耳がよく聴こえない。身体がふわふわとする。

 まるで水の中にいるような、変な感覚だった。

 丸三時間も大音響にさらされたせいで、聴覚が戻らず、骨や内臓まで、まだビリビリと震えている感じがした。

 音楽が残っている。

 狂乱のステージが終わり、ライブハウスに明かりがついて日常の世界が戻っても、身体の芯ではずっと宇宙メタルの余韻が続いていた。

 うずうずしている。

 もう一度、あの不思議なリズムにノッて、若者たちとおしくらまんじゅうをし、獣のように本能で暴れたかった。

 デャーモンはすごい。

 そんな尊敬の念すら、持ってしまった。

 そのデャーモンと今、二人っきりで、ステージ裏の控室にいる。

 デャーモンの命令で、人払いがされていた。

 ミュージシャンたちが、出番前に着替えやメイクをする部屋なのだろう。ロッカーや鏡が並んでいる。

 折り畳み式の長机の上には、菓子や飲みかけのペットボトルが乱雑に散らばっている。それを挟んで、互いにパイプ椅子に座り、修一とデャーモンは向かい合っていた。

 デャーモンは、再び元のサイズに戻っていた。信じがたいことだが、汗一つ掻いていない。顔面の緑色は、おそらく特殊なペイントだと思われるが、まるで塗りたてのペンキみたいに艶々としていた。

 同じく緑の光沢を放った全身タイツ姿のまま、脚を大きく開き、腕組みをし、瞑想するように目を閉じている。対する修一は、入れと言われて入り、坐れと言われて坐ったきり、声を奪われた人魚姫のようになにも話せないでいた。

 どう声をかけていいのかわからない。

 ライブ終わりのアーティストは、どういう精神状態にあるのだろう。下手なことを言ったら怒鳴られるのではないか、と思うと、緊張して口が利けないのだった。

 やがてデャーモンが薄目を開けて、

「ドウだった?」

 ステージそのままの、甲高い声で訊いた。

 むろん地声ではあるまい。本名はなんというか知らないが、デャーモンでいるあいだはこの声で話す、というマイルールを、どうやら貫いているらしい。

「良かったです」

 頭を下げて言ったとたん、驚いた。喉がすっかり潰れていて、かすれた声しか出なかったのだ。それほど修一は、デャーモンの歌に合わせて、全力でシャウトしていたのである。

「どこがヨかった?」

「はい。わたしたちの哀しみを、わかってくれている気がしました」

 思ったままの感想を述べると、

「ソウか」

 無表情だが、どこか満足げな様子でうなずいた。

「バカになるのもいいもんダロ?」

「そうですね。こういう音楽は、聴かずに敬遠していましたが、娘が夢中になるのもわかる気がしました。中には、音楽なんて、地球人をクズにするための宇宙人の陰謀だ、なんて珍説を唱える輩もおりますが」

「ム……宇宙人なんて、いるわけなかろう」

「ハハハ。もちろん冗談です」

「ところで、おまえの娘の早紀とヤラだが、おれのライブを体験した今でも、ファンをやめさせたいと思ってるカ?」

「…………」

 宇宙メタルを褒めはしたが、それとこれとは話がちがう。やはりまだ中二の娘に、夜の十時十一時まで出歩いてもらいたくはない。

 あんな、父親の言うことを無視するよそよそしい娘ではなく、かつてのような、パパパパと言って甘えてくる娘に戻ってもらいたかった。

 あれが本当の娘なら、そうなれるはず。赤の他人のデャーモンよりも、このおれを選んでくれるはずだ。

「はい。ライブに出かけるのは、禁止するつもりです」

「娘を愛してるんダナ」

 デャーモンはそう言うと、机から銀色の小さな容器を取って、ゴクゴクと飲んだ。あの容器の名称はなんといったろう。そうだ、スキットルだ。

「その愛するチュー学生の娘を、おまえはちゃんと、大事に扱ってるノカ?」

 デャーモンがゲップをした。柑橘系の香りが漂う。よく見ると、緑色の唇の端に、オレンジ色のつぶがくっついていた。

 おかしい。

 正面に坐る男を、じーっとにらんだ。

 ペイントで隠された素顔。宇宙人のマネのような変な裏声。

 小学生の身長。スキットル。つぶつぶオレンジ。

「探偵ってのは」

 かすれた声で、修一は言った。

「こんなバカな変装までするのか、蝶舌」

 しばらく見つめ合った。

 修一のヒゲが震える。すると、向かいの男の頭のアンテナも、小刻みに揺れた。

 やがてそいつは裏声のまま、

「おれ様はデャーモンだよ」

 オレンジの匂いをさせながら、そう言った。

 あくまで芝居を続ける気でいる。

「なぜだ」

 訊いたが答えない。

 修一はぞっとした。

 蝶舌は、なぜこんなことをしているのか。

 香織から、最近のおれが妻や娘に当たるようになったのを聞き、おれに説教しようとして、こんな手の込んだことを? にしても、やり方が異常すぎる。

 わざわざデャーモンに扮して、あの狂乱のライブをやってみせるとは。

 いや。

 確かに蝶舌は、学生時代にバンドを組んでギターをやっていた。しかしその程度で、ファンの目をごまかせるほど、完璧にコピーできるはずがない。

 とすると――

 入れ替えトリック。

 さっきステージに立っていたのが本物のデャーモンで、控室で待っていたのが蝶舌。そうだ。これはそういうトリックなのだ。

「なぜだ、蝶舌」

 もう一度訊いた。

「なぜこんな芝居をする。香織に頼まれたのか?」

「ちがう」

 首を振り、ゆっくりと、おかしなことを言った。

「ぼくを殺させるためさ」

 まだ裏声を崩さない。そこに狂気を感じる。

 蝶舌のやつ、どうやら狂っちまったらしい。

「修一。おまえはこのままでいくと、香織ちゃんや早紀ちゃんを喰い殺してしまう。そこでぼくは考えた。ぼくを殺させて、殺人罪で刑務所に行かせちゃえってね」

「頭がどうかしたのか、蝶舌」

 修一の喉は、カラカラだった。

「殺すとかなんとか、意味がわからん」

「わかってるはずだよ。鏡を見ろ。おまえはもうネズミさ。ぼくが香織ちゃんのことを好きだったの、修一も憶えてるよね」

「…………」

「おまえといたら香織ちゃんの身が危ない。ぼくはそれから香織ちゃんを救うために、おまえに殺されてやるのさ。わかったか、修一」

 わかるはずがない。マジキチめ。

「それが究極の、ピュアな愛ってやつなのさ」

「ほざけ、蝶舌」

 怒りの感情が、だんだん抑えがたくなってくる。

「おまえなんか、ただのチビじゃねえか。香織どころか、誰にも相手にされるもんか」

「相手にされなくたっていい。ただ、香織ちゃんのためなら、ぼくは死ねる」

 言いながら、のっそりと立ち上がった。

「さあ、ぼくを殺してよ」

「殺さないよ」

 修一も椅子から立ち、後ろに下がった。

「そんな気持ち悪いことしないし、刑務所に行くつもりもない」

「喉笛に喰らいつきな。そうしたいはずだよ」

「したくない」

 蝶舌が長机をまわってこようとする。その同じ距離だけ、逃げた。

「デャーモンのライブに来させたのはそのためさ。宇宙メタルには力がある。人を熱狂させて、暴れさせる力がね」

「おれは帰る。付き合ってられん」

「殺せええ!」

 突然蝶舌が、信じられないスピードで迫ってきた。

 肩をつかまれた。全身の毛が逆立つ。

「よく聴け、修一! 早紀ちゃんは、ぼくの子だあ!」

 なにを叫んでいるのか、頭に入ってこない。

「おまえと結婚する直前に、香織ちゃんとコンビニで再会したんだ。ぼくたちは、そこで手をつないだ。ああ、そうさ。つないだとも! そのときできたのが早紀ちゃんだ。その証拠に、ぼくの歯茎を見ろおおお!」

 ライブでシャウトするときのように、くわっと大口を開けた。

 あらわになった歯茎――見まちがえようもない。早紀そっくりだ。

 身体中の血が頭にのぼる。

 今、この瞬間、わかった。

 自分を苦しめてきたものの正体が。

 蝶舌だ。

 香織の心にいたのは、蝶舌だった。

 香織はおれを裏切っていた。

 小学校のときから、おれじゃなく、こいつのことが好きだったのだ。

 香織と蝶舌。

 こいつらは、二人して、おれをコケにした。

 早紀はおれの子じゃない。このクソ野郎の子だ。

 ずっと自分の娘と信じて、育ててきたのに。

 殺してやる。

 身体の芯に残っていた音楽が、再び大音量で鳴りだした。

 宇宙メタル。

 ドラム、ベース、ギターが、荒々しく襲いかかってくる。

 暴れてやる。

 なにもかも、ぶっ壊す。

「チュウウウウウウ!」

 目の前の、緑の男を殴った。

 渾身のストレート。まともに顔の中央に入る。

 鮮やかなKOパンチ。

 蝶舌は宙を飛び、背中から床に落ちた。

 修一は跳びかかった。

 緑色の喉が見える。

 咬みついた。

 前歯が深く食い込む。

 もうすぐだ。

 あともう少し力を込めたら、蝶舌は死ぬ。

 復讐は遂げられる。

 そう思ったとき、このバカバカしい変装を、ジャマに感じた。

 喉から口を離して、服の袖で蝶舌の顔をこすった。

 が、色は一つも落ちない。えらく強力なペイントだ。

 無性に腹が立った。アンテナを両手で持ち、ぐいぐい引っ張った。

 全然取れない。いったいどうやってつけてるんだ。

 緑のタイツに爪を立てた。一気に引き裂いてやろうと、タイツを握り――

 ん?

 なんだこれは。皮膚?

 ガン! と音がした。

 反射的に振り向く。

「警察だ。傷害の現行犯でタイホする!」

 ロッカーの扉があいていて、大きな男と、やけに小さい男が立っていた。

 その小さなほうは、今まさに組み敷いているはずの、蝶舌純亜だった。