あれから5年の月日が経った。19歳になった私は自宅から通える国立の大学に通っていた。自宅から徒歩とバスで15分。ほどよい距離だ。同じ高校から進学する子も多い子の大学に進むことにお母さんは安心していた。

「行ってきます」
「気をつけてね。今日は早く帰ってくるの?」
「うん。晩ご飯、私作った方がいい?」
「今日は日勤だからお母さんが作るわ」
「そっか、楽しみにしてるね」

 玄関からキッチンにいるお母さんと話をしていると、ドタドタと階段を降りてくる音が聞こえた。この間、階段を踏み外して盛大に落ちて泣いていたのに懲りないなぁ……。
 苦笑いを浮かべていると、足音の主である椿が手すり越しに顔を出した。

「お姉ちゃん! ワンピース借りてもいい!?」
「えー……汚さないでね?」
「やった! お姉ちゃん大好き!」

 中学校の方が大学よりも一足先に夏休みに入ったらしく、今日は映画に行くんだと言っていた。そんな椿に私は、わざとらしくニッコリと微笑んだ。
 
「はいはい。ゆうくんによろしく」
「よろしくしない! ……って、そうだ。お姉ちゃん、今日って帰ってくるの早い?」
「多分早いと思うけど、どうしたの?」

 椿はリビングの方に視線を向けたあと、小さな声で私に耳打ちした。

「ちょっと相談したいことあるんだ」
「相談?」
「そう。だからなるべく早く帰ってきてね」
「わかった。でも私より、デートに行く椿の方が遅いんじゃない?」
「う、うるさい! もう!」
「あはは、じゃあいってきます」
 
 顔を赤くして怒る椿にひらひらと手を振ると、私は玄関を出た。
 椿ももう中3か……。早いなぁ。あんなに小さかったのに、いつの間にかあのときの私と同じ年だ。あのときの――。

「――菫! 待てよ、菫」

 何かを思い出しそうになって、バス停へと歩きながらそれが何だったかを考えようとした私の背後から、誰かが私を呼ぶ声がした。振り返らなくても誰かなんてわかってる。

「うるさい、海里」
「どうせ同じところ行くんだから一緒に行こうぜ」

 あの頃よりもずいぶんと背の伸びた海里は、ニッと笑うと私の隣に並んで歩き出した。
 中三のあの夏から海里はずっとこうだった。
 私は、中学三年生の夏、海里と一緒に行ったキャンプの途中で行方不明になったらしい。……らしい、というのはいまいち記憶があやふやで覚えていないのだ。
 行方不明になった私が発見されて数日後、もうすぐ退院というタイミングで私は高熱を出して生死の境を彷徨ったそうだ。そのせいか、いろんな記憶が抜け落ちているのだ。
 ただ、行方不明になっていた間、私は大正時代のどこかの島にいて、そこで伊織さんを好きになって一緒に生活していた。それだけは覚えている。たくさんの大切な感情を教えてもらったし、かけがえのない時間を彼と過ごした。
 忘れられるわけがない。後にも先にも、あんなに誰かを好きになったのは伊織さんだけなんだから。
 でも、あの日々が大切な思い出となっているのは私だけみたいで。お母さんはあのときのキャンプ場の名前がテレビで流れたら瞬間的にチャンネルを変えるし、私が遊びに行くときにもどこに行くのか何時に帰ってくるのかと尋ねるようになった。そして、そんなお母さんの過保護なほどの心配がくすぐったくて、少しも嫌じゃなかった。
 ……あの頃の私には考えられなかったから。こんなふうに椿やお母さんと笑い合える日が来るなんて。
 伊織さんと過ごしたあの日々が、きっと私を変えたんだと思う。前よりも素直にお母さんの話を聞けるようになった。前よりも椿に対して笑いかけることができるようになった。
 伊織さんに会えなくなって寂しかったし辛かった。でも、伊織さんからもらった言葉は感情は私の中でちゃんと生きている。そう思って、あの日から5年の月日を過ごしてきた。

 伊織さんに会いたい。

 そう思わないわけじゃなかった。でも、それはきっともう二度と会えないと心のどこかで感じているから、だからそう思うのだとわかっていた。だって、もう一度本当に伊織さんに会えるとしたら、そのときは――この時代と、お母さんや椿と、別れるということだから……。
 そして海里は……私が行方不明の間も、それから戻ってきてからも自分を責め続けていたらしい。自分がキャンプに誘わなければ、という思いがあったんだと思う。でも、そんなこと気にしなくていいのに。だって、私が伊織さんと出会うことができたのは、あの日のあのキャンプに、海里が誘ってくれたおかげなんだから。
 だから、海里には何も気にせず、海里の人生を送って欲しいのに……。

「大学まで一緒のところ受けちゃうんだもん」
「え、ダメだった?」

 思わず口からついて出てしまった言葉に、海里が首を傾げながら答える。そんな態度にため息をつくと、私はため息をついた。

「海里ならもっといい大学狙えたでしょ」
「えー。でも、家から通えてそんなに遠くもなくてってめっちゃいい条件じゃない? しかも国立だし」
「そりゃそうだけど……」

 でも、高校だって大学だって海里なら本当はもっといいところにいけたのにって先生が残念がっていたのを私は知っている。だけど、海里はかたくなに「菫と一緒のところ受けたいから」と言って譲らなかった。おかげで冷たい視線は全て私が受けることになったし、なんなら大学はもうワンランク上を狙えと、学年主任つきっきりでみっちり勉強させられたことを私は忘れはしない。
 海里の優しさが、あの日の負い目から来ているのなら、私から離れた方がいいのでは、と高校では海里との時間を減らそうと部活に入ったりもした。でも海里は図書館で本を読んでたんだ、なんて見え透いた嘘をついて部活が終わるのを待っていた。そして、当たり前のように私と一緒に帰るのだ。
 受験勉強に悩んでいるときも隣で勉強しながらわからない問題は教えてくれた。困ったことがあるといつだって海里がそばにいてくれた。その存在をありがたくそして申し訳なく感じると同時に、伊織さんに対する後ろめたさもあった。決して海里と付き合っているわけではないのに、ずっと一緒にいる私たちを周りの友人たちは恋人同士だと思っている。そのたびに私には好きな人がいるんだと言いたくて、言えなくて苦しくなるのだ。
 ――でも、そろそろこの想いも忘れなければいけない時が来ているのかもしれない。もう二度と、会うことができない人なんだから。

「待てよ! おい!」

 海里のことなんて気にせず早足で歩きバスに乗ろうとする私を、慌てて追いかけてくると海里は当たり前のように私の隣に座った。
 そしてもうすぐ来る夏休みについて話し始める。

「サークルのみんなでさどこか行こうって言ってるんだけど菫も行かない?」
「私サークルのメンバーじゃないし」
「別にサークルに入ってないやつも来るから大丈夫だよ」
「いいよ、別に。私は行かないから海里だけ行っておいでよ」

 それよりも、私は行きたいところがあった。伊織さんと一緒に過ごしたあの島に、もう一度行きたい。そしてもうそこに伊織さんがいないことを確かめられたら、この想いに終止符を打てるような、そんな気がする。
 でも、あの島がどこなのか、私にはわからずにいた。
 退院前に出た高熱のせいで、私はあの当時の記憶があやふやだ。どこの島にいたのか、大正何年のことなのかすら覚えていない。覚えているのは伊織さんのこと、それから島に住んでいた人のこと。でも、そんなの何のヒントにもならなかった。もしかしたら、とスマホやパソコンで検索してみたこともあったけれど『伊織』という名前は大正時代にはよくある名前だそうで、私の知っている伊織さんにたどり着くことはなかった。もっと、あの場所にしかなかったものはないだろうか……。必死に思い出そうとしたけれど、結局何かを思い出せることはなかった。

「なあ、それじゃあさ夏休み入ったら二人でどっか行かない?」
「えー……。海里もさ、いい加減私とじゃなくて他の子と出かけたら? おばさんだってもう別に何も言わないでしょ?」
「それはそうだけど……。でも俺は……」
「何?」
「なんでもねえよ! それよりどっか行こうぜ。例えば……海とか!」

 海里は今思いついたとばかりに言うと、スマホで何かを調べ始めた。

「ほら、こことかビーチも綺麗だしどう?」
「どうって言われても……」
「弁当とか持ってさ。俺、菫の作る甘い卵焼き好きなんだよね」
「甘い、卵焼き……」

 懐かしい。
 伊織さんが好きでよく作っていた甘い卵焼き。私はだし巻きが好きだったけれど、こっちに戻ってきてからはつい甘い卵焼きを作ってしまった。そういえば、私のお弁当に入ってる卵焼きを海里ってばよくつまみ食いしてたっけ。

 ……お弁当の、卵焼き?

 何かを思い出せそうだった。

「なんだっけ……。そう、お弁当を作ったんだ……」
「菫?」

 伊織さんのお昼ご飯にお弁当を作って持っていったんだ……。それで海で食べて……。なんで海で食べたんだっけ……。
 ああ、もう! もうちょっとで思い出せそうなのに……。

「菫!」
「なに!?」
「や、何じゃなくて……。そっち道違うくないか?」
「あ……」

 考え事をしながら歩いていた私は、バス停を降りて大学に向かうための曲がり角を右ではなく左に曲がろうとしていた。海里が声をかけてくれなきゃ道を間違えるところだった。……間違えた?

「そうだ」

 あのとき、私は伊織さんのところに行こうと思って迷子になったんだ。それで山の中に入り込んじゃって……。伊織さんはわざわざ私を探しに来てくれたんだっけ。そう、あれは……。

「……オリーブ」
「え?」
「オリーブ園で、働いてたんだ……」

 オリーブ園から私のところまで駆け付けてくれた伊織さんと海に向かって、そこで伊織さんはお弁当を食べた。そうだ、オリーブ園だ。
 こんな大事なこと、どうして忘れていたんだろう。伊織さんは確かオリーブ園で働いていた。でも、オリーブって外国から来た木の実のはず。それを大正時代に、しかも島で育てているなんて、そんないくつもあるわけない。
 私はスマホを取り出すと、検索画面を開いた。――そのとき。

「何するの?」

 私のスマホの画面を覆うように、海里がスマホを掴んだ。

「お前、まさか思い出したのか?」
「え?」
「それで、行く気なんだな? やめろよ! 絶対に行くな!」
「なに……? どういうこと……?」

 私は海里の言葉の意味がわからなかった。今、海里はなんて言ったの? 思い出した? 行く気? それって、まさか……。

「何か、知ってるの?」
「…………」
「ねえ! 何か知ってるなら教えてよ!」
「知らねえよ! 俺はなんにも知らねえ! お前だって思い出せないぐらいのことならさっさと忘れてしまえよ!」

 そう言い捨てると、海里は私を置いて大学とは正反対の方向へと走っていった。
 
「ちゃんと大学行けよ! 気をつけて帰れよ!」

 そう言い残して。


 海里は、何か知っているのだろうか。私が覚えていない何かを。でもじゃあ、どうして今まで言ってくれなかったの? ずっと、私が伊織さんに会いたいと、あの島でのことを思い出したいと言っていたことを海里は、海里だけは知っていたのに……。
 5年前、退院してから夏休みが終わるまで、私はずっと家で引きこもっていた。その間、海里は毎日家に来てくれて私の話を聞いてくれた。かろうじて覚えているあの島でのことを、ポツリと話したのは何がきっかけだったっけ。もう覚えていないけれど、私は海里に伊織さんのことを話した。
 信じてもらえないかもしれないけれど、と言った私に海里は「信じるよ」と言ってくれた。それが凄く嬉しくて、泣きそうなぐらい嬉しくて、話してよかったってそう思ったのに。なのに、どうしてあんな……。
 私はさっきの海里の言葉を思い出して、胸の奥が重くなるのを感じた。

「っ……」

 ううん、でも今はそんなことよりも。
 私は海里の態度は気になるけれど、それはひとまず置いておくことにして、先ほどのキーワードをスマホの検索画面に入力した。

『大正時代』『オリーブ』『島』

 そして私の思ったとおり、検索結果の一番上に、その島の名前はあった。

「小豆島……」

 ああ、この島の名前を私は知っている。何度も何度も耳にした島の名前。そうだ、小豆島。そこに私はいたんだ。伊織さんとともに。
 大学の講義の時間を使って、私は検索結果に出てきたページを読みあさった。けれど、当時の責任者についてや従業員についての記述はない。そりゃあそうだ。なんせ100年以上前のことなんだから残っていなくて当然だ。
 でも、それでもよかった。あの島が実在した。それだけで、涙が出るぐらいに嬉しかった。

「行かなきゃ」

 小豆島に、行かなきゃ。
 行って、それからどうするかなんてまだわからない。行ったところでそこに伊織さんはいないのに。
 でも、それでも私はあの島にもう一度行きたかった。伊織さんと一緒に過ごしたあの島に。


 思い立ってからの行動は早かった。調べると、どうやら小豆島へは香川県からフェリーで行かなければいけないらしい。私が住む街から香川県までは高速バスに乗れば4時間ほどで着くそうだ。
 少し遠い。でも、日帰りができない距離じゃない。
 やっとあの島に行くことができるんだ、そう思うとドキドキする気持ちを抑えることができなかった。
 そんな私の耳に、コンコンとノックの音が聞こえた。

「はい?」
「お姉ちゃん、いる?」
「いるよ」

 そうだ、忘れていた。今日、家に帰ったら何か相談したいことがあると椿が言っていたんだった。いったい相談ってなんだろう……。

「もう、帰ったなら帰ったって言ってよ」
「ごめんね、忘れてて」
「だと思った!」

 ブツブツと文句を言いながら椿は私の部屋に入ってくると、部屋の中央に置いたテーブルの前に座った。
 いったい相談とはなんなんだろう?

「あのね、その……」
「どうしたの?」
「あの……! えっと……」
「椿?」

 何かを言いかけてはやめて……を何回か繰り返したあと、椿は覚悟を決めたようにこちらを向いて、それから口を開いた。

「ケーキの作り方を教えて欲しいの!」
「ケーキ?」
「そう。レシピサイトを見ながらこの前作ったんだけど失敗しちゃって……」
「そりゃいいけど、ケーキなんてなんで……」
「もうすぐゆうくんの誕生日で……。それで……」

 なるほど。
 彼氏の誕生日に手作りケーキを作ってあげたいと。

「いいよ」
「ホントに!?」
「うん、いつ作る?」
「今度の日曜日! 月曜日が誕生日だから……」
「わかった、日曜日だね」

 私は勉強机の上に置いた卓上カレンダーに忘れないように○をつけた。そんな私を見ながら、椿はポツリと呟いた。

「お姉ちゃん、変わったよね」
「……そうかな」
「そうだよ。前はなんて言うか……」
「なに?」
「……怒らない?」

 不安そうに確認すると、椿は口を開いた。

「お姉ちゃんさ、前は私とママのこと、嫌いだったでしょ」
「嫌いなんかじゃ……!」
「いいよ、ごまかさなくて。ずっと気付いてたから」

 違う。嫌ってなんか、いない。
 でも……。

「嫌ってたんじゃなくて……ずっと、椿とお母さんに嫌われてるんだと思ってた」
「嫌う……? 私とママが? お姉ちゃんを? どうして」
「どうしてって……お父さんが、私のせいで死んじゃったから……」

 嫌っていると思っていた。……恨まれていると、思いたかった。
 誰かが私を責めていると、そう思っていたかった。
 でも……。

「……お姉ちゃんって、バカなの?」
「な……」
「まさかと思うけど、パパの代わりに自分が死ねばよかったなんて思ってるんじゃないよね?」
「そ、れは……ないけど……」

 今は、さすがにもう思っていない。もしもあのとき、お父さんの代わりに私が死んでいたとしてもきっとお母さんと椿は悲しんでいたと思うから。……でも、そう思えるようになったのは伊織さんと出会ってからだ。それまでの私は、ずっと……。
 でも、私の答えに椿はホッとした表情を浮かべていた。

「よかった。そう思ってる、なんて言ったらどうしてやろうかと思った」
「つ、椿……?」

 ニッコリと笑いながら、口では恐ろしいことを言っている椿に思わず苦笑いを浮かべると「それぐらい怒ってるってことだよ」と淡々と返された。
 でも、確かにそうだと思う。もしも逆の立場で、椿とお父さんが出かけていてお父さんが死んじゃって椿だけ生き残ったとしたら、私は椿を責めるだろうか。ううん、絶対に責めない。それどころか、お父さんの死は悲しいけれど、でも椿だけでも無事帰ってきてくれたことを喜ぶだろうし、椿のことを守ってくれたお父さんを誇りに思うだろう。
 ……つまり、そういうことなんだ。
 そんなことにも、あの当時の私は気付けなかった。なんて子どもだったんだろう。
 今、目の前にいる椿は、あの当時の私と同じ年のはずなのに、ずいぶんと大人びて見える。

「椿は、大人だね」
「……お姉ちゃんを見て育ったからね」
「え?」

 椿は、思いも寄らないことを言った。私を見て、育ったから?

「どういう……」
「お姉ちゃんがパパのことでずっと苦しんでいるの知ってた。ううん、ちっちゃい頃はわかんなくて、なんでお姉ちゃんはあんなに辛そうなんだろうって思ってた。でも、いろいろとわかるようになって、お姉ちゃんだって辛くて苦しいのに私の面倒をずっと見てくれて……お姉ちゃんみたいな人になりたいってそう思った」
「椿……」
「だからもし、お姉ちゃんの目に私が大人びて見えるんだとしたら、それは全部お姉ちゃんのおかげだよ。私、お姉ちゃんに感謝してるんだよ? だって、私ママのご飯よりお姉ちゃんのご飯を食べて大きくなったんだから」
「……ホントだ」

 私たちは顔を見合わせて笑った。笑って笑って、私の目からは涙がこぼれた。こんなふうに幸せな涙を流せるなんて、あの頃は思ってもみなかった。でも、今は……。

「じゃあ、お姉ちゃん。約束だよ? 一週間後、一緒にケーキ作ってね!」
「わかった。約束」

 私の返事に、椿は満足そうに部屋に戻る。私は……カレンダーにつけたもう一つの○をジッと見つめた。
 
 
 金曜日、私はお母さんに友達と遊んでくると言って朝早くに家を出た。いつもよりもずいぶんと早い時間だったので少し訝しがられたけれど……。

「夏休みだからちょっと遠くの海に行こうってなったの。だから集合時間が早いんだ」

 そう言った私の言葉を、お母さんは信じてくれているようだった。

「遅くなりすぎないようにね」
「わかってるって」
「そうね、大丈夫よね。……でも、くれぐれも気をつけてね」
「わかった」
 
 少し心配そうに微笑むお母さんとの間には、あの頃のような確執も嫌な空気も流れてはいなかった。

「いってきます」

 バタンとドアを閉めると、私は息を吐いた。
 お母さん、ごめん。でも私は、どうしても行きたかった。伊織さんと暮らした、あの島に。
 
「――菫」
「海里……」

 そんな私を待ち構えるかのようにして外壁の前に立っていたのは――海里だった。海里には行く日にちを言ってなかったのにどうして……。

「おばさんが、菫が海に行くって言ってるけど海里君も行くの? って聞いてきた」
「それで……」

 まさかお母さんが海里にそんなことを聞くなんて思ってもみなかった。こんなことなら友達なんて言わず適当な女の子の名前を言っておくべきだった。
 思わず黙り込んだ私の格好を見て、海里は顔を歪めると口を開いた。

「行くのか」
「……海里は、知ってたんだね」

 海里の質問には答えず、そう尋ねた私に海里は静かに頷いた。
 その態度に、私は思わずカッとなってしまう。
 
「どうして言ってくれなかったの!? もっと、もっと早く知ってれば……!」
「言いたくなかった。知ったら絶対にお前はあの島に行くだろ? 行かせたくなかったんだ!」

 海里は私の手首を掴む。まるで行かせまいとするかのように。どうしてそこまで、私を……。あのときのことをまだ後悔しているの? だとしたら……。
 
「海里には関係ないでしょ!」
「好きなんだ!」
「え……?」
「あの頃から、ずっと菫のことが好きだった! 好きだから、菫のことが好きだから、言えばまたお前がいなくなってしまうんじゃないかってずっと怖かった。思い出して欲しくなかった。ずっと忘れたままでいて欲しかった」

 そう言った海里は、泣きそうな顔をしていた。海里のそんな顔、初めて見る……。でも、だって、私は……。

「はな、して……」
「嫌だ。もう二度と、あんな想いはしたくない!」
「いた、い……」
「っ……」

 私の言葉に、海里は一瞬苦しそうな表情を浮かべて、それから手を離した。捕まれた腕は真っ赤になっていた。いつの間に、こんなに力が強くなっていたんだろう。私の知っている海里は、身体が弱くて、すぐに熱を出して、それから……。

「……ごめん」
「え……?」
「俺に、そんなこと言う資格、ないのにな」

 海里は寂しそうに笑った。その表情に、なぜか胸が苦しくなった。でも……。

「でも、やっぱり心配だから……一緒に行かせて欲しい」
「…………」

 首を振る私に海里は「そっか」と小さく呟いた。
 海里の気持ちは嬉しい。でも、私はどうしても一人で行きたかった。他の誰にも邪魔されたくなかった。あの島は、私にとって大事な大事な場所だから。

「……ちゃんと帰ってこいよ」
「……当たり前でしょ」
「待ってるからな」

 そう言った海里の言葉が、耳から離れなかった。


 高速バス乗り場まで一緒に行くと言って、バス停に向かう私の隣を海里は歩いた。最寄り駅からさらに大きなターミナル駅に移動して、そこから高速バスに乗る。
 どこまで着いてくる気なんだろう。
 駅で切符を買う私の隣で、海里も券売機を操作してターミナル駅までの切符を買っていた。

「…………」
「…………」

 ガタンゴトンと揺れる電車の中、無言のまま私と海里はボックス席に並んで座る。
 いったいどういうつもりなんだろう。
 そもそも、どうして海里が小豆島のことを知ってたんだろう。

「……ねえ、聞いてもいい?」
「質問による」
「……どうして、小豆島だって知ってたの?」
「それは……」

 口ごもりながら視線をそらすと、海里はポツリポツリと話し出した。

「5年前、こっちに戻ってきた菫の様子を見に病院に行ったときに、お前が寝言で言ってたんだ。「オリーブ園」って」
「そんなの、知らない……」
「そのあと高熱が出て、その辺の記憶がすっぽり飛んでしまってたみたいだったから、言う必要もないと思った」
「どうして……!」
「だって、あの人に繋がるキーワードなんて聞いたらお前、あの人のことをずっと忘れられないだろう?」

 海里は悲しそうに顔を歪めて言った。

「それでも、やっぱり気になって、図書館で調べたんだ。大正時代にオリーブを育ててたところを。そしたら、見つかった。小豆島が」

 図書館……。
 その単語に、私はハッとした。
 高校に上がって、部活を始めた私を海里は帰らずに待ってくれていた。「図書館で本を読んでたんだ」なんて言ってたけれど、あれはまさか……それを調べていたの……?

「どうして……?」
「どうしてだろな。わからないまま置いておいた方が絶対よかったのに。でも……行方不明になっていた間、菫がどこにいたのか、知りたかった。どんなところで、どんなふうに暮らしていたのかを」

 海里は自嘲するかのように笑った。そして持ってきていたペットボトルを開けると、私の方を向いた。

「いや、もしかしたら……心のどこかでわかっていたのかもしれないな。いつかお前が思い出す日が来るって。また俺の前から消えて、あの人を探しに行ってしまう日が来るって。だから、俺は……」
「海里……」
「あ、もうすぐ駅に着くみたいだぞ」

 海里の言葉に外を見ると、窓の向こうにホームが見えてだんだんと電車は速度を落とし始めていた。
 ホームに降り立つと、私は海里に連れられるようにして高速バス乗り場へと向かった。
 そして海里に見送られながら、私をのせたバスは動き出した。ここから四時間ほどで香川県に着く。そうしたらフェリーに乗り換えて……。

『好きだ』

 海里の言葉が、頭の中で蘇る。そのたび私は首を振って頭の中から海里の存在を追い出した。私が好きなのは、伊織さんだけ。伊織さんだけなんだから。
 バスが到着するまでまだまだかかる。朝も早かったし眠ってしまおう。そうすれば余計なことも考えなくて済む。私は目をギュッと閉じると、なんとかして眠りにつこうと、必死に羊の数を数えた。


 アナウンスが聞こえて目が覚めると、バスの窓の向こうに見える景色は見慣れないものだった。5分ほどしてバスは高松駅へと到着した。ここからフェリー乗り場へは5分ほど歩けばつくらしい。前もって調べた地図を出そうとするけれど、親切な看板のおかげで迷うことなくすんなりとフェリー乗り場に着いた。
 夏休みといえど、平日の、それもお昼過ぎということもあり、フェリー乗り場にお客さんはポツポツといるだけだった。
 そわそわと落ち着かない気持ちでフェリーの搭乗を済まし、35分ほど揺られると――私は小豆島へとたどり着いた。
 フェリーから島へと一歩足を踏み入れた瞬間、全身の血が沸き立つような高揚感を覚えた。

  ああ、ここだ。私は、ここに帰ってきたんだ。

 涙が出そうなほど嬉しく、そして苦しくなった。
 いても立ってもいられず、私はその場から駆け出した。所なんか覚えてないし、何ならあの頃の面影なんて一つもない。それでもここだと全身が訴えかけていた。走って走って、そして私はがたどり着いたのは、初めて伊織さんと会った、そしてあのハマグリを拾った海岸だった。
 無意識にポケットに手を入れる。そこには、あの日伊織さんにもらった貝殻の片割れがあった。ポケットから取り出してギュッと握りしめると、ほのかに熱を感じる。貝殻も、自分が元いた場所に帰ってきたことを感じているんだろうか。

「伊織、さん……」

 その名前を口にするのは、いったいいつぶりだろう。
 もう忘れなきゃいけないと思っていた。もう二度と会えないのだから、と。でも……。

「会いたい、伊織さん……。もう一度だけ、あなたに、会いたい」

 ぽたりと貝殻に涙が落ちる。いくつも落ちたしずくに太陽の光が当たり、まるで光り輝いているみたいに見えた。

「え……?」

 みたい、じゃない。光っている。そう気付いたときには――私の身体はまばゆい光に包まれていた。それはまるであの日見た、蛍の光のようだった。