私が大正時代にタイムスリップしてから数日が経った。認めたくなかったけれど、どうやら認めなければいけないようだ。いくら島で田舎だったとしてもテレビもない、電話もない。それどころか、コンロさえもなくて未だにかまどに火をくべてお鍋やフライパンで煮炊きしているなんてありえない。いったい何が起きたのかはわからないけれど、私は大正12年のこの世界にタイムスリップしてきてしまったようだった。

「それじゃあ、行ってきます」
「いってらっしゃい」

 朝、伊織さんがオリーブ畑に行くのを見送ると、私はこの家で一人だ。足が治るまで、そう言っていたけれど……。

「本当は、もう足治ってるんだよね……」

 ここを追い出されたら行く当てがない。大正時代に知り合いなんているわけもないし、私のおじいちゃんやおばあちゃんのさらにおじいちゃんかおばあちゃんがどこかにいるかもしれないけれど、あなたの子どもの孫です! なんて言って現れたって絶対に信じてもらえない自信がある。なんなら、怪しい子だって警察に突き出されかねない。
 だから私は、伊織さんに本当のことを言えないでいた。そして、伊織さんからも聞かれないことに甘えていた。

「……掃除でもしようかな」

 特に汚れている様子でもないけれど、何もしないままここにいるのも気まずいし何よりも間が持たない。掃除機、はまだこの時代にはないようで私は物置のようなところに入れられていた箒で部屋を掃いた。ぞうきんがけなんて学校の掃除ぐらいでしかしたことなかったけれど、まあまあ綺麗になったんじゃないかと思う。
 掃除を済ませて壁に掛けられていた大きな時計を見ると、まだ11時だった。伊織さんが帰ってくるお昼休みまでまだ1時間近くあった。
 それにしても……。私はもう一度、時計に視線を向ける。伊織さんの家にかかっている時計は、まるで二時間ドラマに出てくる古い家にかけられているような立派なものだった。振り子が絶え間なく揺れ動いている。こういうのって凄く高いんじゃないだろうか。と、いうか大正時代って時計なんてあったのだろうか? もっと、何もないイメージだったのだけれど、この家の中には時計がありある程度の食器もそろっている。コンロはないけど冷蔵庫だってある。家こそどこかボロく見えるけれど、でも置いてあるものなんかはどれも綺麗だし高そうだ。
 実は伊織さんって、こんなところに住んでいるけれどいいところの人なのでは……? そんなことを思いながら、伊織さんが戻ってくるのを一人待っていた。
 伊織さんが戻ってきたのは12時を少し過ぎた頃だった。冷蔵庫を開けると、手早く昼食を作ってくれる。

「あの、何か手伝い……」
「菫はそっちで座っていてください」
「でも……」

 してもらってばかり、というのは落ち着かない。けれど……。

「足を治すことが今の菫にとっての最優先ですから」

 そう言われると、私はもう何も言えず痛くもない足をさすりながらおとなしく座る。そんな私に背を向けて、伊織さんは手際よく料理を作り始めた。
 足を治すことが、か。やっぱり伊織さんは足が治ったら私を追い出す気でいるんだろうか。それもそうだよね、こんな見ず知らずの、それも伊織さんにしてみたら子どもを家に置いておくなんて……。
 ここから追い出されたら、私はどうすればいいんだろう……。
 しばらくして机の上に並べられたのは、ご飯とお味噌汁、それから鶏肉と野菜を甘辛く炒めたものだった。シンプルだけれど、とてもいい匂いがする。大正時代、といっても私たちの時代と料理にそれほど差がないことにはじめは驚いた。もっとこう……味もなければパサパサで素材そのもの! みたいな料理が出てきたらどうしようと思っていたから……。

「いただきます」

 伊織さんにそう言うと、優しく微笑んで「どうぞ」と言ってくれる。私は、伊織さんが作ってくれた料理に手をつけた。鶏肉は歯ごたえがあって醤油で甘辛く味付けされている。一緒に炒められているタマネギも甘くて美味しい。

「どうですか?」
「美味しいです! 特にこのタマネギ。すっごく甘いです」
「よかった。それ、僕が作ったんですよ」
「え……?」

 嬉しそうに言う伊織さんの顔を思わず二度見してしまう。僕が作ったとはいったい……。

「この家の裏で野菜なんかを作ってます」
「家庭菜園、みたいな感じですか……?」

 家庭菜園で野菜まで作れてしまうのか。でも、たしかに大葉なんかはうちでもベランダで作っていたりしたからそんな感じなのかもしれない。
 伊織さんが作ったタマネギ……。作った、の部分に背筋がゾクッとなるのは、きっと畑を実際に思い浮かべてしまったから……。

「大丈夫ですか?」
「え……?」
「無理して食べなくてもいいですよ」

 思い浮かべてしまったのでしょう? そう言われている気がした、だから、心配そうに私を見つめる伊織さんに慌てて首を振ると、私はタマネギを口に放り込んだ。タマネギはとっても美味しい。だから、大丈夫。

「やっぱり美味しいです」
「そうですか」

 ホッとしたように微笑むと、伊織さんもご飯を口に運ぶ。その頬にご飯粒がついているのを見て、思わず笑ってしまう。
 
「ふふっ」
「どうか……?」
「ここ、ご飯粒ついてますよ」

 私が頬を指さすと、伊織さんは恥ずかしそうに自分の頬へと手を伸ばす。その仕草が可愛くて、もう一度笑ってしまう。
 そんな私を見て、伊織さんが微笑んだ。

「やっと笑ってくれた」
「え……?」
「ここに来て数日が経ったけれど、ずっと悲しそうな顔か苦しそうな顔をしていたから」
「そ、そうですか……?」
「ええ。でも思った通りだ。やっぱり笑っている方が可愛い」
「っ……!」

 伊織さんの言葉に、私は自分の頬が熱くなるのがわかった。か、可愛いって……。

「菫は、どこか大人びた表情をすることが多いですが、そうやって年相応に笑っている方がいいと思います」
「あ、えっと……そ、そういう……」

 つまり、子どもっぽく笑っている方がいいと、伊織さんは言っているということで……。や、たしかに伊織さんからしてみたら子どもかもしれないけど……。

「菫? どうかしましたか?」
「別に……」
「本当に?」
「…………」

 伊織さんの言葉を勘違いして、一人照れたりがっかりしてました――なんて、言えるはずもなく。不思議そうに私の顔を覗き込んでくる伊織さんから目をそらした。

「あ――」
「え?」

 目をそらした拍子に、伊織さんの髪の毛に葉っぱがついているのが見えた。オリーブ畑で働いていると言っていたから、その葉っぱなのかもしれない。
 さっきのご飯粒といい、伊織さんだって子どもみたいじゃない。それも私よりもだいぶ年上のくせに。

「菫?」

 そんなことを考えていると、ちょっとしたいたずらを思いついた。私は伊織さんの呼びかけに返事をしないまま、何も言わずその頬に手を伸ばした。

「え、なっ……」

 そして、そのまま髪の毛に手を伸ばすと――。

「はい、取れましたよ」
「え……? 葉っぱ……?」
「何だと思ったんですか?」

 笑いながら伊織さんを見ると――耳まで真っ赤になっていた。その姿に何も言えなくなる。ちょっとしたいたずらのつもりだったのに……。

「あ、あの……」
「……あ、ありがとうございます」
「いえ……」

 気まずい沈黙にどうしたらいいかとそっと顔を上げると、伊織さんが困ったように笑っているのが見えた。つられるように笑うと、私は手に持った葉っぱをギュッと握りしめた。


 なんとなく気恥ずかしさが残るままご飯を食べ終えると、時計はもうすぐ1時になろうとしていた。たしか、伊織さんのお昼休みは1時までのはず……。
 
「あ、あの!」
「え?」

 食べ終わった食器を流し台に運び、洗い始めようとする伊織さんの背中に私は声をかけた。伊織さんは食器を置くと、不思議そうに振り返った。

「どうしました?」
「それ、私洗っておきます」
「ですが……」
「それぐらいさせてください。それに、もう行かなきゃいけない時間じゃないですか?」

 ジッと見つめる私に、伊織さんは少し悩んだような表情をしたあと、口を開いた。

「それじゃあ、お願いできますか? 助かります」
「はい!」
「くれぐれも無理はしないでください。足が痛いなと思ったら、そのままにして置いておいてくれて大丈夫なので」
「わかりました」

 頷く私に「では、いってきます」と言うと伊織さんは家を出て行く。伊織さんがいなくなった部屋で私は二人分の食器を洗い始めた。
 自宅でもこんなふうに私と、それから椿の食器を洗っていた。手伝うことなくテレビを見ている椿にイライラして、でもそのイライラすら伝えられずにいたことを思い出す。
 もっと、話をすればよかったのかな。そんなことを思った。
 いつだって言いたいことを飲み込んで……。でも本当はもっとちゃんと椿に話をして、椿の話も聞いて……。そうしたら、もっと違った関係も作れたのかもしれない。
 今更、そんなことに気付いたところで遅いのだけれど……。私は洗い終わった食器を拭きながら、もう戻らない日々を思った。
 

 翌日も、そのまた翌日も伊織さんが帰ってくるのをただただ待つ日々を過ごしていた。あまりにも暇な私のために、ノートを一冊と鉛筆を貸してくれたので日記をつけることにした。とはいえ、家の中にいるだけの私に書くような内容はなかったので真っ白なままだった。
 少しでも何かできることをと、洗い物とお掃除をする私をもう伊織さんは止めなかった。もしかしたら、足が治っていることに気付いているのかもしれない。
 このまま、話をせずにいてもいいのだろうか。いつ気付かれるのかわからない状況でいるのが嫌だ、というよりは……これだけお世話になっているのに、嘘をつき続けている自分自身が許せなかった。

「伊織さん」
「はい、どうかしました?」
「話があるんです」

 その日の夜、晩ご飯の片付けが終わったあと、私は自分の部屋に戻ろうとする伊織さんを呼び止めた。伊織さんは何かあったのか、という表情をしていたけれど、話があると言った私の表情が真剣なのに気付いたのか……静かに今に戻ってきた。

「話とは」
「それ、が……」

 でも、いざ話そうとすると、言葉が出てこない。
 足が治っていることを言って、ならここから出て行けとそう言われたら……。ううん、伊織さんはそんな人じゃない。それに……この数日、一緒に過ごしただけでもこの人がどんなに優しい人なのか知っているじゃない。その優しさに、これ以上付け込んじゃいけない。

「あの! えっと……」
「……ゆっくりでいいですよ」
「え?」
「ゆっくり、あなたが話せるときで大丈夫です。無理、しないで」

 ああ、やっぱり。この人は気付いている。私が、私の足が治っていることに気付いてて、それでも何も言わない私がちゃんと話をするのを待ってくれているんだ。

「足、治療してくれてありがとうございました」
「治療なんて……。薬を塗っただけですから」
「伊織さんのおかげで、すっかりよくなりました」
「それはよかった」
「……それで、これからのことなんですけど……私……」

 覚悟を決めて話し始めたはずなのに、上手く喋れない。このままじゃダメなのに、どうして……。

「……初めて会った日」
「え?」
「初めて会った日に、菫は自分のことを未来から来たんだと、そう言ってましたよね」
「はい」
「あれは本当ですか?」
「本当です」

 信じてもらえないかもしれない。でも、それでも私が違う時代から来たのは本当で、だからこの時代に居場所がなくて、だから……!

「未来の話を聞かせてもらえませんか?」
「え……?」
「菫の話を疑うわけじゃないんですが、やっぱりなかなか信じられなくて」

 それは、そうだろう。私だって自分の身に起きるまではそんなタイムスリップなんて映画や漫画の中にしかない話だと思っていた。でも、今実際に私はタイムスリップしてこの時代に来てしまっているのだ。

「……私が住む時代には」

 何があるのだろう。この時代になくて、私の時代にあるもの。私が違う時代から来たのだと信じてもらえるものは……。

「自動車が走っています」
「自動車? それならこの島ではいませんが、東京に行けば走っていますよ」
「その自動車が一家に一台あります。二台あってお父さんとお母さんがそれぞれ乗ってたりもします」
「それは凄い。自動車は我が家も父が所有していますが、高価なものです」
「それから家も二階建てや三階建ての家がたくさん建っていて……。あとは、なんだろ……」

 自分の生きている時代のことを話すだけなのに、どうしてこんなにも話せないんだろう。当たり前に過ごしていたことを、ボーッと見過ごしてきたのだと思い知らされる。

「……勉強はどうですか?」
「勉強ですか?」
「はい。今の時代は子どもは一部の人しか中等教育やそれ以上の教育を受けることができません。それでも初等教育を受けられる人の数は圧倒的に増えたのですが……」
「私の生きる時代では、十五歳まで義務教育といって全員が学校に行きます。あ、でも義務教育じゃないけど高校もほとんどの人が行くし……大学だって……」
「それは凄い。女の子もですか?」
「はい。私も来年には高校生になって、たぶん大学も行くんじゃないかと……」
「いい時代ですね。そんなふうに教育を受けたいと思う人がみんな学ぶことができる時代が、このあと訪れるんですね」

 そのあとも伊織さんはたくさんのことを聞いた。仕事のことや町のこと、世界についてなど。私に答えられる範囲で答えると伊織さんは喜び、そして目を輝かせた。こんなことならもっとたくさん勉強して答えられるようにしておけばよかったと思うけれど、まあ今更悔やんでも仕方がない。

「あ、そういえば」

 私は動かないので仕方なく箱に入れたままにしていたスマホを取り出した。

「それは?」
「これはスマートフォンって言って……えっと、電話です」
「これが、電話?」

 この時代にそもそも電話というものがあったのだろうか、という不安もあったけれど、意外とすんなり伝わった。私たちの時代にあるものはこの時代にはすでにあったんだなぁと思うとなんだか不思議な感じだ。

「はい。今はつかないんですけど、電源を入れて登録してある番号を押すと電話がかかります。あとメッセージ……手紙も送れます」
「これで手紙を? どこから手紙を入れるのですか?」
「手紙を入れるんじゃなくって、えっと……この機械で文字を打ち込んで、相手が持っているスマホに届けるというか……あ、スマホってスマートフォン、この機械のことです」

 当たり前のことを説明するというのが、こんなにも難しいことだとは……。インターネットに接続して検索もできると言おうと思ったけれど、それはもう言わずにおいておくことにした。だってインターネットって何ですか? って聞かれても上手く答えられる自信がない。

「はー、いろいろと僕が理解できないものがあるんですね」

 でも、私のつたない説明でも伊織さんは十分楽しんでくれたようで、電源の入らないスマホを不思議そうに眺めていた。

「私が違う時代から来たって、信じてもらえましたか?」

 私の問いかけに、伊織さんは優しく微笑んだ。

「疑ってなどはいませんよ」
「え?」
「菫が嘘をつくような子じゃないのは、この数日一緒に生活してきたからわかります」
「伊織さん……」

 でも、じゃあどうして未来の話が聞きたいなんて言ったの……? そんな私の疑問が伝わったのか、伊織さんは口を開いた。

「どうやってこっちに来たか、を知りたかったんです。でも、今の菫の話を聞く限りじゃあ、百年先だと言ってもそんな技術はできてなさそうですし」
「そう、ですね……。タイムマシーンはまだ完成していないんじゃないでしょうか」
「たいむま……え、なんですか?」
「あ、いえ。なんでもないです」

 思わず呟いた単語に、伊織さんは不思議そうに首を傾げる。でも、ここであの有名なアニメの説明をしたところで絶対に伝わらない。なので私は笑ってごまかすことにした。

「よくわかりませんが……。こちらに来た方法がわかれば菫が元に戻る方法もわかるのではないかと思ったのですが……」
「わからないんです……。すみません」
「菫が謝ることじゃないですよ。でも、帰る方法がわからないとなると……」

 伊織さんは何かを考え込むようにブツブツと一人で喋っている。私は……改めて言われた「帰る方法がわからない」という言葉に、胸が痛くなる。
 もう二度と、元の時代には戻れないかもしれない。
 それがこんなにも不安で、心細いことだなんて知らなかった。
 お母さん、椿……。
 私は思わず窓の外を見上げた。そこには百年先と変わらない星空が広がっていた。