気が付くと、空には太陽が輝いていた。いったいここはどこなんだろう。どうして私はこんなところにいるんだろう。
 訳もわからず身体を起こそうとしたとき、肘と、それから足に痛みを感じた。痛む箇所を見ると、肘には乾ききらない血がついた傷跡が、そして足首は赤く腫れ上がっていた。
 いったいどうして……。
 何があったのか、必死に思い出そうとした私は、蛍を追いかけて森の中へと向かったこと、そしてそのまま崖下へと転落したことを思い出した。
 どうりで身体のあちこちが痛いはずだ。……と、いうか落ちたのが確か午前2時過ぎ。今が太陽が昇っていると言うことは朝のはずなので、少なくとも翌日の朝、もしかしたらそれ以上も誰一人として私を見つけてくれなかったということだろうか……。そんな酷いことって……。

「あれ……?」

 そこでようやく、私は辺りの景色がおかしいことに気が付いた。さっきまで私がいたのは山だったはず。なのに、目の前に広がっていたのは海だったのだ。足下には砂浜が広がっている。崖の下が海だった? そんなわけがない。あそこは山で高原だったのだから。では、ここはいったいどこなのだろう。

「あの……」
「え?」
「大丈夫ですか?」

 ここがどこなのかわからず途方に暮れていた私に、誰かが声をかけた。少し低い、でも優しいその声に振り向くと、すぐそばに誰かが立っていた。
 その誰かは、真っ白なシャツにズボン、それからロングのジャケットという海辺には似つかわしくない格好をしていた。この人は、この場所はいったい……。

「あ、あの……私、その……っ!」

 慌てて立ち上がった私は、足の痛みに顔をしかめる。腫れているだけかと思ったけれど、思った以上に、痛い。
 そんな私の様子を見ていたその人は持っていたジャケットを私にかけると、心配そうに声をかけてくれた。

「足、怪我してるんですか? 肘も、血が出てるじゃないですか。いったい何が……」

 何が……? そんなの、私にも……。

「わからないんです……」
「わからないって……。……あなたは誰ですか? この島の人じゃない、ですよね」
「島……?」

 言われた言葉の意味がわからない。島ってどいうこと?
 そんな私の疑問なんて気にしていないようで、その人は私に近づいてくると肩に手をかけた。

「やっ……」
「動かないでください」

 そう言われたかと思うと、私の視界が揺れた。落ちる、そう思ったときには、私の身体は宙に浮いていた。ううん、正しくは――抱き上げられていた。

「な、何を……」
「足、痛いんでしょう? 僕の家がすぐそこにあるので行きましょう」
「あ、あなた……いったい……」
「僕は相馬《そうま》伊織《いおり》。この島の住人です」

 その人――伊織さんはそう言って微笑むと、私の身体をジャケットごと抱き上げたまま歩き出した。
 伊織さんの言った島、という言葉の意味はわからなかったけれど、伊織さんに抱きかかえられたまま辺りを見回す私の目にはどこまでも続く海が映っていた。その向こうに薄らと島のようなものが見える。伊織さんの言った島というのが本当なら、まさかあれが本州なの……? じゃあ、ここはいったいどこの島なの……?

「ここは、どこなんですか……?」
「ここは小豆島です」
「しょうど、しま……?」

 どこだったっけ……。日本地図を頭の中に思い浮かべると、必死に思い出す。たしか、四国と本州の間に浮かぶ離島……だったような……。え、じゃああの向こうに見えるのは、本州だと思ったけれど、もしかして四国……? いったい私、なんでそんなところに? だって、私は……。

「私、高原にいたんです。山です、山」
「そうなんですか……?」
「海里とかたくさんの人とキャンプをして……」
「キャンプ……ええっと、野営のことですね? 外来語を使いこなしているところをみると、どこかの国の……」

 伊織さんは一人ぶつぶつと何かを言っていたけれど、私の耳には入ってこなかった。そんなことよりも、どうして私がこんなところにいるのか。そっちの方が大問題だったから。
 状況がわからず、私は伊織さんに抱きかかえられたまま、頭を抱えることしかできなかった。そして、不思議な光景を目にした。
 伊織さんに「おはようございます」と挨拶をして通り過ぎていく人たち。その人たちが着ていたのは、着物だった。まるで、テレビで見る江戸時代や明治時代に着ていたような私たちが思い描く着物よりもずいぶんと質素な……。
 伊織さんはここを小豆島だと言っていた。それが本当なら私が住んでいる場所からはかなり距離のある離島だ。だとしても、今の時代に着物姿の人が、それも一人や二人じゃなく何人も歩いているなんて……。

「…………」
「もうつきますよ」

 伊織さんの声に顔を上げる。すぐそこにあるんです、という言葉の通り、伊織さんの家は海から歩いて五分ほどの場所にあった。けれど、その家はなんというか……私が想像した家とは違っていた。

「ここです」
「ここ……ですか」

 それは、まるで田舎のおばあちゃんちのような…… 。ああ、そうだ。この間テレビで見た昔の家に似てる。あれは、えっと……明治? それとも大正……。ああ、もっとちゃんと見ておくんだった。とにかく、それぐらい昔の家によく似ている。

「狭いところですが、どうぞ」
「ありがとう、ございます」

 伊織さんに抱きかかえられたまま入った家の中は、外から見るよりも綺麗だった。でも、やっぱりどこか違和感を覚える。本当にここは、現代なのだろうか。だって、家の中には囲炉裏があり、台所らしきところにはかまどが見える。これじゃあまるで、テレビの中の時代劇の世界に迷い込んできたみたい……。

「っ……」

 自分自身の考えに、ゾッとした。そんなことあるわけない。たまたまこの家が古い作りなだけで、他の家はきっと普通の作りに決まっている。ううん、他の家ももしかしたらこんな感じかもしれないけれど、きっとそれはこの島が昔からの家を受け継いでるだけで。だから、絶対そんなわけない。タイムスリップなんて、非現実的なこと、起きるわけが……。

「足を見せてください」
「え……?」
「痛めてるんでしょう?」

 伊織さんは私の足の腫れを確認すると、塗り薬のようなものを塗ると包帯を巻いた。普通、ここは湿布だと思うんだけど……。不思議に思っていると、伊織さんが説明してくれた。

「東京の方ではもう少しいい薬もあるかもしれませんが、ここではこれで勘弁してくださいね。軟膏を塗っておいたのでそのうちマシになると思います。肘は……これは洗い流すだけでよさそうですね。乾かした方が早く治ります」
「ありがとうございます……。あの、ところで今、東京って……」
「東京がどうかしましたか?」
「えっと、その……」

 東京がどうかしたのか、そんな聞かれ方をすると困る。東京を知ってるんですか? なんて質問はどう考えても変だし……。でも、当たり前のように伊織さんが東京という地名をいったところをみると、やっぱりタイムスリップなんてあるわけなくて、たまたま田舎なこの島に流れ着いただけのようだ。そう思うと少しホッとする。
 ただ、それにしては、服も濡れていないけれど……。
 と、思ったところで伊織さんが私をまじまじと見ていることに気付いた。

「あの……」
「ああ、すみません。それにしてもそんな下着のような格好であんなところにどうしていたのですか?」
「下着……?」
「それとも異国の方なのでしょうか? それにしては、日本語が堪能ですが……」

 言われている言葉の意味がわからず、身体を動かした拍子にかけてくれていたジャケットがズレ落ち、伊織さんが慌てて顔を背けた。そんな顔を背けられるほど変な格好はしていないはず。別に濡れて下着が透けているわけでもないし……。私は自分の格好を改めて見て、それから小首を傾げた。

「そんなに変ですか? たしかにそんなに高い服じゃないけど、でも別に流行りからめっちゃ遅れてるとか、ダサいとかそんなことはないと思うんですけど……」
「っ……! と、とりあえずその羽織を着てもらえませんか……? 目のやり場に、困ります……」
「は、はい」

 切実に伊織さんが言うので、私はいろいろと腑に落ちないけれど、言われた通りに借りた上着を着る。

「着ましたか?」
「はい」

 私の答えに、伊織さんは少し安心したようにこちらを向いた。

「安心しました」
「なんか、すみません」
「いえ……。ところで、あなたのお名前を伺ってもいいですか?」
「あ……」

 その言葉に、ようやく私は自分が名乗ってすらいないことに気が付いた。
 ……にしても、名乗っていない私が言うのもなんだけど、どこの誰かも知らない人間を家まで連れて来ちゃうなんて、この人ちょっと変な人なんじゃあ……。
 思わずジロジロと見てしまう私に、その人は少し困ったように頬をかく。

「いや、あの他意はなくてですね……。名前がわからないと、あなたのことをなんとお呼びしたらいいかもわかりませんし……」
「あ、いえ。それもそうですよね。えっと、私は――菫です」

 それでもやっぱり警戒してしまった私は名前だけを告げた。別に名字を隠したところで何がどうなるわけじゃないけれど、でもなるべくなら隠せる情報は隠したい。特にこの人がどういう人なのかわかるまでは。
 ……こういう、年相応じゃない考え方がダメだったのだろうか。たまにクラスで私の発言が浮いてしまうことがあった。そういうときは、海里がよくフォローしてくれてたんだけど……。海里、今頃心配してるかな……。私がいなくなったことで海里のおばちゃんから怒られたりしてないといいなぁ。私が勝手に抜け出したのであって海里は関係ないんだから。

「菫さん?」
「あ、すみません」

 そんなことを考えていると、何度か私の名前を呼んでいたようで、目の前で伊織さんが心配そうな表情で私を見ていた。

「大丈夫ですか? 具合でも悪いのですか?」
「あ、いえ……。そんなことは……」
「ならよかった」

 優しく微笑むその笑顔に――私は、なんとなくこの人は別に悪い人じゃないんじゃないか、と思った。ただの勘だけど、でも外れてない気がする。

「あの、もう一度聞いてもいいですか?」
「はい」
「ここは、どこなんですか?」
「ここは小豆島です。西村地区、という名前に聞き覚えは?」
「うーん……。小豆島って名前は聞いたことあるし地図上でもなんとなくあの辺っていうのはわかるんですが、地区名までは……」
「そうですか」

 眉間にしわを寄せて、うーんと唸ると伊織さんは引き出しから一枚の紙を取り出して広げて見せた。そこには、日本の地図が書いてあったのだけれど……。

「ここが小豆島。この辺が西村ですね」
「私が住んでいる場所はここです」

 地図を指さすと、もう一度伊織さんは唸る。それもそのはずだ。私が住んでいる県から小豆島までは海を渡らないとたどり着かない。ううん、海を渡るまでにもだいぶ距離だってある。ちょっとやそっとじゃたどり着けるわけがない。

「数年前なら戦争から逃げるための船が難破してたどり着くこともあったのですが、今は……」
「戦争……?」

 耳なじみのない言葉が聞こえる。だって、戦争なんて私のおばあちゃんのうんと小さな頃に起きたっきり日本では起きていない。そりゃあ世界の中では今も戦争が起きている地域があるってことは知っているけれど、日本に船でたどり着けるような場所じゃないし……。

「あの、戦争って……」
「四年ほど前に世界を戦火とした戦いがあったでしょう? このあたりも……」
「え……?」

 伊織さんの口から出たその単語に、私は言葉を失った。だって、そんなことあるわけない。日本が最後に戦争をしたのは第二次世界大戦、それも1945年には終戦を迎えている。この辺は、授業で習ったから年号までバッチリだ。そして第二次世界大戦は、私のひいおばあちゃんの世代の話のはずだ。戦争についてという授業で、介護施設にいるひいおばあちゃんのところに話を聞きに行ったから間違いない。
 でも、今この人は四年ほど前に戦争があったと言った。終戦が1945年と言うことは、今は、まさか……。

「き、聞いてもいいですか……? その、今は、何年ですか……? えっと、つまり……」
「何年? もちろん大正11年です」
「大正って……。それ、えっと西暦でいうと……」

 伊織さんは当たり前のように言うけれど、私の頭は追いつかない。つまり、さっき言っていた戦争は第二次世界大戦どころか、もっと前の……? 社会の授業で習った年表を必死に思い出す。日清戦争は焼きそばひとつやーくーよで1894年。日露戦争がその10年後だから1904年。そこまでは確か明治時代のはず。その次は――さらに10年後。そう、1914年、第一次世界大戦……。終戦はそれから4年後のことで……。まさか……

「1922年ですが……。あ、ちょっと。大丈夫ですか?」
「う、そ……」 

 1918年に終戦して、今が1922年。計算は合う。合うけれど……。
 大正が、私たちの時代よりも、ううん、それどころか平成よりも昭和よりも昔だってことぐらい私にだってわかる。でも、だからといってそれを受け入れることなんてできない。だって、伊織さんが言うことが確かなら……私は100年近く昔の世界にタイムスリップしてきてるってことなのだから……。

「え、えっと……からかって、ます?」
「何がですか?」

 私の言葉に、伊織さんは意味がわからないとでも言うかのような表情を浮かべる。その表情に、反射的にわかってしまう。ああ、この人はきっと嘘をついてなんていないということが。と、いうことは……ここはやっぱり……。

「わ、私……相川菫っていいます」
「え……?」
「皐月中学校の三年生で、幼なじみの海里とキャンプに来てて……」
「菫さん……?」

 こんなこと言っても信じてもらえないかもしれない。でも……。

「私の住む世界での元号は、令和です。大正は――私の住む時代の、100年以上昔の元号なんです」
「……そ、れは」

 伊織さんが怪訝そうな表情を浮かべているのが見なくてもわかる。私だって、言っていて半信半疑なのだ。それを目の前の人に信じろと言う方が無茶だ。
 でも、じゃあ、どうしたら……。

「……菫さん」
「っ……」

 伊織さんの声に、心臓がギュッとなるのを感じる。変なことを言う子どもだと思われただろうか。気持ちが悪いと追い出されるのかもしれない。でも、そうなったら私はどうしたらいいんだろう。だって、ここは伊織さんの言うことを信じるなら私が住んでいた時代よりも100年以上前で。なんとか私が住んでいた街にたどり着けたとしても、きっとそこには誰もいない。

「ふふ……」

 自分の思考に、笑いがこみ上げる。この時代でも、元の時代でも待っている人なんていないと言うのに、それでも帰りたいと思うなんて……。
 そんな私をどう思ったのか、伊織さんは立ち上がるとどこかへ行ってしまう。もしかしたら警察のような人を呼びに行ったのかもしれない。

「どうぞ」
「え……?」

 けれど、コトン、という音に顔を上げると、私の前にマグカップが置かれていた。中身はお茶だろうか。薄緑色の液体から湯気が立つのが見える。

「あの……」
「これを飲んで、とりあえず落ち着いてください。先のことを考えるのはこれからにしましょう」
「先の、こと……」
「あなたの言うことを全て信じることはできませんが……、行く場所がなくて困っていることはわかります。だから、とりあえずは足が治るまではここにいてください」
「いいんですか……?」

 顔を上げた私に、伊織さんは優しく微笑んでいた。

「そんな捨てられた子犬のような表情をしている子を、ましてや怪我をしているお嬢さんを放り出すことなんてできませんから」
「ありがとう、ございます……」

 伊織さんの優しさに、涙が出そうになる。ここが本当に大正時代でタイムスリップしてきたのだとしたら、これからさき私はどうなってしまうんだろう。元の世界に戻ることはできるのだろうか。それとも、これから先の人生を、この時代で過ごすことになるのだろうか……。
 でも、それもいいのかもしれない。誰にも望まれずあの時代にいるよりも、この世界にいるほうが、みんな幸せなのかもしれない。

「…………」

 胸がズキッと痛む。けれど、その痛みに気付かないふりをすると、私は伊織さんが入れてくれたお茶に口付けた。少し熱いそのお茶は、私の身体を温めてくれる。お茶なんてご飯の時ぐらいしか飲まなかったけれど、改めて飲むと美味しい……。

「落ち着きましたか?」
「……はい」
「それじゃあ、改めて自己紹介をしますね。僕は相馬伊織。この島のオリーブ園でオリーブの生育をしています」
「オリーブ……」

 オリーブとはあのパスタなんかに入ってるあれのことだろうか。首を傾げた私に、伊織さんは小さく笑う。

「少し落ち着いたら、島の中を案内しますね。実際に見た方が早いと思うので」
「すみません」
「謝る必要はないですよ」

 海里や学校の男子だちとは違った落ち着きのある態度。もしかしたら私よりもずいぶんと年上なのかもしれない。

「あの、伊織さんはいくつなんですか?」
「僕ですか? 28歳です。菫さんは?」
「14歳、です。あ、でもまだ誕生日を迎えてないので……。誕生日が来たら15歳になります」

 思った通り、私よりも13歳も年上だった。そりゃあ、海里たちと比べるのも失礼なぐらい落ち着いているはずだ。

「そうですか。ではもう立派なレディですね」
「レ、レディって……」
「何を慌てているのです? 15歳であればもう結婚もできる立派なレディですよ。僕の従姉妹もそれぐらいの年には結婚して嫁いでいきました」

 時代が違うと、結婚の風習も違うのだろうか……。そういえば、昔は私の年ぐらいでお嫁に行っていた、なんて何かで読んだことがあるような気がするけれど、それはもっともっと昔の話だと思っていた。……100年前が昔じゃないかと言えばそんなことはないのだろうけれど。
 
「ああ、そうだ。この家にあるものは基本的に自由に使ってもらって大丈夫です。それから……」
「あ、あの!」
「なんですか?」
「そんなこと言っちゃって……私が家の中のものを盗んだりとか壊したりとかしたら、って思わないんですか……?」

 私は伊織さんの話を遮ると尋ねた。こんな簡単に、家の中に入れてしまって、あまつさえしばらくここにいたらいいなんてお人好しが過ぎるし、逆に心配になってしまう。でも、そんな私の心配を伊織さんは笑い飛ばした。

「ふっ……あはは。大丈夫ですよ」
「な、何がですか?」
「本当に悪い子は、そんな心配しませんから」

 私の頭を優しく撫でると、伊織さんは微笑む。その手が温かくて、ホッとする。こんなふうに、誰かに頭を撫でられるなんていったいいつぶりだろう……。お父さんがいた頃は、こんなふうに……。

「こ、子ども扱いしないでください! レディ、なんでしょう?」
「ああ、すみません。そうでしたね。レディをつかまえて子どもなんて言っちゃダメですね」

 それでもまだおかしそうに伊織さんが笑うから……私もつられて笑ってしまった。この人を信じてもいいのかもしれない。いつまでここでお世話になることになるかなんてわからないけれど、でも今はこの人しか頼れる人がいないんだ。

「ご迷惑おかけしますが、よろしくお願いします」

 私の言葉に伊織さんがもう一度微笑む。
 こうして、私と伊織さんとの――大正時代での生活が幕を開けた。


 自己紹介がすんだところで、伊織さんは仕事があるからと言って私を残して家を出て行った。いくら何でも信用しすぎだと思うし逆に心配になるけれど、人の良さそうな笑顔を浮かべて家を出て行く伊織さんを見送るしかできなかった。
 家に一人で残された私は、痛む足を引きずりながらせめて家のことでもしておこうと思って、改めて伊織さんの住む家の中を見渡した。
 外から見たときほどボロい、もとい古い印象はない。入ってすぐのところに台所のような場所があり、靴を脱いでリビング、というよりは居間のような部屋がある。ちなみに、私が今いるのがその部屋だ。部屋の真ん中には囲炉裏があって今は火が消えているけれどここでお湯を沸かしたり冬になると暖炉のように使ったりするそうだ。それから、収納のような引き戸と――あとは伊織さんからお手洗いだと言われた小さな扉。その隣にはお風呂があると言っていた。それからふすまの向こうは寝室があって……。一人暮らしであればこれぐらいの部屋数なのだろうか。周りに一人でマンションなどに暮らしている人がいないからピンとこない。
 見たところテレビもなければパソコンもない。いったいここで何をして過ごせというのか。せめてスマホでもあれば――。

「……スマホ!」

 私は、ふと思い出してポケットを探った。たしか、コテージを出るときにスマホを持ってきていたはず。どうして今まで思い出さなかったんだろう。気付かなかったのが不思議なぐらい、それは当たり前のようにポケットの中にあった。ただ……。

「真っ暗……」

 崖から落ちた拍子に壊れたのか、電源すら入らない。まあ、入ったとしても本当にここが大正時代なら電波なんてないわけで意味はなかったのだけれど。それでも、わずかにあったもしかしたらという希望さえも打ち砕かれた気がした。


 結局、伊織さんが帰ってくるまでの時間、何もすることがなかった私はボーッと座っているだけだった。時々眠くなってウトウトとすることはあったけれど、それでも退屈な時間の方が長い。
 何もすることがないと、余計なことばかり考えてしまう。お母さんは、椿は私がいなくなって少しぐらいは悲しいと思ってくれているだろうか。心配してくれているだろうか。そんなこと思うわけがないとわかってはいても、それでもほんの少しぐらいは、と淡い期待をしてしまう。それから――海里は自分を責めてはいないだろうか。結局、海里のことを無視したままだったな。こんなことなら、何を言おうとしたのかちゃんと聞いておけばよかった。
 後悔ばかりが頭をよぎる。

「っ……ふっ……」

 気が付くと、私の頬を涙が濡らしていた。てのひらで拭うけれど、次から次に溢れてくる涙を止めることはできない。
 こんなことなら、お母さんと椿にごめんなさいって言っておけばよかった。本当はずっと言いたかった。お父さんを、殺してしまってごめんなさいって。私のせいで、お父さんが死んじゃってからずっと、ずっと。恨まれてるって知っていた。でも、お父さんじゃなくて私が死ねばよかったんだって言われるのが怖くて、ずっと向き合えなかった。けど、こんなことになるなら、謝ることしかできないけれどそれでも許してもらえるまで何回でもごめんなさいって言えばよかった。たとえ許してもらえなくても、謝り続ければよかった。
 こんな遠くに来てしまったら、謝ることさえできないのに――。

「ごめんな、さい」

 小さく呟いたその声は、誰もいない空間に吸い込まれていく。そして私は――そのまま眠りについた。
 夢の中で私は――お父さんとお母さんと椿が幸せそうに笑っている、その光景をずっと遠くから見守っていた。


「菫さん」
「っ……」
「起きてください」
「あ……私……」

 気が付くと、部屋の中は薄暗くて、いつの間に帰ってきていたのか伊織さんの姿があった。窓の外から水音がして雨が降っているのだと気付いた。

「おかえり、なさい」
「ただいま戻りました」

 雨に濡れたのか、タオルで頭を拭きながら伊織さんは微笑む。起き上がった私は目尻にたまった涙がこぼれ落ちたことに気付いて、伊織さんにバレないように慌てて拭った。
 そんな私の態度に気付かなかったのか――ううん、気付かなかったふりをしてくれたのか、伊織さんは外を見ながら口を開いた。

「少し前からぽつりと来てたんですが、思ったよりも本降りになってきたので戻ってきたんです」
「そうだったんですね。……っ」

 伊織さんが部屋の明かりをつけると、その姿がはっきりと見えた。雨が降ってきて走って帰ってきたのだろう。伊織さんの上着には泥がはねたのか、ドロドロに汚れていた。

「菫さん?」
「あ……そ、その……それ、どうしたん、ですか……?」
「ああ、これですか。雨が降ってきたので羽織ろうとした拍子に地面に落としてしまいまして。……それがどうかしましたか? 菫さん?」

 私の態度に伊織さんは上着を脱ぎながら心配そうな表情を浮かべる。大丈夫です、なんでもないんです。そう言いたいのにうまく声が出ない。
 あの日も、こんなふうに雨が降っていて、それで私は――。

「菫さん……菫!」
「あ……」
「どうした? 苦しいのか?」
「わ、わた……」

 呼吸の仕方を忘れてしまったかのように、上手く息を吐き出すことができない。あの日の出来事が脳裏によぎって、ますます息苦しくなる。
 雨が降り始めて急いで走る自転車の揺れ、捕まったお父さんの背中、突然の衝撃に投げ出され田んぼの中に落ちた衝撃と泥水の感触、それから……お父さんの身体が宙を舞い、地面に投げ出される様子……。

「私のせい、で……」
「菫?」
「私が……ケーキを食べたいって言ったから……。私のせいで、お父さんが……お父さんが……」

 フラッシュバック、というのだろうか。次から次に思い出されるあの日の様子に、私の身体は震えていた。苦しい、苦しい、苦しい……。

「菫!」

 伊織さんが私の名前を呼んだのと、私の身体が温かいぬくもりに包まれたのは同時だった。

「あ……」

 そのぬくもりが伊織さんの体温だと気付いたのは、先ほどまで全身を襲っていた震えが止まってからだった。
 すぐそばで聞こえる心臓の音が心地いい。

「大丈夫……?」
「は、はい。わ、私……すみません!」

 慌てて身体を離す私を、伊織さんは心配そうに見つめている。

「謝らなくていい。……けれど、いったいどうしたんだ?」

 伊織さんの口調が砕けたものになっていて、丁寧な言葉を使う余裕がないぐらいに心配させたんだと思うと申し訳なくなる。

「そ、その……」

 なんて言えばいいのだろう。どう言えばごまかせるだろう。
 一瞬、そんな考えが頭をよぎった。けれど、そんな思いとは裏腹に、口から出たのはもう思い出したくもないあの日のことだった。

「私……父親を殺したんです」
「……どういう」

 伊織さんが言葉に詰まったのがわかった。せっかく優しくしてもらえたのに、もうダメかもしれない。でも、もう止められなかった。

「子どもの頃、お父さんにケーキが食べたいって泣いたことがあって」

 あれは、私が9歳、椿が5歳の時だった。お母さんが私と椿に買ってきてくれたイチゴのショートケーキ。それを私は床に落としてしまった。泣いて泣いて泣き止まない私をお父さんが自転車でケーキ屋さんまで連れて行ってくれることになった。

「家を出る時点で雨が降りそうだったのをよく覚えてます。案の定、ケーキ屋さんまであと少しというところで雨が降り出して……。イチゴのケーキを買い直して慌てて家に帰ろうとしました」

 小雨だったらよかったんだけれど、思ったよりも強い雨が降ってきて視界が悪くなった。一瞬で地面には水たまりができて……。

「危ない、って思う間もなかったです。気付いたときには私は田んぼの中で泥だらけでした。おとうさっ……、お父さんは……視界の悪さに気を取られたトラックに……ひかれて……」

 お父さんは私の目の前ではね飛ばされた。どんどんと血が流れて、雨と混じって辺りを真っ赤に染めていく。自転車のハンドルはあり得ない方向に折れ曲がってるし、はねられた拍子に潰れたイチゴのショートケーキは、ぐじゃぐじゃに潰れて跡形もなかった。
 そのあとのことはよく覚えていない。ただ動かないお父さんをたくさんの人が助けている間、ずっと田んぼの中で泥まみれになっていた。私の存在に気付いてくれるまで、ずっと。

「あの日から、泥を見るとお父さんが死んだときのことを思い出してしまって……。さっきは、それで……。すみません」
「いえ……」

 カタカタと震える指先を反対の手で握りしめる。今日会ったばかりの人に、どうしてこんな話をしているのか。自分でもよくわからなかった。でも、自然と口が動いていた。今まで、海里にしかこんな話したことなかったのに……。

「だから、こんな形でだけど家から出られてホッとしているところもあるんです」
「どういう……」
「私のせいで――ううん、私がお父さんを殺しちゃったから……お母さんや椿に恨まれても仕方ないから……。そんな二人のそばにいるのが辛かったから……」

 二人とも何も言わない。でも、本当はずっと私のことが疎ましかったに違いない。お父さんを殺した私のことが憎くて仕方なかったに違いない。

「そんなこと思ってるわけ……」
「思ってるんです! だって、お父さんが死んだあとお母さん言ってたもん! 『「どうしてあの人が。どうしてケーキなんか。あの日、菫があんなことを言わなければ……!』って! お母さんが夜、仕事に行かなきゃいけなくなったのも、椿が寂しい思いをするようになったのも、全部、全部私のせいなんだから……!」

 頬を涙が伝う。私に泣く資格なんかないのに……。
 でも、そんな私の頬に伊織さんの指先が触れた。そっと涙を拭うと、伊織さんは私の身体を優しく抱きしめる。

「泣かないで」

 伊織さんはまるで幼い子どもに言い聞かせるように、優しく私の背中を撫でながら話した。

「菫は悪くない。お父さんが亡くなったのは、菫のせいなんかじゃない」
「ちが……!」
「少なくとも、僕はそう思う。だから、もう苦しまないで」

 伊織さんの優しい言葉が、私の心に染みこんでいく。出会ったばっかりで、私のことなんてなんにも知らないのに……なのにどうして、私が一番欲しかった言葉をくれるの……。

「っ……」
「君のせいじゃない。大丈夫、大丈夫ですから」
 
 顔を上げると、伊織さんが優しく、でも寂しそうに微笑んでいた。その表情が気になって思わず名前を呼んでいた。

「伊織、さん?」
「……菫の話だけ聞いて、自分のことを言わないのは卑怯ですね。僕の母親は、僕を産んだときに死にました」
「え……?」

 伊織さんを、産んだときに……?

「元々、身体が強くなかったこともあって、兄を産んだあともう子は作らない方がいいと言われたそうです。ですが、僕ができて――母は産むことを決めたそうです。絶対に大丈夫だから、と。ですが……」

 伊織さんは顔を歪める。こんな表情をさせたかったわけじゃないのに……。私は、さっき自分がしてもらったみたいに伊織さんの背中を撫でる。そんな私に、伊織さんはそっと微笑んだ。

「ありがとうございます。……菫は、僕のせいで母が死んだと、そう思いますか?」
「思わない! だって、伊織さんのお母さんはきっとそんなふうに思うことを望んでないと思うもん!」
「はい、僕もそう思います。そう思わせてくれたのは、父や兄がどれだけ母が僕の誕生を心待ちにしていたかを何度も何度も話して聞かせてくれたからだと思います。僕は愛されていたんだと。……菫もそうじゃないですか?」

 伊織さんの言葉に、私は何も言えなくなる。私は、どうだっただろう。お母さんが口を開くと、責められてるとばかり思っていたけれど、本当はいったいどういう気持ちで私にお父さんの話をしていたんだろう。わからない。ううん、わかろうとしなかったんだ。自分のせいだと責められていれば、みんなが私を責めるんだと悲劇のヒロインぶって全てを遮断していたんだから。

「…………」
「これ、ちょっと洗ってきますね」

 何も言わなくなった私の頭を優しく撫でると、伊織さんは立ち上がり泥だらけになった上着を持って洗面所へと向かった。
 そういえば、いつの間にか伊織さんの口調が元に戻ってたな……。そんなことを考えながら窓の外を見ると、まだ雨が降り続いていた。
 残された私は、しとしととふる雨の音を聞きながら、お母さんや椿のことを思い出す。本当は、私のことをどう思っていたのか――。もう二度と聞けないかもしれない質問の答えを。

 
 その日の夜、私は伊織さんがかまどや囲炉裏を使って作ってくれたご飯を食べて、伊織さんが出してくれた布団に入った。
 ちなみに私が寝ているのは居間で、伊織さんは別の部屋で眠っていた。そちらは普段伊織さんが寝室として使っているようで、最初は自分が今に布団を敷いて私にそこで寝るようにと言っていたのだけれど、さすがにそこまで甘えられないと言うとしぶしぶ予備の布団を渡してくれた。

「っ……」

 一人布団に入って目を閉じると、涙が溢れてくる。思い出すのは「あなたのせいじゃないのよ」と寂しそうに微笑むお母さんの顔。それから「お姉ちゃん!」と私を呼ぶ椿の声。どちらもずっと私を責めていると思っていたのに、今になってあれは私のことを心配していたのではないかと思う。

「お母さん……。椿……」

 名前を呼ぶと、嗚咽が混じる。ぐしゃぐしゃに濡れた顔を、伊織さんに借りた浴衣のような寝間着の袖で拭うと、ぎゅっと目をつぶった。いつか、もう一度会えたら、ごめんなさいって伝えたい。そんな日が、いつか来るのなら――。