「あの……」
「……僕、たぶんあなたに渡さなければいけないものがあるんです」
「え?」
「ついてきてもらえますか?」

 彼は泥だらけの手をズボンで拭うと、私の前に立って歩き出した。
 無言で歩くその人の後ろをついて歩く。どこに行くのか、尋ねようと思った。でも、私は彼の歩く道のりを知っていた。どこに繋がる道なのか。よく、知っていた。

「ちょっと待っていてください」

 そう言うと、彼はそこに建っていた一軒の家のドアを開けて中に入っていく。
 それは、あの頃私が伊織さんと過ごしていた家と同じ場所に建っている――なのに、それとは似ても似つかない、綺麗な二階建ての一軒家だった。
 ここはいったい誰の家なのだろう。ジロジロ見るのは失礼かもしれないけれど、と思いながら私はその家を見つめる。そして、見つけた。ポストのところに小さな表札がかかっているのを。そこには――。

「お待たせしました」
「あ……」

 伊織さんによく似た彼は、小さな小箱を持って家の中から出てきた。そして彼は、その箱を私に差し出した。

「あの、これ……」
「これを、いつかあなたが来たら渡すようにと言付かってました」
「私に……? いったい誰が……」
「あなたを、かつて愛していた人から」

 彼の言葉に、恐る恐る小箱を開く。すると中には、封筒と、それからあのハマグリの貝殻が入っていた。
 私の、砕けてしまったハマグリの片割れが。

「これを……私に……?」
「はい」

 中に入っていた封筒をそっと開くと、一枚の手紙が入っていた。

『菫へ』

 それは伊織さんから私に宛てた手紙だった。

『菫がこれを読んでいるのはいつの時代なのだろう。今、大正の時代が終わり昭和を迎えたけれど、君の言っていた令和というのがいったいいつのことなのか検討もつかない。もっと君にちゃんと聞いておくんだったな。
 君と過ごせた日々は長い人生の中でほんの一瞬のことだった。でも、その一瞬が僕にとってどれほど幸福だったか、君はきっと知らないだろう。君と過ごせて本当に幸せだった。
 だから菫、君も幸せになって。幸せに生きて』

 涙が溢れて止まらなかった。
 伊織さん、伊織さん、伊織さん……!

「どう、して……」

 思わず呟いた私に、伊織さんによく似た彼は口を開いた。
 
「いつかもしあなたが来たら、これを渡して欲しいって頼まれたんです」
「そんな……だって、来るかどうかもわかんないのに……」
「あなたならきっと来てくれるって、そう思ってたんじゃないでしょうか」
「っ……伊織、さん……」

 再び溢れてきた涙を必死に拭うと、私は目の前の彼に問いかけた。
 伊織さんの面影が残るこの人は、もしかして――。

「聞いても、いいですか?」
「はい」
「あなたは、伊織さんのお孫さん……? それともひ孫さん、ですか?」

 私の問いかけに、彼は小さく笑うと首を振った。

「僕は柚希《ゆずき》。伊織は――大伯父、というんですかね。僕の祖父は、伊織の兄の子どもでした。伊織が亡くなったあと、あのオリーブ園を守ってきました」
「お兄さんの……?」

 伊織さんのお兄さんということは、地元で家を継いだというあの……? でも、そのひ孫さんがどうして小豆島に? それに、どうしてお兄さんの子どもがオリーブ園を守るの? だって、あのとき伊織さんは私に結婚したって――。

「本当にそう言いましたか?」
「言いまし……た」

 そう、たしかに伊織さんは私が「結婚したんですか?」と問いかけたときに、結婚したって……。
 ――違う。
 あのとき伊織さんは、「結婚したんですか?」って尋ねた私に、優しく微笑んだんだ。それを私は肯定だと受け止めたけれど、でも、もし違っていたのだとしたら? 私の、あの時代への未練を残さないためにあえて何も言わなかったのだとしたら……?

「手紙、続き読んでやってください。そこに、伊織の本当の気持ちが書かれてます」

 柚希君のその言葉に促されるようにして、私は再び手紙へと視線を落とした。

『菫。君のことだから、僕に遠慮していつまで経っても一人でいるんだろう?
 僕の幸せは君が幸せになってくれることなんだ。だから、僕への思いはこの島において行きなさい。そして、君を思ってくれている人と幸せになるんだ。
 大人になった君は綺麗で、惚れ直したよ』

「そん、な……」
「伊織は生涯を独身で過ごしたと聞いています」
「だって……! あのとき、伊織さんが言ったから……! だから、私……!」

 柚希君は寂しそうに微笑む。
 その表情は、伊織さんが最後に見せた顔によく似ていた。

「伊織さんは……私を元の時代に帰したかったの……?」
「そうかも、しれません」
「私が、心の奥底では、そう願っていたから……? 伊織さんと一緒にいることよりも、お母さんや椿、それに……海里の元へと帰りたいって、そう思っていたから……だから……」

 だからあのとき、伊織さんは私のことを想って結婚したなんて嘘をついたんだ。私が何の未練もなく、あの時代を去れるように。
 私の、ために……。
 
「それほどまでに、あなたのことを愛していたんでしょうね」
「っ……! い、おり、さん……!」

 涙が溢れてくる。どんどん溢れた涙は頬を伝い、伊織さんからの手紙へと流れ落ちる。
 涙で文字がにじんだ、そう思った瞬間――まるで涙に吸い込まれていくように手紙から文字が消えていく。もう役目は終わったのだと言わんばかりに。もうこれは私の元には必要ないのだと、そう言うかのように。


 ひとしきり泣いたあと、私は真っ白になってしまった手紙をそっと折りたたんでポケットに入れた。伊織さんからのメッセージはもう何も残っていないけれど、でも伊織さんの残してくれた優しさが、ぬくもりが、その手紙に込められている気がして。

「聞いても、いいですか?」
「はい」
「伊織さんは、その、私がいなくなったあと……」
「本州には戻らず、この島で晩年を過ごしたと聞いています。結婚をせず子どもがいなかった伊織の世話をするために僕の祖父がこの島に移り住みました。その縁で、オリーブ園の方も面倒を見ることになったようです」
「そう、ですか」

 伊織さんは――。

「幸せそうだったと言ってました」
「え?」

 肝心なことを聞けずにいた私に、柚希君は伊織さんに似た顔で優しく言った。

「好きな人と離ればなれになってしまった伊織は辛くなかったのかと、祖父に聞いたことがありました。そのとき祖父は伊織は最後の瞬間まで幸せそうだったと、そう言っていました」
「どう、して……」
「「好きな人が今もどこかで幸せに暮らしていると思うとそれだけで幸せだ」と」

 ああ、そんなことを言われたら、幸せにならないわけにいかないじゃない。
 それが、伊織さんの幸せなら、余計に。

「……あの、さっき伊織さんはこの島で晩年を過ごしたと言ってましたよね。じゃあ、もしかして伊織さんのお墓って……」
「はい、この島にあります」
「お墓参り、行ってもいいですか?」
「喜ぶと思います」

 柚希君の後ろをついて、私は島を歩く。小高い山の山頂の少し開けたところにそれはあった。小さな古びたお墓。でも、綺麗に手入れされているところを見ると、きっと柚希君や柚希君のご両親が度々参ってくれているんだろう。
 手を合わせて顔を上げると、風が吹き抜けてくるのに気付いた。そこには思いも寄らないものがあった。

「あそこって……」

 お墓の後ろに回って地上を見下ろすと――そこには海が、そして海岸が広がっていた。あれは、あの海岸は、私が初めて伊織さんと出会ったあの海岸……!

「どう、して……」
「ここにお墓を建てて欲しいと、伊織から言われたらしいです。地元に戻れば大きな墓があるのに、どうしてもここに建てて欲しいと」
「っ……伊織、さん」

 伊織さんは、ここからずっと、私を見守ってくれていた。

「っ……」

 私は伊織さんのお墓の隣に小さな穴を掘った。そこに、バラバラに砕けてしまったあの貝殻と、それから伊織さんが残してくれた貝殻を入れる。
 ようやく、伊織さんの元に帰って来られたよ。
 遅くなってごめんね。
 土をかけて穴を埋めてギュッと固めるように手を重ねると、なぜだか冷たいはずの土があたたかく感じた。


 帰りのフェリーの時間が来て、私はフェリー乗り場まで案内してくれた柚希君にお礼を言ってフェリーに乗り込む。タラップに足をかけた私を、後ろから柚希君が呼び止めた。

「あの……!」
「え?」
「その、またお墓参りに来てやってください。きっとあなたが来てくれると、伊織も嬉しいと思うから」
「……ありがとう」

 小さく微笑むと、私はもう振り返らずフェリーに乗り込んだ。
 柚希君はわかっていたんじゃないかと思う。もう二度と、私がこの島には来ないだろうということを。
 この島に来ると、私の気持ちはあの時代に引き寄せられてしまう。今の時代を、今の私を生きていかなければいけないのに、どうしても伊織さんと生きたあの三ヶ月を思い出してしまう。
 でも、きっとそれを伊織さんは望んでいない。
 あの人は私に――私の人生を幸せに生きて欲しいと、そう願っているはずだから。

 でも……。

「っ……」

 大きな音がして、フェリーが港から出港した。
 少しずつ、伊織さんとともに過ごしたあの島から離れていく。

「今、だけ……」

 頬を伝う涙が、ぽたりぽたりと膝に落ちる。
 すぐに泣き止むから。
 泣き止んだら、ちゃんと前を向いて歩き出すから。
 だから、今だけは……。

「伊織、さ、ん……」

 大好きでした。
 あなたの優しさが、不器用さが、あたたかさが、あなたの全てが、本当の本当に大好きでした。