翌週、仕事も落ち着きすっかり元に戻った伊織さんと一緒にお昼を食べて、夕方家に帰ってくるまでに晩ご飯を作るという生活に戻っていた。
 その日は、晴れているはずなのにずいぶんと風が強く、いったいどうしたのかと不思議に思っていた。

「ただいま」
「おかえりなさい」

 伊織さんの声にハッとする。気付くと、辺りは薄暗くなりすっかり夕方になっていた。私は慌てて立ち上がると、夕食をちゃぶ台に並べ始めた。今日は鯖の味噌煮と野菜たっぷりの豚汁、それからきんぴらゴボウだ。
 いただきますと二人で手を合わせて、私はふと時計を見て首を傾げた。伊織さんが帰ってきていたのに気付かなかったのは私が考え事をしていたせいもあるけれど、そもそも普段よりも帰ってくる時間が早い。いつもは5時を回ってから帰ってくるのに、今日はまだ4時半だ。

「今日って何かあったんですか?」
「ん? どうして?」
「いつもより帰ってくるのが早かったので」
「ああ。島にね、台風が近づいてるんだ」
「台風……」

 そう言われると、確かに先ほどよりも風の音が酷くなっている気がする。台風……。元の時代でも年に1度か2度は直撃して近くの川が氾濫することもあったっけ。

「直撃はしないようだけれど、ここは島だからね。用心のためにということで今日は早めに切り上げたんだ」
「そうだったんですね」

 伊織さんは窓の向こうを心配そうに見つめている。心配そうな面持ちに、もしかしてと尋ねた。

「オリーブですか?」
「……よくわかったね」

 尋ねた私を、伊織さんは驚いたような表情で振り返った。

「暴風対策はしてきたんだけど、心配でね」
「そうですよね、大事に育ててますもんね」
「ああ。あれが採れないと一緒に働いてくれている人たちにも給料を支払うことができない。それに……」
「それに?」

 思わずそう聞き返した私に、伊織さんは少しだけ寂しそうな表情を浮かべた。聞いてはいけないことだった、そう思ったところでもう遅かった。
 伊織さんはお箸を多くと、小さく息を吐いた。

「あ、あの……」
「いや、そうだね……。僕があのオリーブ園で働くためにこの島に来たことは知ってるよね」
「はい」

 いつか聞いた伊織さんの話を思い出す。元々はこの島に住んでいなくて、お父さんとお兄さんと本州に住んでいたと、そう言っていた。

「僕はね、家から逃げてきたんだ」
「え……?」
「菫に偉そうなことを言ったのに情けないよね。家には兄と父と――それから継母と幼い弟がいるんだ。数年前に父が後妻をもらってね。ああ、でも継母が酷い人だとかそういうことはなくて、兄のことも僕のことも尊重してくれて、本当にいい人なんだ」

 そう言いながらも、伊織さんの表情はどこか辛そうで、私は――伊織さんの手を握りしめた。
 私の行動に一瞬驚いたような表情を浮かべながらも、伊織さんがその手を振り払うことはなかった。

「ただ継母がそこにいると、まるで本当の母親の存在をみんなが忘れてしまうようなそんな気がして……。そんなときに国が先行してやっていたオリーブ園の管理の仕事を任されてみないかという話をもらってね。逃げるようにしてこの島にやってきたってわけだ」

 情けないだろうと言うように、伊織さんは笑う。でも私はそんなふうに思えなくて必死に首を振った。

「情けなくなんて、ないです。だって、私だって、お母さんが誰かと再婚して代わりのお父さんができたりなんかしたら絶対嫌だもん。私のお父さんは一人だけだし、その居場所を奪わないで欲しいってそう思う!」
「……菫は優しい子だね」

 いつの間にか溢れていた涙を、伊織さんが私に握りしめられた手とは反対の手で優しく拭ってくれる。
 そして伊織さんは「ありがとう」と呟いた。

「何もかもから逃げたような気になっていた僕だけど、こっちに来てオリーブを育てながらいろんな人に触れて、少しずつだけど気持ちが楽になるのを感じたんだ。だから、あのオリーブ園は僕にとって大切な場所なんだ」
「そうだったんですね……」
「…………」
「伊織さん?」

 考え込むように黙ってしまった伊織さんに、どうしたのかと尋ねると小さく、そして優しく微笑んだ。
 
「こんな話、今まで誰にも話したことなかったのに、どうして菫には話してしまったんだろう」
「っ……」
「不思議だね」

 そう言う伊織さんの口調は優しくてあたたかくて、私は心臓のドキドキがどんどん早くなるのを感じた。他の誰にも話したことない話を私に……。それは私が、伊織さんにとってほんの少しでも――特別な存在だと、そううぬぼれてしまっても、いいですか……?
 尋ねることのできない質問が、私の心の中で浮かんでは消える。嫌われてはいないと思うけれど、でも……。

「雨が酷くなってきた」
「え……?」

 いつの間に降り出していたのか、窓の外では大粒の雨がたたきつけるように降っていた。この時代に来てからこんなに雨が降るのは初めてでなんだか少し怖い。風で家が吹き飛んだりしないだろうか……。雨漏りしたりとか……。
 私がそんな心配をしていると、伊織さんは自分の部屋に戻りジャケットを持ってきた。

「い、伊織さん? どこに行く気なんですか?」
「……少しオリーブ園の様子を見てくるよ」
「危ないですよ! 私の元いた時代でも、台風の日に外を見に行って川に流されて亡くなる方だっているんですから……! こんな雨と風が酷い中、外に出ちゃだめですって!」
「心配してくれてありがとう。大丈夫、様子を見たらすぐ帰ってくるから」

 けれど、どれだけ言っても伊織さんが行くのをやめてくれることはなく……。私の頭をポンポンとすると、伊織さんは傘を差して玄関の戸を開けた。閉めているときよりも雨の音が大きく聞こえて不安になる。

「先に休んでいてもいいからね」
「……気をつけてくださいね。私、起きて待ってますから、絶対に帰ってきてくださいね」
「……わかったよ。いってきます」

 そう言って伊織さんは大雨の中へと飛び出した。あまりの雨の酷さに、走って行った伊織さんの姿はすぐに見えなくなってしまう。
 伊織さん、大丈夫かな……。
 私は、一人っきりの部屋の中で、先ほど触れた伊織さんの手のぬくもりを思い出しながら伊織さんが戻ってくるのを待ち続けた。


 伊織さんが戻ってきたのは、それから2時間以上経ってからだった。傘はもう役に立たなかったのか、全身ずぶ濡れになった伊織さんは青い顔をしていた。走ったせいか、それともオリーブ園で作業をしていたときについたのか……伊織さんのジャケットは泥で汚れていた。

「だ、大丈夫ですか!?」
「ああ。オリーブは無事だったよ。倒れかけていたのにも――」
「そうじゃなくて! 伊織さんは大丈夫ですか!? 顔色悪いですよ!」
「だいじょう……ゲホッゲホッ!」

 激しく咳き込むと、伊織さんはその場に座り込んでしまう。ぐっしょりと濡れた服を脱がさなきゃ、そう思うのに手が震える。せめてタオルで拭くぐらい……。そう思って乾いたタオルを持ってくる。けれど、伊織さんに触れることができない。こんな情けないことってない。目の前で、好きな人がこんな姿になっているのに、私は……!

「っ……」
「だい、じょうぶ……。だか、ら、触ら、ないで……」
「ごめ……なさ……」

 私の手を優しく払いのけると、伊織さんは上着を脱いで自分の部屋へと向かう。カタカタと震える手をギュッと握りしめる。情けない。伊織さんがあんなに苦しそうだというのに、どうして私は……。たったあれだけの泥、どうってことないじゃない。それよりも大事なことがあるじゃない。なのに、なのに……!
 自分のダメさ加減に涙が出る。伊織さんのことが好きだのなんだの言いながら、結局は自分が一番可愛いんじゃない。こんなときでも自分のことばっかり……!

「っ……菫」
「い、伊織さん。大丈夫ですか?」
「申し訳ないけど、具合がよくないので僕は先に休むよ。菫も早めに、休むように……」
「はい……」

 青い顔で伊織さんは力なく微笑むと、部屋へと戻っていった。私は、その背中を見送りながら、少しでも早く具合がよくなりますようにと祈ることしかできなかった。


 翌朝、私は相変わらず酷い雨の音で目が覚めた。テレビがないのでわからないけれど、まだ台風は過ぎ去っていないようだった。
 時計の針は7時を刺している。伊織さんはまだ起きてこないけれど大丈夫なのだろうか……。

「伊織さん……。あの……」

 そっと扉を開けて部屋を覗くと、真っ暗な中で眠る伊織さんの姿があった。起こさないように部屋の中に入り、伊織さんのおでこに触れる。

「あつっ……」

 伊織さんの具合はよくなるどころか、おでこは燃えるように熱かった。悪化してしまっているんじゃないだろうか……。
 こういうとき、この時代ではどうすればいいんだろう。家に薬はあるのだろうか。もしくは島に病院のようなところ……。ううん、この台風じゃあお医者さんを呼びに行くことも来てもらうこともできないかも……。

「どうしたら……」
「菫……?」
「あ、すみません。勝手に入っちゃって……」

 私の声が聞こえたのか、伊織さんが目を開けた。身体を起こそうとするものの苦しそうに肩で息をしているのが見える。やっぱり酷くなってるんだ……。
 
「いえ……。それより、今は何時ですか……? 雨はどうなりました……?」
「今は7時になったところです。雨は、相変わらず凄く降ってて……」
「そうですか……」

 そう言うと、伊織さんはふらつきながらも布団から起き上がると、かけてある上着を手に取った。

「な、何してるんですか!? まさか仕事に……?」
「いや、仕事は朝の時点で雨が降っていたら休みだと伝えてあるから……」
「なら、どこに行く気なんですか……! まだ寝てなきゃダメですよ!」
「みんなを、休みにしているからこそ、僕が行かなきゃ……。誰もオリーブの様子を見る人間がいないんだ。倒れているものがないか、確認しに行かなきゃっ……ゲホッゲホッ!」
「ダメです!」

 苦しそうに咳き込む伊織さんの背中をさすると、私はそのまま布団の方へと押し戻すようにした。こんな具合の悪い中で、外に出るなんてそんなのダメに決まっている。

「今は安静にしてゆっくり休んでください。そんな状態じゃあ、台風が去ってもオリーブ園にはいけませんよ!」
「ゲホッ……ゲホッ……」
「お願いですから……」
「わか、った……」

 そう言い終わるのが早いか、伊織さんは再び目を閉じると眠りについた。
 しばらく伊織さんの様子を見ていたけれど起きることなく眠っていたので、私は台所へと向かった。目が覚めたときにおかゆぐらいなら食べられるかもしれない。そう思い、お米を研ぐと小さな土鍋にお米と水を入れて火にかけた。コンロがないなんて不便だなぁって思っていたけれど、なんだかんだで使えば慣れてしまう。今ではかまどの火加減だってお手の物だ。

「さて……」

 梅干しを二つ壺から取り出すと、中の種を除く。それをすりこぎで潰すとお皿にのせた。風邪のときはおかゆに梅干しが一番いい。

「食欲がなくても酸っぱいものなら食べられるもんね。……あっ」
 
 一人呟きながら――私は小さな頃、熱を出すとこうやってお母さんがおかゆを作ってくれたことを思い出した。何も食べたくないって言う私にお母さんが「梅干しのおかゆなら食べられるわ。食欲がなくても酸っぱいものなら食べられるんだから」なんて言ってたことも。
 じんわりと胸の奥があたたかくなる。こうやってお母さんのことを嫌な気持ちにも悲しくもならずに思い出せるようになったのは、伊織さんのおかげだ。

「――こんなもんかな」

 冷蔵庫に入れておいた昆布の佃煮も小皿に出して梅干しの隣に並べると、私はかまどの火を止めた。蓋を開けると優しい匂いが辺りに漂う。美味しそうにできたおかゆを確認すると、私はもう一度蓋を閉めた。
 あとは伊織さんが起きてきたら食べてもらえばいいのだけれど……。
 私は相変わらずたたきつけるような音を立てている雨が気になって、窓から外を見た。ずいぶんと風は弱まってきたけれど……。
 伊織さんが大事にしているオリーブ園……。もしも明日の朝、起きてから見に行って倒れてたり折れてたりしたら、伊織さんは自分を責めるんだろうな……。無理してでもいけばよかった。そうしたらって……。
 私は、もう一度外を見て、それから小さく頷くと、決心を固めた。

 準備をしてからそっと伊織さんの部屋の扉を開けると、さっきよりもずいぶんと呼吸が楽そうだった。おでこに汗をかいていたので手で持っていたタオルでそっと拭う。
 よく眠ってる……。これなら当分は起きないよね……。もうちょっとだけ、起きないでね。
 入ったときと同じように静かに伊織さんの部屋から出ると、私は持ったままだったタオルとそれから玄関に置いてあった伊織さんの傘を手に取った。
 本当は怖いけど……でも、私にしかできないことだから……!
 ギュッと手のひらを握りしめると、私は雨の中へと飛び出した。
 

 外は横殴りの雨なだけあって、誰一人家から出ている人はいない。どこの家も雨戸が閉まっていて、みんな家の中で台風が過ぎ去るのを待っているのだと思う。
 おかげでオリーブ園までの道中、島の人に会うことはなかった。
 急ぎ足で歩くけれど、足下がぐじゃぐじゃで歩きにくい。走ると、泥がはねて気持ち悪い。でも、気にしていたら前に進むことができない!
 私はなるべく足下を見ないようにして、オリーブ園へと急いだ。

「ついた……」

 ついこの間、オリーブ園へと向かおうとして迷子になったおかげもあって、今度は迷うことなくすんなりとオリーブ園へとたどり着いた。ただでさえ雨で視界が悪い中、これで道までわからず迷子にでもなっていたらと思うと、自分の無謀さに寒気がする。
 でも、無事につけたから……いいよね。
 私はそっとオリーブ園の中へと入ると辺りを見回した。昨日の夜、伊織さんが対処しただけあってオリーブ園はほとんど無事だった。ただ……。

「これ、どうしよう……」

 柵に固定されている木々の向こうに、まだ育っている途中なのだろうか、小さな木が風にあおられて根こそぎ抜けているのが見えた。このままでは風にあおられて飛んでいってしまうかもしれない。
 どうすれば……。

「っ……」

 なんとかしなくちゃと、木の枝の部分を持って起こそうとするけれど、思いっきり力を入れると折れてしまいそうだ。幹の部分を持てばいい。そう思うけれど、そこは雨と土でドロドロになっていた。
 これを、触る……?
 ぞわっと鳥肌が立つのを感じる。

 嫌だ、絶対に触りたくない!

 そう思う。そう思うのに……。

『あのオリーブ園は僕にとって大切な場所なんだ』

 そう言った伊織さんの顔が、声が思い出されて――。

「っ~~!」

 私は覚悟を決めた。
 とにかく木を起こそう。倒れた木の前に立つと幹を両手で抱える。そしてそれを引っ張りあげようと思いっきり力を込めた。服が、両手が、そして顔が泥で汚れる。土の匂いが、感触が気持ち悪い。
 その一瞬で、あの日の泥の中に引っ張り込まれそうになった。でも、そんなことかまうもんか。それよりも、伊織さんの大事な場所を守るんだ。
 
「っ……! よいっしょっ……と!」

 なんとか木を起こすとぽっかりと空いた、おそらくここに植えられていたのだろうという場所に起こした木を入れる。そして周りの土を手で寄せてくると根っこの周りに被せて埋めた。

「はあ……はあ……」
 
 その木を他の木と同じように、柵につけられたロープで結びつける。これで本当に大丈夫、なのだろうか。
 他の大きな木はロープで固定すれば大丈夫かもしれない。でも、この細い木はこれだとまた倒れてしまいそうで……。

「そういえば……」

 私はキャンプ場で海里が作っていた支柱を思い出す。支柱を周りに立てることで風が吹いても倒れにくくなると言っていた。あれなら……。
 私はそこら中に散らばる木の枝を三本拾った。台風の風に乗ってここまで飛んできたらしいそれはある程度の太さと長さがある。それらを×を作るように先ほど起こした木にあて、もう一本を交差しているところにあてるように置いた。あとはクロスしているところを結ぶことで支柱になるはずだ。 

「あっ……」

 雨で手が濡れて上手く結べない。ロープはぐちゃぐちゃに汚れた地面に落ちていく。私はそれを、ためらいなく拾い上げた。そしてもう一度支柱となる枝に巻き付けるとギュッと縛り付けた。
 これで多分大丈夫……。ドロドロに汚れた手を持ってきていたタオルで拭うと伊織さんの待つ家へと歩き出した。まだ風は強いけれど雨はずいぶんとマシになった。きっともうすぐ台風は過ぎ去る。そんな予感を胸に抱きながら。


 そっと家の戸を開けると、中は静かだった。まだ伊織さんは眠っているようだ。ホッとして、それからびしょ濡れになった服をどうにかしないとととりあえず水滴をタオルで拭いていると、ガタンと音がした。

「菫……?」
「あ、ごめんなさい。起こしてしまいました?」
「いえ。それよりどこに行って……。全身びしょ濡れじゃないか」
「あ……。ちょっと外の様子を見に行ってました」

 へへっと笑いながらごまかす私を、伊織さんは訝しげに見つめる。そしてため息をつくと、新しいタオルを持ってきてくれて私の頭を包み優しく拭いてくれた。

「こんな雨の中、外に出ちゃいけないよ」
「すみません」
「……ん? これ……」
「あっ」

 伊織さんは私の指先についた土汚れに眉をひそめた。慌てて手を後ろに回して隠すと、もう一度へへっと笑った。

「ちょっと手が汚れたので洗ってきますね」
「菫……?」
「あ、おかゆ作ってるので食べられそうだったら上に一枚羽織って居間に戻ってきてください」
「……わかったよ」

 私の言葉に、伊織さんは小さく微笑むと自分の部屋へと戻っていく。私は慌てて手洗いへと向かうと、指先にこびりついた泥を水で洗い流した。泥が落ちて綺麗になっていくのを見つめながら、胸の奥にあった重いあのトラウマも洗い流されていくような、そんな気がしていた。
 手を洗い終わって居間に戻ると、ちょうどカーディガンのようなものを羽織った伊織さんが部屋から出てきた。
 私は土鍋を開けておかゆの冷め具合を確認する。作ってから一時間ほど経つけれど、そこまで冷めてはいなくてむしろ食べやすい温度になっていた。
 それをお茶碗によそうと、用意しておいた梅干しと昆布の佃煮と一緒に伊織さんに出した。

「美味しそうだ……」
「食欲、ありますか?」
「多分。いや、さっきまでなかったんだけど、なんだだろう。この梅干しを見て急にお腹が空いてきた気がするよ」
「ならよかったです」

 まだ少し顔色は悪かったけれど、でも食欲が出てきたならひと安心だ。ホッとしたら私までお腹がすいてきた。

「私もご飯食べようかな。……あ、」
「どうかしたのかい?」
「お粥以外作るの忘れてました」

 へへっと笑うと私は自分の分もおかゆをよそう。久しぶりに食べたおかゆはとっても優しくて、お母さんのお粥の味がした。
 

 翌日、私は伊織さんよりも早く起きると朝ご飯の支度に取りかかった。風邪は昨日の夜にはずいぶんとマシになっていたけれど、今日は……。

「おはよう、菫」
「伊織さん! おはようございます」

 そんなことを考えていると、伊織さんが部屋の戸を開けて顔を出した。昨日に比べると顔色もよくなっていた。伊織さんはいつもの作業着を着ていた。
 
「お仕事行かれるんですか?」
「うん、今日はみんなも出てくるだろうからね」

 窓から外を見た伊織さんにつられるようにして視線をそちらに向けると、昨日までの台風が嘘のように晴れ渡っていた。今日はいい天気になりそうだ。

「もうすぐご飯の準備できますので」
「ゆっくりで大丈夫だよ」

 私はアサリのお味噌汁をお椀に、そしてご飯をお茶碗によそった。今日のおかずは卵焼きだ。私はだし巻き、伊織さんには甘い卵焼きを作った。昔から卵焼きはだし巻きの方が好きなんだけど、初めて伊織さんにだし巻きを出したときに微妙な反応をされたのだ。どうやら伊織さんは甘めの方が好きなんだなとわかってからは二種類作るようにした。
 気にしなくていいと伊織さんは言っていたけれど、どうせなら好きなのを食べてほしいし喜んでほしいから。
 それにしても……。年上の男の人にこんなことを思うのは間違っているのかもしれないけれど、甘い方が好きだなんて……なんだか、可愛い。

「ふふっ」
「菫? どうかした?」
「あ、いえ。卵焼きどうぞ」
「ありがとう」

 私から卵焼きののったお皿を受け取りながら、伊織さんは首を傾げる。そんな仕草すら可愛くて、もう一度笑ってしまいそうになるのをこらえるのに必死だった。
 二人で一緒にご飯を食べて、私は片付けを、伊織さんはお仕事に出かけようと。そのとき――外から声が聞こえた気がした。
 気のせいかな? そう思ったとき、もう一度大きな声が聞こえた。

「伊織ー!」

 どうやら声の主は、伊織さんのお知り合いのようだった。
 思わず伊織さんの方を向くと、そこには苦笑いを浮かべる伊織さんの姿があった。

「あの……」
「ああ、ごめん。多分、知り合いだと思う」

 ジャケットを羽織ろうとした手を止めて、伊織さんは玄関に降りると戸を開けた。
 そこには、伊織さんと同い年ぐらいだろうか。こんがりと焼けた肌に短髪が似合う男の人が立っていた。

「やっぱり辰雄か」
「よお、伊織」
「こんな時間にどうした?」
「俺はな! お前に一言、言ってやろうと思って一度出勤したにもかかわらず、お前のところに来たんだ!」
「はあ……そうかい。で、どうしたんだ?」
「どうしたもこうしたもねえよ!」

 辰雄さん、という人の勢いに押されるように伊織さんは一歩後ろに下がる。すると辰雄さんは、すかさず家の中へと一歩踏み込んできた。

「お前、台風の日は危ないから仕事は休みだって言っときながら、自分は様子を見に行ってるってどういうことだよ!」
「そのことか……。僕はあそこの管理を任されてるから当然だよ」
「だからって、あんな……」

 どうやら辰雄さんは、伊織さんを心配して怒ってくれているようだった。たしかに、台風の来ている日の夜に、ああやってオリーブを見に行くなんて絶対よくない。無事に帰ってこられたからよかったものの、そのせいで風邪だってひいちゃったんだし。
 ここはもっと、辰雄さんに言ってもらわなきゃ!
 私は心の中で目の前の、辰雄さんという人にエールを送った。

「あー、もう。お前は言っても聞かないやつだってわかってるけど、少しぐらい相談しろよな」
「ああ、次はそうするよ」
「……それにしても、支柱を立てるなんてよく思いついたな。やっぱりお前はすげえよ!」
「支柱?」

 その単語に、私はドキッとなった。まさか、支柱って……。
 思いも寄らない単語に冷や汗をかく私をよそに、辰雄さんは話を続ける。

「伊織が作ってくれた支柱のおかげで、一番若いあの木も飛ばされることも折れることもなかったよ。でもあんな方法があるなら他の木にもしとけばよかったのに」
「ま、待って。なんのことだ?」
「は? だから、俺らが帰ったあとに支柱を作ってくれたんだろ?」
「僕はそんなこと――。……まさか」

 伊織さんは私の方を振り返った。その顔には驚きとそれから焦りが浮かんでいた。私はというと……向けられた視線を受け止めることもできず、あからさまだとは思いつつも目をそらすことしかできなかった。そんな私の態度が伊織さんの目にどう映ったのか……想像するまでもなかった。

「菫、まさか君が……?」
「な、なんのことですか?」
「そういえば、あの日の君の手には泥や土がついていて……。まさかあの嵐の中、一人でオリーブ園に……?」
「……だって、伊織さんってばあんなに熱があるっていうのに、オリーブのことを心配してて見に行こうとするから……きゃっ!」

 言い終わるのが早いか、私の身体は伊織さんに抱きしめられていた。ギュッと身体を抱きしめるように回された手から、すっぽりと覆われた身体から伊織さんのぬくもりが伝わってくる。

「い、伊織さん……!?」
「無茶、しないで……。君に何かあったら僕は……」
「ごめんなさい……」
「次からは、こんな無茶はしないと約束してくれるかい?」
「はい……」

 真剣な表情で伊織さんは言った。
 喜んでもらえるかも、なんて思ってやったわけじゃない。でも、こんなふうに心配をかけるつもりもなかったのに……。
 伊織さんの言葉に、思わずしょんぼりとうなだれた私の頭上で「だけど」と、伊織さんの優しい声がした。

「菫のおかげでオリーブが助かったみたいだ。本当にありがとう」

 手の力が緩められ、そっと顔を上げると、伊織さんは私をジッと見つめたまま微笑んでいた。その笑顔に、心臓をわしづかみされたみたいになって息ができなくなる。
 この人の、こんな笑顔を知っているのは、私だけだったらいいのに。この笑顔を、ずっと私だけに向けていてほしい。……そんな叶うはずのないことを願ってしまうぐらいに。

「いお……」
「おいおい、朝から見せつけやがって」
「っ……あ」

 その声に、私は辰雄さんの存在を思い出して、慌てて伊織さんから離れた。伊織さんも気まずそうに辰雄さんの方を向くと困ったように頭をかいた。

「さっきから気になってたんだ。紹介してくれねえの?」
「あー、えっと……」
「なんてな。その子が東京から呼び寄せたっていうお前の嫁さんだろ?」
「よっ……!?」

 思いも寄らない言葉に、思わずむせる。嫁って、いったいどういうこと……?
 口をパクパクさせながら声にならない声を上げていた私を伊織さんは振り返らない。そんな私の態度をどう思ったのかはわからないけれど辰雄さんの話は続く。

「いやーようやく会えたよ。島のみんなで噂してたんだ。伊織が寂しい一人暮らしに辛抱ならなくなって、東京から嫁を呼び寄せたって。しかも誰にも見せたくないのか後生大事に家の中に閉じ込めてるってな。ちらっと見たって言う服屋の三橋さんや瀧ばあさんの話じゃあ、たいそう可愛い女の子だったって言うからさ。だけど、ふーん?」
「……お前、僕に一言言ってやろうと思ってとか言ってたけど、本当の目的はそれか」
「バレた? いやーだって気になるじゃないか。伊織が閉じ込めて隠すほど入れ込んでる女なんてさ。噂なんてみんな大袈裟に言ってるんだろって思ってたけど、伊織が入れ込んでるってのは、本当みたいだな」

 恥ずかしい言葉のオンパレードに、私はいてもたってもいられなくなって「違います!」と言おうと二人の間に割り込もうとした。けれど――。

「そうだよ。僕はこの子に夢中なんだ。だから、余計な詮索はするな。……それから、この子に手を出したらお前でも許さないよ」

 伊織さんは私の腕を掴むと、もう一度ギュッと抱きしめた。いったい何が起きているのかわからない。どうして私は今、伊織さんに抱きしめられているの? 私に手を出したら許さないって、いったい……。
 
「おーこわ。人の嫁さんに手を出すほど節操なしじゃねーよ」
「ならいいけど。菫、それじゃあ僕たちは仕事に行ってくるから、いい子で待っていてね」

 状況についていけず混乱する私をよそに、伊織さんは辰雄さんと一緒に家を出て行く。ひらひらと手を振る伊織さんの姿を真っ赤になったまま呆然と見送りながら――私はこの状況を理解するのに必死で、伊織さんが耳まで真っ赤に染まっていることには気付けずにいた。

 
 あのあと、いったい何をどうしたのか記憶にない。でも、習慣とは恐ろしいもので、気付くと私は朝ご飯の洗い物を片付け、掃除をし、二人分の昼ご飯を作って伊織さんが戻ってくるのを待っていた。
 それにしても、いつもよりも時計の針が進むのが早い気がする。
 早く帰ってきて欲しいような、まだ帰ってきて欲しいような複雑な気持ちだ。だって、あんな……あんな……。
 朝の会話を、それから抱きしめられた身体のぬくもりを思い出しては心臓の鼓動が早くなり頬が熱くなるのを感じる。いったい、伊織さんはどうしてあんなことをしたんだろう。
 私が、伊織さんのお嫁さんだなんて、そんな……。

「……ただいま」
「っ……! お、おかえり、なさい」

 すぐそばで伊織さんの声がして、振り返るといつの間に帰ってきていたのか、居間に伊織さんの姿があった。
 なんとなく、顔を見ることができない。でも、それは伊織さんも同じようで、私たちは視線をそらしたまま無言で立ち尽くしていた。

「あの、朝のことなんだけ――」
「あ、あの! ……えっと、お昼ご飯できてます! ご飯、食べましょう!」
「あ……うん。ありがとう」
「いえ……」

 何か言いかけた伊織さんの言葉を遮ると、私は準備しておいた豚肉の生姜焼きとお味噌汁、それからアサリの佃煮を並べる。お箸を置こうとして、手が震えていることに気付いた。どうしよう、伊織さんに聞きたいことはたくさんあったはずなのに、心臓が壊れそうなぐらい痛い。
 そんな私に、伊織さんは優しく声をかけた。

「朝は辰雄がすまなかったね」
「い、いえ……」

 今なら、聞けるだろうか。
 聞いても、いいだろうか。
 あのときの、言葉の、そして行動の意味を……。

「あ、あの……!」
「うん?」
「どうして、否定しなかったんですか?」

 何が、とは言わなかったけれど、伊織さんにも伝わったようで、息を呑む音が聞こえた。そして……。

「ああ言っておく方がいいと思って」
「どうして……!」
「君の住んでいた時代ではどうかはわからないけれど、ここでは結婚もしていない男女が一緒に住んでいる。それも二人っきりで、というのは訝しがる人がほとんどなんだ。あらぬ噂を立てられるよりは、結婚しているということにしておいた方が話が早いだろう」
「それは、そうかもしれないですが……」

 たしかにそうかもしれない。けど……。

「で、でも別に親戚とか……兄弟ってことにしておけばよかったんじゃないですか……? あんな……夫婦だなんて……」


 納得しかけたけれど、別に結婚相手じゃなくたって家族なら一緒に住んでいても不思議じゃない。私と伊織さんの年齢差なら兄弟ってことにしても別におかしくはないと思うし……。
 そう言う私に、伊織さんは視線をそらすと、口ごもりながら呟いた。

「……菫は、僕と夫婦ってことにされるのが、そんなに嫌かい?」
「い、嫌って訳じゃあ……。で、でも……」
「冗談だよ」

 冗談にしてはたちが悪い。伊織さんにとっては冗談ですむのかもしれないけれど、その一言でどれだけ私の心がかき乱されているのか、伊織さんは気付いているのだろうか。

「…………」
「ごめん」

 思わず黙り込んでしまった私に、伊織さんは小さな声で呟いた。
 
「でも、そういうことにしておいた方が、変な虫が寄ってこなくていいと思って」
「っ……それ、って……」

 それはいったい、どういう意味ですか……? そう尋ねたいのに、尋ねる勇気がでない。それに……それを尋ねる権利は、私にはない。この時代の人間ではない、私には――。
 鼻の奥がツンとなるのを感じて、私は慌てて顔を上げるとわざと明るい声を出した。

「……お昼ご飯、食べましょうか」
「え……?」
「お腹すいちゃいましたよね。あ、ご飯、よそってきますね」

 私は必死に笑顔を作ると、二つのお茶碗を持って台所へと向かった。そんな私を、伊織さんは何も言わずに見つめていたことには、気付かないふりをして。