名もない花のように生きる君へ

 気づけば、私は彼女の席の前に立っていた。
「あの……」
 教科書とノートに向かっている彼女は一度手を止めて私を見た。
言葉をすぐにつかめない私は彼女の前でも上手く話せない。
でも前に覚えた。
自分なりに伝えること。
「さっきはありがとう」
「別に。本当のこと言っただけ」
 切り替えのスイッチは早い。
もうノートに向かってペンを滑らせている彼女。
ノートに書いてある字も綺麗でなんでもできてしまうように見えた。
「小倉さんも自分の意見言えるようになった方がいいよ」
「え?」
 時が止まったように私の体は固まった。
誰とも話さなかった私の苗字を覚えてくれていた。
そのままペンを滑らせている彼女を私はじっと見つめていた。
「名前覚えてくれてるの?」
「同じクラスにいるんだから大体覚えてるでしょ」
 当たり前のことのように言う彼女。
今まで当たり前だと思わなかった私。
今までもそして今でも私は人の名前や顔を覚えようとしなかった。
少しでもその努力があれば変わっていたのかもしれない。
でも今からでも間に合う。
そんな気がしていた。
「あの」
 私がもう一度口を開くと手を止めてこちらを見る。
その綺麗な目を見て、私はそらさなかった。
「友達になってくれませんか……」
 恐る恐る言う私を彼女は目を見開いて見せた。
言えた瞬間私は心のどこかでずっと引きずっていた過去や不安というおもりを外した気がした。
「なんで?」
 見開いた目を戻してノートに向かう彼女の視界に入るのはもう怖くなかった。
「自分の意見言った方がいいって……」
「いや、そうじゃなくて。まあそれもそうだけど……」
 ノートに向かっているが彼女の手は止まっている。
前だったらこの空間にも耐えられずに撤回していただろう。
でもあの声を聞いてから私は少しずつ変わっている気がする。
もしかしたら本当に変えられるのかもしれない。
自分自身と向き合うことで。
彼女は綺麗な髪を耳にかけて私を見た。
「北原杏夏」
「え?」
「私の名前」
「それって、友達になってくれるってこと?」
 頷く彼女を見て世界が滲むようだった。
今まで自分から動かなかった。
無理だと決めつけて何も行動してこなかった。
でも、今からでも取り返せるかもしれない。
私らしく、自分の思うことをしていけば。
「あのさ。杏夏って呼んでもいいかな」
「別にいいけど」
 この会話一つが私の凍った口角を動かしてくれる。
名前で呼べる友達ができることがこんなにも嬉しいものだと知った。
今までにぎやかで何もない教室だと思っていた。
でも今は少し色づいていて、その笑い声も素直に受け入れられる。
少し自分から見える世界が色づいてきた。