「不自然、ねえ。スタート前に聞いた『エンレイソウに囲まれた城』ってナレーションあったじゃない? 草に囲まれてる説明はいる? 『城』の一言でいいとは思ったけど?」
「そう、まずそれだ。エンレイソウってさ、未来都市の高校に通うヤツならだいたいは知ってるユリ科の草のことだろ?」
「城ケ丘高校の校章に使われてる草、だよね? 私も知ってるよ。〈拡張戦線〉のストーリーを考えたのが城ケ丘の生徒さんで、私たちが作りましたって意図で残したのかな?」
「オレも最初はそう思った。けど不自然な部分はまだあって。エネミーに変貌させられそうな姫の『私たちは侵略を望みません。ただ夢を追いかけたいのです』って発言。前半のくだりが、エネミーに変えられて国を侵略することを望まないって意味なのは理解できる。けどな」
「『夢を追いかけたい』のくだりよね、気になるのは。たしかに入れる必要あるのかしら? 不自然だわ。城ケ丘の生徒が残したかった言葉、なのかしら?」
「それとエネミーって『宇宙』から来たって設定だよね? 別にそういう設定にしなくても成り立つのに。なんで宇宙なんだろ?」
ストーリーの不自然な点を確認し合った研究部の三人は、
「レミの知り合いのように、宇宙飛行プロジェクトに選ばれたのは超優秀な城ケ丘の連中がメインなのは間違いない。そしてプロジェクトと〈拡張戦線〉に繋がりがあるのは確定してる。つまりさ、プロジェクトと〈拡張戦線〉に関わる城ケ丘の誰かが、プロジェクトで感じた何かを〈拡張戦線〉にストーリーって形で込めたんじゃないか?」
「ゲームのストーリーとプロジェクトがリンクしてるってこと? 城の姫が城ケ丘の生徒と仮定すれば、宇宙飛行プロジェクトで“人質”として宇宙に攫われて、エネミーに変貌させる……は、何を意味してるのかまだ結論が出せないかな?」
「もしそうだとしたら『エネミーの野望はまだ終わっていない』ってナレーション。大地と聞いた“冷たいお嬢様”の――けれどあのプロジェクトが失敗に終わったところで、《NETdivAR》は目的を失ったわけではないわ――って言葉が大きな意味になる」
「ああ。――宇宙飛行プロジェクトはまだ終わってないのかもしれない」
大地の結論に、レミとあおいは真剣にうなずいた。
ふいに、昨日の神代小町との会話を思い出した大地。彼女は会話の間際で宇宙飛行プロジェクトに続きがあることを匂わせていた。神代一族の者として感づいたことがあるのだろうか。
「それに一緒にゲームして感じたけど、ヒナちゃんって特別な人なんだと思う」
ヒナがフェーズ5の〈バタフライ・ダミー〉を、ペナルティを伴わない不正行為で撃破した事実をあおいは語った。
「やっぱり只者じゃあなさそうだな。記憶喪失も含めてヒナには謎が多いし、これをみすみす放置するなんてことはしたくない。ま、それ以前にヒナは――……」
「そうだよ、ヒナちゃんはチームのメンバーだもん」
「そうね。仲間を見殺しにしていいはずなんかないわ。よし、いったんゲームは置いておきましょう」
こうして意思を確かめ合った三人。レミは目指すべき場所へとピンと指を伸ばして、
「準備はいい? それじゃあヒナの救出に向かうわ!」
◇
「くっ……、もう!」
いくら強く叩いても、自らを捕える鉄の格子はビクともしない。仮想体でもすり抜けることができない、さながら〝鳥かご〟を模したこの格子は、特殊な実装が施されているのだろう。
悔しげに唇を結んだ赤髪の少女――ヒナは、鉄格子の向こう側で佇む騎士を睨み、
「ねえっ、私をどうしたいの? どうして攫ったの? あなたは……私の記憶喪失の理由を知ってるの? ねえったら、黙ってないで教えてよ!」
懇願のごとく問おうにも、一向に返答はない。
ヒナは天を仰いだ。隙間越しに伺えるドーム型の造りをした闇色の天井は、散り散りになった光が一面に広がり、プラネタリウムのように灯されている。まるでスケールの小さな星空だ。
ヒナは結んだ唇を甘噛みし、騎士の背後の自動扉をひっそり見て、
(仮想体を活かして扉のロックは外しておいた。あおいちゃんたち、助けに来てくれるかな……? さっきの声、聞こえたかな……? …………怖いよ)
美しく尊いはずの天に彩られた〝星空〟が、今はヒナの心を不気味に照らした。
4
研究部の三人は疲弊した身体に鞭を打って、目的の施設――AP宇宙飛行センターの真下へとやって来た。辺りに人影はない。
レミが入口に近づくと、ガラス扉は自動で開き、
「……施錠されてないの? ヒナを攫ったヤツがロックを忘れた? そんなバカな」
「儲けモンだと思って入ろうぜ。この際、罠を勘ぐっても埒が明かねぇし」
こうしてレミを皮切りに大地、あおいが中に入り、細い通路を何度か曲がって真正面の扉が開くと、
「うおおおおお! え、あれぇ!?」
「ひゃっ! わっ、わわわわわ!!」
素っ頓狂な声を上げてしまった大地とあおい。それも致し方ない。入室するや否や、地に付いている足が重みを失い、身体ごと宙に浮いてしまったのだから。
「ちょ、どうなってんのよコレ! ――――無重力だなんてぜんっぜん聞いてないわよ!!」
水中でもがくように手足を動かすレミの言うとおり、高い階層まで吹き抜けになっている室内が、宇宙空間のような無重力に支配されていた。上下左右の内装が万遍なく白いがゆえに、三人が認識する重力の方向感覚が狂わされる。
「そういえばここ、人工的に無重力を生み出して宇宙飛行のシミュレーションを支援してるんだってっ。こんな無重力、航空機で放物を描いて飛ぶことでもしないと難しいのに」
この実験施設――AP宇宙飛行センターは、宇宙に関する研究や宇宙飛行士の訓練のために建てられた施設だ。宇宙ロケットのような外観が一際目を引き、内部は先端科学技術によって無重力状態が実現されている。プロジェクトで飛行士に選ばれた高校生たちも、実際にこの施設で訓練を行った経緯がある。
「白い内装はまさにロケットの中よね。まったく、この無重力の中じゃあ思うように動けないわ。おまけに嫌がらせのつもりかは知らないけど、上には浮遊物が散らかってるし」
高層階では無数の銀光の破片がのっそりと浮遊している。おそらく船内で物体が散ったケースをシミュレーションしているのであろう。ただし今の場合に限り、ヒナを追う者を邪魔するために敵が用意したとも推測できる。
そんな中、早くもコツを掴んだのか、あおいは三角飛びの要領で壁を蹴ってスイスイ進んで、
「ほら、軽く壁を蹴れば進めるよ。真っすぐ上に跳んでも遮蔽物があるから斜めに進むのがいいかも。あれにぶつかるとランダムにこの空間を動いちゃうから注意してね」
助言に従って大地はトンと、足を着ける程度に床を蹴ると、斜めの方向に宙を推進できた。空気抵抗はあるものの、地球の重力下ではありえない物理現象に大地は戸惑う。しかし壁を蹴って推進するたびに、徐々にコツを掴んでゆく。
(この無重力も虚数空間の世界の科学が成す力かよ。物理には明るくないけど、地上で無重力を実現することがとんでもないことだってのはわかる)
虚数空間の世界を訪れて以降、常識を超えた科学によく心を動かされているはずのあおいでさえも、この科学を前にして顔が強張りを見せている。物理学に詳しく、地球の質量が10の24乗キログラムという桁数を知る彼女だからこそ、この事実は受け入れ難いのだろう。
(ああ、わかった気がする。未来都市がロケット事故の詳細を明かさなかったのって、この世界が大きく絡んでるからなんだ)
蒼穹祢が語った、セリアと虚数空間の世界のエピソード。〝すごい〟の一言で表現できる科学は、やはりセリアのような犠牲の上で成り立っているのだろうか。一見煌びやかで夢のように見えていた虚数空間の世界に対して、大地は薄ら寒いものを胸に抱いた。
「なあレミ、あおい。オレさ、滝上先生のあの言葉が頭から離れないんだよ」
「シンポジウムの日の『〝科学の闇〟に苦しむ誰かを救ってほしい』って言葉?」
「そう、それ。さっきの神代先輩の話も聞いてから余計にな」
気づけば一〇階相当の高さまで到達していた三人。円形の地上がすっかり遠くなる中、大地とすれ違ったレミは、
「その〝科学の闇〟に苦しむ誰かの一人が、あのヒナってこと?」
「ヒナがそうかって言われたらわかんねぇけど、……やっぱりヒナは助けたい。助けて……記憶を取り戻してもらって、まずは礼を言いたい」
器用な身のこなしで、三人の中で最も上を行くあおいも目尻に力を込めて、
「そうだね、私だって助けたい。ヒナちゃんが一瞬見せた寂しそうな顔が忘れられないから」
レミは空間に漂う破片を、小柄な身体を懸命に捻ることで避けながら、
「急ぎましょう。私たちの仮設が正しいなら宇宙飛行プロジェクトはまだ終わってなくて、ヒナに答えがあるかもしれないから」
こうして数分を要して無重力空間を上った三人は天井のハッチを開け、重力の支配下である階層の床に足を着ける。やはり白い通路の先には扉が待ち構えていて、彼らは迷わずそこへと向かった。すると淡泊な景観から一転、例えるならプラネタリウムのように粒上の光が無数に天井に輝く、暗くとも煌びやかな広がりが三人を出迎える。
「ここは人工衛星で観測した宇宙を投影してる……って、あ!」
あおいが語尾を上げれば、
『みんな! 来てくれたんだ!』
ヒナの声がコネクタを通じて、三人の耳に確かに届いた。
暗いルームを肉眼で見渡しても何も認識できず、ポケットに仕舞っていた、レミが作成したメガネ型の《パラレルレンズ》を大地は着用すると、鳥かごのようなものを数メートル先に発見した。その中で捕われている、スーツで誇張されたスタイルの良いあの体型は、紛うことなきヒナだ。
「ねえ大地。ヒナがそこにいるの? ぐぅ、肉眼じゃわからないわ……」
「ああ、いるぜ。……けどもう一人、怪しさマックスのヤツもヒナの……、鳥かごの前にいる」
鳥かごの前、薄っすら揺らぐ人型の〝なにか〟。視線を感じたのか、留まることをやめ、三人の元へ二本足で歩み始めた。時間が経つにつれ、その体貌が鮮明に見え始める。
「ああ、やっぱりな。オレたちをゲームオーバーにしたヤツだ!」
翡翠色がまだらに混じるシルバーの、無駄を削ぎ落としたスリムな西洋甲冑で表面を固めた姿。両手の甲には群青色の見開かれた瞳が刻まれ、右手に白銀の大剣を携えている。さながらその風体は〝騎士〟とでも形容すべきか。
『みんな、注意して! その騎士、〈拡張戦線〉のエネミーみたい! コネクタを付けたまま攻撃されると電流で身動きが取れなくなるよ!』
「え、どういうことヒナちゃんっ? エネミー? ここ、エリア外だよね?」
「いや、ヒナの言うとおりかもな……。あの騎士に焦点を合わせたら、ゲームで見たエネミーのステータスが出るんだよ。……フェーズ、6?」
騎士の頭上に表示されたのは、――――『Fase6 ?????』の“赤い”フォント。
ジワリと詰まる距離、その差は5メートル強。大地のこめかみに嫌な汗が浮く。
「ヒナ、聞こえる? 今のヒナは大地の言う鳥かごとやらに捕われてるのよね?」
『そうだよ! いくら叩いてもビクともしないし、すり抜けもできない!』
「肉眼で鳥かごは見えないから、たぶんそれはARだと思うわ。ひょっとしたら電子的な技術でそれを破れるかも。ヒナならイケるかもしれないから、ヒナは脱出に専念して。その間、私たちが騎士を相手するわ」
『うん、了解ですっ』
レミの指示を横に、大地は歩み寄ってくる騎士を、今一度刮目して見る。
「フェーズ6? エネミーは五段階分けだったよな?」
「そのはずよ。けれどもうゲームじゃないわ。ゲームでの常識は捨てましょう」
騎士はカチャリと鎧を鳴らし、やがて立ち止まる。二、三歩踏み込んで詰められる距離。
「そう、まずそれだ。エンレイソウってさ、未来都市の高校に通うヤツならだいたいは知ってるユリ科の草のことだろ?」
「城ケ丘高校の校章に使われてる草、だよね? 私も知ってるよ。〈拡張戦線〉のストーリーを考えたのが城ケ丘の生徒さんで、私たちが作りましたって意図で残したのかな?」
「オレも最初はそう思った。けど不自然な部分はまだあって。エネミーに変貌させられそうな姫の『私たちは侵略を望みません。ただ夢を追いかけたいのです』って発言。前半のくだりが、エネミーに変えられて国を侵略することを望まないって意味なのは理解できる。けどな」
「『夢を追いかけたい』のくだりよね、気になるのは。たしかに入れる必要あるのかしら? 不自然だわ。城ケ丘の生徒が残したかった言葉、なのかしら?」
「それとエネミーって『宇宙』から来たって設定だよね? 別にそういう設定にしなくても成り立つのに。なんで宇宙なんだろ?」
ストーリーの不自然な点を確認し合った研究部の三人は、
「レミの知り合いのように、宇宙飛行プロジェクトに選ばれたのは超優秀な城ケ丘の連中がメインなのは間違いない。そしてプロジェクトと〈拡張戦線〉に繋がりがあるのは確定してる。つまりさ、プロジェクトと〈拡張戦線〉に関わる城ケ丘の誰かが、プロジェクトで感じた何かを〈拡張戦線〉にストーリーって形で込めたんじゃないか?」
「ゲームのストーリーとプロジェクトがリンクしてるってこと? 城の姫が城ケ丘の生徒と仮定すれば、宇宙飛行プロジェクトで“人質”として宇宙に攫われて、エネミーに変貌させる……は、何を意味してるのかまだ結論が出せないかな?」
「もしそうだとしたら『エネミーの野望はまだ終わっていない』ってナレーション。大地と聞いた“冷たいお嬢様”の――けれどあのプロジェクトが失敗に終わったところで、《NETdivAR》は目的を失ったわけではないわ――って言葉が大きな意味になる」
「ああ。――宇宙飛行プロジェクトはまだ終わってないのかもしれない」
大地の結論に、レミとあおいは真剣にうなずいた。
ふいに、昨日の神代小町との会話を思い出した大地。彼女は会話の間際で宇宙飛行プロジェクトに続きがあることを匂わせていた。神代一族の者として感づいたことがあるのだろうか。
「それに一緒にゲームして感じたけど、ヒナちゃんって特別な人なんだと思う」
ヒナがフェーズ5の〈バタフライ・ダミー〉を、ペナルティを伴わない不正行為で撃破した事実をあおいは語った。
「やっぱり只者じゃあなさそうだな。記憶喪失も含めてヒナには謎が多いし、これをみすみす放置するなんてことはしたくない。ま、それ以前にヒナは――……」
「そうだよ、ヒナちゃんはチームのメンバーだもん」
「そうね。仲間を見殺しにしていいはずなんかないわ。よし、いったんゲームは置いておきましょう」
こうして意思を確かめ合った三人。レミは目指すべき場所へとピンと指を伸ばして、
「準備はいい? それじゃあヒナの救出に向かうわ!」
◇
「くっ……、もう!」
いくら強く叩いても、自らを捕える鉄の格子はビクともしない。仮想体でもすり抜けることができない、さながら〝鳥かご〟を模したこの格子は、特殊な実装が施されているのだろう。
悔しげに唇を結んだ赤髪の少女――ヒナは、鉄格子の向こう側で佇む騎士を睨み、
「ねえっ、私をどうしたいの? どうして攫ったの? あなたは……私の記憶喪失の理由を知ってるの? ねえったら、黙ってないで教えてよ!」
懇願のごとく問おうにも、一向に返答はない。
ヒナは天を仰いだ。隙間越しに伺えるドーム型の造りをした闇色の天井は、散り散りになった光が一面に広がり、プラネタリウムのように灯されている。まるでスケールの小さな星空だ。
ヒナは結んだ唇を甘噛みし、騎士の背後の自動扉をひっそり見て、
(仮想体を活かして扉のロックは外しておいた。あおいちゃんたち、助けに来てくれるかな……? さっきの声、聞こえたかな……? …………怖いよ)
美しく尊いはずの天に彩られた〝星空〟が、今はヒナの心を不気味に照らした。
4
研究部の三人は疲弊した身体に鞭を打って、目的の施設――AP宇宙飛行センターの真下へとやって来た。辺りに人影はない。
レミが入口に近づくと、ガラス扉は自動で開き、
「……施錠されてないの? ヒナを攫ったヤツがロックを忘れた? そんなバカな」
「儲けモンだと思って入ろうぜ。この際、罠を勘ぐっても埒が明かねぇし」
こうしてレミを皮切りに大地、あおいが中に入り、細い通路を何度か曲がって真正面の扉が開くと、
「うおおおおお! え、あれぇ!?」
「ひゃっ! わっ、わわわわわ!!」
素っ頓狂な声を上げてしまった大地とあおい。それも致し方ない。入室するや否や、地に付いている足が重みを失い、身体ごと宙に浮いてしまったのだから。
「ちょ、どうなってんのよコレ! ――――無重力だなんてぜんっぜん聞いてないわよ!!」
水中でもがくように手足を動かすレミの言うとおり、高い階層まで吹き抜けになっている室内が、宇宙空間のような無重力に支配されていた。上下左右の内装が万遍なく白いがゆえに、三人が認識する重力の方向感覚が狂わされる。
「そういえばここ、人工的に無重力を生み出して宇宙飛行のシミュレーションを支援してるんだってっ。こんな無重力、航空機で放物を描いて飛ぶことでもしないと難しいのに」
この実験施設――AP宇宙飛行センターは、宇宙に関する研究や宇宙飛行士の訓練のために建てられた施設だ。宇宙ロケットのような外観が一際目を引き、内部は先端科学技術によって無重力状態が実現されている。プロジェクトで飛行士に選ばれた高校生たちも、実際にこの施設で訓練を行った経緯がある。
「白い内装はまさにロケットの中よね。まったく、この無重力の中じゃあ思うように動けないわ。おまけに嫌がらせのつもりかは知らないけど、上には浮遊物が散らかってるし」
高層階では無数の銀光の破片がのっそりと浮遊している。おそらく船内で物体が散ったケースをシミュレーションしているのであろう。ただし今の場合に限り、ヒナを追う者を邪魔するために敵が用意したとも推測できる。
そんな中、早くもコツを掴んだのか、あおいは三角飛びの要領で壁を蹴ってスイスイ進んで、
「ほら、軽く壁を蹴れば進めるよ。真っすぐ上に跳んでも遮蔽物があるから斜めに進むのがいいかも。あれにぶつかるとランダムにこの空間を動いちゃうから注意してね」
助言に従って大地はトンと、足を着ける程度に床を蹴ると、斜めの方向に宙を推進できた。空気抵抗はあるものの、地球の重力下ではありえない物理現象に大地は戸惑う。しかし壁を蹴って推進するたびに、徐々にコツを掴んでゆく。
(この無重力も虚数空間の世界の科学が成す力かよ。物理には明るくないけど、地上で無重力を実現することがとんでもないことだってのはわかる)
虚数空間の世界を訪れて以降、常識を超えた科学によく心を動かされているはずのあおいでさえも、この科学を前にして顔が強張りを見せている。物理学に詳しく、地球の質量が10の24乗キログラムという桁数を知る彼女だからこそ、この事実は受け入れ難いのだろう。
(ああ、わかった気がする。未来都市がロケット事故の詳細を明かさなかったのって、この世界が大きく絡んでるからなんだ)
蒼穹祢が語った、セリアと虚数空間の世界のエピソード。〝すごい〟の一言で表現できる科学は、やはりセリアのような犠牲の上で成り立っているのだろうか。一見煌びやかで夢のように見えていた虚数空間の世界に対して、大地は薄ら寒いものを胸に抱いた。
「なあレミ、あおい。オレさ、滝上先生のあの言葉が頭から離れないんだよ」
「シンポジウムの日の『〝科学の闇〟に苦しむ誰かを救ってほしい』って言葉?」
「そう、それ。さっきの神代先輩の話も聞いてから余計にな」
気づけば一〇階相当の高さまで到達していた三人。円形の地上がすっかり遠くなる中、大地とすれ違ったレミは、
「その〝科学の闇〟に苦しむ誰かの一人が、あのヒナってこと?」
「ヒナがそうかって言われたらわかんねぇけど、……やっぱりヒナは助けたい。助けて……記憶を取り戻してもらって、まずは礼を言いたい」
器用な身のこなしで、三人の中で最も上を行くあおいも目尻に力を込めて、
「そうだね、私だって助けたい。ヒナちゃんが一瞬見せた寂しそうな顔が忘れられないから」
レミは空間に漂う破片を、小柄な身体を懸命に捻ることで避けながら、
「急ぎましょう。私たちの仮設が正しいなら宇宙飛行プロジェクトはまだ終わってなくて、ヒナに答えがあるかもしれないから」
こうして数分を要して無重力空間を上った三人は天井のハッチを開け、重力の支配下である階層の床に足を着ける。やはり白い通路の先には扉が待ち構えていて、彼らは迷わずそこへと向かった。すると淡泊な景観から一転、例えるならプラネタリウムのように粒上の光が無数に天井に輝く、暗くとも煌びやかな広がりが三人を出迎える。
「ここは人工衛星で観測した宇宙を投影してる……って、あ!」
あおいが語尾を上げれば、
『みんな! 来てくれたんだ!』
ヒナの声がコネクタを通じて、三人の耳に確かに届いた。
暗いルームを肉眼で見渡しても何も認識できず、ポケットに仕舞っていた、レミが作成したメガネ型の《パラレルレンズ》を大地は着用すると、鳥かごのようなものを数メートル先に発見した。その中で捕われている、スーツで誇張されたスタイルの良いあの体型は、紛うことなきヒナだ。
「ねえ大地。ヒナがそこにいるの? ぐぅ、肉眼じゃわからないわ……」
「ああ、いるぜ。……けどもう一人、怪しさマックスのヤツもヒナの……、鳥かごの前にいる」
鳥かごの前、薄っすら揺らぐ人型の〝なにか〟。視線を感じたのか、留まることをやめ、三人の元へ二本足で歩み始めた。時間が経つにつれ、その体貌が鮮明に見え始める。
「ああ、やっぱりな。オレたちをゲームオーバーにしたヤツだ!」
翡翠色がまだらに混じるシルバーの、無駄を削ぎ落としたスリムな西洋甲冑で表面を固めた姿。両手の甲には群青色の見開かれた瞳が刻まれ、右手に白銀の大剣を携えている。さながらその風体は〝騎士〟とでも形容すべきか。
『みんな、注意して! その騎士、〈拡張戦線〉のエネミーみたい! コネクタを付けたまま攻撃されると電流で身動きが取れなくなるよ!』
「え、どういうことヒナちゃんっ? エネミー? ここ、エリア外だよね?」
「いや、ヒナの言うとおりかもな……。あの騎士に焦点を合わせたら、ゲームで見たエネミーのステータスが出るんだよ。……フェーズ、6?」
騎士の頭上に表示されたのは、――――『Fase6 ?????』の“赤い”フォント。
ジワリと詰まる距離、その差は5メートル強。大地のこめかみに嫌な汗が浮く。
「ヒナ、聞こえる? 今のヒナは大地の言う鳥かごとやらに捕われてるのよね?」
『そうだよ! いくら叩いてもビクともしないし、すり抜けもできない!』
「肉眼で鳥かごは見えないから、たぶんそれはARだと思うわ。ひょっとしたら電子的な技術でそれを破れるかも。ヒナならイケるかもしれないから、ヒナは脱出に専念して。その間、私たちが騎士を相手するわ」
『うん、了解ですっ』
レミの指示を横に、大地は歩み寄ってくる騎士を、今一度刮目して見る。
「フェーズ6? エネミーは五段階分けだったよな?」
「そのはずよ。けれどもうゲームじゃないわ。ゲームでの常識は捨てましょう」
騎士はカチャリと鎧を鳴らし、やがて立ち止まる。二、三歩踏み込んで詰められる距離。