そんな話をした数日後、朝ご飯を食べ終わった私に、伊織さんが声をかけた。
「今日は僕と一緒に出かけませんか?」
「え?」
「島を案内します」
それは、退屈しきっていた私にとってありがたい話だった。
「でも、伊織さん仕事は……」
「今日は日曜日で仕事も休みなので大丈夫です」
そういえば、今日はいつも着ている作業着を着ていない。今日の伊織さんの格好は、初めて会ったあの日と同じ、真っ白なシャツに紺色のズボンを履いていた。作業着姿を見慣れてしまったので、この姿でいられるとどこか落ち着かない。なんか、こう……胸がざわざわするというか、ドキドキするというか……。
「菫?」
「あ、はい。えっと……ホントにいいんですか?」
「はい」
私のために貴重な休みを使ってもらうのが申し訳ない。この時代の人は週休1日のようで土曜日も半日は働いている。と、いっても伊織さんは土曜日の午後も働いている気がするのだけれど……。とはいえ、せっかく島を案内してくれるというのだから……。
「お願いします」
「じゃあ、これを片付けたらいきましょう」
「はい!」
食べ終わった食器を流し台へと運ぶと、隣に伊織さんが立つ。私が洗った食器を、伊織さんは手際よく拭いてかごの中へと片付けてくれる。
こんなふうに、誰かと並んで洗い物をすることなんて今までなかった。椿は食べたら宿題をしてたし、お母さんは夜勤で夕食の時間に家にいることはほとんどなかった。それが当たり前だと思っていたから、最初はこうやって二人で並んですることに戸惑いもあった。でも……。
「どうしました?」
「いえ、その……一緒にする人がいるって嬉しいなって思って」
「僕も、この島に来てからずっと一人だったので、こうやって菫が一緒にいてくれると嬉しいですよ」
「っ……」
洗い物のことだとわかっていても、心臓が跳ね上がるのを止められない。伊織さんの言葉は、あまりにもストレートで私には刺激が強いときがある。……とはいえ、こういった言葉に他意がないことはこの数日でよーくわかったけれど。
伊織さんはお人好しというか人がいいというか、親切な人だ。たまに島の人に何かを頼まれて遅く帰ってきたりする。そんなときはいつもお礼にもらった野菜や魚を持って帰ってくるのだ。
「そういえば、どうして私のことを拾ってくれたんですか?」
「それは……」
一瞬、伊織さんが視線をそらした。でも、すぐにいつものように優しい笑顔を浮かべると手に取ったお皿を拭いて私に渡した。
「心細そうにしてたから」
「でも、もしかしたら私が悪い人だったかもしれないじゃないですか!」
「……君は、いつかの僕と同じ目をしていたから。一人でいるのが寂しいのに、周りに迷惑をかけないように必死に大人になろうとしていた子どもの頃の僕と同じ目を。だから、放って置けなかったのかもしれません」
お母さんが自分を産んで死んじゃったと伊織さんは言っていた。お父さんやお兄さんが愛してくれたから、自分自身を責めることはなかったとそう言っていたけれど……。もしかしたら、伊織さんにも辛かった過去があったのかもしれない。
「それで終わりですか?」
「あ、はい」
「ありがとうございます。それじゃあ、行きましょうか」
伊織さんに促されるようにして、私は久しぶりに外に出た。
ちなみに、私が着ている服はあの日この時代にやってきたときのものではない。伊織さんがどこからか調達してきてくれた丈の長いスカートとブラウスだ。大正時代って、もっとこう着物とか着ているイメージだったんだけど、こういう服も売っているんだと最初はビックリした。ちなみにワンピースも何着か用意してくれたので着替えには困っていない。けど、これを伊織さんが選んだんだと思うと……ちょっと、いやかなり笑える。いったいどんな顔をしてこれを買ったんだろう。
「菫? 行きますよ?」
「あ、はい!」
ロングスカートが足に絡みつくのを振りほどきながら、私は不思議そうに振り返る伊織さんの元へと走った。
伊織さん曰く、小豆島は小さいけれど活気のある島で、45000人ほどの人が暮らしているらしく、漁師だったり農業だったりを営んでいるそうだ。
それから……。
「そういえば、伊織さんの働いているオリーブ園はどこにあるんですか?」
「……もう少しいったところですが」
「行ってみたいです!」
「ですが……」
なぜか伊織さんは困ったような表情を浮かべる。いったいどうしたというのだろう……。
「あっ……。私が行ったらまずいですか……? 部外者ですし……」
「それは大丈夫ですが……」
少し考えるようにしたあと、伊織さんは「それじゃあ、行きましょうか」と行って歩き出した。私は伊織さんの困ったような表情の理由が気になったけれど、先に歩き出した伊織さんに置いて行かれないように慌てて追いかけた。
「ここが、オリーブ園です」
「これが……」
伊織さんに連れられて行ったのは、伊織さんの家から歩いて30分ほどの場所にある果樹園のようなところだった。もう実がなっている木もあれば、まだ細くこれから大きく育っていくんだろうと思わせるものもある。これを伊織さんが……。
「凄いですね」
「大丈夫ですか? 気分が悪くなったりとか」
「え?」
心配そうに私を見る伊織さんに――私はようやく先ほどの伊織さんの態度の理由《わけ》に気付いた。オリーブ園にはたくさんのオリーブの木が植えられている。植えられている、ということはそこには土や砂があるわけで――。
だから、渋っていたんだ……。
伊織さんの優しさに、胸の奥があたたかくなる。こんなふうに、誰かに気にとめてもらえるって、こんなにも嬉しいことなんだ。
「心配、してくれてたんですか?」
「それは……するに決まっているでしょう。またあんなふうに……」
「あ……」
その言葉に、パッとなった気持ちが沈む。そりゃあそうだよね、この前みたいに過呼吸起こす寸前みたいになって倒れられたら迷惑だもんね……。
しょんぼりとした私の頭上で、伊織さんが言葉を続けた。
「菫が苦しい思いをするのは嫌ですから」
「……え?」
「なんですか」
「そ、その……私のせいで伊織さんに迷惑がかかるのが困るから、じゃなくてですか……?」
そう言った私を、伊織さんが怪訝そうな表情で見たあと、ため息をついた。
「僕に迷惑がかかるのは別にかまいません。でも、菫が苦しい思いをするのは見ていて辛い」
「伊織さん……」
伊織さんの言葉は、私を優しく包み込んでくれる。伊織さんはわかっているんだろうか。こんなふうに言ってもらえることが、私にとってどれだけ嬉しいか。気付いているんだろうか。その言葉の一つ一つが、私の心の冷たくなった部分を、暖めているのかを。
「菫? やはり、気分が悪いのでは……?」
「ち、違います! 大丈夫です!」
「本当ですか?」
「はい!」
「そうですか」
安心したように言う伊織さんの声があまりにも優しくて、涙が出そうになる。本当は、こんなふうにお母さんの言葉も素直に受け取りたかったのかもしれない。ううん、お母さんだけじゃない。いろんな人がどれだけ優しい言葉をかけてくれても、全て疑ってかかっていた。本当はそんなこと思ってないんでしょう? って。
でも、伊織さんは違う。伊織さんの言葉は、ストレートに私の胸に届く。いったい、どうしてだろう……。
「それじゃあ、次の場所に行きましょうか」
「あ、はい」
トクントクンと心臓が音を立てる。その音の正体はまだわからないけれど……。私は、不思議そうに私を呼ぶ伊織さんの元へと駆け出した。
そのあと、島に一軒だけある服屋さんへと向かって私の服を買ってもらった。どうやら今着ている服なんかもここで買ってくれたようだ。
「何か欲しいものはありますか?」
「え、えっと……あの……」
普段着は伊織さんが用意してくれたもので問題なかったのだけれど、下着だけは代わりに買ってもらうことができなかったから……。
「菫?」
「おじょうちゃん、どうしたの?」
お店のおばちゃんが私の様子に気付いて話しかけてくれる。私は、伊織さんに聞こえないように、おばちゃんの耳元に口を寄せて小さな声で言った。
「し、下着が欲しくて……」
「ああ、はいはい。こっちにおいで」
おばちゃんは私を手招きすると、店の奥の方にある棚に連れて行ってくれる。そこには私が想像した下着とは全く違う形の下着があった。
「これ……」
「今若い子の間では下着を履くのが流行ってるんだってねぇ。おばちゃんにはついていけないわ」
「えっと……」
この、スパッツにひらひらがついたような……そう、まるでお人形のパンツのようなこれが下着だというのだろうか……。
この時代に迷い込んだことによって起きたカルチャーショックの中で、これが一番大きいかもしれない。だって、今この店員さん若い子の間で下着を履くのが流行ってるって言った……? ってことは、もしかして目の前のこの人は下着を着けてないっていうこと……? 着物の下は……うう、考えたくない。
と、いうか……まさか。
思わず、伊織さんの方を振り返ってしまう。目が合って不思議そうな表情を浮かべる伊織さんに思わず赤くなって、私は慌てて視線を元に戻した。
「気が付かなくてすみません」
お店で買ったものに気付いたのか、外に出て伊織さんは謝ってくれた。けれど、そこまで気が回って買ってきてもらっていたら私の方が恥ずかしくて仕方がなかったと思う。
「そういえば」
「え?」
「さっき、僕の方を見てたじゃないですか。あれ、どうかしたんですか?」
「っ……!」
さっきの話を思い出して、私はむせ返る。いったい、どう説明すれば……。
「菫?」
「な、なんでもないです。忘れてください!」
「は、はあ」
腑に落ちない顔をしていたけれど、それ以上伊織さんが追求してくることはなかった。
そのあと、私たちは伊織さんの家に戻ってお昼ご飯にした。今日のお昼ご飯は、島を案内してもらっている途中に声をかけてくれた漁師さんからもらったお魚だった。そういえば、魚をさばくところを見るのは初めて……。器用にさばく伊織さんの姿をジッと見ていると、ふっと笑い声が聞こえて顔を上げた。
「見過ぎです」
「す、すみません!」
慌てて顔を背けると、そんな私を伊織さんはもう一度笑った。
お昼ご飯を食べて洗い物を終えたあと、伊織さんは読書を始めた。私は――伊織さんからもらったまま一度も開いていなかったノートを開いた。
これまでのこと、ここに来るきっかけになったキャンプのこと……それから、お母さんと椿のこと。元気にしているだろうか。椿は好き嫌いを言わずに野菜を食べているだろうか。お母さんは働きすぎでしんどくなってはいないだろうか。それから……ほんの少しでもいいから、私のことを心配してくれているだろうか。
「…………」
ううん、きっと心配してくれている。だって、私が目を背けていただけで、二人は今までも私のことをずっと気にかけてくれていたんだから。
お母さん、椿。会いたい。会いたいよ……。
せっかく書いた日記帳の文字は、気付けばこぼれ落ちた私の涙でにじんで読めなくなっていた。
あれからさらに一週間が経った。この時代にタイムスリップしてきてからもう二週間以上経つけれど、相変わらず元の時代に戻る方法はわかっていなかった。
「それじゃあ、行ってくるね」
「いってらっしゃ!」
伊織さんの口調が気付けば砕けたものになり、なんとなくお互いこの生活にも慣れてきた気がする。私は伊織さんを見送ると、朝ご飯の片付けをしてそれから部屋を掃除した。
もう足はすっかり治った。けれど、私はまだ伊織さんのお世話になっていた。このままずるずると何もしないままお世話になるのは気が引ける。かといって、ここを出て行くこともできないし……。
「よしっ」
掃除が終わった私は、冷蔵庫を開けた。私が知っている冷蔵庫とは少し見た目も機能も違うようだけれど、開けると中はひんやりしていた。少し前はここに氷がついていた、なんて伊織さんは言っていたけれど本当だろうか……? 冷凍庫じゃなくてですか? と聞いた私に「れいとう、こ?」と不思議そうな表情で言っていたのを思い出して笑ってしまう。
中には島でとれたお魚やお肉が入っていた。今までは伊織さんに準備してもらうばかりだったけれど……。私は冷蔵庫の中から鶏肉を取り出した。
幸い、料理は苦手ではない。お母さんが夜勤を始めてから晩ご飯を作るのは私の役目になった。ただ苦手ではない、と好きだは違うことを私は知っている。料理を作ることは、私にとって私の居場所を作るためのものだった。
「……嫌なこと思い出しちゃった」
私は頭の中によぎった嫌な思い出を追い払うと引き出しから包丁を取り出した。まな板の上に鶏肉をのせると、それを一口サイズに切り分けていく。調味料は意外とそろっていて、その中から塩とこしょうで下味をつけると、油をひいたフライパンを熱する。下味をつけた鶏肉に小麦粉をまぶすと、フライパンに入れた。
本当は片栗粉があればよかったのだけれど、小麦粉はあるのになぜか片栗粉はない。大正時代には片栗粉はなかったのかな……なんて思いながら、こんがりと焼けた鶏肉をひっくり返した。部屋の中にはいい匂いが漂う。蓋をして中までしっかりと焼いたら、あとは醤油とみりんで味付けをすれば鶏の照り焼きのできあがりだ。あとは、冷蔵庫に入っていた豆腐と油揚げでお味噌汁を作ればお昼ご飯の完成だ。
「野菜が足りない気がするけれど……」
窓の外を見て、私は小さくため息をついた。家の裏にあるという家庭菜園にはまだ近づけていない。オリーブ園は大丈夫だった。でも、あれはどちらかというと果樹園に近くて畑や田んぼとは違うものだったから……。家庭菜園がどういう規模なのかはわからないけれど、まだ畑や田んぼに近づく勇気はなかった。
それにしても……。できあがった照り焼きをお皿に盛り付けながら思う。本当にしなければいけないのはご飯作りではなく、これから先のことを考えることだと言うことは私にもわかっている。でも、考えれば考えるほどどうしたらいいかわからなくなって……。結局、私は自分のこれからについて考えることを放棄した。足が治って、歩けるようになっている私に気付いても伊織さんが何も言わないことに甘えたまま。
「ただいま。何かいい匂いがする……」
「あ、おかりなさい」
そんなことを考えている間に、いつの間にかお昼の時間になっていたようで伊織さんが戻ってきていた。私は照り焼きののったお皿とお味噌汁をちゃぶ台に並べると、炊飯器を開けてお茶碗にご飯をよそった。
「これは……。菫が作ってくれたの?」
「はい。その、簡単なものですけど」
伊織さんはちゃぶ台の上に並んだご飯に驚いたような表情を浮かべる。やっぱり迷惑だっただろうか……。でも、私にできることなんてこれぐらいしか……。
「凄い!」
「え?」
「外にまで美味しそうな匂いがしていて、いったい何の匂いだろうと思ってたんだ。これ、食べてもいい?」
「は、はい」
「いただきます」
両手を合わせていただきますをすると、伊織さんは照り焼きを頬張った。料理は苦手ではない、けれどそれは私が元いた時代での話だ。生きる時代が違えば味付けだって違うかもしれない。作ってもらった料理を食べる限り、そこまで外してはいないと思うけれど……。
口に合うかどうか、不安でドキドキしながら伊織さんのことを見つめる。そして……。
「どう、ですか……?」
「美味しい!」
「よ、よかったぁ」
パッと笑顔になったかと思うと、伊織さんは次から次へと照り焼きを口に入れて頬張った。その様子を見て、ホッとしながら私はお味噌汁に口をつけた。元の時代にいた頃は、顆粒だしを使ったりもしていたけれど、こっちにはそんなものはない。煮干しでだしを取ってみたのだけれど……。
「あ、美味しい」
「うん、お味噌汁も凄く美味しいよ。菫は料理が上手だね」
「そ、そんなこと……」
「いいお嫁さんになる」
さらりと言われた一言に、思わずお味噌汁をむせた。
「なっ……」
「ん? 変なこと言ったかな?」
不思議そうな表情を浮かべる伊織さんに、ガックリとなる。きっと伊織さんに深い意味なんてない。そう思ったからそう言っただけ。それだけだ……。
「いえ……。なんでもないです」
「そう? でも、菫のご飯は本当に美味しいね。驚いたよ」
「そんな……。普通ぐらいです。特別美味しいわけじゃないですよ」
「そんなことないよ。僕が作るより断然美味しい」
そう言って力説されると照れくさい。ご飯を作るのは嫌じゃなかったけれど、特別好きなわけでもない。作らなきゃいけなかったから作ってきただけ。そう思っていた。でも……。
「あの、もしよければ……こうやってご飯つくって待っていてもいいですか?」
「……え?」
「その、お世話になってるし、私にも何かできることがあればってずっと思ってて……」
「そんなの大変じゃない?」
「大変なんかじゃないです! それに……私、嬉しかったんです。伊織さんが美味しいって言って食べてくれたのが。だから……!」
伊織さんに美味しいって言ってもらえると、なんだか心の中がふわふわする。照れくさいような恥ずかしいようなくすぐったいような。その感情の正体がやっとわかった。私は嬉しかったんだ。伊織さんが美味しいって言って食べてくれたことが嬉しかったんだ。
「……なら、お願いしようかな」
「はい!」
「でも、無理はしないで。できるときだけでいいんだから」
「大丈夫です!」
私にもできることがある。それだけのことでなんとなく居場所ができたようなそんな気になれた。
……そういえば、ずっと前にも同じように感じたことがあった。あれはいつのことだったんだろう……。
「菫?」
そうだ、まだお父さんが生きていた頃だ。仕事で遅くなったお母さんの代わりに私が一人でカレーを作ったことがあった。学校の家庭科の授業で習ったばっかりのカレーを、指を切りながら、お皿を割りそうになりながら必死で作った。喜んでもらいたくて、驚いてもらいたくて。
あのとき、お父さんとお母さんが美味しいって言って食べてくれたのが嬉しくて、料理をするようになったんだった。どうして忘れていたんだろう。
「っ……」
本当はわかってた。美味しいって言ってもらいたかった。喜んでもらいたかった。それは全部、お母さんに対してだ……。
胸が苦しくなる。涙が溢れてくる。
お母さんに、椿に、会いたい……。会って、もっと素直に気持ちを伝えたい……。
「菫……」
涙を拭う私の頭を、伊織さんが優しく撫でてくれる。その手のぬくもりは、とても優しかった。
その日の夜、私は日記帳を開いた。
お父さんに美味しいって言ってもらったカレーライス、お母さんが夜勤を始めてまるで罪滅ぼしのように作るようになった夕食、わがままも全て受け入れないといけないと必死に気付かれないように野菜を練り込んで作った椿のためのハンバーグ。どれも本当は、みんなに美味しいって、ありがとうって言って欲しかっただけだったこと。
もし、もう一度元の時代に戻ることができたら、今度は二人への気持ちを込めて作りたい。贖罪ではなく、大好きの気持ちを込めて。
それから……。
「っ……」
伊織さんのことを書こうとして、手が止まった。名前を書こうとしただけなのに、どうして……。
伊織さんは本当に不思議な人だ。本当ならこんなふうに知らない土地に、時代に迷い込んで不安で泣きたくて仕方がないはずなのに、伊織さんがいてくれるからきっと大丈夫だって思える。伊織さんのそばにいると安心できる。あったかい気持ちになれる。この、気持ちの正体は……。
今まで、どんな男の人のこともこんなふうに思ったことはなかった。
なんとなく、もしかしたら、ううん、でも……。
私は、自分自身の中で芽生え始めた感情に、戸惑いとくすぐったさを感じていた。
「今日は僕と一緒に出かけませんか?」
「え?」
「島を案内します」
それは、退屈しきっていた私にとってありがたい話だった。
「でも、伊織さん仕事は……」
「今日は日曜日で仕事も休みなので大丈夫です」
そういえば、今日はいつも着ている作業着を着ていない。今日の伊織さんの格好は、初めて会ったあの日と同じ、真っ白なシャツに紺色のズボンを履いていた。作業着姿を見慣れてしまったので、この姿でいられるとどこか落ち着かない。なんか、こう……胸がざわざわするというか、ドキドキするというか……。
「菫?」
「あ、はい。えっと……ホントにいいんですか?」
「はい」
私のために貴重な休みを使ってもらうのが申し訳ない。この時代の人は週休1日のようで土曜日も半日は働いている。と、いっても伊織さんは土曜日の午後も働いている気がするのだけれど……。とはいえ、せっかく島を案内してくれるというのだから……。
「お願いします」
「じゃあ、これを片付けたらいきましょう」
「はい!」
食べ終わった食器を流し台へと運ぶと、隣に伊織さんが立つ。私が洗った食器を、伊織さんは手際よく拭いてかごの中へと片付けてくれる。
こんなふうに、誰かと並んで洗い物をすることなんて今までなかった。椿は食べたら宿題をしてたし、お母さんは夜勤で夕食の時間に家にいることはほとんどなかった。それが当たり前だと思っていたから、最初はこうやって二人で並んですることに戸惑いもあった。でも……。
「どうしました?」
「いえ、その……一緒にする人がいるって嬉しいなって思って」
「僕も、この島に来てからずっと一人だったので、こうやって菫が一緒にいてくれると嬉しいですよ」
「っ……」
洗い物のことだとわかっていても、心臓が跳ね上がるのを止められない。伊織さんの言葉は、あまりにもストレートで私には刺激が強いときがある。……とはいえ、こういった言葉に他意がないことはこの数日でよーくわかったけれど。
伊織さんはお人好しというか人がいいというか、親切な人だ。たまに島の人に何かを頼まれて遅く帰ってきたりする。そんなときはいつもお礼にもらった野菜や魚を持って帰ってくるのだ。
「そういえば、どうして私のことを拾ってくれたんですか?」
「それは……」
一瞬、伊織さんが視線をそらした。でも、すぐにいつものように優しい笑顔を浮かべると手に取ったお皿を拭いて私に渡した。
「心細そうにしてたから」
「でも、もしかしたら私が悪い人だったかもしれないじゃないですか!」
「……君は、いつかの僕と同じ目をしていたから。一人でいるのが寂しいのに、周りに迷惑をかけないように必死に大人になろうとしていた子どもの頃の僕と同じ目を。だから、放って置けなかったのかもしれません」
お母さんが自分を産んで死んじゃったと伊織さんは言っていた。お父さんやお兄さんが愛してくれたから、自分自身を責めることはなかったとそう言っていたけれど……。もしかしたら、伊織さんにも辛かった過去があったのかもしれない。
「それで終わりですか?」
「あ、はい」
「ありがとうございます。それじゃあ、行きましょうか」
伊織さんに促されるようにして、私は久しぶりに外に出た。
ちなみに、私が着ている服はあの日この時代にやってきたときのものではない。伊織さんがどこからか調達してきてくれた丈の長いスカートとブラウスだ。大正時代って、もっとこう着物とか着ているイメージだったんだけど、こういう服も売っているんだと最初はビックリした。ちなみにワンピースも何着か用意してくれたので着替えには困っていない。けど、これを伊織さんが選んだんだと思うと……ちょっと、いやかなり笑える。いったいどんな顔をしてこれを買ったんだろう。
「菫? 行きますよ?」
「あ、はい!」
ロングスカートが足に絡みつくのを振りほどきながら、私は不思議そうに振り返る伊織さんの元へと走った。
伊織さん曰く、小豆島は小さいけれど活気のある島で、45000人ほどの人が暮らしているらしく、漁師だったり農業だったりを営んでいるそうだ。
それから……。
「そういえば、伊織さんの働いているオリーブ園はどこにあるんですか?」
「……もう少しいったところですが」
「行ってみたいです!」
「ですが……」
なぜか伊織さんは困ったような表情を浮かべる。いったいどうしたというのだろう……。
「あっ……。私が行ったらまずいですか……? 部外者ですし……」
「それは大丈夫ですが……」
少し考えるようにしたあと、伊織さんは「それじゃあ、行きましょうか」と行って歩き出した。私は伊織さんの困ったような表情の理由が気になったけれど、先に歩き出した伊織さんに置いて行かれないように慌てて追いかけた。
「ここが、オリーブ園です」
「これが……」
伊織さんに連れられて行ったのは、伊織さんの家から歩いて30分ほどの場所にある果樹園のようなところだった。もう実がなっている木もあれば、まだ細くこれから大きく育っていくんだろうと思わせるものもある。これを伊織さんが……。
「凄いですね」
「大丈夫ですか? 気分が悪くなったりとか」
「え?」
心配そうに私を見る伊織さんに――私はようやく先ほどの伊織さんの態度の理由《わけ》に気付いた。オリーブ園にはたくさんのオリーブの木が植えられている。植えられている、ということはそこには土や砂があるわけで――。
だから、渋っていたんだ……。
伊織さんの優しさに、胸の奥があたたかくなる。こんなふうに、誰かに気にとめてもらえるって、こんなにも嬉しいことなんだ。
「心配、してくれてたんですか?」
「それは……するに決まっているでしょう。またあんなふうに……」
「あ……」
その言葉に、パッとなった気持ちが沈む。そりゃあそうだよね、この前みたいに過呼吸起こす寸前みたいになって倒れられたら迷惑だもんね……。
しょんぼりとした私の頭上で、伊織さんが言葉を続けた。
「菫が苦しい思いをするのは嫌ですから」
「……え?」
「なんですか」
「そ、その……私のせいで伊織さんに迷惑がかかるのが困るから、じゃなくてですか……?」
そう言った私を、伊織さんが怪訝そうな表情で見たあと、ため息をついた。
「僕に迷惑がかかるのは別にかまいません。でも、菫が苦しい思いをするのは見ていて辛い」
「伊織さん……」
伊織さんの言葉は、私を優しく包み込んでくれる。伊織さんはわかっているんだろうか。こんなふうに言ってもらえることが、私にとってどれだけ嬉しいか。気付いているんだろうか。その言葉の一つ一つが、私の心の冷たくなった部分を、暖めているのかを。
「菫? やはり、気分が悪いのでは……?」
「ち、違います! 大丈夫です!」
「本当ですか?」
「はい!」
「そうですか」
安心したように言う伊織さんの声があまりにも優しくて、涙が出そうになる。本当は、こんなふうにお母さんの言葉も素直に受け取りたかったのかもしれない。ううん、お母さんだけじゃない。いろんな人がどれだけ優しい言葉をかけてくれても、全て疑ってかかっていた。本当はそんなこと思ってないんでしょう? って。
でも、伊織さんは違う。伊織さんの言葉は、ストレートに私の胸に届く。いったい、どうしてだろう……。
「それじゃあ、次の場所に行きましょうか」
「あ、はい」
トクントクンと心臓が音を立てる。その音の正体はまだわからないけれど……。私は、不思議そうに私を呼ぶ伊織さんの元へと駆け出した。
そのあと、島に一軒だけある服屋さんへと向かって私の服を買ってもらった。どうやら今着ている服なんかもここで買ってくれたようだ。
「何か欲しいものはありますか?」
「え、えっと……あの……」
普段着は伊織さんが用意してくれたもので問題なかったのだけれど、下着だけは代わりに買ってもらうことができなかったから……。
「菫?」
「おじょうちゃん、どうしたの?」
お店のおばちゃんが私の様子に気付いて話しかけてくれる。私は、伊織さんに聞こえないように、おばちゃんの耳元に口を寄せて小さな声で言った。
「し、下着が欲しくて……」
「ああ、はいはい。こっちにおいで」
おばちゃんは私を手招きすると、店の奥の方にある棚に連れて行ってくれる。そこには私が想像した下着とは全く違う形の下着があった。
「これ……」
「今若い子の間では下着を履くのが流行ってるんだってねぇ。おばちゃんにはついていけないわ」
「えっと……」
この、スパッツにひらひらがついたような……そう、まるでお人形のパンツのようなこれが下着だというのだろうか……。
この時代に迷い込んだことによって起きたカルチャーショックの中で、これが一番大きいかもしれない。だって、今この店員さん若い子の間で下着を履くのが流行ってるって言った……? ってことは、もしかして目の前のこの人は下着を着けてないっていうこと……? 着物の下は……うう、考えたくない。
と、いうか……まさか。
思わず、伊織さんの方を振り返ってしまう。目が合って不思議そうな表情を浮かべる伊織さんに思わず赤くなって、私は慌てて視線を元に戻した。
「気が付かなくてすみません」
お店で買ったものに気付いたのか、外に出て伊織さんは謝ってくれた。けれど、そこまで気が回って買ってきてもらっていたら私の方が恥ずかしくて仕方がなかったと思う。
「そういえば」
「え?」
「さっき、僕の方を見てたじゃないですか。あれ、どうかしたんですか?」
「っ……!」
さっきの話を思い出して、私はむせ返る。いったい、どう説明すれば……。
「菫?」
「な、なんでもないです。忘れてください!」
「は、はあ」
腑に落ちない顔をしていたけれど、それ以上伊織さんが追求してくることはなかった。
そのあと、私たちは伊織さんの家に戻ってお昼ご飯にした。今日のお昼ご飯は、島を案内してもらっている途中に声をかけてくれた漁師さんからもらったお魚だった。そういえば、魚をさばくところを見るのは初めて……。器用にさばく伊織さんの姿をジッと見ていると、ふっと笑い声が聞こえて顔を上げた。
「見過ぎです」
「す、すみません!」
慌てて顔を背けると、そんな私を伊織さんはもう一度笑った。
お昼ご飯を食べて洗い物を終えたあと、伊織さんは読書を始めた。私は――伊織さんからもらったまま一度も開いていなかったノートを開いた。
これまでのこと、ここに来るきっかけになったキャンプのこと……それから、お母さんと椿のこと。元気にしているだろうか。椿は好き嫌いを言わずに野菜を食べているだろうか。お母さんは働きすぎでしんどくなってはいないだろうか。それから……ほんの少しでもいいから、私のことを心配してくれているだろうか。
「…………」
ううん、きっと心配してくれている。だって、私が目を背けていただけで、二人は今までも私のことをずっと気にかけてくれていたんだから。
お母さん、椿。会いたい。会いたいよ……。
せっかく書いた日記帳の文字は、気付けばこぼれ落ちた私の涙でにじんで読めなくなっていた。
あれからさらに一週間が経った。この時代にタイムスリップしてきてからもう二週間以上経つけれど、相変わらず元の時代に戻る方法はわかっていなかった。
「それじゃあ、行ってくるね」
「いってらっしゃ!」
伊織さんの口調が気付けば砕けたものになり、なんとなくお互いこの生活にも慣れてきた気がする。私は伊織さんを見送ると、朝ご飯の片付けをしてそれから部屋を掃除した。
もう足はすっかり治った。けれど、私はまだ伊織さんのお世話になっていた。このままずるずると何もしないままお世話になるのは気が引ける。かといって、ここを出て行くこともできないし……。
「よしっ」
掃除が終わった私は、冷蔵庫を開けた。私が知っている冷蔵庫とは少し見た目も機能も違うようだけれど、開けると中はひんやりしていた。少し前はここに氷がついていた、なんて伊織さんは言っていたけれど本当だろうか……? 冷凍庫じゃなくてですか? と聞いた私に「れいとう、こ?」と不思議そうな表情で言っていたのを思い出して笑ってしまう。
中には島でとれたお魚やお肉が入っていた。今までは伊織さんに準備してもらうばかりだったけれど……。私は冷蔵庫の中から鶏肉を取り出した。
幸い、料理は苦手ではない。お母さんが夜勤を始めてから晩ご飯を作るのは私の役目になった。ただ苦手ではない、と好きだは違うことを私は知っている。料理を作ることは、私にとって私の居場所を作るためのものだった。
「……嫌なこと思い出しちゃった」
私は頭の中によぎった嫌な思い出を追い払うと引き出しから包丁を取り出した。まな板の上に鶏肉をのせると、それを一口サイズに切り分けていく。調味料は意外とそろっていて、その中から塩とこしょうで下味をつけると、油をひいたフライパンを熱する。下味をつけた鶏肉に小麦粉をまぶすと、フライパンに入れた。
本当は片栗粉があればよかったのだけれど、小麦粉はあるのになぜか片栗粉はない。大正時代には片栗粉はなかったのかな……なんて思いながら、こんがりと焼けた鶏肉をひっくり返した。部屋の中にはいい匂いが漂う。蓋をして中までしっかりと焼いたら、あとは醤油とみりんで味付けをすれば鶏の照り焼きのできあがりだ。あとは、冷蔵庫に入っていた豆腐と油揚げでお味噌汁を作ればお昼ご飯の完成だ。
「野菜が足りない気がするけれど……」
窓の外を見て、私は小さくため息をついた。家の裏にあるという家庭菜園にはまだ近づけていない。オリーブ園は大丈夫だった。でも、あれはどちらかというと果樹園に近くて畑や田んぼとは違うものだったから……。家庭菜園がどういう規模なのかはわからないけれど、まだ畑や田んぼに近づく勇気はなかった。
それにしても……。できあがった照り焼きをお皿に盛り付けながら思う。本当にしなければいけないのはご飯作りではなく、これから先のことを考えることだと言うことは私にもわかっている。でも、考えれば考えるほどどうしたらいいかわからなくなって……。結局、私は自分のこれからについて考えることを放棄した。足が治って、歩けるようになっている私に気付いても伊織さんが何も言わないことに甘えたまま。
「ただいま。何かいい匂いがする……」
「あ、おかりなさい」
そんなことを考えている間に、いつの間にかお昼の時間になっていたようで伊織さんが戻ってきていた。私は照り焼きののったお皿とお味噌汁をちゃぶ台に並べると、炊飯器を開けてお茶碗にご飯をよそった。
「これは……。菫が作ってくれたの?」
「はい。その、簡単なものですけど」
伊織さんはちゃぶ台の上に並んだご飯に驚いたような表情を浮かべる。やっぱり迷惑だっただろうか……。でも、私にできることなんてこれぐらいしか……。
「凄い!」
「え?」
「外にまで美味しそうな匂いがしていて、いったい何の匂いだろうと思ってたんだ。これ、食べてもいい?」
「は、はい」
「いただきます」
両手を合わせていただきますをすると、伊織さんは照り焼きを頬張った。料理は苦手ではない、けれどそれは私が元いた時代での話だ。生きる時代が違えば味付けだって違うかもしれない。作ってもらった料理を食べる限り、そこまで外してはいないと思うけれど……。
口に合うかどうか、不安でドキドキしながら伊織さんのことを見つめる。そして……。
「どう、ですか……?」
「美味しい!」
「よ、よかったぁ」
パッと笑顔になったかと思うと、伊織さんは次から次へと照り焼きを口に入れて頬張った。その様子を見て、ホッとしながら私はお味噌汁に口をつけた。元の時代にいた頃は、顆粒だしを使ったりもしていたけれど、こっちにはそんなものはない。煮干しでだしを取ってみたのだけれど……。
「あ、美味しい」
「うん、お味噌汁も凄く美味しいよ。菫は料理が上手だね」
「そ、そんなこと……」
「いいお嫁さんになる」
さらりと言われた一言に、思わずお味噌汁をむせた。
「なっ……」
「ん? 変なこと言ったかな?」
不思議そうな表情を浮かべる伊織さんに、ガックリとなる。きっと伊織さんに深い意味なんてない。そう思ったからそう言っただけ。それだけだ……。
「いえ……。なんでもないです」
「そう? でも、菫のご飯は本当に美味しいね。驚いたよ」
「そんな……。普通ぐらいです。特別美味しいわけじゃないですよ」
「そんなことないよ。僕が作るより断然美味しい」
そう言って力説されると照れくさい。ご飯を作るのは嫌じゃなかったけれど、特別好きなわけでもない。作らなきゃいけなかったから作ってきただけ。そう思っていた。でも……。
「あの、もしよければ……こうやってご飯つくって待っていてもいいですか?」
「……え?」
「その、お世話になってるし、私にも何かできることがあればってずっと思ってて……」
「そんなの大変じゃない?」
「大変なんかじゃないです! それに……私、嬉しかったんです。伊織さんが美味しいって言って食べてくれたのが。だから……!」
伊織さんに美味しいって言ってもらえると、なんだか心の中がふわふわする。照れくさいような恥ずかしいようなくすぐったいような。その感情の正体がやっとわかった。私は嬉しかったんだ。伊織さんが美味しいって言って食べてくれたことが嬉しかったんだ。
「……なら、お願いしようかな」
「はい!」
「でも、無理はしないで。できるときだけでいいんだから」
「大丈夫です!」
私にもできることがある。それだけのことでなんとなく居場所ができたようなそんな気になれた。
……そういえば、ずっと前にも同じように感じたことがあった。あれはいつのことだったんだろう……。
「菫?」
そうだ、まだお父さんが生きていた頃だ。仕事で遅くなったお母さんの代わりに私が一人でカレーを作ったことがあった。学校の家庭科の授業で習ったばっかりのカレーを、指を切りながら、お皿を割りそうになりながら必死で作った。喜んでもらいたくて、驚いてもらいたくて。
あのとき、お父さんとお母さんが美味しいって言って食べてくれたのが嬉しくて、料理をするようになったんだった。どうして忘れていたんだろう。
「っ……」
本当はわかってた。美味しいって言ってもらいたかった。喜んでもらいたかった。それは全部、お母さんに対してだ……。
胸が苦しくなる。涙が溢れてくる。
お母さんに、椿に、会いたい……。会って、もっと素直に気持ちを伝えたい……。
「菫……」
涙を拭う私の頭を、伊織さんが優しく撫でてくれる。その手のぬくもりは、とても優しかった。
その日の夜、私は日記帳を開いた。
お父さんに美味しいって言ってもらったカレーライス、お母さんが夜勤を始めてまるで罪滅ぼしのように作るようになった夕食、わがままも全て受け入れないといけないと必死に気付かれないように野菜を練り込んで作った椿のためのハンバーグ。どれも本当は、みんなに美味しいって、ありがとうって言って欲しかっただけだったこと。
もし、もう一度元の時代に戻ることができたら、今度は二人への気持ちを込めて作りたい。贖罪ではなく、大好きの気持ちを込めて。
それから……。
「っ……」
伊織さんのことを書こうとして、手が止まった。名前を書こうとしただけなのに、どうして……。
伊織さんは本当に不思議な人だ。本当ならこんなふうに知らない土地に、時代に迷い込んで不安で泣きたくて仕方がないはずなのに、伊織さんがいてくれるからきっと大丈夫だって思える。伊織さんのそばにいると安心できる。あったかい気持ちになれる。この、気持ちの正体は……。
今まで、どんな男の人のこともこんなふうに思ったことはなかった。
なんとなく、もしかしたら、ううん、でも……。
私は、自分自身の中で芽生え始めた感情に、戸惑いとくすぐったさを感じていた。