駅前の三十階建てタワーマンション。
大型のショッピングモールが、すぐ目の前にある。修一の給料では、到底住むことの叶わぬ場所だ。
てっきり、どこかの雑居ビルの一室に、事務所を構えているのだと思った。それがまさか、こんな高級マンションに呼び出されるとはと、修一は気後れしながら最上階のドアのインターホンを押した。
「ドウゾ」
ドアを開けた人物を見あげて、思わずたじろいだ。
デカい。外人だ。しかも見たことのないような、超絶美人。それが、全身黒ずくめの、革の服に身を包んでいる。
女スパイか、はたまたコウモリか。しかしそんなものがどうして蝶舌の探偵事務所にいるのかと、不審に思いながらその美女についていくと、
「やあ」
広さ十畳ほどのこざっぱりとした部屋に、蝶舌純亜がいた。
会うのは中学三年生のとき以来だったから、およそ二十年ぶりだ。が、呆れるほどまったく変わっていない。
「久しぶり、修一。しかしまあ……ずいぶん変わったねえ」
修一は、ヒゲをピクッと震わせた。自分の容貌の変化を指摘されるのは、たまらなく不快だった。
蝶舌は、Tシャツにジーンズというラフな恰好で、ブラウンの革張りのソファに埋まるように坐っている。
テーブルはあるがデスクはない。探偵の事務所なら、盗聴器や小型カメラなどがあるのかと思ったが、そういうものは見当たらない。代わりに、変わった形のエレキギターが一台、部屋の隅に置いてあるのが目についた。
「まあ、坐ってよ」
うながされて、向かいのソファに坐る。革がひんやりと冷たい。
蝶舌が、ジーンズの尻ポケットから銀色の容器を出し、中身を一口飲んだ。
「なんだよ、昼間っから酒か?」
すると蝶舌は嬉しそうに笑い、
「つぶつぶオレンジだけどね。スキットルで飲むと、ハードボイルドっぽいでしょ」
「ハードボイルドって?」
「かっこいい小説のことさ」
蝶舌が照れてペロッと舌を出したとき、さっきの美女が来て、「ほら、飲めヨ」と、ドンとコーヒーを置いた。
「紹介するよ。彼女はミス・コケティッシュ。ぼくの助手をしてくれている」
「おまえの……助手?」
こんな超絶美人を雇うなんて、探偵ってのはどんだけ儲かるのだろう。どうせはした金で、ネズミみたいにコソコソ浮気調査でもしてるんだろうとタカを括っていただけに、同級生に出世した姿を見せつけられたようで、修一は激しく嫉妬した。
美人助手がドアの向こうに消えると、蝶舌が訊いた。
「ところで、香織ちゃんは元気?」
おまえには関係ないだろうと、つい怒鳴りそうになるのをこらえて、
「ああ」
とだけ言い、熱いコーヒーを啜った。
「性格は昔のまんま?」
「さあ。昔のことなんか忘れたよ」
蝶舌と香織の話をする気はなかったので、すぐ本題に入った。
「娘のことだけど、できるのか」
「憧れのミュージシャンを、嫌いにさせるんだね?」
「そうだ」
「いいよ」
蝶舌が、さも簡単そうに請け合う。
「娘さんは早紀ちゃんといったね」
「ああ」
「早紀ちゃんはさ、囚われの捕虜になったんだよ」
「捕虜?」
「宇宙メタルの虜になったってこと。このままだと、親の言うことを聞かなくなるだけじゃない。二十四時間デャーモンのことを考えて、勉強は手につかず、頭がパーの人間のクズになっちゃうだろうね」
「そこまで?」
「そうさ。ぼくも一時期激しい音楽にハマってたからわかる。音楽の力っていうのは恐ろしいんだ。ライブに行ったことはある?」
「ない」
「ミュージシャンの、さあバカになれっていうメッセージを受けて、みんなバカになる。酔ってるわけでもないのに、頭を振って騒いだり、絶叫したり泣いたりする。中には失神するバカもいる。どう考えてもマトモじゃない。ぼくはつい、こんな想像をしちゃうんだ。音楽っていうのは、地球を乗っ取ろうと考えた宇宙人が発明した、地球人をバカにする最強のツールじゃないかってね」
「まさか」
「いや、ありえる。ちゃんとした親だったら、子どもに音楽なんか聴かせるべきじゃない。修一は、早紀ちゃんがクズになってもいいのか?」
「それは困る」
「だったら、今すぐ手を打たないと。いやー、ぼくに連絡してくれて良かったよ。すんでのところで、罪のない一人の少女の人生を救えた」
「どうやって、ファンをやめさせるんだ?」
「デャーモンに会わせる」
「え?」
蝶舌は、意外すぎることを言った。
「早紀ちゃんは、デャーモンを天才だと思ってる。地球でいちばん才能のある男だと信じてるんだ。ところが実際に会ってみたら、普通のオジサンで、臭いオナラを連発したらどうだ? 百年の恋もたちまち冷めるでしょ?」
「ていうか、会っちゃくれないだろ」
「助手のミス・コケティッシュが、知り合いなんだ。同じアメリカ人のよしみでね」
「ホントか?」
「むちゃくちゃ熱い友情で結ばれている。すでに今回のことも頼んで、無料でやってくれることになったんだ。早紀ちゃんの前でボンボン屁をこいて、たちどころに幻滅させてやるって、今からやる気満々さ」
「もう? だって、おれがおまえに電話したの、つい昨日じゃないか」
「アメリカ人は即決なんだよ。まあ、舞台裏をバラしちゃうと、うちのミス・コケティッシュは、なんでも視えてね。今度の作戦に修一が乗ってくることも、デャーモンが引き受けてくれることも、すべてお見通しだったのさ」
「全然意味がわからん」
「わからなくても大丈夫。修一はただ、ぼくの言うとおりにしてくれたらいい」
「おれがなにかするのか?」
「実はデャーモンが、早紀ちゃんに会う前に、父親にもライブを体験してほしいと言ってきたそうなんだ。ただでやってくれるんだから、そのくらいの条件は呑まないとね」
「おれが……宇宙メタルのライブに?」
「ライブ終了後に、控室で二人っきりで会ってくれるらしい。そこで打ち合わせをしてから、いよいよ早紀ちゃんに会ってもらう段取りさ」
「おれとデャーモンが二人で……」
修一のヒゲが、またピクピク震えた。動物的な勘で、なにやらひどく禍々しいことが起こりそうな予感がし、腹をすかせた猫を前にしたように震えが止まらなくなった。
大型のショッピングモールが、すぐ目の前にある。修一の給料では、到底住むことの叶わぬ場所だ。
てっきり、どこかの雑居ビルの一室に、事務所を構えているのだと思った。それがまさか、こんな高級マンションに呼び出されるとはと、修一は気後れしながら最上階のドアのインターホンを押した。
「ドウゾ」
ドアを開けた人物を見あげて、思わずたじろいだ。
デカい。外人だ。しかも見たことのないような、超絶美人。それが、全身黒ずくめの、革の服に身を包んでいる。
女スパイか、はたまたコウモリか。しかしそんなものがどうして蝶舌の探偵事務所にいるのかと、不審に思いながらその美女についていくと、
「やあ」
広さ十畳ほどのこざっぱりとした部屋に、蝶舌純亜がいた。
会うのは中学三年生のとき以来だったから、およそ二十年ぶりだ。が、呆れるほどまったく変わっていない。
「久しぶり、修一。しかしまあ……ずいぶん変わったねえ」
修一は、ヒゲをピクッと震わせた。自分の容貌の変化を指摘されるのは、たまらなく不快だった。
蝶舌は、Tシャツにジーンズというラフな恰好で、ブラウンの革張りのソファに埋まるように坐っている。
テーブルはあるがデスクはない。探偵の事務所なら、盗聴器や小型カメラなどがあるのかと思ったが、そういうものは見当たらない。代わりに、変わった形のエレキギターが一台、部屋の隅に置いてあるのが目についた。
「まあ、坐ってよ」
うながされて、向かいのソファに坐る。革がひんやりと冷たい。
蝶舌が、ジーンズの尻ポケットから銀色の容器を出し、中身を一口飲んだ。
「なんだよ、昼間っから酒か?」
すると蝶舌は嬉しそうに笑い、
「つぶつぶオレンジだけどね。スキットルで飲むと、ハードボイルドっぽいでしょ」
「ハードボイルドって?」
「かっこいい小説のことさ」
蝶舌が照れてペロッと舌を出したとき、さっきの美女が来て、「ほら、飲めヨ」と、ドンとコーヒーを置いた。
「紹介するよ。彼女はミス・コケティッシュ。ぼくの助手をしてくれている」
「おまえの……助手?」
こんな超絶美人を雇うなんて、探偵ってのはどんだけ儲かるのだろう。どうせはした金で、ネズミみたいにコソコソ浮気調査でもしてるんだろうとタカを括っていただけに、同級生に出世した姿を見せつけられたようで、修一は激しく嫉妬した。
美人助手がドアの向こうに消えると、蝶舌が訊いた。
「ところで、香織ちゃんは元気?」
おまえには関係ないだろうと、つい怒鳴りそうになるのをこらえて、
「ああ」
とだけ言い、熱いコーヒーを啜った。
「性格は昔のまんま?」
「さあ。昔のことなんか忘れたよ」
蝶舌と香織の話をする気はなかったので、すぐ本題に入った。
「娘のことだけど、できるのか」
「憧れのミュージシャンを、嫌いにさせるんだね?」
「そうだ」
「いいよ」
蝶舌が、さも簡単そうに請け合う。
「娘さんは早紀ちゃんといったね」
「ああ」
「早紀ちゃんはさ、囚われの捕虜になったんだよ」
「捕虜?」
「宇宙メタルの虜になったってこと。このままだと、親の言うことを聞かなくなるだけじゃない。二十四時間デャーモンのことを考えて、勉強は手につかず、頭がパーの人間のクズになっちゃうだろうね」
「そこまで?」
「そうさ。ぼくも一時期激しい音楽にハマってたからわかる。音楽の力っていうのは恐ろしいんだ。ライブに行ったことはある?」
「ない」
「ミュージシャンの、さあバカになれっていうメッセージを受けて、みんなバカになる。酔ってるわけでもないのに、頭を振って騒いだり、絶叫したり泣いたりする。中には失神するバカもいる。どう考えてもマトモじゃない。ぼくはつい、こんな想像をしちゃうんだ。音楽っていうのは、地球を乗っ取ろうと考えた宇宙人が発明した、地球人をバカにする最強のツールじゃないかってね」
「まさか」
「いや、ありえる。ちゃんとした親だったら、子どもに音楽なんか聴かせるべきじゃない。修一は、早紀ちゃんがクズになってもいいのか?」
「それは困る」
「だったら、今すぐ手を打たないと。いやー、ぼくに連絡してくれて良かったよ。すんでのところで、罪のない一人の少女の人生を救えた」
「どうやって、ファンをやめさせるんだ?」
「デャーモンに会わせる」
「え?」
蝶舌は、意外すぎることを言った。
「早紀ちゃんは、デャーモンを天才だと思ってる。地球でいちばん才能のある男だと信じてるんだ。ところが実際に会ってみたら、普通のオジサンで、臭いオナラを連発したらどうだ? 百年の恋もたちまち冷めるでしょ?」
「ていうか、会っちゃくれないだろ」
「助手のミス・コケティッシュが、知り合いなんだ。同じアメリカ人のよしみでね」
「ホントか?」
「むちゃくちゃ熱い友情で結ばれている。すでに今回のことも頼んで、無料でやってくれることになったんだ。早紀ちゃんの前でボンボン屁をこいて、たちどころに幻滅させてやるって、今からやる気満々さ」
「もう? だって、おれがおまえに電話したの、つい昨日じゃないか」
「アメリカ人は即決なんだよ。まあ、舞台裏をバラしちゃうと、うちのミス・コケティッシュは、なんでも視えてね。今度の作戦に修一が乗ってくることも、デャーモンが引き受けてくれることも、すべてお見通しだったのさ」
「全然意味がわからん」
「わからなくても大丈夫。修一はただ、ぼくの言うとおりにしてくれたらいい」
「おれがなにかするのか?」
「実はデャーモンが、早紀ちゃんに会う前に、父親にもライブを体験してほしいと言ってきたそうなんだ。ただでやってくれるんだから、そのくらいの条件は呑まないとね」
「おれが……宇宙メタルのライブに?」
「ライブ終了後に、控室で二人っきりで会ってくれるらしい。そこで打ち合わせをしてから、いよいよ早紀ちゃんに会ってもらう段取りさ」
「おれとデャーモンが二人で……」
修一のヒゲが、またピクピク震えた。動物的な勘で、なにやらひどく禍々しいことが起こりそうな予感がし、腹をすかせた猫を前にしたように震えが止まらなくなった。