きみが明日、この世界から消える前に

「あ、かんちゃんだー」
 その日も、校門を出たところで背中にそんな声がかかった。
 振り返ると、あいかわらず小走りにこちらへ駆け寄ってくる七海がいて
「だから、走るなって」
「大丈夫だってー、これぐらい」
 心配性だなあ、なんてのん気に笑いながら、七海が俺の隣に並ぶ。

 誰のせいだと思ってんだ、と俺は心の中でだけ突っ返す。
 お前が、もっと身体が強かったら。自分の体調管理が自分でできるぐらい、頭が良かったら。俺がここまで口うるさくなる必要もなかったのに。あいつみたいに、ただ甘いだけの優しさをあげられたのに。
  あいつ、みたいに。

「……今日、樋渡は?」
「生徒会だよー、今日も」
「たまには待っとけばいいのに」
 ふと季帆の顔が浮かんで、つい口をついてしまった言葉に
「いいよー。同じクラスなんだから教室では会ってるし」
 七海はあっけらかんと笑ってそう言った。
 樋渡と付き合いだしてからも、七海と俺がいっしょに帰る頻度はさほど変わっていない。付き合うのだから、毎日のように樋渡といっしょに過ごすのかと思っていたけれど、意外とそこまでべったりはしないものらしい。

「……心配になったりしないの?」
 ふと気になって訊いてみると、七海はきょとんとして
「へ、なにが?」
「樋渡のこと。ひとりで学校に置いてきて」
「え、そんな、子どもじゃないんだから」
 肩を揺らしておかしそうに笑う七海に
「そうじゃなくて。樋渡、わりとモテそうじゃん」
「そうかな」
「……最近、樋渡とやたら仲良くなった女子いない?」
「ああ、坂下さん?」
 七海がさらっとその名前を口にしたことに、ちょっとどきっとした。

「知ってんの?」
「うん。二学期から四組に来た転校生でしょ。最近、卓くんが仲良くなったって言ってた。頭良いんだよね、坂下さん。このまえの模試、学年トップだったでしょ、たしか。すごいよねー」
 純粋に賞賛や羨望のこもった笑顔でそんなことを言う七海に、え、と俺は少し戸惑いながら
「いいのか、それ」
「え、なにが?」
「樋渡が、その転校生とやたら仲良くなってんの。気になんないの?」
「え? うん」
 七海はなにを訊かれたのかよくわからなかったみたいに、きょとんとした顔で
「友達だもん。女の子の友達だっているよ、卓くんにも」
「それ、いいのか?」
「そりゃ、いいよー。彼女がいる男の子は女の子の友達作っちゃいけないなんてことないでしょ」
 変なのー、とおかしそうに笑う七海に、俺はふと眉を寄せると
「……七海、まさかあの噂聞いてないの?」
「噂?」
「あの転校生が、樋渡のこと狙ってるっていう」
「ああ、ちょっと聞いた。ただの噂でしょ。そんなのいちいち気にしてたらキリないよー」

 あっけらかんと笑う七海の笑顔には、なんの憂いも混じっていなかった。本当に、なにも気にしていないのだろう。
 俺はますます困惑して、そんな七海の顔を眺めながら
「不安になんないの?」
「不安? なんで?」
「樋渡が心変わりするかも、とか」
「え、ならないよ。今卓くんが付き合ってるのはわたしだもん」
 強がりではなかった。ただ事実を告げるだけの、あっさりとした口調だった。
「そんなこと心配してたってどうしようもないもん。どうせ信じるしかないんだから。わたしは卓くんのこと信じてるよ。大丈夫だって」
 笑顔を崩すこともなく、七海はさばさばとした口調でそんなことを言う。

  奇妙な違和感を覚えて、俺は困惑していた。
 なんの湿り気もないその声にも表情にも、はっきりとした芯があった。
 七海らしくなかった。そんな、自信に満ちた表情も、意志の強そうな目も。七海には似合っていないと、そう思った。俺が昔から知っている、気弱で引っ込み思案だった、七海には。


「あ、かんちゃん。ちょっとコンビニ寄っていっていい?」
 七海が言ったのは、中町駅を出て、家のほうへ歩き出したときだった。
 頷いて、駅のいちばん近くにあるコンビニに入る。
「ちょっと待っててね」と言って雑誌コーナーのほうへ向かった七海と別れ、適当に店内を歩いていたとき
「――ねえ、そういえばこのまえさ、めっちゃ久しぶりにあの子見たんだけど」
 棚の向こうでしゃべっている女子の声が、ふと耳に入ってきた。
「あの子?」
「ほら、同じクラスだった、あのガリ勉の」

「――ああ、坂下季帆?」
 出てきた名前に、通り過ぎようとした足が、思わず止まった。
 季帆の名前を口にするふたりの声に、好意的な色はなかった。かけらも。
 先日、下駄箱で聞いた女子たちの声に似ていた。
 嘲りと、嫌悪のにじむ声。

「そうそう、このコンビニにいたんだよ。すごい変わってたから一瞬わかんなかったー」
「えー、なんでこんなところに。あの子、このへんの高校行ってんだっけ?」
 並ぶ商品の隙間、少しだけ棚の向こうにいるふたりの姿が見える。
 顔まではわからないけれど、この近くにある商業高校の制服を着ているのは見えた。
「それがさ、北高の制服着てたんだよ。びっくりでしょ」
「は、北高?」
 聞き返す声に、笑いが混じる。今度こそ、あからさまにバカにする響きだった。
「うそ、あの子、北高なんて行ってんだ」
「ね、うけるよね。あんだけガリ勉だったくせに北高って」
「なんかかわいそ。あんな必死だったのにさ。てか、川奈受けるとか言ってなかったっけ?」
「あー、そういや言ってたね。川奈落ちたんだろうね」
「それで滑り止めの北高かー。にしても、もうちょいマシなとこなかったのかね」
「落ちるなんて考えてなかったんでしょ、どうせ」
 勝手な推測でそう結論づけたふたりは、そこで季帆の話題をやめた。
 その後は、「なに買おっかなー」なんてきゃっきゃしながら、女子高生らしくお菓子を選んでいた。

 俺はまだその場に立ち止まったまま、そんなふたりの声を聞いていた。
 北高というのは、うちの高校の略称だ。
 ふたりがバカにしていたのは、うちの偏差値が低いからだろう。少なくとも、彼女たちが言うところの“ガリ勉”な生徒が来るような高校ではない。
 対して、川奈高校といえば、このあたりではトップクラスの進学校だ。
 中学時代、学年でいちばん成績が良かったやつも、たしか川奈へ行った。相当な成績でなければ、受けようとも考えないような、そんなレベルの高校だ。実際、俺なんていちども考えなかった。

 四月に、季帆に声をかけたときのことを思い出す。
 あの日の季帆は、北高の制服は着ていなかったけれど、川奈の制服も着ていなかった。北高の近くにある、私立の女子校の制服を着ていた。
 あの女子校も、たしかうちと同じぐらいの偏差値だったはずだ。滑り止めにちょうどいいぐらいの。
 だとしたら、ふたりの言うとおり、季帆は川奈に落ちたのだろう。

 ――ガリ勉。
 ふたりは季帆のことを、そう呼んでいた。

「あー、あたしやっぱりワッフルにしよっと」
 お菓子の前でしばらく悩んでいたひとりが、あきらめたように声を上げた。
「またー?」ともうひとりがあきれたように返す。
「最近そればっかじゃん。よく飽きないね」
「ハマっちゃったんだもん。太るから今日は我慢しようと思ったけど、やっぱ無理だー、食べたーい」
 そこでふと、今俺の目の前にある棚に、彼女らの言っていたワッフルがあるのに気づいた。プレーンなやつと、チョコがかかっているやつ。それぞれ二つずつ残っている。
 お菓子の棚の前から移動を始めたふたりが、こちらへ近づいてくる。
 気づけば、俺はそこにある四つのワッフルをぜんぶつかんで、レジへ向かっていた。

「――うそっ、今日いっこもない!」
 少しして、後ろでそんな悲痛な声が上がるのを聞きながら。


「かんちゃん、なに買ったのー?」
「ワッフル」
「え、めずらしい!」
 コンビニを出たところで、七海が驚いたように俺の持つビニール袋を覗き込んできて
「あれ、かんちゃんて、甘いもの嫌いじゃなかったっけ?」
「嫌い」
「じゃあなんで」
「やる」
 四つのワッフルが入ったビニール袋を、そのまま七海へ差し出す。「えっいいの?!」と七海は顔を輝かせたけれど、中身を見ると少し戸惑ったように
「四つも?」
「食べきれなかったら、残りはおばさんにでもあげて」
「なんで四つもワッフル買ったの?」
「……なんとなく。買いたかったから」
 無性に。買いたくなった。それだけだった。
 日曜日の昼。
 その日は家族がみんな出かけていて、家にいるのは俺ひとりだった。
 台所を物色してみたけれど昼飯になりそうなものが見つからず、仕方なく部屋着にパーカだけ羽織って向かった近所のコンビニ。

「――あれ、土屋くんじゃないですか。偶然ですね!」
 そこで、季帆に会った。

「……ぜったい偶然じゃないだろ」
 こいつの言う「偶然」ほど白々しいものもない。
 眉をひそめながら振り返ると、白いニットにグレーのショートパンツを穿いた季帆がいた。
 久しぶりに髪が巻かれて、ふわふわしている。学校で会うときより化粧も念入りで、気合いが入っているように見えた。

「偶然です。私、お昼ご飯を買いに来たところなんです。もしかして土屋くんもですか?」
「……まあ」
「わあ、偶然! じゃあせっかくなので、いっしょにどこかでランチしましょう!」
「やだよ」
 一も二もなく切り捨てて、俺は棚のほうを向き直ると
「俺、今コンビニ着だし」
「なんですかそれ」
「コンビニ用の格好ってこと」
 そんな、外食を想定した服を着ていない。ほぼ部屋着だ。

「大丈夫ですよ。なにもおかしくないです。私は気にしません」
「いや俺が気にすんの」
「じゃあ、その格好でも気にならないようなお店にしましょう。牛丼とか、ラーメンとか」
「……え、そんなとこでいいの?」
 女子の言うランチって、洒落たカフェへでも行かなければならないのかと思っていた。
「もちろんです。私は土屋くんとごいっしょできるならどこでも。だから土屋くんの食べたいもの食べましょう。ね、それならいいでしょう?」
 なんてあれよあれよと言いくるめられ、気づけば、けっきょく季帆といっしょにコンビニを出ていた。


「あのコンビニ、よく来んの?」
 短い相談のあと、近くのファミレスに行くことに決まり、季帆と並んで歩き出した。季帆が履いている踵の高いショートブーツのせいか、いつもより目線が近い。
「はい、ときどき」
「季帆の家って、このへんなの?」

 ――えー、なんでこんなところに。
 数日前にあのコンビニで聞いた、女子ふたりの会話を思い出す。
 季帆をここで見かけたという言葉に、もうひとりはそう返していた。驚いたように。

「はい、このへんです」
「……じゃあ、中学どこだった?」
 重ねた質問に、季帆がふっとこちらを見た。
 そうして少しのあいだ無言で俺の顔を見つめた季帆は
「――忘れました」
「は?」
「どこの中学行ってたかなんて、そんな昔のこと、忘れました」
 淡々とそんなことを言って、季帆はまた前を向き直った。

 俺はあっけにとられて、そんな季帆の横顔を見つめていた。
 そんなわけないだろ、と突っ込みかけた言葉は、なぜだか喉で詰まった。前を向いた季帆の表情が、奇妙に静かだったから。
「……忘れた?」
「はい」
 無表情に前を見つめたまま、季帆が頷く。
「だって」だけど軽く目を細めた表情に硬さはなく、むしろどこか穏やかに見えた。
「土屋くんに会う前のことだから」
「……え」
「だから忘れました。土屋くんに会う前のことなんて、もうどうでもいいんです。ぜんぶ」
 言い聞かせるようなその声に、俺はそれ以上、なにも言えなかった。


 お店に着き、俺は温玉ドリアを、季帆はデミグラスハンバーグを頼んだところで
「そういや、樋渡とはどうなってんの」
 ふと思い出して訊いてみると、季帆はテーブルの上にある期間限定スイーツの写真を見ていた視線を上げ、俺を見た。そうしてなんだか誇らしげに目を細めてみせながら
「すこぶる順調です。今、順調にお友達の地位まで上り詰めたところです」
「友達」
「はい。最近、七海さんののろけ話とかもしてくれるようになりましたよ、樋渡くん」
 どうやら、樋渡のほうもまったく季帆を警戒していないらしい。急にこんな接近の仕方されたら、ふつう怪しむだろうに。そろって鈍感なのか、あのカップルは。

「……のろけ話って、どんな?」
「七海さんが、最近すごく頑張ってるって。生徒会の活動もぜったいさぼらないし、体育の授業もちゃんと参加してるし」
「……体育」
 あいつ、まだ参加してんのか。見学しろって言ってんのに。
 生徒会の活動だって、もっと適当に休めばいいのに。朝も放課後も、休日まで欠かさず参加したら、ぜったいきついだろうに。

「それを褒めてんのか、樋渡」
「はい。頑張っててえらいって言ってました。うれしそうに」
 こみ上げてきた苛立ちを吐き出すように、俺は大きくため息をつく。
 やっぱり心配していたとおりだった。樋渡が褒めるから、七海も調子に乗るのだろう。
 ……七海は、頑張らなくていいのに。
 ただ、無理をせず、できる範囲のことだけやっていけば、それだけでいいのに。どうせ、普通の人と同じように、なんて無理なのだから。七海には。

「デートの予定とかも話してくれますよ、樋渡くん」
 思い出したように季帆が言ったのは、テーブルの上にお互いの注文した料理が並んだときだった。
 鉄板の上で肉が焼ける音に、俺はちょっと自分の選択を悔やみながら
「デートの予定?」
「はい。七海さんと今度こういうところに行く、とか。聞けばぜんぶ教えてくれます」
「……信頼されてんだな、樋渡から」
 季帆の取り入り方が上手いのか、樋渡の警戒心がなさすぎるのか。
 たぶん後者のような気がする。
「はい。なんといっても私、樋渡くんのお友達ですから」
「次のデートはどこ行くって?」
 スプーンを手に取りながら、何とはなしに尋ねてみると
「旅行に行くそうですよ。今度の連休」

「……旅行?」
 返ってきた答えに、思わずスプーンを取り落としそうになった。
「あ、旅行って言っても泊まりじゃないですよ。日帰りです」
 俺がよほどけわしい顔をしていたのか、季帆があわてたように付け加えてくる。
「そりゃ当たり前だ」
 高校生の分際で泊まりなんて、冗談じゃない。
 いや、日帰りでも冗談じゃない。旅行というからには、遠出するのだろう。朝から夕方まで、一日がかりで出かける気なのだろう。
 冗談じゃない。

「どこに行くって?」
「柚島だそうです。海沿いのカフェでランチして、景色の良い丘に登ったり、雑貨屋めぐったりしてから、夕陽を見て帰るって」
「……柚島」
 ほら、めっちゃ遠い。
 ここからだと、電車でも片道二時間はかかる。しかも丘に登ったり、雑貨屋をめぐったり?
 七海がそんな負担に耐えられるはずがない。途中で倒れたらどうするつもりなのだろう。

「七海、行く気なのか?」
「え? そりゃもちろん。ふたりで計画立てたそうですから」
 ああもう。イライラと頭を掻く。
 どうしてわからないのだろう。自分の身体が弱いこと。十五年生きてきて、なんで学習しないのだろう。そんなことをしたらまた体調を崩すことぐらい、もういい加減わかるだろうに。

 苛立ちながら俺が乱暴に温泉卵をスプーンで崩していると
「そんなに嫌なんですか?」
 俺の顔を覗き込んだ季帆が、ちょっと不思議そうに訊いてきた。
「べつに泊まりじゃないんですよ? 日帰りですよ?」
「嫌だよ。日帰りでもいっしょだ」
「うーん、じゃあ私、旅行は止めるよう樋渡くんを説得してみましょうか」
「いや、いい。俺から言うから」
 短く返せば、え、と季帆は少し戸惑ったように
「言うって、誰にですか?」
「七海に」
「旅行はやめろって言うんですか?」
「そうだよ」

 顔を上げると、季帆はなんだかちょっと困ったような顔でこちらを見ていた。
「でも」
「なに」
「七海さん、すごく楽しみにしてるそうですよ」
「だからなんだよ」
 いつの間にか卵は跡形もなく崩れて、ホワイトソースに混ざっていた。
 そりゃ、楽しみにしているのだろう。大好きな彼氏との遠出だから。自分の身体のことも考えられないぐらいに、浮かれているに違いない。
 だけど、七海に柚島は無理だ。どうせ。
 小学校の頃から、遠出するようなイベントはぜんぶ欠席してきたくせに。どうせ途中で体調を崩して、ろくに楽しめずに終わることなんて目に見えている。
 七海は、本当にわかっていないのだろうか。
 わかっていて、見て見ぬ振りをしているのだろうか。いつものように。

 季帆はなにか言いたげな顔をしていたけれど、けっきょく、「まあいいや」とひとりでなにやら完結して
「土屋くんの思うようにやってください」
「言われなくてもそうします」
「ですよね」


 食べ終わり席を立つとき、季帆が当然のようにテーブルの上にある伝票を取って
「私が払いますね」
 なんて言われて、ぽかんとした。
「は? なんで」
 奢られるような理由はない。同じ学生だし、同い年だし。
「自分の分は自分で払うよ」
「いえ、私が払います。今日は無理に付き合ってもらったんですから」
「べつに無理にってことも」
「最初に誘ったとき、土屋くん、嫌だって言ったじゃないですか。それを私が強引に連れてきちゃったから」
 そう言った季帆の声がどこか硬くて、俺は眉を寄せた。

 伝票を渡すよう差し出した俺の手は無視して、椅子に置いていた鞄をさっと拾った季帆は
「今日は私なんかに付き合ってもらったお礼です。ね、奢らせてください」
「いや、いいって」
 さっさとレジのほうへ歩きだそうとした季帆の手をつかみ、引き止める。
 私なんか。
 さっき季帆が口にした自虐的な言葉が、小骨みたいに気持ち悪く引っかかっていて
「ちゃんと割り勘にしよう。なんか気持ち悪いじゃん。ふつうに友達同士で飯食っただけなのに奢ってもらうって」
「――えっ?」
 そこでなぜか、素っ頓狂な声が上がった。
 季帆が驚いたように目を見開いて、俺を見ている。

「友達同士?」
「うん」
「私たち、友達同士なんですか?」
「え、そうだろ?」
 あまりに信じがたいことを耳にした、みたいな顔で季帆が訊いてくるので、思わず不安になって聞き返してしまうと
「あ、は、はい」
 めずらしくぎくしゃくした調子で、季帆が頷いた。
「友達、ですね」
「うん。だから割り勘な。ふつうに」
「はい」
 もう一度季帆のほうへ手を差し出せば、今度はおずおずと伝票を渡される。

「……ありがとう、ございます」
 うつむいたまま、噛みしめるような声で季帆が呟いた。
 何に対するお礼なのかは、よくわからなかった。
「あれ、かんちゃん」
 季帆と別れ、家に帰っていた途中で、声をかけられた。
 七海と同じ呼び方に、声質も七海とよく似ているから、声だけだといつも一瞬わからなくなる、その人。
「おばさん」
 振り返ると、七海の母親が自転車を押しながらこちらへ歩いてくるところだった。前カゴに、近所のスーパーの袋が入っている。

「どこか遊びに行くとこ?」
「いや、今帰ってきたとこ」
「そう。七海はね、今日も朝から学校行ってるのよ」
「今日も?」
 うん、と相槌を打ちながら歩いてきたおばさんは、俺の前で自転車を止めて
「生徒会ってほんと忙しいのね。びっくりしちゃう。ねえかんちゃん、あの子最近どう?」
「どうって」
「大丈夫そう? 勉強とか、ちゃんとついて行けてる?」
「……さあ。あんまり話してないから、最近」
 返した声は、思いのほか素っ気なくなってしまった。
 だけどおばさんはとくに気にしなかったようで、そっか、と朗らかな表情のまま
「そうよね。かんちゃんだって忙しいだろうし、七海にばっかりかまってられないよね。ごめんね、いつもつい頼っちゃって」
 穏やかに向けられた言葉に、ふいに胸の奥がぎりっと痛んだ。

 いつも。
 たしかにおばさんからは、何度となく頼まれてきた。
 ――七海のこと、よろしくね。かんちゃん。
 高校に入学するときも、おばさんは俺にそう言った。うれしそうに、俺の手をとって。
 ――かんちゃんと七海が同じ高校でよかった。かんちゃんがいるなら、私も安心だ。
 なんて言って。

 いや、と俺は曖昧に首を振ってから
「べつに……てか、忙しいのは俺より七海のほうだし。生徒会とか」
「ああ、そっか。たしかに忙しいみたいだもんね。毎週毎週、最近は土日もずっと学校行ってるのよ、七海」
「……毎週?」
 生徒会ってそんなに忙しかっただろうか、と俺がふと訝しんだとき
「うん。今度の連休にも、一日生徒会の活動があるらしいし。朝から夕方まで一日がかりで」
 何気ない調子で続いた言葉に、俺はおばさんの顔を見た。

「……連休?」
「うん。ほら、来週の三連休」
「三連休の、いつ?」
「え? えーと、真ん中の日曜日って言ってたかな」
「なんの活動があるって?」
「さあ。そこまでくわしくは聞いてないけど。ていうか、かんちゃん知らなかったの?」
 不思議そうに聞き返され、俺は視線を落とした。
「……知らなかった」
 ――七海のやつ。

 軽く唇を噛んでから、俺は「おばさんさ」とあらためて口を開くと
「七海に、彼氏ができたの聞いた?」
「へっ、彼氏?!」
 案の定、おばさんからは心底びっくりした声が返ってくる。
「なに、あの子彼氏なんてできたの?! いつ?」
「けっこう前。今月の頭ぐらい」
「やだ、びっくり。知らなかった。ぜんぜん話してくれないんだから、あの子」
 自分の頬に手をやりながら、おばさんが興奮気味に呟く。

「……七海、おばさんに話してなかったんだ」
「うん、今初耳。こういうこと、話してくれるかと思ってたんだけどなあ」
 俺も、てっきり話しているかと思っていた。
 七海が、こんな姑息なことをするとは思わなかった。
 正直に話せば反対されると思ったのか。だとしたら、遠出が危ないということぐらい、七海も自覚しているということか。
 そうまでして、行きたかったのか。樋渡と。
 出先で体調を崩し、また何日も寝込むようなことになっても。
 俺やおばさんに、さんざん心配をかけるようなことになっても。

「――連休の話」
「うん?」
 ふいに、胸の奥でなにかが首をもたげる。
 ひどく冷え切って、淀んだ感情だった。

 放り出すような気分で、俺はおばさんの顔をまっすぐに見つめると
「嘘ついてるよ、七海」
「え?」
「本当は生徒会の活動なんてない。その日、彼氏と日帰りで旅行に行くって聞いた。柚島まで」
「……そうなの?」
 おばさんの顔が軽く強張る。
 いつも朗らかなおばさんの、そんな見慣れない表情を眺めながら
「今日も本当は、生徒会じゃなくて彼氏とデートだったんじゃないの、七海」
「え、そうなの?」
「知らないけど。でも前はこんな土日まで忙しくなかったはずだし」
「……言われてみれば、そうね」
 硬い表情のまま、おばさんは考え込むように顎に手をやる。

 そんな様子を見ているだけで、わかった。 
 きっとこれで、七海は旅行へは行けない。
 だけど七海が悪い。ちょっと走っただけで、倒れるような身体のくせに。自分の体調管理も自分でできないくせに。嘘なんてつくから。隠したりしようとするから。七海のくせに。

 ――七海のくせに。
 一組と二組担当の体育の先生が、インフルエンザにかかったらしい。朝のホームルームでわざわざ報告があった。
 三組でなぜそんな報告をするのかと思ったら、そのため今日の体育は一組二組と合同で行うとのことだった。ちなみに、普段は四組と二クラス合同で行っている。
 男女は別れて違う競技をすることも多いけれど、今日は男女ともグラウンドでサッカーをするらしい。


 迎えた体育の時間。グラウンドに出ると、当たり前だがいつもよりたくさんの生徒がいた。
 季帆の姿もあった。
 グラウンドの隅のほうで、手持ち無沙汰な様子で授業の開始を待っている。
 やはりというか、孤立しているらしい。誰も季帆に話しかけには行かない。女子たちは季帆から少し離れた位置で、それぞれ友達同士かたまってしゃべっている。

 なんだかいたたまれなくなって、話しかけに行こうかとしたとき、ふと季帆が俺に気づいた。
 目が合うと、けわしい顔をして小さく首を横に振ってくる。来るな、ということらしい。
 そういえば、人のいるところで話しかけるなと言われていた。

 仕方なく頷き返して、足を反対方向に向けたとき
「……あ」
 ちょうどグラウンドに出てきたところの七海が目に入った。
 樋渡はいない。友達らしい女子二人と連れだって、こちらへ歩いてくる。
 彼女が体操服を着ているのを見て、俺が思わず眉をひそめていると
「あ、かんちゃん」
 近づいたところで、七海も俺に気づいた。軽く片手を挙げると、いっしょにいた友達になにか言ってから、こちらへ歩いてくる。

「そっか。今日は三組四組といっしょなら、かんちゃんともいっしょか」
「なんで」
「ん?」
「なんで体操服着てんの、お前」
 つっけんどんに尋ねると、七海はきょとんとした顔で
「え? なんでって、体育だから」
「参加すんの?」
「うん。体調もいいし」
 当たり前のようにそんなことを言う七海に、「だから」と俺はよりいっそう顔をしかめながら
「見学しろっつってんじゃん。今はよくても、体育したら悪くなるかもしれないだろ」
「やだ。体育したいもん」
 話を打ち切るように、きっぱりと七海が突っ返す。
 駄々をこねる子どもみたいな調子だった。
「したいもん、じゃなくてさあ」それに俺はイライラと頭を掻きながら
「お前、いい加減用心するとか覚えろよ。何回それで体調崩してると思ってんの」
「いいんだよ」
「は?」
「体調、悪くなってもいい。それでも体育がしたいの」

 七海の顔を見ると、思いがけなく真剣な表情をした彼女と目が合った。
 一瞬、息が詰まった。
 そこには、はっきりとした反発の色があったから。
「……は?」息苦しい喉から押し出した声は、自分でもちょっと驚くほど冷たかった。

「なに言ってんのお前。いいわけないじゃん。体調崩してまで体育するって、ただのバカだろ」
「じゃあ、バカでいいよ。うん、わたしバカだ」
「七海」
 ふて腐れたような七海の口調に、腹の奥のほうがぼうっと熱くなる。
 見限るように俺から視線を外した彼女の肩へ、思わず手を伸ばしかけたとき

「――いいじゃん、もう」
 ふいに後ろから声がした。耳慣れない、男の声。
「やりたいって言ってるんだから」
 振り返ると、樋渡がいた。
 さながら、いじめられるヒロインを助けに来たヒーローみたいなタイミングだった。
「させてあげれば。ほんとに体調もいいみたいだし」
 少し困ったような笑顔で、子どもの喧嘩をなだめるみたいに樋渡が言う。
 ああ、やっぱり。
 その落ち着いた声に、よりいっそう腹の熱が膨らむ。
 こいつは、こういうことを言うんだな。
 こんな、ただ甘いだけのことを。

 なにも知らないくせに。
 いや、なにも知らないから。


 樋渡、と口を開きかけた俺をさえぎるように、グラウンドのほうから声がした。
 招集をかける先生の声だった。
「あ、授業始まるよ」
 助かったとばかりに、七海がそちらへ目をやる。そうしてほっとしたような顔で、「行こ」と告げて早足に歩き出した。当たり前のように、グラウンドのほうへ。
 それに眉をひそめながら、だけど俺も少しほっとしていた。
 あのまま口を開いていたら、俺は樋渡に、なにを言っていたかわからないから。
 グラウンドの向こうで、女子がサッカーの試合をしている。
 試合に出ていない残りの女子は、グラウンドの空いているところで、各々パスやドリブルの練習をしていた。もっとも真面目にやっている者などほとんどおらず、みんな適当にボールを転がしながら友達同士しゃべっている。
 七海もそんな女子たちの中で、ボールを蹴っているのが見えた。友達といっしょに、楽しそうに笑いながら。

 矢野と適当にパスの練習をしながら、俺はときどきそんな七海の様子を見ていた。
 離れているのでよくは見えないけれど、とりあえず具合が悪そうな素振りはない。走ったりはしていないし、あれぐらいの運動量なら大丈夫だろう。
 そんなことをぼんやり考えていたら
「あ! おい、なにしてんだよー」
 矢野からのパスを思いっきりスルーしていた。
「……あ、ごめん」
 無駄に強いパスだったから、ボールは勢いよくグラウンドの隅のほうまで駆けていく。
 フェンスにぶつかってようやく止まったそれを、のろのろと追いかけていって拾ったとき

「――土屋」
 ふいに、後ろから名前を呼ばれた。
 嫌になるほど聞き覚えのある声だった。ついさっきも、こうして声をかけられたから。

「……なに」
 無愛想に聞き返しながら振り向くと、やっぱりそこには樋渡がいて
「土屋って、いつもああいうこと言ってんの?」
 前置きもなく、いきなりそんなことを尋ねてきた。
「は?」なにを訊かれたのかよくわからず、眉を寄せて聞き返すと
「七海に、体育は見学しろとか」
 当たり前のように呼び捨てられたその名前に、腹の底からもぞもぞとした苛立ちが這い上がってくるのを感じながら
「言うよ、そりゃ」
 お前が言わないから、と心の中でだけ吐き捨てる。

「もしかして土屋が七海に、柚島には行くなとかも言った?」
 続いた質問は、すでに答えなんて確信しているような調子だった。
 やっぱりおばさんは、あのあと七海の柚島行きを止めたらしい。当然だけど。
 そんなことを考えながら、「言ってない」と俺は投げつけるように返して
「ただ母親にバレたみたいだから、それで止められたんだろ」
「バレた?」
「あいつ、母親には生徒会の活動だって嘘ついて柚島行こうとしてたんだよ。それバレて、怒られたんじゃねえの」
 俺が七海の嘘を教えたときの、おばさんの表情を思い出す。強張った表情には、はっきりと怒りの色があったから。
 いい気味だ。

「それ、土屋が教えたの?」
「それって」
「柚島のこと。七海のお母さんに」
 重ねられる質問は、あいかわらず、すでに答えは確信しているような調子だった。
「そうだよ」
 だから俺はまた、投げつけるように冷たく返して
「あいつが嘘なんてつくのが悪いんだろ。あんな身体で、どうせ柚島なんて無理なくせに」
「無理だと思ったから教えたの? 止めてもらうために?」
「そりゃそうだろ」
 なに当たり前のこと訊いてんだ、こいつ。
 イライラとそんなことを思いながら、俺はふと樋渡の顔を見て

「……なあ、お前知らないの?」
「なにを」
「七海の身体のこと」
「知ってるよ」
 答えは、思いがけないほどさらっと返された。
 その答え方だけで、嘘ではないのはわかった。“知ってる”の範囲がけして狭くないことも。
「……知ってて、柚島なんて行こうとしてたのか?」
「うん」
 落ち着いたその声にも表情にも、後ろめたさなんてみじんもなかった。

 なにか理解できないものを眺める気分で、俺はそんな樋渡の顔を見ながら
「知ってんなら、ぜったい無理だってわかるだろ。なんでそんな遠くまで」
「俺は無理とは思わなかったから」
「はあ?」
「それに、七海が行きたいのは柚島らしいから。他の場所じゃなくて」
「……いや、それがなんだよ」
 反論にもならないような反論に、俺は眉をひそめて突っ返す。
 そりゃ、七海はバカだから。
 距離のことなんてなにも考えず、ただ行きたい場所を告げたのだろう。海がきれいでおしゃれなカフェや雑貨屋も多くて、たしかに女子の好きそうなスポットだから。どうせ、ただそれだけで。

「あいつのわがままなんていちいち聞いてんなよ。なんにもわかってないんだから。自分の身体のこととか、柚島なんて行ったらどうなるかとか、バカだからなんにも想像できてないんだよ」
「七海は、ちゃんとわかってるよ」
「はあ? どこが」
 ああ、なんだ、こいつもバカなのか。二人そろって色ぼけして、なんにも考えられていないのか。

「今回の旅行、行き先だけじゃなくて、行き方も過ごし方もぜんぶ七海が決めてた。どれぐらい歩くのかとか、休憩できる場所があるかとか、なんかあったときのための近くの病院も。雑誌でもネットでも、本当に時間かけて、いろいろ調べてたよ。ぜんぶ、七海がひとりで」
「……だから、それがなんなんだよ」
 だからなにかあっても、自分の責任じゃないとでも言いたいのだろうか。ぜんぶ、七海がひとりで決めて計画したことだと。
 顔をしかめて樋渡を睨んでみても、樋渡の表情は変わらなかった。
 ただ少し困ったように、まるで物わかりの悪い子どもに言い聞かせるみたいな口調で
「たぶんさ、土屋が思ってるほど、七海はバカじゃないよ」

 樋渡の言葉に、何度目かの「はあ?」を返そうとしたときだった。
「――大丈夫? 七海ちゃん!」
 グラウンドの向こうで声がした。
 心配そうな女子の声。それほど大きな声ではなかったのに、奇妙なほどはっきり耳に届いた。目をやる前からわかった。うんざりするほど、聞き慣れた声だったから。

 ほら、と思う。
 やっぱり、バカだった。
 七海が、地面に座り込んでいた。ふらついたのだろう。膝をつき、顔を伏せて片手で額を押さえている。
 嫌になるほど、見慣れた姿だった。

 樋渡も気づいて、動きだそうとしたのがわかった。だけどそんなの許さなかった。さえぎるよう、俺は彼の前に立つ。そうして、吐き捨てるように告げた。
「ほら、樋渡」
 お前に、駆け寄る権利なんてない。あるはずがない。
 だって、
「お前が止めないからだろ」
 ――やっぱり、なにもわかってなかったくせに。
 胸の奥で、冷え切った感情が首をもたげる。なんだか笑いそうだった。


 七海といっしょに練習していた女子が、七海の横にしゃがみ込んでおろおろと声をかけている。
 それに七海が必死に顔を上げ、なにか言っているのが見えた。力ない笑顔で、何度か首を横に振りながら。
 大丈夫、とでも言っているのだろう。説得力のない、真っ青な顔で。

「ね、あたしやっぱり先生呼んできたほうが……」
「いい、大丈夫。ほんとに大丈夫だよ」
 近づくにつれ、ふたりが交わすそんな会話が聞こえてくる。心配する友達に、七海が必死に首を振っている。
「――七海」
 呼ぶと、そんなふたりが同時にこちらを振り向いた。
 俺の顔を見て七海が顔を強張らせる横で、友達のほうはほっとしたように「あ、土屋くん」と呟いて
「あのね、さっき、七海ちゃんがふらついちゃって……」
「わかってる。七海、保健室行くぞ」
 見下ろしながら低く告げると、七海はぱっと顔を伏せた。

「い、いい」小さな声で、もごもごと返す。
「ほんとに大丈夫だから。ちょっと休めば、すぐ……」
 彼女の言葉が終わるのを待たず、俺は七海の腕をつかんだ。
 力加減なんてしなかった。ぐいっと思いきり引き上げれば、軽い身体は引っ張られるまま、よたよたっと立ち上がる。
 痛みに七海が顔を歪めたのがわかったけれど、気にしなかった。

「行くぞっつってんの」
 よろける彼女の身体を支えながら、低い声で繰り返す。
 それでもう七海はあきらめたようだった。いつものように。
 小さく頷いて、引っ張られるようにして歩き出す。その足取りはひどく覚束なくて、ふいに胸の奥で冷たい愉悦が広がる。
 ほら見ろ、と思う。
 ひとりじゃ歩けもしないくせに。
 なにも、できないくせに。


 保健室には誰もいなかった。ドアにかかっていた、『先生は外出中です。なにかあったら職員室まで』のプレートは無視して、勝手に中に入る。そうして奥のベッドのほうまで七海を引っ張っていくと、そこで腕を放した。
「――よかったな。今倒れといて」
 支えをなくした身体はそのまま投げ出されるように、ベッドにしりもちをつく。ぎしりとスプリングの軋む音がした。
「これでわかったろ。柚島なんて、どうせ無理だったって」
 ベッドに座る七海を見下ろしながら、苦々しく吐き捨てる。

 さっき見た、樋渡の表情を思い出した。自分の正しさをみじんも疑わない、その目。それどころか、俺のほうが間違っているけれど責め立てないとでも言いたげな。
 吐き気がした。
 けっきょく、なにもわかっていなかったくせに。樋渡も、七海も。

 七海は、柚島、と小さく俺の言葉を繰り返してから
「……かんちゃん」ゆっくりと顔を上げ、表情のない目で俺を見上げた。
「やっぱり、かんちゃんが教えたの? 柚島のこと、お母さんに」
 その声に責めるような色があったことに、憮然とした。
 頭に血がのぼっていくのがわかる。
「そうだよ」と俺はぶっきらぼうに返してから
「お前が嘘なんてつくのが悪いんだろ。小賢しいことしてんじゃねえよ。どうせバレるんだから」

「だって」
 途方に暮れたような声で呟いて、七海はまた顔を伏せると
「言ったら、ぜったい行かせてくれないじゃん。お母さんも、かんちゃんも」
「当たり前だろ」
 いじけた子どもみたいな台詞に、俺は心底あきれてため息を吐く。
 なにを言ってるんだろう、こいつ。
 バカだバカだとは思っていたけれど、なんでここまでバカなんだろう。

「お前には無理なんだから。行ったらどうなるかわかってんだから、そりゃ止めるだろ。俺もおばさんも。お前、ちょっとボール蹴ってたぐらいで倒れてんじゃん。そんな身体でどうやって」
「倒れてないよ」
 俺の言葉をさえぎり、七海がむきになったように言った。膝の上でぐっと拳を握りしめている。
「ちょっとふらっとしただけだよ。昔みたいに、倒れたわけじゃ」
「はあ? いっしょだろ。どうせいつもの貧血だろ」
「軽いやつだもん。これぐらいなら大丈夫なやつだよ」
「ああもう、お前の大丈夫とかどうでもいいよ。どうせ大丈夫じゃないんだから」
 いやに引き下がらない七海にうんざりして、俺はそう言って話を断ち切る。
 イライラしすぎて頭痛がしてきた。
 七海のくせに、なに俺に反発なんてしているんだろう。
 ひとりじゃなにもできないくせに。ずっと、俺に守られて生きてきたくせに。
 ――今だって。

「なあ、これでわかっただろ。お前は、自分の身体のこともろくにわかってないんだよ。そんなんでいくら準備したって無理だよ。お前がひとりでどんだけ頑張って考えようが、どうせ、なにもできるわけないんだよ」
 七海はうつむいたまま、じっと俺の言葉を聞いていた。
 表情は見えないけれど、噛みしめられた唇が少し鬱血しているのは、不思議なほどはっきりと見えた。
 膝の上で握りしめられた拳に、かすかに力がこもる。
 やがて、噛みしめられていた唇が小さく動いて
「……やっぱり、かんちゃんは」
 絞り出すような声が、耳に届いた。

「そんなふうに、思ってたんだね。わたしのこと」
 顔を上げた七海が、まっすぐに俺を見た。
 ぐしゃりと歪んだ、今にも泣き出しそうな顔で。
 泣き顔なんて飽きるほど見てきたはずなのに、なぜだかこんな表情ははじめて見た気がして、一瞬、息が詰まった。

「ひとりじゃなにもできないって。わたしなんか、どうせ頑張っても無駄だって」
「だって、そうだろ」
 投げつけるように向けられた言葉に、こっちも投げ返すように答える。
 睨むような彼女の目に、ますます頭に血がのぼっていくのを感じた。息がしにくい。
「実際できてないじゃん、お前。ひとりじゃなんにも」
「でも、頑張ってるじゃん」
 間を置かず、七海が突っ返す。右手が挙がって、ぐしゃっと自分の前髪を握りしめた。

「なんで認めてくれないの。わたしだって、昔からなにも変わってないわけじゃないよ。身体も昔より強くなってるし、生徒会の活動もちゃんと休まずやれてる。体育もいつもは大丈夫なんだよ。今日はたまたまちょっと調子が悪くて、でもこんなの、十回に一回ぐらいで」
「だから、十回に一回でも調子悪くなるんなら参加すんなって、俺はそう言ってんだよ、ずっと」
「なんで? そんなこと言ってたら、わたし、これからもなんにもできないよ」
「なんにも」
 ――できなくていいだろ。
 口をつきかけた言葉に、はっとした。
 それを言ってはいけないと、まだ少しだけ残っていた頭の片隅の冷静な部分が押し止めた。
 だって、それは。

「十回に一回体調崩すぐらい、どうってことないんだもん。それで夜に熱が出てもぜんぜんつらくない。頑張れたって証だから。それより、体育を見学してるほうがつらいの」
「意味わかんねえ。なんでたかが体育でそこまで」
「わかんないのは、かんちゃんが健康だからだよ。ずっと、当たり前みたいに体育ができてきたから」
 言い返した七海の声には、ほんの少し、憎々しげな色があった。
「はあ?」だからそれに引っ張られるように、俺の口調もますます刺々しくなっていく。
「なんだよそれ。俺がなにをわかってないって」
「みんなを外からひとりで眺めてるとき、自分だけ、みんなと違う不良品なんだって突きつけられるあの感じとか。そんなの、かんちゃんにはぜったいわかんないよ。かんちゃんは不良品じゃないんだから」

「じゃあ、あいつは」
 口を開くと、呼吸が少し荒くなっているのに気づいた。
「樋渡は、わかってくれんのか。そういうのも、ぜんぶ」
「わかってくれるよ」
 答えは、みじんの迷いもなく返される。
 挑むような視線を、七海は俺から外さないまま
「卓くんは知ってるから。わたしの、そういう寂しさとかつらさとか。だから頑張れって言ってくれる。見守ってくれるの」
「……そんなの」

 誰だって言える。七海の身体の弱さを知らなければ。
 あいつは、知らないだけだ。
 知らないから、ただ無責任に背中を押すことだってできるだけで。そんなのは優しさでもなんでもない。ただ、彼女を崖から突き落とすようなもので。
「わたしを生徒会に誘ってくれたのも、卓くんなんだ。卓くんは」
 なのに七海は、それを心底大事に抱えるように、言葉を継ぐ。
「わたしの世界を変えてくれたの。わたしも、ひとりでできるんだって。頑張れるんだって。そんなふうに、わたしのこと、対等に見てくれるから」

「……なんだよ、それ」
 俺は身体の横で両手をぐっと握りしめた。そうしていないと、思わず手が出そうだった。
「じゃあ俺は、お前のこと対等に見てないって?」
「見てないよ」
 苦しげに眉根を寄せた七海が、顔を伏せる。
「だって、かんちゃんは」
 そうしていちど、強く唇を噛みしめてから

「……わたしのこと、見下してるもん。ずっと」
 これまで積み上げてきたものを壊すように、言った。

「そういうの、わかっちゃうんだ。わたしがかわいそうだから、ずっと手助けしてくれたんだよね、かんちゃん。だけど私が頑張ろうとするのは気に食わない。わたしなんて、なにもできるはずないって思ってるから」
 言いながら、自分の口にした言葉に傷つくみたいに、七海がうつむく。
 伏せられた睫毛が震える。
「そういうの、しんどい。かんちゃんといると、突きつけられる気がするの。お前はあれもできない、これもできないって。わたしがバカで弱くて駄目な人間なんだって」

 その目元がゆっくりと赤みを帯びていくのを見た瞬間、ふいに、ぞっとするほどの嫌な予感にさらされた。
「……なんだ、それ」
 たしかに、助けてきた。十五年間。七海ができないことは、俺がずっと。
 それが、七海の傍にいる俺の役目だと思っていたから。
 だからこれからも、そうしていくつもりだった。当たり前のように。迷うことなく、七海と同じ高校を選んだあのときみたいに。一点の曇りもなく、そんな未来を描いていた。
 だから。
 七海は、頑張らなくていいと思った。
 できないことは、できないままでいい。俺が傍にいるのだから。七海ができないのなら俺が助けてやればいい。代わりにやってやればいい。今までそうしてきたように。これからもずっと、そうしていけばいい。それがいい。
 だって、そうすれば。
 きっと七海は、俺から離れていかないから。

「かんちゃんは、こんなわたしを見てると安心したの。身体もポンコツで、頭も悪くて、ひとりじゃなにもできない、こんな女が近くにいたら気持ちよかったんだよ。だからわたしが頑張ろうとしても応援してくれない。わたしに変わってほしくないから。見下して、優越感に浸れるような、いつまでもそんな存在でいてほしかったから。だから」
 七海の言葉は、それ以上聞こえなかった。
 つかの間、頭の中が真っ暗になる。
 ものが考えられなくなって、気づけば、俺は手を伸ばしていた。
 目の前でうつむく彼女の細い肩をつかむ。思いきり力を込めれば、骨の軋む感覚がした。それにいちど肩を震わせ、七海が顔を上げる。
 泣きそうに歪んだ顔が俺を見た。
「わたしは」
 だけど目は逸らさず、七海は唇を震わせる。必死に、上擦った声を押し出すように。
「かんちゃんと、対等になりたかったよ。ずっと。もっと」
 荒い息の合間、言葉を継ぐ。充血した目から、涙がこぼれた。
「……ふつうの、幼なじみに」

 言葉はそこで震え、消えた。
 七海の喉が引きつり、ひゅっと音を立てる。
 震えながら挙がった彼女の右手が、自分の胸あたりをぎゅっとつかんだ。顔を伏せ、背中を丸める。その肩が苦しげに大きく揺れた。
「七海」
 ぎょっとして、思わず手を離す。
 知っていた。前にも見たことがある。対処法も知っている。俺が対応したこともあるし、そのときはうまく対処もできた。それも覚えていたのに、なぜだか、俺は動けなかった。縛りつけられたように、そこから一歩も。

 目の前で苦しげに短い呼吸を繰り返す七海が、ぞっとするほど遠く見えた。
 それに途方に暮れて立ちつくしていたとき、ふいに保健室の戸が開いた。
 入ってきたのは、樋渡だった。後ろにはなぜか季帆の姿もあった。
 早足に歩いてきた樋渡は、七海の隣に座ると、当たり前のように彼女の頭を自分の胸へ抱き寄せた。そうして七海の耳元でなにかしゃべりかけながら、ゆっくりと彼女の背中をさすっていた。その手の動きに合わせるように、しだいに七海の呼吸が安定していく。
 ひどく手馴れた仕草だった。なんの迷いも、動揺もなかった。

 そのあいだ、いつの間にか消えていた季帆は、保健室の先生を呼びに行っていたらしい。
 しばらくして、季帆が先生を連れて戻ってきた。その頃にはもう、七海の呼吸はほとんど落ち着いていた。
 樋渡と先生がなにか話している。だけど彼らの言葉は、なにも聞き取れなかった。分厚い膜でも隔てているみたいな、変な感覚だった。季帆が心配そうにじっと俺を見ているのもわかる。けれどそれも、意識からはひどく遠かった。

 俺はただ、七海の手を見ていた。樋渡のジャージの裾を、ほとんど無意識のように握りしめている、子どもみたいなその手を。ぼうっと映画でも観ているみたいに。なにもできず、立ちつくしたままのその場から。

 ああ、と思う。
 なんか、これ、

 死にたい。