「練習するしかないだろうな」
目を覚ました大五郎が、開口一番に言い放ったのがそれだった。
時間としてはもうすでに三十分ほどが経過しており、文化祭まで日も少ないことを考えれば、すぐにでも何かしらの対策を取らなければならない。
新しい脚本を考えるか、代役を立てて進めるか……と思案する米崎の頭には、大五郎をどうにかするという発想は微塵もなかった。
大五郎が女性に触れられないのは、入学した時から一切変わっていない。
むしろ異性を意識しすぎているせいか、年々酷くなっている傾向にある。
今までは、少し触れただけで意識を失うことなどなかったのだ。
部長としての責任感と、自らの苦手意識が面倒な相乗効果でも引き起こしているとでもいうのだろうか。
何にしても、今から大五郎を変えるのはリスクが大きすぎる。
間違いなく時間はかかり、その上で必ず治るという保証もない。
「こうなったら、俺が脚本を書くしかないか……」
「俺の意見は無視か? 米崎よ」
書いたことがないわけではないが、自信もない。
皮肉なことに、吾妻が持って来た『フレアマインド(仮)』はよくできていた。
触れた人間の感情を理解する主人公と、心を開けないヒロインのラブストーリー。
触れる場所や、強さによって感情の正確さや読み取れる情報量が変わるため、主人公はヒロインを知るために多くの触れ合いを求めていく。
その中に感情の機微が繊細に描かれており、ラストの抱擁シーンで物語のピークが来るようにしっかりと練り上げられている。
短期間で吾妻を超すクオリティーの物が仕上げられるかと言えば、正直不可能に近い。
「そうなると、代役を立てるしか方法が、」
「おい副部長、聞いてくれ。俺も人間だ。ずっと無視されたり、全く信頼されてない様を見せつけられたりすると、さすがにきつい」
大五郎が目の前で露骨に弱っていた。
この手の天才タイプにありがちとでも言うべきか、大五郎は存外メンタルに難がある。
波が激しく、調子が良いときであれば問題ないのだが、悪い時だと緊張も激しければ演技も全く身に入らない。
だからこそ、メンタルケアも米崎の重要な仕事であり、大五郎を気持ちよく演じさせることこそが舞台の成功の鍵となってくる。
そのため、米崎は基本的には大五郎を甘やかしてきた。
今回もできることなら、大五郎の望み通りに進めるのが理想ではある。
「……本当に、克服できるのか」
「ああ、勿論。俺を誰だと思っている。演劇部きってのスーパースター、豊島大五郎だぞ」
大五郎が不敵な笑みを浮かべてみせると、同じように米崎も笑った。
「……見浦、江木。二人同時で頼む」
「は、はいっ」
「かしこまりました」
「お、おい! ちょっと二人で来るのは心の準備がっ!」
先ほどの見浦と、二年の江木朱里(えぎあかり)が一斉に大五郎を触りに行く。
そして、
「あひぃん」
即座にダウンした。
言わんこっちない、と米崎は心の中で毒づいた。
大五郎のことは演者として信頼しているが、人間としては信用していない。
周りからチヤホヤされてきた分、大五郎は素でビックマウスになりがちだ。
彼の言葉をそのまま鵜呑みにすると、後で痛い目に合うということは経験上理解していた。
二度目の失神を迎えた大五郎を見ながら、米崎は本格的に頭を悩ませる。
二人がかりとはいえ、一度気を失った後なので次の復活にはそうかからないだろう。
そうやって、ショック療法で追い込み続ければあるいは……と一瞬過ったが、以前それで失敗していることを思い出した。
あの時は確か、部員の一人が強引にキスを迫って――。
「これは一体、何の騒ぎ?」
不快感を隠そうともせずに、一人の少女が部室に入ってきた。
抜群のスタイルに、遠目からでも分かるはっきりとした顔立ち、良く通る声。
舞台女優に相応しい要素を全て詰め込んだような美少女――倉嶋(くらしま)リオは、大五郎や米崎と同じ三年であり、当部活のヒロインでもある。
そして、かつて大五郎にキスを迫って彼の症状を悪化された張本人でもあった。
「重役出勤だな、倉嶋。こんな時間前何をやってた」
「偉そうに言ってるけど、まだ練習始まっていないんでしょう? あの人も伸びてるみたいだし」
あの人とは、大五郎のことだ。
部長が倒れていることを指摘されてしまえば、副部長としては立場が悪い。
とはいえ、リオが遅れてきた理由には概ね見当がついている。
こめかみを抑え、ブツブツと呟きながら首を振っているところを見ると、十中八九補修帰りだろう。
倉嶋リオは、容姿と立ち振る舞いこそ最上級だが、中身に関しては空っぽに近い。
成績はほぼ全て赤点であり、食事と人間の好き嫌いが激しい。
我慢ができない性格をしており、欲しいものが手に入らないと他者を巻き込んで暴れる。
大五郎が一年の時、主役を任せるかどうかで一部の上級生が揉めたことがあったのだが、その時にもリオが割って入っていった。
当時三年にはヒロインができる女性がおらず、リオは一年でありながら主役の相手方として配役が決まっていたのだが、そんな自分の立場を利用して、
「豊島君が主役じゃなきゃ部活辞めます」
と宣言したのだった。
それにより、二つ返事で大五郎の主役が決まったことは言うまでもない。
その他にも、加湿器がないと練習できないやらエチュードが嫌いやらと言いたい放題であり、特に大五郎に関する要求は人一倍大きかった。
「仮でも何でも、私は豊島君としか練習しないから」
台詞合わせの時に、リオが上級生に向かって言い放った言葉である。
生徒会の雑務に追われ、部活に顔出しができない大五郎に代わって練習を買って出た先輩に対して遠慮の一切ない感情をぶつける様は、さながら一国の姫君であるかのようだと囁かれ、裏では『リオ嬢』などと呼ばれている。
因みにリオ自身はそのことに気付いているが、特に咎めたりはせず、どちらかというと気に入っている素振りすらあった。
「私ほど綺麗だと、気品が隠し切れなくてつい庶民の話の種になってしまうものね」
とは本人の談である。
そんな個性の強いリオではあるが、演技をさせればこれまた天下一品だった。
今回の脚本でもヒロインはリオの配役になっており、ある意味では大五郎以上に変えの利かない存在となっている。
「これ、脚本?」
リオが脚本を手に取ると、吾妻がビクッと肩を震わせた。
彼女の様子を窺うように、俯いたままで目線をやる。
「ふーん、面白そうね」
パラパラとめくりながらリオが言う。
ホッとしたような、しかしそれ以上の心配があるのか吾妻は複雑な表情を浮かべていた。
とはいえ、彼女にとって大事なのは内容ではなく、自分がいかに輝くかであるため、シナリオの出来に関しては何の言及もない。
「その脚本だが、没になるかもしれない」
中を読み進めているリオに、米崎が一連の説明をする。
粗方を話し終えたタイミングで、リオが脚本を机に置いた。
「そうね。このままの脚本でいきましょう」
「……話聞いてたか? これだと大五郎が主役できないから、どうにかして変えないといけないってさっきから、」
「だったら豊島君の方を何とかすればいいでしょう? 本人もやる気みたいだし、止める理由はどこにもないと思うけど」
豊島君のためなら、私も協力するわよと悪戯っぽく笑う。
米崎自身に、リオへの特別な感情というのは一切ないが、それでもこうまで露骨に贔屓されていると腹が立つ。
「……随分と大五郎がお気に入りみたいだが、アイツに気があるのか?」
「この部活に豊島君以上に演技が上手い人いる? それが答えだと思うけど」
「……一理しかないな」
一瞬で言い負かされてしまう。
そもそも米崎も大五郎を贔屓している側なので、やっていること自体はリオと大差がない。
「あ、分かってると思うけど。もし代役なんてこと考えてたら私、部活辞めるから」
「何度も聞いたよ」
実際は代役の案も考えてはいたのだが、口にすると余計な波紋を生みそうだったので黙っておくことにしたのだった。