夢を見た。お父さんがいてお母さんが笑っていて、妹の椿《つばき》がたどたどしい足取りで私の隣を歩く夢を。幸せな、夢を。もう二度と戻らない幸せな時間。
あの頃は幸せだった。でも、あの幸せを壊したのは――。
「……あっつ」
懐かしい夢から目覚めると、まるでシャワーでも浴びたあとのように全身が汗でぐっしょりなっていた。私は汗でぺったりとくっついたパジャマを脱ぎ捨てると身体を起こした。気だるい空気の中、壁際に目をやるとかけっぱなしにしていたエアコンはいつの間にか止まっていた。
……どうりで暑いはずだ。
夏休みが始まって今日で一週間。夏真っ盛りとはよく言ったもので、連日35℃を超える日が続いていた。この暑さじゃあ、今日もすでに30℃を超えているのかもしれない。
とりあえずシャワーでも浴びよう、そう思って時計を見ると止まっていたのはエアコンのスイッチだけではなかったようだ。
いつの間に目覚ましが止まっていたのか、時計の針は出発予定の十五分前を刺していた。
「最悪……」
思わず呟くけれど、悪態をついたところで事態が変わるわけではない。それどころか、脱いだパジャマを拾い上げている間にも時計の針は動いていく。
シャワーを浴びることを諦めると、仕方なく私は昨日のうちに準備していた服に着替えた。この暑いのに薄手のパーカーを腰に巻くのは、今日から二泊三日で向かうキャンプ場というのが山の中にあるからで。夜になると涼しいを通り越して寒いと誰かから聞いて来た母親が口うるさくいうから準備したけれど、本当に必要なのだろうか。
「それにしても、中三になってキャンプとかあり得ない……」
周りの友人たちはこの夏は塾や家庭教師に忙しく、遊ぶ余裕はなさそうだった。友達と遊べないということは夏休み中家にいることになる。それは避けたかった私は、友達と遊べないならちょうどいいだろうと言われ、それもそうかと思い行くことにしたのだけれど、やっぱり行かないって言えばよかった。
どうせキャンプに行けばぐしゃぐしゃになってしまうと思うとくしを取るのも面倒になり、私は指で軽く髪の毛を梳《と》かすと、高い位置でポニーテールにした。サンサンと太陽の光が降り注ぐ窓を見て、絶対にこのパーカーいらないって……と思いながらも、とりあえずリュックを手に部屋を出た。
「お、おはよう。菫《すみれ》。よく眠れた?」
リビングに向かうと、すでに起きていた母親と椿がキッチンとリビングで何かを楽しそうに話していた。けれど、私の姿に気付くと慌てて話を切り上げてこちらを向いた。
「おはよう! お姉ちゃん。あと五分遅かったら起こしに行こうかと思ってたんだよ」
「……おはよう」
二人と同じように上手く笑えているだろうか。変な顔になっていないだろうか。引きつりそうになりながら作った笑顔のまま、私は机の上に用意されていた牛乳を飲み干すと、小さなパンを口に放り込んだ。
「お姉ちゃん、お行儀悪いよ」
「ごめん。でも、遅れそうだから」
「あーあ、今日と明日はお姉ちゃんのご飯食べられないのかー。残念だなあー」
「ごめんね」
朝見た夢のせいだろうか、椿の顔を見ることができない。甘えたように言う椿に、私は口先だけで謝ると、キッチンにいる母親の方を向いた。
「……もう行くね」
「あ、これ水筒」
「ありがと」
「気を付けてね? 海里《かいり》君も一緒だから大丈夫だと思うけど……」
幼馴染の名前をあげながら、心配そうに母親は言う。そんな母親に「大丈夫だよ」と言うと、私は戸棚から買っておいたおやつを取り出そうとして、手を止めた。
「……あれ?」
「あ! お姉ちゃん、ごめん。そこにあったお菓子、私食べちゃった……」
「……そっか」
イラっとしなかったと言えば嘘になる。でも、何も言えなかった。いつだってそうだ。言いたいことの半分以上を飲み込んでしまう。あの日からずっと……。
「ごめんね……?」
「……もういいよ。行ってきます」
別に、お菓子なんてなくたっていい。それよりも息苦しくて仕方がないこの家から、一秒でも早く、出ていきたかった。ここにいると、いつだって責められているような気持ちになる。
二人の顔を見ないようにリビングを出ると、私は急いで靴を履いた。――正しくは、履こうとした。けれど、用意しておいた新しい靴は、靴ひもを結ぼうと引っ張ると、なぜかひもが切れた。
「もうっ……!」
他の紐に変えればいいだけの話だけれど、グズグズして二人が様子を見に来たら面倒だ。私のことなんて放っておいてくれればいいのに、母親と椿はいつだって私の様子を気にして見に来る。二人にそんなつもりがないことはわかっている。でもそんな二人の態度に、まるで監視されているかのように感じてしまうのだ。
仕方なく、私は学校に行くときに履いているスニーカーを引っ張り出すと、かかとを踏んづけたまま玄関を飛び出した。
家を出てしまえば私は自由だ。嫌な思いをさせることもないし、二人の視線や言葉を気にすることもない。
面倒でキャンプなんて行きたくなかったけれど、三日間も家から離れられることを考えると迷わず参加することに決めた。本当はキャンプなんて、想像しただけでも鳥肌が立つ。でもコテージがあると言っていたし、テントで寝るわけじゃないからたぶん、大丈夫。きっと……。
「おはよう、菫」
「海里。おはよ」
「何、朝から辛気臭い顔してんだよ」
「別に」
少しの不安を抱えながら、キャンプ場へと向かうための集合場所である集会所へと向かうと、すでに来ていた幼馴染の海里が声をかけてきた。海里とは母親同士が親友で、私たちも赤ん坊のころから一緒に育った。まるで出来の悪い弟のような存在だ。
今回も、海里が一人でキャンプに参加するのを心配した海里のお母さんから一緒に行ってやってくれないかと頼まれたのがきっかけだだった。子どもじゃないんだからそんなに心配しなくてもと思わなくもないけれど、それほど心配してもらえるというのが逆に羨ましくも思う。私なんかは口先では心配されていてもきっと本心じゃあ家にいなくてせいせいすると思われているだろうから。
「楽しみだなー。うちの母親、虫が嫌いだからさ絶対キャンプなんて連れて行ってくれなかったんだよ」
「ふーん」
「なんだよ、菫は楽しみじゃねーの?」
「別に。キャンプって言ったってコテージに泊まるんだから、家にいるのとたいして変わんないでしょ」
私の言葉に、海里は不服そうな顔をしているけれど気にしない。そうこうしている間にも、点呼が行われ、キャンプ場へと向かうためのバスへと乗り込んでいく。
私の隣には当たり前のように海里が座った。
「窓際、俺が座ってもいい?」
「いいけど」
「サンキュ。バスってどうも酔いやすくてさ」
海里は席に着くなり、リュックの中から取り出した薬を口に含んでいた。家で飲んでくればいいのに、と思ったけれどもしかしたら直前に飲まないといけないものなのかもしれない。尋ねてみようかとおもったけれどやめた。
聞くほど興味はなかった。薬にも、海里にも。
薬を飲んだあとも、ごそごそとリュックの中を漁っていた海里は、何かを見つけると嬉しそうに取り出した。
「これ、いる?」
「これって……」
「菫、これ好きだったろ?」
海里が差し出した、きな粉味のチョコでコーティングされたお菓子で。それは、私が持って行こうとして買っておいて、椿に食べられてしまったものと同じだった。
「なんで……」
「よく食べてたなーと思って。あ、もう好きじゃない?」
「そんなことないけど……」
海里の手からそれを受け取ると、朝の出来事が思い出されて……。私にそんな資格なんてないとわかっていたけれど、でもどうしても我慢できなかった。
「あのね……!」
勢いよく話し始めた私の言葉を最初こそ真剣に聞いてくれていた海里だったけれど、次第に呆れたような、くだらないとでも言いたそうな顔で私を見ていた。
「――ねえ、真面目に聞いてる!?」
「聞いてるって」
海里からもらったお菓子を握りしめたまま、私は噛みつくように海里に言う。この苛立ちをわかって欲しいのに……。
「まあそういうときもあるよ」
「ホントに? 私のことが嫌いだからわざとやったんじゃない?」
「そんなことないよ」
私の言葉に、海里は困ったように頭を掻く。困らせたいわけじゃない。でも、どうしても言わずにはいられなかった。
「お父さんを殺した私を、恨んでるんじゃない? 椿も、お母さんも」
「ちょ、声大きいって」
海里が慌てたように私の口をふさぐと、周りを見回す。幸い、周りはそれぞれの友達と話すのに夢中で私たちの会話なんて気にも留めていないようだった。
私の口に当てていた手を離すと、海里はため息を吐いた。
「いつも言ってるだろ。あれは事故だから。菫が殺したわけじゃないから」
「でも、お父さんが死んで私だけ生き残った。それは事実だよ」
お父さんの代わりに私が死ねばよかったんだと、何度も何度もそう思った。今からでも私が死んでお父さんが生き返るならこの命を差し出したっていい。そんな子供染みたことを何度も思った。3年前のあの日、お父さんが死んだときから――。
「それ、菫のお母さんが聞いたら怒るぞ」
「怒らないよ。本当のことだもん」
「怒るって。なんなら一回言って怒られればいいよ」
「そんなこと……」
そんなことできるわけがない。それで「その通りよ」なんて言われたら、その日から私はどんな顔をしてあの家に暮らせばいいのだろう。今だって、必死に存在価値を探してるのに。
そう言う私に、海里はあからさまに呆れた表情を向けるともう一度ため息を吐いた。
「それで、椿ちゃんの晩飯作ってんの?」
「そうだよ。そうでもしないと、あの家に私がいていいのかわからなくなる」
「菫……」
海里にはわからない。私があの家にどんな気持ちでいるかなんて。少しでもいいから、あの家にいてもいい理由が欲しかった。理由さえあれば、少しでもあの家にいることを望まれていると思えるから。
「ホント、一回話したほうがいいと思う。お前が思ってるようなこと、きっとおばさんも椿ちゃんも思ってないよ」
「どうして海里にわかるのよ」
「わかるよ」
「わかるわけないじゃない!」
海里の言葉に、思わず声を荒らげてしまう。どうしてそんなことを言われなきゃいけないのか。海里に私の気持ちなんてわかんない。ただ私は、大変だったなって、ついてなかったなって言って欲しかっただけなのに。
だいたいこのキャンプだって、私が行かなきゃ海里は参加できなかったはずだ。じゃなきゃ、心配性で若干過保護な海里のお母さんが許すはずがない。だから海里は、私に感謝することはあったとしても、こんなふうにぞんざいに扱っていいはずがない。
「海里のバカ」
「なんか言った?」
「別に-」
微妙な空気が私たちの間に流れる。隣に並んで座る、私よりも少し背の高い幼なじみは、私の視線を避けるように窓の外を見ていた。
そもそも、幼なじみと言っても仲がよかったのなんて小学生の時までの話で、中学に入ってクラスが分かれてからはそこまで一緒にいることもなくなった。私は私で女の子たちと一緒にいる方が楽しいし、海里だって中学に貼ってから入部したサッカー部の友達と一緒にいることの方が多い。なのに、今更一緒にキャンプに行けって言われたって……。
「来年は一人で行ってよね」
「何が?」
「キャンプ。今年はおばちゃんに頼まれたから仕方なく一緒に行くけどさ。だいたい、なんでキャンプ? 去年まで行ったこともなかったじゃん」
「それは……」
「それは?」
私の言葉に海里がなぜか口ごもる。このキャンプに何かあるのだろうか? 目的地は確かお隣のH県の高原だったはず。事前にもらったパンフレットには星が綺麗だとか手作りバターが美味しいとか書いていたけれど、別にそんなのキャンプに行かなくたってプラネタリウムに行けば見られるし、バターなんてちょっといいスーパーに行けばいくらでも売っている。キャンプに行かなくちゃいけない理由としては弱い。
「……別になんでもいいだろ。そういう菫こそ、大丈夫なのかよ」
「何が」
「キャンプ場に行ったら地面に座るだろうし、土とか泥で汚れることだって……」
海里の言葉に、悪寒が走るのを感じる。それは私だって不安に思っていた。でも……。それを海里に悟られるのが悔しくて私は背筋を伸ばすと「別に」と吐き捨てた。
「地面は砂でしょ? 砂ぐらいなら平気だし。土や泥は触らないから」
「え?」
「寝るのだってコテージだから大丈夫。もしなんかあったら海里に頼むもん」
呆れたようにこちらを見ているのに気付くけれど、知らんぷりをして窓の外を見る。
「当たり前でしょ。海里のためについてきてあげてるんだから」
「別に、ついてきてくれって頼んだわけじゃないし」
「でも、私がいなかったら参加できなかったでしょ? おばさんが許すわけないもんね。大事な海里が一人でキャンプなんて」
「っ……」
まずい、と思った時には海里の表情が変わっていた。言い過ぎた。そう思うのに「ごめん」の一言が出てこない。海里のおばさんが心配性になった理由だって知っているのに、どうしてこんな言い方をしてしまうんだろう。これじゃあ、八つ当たりと一緒じゃない。私が土を触れないことと、海里はなんの関係もないのに。海里は、私の心配をしてくれているだけなのに。
結局、私たちの間には重い空気が漂ったまま、バスは目的地であるキャンプ場へと到着した。
事前に決められていた班に分かれると、私たちは植樹をしてから夕食の準備を始めることになった。植樹は一人一本ずつ30cmほどに育った木を植えることになっていた。これを植えるためには土に触れなければいけない。砂の部分なら触れられるかもしれないけれど、土を掘ってその中に植えるだなんて……。
全身に鳥肌が立つのを感じた。
どうしよう……。とりあえず何もしないわけにもいかず、みんなが穴を掘っている横に並ぶと借りた小さなシャベルを手に取った。直接触るわけじゃない。だから大丈夫……。そう自分に言い聞かせると、私はそっとシャベルを土に突き刺した。ざくっという音がやけに大きく聞こえる。
気持ち悪い。
やっぱりできないと言おうか……。そう思い立ち上がろうとしたとき、誰かが私のそばに座った。
「海里……」
海里は私に返事をすることなく、小さな穴を掘り、その中に私が植える予定だった木を入れた。上から土を被せ、手早く小さな木の棒で支柱を作る。こうすると、風が吹いても折れにくいのだそうだ。
「あ……」
ありがとう、そう言いたかったのに……私が言い終わる前に、海里は立ち上がって他の男子のところへと行ってしまった。
「私って、最悪……」
結局、海里にお礼を伝えることができないまま、私は集合の笛の音がなるまでその場から動けずにいた。
ピーッと言う笛の音が聞こえて、私は他のみんなと同じように指導員さんの元へと向かう。私が集合場所に着いたときにはもう海里は並んでいて、でもこちらを見ることは一度もなかった。
その態度になぜかイラついて、私も海里から視線をそらした。
夕食はキャンプの定番であるカレーを班ごとに作ることになっていた。私と海里は同じ班で、他に別の学校の男の子と女の子が一人ずついた。
男子たちが薪を割り、女子が野菜を切る。初めて会ったメンバーだったけれど、まあそこはなんとかノルマをこなしていく。
……ときどき、海里が心配そうに私を見ていることに気付いていたけれど、そんな視線を無視して私は野菜を切り続けた。
「おーい、これも洗ってくれー」
「っ……」
ニコニコと笑いながら同じ班の男子が持ってきたのは、泥まみれになったスイカだった。
「何これー!?」
「川で冷やしてたのを持って帰ってきてたんだけど、途中で沼みたいなところに落としちゃってさー」
悪びれなく笑う男子に、同じ班の女子が「最悪だよね」と言って私に笑いかける。でも、私は目の前の泥まみれになったスイカに、悪寒が走るのを感じた。
あれは、まるであのときの私みたい――。
「貸して」
「お、おう?」
「女子が持つには重いだろ。俺が洗うよ。ってか、川で冷やしてたならもう一回戻って洗ってから帰って来いよ」
「いやー戻るより、こっちに帰ってくる方が早いかなと思ってさ」
男子からスイカを受け取ると、海里が水道水で綺麗にしていく。そこにはもう泥まみれになったスイカはなかった。
「……大丈夫か?」
「だい、じょうぶ……」
まだ少し震えている私に、海里は小さな声で尋ねた。必死に頷くけれど、そんな私に海里は「向こうで休んでろ」と言って他の子たちと仲良さそうに話し始めた。
私は少し離れたところにあるベンチに座るとその様子をボーっと見つめる。やっぱり私なんて来る必要なかったんじゃないだろうか。いくらおばさんから頼まれたって言っても、海里が本気で頼めばきっとおばさんだって渋々ではあるけれど了承しただろう。――たとえ子どもの頃、身体が弱くて入退院を繰り返していたとしても、今の海里は健康そのものだ。……でも、やっぱり少し不安なんだろう。だって、私の記憶の中の海里は、細くて小さくて、熱が出ただけで入院してしまう、そんな男の子だった。こんなに細くて壊れてしまわないのかと、何度も思った。私でさえそう思うんだから、お母さんである海里のおばさんからしたらずっとずっと不安なままだと、そう思う。
「やっぱり、謝らなきゃ」
海里のおばさんがどれだけ心配していたかも、そんなおばさんを鬱陶しく思いながらもどれだけ海里がおばさんのことを大事にしているかも知っているのに、あんな言い方しちゃって……。
いっそ、身体が弱くて死んじゃいそうだったのが私だったらよかったんだ。そうしたら、海里のおばさんも海里もお互いにお互いを心配し合わなくてすんだし、なによりあんなふうにお父さんが事故で死んじゃうこともなかったかもしれないのに……。
「す……れ。菫!」
「え……?」
「カレー、できたぞ」
いつの間にか眠っていたらしい。気が付くと、私の目の前には困ったような表情をした海里が立っていた。
その後ろには班の人たちの姿が見える。どれぐらいの時間が経ったのだろうか……。そういえば、さっきまでは暑いぐらいだったのに気付けば肌寒い。
「具合、悪かったってことにしてるから。班のメンバーにお礼言っといて」
「わかった。ありがとう」
「……おう」
ぶっきらぼうにそう言うと、海里は私の前を歩く。
ああ、ごめんねって言いそびれてしまった。
「海里!」
「ん?」
「ごめん」
「……いいよ、もう」
慌てて背中に向かって伝えた私の方を振り返ることなく、海里は手をひらひらとすると班のメンバーのところへと歩いていく。その後ろを追いかけるようにして私もみんなのもとへと向かった。
みんなの作ってくれたカレーはとても美味しかった。ただ、やっぱりあのスイカを食べることはできなくて「苦手なんだ」と誤魔化した私の分まで海里が綺麗に食べてくれたので助かった。
「ねえ、ここのキャンプ場の言い伝え知ってる?」
同じ班の女の子――美紗ちゃんが話しかけてきたのは、キャンプファイヤーが始まる寸前だった。私より一つ年上の美紗ちゃんは、明るくてよく笑う女の子だった。
「言い伝え?」
「そう。森の中で蛍に出会ったら、その蛍が大切な人のもとに導いてくれるんだって」
「ウソくせー」
「何よ、遊馬!」
先ほど泥だらけのスイカを持って帰ってきた遊馬君は美紗ちゃんと同じ学校の男子らしい。二人で申し合わせて参加したのかと思ったけれど、実はそうではないらしい。偶然、同じ学校の男子と同じキャンプに申し込むなんて、逆に凄い。
「実際に、それで出会って結婚したカップルもいるらしいんだから」
熱弁する美紗ちゃんを遊馬君が呆れたように笑う。もしかしたら……。
「それで、美紗ちゃんはここに来たの?」
遊馬君に聞こえないぐらい小さな声で尋ねた私に、美紗ちゃんは照れくさそうに笑う。そっか、偶然じゃなくて、美紗ちゃんが遊馬君を追いかけてきたんだ。見ていると、遊馬君もまんざらではなさそうだし、上手くいくといいのになぁ。
「菫ちゃんも、そうじゃないの?」
「私は、別に……。どっちかっていうと海里のお世話係っていうか」
「誰が誰のお世話係だよ」
「私が、海里の」
「逆だろ、逆」
口喧嘩をする私たちを、美紗ちゃんは笑いながら見ている。けれど、本当に海里とはそういうのじゃない。小学生の頃もよく言われていたけれど、お互いにそういうふうに思っていないのに言われるのは迷惑というか……。
「じゃあ、さ」
「え?」
黙り込んでしまった私に、美紗ちゃんがもう一度尋ねた。
「海里君じゃなくてもいいんだけど、菫ちゃんが蛍に巡り合わせてほしい人がいるとしたら誰?」
「蛍に、巡り合わせてほしい人……?」
「そう。時空を超えて、世界さえも超えて、巡り合いたい大切な人」
それは、生きていない人でもいいのだろうか。
私のせいで、ううん。私が、殺してしまった人でもいいのだろうか。
「――そんな人、いないよ」
喉元から出かかった答えを飲み込むと、私は曖昧に笑った。
だって、私がそんなこと望んでいいわけがないから。
美紗ちゃんは不服そうだったけれど、キャンプファイヤーが始まると、そちらに視線がくぎ付けになっていた。こちらへの興味がそれたことにホッとして、私もボーっとキャンプファイヤーを見つめる。
もしも蛍が大切な人に出会わせてくれるというのなら、私じゃなくてお母さんと椿に、出会わせてあげてほしいい。
それができないのなら、いつまでも二人を傷付けるだけの存在でしかない私を、違う世界に連れて行って――。
そんなことを思いながら、舞い上がる炎を見つめ続けていた。
キャンプファイヤーが終わり、それぞれのコテージへと戻る。なんとなく、海里に話しかけられたくなくて、何か言いかけた海里の視線から逃げるようにして私はコテージへと入った。
コテージの中にはシャワーがあって、順番に汗を流すと疲れが出たのか、みんなすぐに眠ってしまった。それは私も例外ではなく――次に目が覚めた時は、部屋の中は真っ暗だった。
いったい今は何時なのだろう。頭もとに置いてあったスマホに手を伸ばすと、午前2時と表示されていた。もう一度眠ろう、そう思って目をつむるけれど一度目覚めてしまったからか眠ることができない。
仕方なく起き上がった私は、ベッドを抜け出すとそっとコテージを出た。
みんな寝ているのか、外はシンとしていた。空を見上げると、満天の星空がそこにはあり、ときどき星が流れるのが見える。動画を撮っておいてあとで海里に見せてあげよう。意外とこういうの好きだったはず。そう思ってポケットから出したスマホを空に向けた瞬間――何かが私の視界を横切った。流れ星だろうか? そう思って、スマホから視線を外すと、そこには一匹の蛍がいた。
「蛍……」
美紗ちゃんの言っていた、言い伝えを思い出す。
蛍が大切な人に巡り合わせてくれる。時空を超えて、世界さえも超えて、巡り合いたい大切な人に――。
そんな人、いない。いたとしても、望んじゃいけない。
でも、もしも、もしももう一度、会えるとしたら……。
「待って……!」
蛍はふわふわと飛びながら、森の方へと向かっていく。その蛍が飛んでいくのを見送っていると、蛍がぴたりと動きを止めた。そして私の方へと再び飛んでくると、まるでついて来いと言っているかのようにもう一度森の方へと向かって飛び始めた。
こんな時間に一人で森へ入るのは危ないことはわかっている。でも……。私は、一瞬のためらいのあと、蛍を追いかけて森へと入っていった。
いったいどこへ向かっているんだろう。蛍はまるで目的地があるかのように、ふわふわと、でも迷うことなく飛んでいく。
涼しい森の中に、思わず寒気がした。ショートパンツにTシャツでは少し肌寒くてカバンの中に入れてあったパーカーを持ってくればよかったと後悔するがあとの祭りだ。
舗装された遊歩道を蛍に導かれるようにして歩いていくと、パッと道が開けた。そこは原っぱのようになっていて、辺りにはたくさんの蛍が飛んでいた。
「誰も、いないじゃない」
人気なんてなくて、当たり前だけど大切な人なんていない。そりゃそうだ、言い伝えなんてただの伝説みたいなもんで、本当に起きる訳がない。自嘲気味に小さく笑うと、私は顔を上げた。
そこには、満天の星空にも負けないぐらいたくさんの蛍がいた。こんなにたくさんの蛍を見るのは初めてだ。写真に撮っておけば海里に自慢できるかもしれない。そう思い写真を撮ろうとスマホを構えたそのとき――私の足下がまるで土砂崩れのように崩れ落ち、私の身体は崖の下へと落ちて行った。
あの頃は幸せだった。でも、あの幸せを壊したのは――。
「……あっつ」
懐かしい夢から目覚めると、まるでシャワーでも浴びたあとのように全身が汗でぐっしょりなっていた。私は汗でぺったりとくっついたパジャマを脱ぎ捨てると身体を起こした。気だるい空気の中、壁際に目をやるとかけっぱなしにしていたエアコンはいつの間にか止まっていた。
……どうりで暑いはずだ。
夏休みが始まって今日で一週間。夏真っ盛りとはよく言ったもので、連日35℃を超える日が続いていた。この暑さじゃあ、今日もすでに30℃を超えているのかもしれない。
とりあえずシャワーでも浴びよう、そう思って時計を見ると止まっていたのはエアコンのスイッチだけではなかったようだ。
いつの間に目覚ましが止まっていたのか、時計の針は出発予定の十五分前を刺していた。
「最悪……」
思わず呟くけれど、悪態をついたところで事態が変わるわけではない。それどころか、脱いだパジャマを拾い上げている間にも時計の針は動いていく。
シャワーを浴びることを諦めると、仕方なく私は昨日のうちに準備していた服に着替えた。この暑いのに薄手のパーカーを腰に巻くのは、今日から二泊三日で向かうキャンプ場というのが山の中にあるからで。夜になると涼しいを通り越して寒いと誰かから聞いて来た母親が口うるさくいうから準備したけれど、本当に必要なのだろうか。
「それにしても、中三になってキャンプとかあり得ない……」
周りの友人たちはこの夏は塾や家庭教師に忙しく、遊ぶ余裕はなさそうだった。友達と遊べないということは夏休み中家にいることになる。それは避けたかった私は、友達と遊べないならちょうどいいだろうと言われ、それもそうかと思い行くことにしたのだけれど、やっぱり行かないって言えばよかった。
どうせキャンプに行けばぐしゃぐしゃになってしまうと思うとくしを取るのも面倒になり、私は指で軽く髪の毛を梳《と》かすと、高い位置でポニーテールにした。サンサンと太陽の光が降り注ぐ窓を見て、絶対にこのパーカーいらないって……と思いながらも、とりあえずリュックを手に部屋を出た。
「お、おはよう。菫《すみれ》。よく眠れた?」
リビングに向かうと、すでに起きていた母親と椿がキッチンとリビングで何かを楽しそうに話していた。けれど、私の姿に気付くと慌てて話を切り上げてこちらを向いた。
「おはよう! お姉ちゃん。あと五分遅かったら起こしに行こうかと思ってたんだよ」
「……おはよう」
二人と同じように上手く笑えているだろうか。変な顔になっていないだろうか。引きつりそうになりながら作った笑顔のまま、私は机の上に用意されていた牛乳を飲み干すと、小さなパンを口に放り込んだ。
「お姉ちゃん、お行儀悪いよ」
「ごめん。でも、遅れそうだから」
「あーあ、今日と明日はお姉ちゃんのご飯食べられないのかー。残念だなあー」
「ごめんね」
朝見た夢のせいだろうか、椿の顔を見ることができない。甘えたように言う椿に、私は口先だけで謝ると、キッチンにいる母親の方を向いた。
「……もう行くね」
「あ、これ水筒」
「ありがと」
「気を付けてね? 海里《かいり》君も一緒だから大丈夫だと思うけど……」
幼馴染の名前をあげながら、心配そうに母親は言う。そんな母親に「大丈夫だよ」と言うと、私は戸棚から買っておいたおやつを取り出そうとして、手を止めた。
「……あれ?」
「あ! お姉ちゃん、ごめん。そこにあったお菓子、私食べちゃった……」
「……そっか」
イラっとしなかったと言えば嘘になる。でも、何も言えなかった。いつだってそうだ。言いたいことの半分以上を飲み込んでしまう。あの日からずっと……。
「ごめんね……?」
「……もういいよ。行ってきます」
別に、お菓子なんてなくたっていい。それよりも息苦しくて仕方がないこの家から、一秒でも早く、出ていきたかった。ここにいると、いつだって責められているような気持ちになる。
二人の顔を見ないようにリビングを出ると、私は急いで靴を履いた。――正しくは、履こうとした。けれど、用意しておいた新しい靴は、靴ひもを結ぼうと引っ張ると、なぜかひもが切れた。
「もうっ……!」
他の紐に変えればいいだけの話だけれど、グズグズして二人が様子を見に来たら面倒だ。私のことなんて放っておいてくれればいいのに、母親と椿はいつだって私の様子を気にして見に来る。二人にそんなつもりがないことはわかっている。でもそんな二人の態度に、まるで監視されているかのように感じてしまうのだ。
仕方なく、私は学校に行くときに履いているスニーカーを引っ張り出すと、かかとを踏んづけたまま玄関を飛び出した。
家を出てしまえば私は自由だ。嫌な思いをさせることもないし、二人の視線や言葉を気にすることもない。
面倒でキャンプなんて行きたくなかったけれど、三日間も家から離れられることを考えると迷わず参加することに決めた。本当はキャンプなんて、想像しただけでも鳥肌が立つ。でもコテージがあると言っていたし、テントで寝るわけじゃないからたぶん、大丈夫。きっと……。
「おはよう、菫」
「海里。おはよ」
「何、朝から辛気臭い顔してんだよ」
「別に」
少しの不安を抱えながら、キャンプ場へと向かうための集合場所である集会所へと向かうと、すでに来ていた幼馴染の海里が声をかけてきた。海里とは母親同士が親友で、私たちも赤ん坊のころから一緒に育った。まるで出来の悪い弟のような存在だ。
今回も、海里が一人でキャンプに参加するのを心配した海里のお母さんから一緒に行ってやってくれないかと頼まれたのがきっかけだだった。子どもじゃないんだからそんなに心配しなくてもと思わなくもないけれど、それほど心配してもらえるというのが逆に羨ましくも思う。私なんかは口先では心配されていてもきっと本心じゃあ家にいなくてせいせいすると思われているだろうから。
「楽しみだなー。うちの母親、虫が嫌いだからさ絶対キャンプなんて連れて行ってくれなかったんだよ」
「ふーん」
「なんだよ、菫は楽しみじゃねーの?」
「別に。キャンプって言ったってコテージに泊まるんだから、家にいるのとたいして変わんないでしょ」
私の言葉に、海里は不服そうな顔をしているけれど気にしない。そうこうしている間にも、点呼が行われ、キャンプ場へと向かうためのバスへと乗り込んでいく。
私の隣には当たり前のように海里が座った。
「窓際、俺が座ってもいい?」
「いいけど」
「サンキュ。バスってどうも酔いやすくてさ」
海里は席に着くなり、リュックの中から取り出した薬を口に含んでいた。家で飲んでくればいいのに、と思ったけれどもしかしたら直前に飲まないといけないものなのかもしれない。尋ねてみようかとおもったけれどやめた。
聞くほど興味はなかった。薬にも、海里にも。
薬を飲んだあとも、ごそごそとリュックの中を漁っていた海里は、何かを見つけると嬉しそうに取り出した。
「これ、いる?」
「これって……」
「菫、これ好きだったろ?」
海里が差し出した、きな粉味のチョコでコーティングされたお菓子で。それは、私が持って行こうとして買っておいて、椿に食べられてしまったものと同じだった。
「なんで……」
「よく食べてたなーと思って。あ、もう好きじゃない?」
「そんなことないけど……」
海里の手からそれを受け取ると、朝の出来事が思い出されて……。私にそんな資格なんてないとわかっていたけれど、でもどうしても我慢できなかった。
「あのね……!」
勢いよく話し始めた私の言葉を最初こそ真剣に聞いてくれていた海里だったけれど、次第に呆れたような、くだらないとでも言いたそうな顔で私を見ていた。
「――ねえ、真面目に聞いてる!?」
「聞いてるって」
海里からもらったお菓子を握りしめたまま、私は噛みつくように海里に言う。この苛立ちをわかって欲しいのに……。
「まあそういうときもあるよ」
「ホントに? 私のことが嫌いだからわざとやったんじゃない?」
「そんなことないよ」
私の言葉に、海里は困ったように頭を掻く。困らせたいわけじゃない。でも、どうしても言わずにはいられなかった。
「お父さんを殺した私を、恨んでるんじゃない? 椿も、お母さんも」
「ちょ、声大きいって」
海里が慌てたように私の口をふさぐと、周りを見回す。幸い、周りはそれぞれの友達と話すのに夢中で私たちの会話なんて気にも留めていないようだった。
私の口に当てていた手を離すと、海里はため息を吐いた。
「いつも言ってるだろ。あれは事故だから。菫が殺したわけじゃないから」
「でも、お父さんが死んで私だけ生き残った。それは事実だよ」
お父さんの代わりに私が死ねばよかったんだと、何度も何度もそう思った。今からでも私が死んでお父さんが生き返るならこの命を差し出したっていい。そんな子供染みたことを何度も思った。3年前のあの日、お父さんが死んだときから――。
「それ、菫のお母さんが聞いたら怒るぞ」
「怒らないよ。本当のことだもん」
「怒るって。なんなら一回言って怒られればいいよ」
「そんなこと……」
そんなことできるわけがない。それで「その通りよ」なんて言われたら、その日から私はどんな顔をしてあの家に暮らせばいいのだろう。今だって、必死に存在価値を探してるのに。
そう言う私に、海里はあからさまに呆れた表情を向けるともう一度ため息を吐いた。
「それで、椿ちゃんの晩飯作ってんの?」
「そうだよ。そうでもしないと、あの家に私がいていいのかわからなくなる」
「菫……」
海里にはわからない。私があの家にどんな気持ちでいるかなんて。少しでもいいから、あの家にいてもいい理由が欲しかった。理由さえあれば、少しでもあの家にいることを望まれていると思えるから。
「ホント、一回話したほうがいいと思う。お前が思ってるようなこと、きっとおばさんも椿ちゃんも思ってないよ」
「どうして海里にわかるのよ」
「わかるよ」
「わかるわけないじゃない!」
海里の言葉に、思わず声を荒らげてしまう。どうしてそんなことを言われなきゃいけないのか。海里に私の気持ちなんてわかんない。ただ私は、大変だったなって、ついてなかったなって言って欲しかっただけなのに。
だいたいこのキャンプだって、私が行かなきゃ海里は参加できなかったはずだ。じゃなきゃ、心配性で若干過保護な海里のお母さんが許すはずがない。だから海里は、私に感謝することはあったとしても、こんなふうにぞんざいに扱っていいはずがない。
「海里のバカ」
「なんか言った?」
「別に-」
微妙な空気が私たちの間に流れる。隣に並んで座る、私よりも少し背の高い幼なじみは、私の視線を避けるように窓の外を見ていた。
そもそも、幼なじみと言っても仲がよかったのなんて小学生の時までの話で、中学に入ってクラスが分かれてからはそこまで一緒にいることもなくなった。私は私で女の子たちと一緒にいる方が楽しいし、海里だって中学に貼ってから入部したサッカー部の友達と一緒にいることの方が多い。なのに、今更一緒にキャンプに行けって言われたって……。
「来年は一人で行ってよね」
「何が?」
「キャンプ。今年はおばちゃんに頼まれたから仕方なく一緒に行くけどさ。だいたい、なんでキャンプ? 去年まで行ったこともなかったじゃん」
「それは……」
「それは?」
私の言葉に海里がなぜか口ごもる。このキャンプに何かあるのだろうか? 目的地は確かお隣のH県の高原だったはず。事前にもらったパンフレットには星が綺麗だとか手作りバターが美味しいとか書いていたけれど、別にそんなのキャンプに行かなくたってプラネタリウムに行けば見られるし、バターなんてちょっといいスーパーに行けばいくらでも売っている。キャンプに行かなくちゃいけない理由としては弱い。
「……別になんでもいいだろ。そういう菫こそ、大丈夫なのかよ」
「何が」
「キャンプ場に行ったら地面に座るだろうし、土とか泥で汚れることだって……」
海里の言葉に、悪寒が走るのを感じる。それは私だって不安に思っていた。でも……。それを海里に悟られるのが悔しくて私は背筋を伸ばすと「別に」と吐き捨てた。
「地面は砂でしょ? 砂ぐらいなら平気だし。土や泥は触らないから」
「え?」
「寝るのだってコテージだから大丈夫。もしなんかあったら海里に頼むもん」
呆れたようにこちらを見ているのに気付くけれど、知らんぷりをして窓の外を見る。
「当たり前でしょ。海里のためについてきてあげてるんだから」
「別に、ついてきてくれって頼んだわけじゃないし」
「でも、私がいなかったら参加できなかったでしょ? おばさんが許すわけないもんね。大事な海里が一人でキャンプなんて」
「っ……」
まずい、と思った時には海里の表情が変わっていた。言い過ぎた。そう思うのに「ごめん」の一言が出てこない。海里のおばさんが心配性になった理由だって知っているのに、どうしてこんな言い方をしてしまうんだろう。これじゃあ、八つ当たりと一緒じゃない。私が土を触れないことと、海里はなんの関係もないのに。海里は、私の心配をしてくれているだけなのに。
結局、私たちの間には重い空気が漂ったまま、バスは目的地であるキャンプ場へと到着した。
事前に決められていた班に分かれると、私たちは植樹をしてから夕食の準備を始めることになった。植樹は一人一本ずつ30cmほどに育った木を植えることになっていた。これを植えるためには土に触れなければいけない。砂の部分なら触れられるかもしれないけれど、土を掘ってその中に植えるだなんて……。
全身に鳥肌が立つのを感じた。
どうしよう……。とりあえず何もしないわけにもいかず、みんなが穴を掘っている横に並ぶと借りた小さなシャベルを手に取った。直接触るわけじゃない。だから大丈夫……。そう自分に言い聞かせると、私はそっとシャベルを土に突き刺した。ざくっという音がやけに大きく聞こえる。
気持ち悪い。
やっぱりできないと言おうか……。そう思い立ち上がろうとしたとき、誰かが私のそばに座った。
「海里……」
海里は私に返事をすることなく、小さな穴を掘り、その中に私が植える予定だった木を入れた。上から土を被せ、手早く小さな木の棒で支柱を作る。こうすると、風が吹いても折れにくいのだそうだ。
「あ……」
ありがとう、そう言いたかったのに……私が言い終わる前に、海里は立ち上がって他の男子のところへと行ってしまった。
「私って、最悪……」
結局、海里にお礼を伝えることができないまま、私は集合の笛の音がなるまでその場から動けずにいた。
ピーッと言う笛の音が聞こえて、私は他のみんなと同じように指導員さんの元へと向かう。私が集合場所に着いたときにはもう海里は並んでいて、でもこちらを見ることは一度もなかった。
その態度になぜかイラついて、私も海里から視線をそらした。
夕食はキャンプの定番であるカレーを班ごとに作ることになっていた。私と海里は同じ班で、他に別の学校の男の子と女の子が一人ずついた。
男子たちが薪を割り、女子が野菜を切る。初めて会ったメンバーだったけれど、まあそこはなんとかノルマをこなしていく。
……ときどき、海里が心配そうに私を見ていることに気付いていたけれど、そんな視線を無視して私は野菜を切り続けた。
「おーい、これも洗ってくれー」
「っ……」
ニコニコと笑いながら同じ班の男子が持ってきたのは、泥まみれになったスイカだった。
「何これー!?」
「川で冷やしてたのを持って帰ってきてたんだけど、途中で沼みたいなところに落としちゃってさー」
悪びれなく笑う男子に、同じ班の女子が「最悪だよね」と言って私に笑いかける。でも、私は目の前の泥まみれになったスイカに、悪寒が走るのを感じた。
あれは、まるであのときの私みたい――。
「貸して」
「お、おう?」
「女子が持つには重いだろ。俺が洗うよ。ってか、川で冷やしてたならもう一回戻って洗ってから帰って来いよ」
「いやー戻るより、こっちに帰ってくる方が早いかなと思ってさ」
男子からスイカを受け取ると、海里が水道水で綺麗にしていく。そこにはもう泥まみれになったスイカはなかった。
「……大丈夫か?」
「だい、じょうぶ……」
まだ少し震えている私に、海里は小さな声で尋ねた。必死に頷くけれど、そんな私に海里は「向こうで休んでろ」と言って他の子たちと仲良さそうに話し始めた。
私は少し離れたところにあるベンチに座るとその様子をボーっと見つめる。やっぱり私なんて来る必要なかったんじゃないだろうか。いくらおばさんから頼まれたって言っても、海里が本気で頼めばきっとおばさんだって渋々ではあるけれど了承しただろう。――たとえ子どもの頃、身体が弱くて入退院を繰り返していたとしても、今の海里は健康そのものだ。……でも、やっぱり少し不安なんだろう。だって、私の記憶の中の海里は、細くて小さくて、熱が出ただけで入院してしまう、そんな男の子だった。こんなに細くて壊れてしまわないのかと、何度も思った。私でさえそう思うんだから、お母さんである海里のおばさんからしたらずっとずっと不安なままだと、そう思う。
「やっぱり、謝らなきゃ」
海里のおばさんがどれだけ心配していたかも、そんなおばさんを鬱陶しく思いながらもどれだけ海里がおばさんのことを大事にしているかも知っているのに、あんな言い方しちゃって……。
いっそ、身体が弱くて死んじゃいそうだったのが私だったらよかったんだ。そうしたら、海里のおばさんも海里もお互いにお互いを心配し合わなくてすんだし、なによりあんなふうにお父さんが事故で死んじゃうこともなかったかもしれないのに……。
「す……れ。菫!」
「え……?」
「カレー、できたぞ」
いつの間にか眠っていたらしい。気が付くと、私の目の前には困ったような表情をした海里が立っていた。
その後ろには班の人たちの姿が見える。どれぐらいの時間が経ったのだろうか……。そういえば、さっきまでは暑いぐらいだったのに気付けば肌寒い。
「具合、悪かったってことにしてるから。班のメンバーにお礼言っといて」
「わかった。ありがとう」
「……おう」
ぶっきらぼうにそう言うと、海里は私の前を歩く。
ああ、ごめんねって言いそびれてしまった。
「海里!」
「ん?」
「ごめん」
「……いいよ、もう」
慌てて背中に向かって伝えた私の方を振り返ることなく、海里は手をひらひらとすると班のメンバーのところへと歩いていく。その後ろを追いかけるようにして私もみんなのもとへと向かった。
みんなの作ってくれたカレーはとても美味しかった。ただ、やっぱりあのスイカを食べることはできなくて「苦手なんだ」と誤魔化した私の分まで海里が綺麗に食べてくれたので助かった。
「ねえ、ここのキャンプ場の言い伝え知ってる?」
同じ班の女の子――美紗ちゃんが話しかけてきたのは、キャンプファイヤーが始まる寸前だった。私より一つ年上の美紗ちゃんは、明るくてよく笑う女の子だった。
「言い伝え?」
「そう。森の中で蛍に出会ったら、その蛍が大切な人のもとに導いてくれるんだって」
「ウソくせー」
「何よ、遊馬!」
先ほど泥だらけのスイカを持って帰ってきた遊馬君は美紗ちゃんと同じ学校の男子らしい。二人で申し合わせて参加したのかと思ったけれど、実はそうではないらしい。偶然、同じ学校の男子と同じキャンプに申し込むなんて、逆に凄い。
「実際に、それで出会って結婚したカップルもいるらしいんだから」
熱弁する美紗ちゃんを遊馬君が呆れたように笑う。もしかしたら……。
「それで、美紗ちゃんはここに来たの?」
遊馬君に聞こえないぐらい小さな声で尋ねた私に、美紗ちゃんは照れくさそうに笑う。そっか、偶然じゃなくて、美紗ちゃんが遊馬君を追いかけてきたんだ。見ていると、遊馬君もまんざらではなさそうだし、上手くいくといいのになぁ。
「菫ちゃんも、そうじゃないの?」
「私は、別に……。どっちかっていうと海里のお世話係っていうか」
「誰が誰のお世話係だよ」
「私が、海里の」
「逆だろ、逆」
口喧嘩をする私たちを、美紗ちゃんは笑いながら見ている。けれど、本当に海里とはそういうのじゃない。小学生の頃もよく言われていたけれど、お互いにそういうふうに思っていないのに言われるのは迷惑というか……。
「じゃあ、さ」
「え?」
黙り込んでしまった私に、美紗ちゃんがもう一度尋ねた。
「海里君じゃなくてもいいんだけど、菫ちゃんが蛍に巡り合わせてほしい人がいるとしたら誰?」
「蛍に、巡り合わせてほしい人……?」
「そう。時空を超えて、世界さえも超えて、巡り合いたい大切な人」
それは、生きていない人でもいいのだろうか。
私のせいで、ううん。私が、殺してしまった人でもいいのだろうか。
「――そんな人、いないよ」
喉元から出かかった答えを飲み込むと、私は曖昧に笑った。
だって、私がそんなこと望んでいいわけがないから。
美紗ちゃんは不服そうだったけれど、キャンプファイヤーが始まると、そちらに視線がくぎ付けになっていた。こちらへの興味がそれたことにホッとして、私もボーっとキャンプファイヤーを見つめる。
もしも蛍が大切な人に出会わせてくれるというのなら、私じゃなくてお母さんと椿に、出会わせてあげてほしいい。
それができないのなら、いつまでも二人を傷付けるだけの存在でしかない私を、違う世界に連れて行って――。
そんなことを思いながら、舞い上がる炎を見つめ続けていた。
キャンプファイヤーが終わり、それぞれのコテージへと戻る。なんとなく、海里に話しかけられたくなくて、何か言いかけた海里の視線から逃げるようにして私はコテージへと入った。
コテージの中にはシャワーがあって、順番に汗を流すと疲れが出たのか、みんなすぐに眠ってしまった。それは私も例外ではなく――次に目が覚めた時は、部屋の中は真っ暗だった。
いったい今は何時なのだろう。頭もとに置いてあったスマホに手を伸ばすと、午前2時と表示されていた。もう一度眠ろう、そう思って目をつむるけれど一度目覚めてしまったからか眠ることができない。
仕方なく起き上がった私は、ベッドを抜け出すとそっとコテージを出た。
みんな寝ているのか、外はシンとしていた。空を見上げると、満天の星空がそこにはあり、ときどき星が流れるのが見える。動画を撮っておいてあとで海里に見せてあげよう。意外とこういうの好きだったはず。そう思ってポケットから出したスマホを空に向けた瞬間――何かが私の視界を横切った。流れ星だろうか? そう思って、スマホから視線を外すと、そこには一匹の蛍がいた。
「蛍……」
美紗ちゃんの言っていた、言い伝えを思い出す。
蛍が大切な人に巡り合わせてくれる。時空を超えて、世界さえも超えて、巡り合いたい大切な人に――。
そんな人、いない。いたとしても、望んじゃいけない。
でも、もしも、もしももう一度、会えるとしたら……。
「待って……!」
蛍はふわふわと飛びながら、森の方へと向かっていく。その蛍が飛んでいくのを見送っていると、蛍がぴたりと動きを止めた。そして私の方へと再び飛んでくると、まるでついて来いと言っているかのようにもう一度森の方へと向かって飛び始めた。
こんな時間に一人で森へ入るのは危ないことはわかっている。でも……。私は、一瞬のためらいのあと、蛍を追いかけて森へと入っていった。
いったいどこへ向かっているんだろう。蛍はまるで目的地があるかのように、ふわふわと、でも迷うことなく飛んでいく。
涼しい森の中に、思わず寒気がした。ショートパンツにTシャツでは少し肌寒くてカバンの中に入れてあったパーカーを持ってくればよかったと後悔するがあとの祭りだ。
舗装された遊歩道を蛍に導かれるようにして歩いていくと、パッと道が開けた。そこは原っぱのようになっていて、辺りにはたくさんの蛍が飛んでいた。
「誰も、いないじゃない」
人気なんてなくて、当たり前だけど大切な人なんていない。そりゃそうだ、言い伝えなんてただの伝説みたいなもんで、本当に起きる訳がない。自嘲気味に小さく笑うと、私は顔を上げた。
そこには、満天の星空にも負けないぐらいたくさんの蛍がいた。こんなにたくさんの蛍を見るのは初めてだ。写真に撮っておけば海里に自慢できるかもしれない。そう思い写真を撮ろうとスマホを構えたそのとき――私の足下がまるで土砂崩れのように崩れ落ち、私の身体は崖の下へと落ちて行った。