃんの耳元に口を寄せて小さな声で言った。

「し、下着が欲しくて……」
「ああ、はいはい。こっちにおいで」

 おばちゃんは私を手招きすると、店の奥の方にある棚に連れて行ってくれる。そこには私が想像した下着とは全く違う形の下着があった。

「これ……」
「今若い子の間では下着を履くのが流行ってるんだってねぇ。おばちゃんにはついていけないわ」
「えっと……」

 この、スパッツにひらひらがついたような……そう、まるでお人形のパンツのようなこれが下着だというのだろうか……。
 この時代に迷い込んだことによって起きたカルチャーショックの中で、これが一番大きいかもしれない。だって、今この店員さん若い子の間で下着を履くのが流行ってるって言った……? ってことは、もしかして目の前のこの人は下着を着けてないっていうこと……? 着物の下は……うう、考えたくない。
 と、いうか……まさか。
 思わず、伊織さんの方を振り返ってしまう。目が合って不思議そうな表情を浮かべる伊織さんに思わず赤くなって、私は慌てて視線を元に戻した。
 
「気が付かなくてすみません」

 お店で買ったものに気付いたのか、外に出て伊織さんは謝ってくれた。けれど、そこまで気が回って買ってきてもらっていたら私の方が恥ずかしくて仕方がなかったと思う。

「そういえば」
「え?」
「さっき、僕の方を見てたじゃないですか。あれ、どうかしたんですか?」
「っ……!」

 さっきの話を思い出して、私はむせ返る。いったい、どう説明すれば……。

「菫?」
「な、なんでもないです。忘れてください!」
「は、はあ」
 
 腑に落ちない顔をしていたけれど、それ以上伊織さんが追求してくることはなかった。
 そのあと、私たちは伊織さんの家に戻ってお昼ご飯にした。今日のお昼ご飯は、島を案内してもらっている途中に声をかけてくれた漁師さんからもらったお魚だった。そういえば、魚をさばくところを見るのは初めて……。器用にさばく伊織さんの姿をジッと見ていると、ふっと笑い声が聞こえて顔を上げた。

「見過ぎです」
「す、すみません!」

 慌てて顔を背けると、そんな私を伊織さんはもう一度笑った。

 
 お昼ご飯を食べて洗い物を終えたあと、伊織さんは読書を始めた。私は――伊織さんからもらったまま一度も開いていなかったノートを開いた。
 これまでのこと、ここに来るきっかけになったキャンプのこと……それから、お母さんと椿のこと。元気にしているだろうか。椿は好き嫌いを言わずに野菜を食べているだろうか。お母さんは働きすぎでしんどくなってはいないだろうか。それから……ほんの少しでもいいから、私のことを心配してくれているだろうか。

「…………」

 ううん、きっと心配してくれている。だって、私が目を背けていただけで、二人は今までも私のことをずっと気にかけてくれていたんだから。
 お母さん、椿。会いたい。会いたいよ……。
 せっかく書いた日記帳の文字は、気付けばこぼれ落ちた私の涙でにじんで読めなくなっていた。


 あれからさらに一週間が経った。この時代にタイムスリップしてきてからもう二週間以上経つけれど、相変わらず元の時代に戻る方法はわかっていなかった。

「それじゃあ、行ってくるね」
「いってらっしゃ!」

 伊織さんの口調が気付けば砕けたものになり、なんとなくお互いこの生活にも慣れてきた気がする。私は伊織さんを見送ると、朝ご飯の片付けをしてそれから部屋を掃除した。
 もう足はすっかり治った。けれど、私はまだ伊織さんのお世話になっていた。このままずるずると何もしないままお世話になるのは気が引ける。かといって、ここを出て行くこともできないし……。

「よしっ」

 掃除が終わった私は、冷蔵庫を開けた。私が知っている冷蔵庫とは少し見た目も機能も違うようだけれど、開けると中はひんやりしていた。少し前はここに氷がついていた、なんて伊織さんは言っていたけれど本当だろうか……? 冷凍庫じゃなくてですか? と聞いた私に「れいとう、こ?」と不思議そうな表情で言っていたのを思い出して笑ってしまう。
 中には島でとれたお魚やお肉が入っていた。今までは伊織さんに準備してもらうばかりだったけれど……。私は冷蔵庫の中から鶏肉を取り出した。
 幸い、料理は苦手ではない。お母さんが夜勤を始めてから晩ご飯を作るのは私の役目になった。ただ苦手ではない、と好きだは違うことを私は知っている。料理を作ることは、私にとって私の居場所を作るためのものだった。

「……嫌なこと思い出しちゃった」

 私は頭の中によぎった嫌な思い出を追い払うと引き出しから包丁を取り出した。まな板の上に鶏肉をのせると、それを一口サイズに切り分けていく。調味料は意外とそろっていて、その中から塩とこしょうで下味をつけると、油をひいたフライパンを熱する。下味をつけた鶏肉に小麦粉をまぶすと、フライパンに入れた。
 本当は片栗粉があればよかったのだけれど、小麦粉はあるのになぜか片栗粉はない。大正時代には片栗粉はなかったのかな……なんて思いながら、こんがりと焼けた鶏肉をひっくり返した。部屋の中にはいい匂いが漂う。蓋をして中までしっかりと焼いたら、あとは醤油とみりんで味付けをすれば鶏の照り焼きのできあがりだ。あとは、冷蔵庫に入っていた豆腐と油揚げでお味噌汁を作ればお昼ご飯の完成だ。

「野菜が足りない気がするけれど……」

 窓の外を見て、私は小さくため息をついた。家の裏にあるという家庭菜園にはまだ近づけていない。オリーブ園は大丈夫だった。でも、あれはどちらかというと果樹園に近くて畑や田んぼとは違うものだったから……。家庭菜園がどういう規模なのかはわからないけれど、まだ畑や田んぼに近づく勇気はなかった。
 それにしても……。できあがった照り焼きをお皿に盛り付けながら思う。本当にしなければいけないのはご飯作りではなく、これから先のことを考えることだと言うことは私にもわかっている。でも、考えれば考えるほどどうしたらいいかわからなくなって……。結局、私は自分のこれからについて考えることを放棄した。足が治って、歩けるようになっている私に気付いても伊織さんが何も言わないことに甘えたまま。

「ただいま。何かいい匂いがする……」
「あ、おかりなさい」

 そんなことを考えている間に、いつの間にかお昼の時間になっていたようで伊織さんが戻ってきていた。私は照り焼きののったお皿とお味噌汁をちゃぶ台に並べると、炊飯器を開けてお茶碗にご飯をよそった。

「これは……。菫が作ってくれたの?」
「はい。その、簡単なものですけど」

 伊織さんはちゃぶ台の上に並んだご飯に驚いたような表情を浮かべる。やっぱり迷惑だっただろうか……。でも、私にできることなんてこれぐらいしか……。

「凄い!」
「え?」
「外にまで美味しそうな匂いがしていて、いったい何の匂いだろうと思ってたんだ。これ、食べてもいい?」
「は、はい」
「いただきます」

 両手を合わせていただきますをすると、伊織さんは照り焼きを頬張った。料理は苦手ではない、けれどそれは私が元いた時代での話だ。生きる時代が違えば味付けだって違うかもしれない。作ってもらった料理を食べる限り、そこまで外してはいないと思うけれど……。
 口に合うかどうか、不安でドキドキしながら伊織さんのことを見つめる。そして……。

「どう、ですか……?」
「美味しい!」
「よ、よかったぁ」

 パッと笑顔になったかと思うと、伊織さんは次から次へと照り焼きを口に入れて頬張った。その様子を見て、ホッとしながら私はお味噌汁に口をつけた。元の時代にいた頃は、顆粒だしを使ったりもしていたけれど、こっちにはそんなものはない。煮干しでだしを取ってみたのだけれど……。

「あ、美味しい」
「うん、お味噌汁も凄く美味しいよ。菫は料理が上手だね」
「そ、そんなこと……」
「いいお嫁さんになる」

 さらりと言われた一言に、思わずお味噌汁をむせた。

「なっ……」
「ん? 変なこと言ったかな?」

 不思議そうな表情を浮かべる伊織さんに、ガックリとなる。きっと伊織さんに深い意味なんてない。そう思ったからそう言っただけ。それだけだ……。

「いえ……。なんでもないです」
「そう? でも、菫のご飯は本当に美味しいね。驚いたよ」
「そんな……。普通ぐらいです。特別美味しいわけじゃないですよ」
「そんなことないよ。僕が作るより断然美味しい」

 そう言って力説されると照れくさい。ご飯を作るのは嫌じゃなかったけれど、特別好きなわけでもない。作らなきゃいけなかったから作ってきただけ。そう思っていた。でも……。

「あの、もしよければ……こうやってご飯つくって待っていてもいいですか?」
「……え?」
「その、お世話になってるし、私にも何かできることがあればってずっと思ってて……」
「そんなの大変じゃない?」
「大変なんかじゃないです! それに……私、嬉しかったんです。伊織さんが美味しいって言って食べてくれたのが。だから……!」

 伊織さんに美味しいって言ってもらえると、なんだか心の中がふわふわする。照れくさいような恥ずかしいようなくすぐったいような。その感情の正体がやっとわかった。私は嬉しかったんだ。伊織さんが美味しいって言って食べてくれたことが嬉しかったんだ。

「……なら、お願いしようかな」
「はい!」
「でも、無理はしないで。できるときだけでいいんだから」
「大丈夫です!」

 私にもできることがある。それだけのことでなんとなく居場所ができたようなそんな気になれた。
 ……そういえば、ずっと前にも同じように感じたことがあった。あれはいつのことだったんだろう……。

「菫?」
 
 そうだ、まだお父さんが生きていた頃だ。仕事で遅くなったお母さんの代わりに私が一人でカレーを作ったことがあった。学校の家庭科の授業で習ったばっかりのカレーを、指を切りながら、お皿を割りそうになりながら必死で作った。喜んでもらいたくて、驚いてもらいたくて。
 あのとき、お父さんとお母さんが美味しいって言って食べてくれたのが嬉しくて、料理をするようになったんだった。どうして忘れていたんだろう。

「っ……」

 本当はわかってた。美味しいって言ってもらいたかった。喜んでもらいたかった。それは全部、お母さんに対してだ……。
 胸が苦しくなる。涙が溢れてくる。
 お母さんに、椿に、会いたい……。会って、もっと素直に気持ちを伝えたい……。

「菫……」

 涙を拭う私の頭を、伊織さんが優しく撫でてくれる。その手のぬくもりは、とても優しかった。


 その日の夜、私は日記帳を開いた。
 お父さんに美味しいって言ってもらったカレーライス、お母さんが夜勤を始めてまるで罪滅ぼしのように作るようになった夕食、わがままも全て受け入れないといけないと必死に気付かれないように野菜を練り込んで作った椿のためのハンバーグ。どれも本当は、みんなに美味しいって、ありがとうって言って欲しかっただけだったこと。
 もし、もう一度元の時代に戻ることができたら、今度は二人への気持ちを込めて作りたい。贖罪ではなく、大好きの気持ちを込めて。
 それから……。

「っ……」

 伊織さんのことを書こうとして、手が止まった。名前を書こうとしただけなのに、どうして……。
 伊織さんは本当に不思議な人だ。本当ならこんなふうに知らない土地に、時代に迷い込んで不安で泣きたくて仕方がないはずなのに、伊織さんがいてくれるからきっと大丈夫だって思える。伊織さんのそばにいると安心できる。あったかい気持ちになれる。この、気持ちの正体は……。
 今まで、どんな男の人のこともこんなふうに思ったことはなかった。
 なんとなく、もしかしたら、ううん、でも……。
 私は、自分自身の中で芽生え始めた感情に、戸惑いとくすぐったさを感じていた。
 この時代に来て、いつの間にか一ヶ月が経った。二人で暮らすのにもずいぶん慣れた気がする。
 朝、伊織さんより少しだけ早く起きると朝ご飯の準備をする。伊織さんが起きたら一緒に食べて、仕事に行く伊織さんを見送る。朝ご飯の片付けをしたら部屋を掃除して、お昼ご飯を作りながら伊織さんの帰りを待つ。それが私の一日の全てだった。
 お昼を二人で食べた後、伊織さんが抜いてくれた家庭菜園の野菜を使って晩ご飯の準備をしたりもらったノートに日記を書いたりして時間を潰した。
 たまに、本当にたまに家庭菜園に水やりをすることもあった。伊織さんの家庭菜園は思った以上に本格的で、おうちの裏は全て畑になっていた。幸い、お米は作っていないようで田んぼはなかったので私でも近づくことはできた。……まだ土に触れるのは怖いけど。

「こんなもんかな」

 晩ご飯の下ごしらえを終えると、私は窓際に置いた座布団の上に座った。伊織さんが帰ってくるまでまだ1時間以上ある。今日は風が強いのか、窓がガタガタと音をたれて揺れていた。
 私は窓際に置いた箱を開ける。ずいぶんと増えた私の服やノート、それから伊織さんに借りた本なんかを入れた箱の中から一冊のノートを取り出した。

「結構書いたなぁ……」

 パラパラと最初からめくっていくと、この時代に来たときの不安な気持ちや元の時代のことが書いてあって、所々涙でにじんでいるのがわかる。でも、いつからだろう……。その日、伊織さんと話したこと、伊織さんに教えてもらったこと、伊織さんの好きなおかず……。日記の中に伊織さんの文字が増えていったのは。
 中学に上がった頃から、周りの友達の中には好きな子がいたり、付き合い始めたりすることが増えた。特に、中三になった今年は高校受験で学校が分かれてしまうこともあってか早く告白しなきゃとかそういう声も多くなっていたけれど、私には無縁の話だった。でも……。
 いつだったか友達が頬を赤く染めながら言っていた。好きな人ができると、胸の奥があたたかくなってドキドキして、その人のことばかり考えてしまう。
 もしもその気持ちを恋と呼ぶのなら――。

「っ……」

 伊織さんのことを思うだけで、胸の奥があたたかくなる。「菫」って伊織さんが呼んでくれるとドキドキする。早く帰ってこないかなってそわそわする。伊織さんが美味しいって思ってくれるかなって思うと、料理も頑張れる。
 この気持ちが、恋、なのだろうか。私は、伊織さんに恋、しているのだろうか――。

「菫?」
「ひゃっ!」
「ど、どうしたの?」

 いつの間に帰ってきていたのだろうか、気付くとすぐそばで私の顔を覗き込む伊織さんの姿があった。

「び、ビックリした……」
「驚かせたならごめん。何度か声をかけたんだけど……」
「い、いえ! ボーッとしてたので、それで……」

 心臓が破裂しそうなぐらいドキドキする。恥ずかしくて伊織さんの顔を見ることができない。こんな気持ち、初めて……。
 でも……。

「菫?」
「な、なんでもないです。すぐご飯にしますね」

 私は顔を背けると、立ち上がった。伊織さんは不思議そうに見ていたけれど、その視線には気付かないフリをする。
 作ってあったお味噌汁を温め直しながら思う。伊織さんを好きになってもいいのだろうか――と。
 だって、好きになったって私はこの時代の人間じゃない。もしかしたら明日、ううん、今日にだって元の時代に戻るかもしれない。それに、伊織さんよりずっと年下で……。そんな私が伊織さんを好きになって、どうなるっていうのか……。

「っ……」

 ずっと、元の時代に戻りたいと思っていた。今なら、お母さんとも椿とも素直に話せるような気がする。普通の家族になれる気がするって。なのに……元の時代に戻りたくない、そんなふうに思ってしまうなんて……。
 いつの間にか頬を伝っていた涙を拭うと、私は必死に口角を上げた。

「お待たせしました!」
「ありがとう」

 作業着から着替えた伊織さんがちゃぶ台の前に座って私に微笑む。その笑顔に胸がキュッとなるのを感じる。
 今日のメニューは伊織さんが買ってきてくれたアジを使って作ったアジの煮付けと、家庭菜園でとれたほうれん草の白和え、わかめとこれまた家庭菜園でとれたジャガイモのお味噌汁だ。

「菫の作るご飯はいつも美味しいね」
「そう言ってもらえると嬉しいです」

 伊織さんは美味しそうに味を頬張ると、何かを思い出したようにため息をついた。そんな伊織さんの態度は珍しくて、私は何買ったのかと不安になった。

「伊織さん……? どうかしたんですか?」
「いや、明日からしばらく菫の美味しいご飯を食べられそうにないと思うと、気持ちが落ち込んで……」
「え?」
「と、いってもお昼だけなんだけどね。ちょっと数日忙しくなりそうで、お昼に家に帰ってくるのが難しそうなんだ」

 今、伊織さんはお昼休みに家まで帰ってきてご飯を食べている。みんなそうなんだと思っていたけれど、どうやらそうではないらしい……?

「他の方はどうされてるんですか?」
「お弁当を持ってきてる人もいるし近くの食堂に食べに行く人もいるね」
「そうなんですか……」

 もしかして、家まで食べに帰っている伊織さんのような人の方が珍しい……? と、いうか、まさか……。

「伊織さんって今、家に帰って食べてまた戻ってるじゃないですか」
「そうだね」
「……私が来る前も、そうだったんですか?」

 私の質問に、伊織さんがしまったという表情を浮かべるのがわかった。これは、もしかして……。

「私が来る前は、伊織さんも食堂で食べていた、とか……?」
「それは……」
「私のせいで、わざわざ食べに帰ってきてくれてるんですか……? 私がここにいるせいで……」
「それは違う!」

 伊織さんは私の言葉を遮るようにして言うと、頭をかきながら恥ずかしそうに口を開いた。

「たしかに、家に帰って食べるようになったきっかけは菫が来たことだよ」
「やっぱり……」
「でも、それは仕方なしにそうしてるとかじゃなくて、その……」

 口ごもりながら、でも伊織さんはまっすぐに私を見て言った。

「僕が、菫と一緒にご飯を食べたかったから。だから、帰ってきてるんだ」
「っ……伊織、さん……」
「わかった?」
「……はい」

 そんなふうに真剣に言われたら、信じないわけにいかないじゃない。たとえその言葉が全て真実じゃなかったとしても、でも今の私には伊織さんの気持ちが嬉しかった。

「誤解が解けたみたいでよかったよ」
「すみません、早とちりしちゃって」
「いや。でも、そうやって疑問に思ったことや不安に思ったことを、きちんと菫が伝えてくれるようになって嬉しいよ」
「あ……」

 そういえば、そうだ。
 前の私だったらきっと勝手に勘違いして、一人自分を責めて、それで殻に閉じこもっていたと思う。
 そう思うと、今の自分は前の自分よりも少しだけ成長できたのかな……?
 だとしたら、それはきっと……。

「ん? 僕の顔に何かついてる?」
「い、いえ。なんでもないです」

 ジッと見つめている私に、伊織さんは不思議そうに首を傾げた。そんな伊織さんに慌ててなんでもないと笑顔を浮かべる。
 私が変われたんだとしたら、それはきっと伊織さんのおかげだ。伊織さんの優しさが、私の凝り固まった心をほぐしてくれた。全部、伊織さんがいてくれたから……。
 でも、それを伝えたら伊織さんはきっと「僕はなんにもしていないよ。菫が変わりたいと思ったから変われたんだ」なんて言うに決まっている。

「ふふ……」
「菫?」
「あ、すみません」
 
 頭の中で、やけにはっきりと伊織さんの声が響いて思わず笑ってしまった私を、伊織さんは訝しげに見たあともう一度ため息をついた。

「僕は、明日からしばらく菫のお昼ご飯が食べられないことに気落ちしているというのに、菫はやけに楽しそうだね」
「そ、そんなこと……」
「悲しく思ってるのは僕だけか」
「な……! わ、私も寂しいです! ……あ」

 勢いよく言った私を、伊織さんが笑っていた。
 引っかかった……。

「伊織さんの意地悪」
「ごめんごめん。菫がやけに楽しそうだったから、つい。……怒った?」
「…………」

 こんな伊織さんの一面を、島のみんなは知っているのだろうか。
 優しくて大人な伊織さんが、こんな少年のような表情を見せることを。

「菫?」
「……なんちゃって」
「あ……。もう、参ったな」

 私の顔を心配そうに覗き込む伊織さんに、ニッコリと微笑みかけると、伊織さんは「降参だよ」とでも言うかのように両手を挙げた。

「菫には適わないよ。結局、残念がってるのだって僕だけのようだし」
「そんなことないですよ。……夜は」
「え?」
「夜は一緒に食べられるんですよね?」
「……ああ」
「じゃあ、美味しいご飯作って待ってますから、早く帰ってきてくださいね」
「わかった」

 伊織さんが優しく微笑むから、私も微笑み返す。
 こんな幸せなご飯の時間を過ごせるようになるなんて、いつかの私に教えてあげたい。誰かと一緒食べるご飯の時間は、本当はこんなにも幸せなんだよって。
 私が目をそらしていただけで、本当はこんな時間がすぐそばにあったんだよって。


 翌日、昨日の夜に伊織さんが言っていた通り、お昼の時間になっても伊織さんが帰ってくることはなかった。私は前日の夜の残りとご飯でお昼ご飯を済ますと一人分の食器を洗った。
 いつもよりもあっという間に終わる洗い物になんだか寂しさを感じる。いつの間にか、伊織さんと二人で食べる食事の時間を楽しみにしていた私がいたことに気付いた。

「……よし、晩ご飯は美味しいものを作ろう!」

 私はまだお昼を過ぎたところだというのに晩ご飯の準備のために冷蔵庫を開けた。豚肉の塊があるから豚の角煮を作ろう。
 私は伊織さんの家で一番大きなお鍋にたっぷりと水を入れてかまどに火をつけた。お鍋の中に豚肉の塊を入れ、じっくりと下茹でする。

「前にこの下茹でを適当にしたら、臭みが残っちゃったんだよね……」

 あれは失敗だった。味付けは美味しかったのに、口の中に広がるなんとも言えない臭さが思い出されて思わず息を止めた。
 このまま二時間ぐらい茹でて、お肉が冷めたら一口大よりも少し大きめに切り分ける。あとはさっきのお鍋をさっと洗って、切ったお肉とお水・お醤油・みりん・お酒・お砂糖を入れさらに薄切りにしたショウガを入れたら蓋をして今度は三十分ぐらい煮詰める。

「あとは、伊織さんが帰ってくるのを待つだけかな」

 ご飯は炊けているし、お肉を冷ます間の時間にお味噌汁も作った。今日のお味噌汁の具材は茄子とタマネギだ。

「ただいま!」
「おかえりなさい」

 温め直したお味噌汁をお椀によそっていると、タイミングよく伊織さんが帰ってきた。私はかまどに火を入れ直し、角煮を温めた。

「いい匂いがするね」
「今、温め直しているのでもう少し待ってくださいね」
「冷めてても大丈夫だよ?」
「十分冷めてるので、温め直した方が美味しいんです」

 実は、伊織さんが帰ってくるよりも少し早く角煮を完成させたのにはわけがあった。

「煮物は一度冷ましてから温め直す方が味が染みて美味しいんです」
「へえ? 知らなかったな」
「なんでも、冷めるときに味が染みこむらしいんです」
「菫は物知りだね」
「いえ、これは人からの受け売りで……」

 あれはまだお父さんがいた頃、台所に立つお母さんの隣でお手伝いをしていたときだ。できあがったおでんを私がそのまま出そうとしたときに言われた。
『煮物は一度冷ましてから温め直すのよ。冷めるときに味が染みこむから、その方が美味しくなるの』
 と――。

「お母さんからの教えを、ずっと守ってるんですね」

 伊織さんの言葉に、私は心臓を捕まれたような衝撃を受けた。言われてみれば、たしかにそうだ。煮物のことだけじゃなくて、包丁の使い方や味付け、それから洗濯の干し方も……。全部、全部お母さんが教えてくれたことだった。
 そしてそれらは全てがお父さんが生きていた頃の話ではなくて、死んだあとに教わったことも少なくない。……私が目を背けていただけで、お母さんは私に向き合ってくれていた。ただ、それに気付かないふりをしていただけで……。

「素敵なお母さんですね」
「……はい」

 涙がにじみそうになり、慌てて目尻をこすると私は伊織さんに微笑んだ。
 その日、二人で食べた角煮は甘辛くて、それから優しい味がした。


 私は掃除を終えてため息をついた。
 今日で伊織さんが家でお昼ご飯を食べなくなってから五日目だ。当初はもっと早く片付く予定だったらしいのだけれど、長引きに長引いて五日目を迎えていた。「明日が終わればきっと来週からはまた家で食べられると思います」そう言って今日の朝、伊織さんは家を出たけれど……。

「寂しいな……」

 伊織さんと、一緒にご飯を食べられなくて、寂しい。二人で他愛ない話をしながら、美味しいねって言ってくれる伊織さんに照れくさくなりながらも微笑み返す時間が好きだった。さりげなく今日何が食べたいか聞いて、晩ご飯に作っていたのにそれもできず結局は私の好きなものばかりを作ってしまう。
 なんか物足りない。

「伊織さんが美味しいって言ってくれなきゃ、自分だけのためにお昼作る気力もないよ……」

 この数日の私のお昼ご飯は酷いもので、お漬物とご飯だったりお味噌汁とご飯だったり……お昼ご飯と呼ぶには寂しいメニューだった。

「……よし、今日はちゃんと作ろう」

 毎日こんな感じじゃよくない。いくら伊織さんがいないとはいえ、自分のことぐらい自分で管理しなきゃ。
 私は冷蔵庫を開けると、お肉や卵を取り出した。
 甘い卵焼きに、豚肉の生姜焼き、それからジャガイモとカリカリに焼いた豚肉を塩こしょうで味付けしたもの……気付けば私は自分の分、というには多すぎる量のお昼ご飯を作り上げていた。さすがに、この量は私一人では食べられない……。かといって、晩ご飯に回すかといえば、そう言うメニューでもないし。どちらかというとお弁当の具材のような……。
 お弁当?

「そうだ! お弁当にしよう!」

 思い立ったらすぐに行動するべし。私はちょうどいい大きさの小箱を見つけるとその中に作ったおかずをつめる。詰める間に冷ましていたご飯に軽く塩を振っておにぎりにしていくと、お弁当のできあがりだ。
 喜んでくれるといいな……。
 時計を見ると、11時45分。伊織さんのお昼休みは12時からだ。急がなきゃ。
 私は慌てて家を飛び出すと、おにぎりを持ってオリーブ園へと向かった。


 オリーブ園には、この時代に来た最初の頃伊織さんに連れて行ってもらった。あのときは伊織さんの隣をついて行けばよかったのだけれど……。
 私はどこまで行っても海しかなく、オリーブどころか道もなくなりそうな目の前の景色に泣きそうになっていた。
 これは、あれだ。わかっている。でも、認めたくない。認めたくはないけれど……。家を出てからすでに15分以上経っているであろうこの状況に、認めないわけにはいかなかった。
 迷子だ。私は迷子になったのだ。

「うぅ……どうしよう……」

 誰かに道を聞こうにも、みんな私の姿を見るとすぐにどこかへ行ってしまう。そのあとを追いかけるように歩くのだけれど、見かけた人の姿もないし、さらに訳がわからない場所へと出てしまった。
 もう、家に帰る道もわからないし、いったいどうしたらいいの……。

「伊織さん……」

 呼んだところで、伊織さんに声が届かないことなんてわかっている。私は溢れかけた涙をてのひらで拭うと顔を上げた。
 とにかく、道に出なきゃ。
 来たとおり戻れるのが一番いいのだけれど、あいにくどこから来たかなんてもうわからない。なので私は、このまままっすぐ進んでみることにした。きっとどこかには出るはずだ。
 まっすぐまっすぐ道らしき場所を歩く。舗装されているとは言いがたいけれど、草が生えていたりする訳ではないところを見ると、普段から誰かが通っているのだろう。
 あとは少しでも知っている景色が見えたら……。

「あっ……!」

 少し先に人影が見えた。私は慌てて走り出す。とにかく、道を聞かなくちゃ! このままだと伊織さんに迷惑をかけちゃう……!

「あのっ!」
「……あんた、誰だい?」
「わ、私……」

 その人は私のおばあちゃんと同じぐらいの年に見えた。腰を曲げたまま、顔だけこちらを向き私のことを頭から足の先までジロジロとまるで値踏みするように見てくる。
 さっきまではこの視線につい怖じ気づいていた。でも……!

「す、すみません。私、オリーブ園に行きたくて」
「オリーブ園?」
「はい。そこに、その……お世話になっている人が働いていて……。そ、それで……」
「ふーん?」

 もう一度、私のことをじっくりと見たあと、そのおばあさんは――私のことを鼻で笑った。その目は、まるで私を不審者だと言わんばかりに睨み付けていた。

「オリーブ園なんざ、知らんね」
「え……?」
「まあ知っていたとしても、よそ者のあんたにどうして教えなきゃいけない?」
「そ、それは……知ってる人が、働いていて……」
「それはさっきも聞いたよ。じゃが、それが本当だという証拠はあるのかえ? もしかしたらあんたは不届き者で、オリーブ園を燃やそうとしているかもしれないじゃろ?」
「わ、私! そんなことしません!」

 けれど、どれだけ否定してもおばあさんが私を島の外の人間だと思っている以上は信じてもらえない。それがヒシヒシと伝わってきて泣きたくなった。
 どうしてこんなことになってしまったんだろう。私はただ、伊織さんにお弁当を届けたかっただけなのに……。

「伊織、さん……」
「――菫!」
「え……?」

 その瞬間、どこからか私の名前を呼ぶ伊織さんの声が聞こえた気がした。辺りを見回すと、おばあさんの遙か後ろに、伊織さんの姿が見えた。

「伊織さん!」
「菫、やっと見つけた……!」

 はあはあと息を切らせながら伊織さんは私に駆け寄った。私はホッとしたのとようやく伊織さんに会えたことが嬉しくて、思わずその身体に抱きついた。

「す、菫!?」
「伊織さん……! もう、会えないかと思った……」
「……ごめんね。もう大丈夫だよ」

 伊織さんにギュッとされると、それだけでさっきまでの不安だった気持ちや泣きそうだったのが飛んで行ってしまうようだった。

「……その子は伊織さんの知り合いかい?」
「ええ。お瀧さんが見つけてくださっていたんですね。ありがとうございます」
「ちがっ……!」
「いやいや、いいんだよ。でも、ちゃんとみんなに顔見せしないと、よそ者だと思って山奥に放り込まれちまうよ」
「気をつけますね」

 ニッコリと笑った伊織さんに、そのおばあさんは「ふんっ」と言ってどこかへ言ってしまう。私は、思わず伊織さんに詰め寄った。

「どうしてですか!? 別に、あの人に助けられたりなんて……!」
「あれでいいんだよ。ここは島で閉鎖的な場所だからね。どうしても知らない人がいるとみんな警戒してしまうんだ。でもね、悪い人たちじゃないんだよ」
「それで……」

 どうりで……。何人か見かけた人に道を尋ねようとしても、みんな私のことを見るなり去って行ってしまったはずだ。私はみんなに不審人物だと思われていたんだ。

「嫌な思いをさせてすまなかった」
「そんな……! 別に、伊織さんが悪い訳じゃあ……。それに、勘違いさせちゃったのは私の方だし……。その、今度もしあったら謝ってたって、伝えてもらえますか?」

 どちらかというと、思いつきで勝手に家を出て迷ってこんなことになってしまった私が一番悪い。私から謝るのが一番いいと思うけれど、それはそれでまた警戒されてしまうかもしれないから……。しょんぼりとしてしまう私の頭を伊織さんは優しく撫でた。

「菫はいい子だね」
「そんなこと……」
「じゃあ、今度一緒に謝りに行こうか」
「いいんですか……?」

 私の問いかけに、伊織さんは優しく微笑んだ。

「本当は自分で謝りたいってそう思ってるんだろう?」
「どうして……」
「だって、菫はそういう子だから」

 伊織さんのその言葉に、胸がキュッと締め付けられる。どうしてこの人は、こんなにも私のことをわかってくれるんだろう。
 
「でもまあ、とりあえず今はここから出ようか」
「あ、はい。……ここは、どこなんですか?」
「ここは、ちょうど僕の家からオリーブ園に行く途中……の脇道を入った山の中だよ」
「山……脇道……」

 通りで全然オリーブ園にたどり着かないはずだ。私は伊織さんに手を引かれ山から出ると、目の前には見覚えのある海岸が広がっていた。

「ここに出るんですね!」
「ああ。……ところで、菫はどうしてあんなところにいたんだい?」
「そ、それは……。と、いうか伊織さんはどうして私があそこにいるってわかったんですか?」

 あのとき、確かに伊織さんは私の名前を呼んだ。あれはあそこに私がいるとわかってたからこそだと思う。でも、どうして……?

「菫のことを見かけた人がね、たまたま用事があってオリーブ園に来てて教えてくれたんだ。島の中を見知らぬ女の子がうろうろしてるって」
「それで……」
「もしかして、と思って目撃情報を頼りに辿っていったら菫を見つけたってわけだよ。で? 菫は?」
「……これ」

 呆れられることを覚悟で、私は持っていた風呂敷を差し出した。こんなもののために騒動を起こして、と怒られるかもしれない。もう私のことを嫌いになってしまうかも……。

「これは?」
「……お弁当です」
「弁当?」
「はい。……最近ずっと、伊織さんお昼の時間に家に帰ってこないから……。お弁当を作って届けようって思ったんです」
「っ……」

 風呂敷を見つめたまま伊織さんは何も言わない。ピクリとも動かない。やっぱり呆れられてしまったんだ……。

「ご、ごめんなさい」
「……え?」
「勝手なこと、しちゃって……。それで伊織さんにも迷惑かけちゃって、本当にごめんなさい」
「菫? どうして謝るんだい?」
「だって、私のせいで伊織さんのお昼休みが潰れちゃって……本当にごめんなさい……」

 けれど、私に尋ねたはずの伊織さんは、私の返事なんて聞いていないようで。それよりも、手の中の風呂敷を、そしてお弁当箱を無言で開けていた。
 そして……。

「美味しそうだ!」

 キラキラとした目でお弁当箱の中身を見つめると、嬉しそうにそう言った。

「これ、全部僕が食べていいのかい?」
「え、あ、はい。それはもちろん……。伊織さんに食べて欲しくて持ってきたので……」
「嬉しいな。いただきます」

 両手を合わせてそう言うと、伊織さんはお箸で卵焼きを挟むと口に入れた。そのあとはもう一瞬だった。パクパクとおかずを食べたかと思うとおにぎりを頬張る。
 あっという間に、お弁当箱は空っぽになった。

「ごちそうさまでした」
「お粗末様でした」
「まさか今日のお昼に菫のご飯が食べられると思ってなかったから、とっても嬉しかったよ」
「私も、伊織さんに食べてもらえて嬉しかったです」
「え?」
「あ……」

 思わず口を押さえる。これじゃあ、まるで……。

「もしかして、菫。僕と一緒にお昼ご飯食べたかった?」
「そ、それは……」

 伊織さんにジッと見つめられると、どうしてか嘘がつけない。私は観念するように口を開いた。

「だって……この数日ずっと一人でお昼ご飯だったから……。その……寂しくて」
「菫……。ごめんよ。そんな思いを君にさせていたなんて気付いていなくて……」

 申し訳なさそうに伊織さんが言うから、私は慌てて首を振った。お仕事だってことはわかっている。お仕事が忙しいのに私とお昼ご飯を食べるために帰ってきてよ! なんて言ったり思ったりするほど子どもではない。でも……。

「予定より早く仕事がおわりそうなんだ。だから、明日のお昼ご飯は家で食べられそうだよ」
「ホントですか!?」
「ああ」

 頷く伊織さんは笑っていた。

「楽しみにしてるよ」
「はい!」
「……っと。鐘が鳴ったな」

 伊織さんの言葉に耳を澄ませると、たしかに風に乗ってチャイムの音が聞こえてきた。これはいったい何の合図なんだろう。不思議に思った私の心を読んだかのように、伊織さんは言った。

「昼休みの終わりを知らせる鐘だよ。もう戻らなければ。菫、ここから家まで一人で帰れるかい?」
「はい」
「じゃあ、またあとで」

 海から伊織さんの家までは一本道だ。いくら私でも迷子にはならない、はずだ。頷く私に、伊織さんはそっと微笑むと、頭をポンポンと撫でた。

「なっ…… !」
「気をつけて」

 それだけ言うと、伊織さんは立ち上がって海沿いを家とは反対方向に向けて歩き始めた。
 私は伊織さんの触れた頭にそっと手をやる。

「……子ども扱い、しないでよ」

 そう呟いた私の声は、海のさざ波の音に吸い込まれていった。
 翌週、仕事も落ち着きすっかり元に戻った伊織さんと一緒にお昼を食べて、夕方家に帰ってくるまでに晩ご飯を作るという生活に戻っていた。
 その日は、晴れているはずなのにずいぶんと風が強く、いったいどうしたのかと不思議に思っていた。

「ただいま」
「おかえりなさい」

 伊織さんの声にハッとする。気付くと、辺りは薄暗くなりすっかり夕方になっていた。私は慌てて立ち上がると、夕食をちゃぶ台に並べ始めた。今日は鯖の味噌煮と野菜たっぷりの豚汁、それからきんぴらゴボウだ。
 いただきますと二人で手を合わせて、私はふと時計を見て首を傾げた。伊織さんが帰ってきていたのに気付かなかったのは私が考え事をしていたせいもあるけれど、そもそも普段よりも帰ってくる時間が早い。いつもは5時を回ってから帰ってくるのに、今日はまだ4時半だ。

「今日って何かあったんですか?」
「ん? どうして?」
「いつもより帰ってくるのが早かったので」
「ああ。島にね、台風が近づいてるんだ」
「台風……」

 そう言われると、確かに先ほどよりも風の音が酷くなっている気がする。台風……。元の時代でも年に1度か2度は直撃して近くの川が氾濫することもあったっけ。

「直撃はしないようだけれど、ここは島だからね。用心のためにということで今日は早めに切り上げたんだ」
「そうだったんですね」

 伊織さんは窓の向こうを心配そうに見つめている。心配そうな面持ちに、もしかしてと尋ねた。

「オリーブですか?」
「……よくわかったね」

 尋ねた私を、伊織さんは驚いたような表情で振り返った。

「暴風対策はしてきたんだけど、心配でね」
「そうですよね、大事に育ててますもんね」
「ああ。あれが採れないと一緒に働いてくれている人たちにも給料を支払うことができない。それに……」
「それに?」

 思わずそう聞き返した私に、伊織さんは少しだけ寂しそうな表情を浮かべた。聞いてはいけないことだった、そう思ったところでもう遅かった。
 伊織さんはお箸を多くと、小さく息を吐いた。

「あ、あの……」
「いや、そうだね……。僕があのオリーブ園で働くためにこの島に来たことは知ってるよね」
「はい」

 いつか聞いた伊織さんの話を思い出す。元々はこの島に住んでいなくて、お父さんとお兄さんと本州に住んでいたと、そう言っていた。

「僕はね、家から逃げてきたんだ」
「え……?」
「菫に偉そうなことを言ったのに情けないよね。家には兄と父と――それから継母と幼い弟がいるんだ。数年前に父が後妻をもらってね。ああ、でも継母が酷い人だとかそういうことはなくて、兄のことも僕のことも尊重してくれて、本当にいい人なんだ」

 そう言いながらも、伊織さんの表情はどこか辛そうで、私は――伊織さんの手を握りしめた。
 私の行動に一瞬驚いたような表情を浮かべながらも、伊織さんがその手を振り払うことはなかった。

「ただ継母がそこにいると、まるで本当の母親の存在をみんなが忘れてしまうようなそんな気がして……。そんなときに国が先行してやっていたオリーブ園の管理の仕事を任されてみないかという話をもらってね。逃げるようにしてこの島にやってきたってわけだ」

 情けないだろうと言うように、伊織さんは笑う。でも私はそんなふうに思えなくて必死に首を振った。

「情けなくなんて、ないです。だって、私だって、お母さんが誰かと再婚して代わりのお父さんができたりなんかしたら絶対嫌だもん。私のお父さんは一人だけだし、その居場所を奪わないで欲しいってそう思う!」
「……菫は優しい子だね」

 いつの間にか溢れていた涙を、伊織さんが私に握りしめられた手とは反対の手で優しく拭ってくれる。
 そして伊織さんは「ありがとう」と呟いた。

「何もかもから逃げたような気になっていた僕だけど、こっちに来てオリーブを育てながらいろんな人に触れて、少しずつだけど気持ちが楽になるのを感じたんだ。だから、あのオリーブ園は僕にとって大切な場所なんだ」
「そうだったんですね……」
「…………」
「伊織さん?」

 考え込むように黙ってしまった伊織さんに、どうしたのかと尋ねると小さく、そして優しく微笑んだ。
 
「こんな話、今まで誰にも話したことなかったのに、どうして菫には話してしまったんだろう」
「っ……」
「不思議だね」

 そう言う伊織さんの口調は優しくてあたたかくて、私は心臓のドキドキがどんどん早くなるのを感じた。他の誰にも話したことない話を私に……。それは私が、伊織さんにとってほんの少しでも――特別な存在だと、そううぬぼれてしまっても、いいですか……?
 尋ねることのできない質問が、私の心の中で浮かんでは消える。嫌われてはいないと思うけれど、でも……。

「雨が酷くなってきた」
「え……?」

 いつの間に降り出していたのか、窓の外では大粒の雨がたたきつけるように降っていた。この時代に来てからこんなに雨が降るのは初めてでなんだか少し怖い。風で家が吹き飛んだりしないだろうか……。雨漏りしたりとか……。
 私がそんな心配をしていると、伊織さんは自分の部屋に戻りジャケットを持ってきた。

「い、伊織さん? どこに行く気なんですか?」
「……少しオリーブ園の様子を見てくるよ」
「危ないですよ! 私の元いた時代でも、台風の日に外を見に行って川に流されて亡くなる方だっているんですから……! こんな雨と風が酷い中、外に出ちゃだめですって!」
「心配してくれてありがとう。大丈夫、様子を見たらすぐ帰ってくるから」

 けれど、どれだけ言っても伊織さんが行くのをやめてくれることはなく……。私の頭をポンポンとすると、伊織さんは傘を差して玄関の戸を開けた。閉めているときよりも雨の音が大きく聞こえて不安になる。

「先に休んでいてもいいからね」
「……気をつけてくださいね。私、起きて待ってますから、絶対に帰ってきてくださいね」
「……わかったよ。いってきます」

 そう言って伊織さんは大雨の中へと飛び出した。あまりの雨の酷さに、走って行った伊織さんの姿はすぐに見えなくなってしまう。
 伊織さん、大丈夫かな……。
 私は、一人っきりの部屋の中で、先ほど触れた伊織さんの手のぬくもりを思い出しながら伊織さんが戻ってくるのを待ち続けた。


 伊織さんが戻ってきたのは、それから2時間以上経ってからだった。傘はもう役に立たなかったのか、全身ずぶ濡れになった伊織さんは青い顔をしていた。走ったせいか、それともオリーブ園で作業をしていたときについたのか……伊織さんのジャケットは泥で汚れていた。

「だ、大丈夫ですか!?」
「ああ。オリーブは無事だったよ。倒れかけていたのにも――」
「そうじゃなくて! 伊織さんは大丈夫ですか!? 顔色悪いですよ!」
「だいじょう……ゲホッゲホッ!」

 激しく咳き込むと、伊織さんはその場に座り込んでしまう。ぐっしょりと濡れた服を脱がさなきゃ、そう思うのに手が震える。せめてタオルで拭くぐらい……。そう思って乾いたタオルを持ってくる。けれど、伊織さんに触れることができない。こんな情けないことってない。目の前で、好きな人がこんな姿になっているのに、私は……!

「っ……」
「だい、じょうぶ……。だか、ら、触ら、ないで……」
「ごめ……なさ……」

 私の手を優しく払いのけると、伊織さんは上着を脱いで自分の部屋へと向かう。カタカタと震える手をギュッと握りしめる。情けない。伊織さんがあんなに苦しそうだというのに、どうして私は……。たったあれだけの泥、どうってことないじゃない。それよりも大事なことがあるじゃない。なのに、なのに……!
 自分のダメさ加減に涙が出る。伊織さんのことが好きだのなんだの言いながら、結局は自分が一番可愛いんじゃない。こんなときでも自分のことばっかり……!

「っ……菫」
「い、伊織さん。大丈夫ですか?」
「申し訳ないけど、具合がよくないので僕は先に休むよ。菫も早めに、休むように……」
「はい……」

 青い顔で伊織さんは力なく微笑むと、部屋へと戻っていった。私は、その背中を見送りながら、少しでも早く具合がよくなりますようにと祈ることしかできなかった。


 翌朝、私は相変わらず酷い雨の音で目が覚めた。テレビがないのでわからないけれど、まだ台風は過ぎ去っていないようだった。
 時計の針は7時を刺している。伊織さんはまだ起きてこないけれど大丈夫なのだろうか……。

「伊織さん……。あの……」

 そっと扉を開けて部屋を覗くと、真っ暗な中で眠る伊織さんの姿があった。起こさないように部屋の中に入り、伊織さんのおでこに触れる。

「あつっ……」

 伊織さんの具合はよくなるどころか、おでこは燃えるように熱かった。悪化してしまっているんじゃないだろうか……。
 こういうとき、この時代ではどうすればいいんだろう。家に薬はあるのだろうか。もしくは島に病院のようなところ……。ううん、この台風じゃあお医者さんを呼びに行くことも来てもらうこともできないかも……。

「どうしたら……」
「菫……?」
「あ、すみません。勝手に入っちゃって……」

 私の声が聞こえたのか、伊織さんが目を開けた。身体を起こそうとするものの苦しそうに肩で息をしているのが見える。やっぱり酷くなってるんだ……。
 
「いえ……。それより、今は何時ですか……? 雨はどうなりました……?」
「今は7時になったところです。雨は、相変わらず凄く降ってて……」
「そうですか……」

 そう言うと、伊織さんはふらつきながらも布団から起き上がると、かけてある上着を手に取った。

「な、何してるんですか!? まさか仕事に……?」
「いや、仕事は朝の時点で雨が降っていたら休みだと伝えてあるから……」
「なら、どこに行く気なんですか……! まだ寝てなきゃダメですよ!」
「みんなを、休みにしているからこそ、僕が行かなきゃ……。誰もオリーブの様子を見る人間がいないんだ。倒れているものがないか、確認しに行かなきゃっ……ゲホッゲホッ!」
「ダメです!」

 苦しそうに咳き込む伊織さんの背中をさすると、私はそのまま布団の方へと押し戻すようにした。こんな具合の悪い中で、外に出るなんてそんなのダメに決まっている。

「今は安静にしてゆっくり休んでください。そんな状態じゃあ、台風が去ってもオリーブ園にはいけませんよ!」
「ゲホッ……ゲホッ……」
「お願いですから……」
「わか、った……」

 そう言い終わるのが早いか、伊織さんは再び目を閉じると眠りについた。
 しばらく伊織さんの様子を見ていたけれど起きることなく眠っていたので、私は台所へと向かった。目が覚めたときにおかゆぐらいなら食べられるかもしれない。そう思い、お米を研ぐと小さな土鍋にお米と水を入れて火にかけた。コンロがないなんて不便だなぁって思っていたけれど、なんだかんだで使えば慣れてしまう。今ではかまどの火加減だってお手の物だ。

「さて……」

 梅干しを二つ壺から取り出すと、中の種を除く。それをすりこぎで潰すとお皿にのせた。風邪のときはおかゆに梅干しが一番いい。

「食欲がなくても酸っぱいものなら食べられるもんね。……あっ」
 
 一人呟きながら――私は小さな頃、熱を出すとこうやってお母さんがおかゆを作ってくれたことを思い出した。何も食べたくないって言う私にお母さんが「梅干しのおかゆなら食べられるわ。食欲がなくても酸っぱいものなら食べられるんだから」なんて言ってたことも。
 じんわりと胸の奥があたたかくなる。こうやってお母さんのことを嫌な気持ちにも悲しくもならずに思い出せるようになったのは、伊織さんのおかげだ。

「――こんなもんかな」

 冷蔵庫に入れておいた昆布の佃煮も小皿に出して梅干しの隣に並べると、私はかまどの火を止めた。蓋を開けると優しい匂いが辺りに漂う。美味しそうにできたおかゆを確認すると、私はもう一度蓋を閉めた。
 あとは伊織さんが起きてきたら食べてもらえばいいのだけれど……。
 私は相変わらずたたきつけるような音を立てている雨が気になって、窓から外を見た。ずいぶんと風は弱まってきたけれど……。
 伊織さんが大事にしているオリーブ園……。もしも明日の朝、起きてから見に行って倒れてたり折れてたりしたら、伊織さんは自分を責めるんだろうな……。無理してでもいけばよかった。そうしたらって……。
 私は、もう一度外を見て、それから小さく頷くと、決心を固めた。

 準備をしてからそっと伊織さんの部屋の扉を開けると、さっきよりもずいぶんと呼吸が楽そうだった。おでこに汗をかいていたので手で持っていたタオルでそっと拭う。
 よく眠ってる……。これなら当分は起きないよね……。もうちょっとだけ、起きないでね。
 入ったときと同じように静かに伊織さんの部屋から出ると、私は持ったままだったタオルとそれから玄関に置いてあった伊織さんの傘を手に取った。
 本当は怖いけど……でも、私にしかできないことだから……!
 ギュッと手のひらを握りしめると、私は雨の中へと飛び出した。
 

 外は横殴りの雨なだけあって、誰一人家から出ている人はいない。どこの家も雨戸が閉まっていて、みんな家の中で台風が過ぎ去るのを待っているのだと思う。
 おかげでオリーブ園までの道中、島の人に会うことはなかった。
 急ぎ足で歩くけれど、足下がぐじゃぐじゃで歩きにくい。走ると、泥がはねて気持ち悪い。でも、気にしていたら前に進むことができない!
 私はなるべく足下を見ないようにして、オリーブ園へと急いだ。

「ついた……」

 ついこの間、オリーブ園へと向かおうとして迷子になったおかげもあって、今度は迷うことなくすんなりとオリーブ園へとたどり着いた。ただでさえ雨で視界が悪い中、これで道までわからず迷子にでもなっていたらと思うと、自分の無謀さに寒気がする。
 でも、無事につけたから……いいよね。
 私はそっとオリーブ園の中へと入ると辺りを見回した。昨日の夜、伊織さんが対処しただけあってオリーブ園はほとんど無事だった。ただ……。

「これ、どうしよう……」

 柵に固定されている木々の向こうに、まだ育っている途中なのだろうか、小さな木が風にあおられて根こそぎ抜けているのが見えた。このままでは風にあおられて飛んでいってしまうかもしれない。
 どうすれば……。

「っ……」

 なんとかしなくちゃと、木の枝の部分を持って起こそうとするけれど、思いっきり力を入れると折れてしまいそうだ。幹の部分を持てばいい。そう思うけれど、そこは雨と土でドロドロになっていた。
 これを、触る……?
 ぞわっと鳥肌が立つのを感じる。

 嫌だ、絶対に触りたくない!

 そう思う。そう思うのに……。

『あのオリーブ園は僕にとって大切な場所なんだ』

 そう言った伊織さんの顔が、声が思い出されて――。

「っ~~!」

 私は覚悟を決めた。
 とにかく木を起こそう。倒れた木の前に立つと幹を両手で抱える。そしてそれを引っ張りあげようと思いっきり力を込めた。服が、両手が、そして顔が泥で汚れる。土の匂いが、感触が気持ち悪い。
 その一瞬で、あの日の泥の中に引っ張り込まれそうになった。でも、そんなことかまうもんか。それよりも、伊織さんの大事な場所を守るんだ。
 
「っ……! よいっしょっ……と!」

 なんとか木を起こすとぽっかりと空いた、おそらくここに植えられていたのだろうという場所に起こした木を入れる。そして周りの土を手で寄せてくると根っこの周りに被せて埋めた。

「はあ……はあ……」
 
 その木を他の木と同じように、柵につけられたロープで結びつける。これで本当に大丈夫、なのだろうか。
 他の大きな木はロープで固定すれば大丈夫かもしれない。でも、この細い木はこれだとまた倒れてしまいそうで……。

「そういえば……」

 私はキャンプ場で海里が作っていた支柱を思い出す。支柱を周りに立てることで風が吹いても倒れにくくなると言っていた。あれなら……。
 私はそこら中に散らばる木の枝を三本拾った。台風の風に乗ってここまで飛んできたらしいそれはある程度の太さと長さがある。それらを×を作るように先ほど起こした木にあて、もう一本を交差しているところにあてるように置いた。あとはクロスしているところを結ぶことで支柱になるはずだ。 

「あっ……」

 雨で手が濡れて上手く結べない。ロープはぐちゃぐちゃに汚れた地面に落ちていく。私はそれを、ためらいなく拾い上げた。そしてもう一度支柱となる枝に巻き付けるとギュッと縛り付けた。
 これで多分大丈夫……。ドロドロに汚れた手を持ってきていたタオルで拭うと伊織さんの待つ家へと歩き出した。まだ風は強いけれど雨はずいぶんとマシになった。きっともうすぐ台風は過ぎ去る。そんな予感を胸に抱きながら。


 そっと家の戸を開けると、中は静かだった。まだ伊織さんは眠っているようだ。ホッとして、それからびしょ濡れになった服をどうにかしないとととりあえず水滴をタオルで拭いていると、ガタンと音がした。

「菫……?」
「あ、ごめんなさい。起こしてしまいました?」
「いえ。それよりどこに行って……。全身びしょ濡れじゃないか」
「あ……。ちょっと外の様子を見に行ってました」

 へへっと笑いながらごまかす私を、伊織さんは訝しげに見つめる。そしてため息をつくと、新しいタオルを持ってきてくれて私の頭を包み優しく拭いてくれた。

「こんな雨の中、外に出ちゃいけないよ」
「すみません」
「……ん? これ……」
「あっ」

 伊織さんは私の指先についた土汚れに眉をひそめた。慌てて手を後ろに回して隠すと、もう一度へへっと笑った。

「ちょっと手が汚れたので洗ってきますね」
「菫……?」
「あ、おかゆ作ってるので食べられそうだったら上に一枚羽織って居間に戻ってきてください」
「……わかったよ」

 私の言葉に、伊織さんは小さく微笑むと自分の部屋へと戻っていく。私は慌てて手洗いへと向かうと、指先にこびりついた泥を水で洗い流した。泥が落ちて綺麗になっていくのを見つめながら、胸の奥にあった重いあのトラウマも洗い流されていくような、そんな気がしていた。
 手を洗い終わって居間に戻ると、ちょうどカーディガンのようなものを羽織った伊織さんが部屋から出てきた。
 私は土鍋を開けておかゆの冷め具合を確認する。作ってから一時間ほど経つけれど、そこまで冷めてはいなくてむしろ食べやすい温度になっていた。
 それをお茶碗によそうと、用意しておいた梅干しと昆布の佃煮と一緒に伊織さんに出した。

「美味しそうだ……」
「食欲、ありますか?」
「多分。いや、さっきまでなかったんだけど、なんだだろう。この梅干しを見て急にお腹が空いてきた気がするよ」
「ならよかったです」

 まだ少し顔色は悪かったけれど、でも食欲が出てきたならひと安心だ。ホッとしたら私までお腹がすいてきた。

「私もご飯食べようかな。……あ、」
「どうかしたのかい?」
「お粥以外作るの忘れてました」

 へへっと笑うと私は自分の分もおかゆをよそう。久しぶりに食べたおかゆはとっても優しくて、お母さんのお粥の味がした。
 

 翌日、私は伊織さんよりも早く起きると朝ご飯の支度に取りかかった。風邪は昨日の夜にはずいぶんとマシになっていたけれど、今日は……。

「おはよう、菫」
「伊織さん! おはようございます」

 そんなことを考えていると、伊織さんが部屋の戸を開けて顔を出した。昨日に比べると顔色もよくなっていた。伊織さんはいつもの作業着を着ていた。
 
「お仕事行かれるんですか?」
「うん、今日はみんなも出てくるだろうからね」

 窓から外を見た伊織さんにつられるようにして視線をそちらに向けると、昨日までの台風が嘘のように晴れ渡っていた。今日はいい天気になりそうだ。

「もうすぐご飯の準備できますので」
「ゆっくりで大丈夫だよ」

 私はアサリのお味噌汁をお椀に、そしてご飯をお茶碗によそった。今日のおかずは卵焼きだ。私はだし巻き、伊織さんには甘い卵焼きを作った。昔から卵焼きはだし巻きの方が好きなんだけど、初めて伊織さんにだし巻きを出したときに微妙な反応をされたのだ。どうやら伊織さんは甘めの方が好きなんだなとわかってからは二種類作るようにした。
 気にしなくていいと伊織さんは言っていたけれど、どうせなら好きなのを食べてほしいし喜んでほしいから。
 それにしても……。年上の男の人にこんなことを思うのは間違っているのかもしれないけれど、甘い方が好きだなんて……なんだか、可愛い。

「ふふっ」
「菫? どうかした?」
「あ、いえ。卵焼きどうぞ」
「ありがとう」

 私から卵焼きののったお皿を受け取りながら、伊織さんは首を傾げる。そんな仕草すら可愛くて、もう一度笑ってしまいそうになるのをこらえるのに必死だった。
 二人で一緒にご飯を食べて、私は片付けを、伊織さんはお仕事に出かけようと。そのとき――外から声が聞こえた気がした。
 気のせいかな? そう思ったとき、もう一度大きな声が聞こえた。

「伊織ー!」

 どうやら声の主は、伊織さんのお知り合いのようだった。
 思わず伊織さんの方を向くと、そこには苦笑いを浮かべる伊織さんの姿があった。

「あの……」
「ああ、ごめん。多分、知り合いだと思う」

 ジャケットを羽織ろうとした手を止めて、伊織さんは玄関に降りると戸を開けた。
 そこには、伊織さんと同い年ぐらいだろうか。こんがりと焼けた肌に短髪が似合う男の人が立っていた。

「やっぱり辰雄か」
「よお、伊織」
「こんな時間にどうした?」
「俺はな! お前に一言、言ってやろうと思って一度出勤したにもかかわらず、お前のところに来たんだ!」
「はあ……そうかい。で、どうしたんだ?」
「どうしたもこうしたもねえよ!」

 辰雄さん、という人の勢いに押されるように伊織さんは一歩後ろに下がる。すると辰雄さんは、すかさず家の中へと一歩踏み込んできた。

「お前、台風の日は危ないから仕事は休みだって言っときながら、自分は様子を見に行ってるってどういうことだよ!」
「そのことか……。僕はあそこの管理を任されてるから当然だよ」
「だからって、あんな……」

 どうやら辰雄さんは、伊織さんを心配して怒ってくれているようだった。たしかに、台風の来ている日の夜に、ああやってオリーブを見に行くなんて絶対よくない。無事に帰ってこられたからよかったものの、そのせいで風邪だってひいちゃったんだし。
 ここはもっと、辰雄さんに言ってもらわなきゃ!
 私は心の中で目の前の、辰雄さんという人にエールを送った。

「あー、もう。お前は言っても聞かないやつだってわかってるけど、少しぐらい相談しろよな」
「ああ、次はそうするよ」
「……それにしても、支柱を立てるなんてよく思いついたな。やっぱりお前はすげえよ!」
「支柱?」

 その単語に、私はドキッとなった。まさか、支柱って……。
 思いも寄らない単語に冷や汗をかく私をよそに、辰雄さんは話を続ける。

「伊織が作ってくれた支柱のおかげで、一番若いあの木も飛ばされることも折れることもなかったよ。でもあんな方法があるなら他の木にもしとけばよかったのに」
「ま、待って。なんのことだ?」
「は? だから、俺らが帰ったあとに支柱を作ってくれたんだろ?」
「僕はそんなこと――。……まさか」

 伊織さんは私の方を振り返った。その顔には驚きとそれから焦りが浮かんでいた。私はというと……向けられた視線を受け止めることもできず、あからさまだとは思いつつも目をそらすことしかできなかった。そんな私の態度が伊織さんの目にどう映ったのか……想像するまでもなかった。

「菫、まさか君が……?」
「な、なんのことですか?」
「そういえば、あの日の君の手には泥や土がついていて……。まさかあの嵐の中、一人でオリーブ園に……?」
「……だって、伊織さんってばあんなに熱があるっていうのに、オリーブのことを心配してて見に行こうとするから……きゃっ!」

 言い終わるのが早いか、私の身体は伊織さんに抱きしめられていた。ギュッと身体を抱きしめるように回された手から、すっぽりと覆われた身体から伊織さんのぬくもりが伝わってくる。

「い、伊織さん……!?」
「無茶、しないで……。君に何かあったら僕は……」
「ごめんなさい……」
「次からは、こんな無茶はしないと約束してくれるかい?」
「はい……」

 真剣な表情で伊織さんは言った。
 喜んでもらえるかも、なんて思ってやったわけじゃない。でも、こんなふうに心配をかけるつもりもなかったのに……。
 伊織さんの言葉に、思わずしょんぼりとうなだれた私の頭上で「だけど」と、伊織さんの優しい声がした。

「菫のおかげでオリーブが助かったみたいだ。本当にありがとう」

 手の力が緩められ、そっと顔を上げると、伊織さんは私をジッと見つめたまま微笑んでいた。その笑顔に、心臓をわしづかみされたみたいになって息ができなくなる。
 この人の、こんな笑顔を知っているのは、私だけだったらいいのに。この笑顔を、ずっと私だけに向けていてほしい。……そんな叶うはずのないことを願ってしまうぐらいに。

「いお……」
「おいおい、朝から見せつけやがって」
「っ……あ」

 その声に、私は辰雄さんの存在を思い出して、慌てて伊織さんから離れた。伊織さんも気まずそうに辰雄さんの方を向くと困ったように頭をかいた。

「さっきから気になってたんだ。紹介してくれねえの?」
「あー、えっと……」
「なんてな。その子が東京から呼び寄せたっていうお前の嫁さんだろ?」
「よっ……!?」

 思いも寄らない言葉に、思わずむせる。嫁って、いったいどういうこと……?
 口をパクパクさせながら声にならない声を上げていた私を伊織さんは振り返らない。そんな私の態度をどう思ったのかはわからないけれど辰雄さんの話は続く。

「いやーようやく会えたよ。島のみんなで噂してたんだ。伊織が寂しい一人暮らしに辛抱ならなくなって、東京から嫁を呼び寄せたって。しかも誰にも見せたくないのか後生大事に家の中に閉じ込めてるってな。ちらっと見たって言う服屋の三橋さんや瀧ばあさんの話じゃあ、たいそう可愛い女の子だったって言うからさ。だけど、ふーん?」
「……お前、僕に一言言ってやろうと思ってとか言ってたけど、本当の目的はそれか」
「バレた? いやーだって気になるじゃないか。伊織が閉じ込めて隠すほど入れ込んでる女なんてさ。噂なんてみんな大袈裟に言ってるんだろって思ってたけど、伊織が入れ込んでるってのは、本当みたいだな」

 恥ずかしい言葉のオンパレードに、私はいてもたってもいられなくなって「違います!」と言おうと二人の間に割り込もうとした。けれど――。

「そうだよ。僕はこの子に夢中なんだ。だから、余計な詮索はするな。……それから、この子に手を出したらお前でも許さないよ」

 伊織さんは私の腕を掴むと、もう一度ギュッと抱きしめた。いったい何が起きているのかわからない。どうして私は今、伊織さんに抱きしめられているの? 私に手を出したら許さないって、いったい……。
 
「おーこわ。人の嫁さんに手を出すほど節操なしじゃねーよ」
「ならいいけど。菫、それじゃあ僕たちは仕事に行ってくるから、いい子で待っていてね」

 状況についていけず混乱する私をよそに、伊織さんは辰雄さんと一緒に家を出て行く。ひらひらと手を振る伊織さんの姿を真っ赤になったまま呆然と見送りながら――私はこの状況を理解するのに必死で、伊織さんが耳まで真っ赤に染まっていることには気付けずにいた。

 
 あのあと、いったい何をどうしたのか記憶にない。でも、習慣とは恐ろしいもので、気付くと私は朝ご飯の洗い物を片付け、掃除をし、二人分の昼ご飯を作って伊織さんが戻ってくるのを待っていた。
 それにしても、いつもよりも時計の針が進むのが早い気がする。
 早く帰ってきて欲しいような、まだ帰ってきて欲しいような複雑な気持ちだ。だって、あんな……あんな……。
 朝の会話を、それから抱きしめられた身体のぬくもりを思い出しては心臓の鼓動が早くなり頬が熱くなるのを感じる。いったい、伊織さんはどうしてあんなことをしたんだろう。
 私が、伊織さんのお嫁さんだなんて、そんな……。

「……ただいま」
「っ……! お、おかえり、なさい」

 すぐそばで伊織さんの声がして、振り返るといつの間に帰ってきていたのか、居間に伊織さんの姿があった。
 なんとなく、顔を見ることができない。でも、それは伊織さんも同じようで、私たちは視線をそらしたまま無言で立ち尽くしていた。

「あの、朝のことなんだけ――」
「あ、あの! ……えっと、お昼ご飯できてます! ご飯、食べましょう!」
「あ……うん。ありがとう」
「いえ……」

 何か言いかけた伊織さんの言葉を遮ると、私は準備しておいた豚肉の生姜焼きとお味噌汁、それからアサリの佃煮を並べる。お箸を置こうとして、手が震えていることに気付いた。どうしよう、伊織さんに聞きたいことはたくさんあったはずなのに、心臓が壊れそうなぐらい痛い。
 そんな私に、伊織さんは優しく声をかけた。

「朝は辰雄がすまなかったね」
「い、いえ……」

 今なら、聞けるだろうか。
 聞いても、いいだろうか。
 あのときの、言葉の、そして行動の意味を……。

「あ、あの……!」
「うん?」
「どうして、否定しなかったんですか?」

 何が、とは言わなかったけれど、伊織さんにも伝わったようで、息を呑む音が聞こえた。そして……。

「ああ言っておく方がいいと思って」
「どうして……!」
「君の住んでいた時代ではどうかはわからないけれど、ここでは結婚もしていない男女が一緒に住んでいる。それも二人っきりで、というのは訝しがる人がほとんどなんだ。あらぬ噂を立てられるよりは、結婚しているということにしておいた方が話が早いだろう」
「それは、そうかもしれないですが……」

 たしかにそうかもしれない。けど……。

「で、でも別に親戚とか……兄弟ってことにしておけばよかったんじゃないですか……? あんな……夫婦だなんて……」


 納得しかけたけれど、別に結婚相手じゃなくたって家族なら一緒に住んでいても不思議じゃない。私と伊織さんの年齢差なら兄弟ってことにしても別におかしくはないと思うし……。
 そう言う私に、伊織さんは視線をそらすと、口ごもりながら呟いた。

「……菫は、僕と夫婦ってことにされるのが、そんなに嫌かい?」
「い、嫌って訳じゃあ……。で、でも……」
「冗談だよ」

 冗談にしてはたちが悪い。伊織さんにとっては冗談ですむのかもしれないけれど、その一言でどれだけ私の心がかき乱されているのか、伊織さんは気付いているのだろうか。

「…………」
「ごめん」

 思わず黙り込んでしまった私に、伊織さんは小さな声で呟いた。
 
「でも、そういうことにしておいた方が、変な虫が寄ってこなくていいと思って」
「っ……それ、って……」

 それはいったい、どういう意味ですか……? そう尋ねたいのに、尋ねる勇気がでない。それに……それを尋ねる権利は、私にはない。この時代の人間ではない、私には――。
 鼻の奥がツンとなるのを感じて、私は慌てて顔を上げるとわざと明るい声を出した。

「……お昼ご飯、食べましょうか」
「え……?」
「お腹すいちゃいましたよね。あ、ご飯、よそってきますね」

 私は必死に笑顔を作ると、二つのお茶碗を持って台所へと向かった。そんな私を、伊織さんは何も言わずに見つめていたことには、気付かないふりをして。


 その日の夜も、翌日も、なんとなく伊織さんの顔を見ることができなくて、私は必要最低限の会話だけして伊織さんを避けた。
 避けたと言っても同じ家にいるんだから顔を合わせないわけにはいかないのだけれど、でもなんとなく伊織さんも私の態度に気付いているのか、お昼ご飯を食べたらすぐにオリーブ園に戻ったり、ご飯を食べた後は自室に行ったりと二人きりで過ごす時間は減っていた。
 このままじゃよくないとは思うけれど、でも今は伊織さんと顔を合わせるのが辛い……。とはいえ、いつまでもこのままでいいわけがないし……。

「どうしたらいいのかな……」
「何がどうしたらいいって?」

 伊織さんが仕事に行ったあと、家庭菜園の水やりを終え、ボーッと座り込んでいた私に誰かが声をかけた。この島で私のことを名前で呼ぶ人なんて伊織さん以外にいないはず……。そう思って振り返ると、そこには昨日の辰雄さんが立っていた。

「た、辰雄さん!」
「おはよう、菫ちゃん」
「お、おはようございます」
「朝早くからごめんね。伊織いる?」
「伊織さんなら、少し前に出ましたが……」
「えー入れ違い? ま、しょうがないか。向こうに言ってから話すわ」

 ケラケラと笑いながらそう言うと、そのままオリーブ園に向かうのかと思いきや辰雄さんはなぜか私の隣に並んでしゃがんだ。

「あの……?」
「ね、菫ちゃんの前だと伊織っていつもあんな感じ? 二人ってどういうふうに出会ったの? お見合い? 親同士が旧知の仲? それともまさか恋愛結婚?」
「え、えっと……」

 早口で尋ねてくる辰雄さんになんて言っていいのかわからず口ごもってしまう。昨日、伊織さんはあんなふうに言っていたけれど、私の口からはそんなこと……。

「どうしたの? あ、もしかして喧嘩でもした? さっきのどうしたらいいのかなって伊織のこと?」
「え……いえ、その……そういうのじゃないんですけど……」

 どうしたらいいのだろう。私はなんて言えば……。
 でも、とにかく昨日の伊織さんの説明と食い違うことだけはさけなくちゃ。
 必死に考えると、私はおずおずと口を開いた。

「そ、その……私、伊織さんのことまだよく知らなくて、その……」
「あー、そういうあれね、わかるわー。あるよね、そういうことって」

 私の説明にいったいどう納得したのかわからないけれど「あるよね、そういうのー」と言いながら辰雄さんは私の隣にしゃがみ込んだ。

「あれでしよ? たぶん、菫ちゃんと伊織って家の都合とかで急に引き合わされて、菫ちゃんの方はまだ心の準備ができてないのに無理やり結婚させられちゃった感じじゃない? しかもそのまま島送りとかさ。そりゃ、しんどさしかないしどうしたらいいのってなるわなー」
「あ、えっと……」
「しかも島に来たら来たらで、伊織に家の中に閉じこめられちゃったりしてさー。余計に息も詰まっちゃうよね。そんなの俺だったら逃げ出したくなるわ。菫ちゃんは偉い」

 うんうん、と一人頷く辰雄さんに――私は否定も肯定もせず曖昧に笑った。けれど、その態度に辰雄さんは納得してくれたらしい。もしかしたら、この時代はそういうことが結構あるのかもしれない。今でこそ親の決めた人と無理矢理結婚とか、初対面の人とお見合いとかあんまりなくなってきているけれど、そういえばドラマなんかでやっている昔のお金持ちの家ではそういう話も出てくるもんね。
 上手く説明ができない私の代わりに、自分たちの生活に当てはめて答えを出してくれて助かっちゃった。
 ホッとしている私をよそに、辰雄さんは話を続ける。

「それでそんな顔して、こんなところで愚痴ってたってわけかー」
「こ、これはその……。ちょっとギクシャクしちゃって……。そのせいで今、伊織さんと二人でいるのが少し気まずくて……。どうしたらいいかわかんなくて……」
「ははーん、伊織のやつ。まったく、女の子には優しくしなきゃいけないのに、ダメだなー」

 面白おかしく笑うと、辰雄さんは「よしっ」と言って立ち上がると伸びをした。私も慌てて立ち上がると、めくれ上がったスカートを直した。
 辰雄さんは、隣に並ぶとずいぶんと身長が大きく見える。昨日は伊織さんと同じぐらいの身長だと思ったのだけれど、恰幅がいい分辰雄さんの方がずいぶんと大きい気がする。けれど、圧迫感を感じさせない人の良さそうな笑顔で、辰雄さんはニッと笑った。

「俺に任せとけ」
「え……?」
「まあ見てなって。俺が伊織と菫ちゃんとの仲を取りもってやるよ。まあみてなって」
「あ、あの! 辰雄さん!?」
「おっと、じゃあ俺仕事行かなきゃだし。あ、今日の昼飯三人分用意しといて。よろしく!」

 そう言い残すと、辰雄さんは私の声なんて耳にも届いていないようで……にこやかに手を振りながらオリーブ園へと向かってかけていった。
 残された私は、昼ご飯三人分の意味をしばらく考えながら、まさかね……と半信半疑で、でも念には念を入れて三人分のお昼ご飯の準備を始めた。


 家庭菜園での宣言通り、お昼になって伊織さんが帰ってくると――その後ろには、朝の宣言通り、ニコニコと笑顔を浮かべる辰雄さんの姿があった。

「ごめん、無理矢理押しかけられて……。二人分しか用意してないって言ったんだけど……」
「そんなつれないこと言わないで。大丈夫だよね、菫ちゃーん?」

 伊織さんの後ろでウインクをする辰雄さんに……私は話を合わせることにした。
 
「あ……はい。一人分ぐらいなら余分にあるので……辰雄さんの分も大丈夫だと思います」
「……そうなの?」
「……はい」
「ふーん?」

 私の言葉が不服だったのか、伊織さんは面白くなさそうな声を出して居間へと向かった。その後ろを辰雄さんがついてく。私は、伊織さんの不機嫌な理由がよくわからないまま三人分のご飯をよそうと、おかずと一緒にちゃぶ台へと並べた。

「いただきまーす」
「いただきます」
「……いただきます」

 元気いっぱいに辰雄さんはお昼ご飯をかき込む。ちなみに今日はチキンソテーと付け合わせにインゲンとジャガイモの炒め物。少し黒こしょうをかけすぎたかなと思ったけれど、ピリッとしてていい味付けにできている。あとはコンソメスープがあれば言うことなしなんだけどあいにくコンソメなんてものはこの時代にはまだないようで。にんじんやタマネギをクツクツ煮詰めて塩こしょうで味を調えた野菜スープをつけることにした。でも、これはこれで優しい味で、濃いめのチキンソテーとよく合う。辰雄さんは特にチキンソテーが気に入ったようで、一瞬で食べ終わっていた。

「これ、美味い! 菫ちゃん凄いね!」
「あ、ありがとうございます」
「伊織は幸せ者だな。こんな美味い飯が毎日食べられるなんて」
「そうだね」

 やっぱり、どこか機嫌が悪い気がする。何かあったのかと伊織さんの方を見ると、目が合った。

「っ……」
「え……」

 今、目をそらされた……?
 この数日、私の方が伊織さんを避けていたくせに、いざ自分が目をそらされるとこんなにも胸が苦しくなるなんて……。
 私は俯くとご飯の続きを口に運んだ。でも、さっきまで美味しかったそれらはもう何の味もしなくて、ただパサパサとした何かをずっと食べているような、そんな気分だった。

「はー、美味かった」

 一足先に食べ終わった辰雄さんが満足そうに言うのを聞いて、少しホッとした。
 この時代に来て、伊織さん以外の人にご飯を食べてもらうのは初めてだったから……。そんなことはないとわかっていたけれど、伊織さんは優しいから、もしも美味しくないと思っていても言い出せないんじゃないかとほんの少しだけ不安だった。

「お口にあって良かったです」
「いやー、本当に美味かったよ。伊織が毎日、わざわざ家に帰ってまで飯を食ってた理由がわかったわ」
「そ、そんなこと……」

 でも、そんなふうに言ってもらえると嬉しい。

「ありがとうございます」

 そんなふうに喜んだのが間違いだったと気付いたのは、翌日のお昼の時間だった。
 その日から、辰雄さんはなぜか毎日のようにお昼ご飯を伊織さんの家に食べに来るようになったのた。
 最初こそ嫌がっていた伊織さんだったけれど、お互いに会話が少なくなっていた私たちにとって、辰雄さんがいるお昼ご飯の時間は唯一、家の中で話し声が溢れる時間だった。それに気付いたのか、次第に辰雄さんが来ることについて伊織さんは何も言わなくなり、私も当たり前のように辰雄さんの分のお昼ご飯を用意するようになった。
 ただ、肝心の私と伊織さんはというと――。

「菫」
「……はい」
「……いや、なんでもないよ」
「そうですか……」

 台風の日から一ヶ月が経とうとしているにもかかわらず、未だに気まずいままだった。とはいえ、少しずつではあるけれど以前のように会話ができるようになってきていた。ただ、お互い一定のラインからは踏み込まない。そんな見えない約束ができているようだった。

 
「それじゃあ行ってくるよ」
「いってらっしゃい」

 その日の朝も、伊織さんを見送るために外に出ると、いつの間にか家の前の大きな木が赤や黄色に色づき始めていた。
 初めてこの時代に来た頃は初夏だったけれど、いつの間にか外はすっかり秋の景色になり、あと二ヶ月もすれば冬が訪れようとしていた。
 私は相変わらず伊織さんの家でお世話になったいたし、ご飯を作ったりお掃除をしたりと変わらない日々を過ごしていた。
 ……少し変わったことがあったとすれば、あの台風の日を境に土が怖くなくなったことだろうか。伊織さんの作っている家庭菜園で野菜を取ることもできるようになったし、なんなら伊織さんの代わりに来年の夏に採れる野菜を植えたりもした。

「――来年の夏、かぁ」
「どうかしたのかい?」
「あ、いえ……、月日が経つのって早いなぁと思いまして」
「……たしかに、そうだね」

 つられるようにして、伊織さんも赤く染まり始めた木々に視線を向けた。
 この頃になると私は、ぼんやりともう元の時代には戻れないのではないか、そう思うようになっていた。元の時代に戻れないことが悲しくないのかと言われれば全く悲しくないわけではないし、お母さんや椿のことだって気になる。でも、今は……。

「ああ、そうだ。裏の畑のにんじんがそろそろ採れると思うから――」
「じゃあ、今日のお昼はにんじんたっぷりのカレーにしますね」
「楽しみにしているよ」

 ニッコリと笑う伊織さんに手を振ると、私は中に戻り、一人っきりになった家で洗い物をしながら考える。もしこのままこの時代から戻れないのだとしたら、これから先どうやって暮らしていくかを考えなければいけない。
 今はこうやって伊織さんにお世話になっているから生活していられるけれど、いつまでも甘えるわけにもいかない。家事をしているとはいえ1円のお金も入れていない迷惑な居候でしかないのだから。それに……。

「っ……」

 ズキッと胸が痛むのを感じる。これを考えるといつも胸が痛くなって、その先を考えることから逃げていた。でも、いずれ来るかもしれない未来を真剣に考えなければいけない。

 もしも――伊織さんが結婚することになったら。と、いうことを。
 
 今はまだ独り身だからいいかもしれないけれど、いつかきっと伊織さんにだって好きな人ができて本当のお嫁さんがこの家にやってくる。ううん、好きな人じゃなくてもおうちの都合でどこかのお嬢さんと結婚することになるかもしれない。
 そのときに、私がここにいたんじゃあ絶対に迷惑になる。こんなにお世話になったのだ。伊織さんにこれ以上の迷惑をかけたくないし、かけられない。
 それに……伊織さんの口から「もうこの家から出て行って欲しい」なんて言われたら、私は立ち直れないかもしれない。
 だから、せめて伊織さんから言われるその前にこの家を出て行きたい。逃げているだけかもしれない。でも、好きな人が幸せになる妨げになることだけは避けたいのだ。
 でも……。

「どうしたらいいんだろう……」

 この時代で生活していくとすると、まず住む家がいる。ううん、家だけじゃない。布団や食器、それに調理器具やお皿なんかも揃えなければいけない。それから、働くところ。これがなければ、一人で生活なんてできっこない。
 でも、ほとんど知っている人もいないこの島でどうすればそれらを得られることができるのか……それすら今の私にはわからなかった。

「はぁ……」

 結局、答えが出ることはないままお昼の時間が来て、お昼ご飯を食べに伊織さんが家に戻ってきた、はずだった。
 けれどガラガラと玄関の戸が開く音が聞こえて、振り返った私の視線の先にいたのは……辰雄さんだった。

「こんにちは、菫ちゃん」
「こんにちは、辰雄さん」
「今日もお邪魔するねー」

 当たり前のように家に入ってくると、居間のちゃぶ台の前に座る。その後ろから呆れたように伊織さんが入ってきた。

「辰雄、僕より先に行くなよ」
「えー? 伊織ってばヤキモチ? 独占欲? そんなんじゃあ菫ちゃんに愛想尽かされちゃうよ?」
「うるさいな」

 ケラケラと笑いながら言う辰雄さんに、伊織さんはもう一度「うるさい」と言いながらも辰雄さんの隣に座る。私は三人分のカレーをよそうとちゃぶ台へと運んだ。

「おかえりなさい、伊織さん」
「ただいま、菫」

 先に伊織さんへと声をかけて、それから私は伊織さんとそれから辰雄さんの分のカレーをちゃぶ台に並べた。

「お待たせしました」
「ありがとねー」
「菫、いつも言っているけれど、こいつの分は用意しなくても大丈夫だよ。勝手についてきてるだけなんだから」
「ふふ、大丈夫ですよ。あ、そうだ。辰雄さんのはにんじんたっぷりにしておきました」
「え、俺にんじん苦手なんだけど……」
「文句があるなら食べるな」

 お皿を取り上げようとした伊織さんから慌てて取り返すと、辰雄さんは舌を出してわざとらしく「べーっだ」と言う。
 そんな二人の態度がおかしくて、思わず笑ってしまう。私の前では落ち着いた態度を取ることが多い伊織さんだけれど、辰雄さんと一緒にいると少年のような表情をする伊織さんが見えて楽しい。
 最初、伊織さんがお昼に辰雄さんを連れて来たときは驚いたけれど……。

「ふふ……」
「どうしたの?」
「あ、いえ。辰雄さん、最初すっごくむりやり伊織さんについてきてたなぁって思い出しちゃって」

 私の言葉に、伊織さんはこめかみの辺りを押さえる。そんな伊織さんとは正反対に、辰雄さんは笑いながらカレーを口に運ぶ。

「だって、せっかく伊織のあんな顔が見えたんだから、これは放っておく手はないと思ってな」
「僕はなんとしてでもあのときの君を止めておくべきだったと思っているよ」
「意外と嫌がってないくせに」
「ホント、仲がいいですね」

 私の言葉に、辰雄さんと伊織さんは対照的な表情を見せる。でも、こんな態度を取っているけれど伊織さんが辰雄さんのことを嫌がっていないことを私は知っていた。
 そして──もしかしたら辰雄さんは私たちの、ううん、私の話を聞いてこうやって家に来てくれるようになったのかもしれない、と私は思っていた。あの日、私たちのことをどういうふうに解釈したのかはしれないけれど、微妙な空気の私たちを心配して――。
 伊織さんと二人きりで気まずかったあの時期、辰雄さんの存在に救われていたし、辰雄さんがいてくれたからきっと私たちは再びこうやって話をすることができるようになった。そう思うと、ついつい辰雄さんの分もお昼ご飯を作って待っていてしまうのだ。
 
「菫ちゃん、おかわり!」
「あ、はい。ちょっと待ってくださいね」
「おかわりぐらい自分で入れろよ。菫は君の召使いじゃないんだから」
「あーはいはい。菫ちゃんは伊織の奥さんだもんな。知ってるからそんな独占欲丸出しな顔で俺を睨むな」
「なっ……!」

 口げんかをする二人を放っておいて、私は辰雄さんのお皿を受け取ると、カレーのおかわりをよそいに立ち上がった。
 カレーを装いながらこっそりと二人の姿を覗き見ると──二人とも少年のような表情を浮かべているのが見えた。


 伊織さんと辰雄さんが午後からの仕事に出たあと、私は家庭菜園に水やりをするために裏庭へと向かった。野菜に水をやりながら考える。辰雄さんに、相談してみようか――と。
 この時代に来てから今まで、伊織さん以外にまともに話をしたことがあるのは辰雄さんだけだ。他の人に相談、という選択肢がなかったのもあるけれど、辰雄さんなら……もしかしたら力になってくれるかもしれない。そんな淡い期待を抱いてしまうほど、辰雄さんは私に対してもよくしてくれていた。
 とはいえ、いつ相談しよう。伊織さんがいるときにはそんな話、絶対にできないし……。

「うーーん」

 私は水やりをしながら、どうすれば相談することができるかを、ああでもないこうでもないと一人考え続けた。


 いろいろな計画を考えたものの、結局私は翌日のお昼の時に、小さなメモを辰雄さんに渡すことにした。
 相談したいことがあるから時間を作ってもらえないか、そう書いたメモを。
 とはいえ、辰雄さんは伊織さんと同じ職場で働いているし、相談できたとしても少し先のことになるだろう。そう思っていたのに……。

「おはよう、菫ちゃん」
「た、辰雄さん? どうして……」
「どうしてって、菫ちゃんが俺に手紙をくれたんだろう? で? 相談したいことって?」

 朝、伊織さんがオリーブ園に行くために家を出たあと、入れ替わるようにして辰雄さんが現れた。突然のことに驚く私に、辰雄さんはひょうひょうとした表情でそう言うとこっちにおいでと手招きをした。

「あの……?」

 いつものように中に入るのかと思いきや、辰雄さんは私に家の中から出てくるように言ったのだ。不思議に思いながらも、私は靴を履いて家の外へと出た。

「中に入らないんですか?」
「今日は伊織がいないからね。俺一人で菫ちゃんしかいない家に入ったりなんかしたら俺伊織に何されるかわかんないよ」
「そ、そんなこと……」
「まあ、それは冗談にしても、よその奥さんしかいない家に男が上がり込むっていうのは周りから見てあんまりいいもんじゃないからね。だから俺はここで話を聞くから、菫ちゃんはその辺の掃除でもするふりをしといてよ」

 辰雄さんに言われて、初めてそのことに気付いた。たしかに、この島の人は私のことを伊織さんの奥さんだと思っているわけだから、その伊織さんのいない時間に辰雄さんを中に引き入れているなんて――周りの人から見たら浮気とか不倫だって思われても仕方がない。そしてそれは私じゃなくて、伊織さんや辰雄さんの評判を下げてしまうことになるのだ。

「わ、私……ごめんなさい。なんにも考えてなくて……」
「ああ、いいのいいの。気にしないで。それで? 突然、相談したいことがあるってどうしたの? 伊織とまたなんかあった?」
「……あの、もしもの話ですよ? もしもの……。その……えっと……」
「ん?」
「もしも……この島で女の人が一人で暮らすとして……お仕事とか住む場所とかって……ありますか? あるとしたら、どうやったらそれを得ることができますか?」

 私の言葉に、辰雄さんの表情が変わるのがわかった。そりゃそうだろう。同僚の嫁だと思っている私からこんな話をされてるんだもん。
 もしも、なんて言っているけれど、こんなの伊織さんの家から出る相談をしているんだってことは、きっと辰雄さんだって気付いているに違いない。

「っ……」
「んー、そうだなあ」

 でも辰雄さんは、そんな私の問い掛けに、真剣に答えてくれた。

「例えばうちのオリーブ園でも事務仕事なんかは女の人もいるし縫製関連とか、あとは海で海女仕事とか、まあ探せばあると思うよ。住むところは空き家があるから頼めば格安で貸してくれるんじゃないかな」
「そう、ですか」
「……菫ちゃん、この家出るつもりなの?」
「それは……」

 思わず黙り込んでしまう私に、辰雄さんは困ったように頭をかく。そりゃあそうだろう。こんな相談……。

「まあ、深くは聞かないけどさ、一度ちゃんと伊織に相談した方がいいと思うよ」
「……はい」
「んじゃ、そろそろ行かないとまずいから。また何かあったら声かけてよ。じゃあね」
「あ、ありがとうございました」

 辰雄さんに頭を下げると、手をひらひらと振りながらオリーブ園へと向かって歩いて行った。一人残された私は、これから先のことを伊織さんに相談することの気の重さに小さくため息をついた。


「菫、話があるからこっちにおいで」
「え……?」

 それは、その日の夜のことだった。晩ご飯を食べ終わったあと、伊織さんが険しい表情で私を呼んだ。その表情に、私はああ、朝のあの話だと感づいた。

「……辰雄から聞いたよ。ここを出て行くつもりなんだって?」
「それは……」

 やっぱり。
 私はなんて言っていいかわからず、黙ったまま俯いた。
 そんな私の態度に、伊織さんは声を荒らげた。

「どうして……!」
「それは……」

 こんな伊織さん、初めて見る……。そりゃあそうだ、これだけよくしてくれているのに、こんなに迷惑をかけているのに勝手に家を出る相談を伊織さんではなく辰雄さんにしているのだから怒っても仕方がない。

「そ、その……そろそろこれからのことも考えて一人で生活できるようにしようかなって……」
「それならそれで僕に相談してくれればいいだろう?」
「こ、これ以上伊織さんに迷惑をかけたくなくて……」

 いろいろいいわけしてみるけれど、どれも伊織さんは納得してくれない。私だってできるならこのまま伊織さんのそばにいて、伊織さんと一緒に暮らしていきたい。でも、そういうわけにはいかない。伊織さんには伊織さんの人生があって、そこにこの時代の人間じゃない私はいちゃいけないんだから!

「菫!」

 でも、私がどんなに上辺だけの理由を説明しても、それを全て否定してここにいてもいいと言ってくれる。甘えちゃいけないという私に、もっと甘えていいんだと言ってくれる。
 違う、そうじゃない。私は……私は……。

「私は、伊織さんのことが、好きなんです……」
「え……?」
「だから、もうこれ以上伊織さんのそばにはいられないんです。これ以上、伊織さんのことを好きになるのが、惹かれていくのが怖い」
「どう、して……」
「どうしてって! だって、伊織さんはいつか誰かと結婚するでしょう? そうなったときに、私の存在が絶対に邪魔になる。そのときになってやっぱりここからは出て行って欲しいなんて言われたら悲しいし辛い。それなら、まだ諦められる今のうちに……伊織さんのそばから……離れた、い……」

 涙が溢れてきて、最後まで喋ることができない。こんなふうに気持ちを伝えるつもりなんかじゃなかったのに。優しいこの人にこれ以上、迷惑をかけたくなんかないのに……。

「……って」
「え?」

 伊織さんが何かを言うのが聞こえた。でも、その言葉を上手く聞き取ることができなくて思わず顔を上げた私を――伊織さんが抱きしめた。

「っ……どうし……」
「好きだ」
「え……?」
「だから、僕のことを好きになって」
「う、そ……」

 必死に絞り出した言葉に、伊織さんは優しく微笑んだ。

「こっちに来て」

 伊織さんは私の手を引くと、壁にもたれかかるように座る。その隣に並んだ私の手を伊織さんはギュッと握りしめた。

「あ、あの……」
「本当は菫に伝えたかった。好きだと、ずっとそばにいて欲しいって。でも……君はいつか元の時代に帰ってしまうとそう思っていたから、気持ちを伝えられなかった。好きになってはいけないと思っていた。でも……」

 伊織さんは、私の目をジッと見つめる。その目に私が映っているのが見えた。この時代で生きている私の姿が。

「もう離したくない」
「そばに、いてもいいんですか……? 邪魔じゃ、ない……?」
「僕が、菫にそばにいて欲しいんだ」
「っ……」

 涙が溢れて止まらない。頬を伝う涙を、伊織さんの指先が優しく拭い取って、そして……。

「菫……」

 ギュッと私を抱きしめる伊織さんの背中に、私はおずおずと手を回した。
 抱きしめ返したその身体から伝わってくる体温はあたたかくて、そして優しかった。

「あ、あの……」
「うん?」

 どれぐらいの時間そうしていただろう。私はそっと顔を上げると、そこには優しく微笑んでいる伊織さんの姿があった。

「どうかした……?」

 まるで囁かれるようにそう言われると、心臓の音がどんどんとうるさくなって……。
 
「そ、その……ドキドキしすぎて、苦しいです」
「っ……」
「伊織さん?」
「そんな可愛いこと言われると、離せなくなるよ」
「え、ええ……!?」
「なんてね」

 ふっと笑うと、伊織さんは私の身体を抱きしめる腕の力を緩めた。ホッと息を吐きながら身体を離すと、さっきまでのぬくもりがなくなってどこか寒くて、それから寂しい。

「そろそろ休む準備をしようか」
「あ、はい……」

 私たちは順番にお風呂に入ると、寝る支度をした。いつものように居間に布団を敷こうとして……手を止めた。同じように自分の部屋に戻ろうとしていた伊織さんも私の方を向いた。そして……。

「あの……!」
「あのさ……」

 お互いの声が重なって……私たちは顔を見合わせて笑った。

「何ですか?」
「菫こそ……」
「伊織さんからどうぞ」

 しばらく押しつけ合ったあと、観念したかのように伊織さんは口を開いた。

「こっちで、一緒に眠らないかい」
「……私も、そう言おうと思ってました」

 優しく微笑みながら、伊織さんは私の背中に手を回すと部屋の戸を開く。そこには敷かれた布団が一組あった。あそこで……。
 心臓の音がうるさすぎて、全身が心臓になってしまったみたいだ。ここで、今から伊織さんと一緒に眠るんだ……。そう願ったのは私も同じなのに、いざ目の当たりにすると、足が動かない。
 そんな私に伊織さんはふっと微笑むと、居間から私の布団を持ってきた。

「え……?」
「隣に敷くね」
「あ……」

 二つ並べられた布団に、私は自分の勘違いが恥ずかしくなる。伊織さんはそんなつもりじゃなかったのに、私ってば……!

「大丈夫、君の準備ができるまでは何もしないよ」
「い、伊織さん……!」
「僕は、君がそばにいてくれるだけで幸せなんだ。それ以上はまだ求めないから、安心して眠りなさい」

 その言葉にホッとしたような、残念なような……複雑な気持ちになりながらも私は伊織さんの隣の布団に入る。しばらくすると布のこすれる音がして、隣の布団に伊織さんが入ったのがわかった。思った以上に近い距離に、心臓がドキドキする。

「菫」
「っ……」

 布団の隙間から伊織さんの手が入ってきて、そっと手を握りしめられたのがわかった。さっきの残念だと思った気持ちを撤回したい。だって、こうやって布団の中で手を握りしめられただけでこんなにもドキドキするのに、それ以上のことなんて絶対に無理! ドキドキしすぎて心臓が壊れちゃう!
 そんな私の気持ちが伝わったのか、伊織さんはふっと笑うと優しく囁いた。

「おやすみ」

 今まで何度も聞いたその言葉がこんなにも愛おしいものだなんて、私は生まれて初めて知った。
 伊織さんに想いを伝え、そして伊織さんの想いを受け止めてからも私たちの生活は特にそこまで大きな変化はなかった。朝、私が作ったご飯を二人で食べ、伊織さんを見送り、掃除や家事をする。お昼ご飯と夜ご飯を二人で食べて、そして――二人で並んで眠った。
 布団は別だったけれど、伊織さんの隣で眠るのは最初は緊張してなかなか寝付けない夜もあった。でも、そんな私に気付くと、伊織さんはいつもそっと手を伸ばして私の冷たくなった手のひらを握りしめてくれていた。伊織さんの体温が手のひら越しに伝わると、安心して身体の中心から温まって、そしていつの間にか眠りについていた。

「ふふ……」
「どうしたの? 菫」
「あ、いえ。その……幸せだなって思って」
「僕も幸せだよ」

 夕食のあと、二人並んで窓から星空を見ていた。こんなふうに星空を見るのはいつぶりだろう。元の時代にいたときは、全然……。それこそ、あのキャンプの時ぐらい……。
 ふとあのキャンプのことを思い出して、懐かしい気持ちになった。たった三ヶ月前のことなのに、もう何年も前のことのような気がする。

「菫?」

 私はコトンと、伊織さんの肩に自分の頭をもたれかからせた。どうかしたのかと伊織さんが私を見つめてくるけれど、私は首を振って、それから目を閉じた。
 お母さんや椿、それに海里は私のことを心配してくれているかもしれない。でも、私は今、とっても幸せだから。だから……。みんなも私のことなんか忘れて、幸せに暮らしてくれるといいな……。


 翌日、仕事が休みだった伊織さんと一緒にご飯を食べて二人で片付けをしていると、伊織さんが何かを思いついたように言った。

「あとで、一緒に出かけないかい?」
「珍しいですね。どうかしたんですか?」
「いや、特にどうしたというわけじゃなくて、その……」
「?」

 口ごもりながら、伊織さんはなぜか私から目をそらす。いったいどうしたというのだろう……。

「伊織さん?」
「……だから、その……菫と二人でどこかに出かけたいなと思って、それで……」
「それって……!」

 デート……ってこと?
 この時代の人がなんて言うのかはわからないけれど、今のはきっとデートのお誘いってことだよね……? 伊織さんが、私を、デートに……。

「い、嫌なら……」
「行きます! 行きたいです!」
「そ、そうかい?」
「はい!」

 勢いよく返事をする私に、伊織さんは一瞬驚いたような表情をしたけれど、でもすぐに嬉しそうに微笑んでくれた。
 私はいつもよりも早く掃除や洗濯を終わらせると、伊織さんと一緒に外に出た。こうやって島の中を二人で歩くのは、この時代に来た最初の頃に伊織さんに島を案内してもらって以来だ。あのときは、ただただ何が起きているのかわからなくて、一日一日を過ごすことに必死だった。でも、今は……。

「菫」
「あ……」

 伊織さんは私の名前を呼ぶと、手をギュッと握りしめた。あのときとは違う、私たちの距離。それは、私たちがこの三ヶ月の間に過ごしてきた時間を物語っていた。

「ふう……」
「疲れた?」
「あ、ううん。大丈夫です」

 誰もいない砂浜に腰を下ろすと、思わず声が漏れた。そんな私を伊織さんが心配そうに覗き込むから、慌てて首を振って否定する。
 島のあちこちを歩き回る中で、たくさんの人に声をかけられた。みんな伊織さんがようやく奥さんを外に連れ出したと、興味津々で集まってくるようだった。
 そのたびに、はじめましてとどうぞよろしくお願いしますと挨拶をしていると、中にはなぜかよかったねえと涙ぐむ人もいた。これはもしかしなくても、伊織さん。だいぶ心配されていたのでは……? そう尋ねた私に、伊織さんは苦笑いを浮かべた。

「それが……。僕が菫を監禁しているとか、いやあれは僕の妄想なんじゃないか、とかいろいろ言われていたみたいで。何人かは菫のことを見かけたこともあったはずなのに……」
「ええ……?」
「妄想じゃない、というのは辰雄の言葉で信じてもらえたみたいなんだけど、でもずっと家の中に閉じ込めていたのはやり過ぎだと周りから言われたよ」

 閉じ込められていたわけではなく、外に出て話がかみ合わないのも困るし何か聞かれて上手く答えられる自信もなかったからほとんどの時間を家の中で過ごしていただけなんだけれど……。でも、そっか。周りの人から見たら私たちの暮らしはいびつなものに見えていたんだ……。

「今日ので誤解は解けました……?」
「多分ね。……まあ、明日は違う意味で質問攻めかもしれないけれど」
「どういう?」
「いや、なんでもないよ」

 そう言って笑うと、伊織さんは私の隣に腰を下ろした。磯の匂いがする。

「……菫、これなんだかわかるかい?」
「えーっと、やけに大きな貝ですけど……なんだろ」
「これはね、ハマグリなんだ」
「ハマグリって……あのお吸い物なんかに入ってるあのハマグリですか?」
「そうだよ」

 お店で売っているのを見たことはあるけれど、こんなふうに浜辺に落ちているのは初めて見た。まじまじと見る私の手のひらに、伊織さんはハマグリをのせた。それは思った以上に大きかった。

「へー! 私、売っているの以外を見るの初めてです」
「そっか。じゃあ、こんなことは知ってる? ハマグリの貝は二つとして同じ形のものがないんだよ。だから重なるのは世界に一つだけなんだ」
「そうなんですか。知らなかったです」

 お吸い物に入っているあのハマグリが、そんなロマンチックな貝だったなんて知らなかった。でも、どうして今そんな話を?
 疑問に思った私の手のひらからハマグリを取ると、伊織さんはその口を開け貝を真っ二つに折った。
 そして、半分を自分の手のひらに、そして残る半分を私の手のひらの上に乗せた。

「これって……」
「菫の持つその貝殻とピッタリ合うのは、僕が持つこの貝殻だけだよ。……なんて、ちょっとキザだったかな」
「そんなことないです! 凄く素敵だと思います!」
「そっか」

 恥ずかしそうに笑う伊織さんの隣で、私はもらった貝殻の片割れをギュッと握りしめた。そんな私を、伊織さんが優しく見つめていた。


 その日の夜、私はいつものように伊織さんの隣で眠りにつく。相変わらず二枚の布団を並べて寝ているけれど、いつの間にかその境界は曖昧になっていた。
 隣に眠る伊織さんを見ると、伊織さんも私を見つめていた。

「まだ起きてたんですか?」
「菫こそ」
「私は、なんだか眠れなくて」
「僕も」

 ふっと笑う伊織さんの表情に、ああ、やっぱりこの人のことが好きだなと思う。伊織さんと出会わなければ、今も私はお母さんや椿に対してマイナスな感情を持ったままだったと思うし、何よりもこんなに誰かを好きになることがあるなんて、知らないままだったかもしれない。
 何で私がタイムスリップなんて、って最初は思っていたけれど、でも……今は……。

「ふふ」
「どうしたの?」
「いえ、なんでも。……あ、そうだ。ねえ、伊織さん。一つ聞いてもいいですか?」
「なんだい?」

 私はふと思い出して、ずっと聞けなかったことを聞いてみることにした。

「私が伊織さんのことを好きだって言ったときに、伊織さん私が元の時代に帰るから気持ちを伝えちゃいけないと思ってたって、そう言ってましたよね」
「っ……。よく、覚えているね」
「あれって……私が想いを伝えるよりも前から、私のことを想ってくれてたってことですよね?」
「…………」

 私の問いかけに、伊織さんは黙り込んでしまう。
 本当はずっと気になっていた。
 伊織さんは、私なんかのどこを好きになってくれたんだろうって。
 伊織さんの気持ちを疑ってるわけじゃないし、好きだと伝えてくれる言葉を、気持ちを信じていないわけじゃない。でも、やっぱり気になる。いったい、いつ、そしてどこを好きになったんだろうって……。

「笑わないかい?」
「え?」
「一目惚れだったんだ」

 そう言って、伊織さんは照れくさそうに笑った。
 一目惚れ……? 私に? 伊織さんが?

「浜辺に倒れている君を初めて見たとき、まるで天使が倒れてるんだとそう思ったんだ」
「天使って……」
「菫は知らないだろうけど、君が目を冷ますまでの少しの時間、僕は少し離れたところから君のことを見ていた」
「え……?」
「死んでいるのだろうか、それとも……。でも、それを確認することすらできなかった。君に見惚れたまま足が動かなかった。やがて目を覚ました君を見て僕の心臓は止まるかと思った。こんなふうに誰かに感情を全て持って行かれることがあるのかと驚いたよ」

 あのとき、私が目を覚ます前に伊織さんは私に気付いていたの……? そんなことって……。

「信じられないって顔をしてる」
「だ、だって……!」
「あのとき、君が目を覚まして慌てて僕は君の元に駆け寄ったんだ。他の誰かが君を見つけてしまう前にって。本当は警察に君を連れて行くべきだった。頭ではそう理解していた。でも、どうしても君を離したくなくて……怪我を理由に僕は自分の家に君を連れて行ったんだ」

 どうしてこんなに親切にしてくれるんだろうって不思議に思っていた。でも、警察に連れて行かれてたら、きっと意味不明なことを言う私は変な目で見られて頭のおかしな子だと思われていたに違いない。

「なんども悩んだ。今からでも君を警察に連れて行くべきだって。でも、日に日に君に惹かれていく自分がいた。くるくると回る表情に、自分にできることをしようとする健気な君に、僕のために……恐怖に立ち向かってまでオリーブを守ってくれた君に、どんどんと惹かれていったんだ」
「伊織さん……」

 そんなふうに想ってくれていたことが嬉しかった。でも……。

「軽蔑してくれてもいいよ」
「え……?」
「君は僕を優しい男のように言うけれどそんなんじゃない。ただ、君のことを他の人に渡したくなかっただけなんだ」
「伊織さん……」

 でも、私には伊織さんを責めることも軽蔑することもできない。だって、私だって嘘をついていた。

「私、本当は結構すぐに怪我、治ってたんです」
「え?」
「別にそこまで酷くなくて、軽い捻挫だったみたいで……。でも、追い出されるのが怖くて、知らない場所に放り出されるのが怖くて黙ってました。掃除をしたりご飯を作ったりしたのもそう。少しでも役に立てば、このままこの家に置いてもらえるかもしれないってそう思って。……ズルいですよね」
「そんなこと……!」
「でも、その選択が間違ってたとは思いません。ズルかったなとは思いますけど……でも、そのおかげで私は今、伊織さんと一緒にいることができて、こうやって」

 私は布団の中で、そっと伊織さんの手を取った。

「伊織さんと幸せな時間を過ごすことができてるんですから」
「菫……」
「ね?」
「……菫には適わないな」

 優しく微笑むと、伊織さんは繋いだ私の手をギュッと握りしめると、その手に――口付けた。

「なっ……」
「これぐらいは許して。本当は今すぐ抱きしめて菫に口付けたいのを我慢してるんだ」
「っ……でも、恥ずかしくて……」
「可愛い」

 もう一度繋いだ手に口付けると、伊織さんは私の身体を抱きしめた。包み込まれるように抱きしめられると、心臓の音とか体温とか全てが伊織さんと混ざり合ったような感覚になる。

「ふふ……」
「菫?」
「こうやってぎゅってされると、気持ちいい」
「君は……。わかっていってるのかい?」
「え?」
「……はあ。いや、なんでもないよ。君が眠りにつくまでこうやって抱きしめているから、ゆっくりおやすみ」

 伊織さんの声がすぐそばで聞こえる。この少し低くて優しい声も好き……。起きたら、それも伝えなきゃ……。
 そんなことを考えているうちに、私はいつのまにか眠りに落ちていた。
 
 
 歩き回って疲れていたのか、あっという間に眠りに落ちて――そして、目が覚めると真夜中だった。
 身体を動かそうとしてもビクともしなくて、ふっと顔を上げそういえば伊織さんに抱きしめられたまま眠ったのだと思い出して心臓の鼓動が早くなる。
 顔だけなんとか動かして隣を見ると、伊織さんはぐっすりと眠っているようだった。その寝顔に頬が緩んだ。
 ここに来てもう三ヶ月が経つ。元の時代のことを考えると少し胸が痛むけれど、それでも伊織さんがそばにいてくれるから寂しくはなかった。
 私は、枕元に置いた貝殻に手を伸ばす。この貝殻がピッタリと重なるのが本当に伊織さんの持つあの貝殻だけなのだとしたら、それを片方ずつ持った私たちもきっとずっと一緒にいられる。そんなことを考えると胸の奥があたたかくなるのを感じた。
 さあ、もう一度眠らなきゃ。朝、起きられなくなってしまう。明日の朝は、夕食のあとに醤油とみりんに漬けておいたぶりを照り焼きにしよう。フライパンの中で絡めるだけでも美味しいのだけれど、前の晩に漬け込んでおくことで臭みが消えてより美味しくなるのだ。
 貝殻を握りしめたままそんなことを思った、そのときだった。部屋の中に明るい光が灯ったのは。いったい何の光だろう。突然のことに驚きつつも必死に光源を探す。そして――ようやく、それを見つけた。

「蛍……?」

 それは、季節外れの蛍の光だった。いったいどこから入り込んだんだろう。戸締まりはきちんとしているはずなのに。
 隣で眠る伊織さんは、蛍の光が気にならないのか眠ったままだ。蛍の光のおかげで部屋の中はまるで昼間のように明るくなっているというのによく眠っていられるなぁ。でも、蛍か……。そういえば、あの日この時代にタイムスリップしてきたあの日も、蛍を見たなぁ。あの蛍も、凄く光ってて綺麗だった。
 懐かしく思いながら、蛍に手を伸ばす。すると、蛍は何の迷いもなく私の指先に止まった。
 まぶしい……!
 思わず目がくらんでしまうほどのまばゆさに違和感を覚えたときには遅かった。光はどんどんと輝きを増し部屋中を明るく照らした。
 あまりの明るさに目を閉じた私が次に目を開けると、そこは――三ヶ月前のあの日、私がタイムスリップすることになったあの森の中だった。

 
 そのあとのことはよく覚えていない。まるでこの三ヶ月なんてなかったかのように、あの日と同じ服装をしている私のポケットの中でスマホが鳴って、意味がわからないまま通話をオンにすると、泣き叫ぶお母さんの声が聞こえた。
 今どこにいるのと聞かれて、キャンプ場の森の中と答えると、一時間もしないうちに私は警察や消防、たくさんの人に囲まれて病院へと搬送された。

「菫!!」
「おかあ、さん……」
「菫! あなた、今までどこに……!」

 病院に駆け付けたお母さんは私の身体をギュッと抱きしめると、周りにたくさんの人がいるのも気にしないで大声で泣いた。お母さんの後ろに、涙で顔をぐちゃぐちゃにした椿と、それから海里の姿も見えて、ああ、私は本当に元の時代に帰ってきてしまったんだとそう実感した。

「お、かあ、さん……?」
「菫……」
「泣い、てるの……?」

 こんなふうに、お母さんが泣いているところを見るのはいつぶりだろう。お父さんが死んじゃってすぐは私や椿に隠れて泣いているところを見たけれど、いつからか見かけなくなった。なのに、そんなお母さんが、泣いている。
 私の、ために……?

「泣いて、くれるの……?」
「当たり前でしょ!」
「だって、お母さんにとって私はお父さんを殺した憎い子でしょう?」
「なっ……」
「なのに、泣いてくれるの……?」
「菫、あなた……」

 お母さんは私を抱きしめる手に力を込めた。痛いぐらい抱きしめられた身体、なのになぜか少しも苦しくなくて、それどころか抱きしめられた腕の中は優しくてあたたかかった。

「あなたがいなくなったら、お母さんどうやって生きていけばいいの!」
「え……?」
「菫も椿も、お母さんにとって……ううん、お母さんとお父さんにとって大事な大事な子どもなの。だから、二度とそんなこと言わないで……!」
「お、かあさん……お母さん!!」

 私はお母さんの背中に手を回すとしがみつくようにして抱きしめて、そして泣いた。小さな子どものように声をあげて泣き続けた。
 本当は、この優しいぬくもりにずっと抱きしめられたかった。もう二度と抱きしめてもらえないと思っていたこの腕に。それがもう一度叶ったのはまぎれもない、伊織さんのおかげだ。彼が、私の心の中にあった氷の壁を優しく溶かしてくれた。

「っ……」

 でも、もう――二度と、伊織さんには会えない。
 もう二度と、あの腕に抱かれることはない。好きだよと囁かれることもなければ好きですと伝えることもできない。大きくて優しい手のひらを握りしめることも、もうない。

「あ……ああぁ!」

 止まりかけた涙が、再び頬を伝う。でもそれは先ほどまでの温かい涙とは違って、冷たく氷のようだった。
  お母さんや椿に会いたくなかったわけじゃない。二度と会えないことにショックを受けたことだってある。でも、それでも……。

「菫、泣かないで」
「っ……あ……」
「あなたが無事で、本当によかった……。もう二度と会えないかと思った……」
「ご、めんな、さい……」

 泣いている私を、お母さんは優しく撫でてくれる。でも、違うの。この涙は、お母さんに会えたことを喜んでいるわけじゃなくて。ううん、喜んでいないわけじゃない。でも、でもそれよりも――きっともう二度と、伊織さんに会えないという事実が――。

「っ……うわああああぁぁ!!」

 私は大声で泣いた。こんなにも好きになっていたのに、ずっと一緒にいられるってそう思っていたのに。まさかこんなにあっけなく終わりを迎えるなんて思っていなかった。わかっていたらもっと早く好きだって言って、いっぱいいっぱい伊織さんに好きだって伝えて、それで、それで……。
 もう二度と会えない伊織さんのことを思うと――私の涙は止まることがなかった。


 一生分の涙を流したんじゃないだろうか、そう思うぐらい泣いたあと、コンコンというノックの音が聞こえて二人の男の人が病室に入ってきた。
 警察手帳を見せられて、スーツ姿のこの二人が警察なんだと初めてわかった。

「相川菫ちゃん、だね? ちょっとお話聞かせてもらいたいんだけどいいかな?」
「なっ」
「……はい」

 お母さんはこんなタイミングじゃなくても、なんて言っていたけれど私はもうどうでもよかった。

「いなくなった日から今まで一週間。どこにいたか、聞かせてもらえるかな?」
「一週間……?」

 私がいなくなったあの日から、まだたったの一週間しか過ぎていないというのだろうか。そんなわけない。私は確かに三ヶ月――。でも、たしかに目の前のお母さんや椿は半袖の服を着ていて、今がまだ夏であることを思い知らされた。

「菫ちゃん?」
「……覚えて、ないです」
「本当に? 誰か知らない人に連れて行かれたとかそういうことは――」
「何も覚えてないんです。思い出せないんです」

 正直に言っても、誰も信じてくれないとそう思った。大正時代の小豆島にタイムスリップをして三ヶ月間過ごしてました。なんて言ったら、頭のおかしな子だと思われかねない。
 それに、何よりも――そんなわけないと否定されたくなかった。伊織さんと過ごした三ヶ月を、何も知らない人たちに簡単に否定されたくなかった。

「そうですか……」
「何かショックなことがあって思い出せないとか、そういうことは?」
「医者の話じゃあ、脳に異常はないようだし、特に目立った外傷も……」
「じゃあ、何だったって言うんだ!? 神隠しにあっていたとでも!?」
「警部、声が大きいです」
「……すまん」

 気まずそうに私を見て、頭を下げると警察の人は病室を出て行った。残されたのは私と、それからお母さんと椿と海里の四人だけだった。
 お母さんは私の手を握りしめると、もう一度ギュッと抱きしめた。

「でも、戻ってきてくれて本当によかった……」
「うん……」
「どこに行ってしまったのかって、ずっと心配してたのよ。もう二度と会えないかと……!」
「……ごめんね」

 私の言葉に、お母さんが驚いたように顔を上げた。

「え……? どうかした……?」
「ううん、なんでもないの。なんでもないのよ」

 ギュッと抱きしめる手に力を込めるとお母さんは私の肩がびしょびしょになるぐらい泣いて泣いて泣き続けた。


 もう面会時間は終わりです、そう看護師さんが言いに来てお母さんたちは帰って行く。私は一人きりになった病室で、ロッカーに片付けられた服を取り出すとポケットを探った。その中には、伊織さんからもらったあのハマグリの片割れが入っていた。

「っ……」

 あの日々は、確かにあったのだ。伊織さんと過ごした、大切なあの日々は……。
 こみ上げてくる涙は、気付けば頬を伝い貝殻にこぼれ落ちていた。もう二度と会えないとしても、私が伊織さんを好きだったこの気持ちは忘れないから。絶対に、忘れないから。そう心に誓いながら、私は声を出さずに泣き続けた。
 あれから5年の月日が経った。19歳になった私は自宅から通える国立の大学に通っていた。自宅から徒歩とバスで15分。ほどよい距離だ。同じ高校から進学する子も多い子の大学に進むことにお母さんは安心していた。

「行ってきます」
「気をつけてね。今日は早く帰ってくるの?」
「うん。晩ご飯、私作った方がいい?」
「今日は日勤だからお母さんが作るわ」
「そっか、楽しみにしてるね」

 玄関からキッチンにいるお母さんと話をしていると、ドタドタと階段を降りてくる音が聞こえた。この間、階段を踏み外して盛大に落ちて泣いていたのに懲りないなぁ……。
 苦笑いを浮かべていると、足音の主である椿が手すり越しに顔を出した。

「お姉ちゃん! ワンピース借りてもいい!?」
「えー……汚さないでね?」
「やった! お姉ちゃん大好き!」

 中学校の方が大学よりも一足先に夏休みに入ったらしく、今日は映画に行くんだと言っていた。そんな椿に私は、わざとらしくニッコリと微笑んだ。
 
「はいはい。ゆうくんによろしく」
「よろしくしない! ……って、そうだ。お姉ちゃん、今日って帰ってくるの早い?」
「多分早いと思うけど、どうしたの?」

 椿はリビングの方に視線を向けたあと、小さな声で私に耳打ちした。

「ちょっと相談したいことあるんだ」
「相談?」
「そう。だからなるべく早く帰ってきてね」
「わかった。でも私より、デートに行く椿の方が遅いんじゃない?」
「う、うるさい! もう!」
「あはは、じゃあいってきます」
 
 顔を赤くして怒る椿にひらひらと手を振ると、私は玄関を出た。
 椿ももう中3か……。早いなぁ。あんなに小さかったのに、いつの間にかあのときの私と同じ年だ。あのときの――。

「――菫! 待てよ、菫」

 何かを思い出しそうになって、バス停へと歩きながらそれが何だったかを考えようとした私の背後から、誰かが私を呼ぶ声がした。振り返らなくても誰かなんてわかってる。

「うるさい、海里」
「どうせ同じところ行くんだから一緒に行こうぜ」

 あの頃よりもずいぶんと背の伸びた海里は、ニッと笑うと私の隣に並んで歩き出した。
 中三のあの夏から海里はずっとこうだった。
 私は、中学三年生の夏、海里と一緒に行ったキャンプの途中で行方不明になったらしい。……らしい、というのはいまいち記憶があやふやで覚えていないのだ。
 行方不明になった私が発見されて数日後、もうすぐ退院というタイミングで私は高熱を出して生死の境を彷徨ったそうだ。そのせいか、いろんな記憶が抜け落ちているのだ。
 ただ、行方不明になっていた間、私は大正時代のどこかの島にいて、そこで伊織さんを好きになって一緒に生活していた。それだけは覚えている。たくさんの大切な感情を教えてもらったし、かけがえのない時間を彼と過ごした。
 忘れられるわけがない。後にも先にも、あんなに誰かを好きになったのは伊織さんだけなんだから。
 でも、あの日々が大切な思い出となっているのは私だけみたいで。お母さんはあのときのキャンプ場の名前がテレビで流れたら瞬間的にチャンネルを変えるし、私が遊びに行くときにもどこに行くのか何時に帰ってくるのかと尋ねるようになった。そして、そんなお母さんの過保護なほどの心配がくすぐったくて、少しも嫌じゃなかった。
 ……あの頃の私には考えられなかったから。こんなふうに椿やお母さんと笑い合える日が来るなんて。
 伊織さんと過ごしたあの日々が、きっと私を変えたんだと思う。前よりも素直にお母さんの話を聞けるようになった。前よりも椿に対して笑いかけることができるようになった。
 伊織さんに会えなくなって寂しかったし辛かった。でも、伊織さんからもらった言葉は感情は私の中でちゃんと生きている。そう思って、あの日から5年の月日を過ごしてきた。

 伊織さんに会いたい。

 そう思わないわけじゃなかった。でも、それはきっともう二度と会えないと心のどこかで感じているから、だからそう思うのだとわかっていた。だって、もう一度本当に伊織さんに会えるとしたら、そのときは――この時代と、お母さんや椿と、別れるということだから……。
 そして海里は……私が行方不明の間も、それから戻ってきてからも自分を責め続けていたらしい。自分がキャンプに誘わなければ、という思いがあったんだと思う。でも、そんなこと気にしなくていいのに。だって、私が伊織さんと出会うことができたのは、あの日のあのキャンプに、海里が誘ってくれたおかげなんだから。
 だから、海里には何も気にせず、海里の人生を送って欲しいのに……。

「大学まで一緒のところ受けちゃうんだもん」
「え、ダメだった?」

 思わず口からついて出てしまった言葉に、海里が首を傾げながら答える。そんな態度にため息をつくと、私はため息をついた。

「海里ならもっといい大学狙えたでしょ」
「えー。でも、家から通えてそんなに遠くもなくてってめっちゃいい条件じゃない? しかも国立だし」
「そりゃそうだけど……」

 でも、高校だって大学だって海里なら本当はもっといいところにいけたのにって先生が残念がっていたのを私は知っている。だけど、海里はかたくなに「菫と一緒のところ受けたいから」と言って譲らなかった。おかげで冷たい視線は全て私が受けることになったし、なんなら大学はもうワンランク上を狙えと、学年主任つきっきりでみっちり勉強させられたことを私は忘れはしない。
 海里の優しさが、あの日の負い目から来ているのなら、私から離れた方がいいのでは、と高校では海里との時間を減らそうと部活に入ったりもした。でも海里は図書館で本を読んでたんだ、なんて見え透いた嘘をついて部活が終わるのを待っていた。そして、当たり前のように私と一緒に帰るのだ。
 受験勉強に悩んでいるときも隣で勉強しながらわからない問題は教えてくれた。困ったことがあるといつだって海里がそばにいてくれた。その存在をありがたくそして申し訳なく感じると同時に、伊織さんに対する後ろめたさもあった。決して海里と付き合っているわけではないのに、ずっと一緒にいる私たちを周りの友人たちは恋人同士だと思っている。そのたびに私には好きな人がいるんだと言いたくて、言えなくて苦しくなるのだ。
 ――でも、そろそろこの想いも忘れなければいけない時が来ているのかもしれない。もう二度と、会うことができない人なんだから。

「待てよ! おい!」

 海里のことなんて気にせず早足で歩きバスに乗ろうとする私を、慌てて追いかけてくると海里は当たり前のように私の隣に座った。
 そしてもうすぐ来る夏休みについて話し始める。

「サークルのみんなでさどこか行こうって言ってるんだけど菫も行かない?」
「私サークルのメンバーじゃないし」
「別にサークルに入ってないやつも来るから大丈夫だよ」
「いいよ、別に。私は行かないから海里だけ行っておいでよ」

 それよりも、私は行きたいところがあった。伊織さんと一緒に過ごしたあの島に、もう一度行きたい。そしてもうそこに伊織さんがいないことを確かめられたら、この想いに終止符を打てるような、そんな気がする。
 でも、あの島がどこなのか、私にはわからずにいた。
 退院前に出た高熱のせいで、私はあの当時の記憶があやふやだ。どこの島にいたのか、大正何年のことなのかすら覚えていない。覚えているのは伊織さんのこと、それから島に住んでいた人のこと。でも、そんなの何のヒントにもならなかった。もしかしたら、とスマホやパソコンで検索してみたこともあったけれど『伊織』という名前は大正時代にはよくある名前だそうで、私の知っている伊織さんにたどり着くことはなかった。もっと、あの場所にしかなかったものはないだろうか……。必死に思い出そうとしたけれど、結局何かを思い出せることはなかった。

「なあ、それじゃあさ夏休み入ったら二人でどっか行かない?」
「えー……。海里もさ、いい加減私とじゃなくて他の子と出かけたら? おばさんだってもう別に何も言わないでしょ?」
「それはそうだけど……。でも俺は……」
「何?」
「なんでもねえよ! それよりどっか行こうぜ。例えば……海とか!」

 海里は今思いついたとばかりに言うと、スマホで何かを調べ始めた。

「ほら、こことかビーチも綺麗だしどう?」
「どうって言われても……」
「弁当とか持ってさ。俺、菫の作る甘い卵焼き好きなんだよね」
「甘い、卵焼き……」

 懐かしい。
 伊織さんが好きでよく作っていた甘い卵焼き。私はだし巻きが好きだったけれど、こっちに戻ってきてからはつい甘い卵焼きを作ってしまった。そういえば、私のお弁当に入ってる卵焼きを海里ってばよくつまみ食いしてたっけ。

 ……お弁当の、卵焼き?

 何かを思い出せそうだった。

「なんだっけ……。そう、お弁当を作ったんだ……」
「菫?」

 伊織さんのお昼ご飯にお弁当を作って持っていったんだ……。それで海で食べて……。なんで海で食べたんだっけ……。
 ああ、もう! もうちょっとで思い出せそうなのに……。

「菫!」
「なに!?」
「や、何じゃなくて……。そっち道違うくないか?」
「あ……」

 考え事をしながら歩いていた私は、バス停を降りて大学に向かうための曲がり角を右ではなく左に曲がろうとしていた。海里が声をかけてくれなきゃ道を間違えるところだった。……間違えた?

「そうだ」

 あのとき、私は伊織さんのところに行こうと思って迷子になったんだ。それで山の中に入り込んじゃって……。伊織さんはわざわざ私を探しに来てくれたんだっけ。そう、あれは……。

「……オリーブ」
「え?」
「オリーブ園で、働いてたんだ……」

 オリーブ園から私のところまで駆け付けてくれた伊織さんと海に向かって、そこで伊織さんはお弁当を食べた。そうだ、オリーブ園だ。
 こんな大事なこと、どうして忘れていたんだろう。伊織さんは確かオリーブ園で働いていた。でも、オリーブって外国から来た木の実のはず。それを大正時代に、しかも島で育てているなんて、そんないくつもあるわけない。
 私はスマホを取り出すと、検索画面を開いた。――そのとき。

「何するの?」

 私のスマホの画面を覆うように、海里がスマホを掴んだ。

「お前、まさか思い出したのか?」
「え?」
「それで、行く気なんだな? やめろよ! 絶対に行くな!」
「なに……? どういうこと……?」

 私は海里の言葉の意味がわからなかった。今、海里はなんて言ったの? 思い出した? 行く気? それって、まさか……。

「何か、知ってるの?」
「…………」
「ねえ! 何か知ってるなら教えてよ!」
「知らねえよ! 俺はなんにも知らねえ! お前だって思い出せないぐらいのことならさっさと忘れてしまえよ!」

 そう言い捨てると、海里は私を置いて大学とは正反対の方向へと走っていった。
 
「ちゃんと大学行けよ! 気をつけて帰れよ!」

 そう言い残して。


 海里は、何か知っているのだろうか。私が覚えていない何かを。でもじゃあ、どうして今まで言ってくれなかったの? ずっと、私が伊織さんに会いたいと、あの島でのことを思い出したいと言っていたことを海里は、海里だけは知っていたのに……。
 5年前、退院してから夏休みが終わるまで、私はずっと家で引きこもっていた。その間、海里は毎日家に来てくれて私の話を聞いてくれた。かろうじて覚えているあの島でのことを、ポツリと話したのは何がきっかけだったっけ。もう覚えていないけれど、私は海里に伊織さんのことを話した。
 信じてもらえないかもしれないけれど、と言った私に海里は「信じるよ」と言ってくれた。それが凄く嬉しくて、泣きそうなぐらい嬉しくて、話してよかったってそう思ったのに。なのに、どうしてあんな……。
 私はさっきの海里の言葉を思い出して、胸の奥が重くなるのを感じた。

「っ……」

 ううん、でも今はそんなことよりも。
 私は海里の態度は気になるけれど、それはひとまず置いておくことにして、先ほどのキーワードをスマホの検索画面に入力した。

『大正時代』『オリーブ』『島』

 そして私の思ったとおり、検索結果の一番上に、その島の名前はあった。

「小豆島……」

 ああ、この島の名前を私は知っている。何度も何度も耳にした島の名前。そうだ、小豆島。そこに私はいたんだ。伊織さんとともに。
 大学の講義の時間を使って、私は検索結果に出てきたページを読みあさった。けれど、当時の責任者についてや従業員についての記述はない。そりゃあそうだ。なんせ100年以上前のことなんだから残っていなくて当然だ。
 でも、それでもよかった。あの島が実在した。それだけで、涙が出るぐらいに嬉しかった。

「行かなきゃ」

 小豆島に、行かなきゃ。
 行って、それからどうするかなんてまだわからない。行ったところでそこに伊織さんはいないのに。
 でも、それでも私はあの島にもう一度行きたかった。伊織さんと一緒に過ごしたあの島に。


 思い立ってからの行動は早かった。調べると、どうやら小豆島へは香川県からフェリーで行かなければいけないらしい。私が住む街から香川県までは高速バスに乗れば4時間ほどで着くそうだ。
 少し遠い。でも、日帰りができない距離じゃない。
 やっとあの島に行くことができるんだ、そう思うとドキドキする気持ちを抑えることができなかった。
 そんな私の耳に、コンコンとノックの音が聞こえた。

「はい?」
「お姉ちゃん、いる?」
「いるよ」

 そうだ、忘れていた。今日、家に帰ったら何か相談したいことがあると椿が言っていたんだった。いったい相談ってなんだろう……。

「もう、帰ったなら帰ったって言ってよ」
「ごめんね、忘れてて」
「だと思った!」

 ブツブツと文句を言いながら椿は私の部屋に入ってくると、部屋の中央に置いたテーブルの前に座った。
 いったい相談とはなんなんだろう?

「あのね、その……」
「どうしたの?」
「あの……! えっと……」
「椿?」

 何かを言いかけてはやめて……を何回か繰り返したあと、椿は覚悟を決めたようにこちらを向いて、それから口を開いた。

「ケーキの作り方を教えて欲しいの!」
「ケーキ?」
「そう。レシピサイトを見ながらこの前作ったんだけど失敗しちゃって……」
「そりゃいいけど、ケーキなんてなんで……」
「もうすぐゆうくんの誕生日で……。それで……」

 なるほど。
 彼氏の誕生日に手作りケーキを作ってあげたいと。

「いいよ」
「ホントに!?」
「うん、いつ作る?」
「今度の日曜日! 月曜日が誕生日だから……」
「わかった、日曜日だね」

 私は勉強机の上に置いた卓上カレンダーに忘れないように○をつけた。そんな私を見ながら、椿はポツリと呟いた。

「お姉ちゃん、変わったよね」
「……そうかな」
「そうだよ。前はなんて言うか……」
「なに?」
「……怒らない?」

 不安そうに確認すると、椿は口を開いた。

「お姉ちゃんさ、前は私とママのこと、嫌いだったでしょ」
「嫌いなんかじゃ……!」
「いいよ、ごまかさなくて。ずっと気付いてたから」

 違う。嫌ってなんか、いない。
 でも……。

「嫌ってたんじゃなくて……ずっと、椿とお母さんに嫌われてるんだと思ってた」
「嫌う……? 私とママが? お姉ちゃんを? どうして」
「どうしてって……お父さんが、私のせいで死んじゃったから……」

 嫌っていると思っていた。……恨まれていると、思いたかった。
 誰かが私を責めていると、そう思っていたかった。
 でも……。

「……お姉ちゃんって、バカなの?」
「な……」
「まさかと思うけど、パパの代わりに自分が死ねばよかったなんて思ってるんじゃないよね?」
「そ、れは……ないけど……」

 今は、さすがにもう思っていない。もしもあのとき、お父さんの代わりに私が死んでいたとしてもきっとお母さんと椿は悲しんでいたと思うから。……でも、そう思えるようになったのは伊織さんと出会ってからだ。それまでの私は、ずっと……。
 でも、私の答えに椿はホッとした表情を浮かべていた。

「よかった。そう思ってる、なんて言ったらどうしてやろうかと思った」
「つ、椿……?」

 ニッコリと笑いながら、口では恐ろしいことを言っている椿に思わず苦笑いを浮かべると「それぐらい怒ってるってことだよ」と淡々と返された。
 でも、確かにそうだと思う。もしも逆の立場で、椿とお父さんが出かけていてお父さんが死んじゃって椿だけ生き残ったとしたら、私は椿を責めるだろうか。ううん、絶対に責めない。それどころか、お父さんの死は悲しいけれど、でも椿だけでも無事帰ってきてくれたことを喜ぶだろうし、椿のことを守ってくれたお父さんを誇りに思うだろう。
 ……つまり、そういうことなんだ。
 そんなことにも、あの当時の私は気付けなかった。なんて子どもだったんだろう。
 今、目の前にいる椿は、あの当時の私と同じ年のはずなのに、ずいぶんと大人びて見える。

「椿は、大人だね」
「……お姉ちゃんを見て育ったからね」
「え?」

 椿は、思いも寄らないことを言った。私を見て、育ったから?

「どういう……」
「お姉ちゃんがパパのことでずっと苦しんでいるの知ってた。ううん、ちっちゃい頃はわかんなくて、なんでお姉ちゃんはあんなに辛そうなんだろうって思ってた。でも、いろいろとわかるようになって、お姉ちゃんだって辛くて苦しいのに私の面倒をずっと見てくれて……お姉ちゃんみたいな人になりたいってそう思った」
「椿……」
「だからもし、お姉ちゃんの目に私が大人びて見えるんだとしたら、それは全部お姉ちゃんのおかげだよ。私、お姉ちゃんに感謝してるんだよ? だって、私ママのご飯よりお姉ちゃんのご飯を食べて大きくなったんだから」
「……ホントだ」

 私たちは顔を見合わせて笑った。笑って笑って、私の目からは涙がこぼれた。こんなふうに幸せな涙を流せるなんて、あの頃は思ってもみなかった。でも、今は……。

「じゃあ、お姉ちゃん。約束だよ? 一週間後、一緒にケーキ作ってね!」
「わかった。約束」

 私の返事に、椿は満足そうに部屋に戻る。私は……カレンダーにつけたもう一つの○をジッと見つめた。
 
 
 金曜日、私はお母さんに友達と遊んでくると言って朝早くに家を出た。いつもよりもずいぶんと早い時間だったので少し訝しがられたけれど……。

「夏休みだからちょっと遠くの海に行こうってなったの。だから集合時間が早いんだ」

 そう言った私の言葉を、お母さんは信じてくれているようだった。

「遅くなりすぎないようにね」
「わかってるって」
「そうね、大丈夫よね。……でも、くれぐれも気をつけてね」
「わかった」
 
 少し心配そうに微笑むお母さんとの間には、あの頃のような確執も嫌な空気も流れてはいなかった。

「いってきます」

 バタンとドアを閉めると、私は息を吐いた。
 お母さん、ごめん。でも私は、どうしても行きたかった。伊織さんと暮らした、あの島に。
 
「――菫」
「海里……」

 そんな私を待ち構えるかのようにして外壁の前に立っていたのは――海里だった。海里には行く日にちを言ってなかったのにどうして……。

「おばさんが、菫が海に行くって言ってるけど海里君も行くの? って聞いてきた」
「それで……」

 まさかお母さんが海里にそんなことを聞くなんて思ってもみなかった。こんなことなら友達なんて言わず適当な女の子の名前を言っておくべきだった。
 思わず黙り込んだ私の格好を見て、海里は顔を歪めると口を開いた。

「行くのか」
「……海里は、知ってたんだね」

 海里の質問には答えず、そう尋ねた私に海里は静かに頷いた。
 その態度に、私は思わずカッとなってしまう。
 
「どうして言ってくれなかったの!? もっと、もっと早く知ってれば……!」
「言いたくなかった。知ったら絶対にお前はあの島に行くだろ? 行かせたくなかったんだ!」

 海里は私の手首を掴む。まるで行かせまいとするかのように。どうしてそこまで、私を……。あのときのことをまだ後悔しているの? だとしたら……。
 
「海里には関係ないでしょ!」
「好きなんだ!」
「え……?」
「あの頃から、ずっと菫のことが好きだった! 好きだから、菫のことが好きだから、言えばまたお前がいなくなってしまうんじゃないかってずっと怖かった。思い出して欲しくなかった。ずっと忘れたままでいて欲しかった」

 そう言った海里は、泣きそうな顔をしていた。海里のそんな顔、初めて見る……。でも、だって、私は……。

「はな、して……」
「嫌だ。もう二度と、あんな想いはしたくない!」
「いた、い……」
「っ……」

 私の言葉に、海里は一瞬苦しそうな表情を浮かべて、それから手を離した。捕まれた腕は真っ赤になっていた。いつの間に、こんなに力が強くなっていたんだろう。私の知っている海里は、身体が弱くて、すぐに熱を出して、それから……。

「……ごめん」
「え……?」
「俺に、そんなこと言う資格、ないのにな」

 海里は寂しそうに笑った。その表情に、なぜか胸が苦しくなった。でも……。

「でも、やっぱり心配だから……一緒に行かせて欲しい」
「…………」

 首を振る私に海里は「そっか」と小さく呟いた。
 海里の気持ちは嬉しい。でも、私はどうしても一人で行きたかった。他の誰にも邪魔されたくなかった。あの島は、私にとって大事な大事な場所だから。

「……ちゃんと帰ってこいよ」
「……当たり前でしょ」
「待ってるからな」

 そう言った海里の言葉が、耳から離れなかった。


 高速バス乗り場まで一緒に行くと言って、バス停に向かう私の隣を海里は歩いた。最寄り駅からさらに大きなターミナル駅に移動して、そこから高速バスに乗る。
 どこまで着いてくる気なんだろう。
 駅で切符を買う私の隣で、海里も券売機を操作してターミナル駅までの切符を買っていた。

「…………」
「…………」

 ガタンゴトンと揺れる電車の中、無言のまま私と海里はボックス席に並んで座る。
 いったいどういうつもりなんだろう。
 そもそも、どうして海里が小豆島のことを知ってたんだろう。

「……ねえ、聞いてもいい?」
「質問による」
「……どうして、小豆島だって知ってたの?」
「それは……」

 口ごもりながら視線をそらすと、海里はポツリポツリと話し出した。

「5年前、こっちに戻ってきた菫の様子を見に病院に行ったときに、お前が寝言で言ってたんだ。「オリーブ園」って」
「そんなの、知らない……」
「そのあと高熱が出て、その辺の記憶がすっぽり飛んでしまってたみたいだったから、言う必要もないと思った」
「どうして……!」
「だって、あの人に繋がるキーワードなんて聞いたらお前、あの人のことをずっと忘れられないだろう?」

 海里は悲しそうに顔を歪めて言った。

「それでも、やっぱり気になって、図書館で調べたんだ。大正時代にオリーブを育ててたところを。そしたら、見つかった。小豆島が」

 図書館……。
 その単語に、私はハッとした。
 高校に上がって、部活を始めた私を海里は帰らずに待ってくれていた。「図書館で本を読んでたんだ」なんて言ってたけれど、あれはまさか……それを調べていたの……?

「どうして……?」
「どうしてだろな。わからないまま置いておいた方が絶対よかったのに。でも……行方不明になっていた間、菫がどこにいたのか、知りたかった。どんなところで、どんなふうに暮らしていたのかを」

 海里は自嘲するかのように笑った。そして持ってきていたペットボトルを開けると、私の方を向いた。

「いや、もしかしたら……心のどこかでわかっていたのかもしれないな。いつかお前が思い出す日が来るって。また俺の前から消えて、あの人を探しに行ってしまう日が来るって。だから、俺は……」
「海里……」
「あ、もうすぐ駅に着くみたいだぞ」

 海里の言葉に外を見ると、窓の向こうにホームが見えてだんだんと電車は速度を落とし始めていた。
 ホームに降り立つと、私は海里に連れられるようにして高速バス乗り場へと向かった。
 そして海里に見送られながら、私をのせたバスは動き出した。ここから四時間ほどで香川県に着く。そうしたらフェリーに乗り換えて……。

『好きだ』

 海里の言葉が、頭の中で蘇る。そのたび私は首を振って頭の中から海里の存在を追い出した。私が好きなのは、伊織さんだけ。伊織さんだけなんだから。
 バスが到着するまでまだまだかかる。朝も早かったし眠ってしまおう。そうすれば余計なことも考えなくて済む。私は目をギュッと閉じると、なんとかして眠りにつこうと、必死に羊の数を数えた。


 アナウンスが聞こえて目が覚めると、バスの窓の向こうに見える景色は見慣れないものだった。5分ほどしてバスは高松駅へと到着した。ここからフェリー乗り場へは5分ほど歩けばつくらしい。前もって調べた地図を出そうとするけれど、親切な看板のおかげで迷うことなくすんなりとフェリー乗り場に着いた。
 夏休みといえど、平日の、それもお昼過ぎということもあり、フェリー乗り場にお客さんはポツポツといるだけだった。
 そわそわと落ち着かない気持ちでフェリーの搭乗を済まし、35分ほど揺られると――私は小豆島へとたどり着いた。
 フェリーから島へと一歩足を踏み入れた瞬間、全身の血が沸き立つような高揚感を覚えた。

  ああ、ここだ。私は、ここに帰ってきたんだ。

 涙が出そうなほど嬉しく、そして苦しくなった。
 いても立ってもいられず、私はその場から駆け出した。所なんか覚えてないし、何ならあの頃の面影なんて一つもない。それでもここだと全身が訴えかけていた。走って走って、そして私はがたどり着いたのは、初めて伊織さんと会った、そしてあのハマグリを拾った海岸だった。
 無意識にポケットに手を入れる。そこには、あの日伊織さんにもらった貝殻の片割れがあった。ポケットから取り出してギュッと握りしめると、ほのかに熱を感じる。貝殻も、自分が元いた場所に帰ってきたことを感じているんだろうか。

「伊織、さん……」

 その名前を口にするのは、いったいいつぶりだろう。
 もう忘れなきゃいけないと思っていた。もう二度と会えないのだから、と。でも……。

「会いたい、伊織さん……。もう一度だけ、あなたに、会いたい」

 ぽたりと貝殻に涙が落ちる。いくつも落ちたしずくに太陽の光が当たり、まるで光り輝いているみたいに見えた。

「え……?」

 みたい、じゃない。光っている。そう気付いたときには――私の身体はまばゆい光に包まれていた。それはまるであの日見た、蛍の光のようだった。


 気が付くと、私は海岸に倒れていた。太陽が高いところを見ると、そんなに長い間倒れていたのではないらしい。あの光は、いったいなんだったのか……。
 身体を起こして辺りを見回すと――私は全身に鳥肌が立つのを感じた。本能が叫んでいる。ここが私の帰ってきたかった場所だと。大切なあの人のいる場所だと。
 私は立ち上がると、一目散に駆け出した。彼の、伊織さんの元へと続く道を。記憶が曖昧なことなんて問題にならなかった。だって、場所は身体が覚えているから。
 久しぶりの道のりを全力で走ると、見覚えのあるあの家が見えた。
 扉の前で立ち止まると、息を整えて、それから手を伸ばした。戸にかけた手が震える。緊張して、口から心臓が出てきてしまいそうだ。
 落ち着くために深く深呼吸をすると、私はそっと戸を開けた。

「……辰雄か?」

 居間にいる男の人が振り返ることなく声をかけた。後ろ姿でだってわかる。あれは……あれは……!

「どうかし……っ」
「伊織、さん……」
「菫……? まさか、そんな……」
「伊織さん……!」

 私は靴を脱ぐ間も惜しんで駆け寄ると、伊織さんに抱きついた。
 伊織さんだ。ずっと、ずっと会いたかった伊織さんが今ここにいる……!

「菫……」
「会いたかった……。ずっと、伊織さんに、会いたかった」

 もう離れたくない。ずっと、ずっとこの腕の中にいたい。
 ギュッと抱きつく私の身体を、伊織さんが優しく抱きしめた。


 どれぐらいの時間そうしていただろう。ようやく顔を上げた頃には、伊織さんの服は私の涙で冷たくなっていた。

「ご、ごめんなさい」
「ああ、いや。これぐらい大丈夫だよ」

 優しく微笑む伊織さんはあの頃と全然変わっていなくて、胸の奥があたたかくなるのを感じる。やっと帰ってこられた。この人の元に。もう二度と離れたくない。

『ちゃんと帰ってこいよ』

 頭の中で海里の言葉が反芻する。どうして今、海里のことを思い出すの。

「菫?」
「な、なんでもないです」
「そう? ……それにしても、もう一度こうやって君に会えるとは思ってなかったよ」
「会いたかった、ですか……?」
「……ええ」

 背中に回された手に力が込められる。
 伊織さんの腕の中は心地いい。この腕に、ずっと抱きしめられたかった。

「私も、会いたかったです。伊織さんに、ずっと会いたかった……」

『もう二度と会えないかと思った……』

 今度はお母さんの声が脳裏によぎる。
 このままこの時代にいるということは、またあんな想いをお母さんに――。

「っ……」
「菫?」
「あ……。いえ……」

 どうして、だろう。
 伊織さんに会えて、こんなにも嬉しいはずなのに、どうしてこんなにも苦しいの……。

「……菫は、ずいぶんと大きくなったね」
「だって、もう私19歳ですよ」
「そんなに……。どうりで綺麗になったはずだ」
「も、もう……!」

 そんなふうに言ってもらえるなんて思わなくて、顔が熱くなるのを感じる。お肌の手入れとか、面倒だけど頑張っててよかった。
 私はいつも口うるさく「お姉ちゃんはちゃんとしたら可愛いんだから頑張りなよ!」なんて言って、スキンケアやら化粧やらをするようにせっついてきていた椿に感謝した。元の時代に戻ったら、お礼しなきゃ――。

『お姉ちゃん。約束だよ? 一週間後、一緒にケーキ作ってね!』

 そうだ、椿との、約束……。
 守れなかったら、悲しむだろうな……。
 胸の奥がチクンと痛む。
 
「……ねえ、菫」
「え……?」
「君が僕の前から消えてからの話を聞かせてよ」
「私の、話……?」
「そう。聞きたいな」

 伊織さんがどうしてそんなことを言うのかわからなかった。
 でも、私は促されるままに伊織さんの元から消えて森で再び発見されてから今日までの5年間のことをぽつりぽつりと話し出した。

「伊織さんのところから消えて……元の時代に戻ってました」
「うん」
「伊織さんのそばにいられなくなったことが悲しくて、辛かった」

 悲しくて苦しくて、ずっと部屋に引きこもって泣いていた。そんな私をお母さんは何も言わずに見守ってくれた。椿はたまに部屋を覗きに来て「お姉ちゃん、一緒におやつ食べよっか」なんて言ってたっけ。

「でも、夏休みが終わって、学校が始まって……」

 一緒に行こう、と毎日海里が家まで来てくれた。あのとき海里がいなかったら、私は引きこもったまま外には出られなかったかもしれない。

「お母さんは私によく小言を言うようになったけど、きっと心配してくれてるんだって、そう思えるようになりました」
「そっか。お母さんと上手くいったんだね」
「はい……。結局、私が二人から責められてるって思いたかっただけなのかもしれないです。そう思ってくれた方が、二人に負い目を感じなくて楽だから……。子どもですよね」
「そんなことないよ。そう思うことで、きっと菫は菫の心を守ってたんだよ」

 伊織さんの言葉は、今でも私を安心させてくれる。このままこの人の隣で、こうやってずっと一緒にいられたらどれほど幸せだろう。
 でも……。
 私が戻らなかったら、きっとまた海里は自分を責めるんだろうな。自分がついて行かなかったから、また私がいなくなってしまったって。また自分を責めて、後悔するのだろう。
 お母さんはずっと私を探して泣くのだろうか。朝も夜も明けず、探し続けて……。お母さんに悲しい顔をさせるのは、辛い……。
 みんなを悲しませるのは、嫌だな……。

「…………」
「…………」

 黙り込んでしまった私の頭を、伊織さんは優しく撫でた。
 私も大人になった。でも、同じように伊織さんにも伊織さんの年月があったようで。改めて見ると、部屋の中には以前なかった家具が増えていた。

「今度は、伊織さんの話を聞かせてください」
「僕の?」
「はい。……あれから、私がいなくなってからどれぐらい経ったんですか?」
「……こっちでは、菫がいなくなってから10年が経ったよ」
「10年……」

 そんなに、経っていたなんて。どうりでいろいろなものが変わっているはずだ。

「だから……」
「え?」
「テレビがあるな、って思ってたんです」
「ああ。菫の時代には普通にあるのかな?」
「はい。こっちではまだそこまで普及してないんですか?」
「そうだな……。一家に一台、となるまでにはもうしばらくかかりそうだよ」

 何かを考えるように伊織さんは言うと、私の頬に手を伸ばした。

「え……」
「……10年は、長い」
「伊織さん?」
「この10年の間に、いろいろなことが変わった。時代も、そして人も。僕だって、変わらざるを得なかった。ずっと君のことだけを想って暮らせたら、どんなに幸せだったか……」
「……もしかして」

 伊織さんの言葉に、私は一つの可能性に思い至った。この部屋に漂うあたたかい空気はもしかして。

「伊織さん、結婚、したんです、か……?」

 私の言葉に、伊織さんは小さく微笑んだ。
 そっか、結婚、したんだ……。
 ショックだった。悲しかった。ショックで胸がえぐれてしまいそうだった……。でも、不思議と涙は出なかった。
 心のどこかで、10年も経っていれば仕方がないことだと思ってしまった。納得してしまった私がいた。
 そして、そんなふうに思う自分自身の感情に、ショックを受けた。
 ああ、私もあの頃とは同じではいられない。
 お互いに、変わってしまったんだ、と――。

「……今、幸せですか?」
「……ああ、幸せだよ」
「よかった」

 嬉しそうにはにかむ伊織さんの姿に――心からよかったと、そう思えた。
 伊織さんには伊織さんの、私には私のお互いが知らない年月がある。もしかしたら一つ何かが違えば交わることもあったかもしれない。でも、私たちはそうではない道を選んだ。自分たちで、選んだんだ。

「……お茶でも入れようか」

 伊織さんは私から目をそらすと、そう言って台所へと向かおうとした。そんな伊織さんを追いかけるようにして立ち上がった私は、ずっと手の中で握りしめていたものの存在を思い出した。そっと手のひらを開くと、そこにはあの貝殻の片割れが砕けることなくあった。
 私の視線を追いかけるようにして、伊織さんも貝殻に気付くと――顔をゆがませるようにして微笑んだ。

「それ、まだ持っててくれたんだね」
「……うん。私の宝物だから」
「そっか」

 この貝殻が、もう一度伊織さんに合わせてくれたの。
 なんてことは、言わない方がいいよね。伊織さんにとってこの貝殻はもう過去のもので、もしかしたら手元にすらないのかもしれないのだから。
 手の中で輝きを失っていたはずの貝殻が再び小さく光り出した。ああ、きっともうすぐ……。
 私は、再び――そして永遠の別れの時間が近づいていることに、なんとなく気付いた。

「伊織さん」

 お茶を入れるために台所に立つ彼の名前を呼ぶ。
 大好きで、大切で、ずっとそばにいたかった人の名前を。
 今も、心の奥で輝き続けてる優しい思い出を一緒に作ってくれた人の名前を。

「最後に一つだけ、お願いがあるんです」

 その言葉に、彼は振り返った。

「もう一度だけ、ギュッと抱きしめてもらえませんか」

 ぬくもりを忘れないために。愛した人がいたことを、夢や幻にしてしまわないために。

「…………」

 伊織さんは急須を台所に置くと、無言で私に近づく。そして――。

「菫」
「っ……」

 悲しげに微笑むと、ギュッと、私の身体を抱きしめた。私の言葉に、彼もまた別れが近づいていることを気付いたのかもしれない。

「幸せに、なって」

 痛いぐらいに私を抱きしめた腕が、小さく震えていることに気付く。
 でも、私は何も言うことなく頷くと、やがて光に包まれた。
 さようなら、大好きだった人。
 もう二度と会えないとしても、私はずっと、ずっと――。
「あの……」
「……僕、たぶんあなたに渡さなければいけないものがあるんです」
「え?」
「ついてきてもらえますか?」

 彼は泥だらけの手をズボンで拭うと、私の前に立って歩き出した。
 無言で歩くその人の後ろをついて歩く。どこに行くのか、尋ねようと思った。でも、私は彼の歩く道のりを知っていた。どこに繋がる道なのか。よく、知っていた。

「ちょっと待っていてください」

 そう言うと、彼はそこに建っていた一軒の家のドアを開けて中に入っていく。
 それは、あの頃私が伊織さんと過ごしていた家と同じ場所に建っている――なのに、それとは似ても似つかない、綺麗な二階建ての一軒家だった。
 ここはいったい誰の家なのだろう。ジロジロ見るのは失礼かもしれないけれど、と思いながら私はその家を見つめる。そして、見つけた。ポストのところに小さな表札がかかっているのを。そこには――。

「お待たせしました」
「あ……」

 伊織さんによく似た彼は、小さな小箱を持って家の中から出てきた。そして彼は、その箱を私に差し出した。

「あの、これ……」
「これを、いつかあなたが来たら渡すようにと言付かってました」
「私に……? いったい誰が……」
「あなたを、かつて愛していた人から」

 彼の言葉に、恐る恐る小箱を開く。すると中には、封筒と、それからあのハマグリの貝殻が入っていた。
 私の、砕けてしまったハマグリの片割れが。

「これを……私に……?」
「はい」

 中に入っていた封筒をそっと開くと、一枚の手紙が入っていた。

『菫へ』

 それは伊織さんから私に宛てた手紙だった。

『菫がこれを読んでいるのはいつの時代なのだろう。今、大正の時代が終わり昭和を迎えたけれど、君の言っていた令和というのがいったいいつのことなのか検討もつかない。もっと君にちゃんと聞いておくんだったな。
 君と過ごせた日々は長い人生の中でほんの一瞬のことだった。でも、その一瞬が僕にとってどれほど幸福だったか、君はきっと知らないだろう。君と過ごせて本当に幸せだった。
 だから菫、君も幸せになって。幸せに生きて』

 涙が溢れて止まらなかった。
 伊織さん、伊織さん、伊織さん……!

「どう、して……」

 思わず呟いた私に、伊織さんによく似た彼は口を開いた。
 
「いつかもしあなたが来たら、これを渡して欲しいって頼まれたんです」
「そんな……だって、来るかどうかもわかんないのに……」
「あなたならきっと来てくれるって、そう思ってたんじゃないでしょうか」
「っ……伊織、さん……」

 再び溢れてきた涙を必死に拭うと、私は目の前の彼に問いかけた。
 伊織さんの面影が残るこの人は、もしかして――。

「聞いても、いいですか?」
「はい」
「あなたは、伊織さんのお孫さん……? それともひ孫さん、ですか?」

 私の問いかけに、彼は小さく笑うと首を振った。

「僕は柚希《ゆずき》。伊織は――大伯父、というんですかね。僕の祖父は、伊織の兄の子どもでした。伊織が亡くなったあと、あのオリーブ園を守ってきました」
「お兄さんの……?」

 伊織さんのお兄さんということは、地元で家を継いだというあの……? でも、そのひ孫さんがどうして小豆島に? それに、どうしてお兄さんの子どもがオリーブ園を守るの? だって、あのとき伊織さんは私に結婚したって――。

「本当にそう言いましたか?」
「言いまし……た」

 そう、たしかに伊織さんは私が「結婚したんですか?」と問いかけたときに、結婚したって……。
 ――違う。
 あのとき伊織さんは、「結婚したんですか?」って尋ねた私に、優しく微笑んだんだ。それを私は肯定だと受け止めたけれど、でも、もし違っていたのだとしたら? 私の、あの時代への未練を残さないためにあえて何も言わなかったのだとしたら……?

「手紙、続き読んでやってください。そこに、伊織の本当の気持ちが書かれてます」

 柚希君のその言葉に促されるようにして、私は再び手紙へと視線を落とした。

『菫。君のことだから、僕に遠慮していつまで経っても一人でいるんだろう?
 僕の幸せは君が幸せになってくれることなんだ。だから、僕への思いはこの島において行きなさい。そして、君を思ってくれている人と幸せになるんだ。
 大人になった君は綺麗で、惚れ直したよ』

「そん、な……」
「伊織は生涯を独身で過ごしたと聞いています」
「だって……! あのとき、伊織さんが言ったから……! だから、私……!」

 柚希君は寂しそうに微笑む。
 その表情は、伊織さんが最後に見せた顔によく似ていた。

「伊織さんは……私を元の時代に帰したかったの……?」
「そうかも、しれません」
「私が、心の奥底では、そう願っていたから……? 伊織さんと一緒にいることよりも、お母さんや椿、それに……海里の元へと帰りたいって、そう思っていたから……だから……」

 だからあのとき、伊織さんは私のことを想って結婚したなんて嘘をついたんだ。私が何の未練もなく、あの時代を去れるように。
 私の、ために……。
 
「それほどまでに、あなたのことを愛していたんでしょうね」
「っ……! い、おり、さん……!」

 涙が溢れてくる。どんどん溢れた涙は頬を伝い、伊織さんからの手紙へと流れ落ちる。
 涙で文字がにじんだ、そう思った瞬間――まるで涙に吸い込まれていくように手紙から文字が消えていく。もう役目は終わったのだと言わんばかりに。もうこれは私の元には必要ないのだと、そう言うかのように。


 ひとしきり泣いたあと、私は真っ白になってしまった手紙をそっと折りたたんでポケットに入れた。伊織さんからのメッセージはもう何も残っていないけれど、でも伊織さんの残してくれた優しさが、ぬくもりが、その手紙に込められている気がして。

「聞いても、いいですか?」
「はい」
「伊織さんは、その、私がいなくなったあと……」
「本州には戻らず、この島で晩年を過ごしたと聞いています。結婚をせず子どもがいなかった伊織の世話をするために僕の祖父がこの島に移り住みました。その縁で、オリーブ園の方も面倒を見ることになったようです」
「そう、ですか」

 伊織さんは――。

「幸せそうだったと言ってました」
「え?」

 肝心なことを聞けずにいた私に、柚希君は伊織さんに似た顔で優しく言った。

「好きな人と離ればなれになってしまった伊織は辛くなかったのかと、祖父に聞いたことがありました。そのとき祖父は伊織は最後の瞬間まで幸せそうだったと、そう言っていました」
「どう、して……」
「「好きな人が今もどこかで幸せに暮らしていると思うとそれだけで幸せだ」と」

 ああ、そんなことを言われたら、幸せにならないわけにいかないじゃない。
 それが、伊織さんの幸せなら、余計に。

「……あの、さっき伊織さんはこの島で晩年を過ごしたと言ってましたよね。じゃあ、もしかして伊織さんのお墓って……」
「はい、この島にあります」
「お墓参り、行ってもいいですか?」
「喜ぶと思います」

 柚希君の後ろをついて、私は島を歩く。小高い山の山頂の少し開けたところにそれはあった。小さな古びたお墓。でも、綺麗に手入れされているところを見ると、きっと柚希君や柚希君のご両親が度々参ってくれているんだろう。
 手を合わせて顔を上げると、風が吹き抜けてくるのに気付いた。そこには思いも寄らないものがあった。

「あそこって……」

 お墓の後ろに回って地上を見下ろすと――そこには海が、そして海岸が広がっていた。あれは、あの海岸は、私が初めて伊織さんと出会ったあの海岸……!

「どう、して……」
「ここにお墓を建てて欲しいと、伊織から言われたらしいです。地元に戻れば大きな墓があるのに、どうしてもここに建てて欲しいと」
「っ……伊織、さん」

 伊織さんは、ここからずっと、私を見守ってくれていた。

「っ……」

 私は伊織さんのお墓の隣に小さな穴を掘った。そこに、バラバラに砕けてしまったあの貝殻と、それから伊織さんが残してくれた貝殻を入れる。
 ようやく、伊織さんの元に帰って来られたよ。
 遅くなってごめんね。
 土をかけて穴を埋めてギュッと固めるように手を重ねると、なぜだか冷たいはずの土があたたかく感じた。


 帰りのフェリーの時間が来て、私はフェリー乗り場まで案内してくれた柚希君にお礼を言ってフェリーに乗り込む。タラップに足をかけた私を、後ろから柚希君が呼び止めた。

「あの……!」
「え?」
「その、またお墓参りに来てやってください。きっとあなたが来てくれると、伊織も嬉しいと思うから」
「……ありがとう」

 小さく微笑むと、私はもう振り返らずフェリーに乗り込んだ。
 柚希君はわかっていたんじゃないかと思う。もう二度と、私がこの島には来ないだろうということを。
 この島に来ると、私の気持ちはあの時代に引き寄せられてしまう。今の時代を、今の私を生きていかなければいけないのに、どうしても伊織さんと生きたあの三ヶ月を思い出してしまう。
 でも、きっとそれを伊織さんは望んでいない。
 あの人は私に――私の人生を幸せに生きて欲しいと、そう願っているはずだから。

 でも……。

「っ……」

 大きな音がして、フェリーが港から出港した。
 少しずつ、伊織さんとともに過ごしたあの島から離れていく。

「今、だけ……」

 頬を伝う涙が、ぽたりぽたりと膝に落ちる。
 すぐに泣き止むから。
 泣き止んだら、ちゃんと前を向いて歩き出すから。
 だから、今だけは……。

「伊織、さ、ん……」

 大好きでした。
 あなたの優しさが、不器用さが、あたたかさが、あなたの全てが、本当の本当に大好きでした。
 船が港に着くというアナウンスが聞こえて、私は涙を拭った。
 さあ、帰ろう。私の、私が住む世界に。

「……え?」

 港に降り立った私の目に映ったのは、そこにいるはずのない人の姿だった。
「海里……?」
「よう」
「ど、どうして? なんでここに……」
「……待ってるって言っただろ」

 ぶっきらぼうに言う海里に「ごめんね」と言うと、「気にすんな」と言われた。
 その言葉が妙に優しくて、おかしかった。

「何、笑ってんだよ」
「笑ってないよ」
「嘘つけ。……まあ、いいや。ちゃんと帰ってきたし」
「……うん」

 私たちは駅へと向かうと、帰りの高速バスが来るまで、ベンチに座って時間を潰すことにした。

「ほい」
「ありがとう」

 すぐそこの自販機で買った紅茶を海里は私に手渡すと、私の隣に座る。そして、ぽつりと話し始めた。

「俺、さ……ずっと後悔してたんだ」
「……うん」
「あの日、俺がキャンプにお前を誘わなければあんなことにならなかったんじゃないかって」
「そんなこと……!」
「俺、あの日本当はお前に告白するつもりだったんだ」
「え……?」

 私は思わず顔を上げる。そこには照れくさそうに笑う海里の姿があった。

「やっぱり気付いてなかったか」
「だ、だって……そんな……嘘」
「嘘なんかつかねえよ。キャンプ場に蛍の伝説があるって聞いて、そこで菫に告白しよう。小さい頃からずっと好きだったって。そう言おうって思ってたのに……お前、いなくなっちまうんだもん。俺があんなこと考えなきゃ、お前があのキャンプ場に行くこともなかったのにってずっと後悔してった。告白なんてしようと思わなきゃよかった。俺のせいで、って……」

 知らなかった……。あの頃の海里がそんなふうに私のことを海里が思っていたなんて……。だから、海里は私が戻ってきてからずっと私のそばにいたんだ。自分が誘ったせいで私がいなくなるきっかけを作ってしまったとそう思って……。

「海里のせいなんかじゃ……」
「俺のせいだよ! だから……今度は菫のとこを守るんだって、そう思ってたのに……。結局、何もできなかった」
「海里……」

 悲しそうに笑う海里に胸が苦しくなる。私は、結局あの頃から何の進歩もしていない。自分のことしか考えてなくて、人のことを傷つけていることに気付いてすらいなかった。

「ごめん……」
「なんで謝るんだよ。謝るのは俺の方で……」
「そんなことないよ。……ずっとそばにいてくれてありがとう」

 そっと微笑むと、海里も微笑み返してくれる。
 そこにいたのは、あの頃の幼さの残る幼なじみじゃなくて、大人びた表情を浮かべる一人の男の人だった。
 海里の横顔に、胸の奥があたたかくなるのを感じる。いつの間にこんな表情をするようになったのだろう。隣にいるようで、私は海里のことなんて全く見ていなかったのかもしれない。
 この胸のあたたかさの正体を、私はまだ知らない。それは、幼い恋のときめきとも伊織さんに向けたものとも違う。でも、きっと私にとって凄く大切なもので――。

「帰ろうか」
「うん」

 もうすぐバスが来るというアナウンスが聞こえて、私たちはベンチを立った。
 バスがターミナルに入ってくるのが見える。

「ねえ、海里」
「ん?」
「……小豆島であったこと、過ごした日々のこと、聞いてくれる?」
「ああ、聞くよ。何度でも、いくらでも」

 伸びた影が重なる。
 その影を隠すようにしてバスが止まった。
 さあ、帰ろう。
 私たちの住む街に。
 私たちの、住む時代に。

「菫」

 誰かに呼ばれた気がした。でも、もう私は振り返らない。
 あなたのいない明日を、私は幸せに生きる。

「さようなら」

 小さく呟いた後ろで、バスのドアが閉まった。
 その瞬間、なぜか私の瞳から一筋、涙がこぼれ落ちた。
 あたたかい、あたたかい涙が。

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