この時代に来て、いつの間にか一ヶ月が経った。二人で暮らすのにもずいぶん慣れた気がする。
 朝、伊織さんより少しだけ早く起きると朝ご飯の準備をする。伊織さんが起きたら一緒に食べて、仕事に行く伊織さんを見送る。朝ご飯の片付けをしたら部屋を掃除して、お昼ご飯を作りながら伊織さんの帰りを待つ。それが私の一日の全てだった。
 お昼を二人で食べた後、伊織さんが抜いてくれた家庭菜園の野菜を使って晩ご飯の準備をしたりもらったノートに日記を書いたりして時間を潰した。
 たまに、本当にたまに家庭菜園に水やりをすることもあった。伊織さんの家庭菜園は思った以上に本格的で、おうちの裏は全て畑になっていた。幸い、お米は作っていないようで田んぼはなかったので私でも近づくことはできた。……まだ土に触れるのは怖いけど。

「こんなもんかな」

 晩ご飯の下ごしらえを終えると、私は窓際に置いた座布団の上に座った。伊織さんが帰ってくるまでまだ1時間以上ある。今日は風が強いのか、窓がガタガタと音をたれて揺れていた。
 私は窓際に置いた箱を開ける。ずいぶんと増えた私の服やノート、それから伊織さんに借りた本なんかを入れた箱の中から一冊のノートを取り出した。

「結構書いたなぁ……」

 パラパラと最初からめくっていくと、この時代に来たときの不安な気持ちや元の時代のことが書いてあって、所々涙でにじんでいるのがわかる。でも、いつからだろう……。その日、伊織さんと話したこと、伊織さんに教えてもらったこと、伊織さんの好きなおかず……。日記の中に伊織さんの文字が増えていったのは。
 中学に上がった頃から、周りの友達の中には好きな子がいたり、付き合い始めたりすることが増えた。特に、中三になった今年は高校受験で学校が分かれてしまうこともあってか早く告白しなきゃとかそういう声も多くなっていたけれど、私には無縁の話だった。でも……。
 いつだったか友達が頬を赤く染めながら言っていた。好きな人ができると、胸の奥があたたかくなってドキドキして、その人のことばかり考えてしまう。
 もしもその気持ちを恋と呼ぶのなら――。

「っ……」

 伊織さんのことを思うだけで、胸の奥があたたかくなる。「菫」って伊織さんが呼んでくれるとドキドキする。早く帰ってこないかなってそわそわする。伊織さんが美味しいって思ってくれるかなって思うと、料理も頑張れる。
 この気持ちが、恋、なのだろうか。私は、伊織さんに恋、しているのだろうか――。

「菫?」
「ひゃっ!」
「ど、どうしたの?」

 いつの間に帰ってきていたのだろうか、気付くとすぐそばで私の顔を覗き込む伊織さんの姿があった。

「び、ビックリした……」
「驚かせたならごめん。何度か声をかけたんだけど……」
「い、いえ! ボーッとしてたので、それで……」

 心臓が破裂しそうなぐらいドキドキする。恥ずかしくて伊織さんの顔を見ることができない。こんな気持ち、初めて……。
 でも……。

「菫?」
「な、なんでもないです。すぐご飯にしますね」

 私は顔を背けると、立ち上がった。伊織さんは不思議そうに見ていたけれど、その視線には気付かないフリをする。
 作ってあったお味噌汁を温め直しながら思う。伊織さんを好きになってもいいのだろうか――と。
 だって、好きになったって私はこの時代の人間じゃない。もしかしたら明日、ううん、今日にだって元の時代に戻るかもしれない。それに、伊織さんよりずっと年下で……。そんな私が伊織さんを好きになって、どうなるっていうのか……。

「っ……」

 ずっと、元の時代に戻りたいと思っていた。今なら、お母さんとも椿とも素直に話せるような気がする。普通の家族になれる気がするって。なのに……元の時代に戻りたくない、そんなふうに思ってしまうなんて……。
 いつの間にか頬を伝っていた涙を拭うと、私は必死に口角を上げた。

「お待たせしました!」
「ありがとう」

 作業着から着替えた伊織さんがちゃぶ台の前に座って私に微笑む。その笑顔に胸がキュッとなるのを感じる。
 今日のメニューは伊織さんが買ってきてくれたアジを使って作ったアジの煮付けと、家庭菜園でとれたほうれん草の白和え、わかめとこれまた家庭菜園でとれたジャガイモのお味噌汁だ。

「菫の作るご飯はいつも美味しいね」
「そう言ってもらえると嬉しいです」

 伊織さんは美味しそうに味を頬張ると、何かを思い出したようにため息をついた。そんな伊織さんの態度は珍しくて、私は何買ったのかと不安になった。

「伊織さん……? どうかしたんですか?」
「いや、明日からしばらく菫の美味しいご飯を食べられそうにないと思うと、気持ちが落ち込んで……」
「え?」
「と、いってもお昼だけなんだけどね。ちょっと数日忙しくなりそうで、お昼に家に帰ってくるのが難しそうなんだ」

 今、伊織さんはお昼休みに家まで帰ってきてご飯を食べている。みんなそうなんだと思っていたけれど、どうやらそうではないらしい……?

「他の方はどうされてるんですか?」
「お弁当を持ってきてる人もいるし近くの食堂に食べに行く人もいるね」
「そうなんですか……」

 もしかして、家まで食べに帰っている伊織さんのような人の方が珍しい……? と、いうか、まさか……。

「伊織さんって今、家に帰って食べてまた戻ってるじゃないですか」
「そうだね」
「……私が来る前も、そうだったんですか?」

 私の質問に、伊織さんがしまったという表情を浮かべるのがわかった。これは、もしかして……。

「私が来る前は、伊織さんも食堂で食べていた、とか……?」
「それは……」
「私のせいで、わざわざ食べに帰ってきてくれてるんですか……? 私がここにいるせいで……」
「それは違う!」

 伊織さんは私の言葉を遮るようにして言うと、頭をかきながら恥ずかしそうに口を開いた。

「たしかに、家に帰って食べるようになったきっかけは菫が来たことだよ」
「やっぱり……」
「でも、それは仕方なしにそうしてるとかじゃなくて、その……」

 口ごもりながら、でも伊織さんはまっすぐに私を見て言った。

「僕が、菫と一緒にご飯を食べたかったから。だから、帰ってきてるんだ」
「っ……伊織、さん……」
「わかった?」
「……はい」

 そんなふうに真剣に言われたら、信じないわけにいかないじゃない。たとえその言葉が全て真実じゃなかったとしても、でも今の私には伊織さんの気持ちが嬉しかった。

「誤解が解けたみたいでよかったよ」
「すみません、早とちりしちゃって」
「いや。でも、そうやって疑問に思ったことや不安に思ったことを、きちんと菫が伝えてくれるようになって嬉しいよ」
「あ……」

 そういえば、そうだ。
 前の私だったらきっと勝手に勘違いして、一人自分を責めて、それで殻に閉じこもっていたと思う。
 そう思うと、今の自分は前の自分よりも少しだけ成長できたのかな……?
 だとしたら、それはきっと……。

「ん? 僕の顔に何かついてる?」
「い、いえ。なんでもないです」

 ジッと見つめている私に、伊織さんは不思議そうに首を傾げた。そんな伊織さんに慌ててなんでもないと笑顔を浮かべる。
 私が変われたんだとしたら、それはきっと伊織さんのおかげだ。伊織さんの優しさが、私の凝り固まった心をほぐしてくれた。全部、伊織さんがいてくれたから……。
 でも、それを伝えたら伊織さんはきっと「僕はなんにもしていないよ。菫が変わりたいと思ったから変われたんだ」なんて言うに決まっている。

「ふふ……」
「菫?」
「あ、すみません」
 
 頭の中で、やけにはっきりと伊織さんの声が響いて思わず笑ってしまった私を、伊織さんは訝しげに見たあともう一度ため息をついた。

「僕は、明日からしばらく菫のお昼ご飯が食べられないことに気落ちしているというのに、菫はやけに楽しそうだね」
「そ、そんなこと……」
「悲しく思ってるのは僕だけか」
「な……! わ、私も寂しいです! ……あ」

 勢いよく言った私を、伊織さんが笑っていた。
 引っかかった……。

「伊織さんの意地悪」
「ごめんごめん。菫がやけに楽しそうだったから、つい。……怒った?」
「…………」

 こんな伊織さんの一面を、島のみんなは知っているのだろうか。
 優しくて大人な伊織さんが、こんな少年のような表情を見せることを。

「菫?」
「……なんちゃって」
「あ……。もう、参ったな」

 私の顔を心配そうに覗き込む伊織さんに、ニッコリと微笑みかけると、伊織さんは「降参だよ」とでも言うかのように両手を挙げた。

「菫には適わないよ。結局、残念がってるのだって僕だけのようだし」
「そんなことないですよ。……夜は」
「え?」
「夜は一緒に食べられるんですよね?」
「……ああ」
「じゃあ、美味しいご飯作って待ってますから、早く帰ってきてくださいね」
「わかった」

 伊織さんが優しく微笑むから、私も微笑み返す。
 こんな幸せなご飯の時間を過ごせるようになるなんて、いつかの私に教えてあげたい。誰かと一緒食べるご飯の時間は、本当はこんなにも幸せなんだよって。
 私が目をそらしていただけで、本当はこんな時間がすぐそばにあったんだよって。


 翌日、昨日の夜に伊織さんが言っていた通り、お昼の時間になっても伊織さんが帰ってくることはなかった。私は前日の夜の残りとご飯でお昼ご飯を済ますと一人分の食器を洗った。
 いつもよりもあっという間に終わる洗い物になんだか寂しさを感じる。いつの間にか、伊織さんと二人で食べる食事の時間を楽しみにしていた私がいたことに気付いた。

「……よし、晩ご飯は美味しいものを作ろう!」

 私はまだお昼を過ぎたところだというのに晩ご飯の準備のために冷蔵庫を開けた。豚肉の塊があるから豚の角煮を作ろう。
 私は伊織さんの家で一番大きなお鍋にたっぷりと水を入れてかまどに火をつけた。お鍋の中に豚肉の塊を入れ、じっくりと下茹でする。

「前にこの下茹でを適当にしたら、臭みが残っちゃったんだよね……」

 あれは失敗だった。味付けは美味しかったのに、口の中に広がるなんとも言えない臭さが思い出されて思わず息を止めた。
 このまま二時間ぐらい茹でて、お肉が冷めたら一口大よりも少し大きめに切り分ける。あとはさっきのお鍋をさっと洗って、切ったお肉とお水・お醤油・みりん・お酒・お砂糖を入れさらに薄切りにしたショウガを入れたら蓋をして今度は三十分ぐらい煮詰める。

「あとは、伊織さんが帰ってくるのを待つだけかな」

 ご飯は炊けているし、お肉を冷ます間の時間にお味噌汁も作った。今日のお味噌汁の具材は茄子とタマネギだ。

「ただいま!」
「おかえりなさい」

 温め直したお味噌汁をお椀によそっていると、タイミングよく伊織さんが帰ってきた。私はかまどに火を入れ直し、角煮を温めた。

「いい匂いがするね」
「今、温め直しているのでもう少し待ってくださいね」
「冷めてても大丈夫だよ?」
「十分冷めてるので、温め直した方が美味しいんです」

 実は、伊織さんが帰ってくるよりも少し早く角煮を完成させたのにはわけがあった。

「煮物は一度冷ましてから温め直す方が味が染みて美味しいんです」
「へえ? 知らなかったな」
「なんでも、冷めるときに味が染みこむらしいんです」
「菫は物知りだね」
「いえ、これは人からの受け売りで……」

 あれはまだお父さんがいた頃、台所に立つお母さんの隣でお手伝いをしていたときだ。できあがったおでんを私がそのまま出そうとしたときに言われた。
『煮物は一度冷ましてから温め直すのよ。冷めるときに味が染みこむから、その方が美味しくなるの』
 と――。

「お母さんからの教えを、ずっと守ってるんですね」

 伊織さんの言葉に、私は心臓を捕まれたような衝撃を受けた。言われてみれば、たしかにそうだ。煮物のことだけじゃなくて、包丁の使い方や味付け、それから洗濯の干し方も……。全部、全部お母さんが教えてくれたことだった。
 そしてそれらは全てがお父さんが生きていた頃の話ではなくて、死んだあとに教わったことも少なくない。……私が目を背けていただけで、お母さんは私に向き合ってくれていた。ただ、それに気付かないふりをしていただけで……。

「素敵なお母さんですね」
「……はい」

 涙がにじみそうになり、慌てて目尻をこすると私は伊織さんに微笑んだ。
 その日、二人で食べた角煮は甘辛くて、それから優しい味がした。


 私は掃除を終えてため息をついた。
 今日で伊織さんが家でお昼ご飯を食べなくなってから五日目だ。当初はもっと早く片付く予定だったらしいのだけれど、長引きに長引いて五日目を迎えていた。「明日が終わればきっと来週からはまた家で食べられると思います」そう言って今日の朝、伊織さんは家を出たけれど……。

「寂しいな……」

 伊織さんと、一緒にご飯を食べられなくて、寂しい。二人で他愛ない話をしながら、美味しいねって言ってくれる伊織さんに照れくさくなりながらも微笑み返す時間が好きだった。さりげなく今日何が食べたいか聞いて、晩ご飯に作っていたのにそれもできず結局は私の好きなものばかりを作ってしまう。
 なんか物足りない。

「伊織さんが美味しいって言ってくれなきゃ、自分だけのためにお昼作る気力もないよ……」

 この数日の私のお昼ご飯は酷いもので、お漬物とご飯だったりお味噌汁とご飯だったり……お昼ご飯と呼ぶには寂しいメニューだった。

「……よし、今日はちゃんと作ろう」

 毎日こんな感じじゃよくない。いくら伊織さんがいないとはいえ、自分のことぐらい自分で管理しなきゃ。
 私は冷蔵庫を開けると、お肉や卵を取り出した。
 甘い卵焼きに、豚肉の生姜焼き、それからジャガイモとカリカリに焼いた豚肉を塩こしょうで味付けしたもの……気付けば私は自分の分、というには多すぎる量のお昼ご飯を作り上げていた。さすがに、この量は私一人では食べられない……。かといって、晩ご飯に回すかといえば、そう言うメニューでもないし。どちらかというとお弁当の具材のような……。
 お弁当?

「そうだ! お弁当にしよう!」

 思い立ったらすぐに行動するべし。私はちょうどいい大きさの小箱を見つけるとその中に作ったおかずをつめる。詰める間に冷ましていたご飯に軽く塩を振っておにぎりにしていくと、お弁当のできあがりだ。
 喜んでくれるといいな……。
 時計を見ると、11時45分。伊織さんのお昼休みは12時からだ。急がなきゃ。
 私は慌てて家を飛び出すと、おにぎりを持ってオリーブ園へと向かった。


 オリーブ園には、この時代に来た最初の頃伊織さんに連れて行ってもらった。あのときは伊織さんの隣をついて行けばよかったのだけれど……。
 私はどこまで行っても海しかなく、オリーブどころか道もなくなりそうな目の前の景色に泣きそうになっていた。
 これは、あれだ。わかっている。でも、認めたくない。認めたくはないけれど……。家を出てからすでに15分以上経っているであろうこの状況に、認めないわけにはいかなかった。
 迷子だ。私は迷子になったのだ。

「うぅ……どうしよう……」

 誰かに道を聞こうにも、みんな私の姿を見るとすぐにどこかへ行ってしまう。そのあとを追いかけるように歩くのだけれど、見かけた人の姿もないし、さらに訳がわからない場所へと出てしまった。
 もう、家に帰る道もわからないし、いったいどうしたらいいの……。

「伊織さん……」

 呼んだところで、伊織さんに声が届かないことなんてわかっている。私は溢れかけた涙をてのひらで拭うと顔を上げた。
 とにかく、道に出なきゃ。
 来たとおり戻れるのが一番いいのだけれど、あいにくどこから来たかなんてもうわからない。なので私は、このまままっすぐ進んでみることにした。きっとどこかには出るはずだ。
 まっすぐまっすぐ道らしき場所を歩く。舗装されているとは言いがたいけれど、草が生えていたりする訳ではないところを見ると、普段から誰かが通っているのだろう。
 あとは少しでも知っている景色が見えたら……。

「あっ……!」

 少し先に人影が見えた。私は慌てて走り出す。とにかく、道を聞かなくちゃ! このままだと伊織さんに迷惑をかけちゃう……!

「あのっ!」
「……あんた、誰だい?」
「わ、私……」

 その人は私のおばあちゃんと同じぐらいの年に見えた。腰を曲げたまま、顔だけこちらを向き私のことを頭から足の先までジロジロとまるで値踏みするように見てくる。
 さっきまではこの視線につい怖じ気づいていた。でも……!

「す、すみません。私、オリーブ園に行きたくて」
「オリーブ園?」
「はい。そこに、その……お世話になっている人が働いていて……。そ、それで……」
「ふーん?」

 もう一度、私のことをじっくりと見たあと、そのおばあさんは――私のことを鼻で笑った。その目は、まるで私を不審者だと言わんばかりに睨み付けていた。

「オリーブ園なんざ、知らんね」
「え……?」
「まあ知っていたとしても、よそ者のあんたにどうして教えなきゃいけない?」
「そ、それは……知ってる人が、働いていて……」
「それはさっきも聞いたよ。じゃが、それが本当だという証拠はあるのかえ? もしかしたらあんたは不届き者で、オリーブ園を燃やそうとしているかもしれないじゃろ?」
「わ、私! そんなことしません!」

 けれど、どれだけ否定してもおばあさんが私を島の外の人間だと思っている以上は信じてもらえない。それがヒシヒシと伝わってきて泣きたくなった。
 どうしてこんなことになってしまったんだろう。私はただ、伊織さんにお弁当を届けたかっただけなのに……。

「伊織、さん……」
「――菫!」
「え……?」

 その瞬間、どこからか私の名前を呼ぶ伊織さんの声が聞こえた気がした。辺りを見回すと、おばあさんの遙か後ろに、伊織さんの姿が見えた。

「伊織さん!」
「菫、やっと見つけた……!」

 はあはあと息を切らせながら伊織さんは私に駆け寄った。私はホッとしたのとようやく伊織さんに会えたことが嬉しくて、思わずその身体に抱きついた。

「す、菫!?」
「伊織さん……! もう、会えないかと思った……」
「……ごめんね。もう大丈夫だよ」

 伊織さんにギュッとされると、それだけでさっきまでの不安だった気持ちや泣きそうだったのが飛んで行ってしまうようだった。

「……その子は伊織さんの知り合いかい?」
「ええ。お瀧さんが見つけてくださっていたんですね。ありがとうございます」
「ちがっ……!」
「いやいや、いいんだよ。でも、ちゃんとみんなに顔見せしないと、よそ者だと思って山奥に放り込まれちまうよ」
「気をつけますね」

 ニッコリと笑った伊織さんに、そのおばあさんは「ふんっ」と言ってどこかへ言ってしまう。私は、思わず伊織さんに詰め寄った。

「どうしてですか!? 別に、あの人に助けられたりなんて……!」
「あれでいいんだよ。ここは島で閉鎖的な場所だからね。どうしても知らない人がいるとみんな警戒してしまうんだ。でもね、悪い人たちじゃないんだよ」
「それで……」

 どうりで……。何人か見かけた人に道を尋ねようとしても、みんな私のことを見るなり去って行ってしまったはずだ。私はみんなに不審人物だと思われていたんだ。

「嫌な思いをさせてすまなかった」
「そんな……! 別に、伊織さんが悪い訳じゃあ……。それに、勘違いさせちゃったのは私の方だし……。その、今度もしあったら謝ってたって、伝えてもらえますか?」

 どちらかというと、思いつきで勝手に家を出て迷ってこんなことになってしまった私が一番悪い。私から謝るのが一番いいと思うけれど、それはそれでまた警戒されてしまうかもしれないから……。しょんぼりとしてしまう私の頭を伊織さんは優しく撫でた。

「菫はいい子だね」
「そんなこと……」
「じゃあ、今度一緒に謝りに行こうか」
「いいんですか……?」

 私の問いかけに、伊織さんは優しく微笑んだ。

「本当は自分で謝りたいってそう思ってるんだろう?」
「どうして……」
「だって、菫はそういう子だから」

 伊織さんのその言葉に、胸がキュッと締め付けられる。どうしてこの人は、こんなにも私のことをわかってくれるんだろう。
 
「でもまあ、とりあえず今はここから出ようか」
「あ、はい。……ここは、どこなんですか?」
「ここは、ちょうど僕の家からオリーブ園に行く途中……の脇道を入った山の中だよ」
「山……脇道……」

 通りで全然オリーブ園にたどり着かないはずだ。私は伊織さんに手を引かれ山から出ると、目の前には見覚えのある海岸が広がっていた。

「ここに出るんですね!」
「ああ。……ところで、菫はどうしてあんなところにいたんだい?」
「そ、それは……。と、いうか伊織さんはどうして私があそこにいるってわかったんですか?」

 あのとき、確かに伊織さんは私の名前を呼んだ。あれはあそこに私がいるとわかってたからこそだと思う。でも、どうして……?

「菫のことを見かけた人がね、たまたま用事があってオリーブ園に来てて教えてくれたんだ。島の中を見知らぬ女の子がうろうろしてるって」
「それで……」
「もしかして、と思って目撃情報を頼りに辿っていったら菫を見つけたってわけだよ。で? 菫は?」
「……これ」

 呆れられることを覚悟で、私は持っていた風呂敷を差し出した。こんなもののために騒動を起こして、と怒られるかもしれない。もう私のことを嫌いになってしまうかも……。

「これは?」
「……お弁当です」
「弁当?」
「はい。……最近ずっと、伊織さんお昼の時間に家に帰ってこないから……。お弁当を作って届けようって思ったんです」
「っ……」

 風呂敷を見つめたまま伊織さんは何も言わない。ピクリとも動かない。やっぱり呆れられてしまったんだ……。

「ご、ごめんなさい」
「……え?」
「勝手なこと、しちゃって……。それで伊織さんにも迷惑かけちゃって、本当にごめんなさい」
「菫? どうして謝るんだい?」
「だって、私のせいで伊織さんのお昼休みが潰れちゃって……本当にごめんなさい……」

 けれど、私に尋ねたはずの伊織さんは、私の返事なんて聞いていないようで。それよりも、手の中の風呂敷を、そしてお弁当箱を無言で開けていた。
 そして……。

「美味しそうだ!」

 キラキラとした目でお弁当箱の中身を見つめると、嬉しそうにそう言った。

「これ、全部僕が食べていいのかい?」
「え、あ、はい。それはもちろん……。伊織さんに食べて欲しくて持ってきたので……」
「嬉しいな。いただきます」

 両手を合わせてそう言うと、伊織さんはお箸で卵焼きを挟むと口に入れた。そのあとはもう一瞬だった。パクパクとおかずを食べたかと思うとおにぎりを頬張る。
 あっという間に、お弁当箱は空っぽになった。

「ごちそうさまでした」
「お粗末様でした」
「まさか今日のお昼に菫のご飯が食べられると思ってなかったから、とっても嬉しかったよ」
「私も、伊織さんに食べてもらえて嬉しかったです」
「え?」
「あ……」

 思わず口を押さえる。これじゃあ、まるで……。

「もしかして、菫。僕と一緒にお昼ご飯食べたかった?」
「そ、それは……」

 伊織さんにジッと見つめられると、どうしてか嘘がつけない。私は観念するように口を開いた。

「だって……この数日ずっと一人でお昼ご飯だったから……。その……寂しくて」
「菫……。ごめんよ。そんな思いを君にさせていたなんて気付いていなくて……」

 申し訳なさそうに伊織さんが言うから、私は慌てて首を振った。お仕事だってことはわかっている。お仕事が忙しいのに私とお昼ご飯を食べるために帰ってきてよ! なんて言ったり思ったりするほど子どもではない。でも……。

「予定より早く仕事がおわりそうなんだ。だから、明日のお昼ご飯は家で食べられそうだよ」
「ホントですか!?」
「ああ」

 頷く伊織さんは笑っていた。

「楽しみにしてるよ」
「はい!」
「……っと。鐘が鳴ったな」

 伊織さんの言葉に耳を澄ませると、たしかに風に乗ってチャイムの音が聞こえてきた。これはいったい何の合図なんだろう。不思議に思った私の心を読んだかのように、伊織さんは言った。

「昼休みの終わりを知らせる鐘だよ。もう戻らなければ。菫、ここから家まで一人で帰れるかい?」
「はい」
「じゃあ、またあとで」

 海から伊織さんの家までは一本道だ。いくら私でも迷子にはならない、はずだ。頷く私に、伊織さんはそっと微笑むと、頭をポンポンと撫でた。

「なっ…… !」
「気をつけて」

 それだけ言うと、伊織さんは立ち上がって海沿いを家とは反対方向に向けて歩き始めた。
 私は伊織さんの触れた頭にそっと手をやる。

「……子ども扱い、しないでよ」

 そう呟いた私の声は、海のさざ波の音に吸い込まれていった。