チュ、チュ、チュ……

 嶋田修一は、リビングの絨緞に寝そべって、ぬるいビールをちびちび啜っていた。

 目はテレビ画面に向いている。が、内容はちっとも頭に入ってこない。その頭にあることは、ここ数か月間ただ一つ、

(もし早紀が、おれの子じゃなかったとしたら……)

 やるせない疑惑のことだけだった。

 怒りに毛が、ツンツンと逆立つ。昔はこうじゃなかった。産毛がこんなに硬いことはなかった。しかし、疑惑に身を焦がすようになってからは、なんだか身体が内側から変化して、ちがう自分になってしまったようだった。

 疑惑。怒り。不安。怖れ。

 そうしたマイナスの感情に呑み込まれると、ヒトは、こうまで変わってしまうものなのだろうか?

 よくわからない。とにかく自分の意志では、もうどうにもならなかった。

 毎朝、鏡を見てヒゲを剃るときに思う。いつからおれのヒゲは、左右に三本ずつ、横にピンと伸びるようになったのか。

 歯を磨くときもそうだ。前歯をやるときは、歯ブラシを縦にしてゴシゴシこするようになった。昔の前歯はこんなじゃなかった。

 朝食はチーズになった。それを両手で持って齧る。妻や子が見ていることに気づくと、サッとテーブルの下に隠れてコソコソ食べる。それでももし、妻が覗いてくるようなことがあったら、爪を立てて歯をむき出して威嚇した。

 チュウー……

 理性では、そんなことをしたくはなかった。でも身体は勝手にそうしてしまう。とても苦しい。理性ではなく、感情の奴隷になったおれは、もはや動物だ。背中を丸めて、後ろ肢でピョンピョン跳ねるとき、ああ元の自分に戻りたいと血を吐く思いで願うのだ。

(早紀はやっぱり自分の子だっていう、確実な証拠さえあれば……)

 それにはDNA検査をするしかない。だがそんなことを言いだせば、妻とにあいだに決定的な亀裂が入るだろう。それにもし、もしだ。

「あなたが父親の確率は……ジャーン! 0パーセント」

 ということになれば、おれは香織をどうするだろう。くわっと大口をあけて、喉笛を喰いちぎってしまいそうだ。

 修一は、空になった缶を前肢で転がし、今夜四缶目のビールを取りに冷蔵庫に立った。

 キッチンに香織がいた。

 美しい。

 結婚して十五年経っても、そう思う。

 修一は今でも、熱烈に香織のことが好きだった。

 小学校時代、クラスの男子全員が香織を好きになった。

 けれどもみんな、手が出なかった。素晴らしすぎて、自分なんかにはもったいないと、誰もが遠慮してしまったのだ。

 だが修一に遠慮はない。中学校に上がるとデートに誘い、公園で抱きついた。

 香織は運命論者だった。

 最初に抱きついた男性と結婚すると、幼いころから決めていたのだ。

 だから、修一を運命の人として受け入れた。好きかどうかは、香織自身にもよくわかっていなかった。

 その感情は修一にも伝わった。付き合ってはいても、香織は心から修一を好きなわけではない。たぶんほかに好きな男がいる。

「御子柴は、蝶舌のことが好きらしい」

 そんなことを言ったやつがいた。修一は耳を塞いだ。

 バカバカしい。あんなチビを好きなわけがない。が、もしかしてと思うと、気が狂いそうになり、結婚できる年齢になったらすぐに籍を入れ、悪い虫がつかないように家庭に閉じ込めた。

 修一は再び絨緞に寝転がり、ビールを啜った。

 チュ、チュ、チュ、チュ、チュ。

 香織と結婚はした。誰もが羨んだ。

 が、心はついに、修一のものにはならなかった。

 あいつの心の中には別の男がいる。

 そう感じつづけた十五年間だった。

 そして――

 一人娘の早紀の顔が、このごろちっとも、自分に似てないように思えるのだ。

 あれはあいつが十四歳になったばかりのときだ。帰宅時間が遅いのを注意したら、歯をむき出して怒った。そのときあらわになった歯茎に、目を疑った。

 全然おれとちがう!

 それまで、娘の歯茎をじっくり見たことはなかった。初めてその機会が訪れたとき、気づいてしまった。

 おれと香織のあいだから、あんな歯茎の子が産まれるはずはない。あれは他人の歯茎だ。そう思って観察すると、どこも自分に似ていない。嶋田修一のDNAの痕跡が、どこにも見当たらないのだ。

 結婚したときすでに、香織は早紀を身籠っていた。だとしたら、あいつはおれと婚約していながら、別の男と関係を持ったのか?

 香織はキッチンで、立ったままコーヒーを飲んでいる。それを見る自分の目が、猜疑心のために凶暴になり、怪しく赤く光るのが修一にもわかった。

 玄関で音がした。

 さっと壁の時計を見る。午後十時半。今夜もまた、早紀は門限を破った。

 チュッ!

 あの小娘め。父親の言うことを全然聞かない。実の娘じゃないからか? あいつはそれを知っていて、他人の言うことなんか聞けるかバーカと思ってるのか?

 今夜こそ、思い知らせてやる。

 修一が絨緞から立とうとすると、早紀が部活のダッシュ練習並みのスピードでリビングを抜けて、階段に向かった。

「待て!」

 そう叫んだつもりだった。しかしそれは、チューという、およそ父親らしからぬおかしな音声になった。

 酔っている。ここ最近、めっきり酒に弱くなった。

「おい待て! チュチュ親の言うことを聞け!」

「よしなさい!」

 香織が早紀を修一から逃がすように、階段の前に立った。

「酔っ払いがみっともない。大きな声出さないで」

「娘に規則を教えてる。何度門限を破った」

 早紀が二階に消えると、香織がリビングに来て、椅子に坐った。

「早紀が行ってるのはただのライブだって、何度も言ってるでしょ。唯一の趣味なんだから、そのくらい認めてあげなさい」

 修一がフンと鼻を鳴らすと、ヒゲがいっせいに震えた。

「宇宙メタルとかいう、イカれた音楽に夢中らしいな」

「デャーモンさんっていう人が好きなんだって。ヴォーカルの」

「好き? おれとどっちが好きなんだ」

「バカ言わないで」

「バカじゃない。そっちのほうが好きだから、門限を破るんだろ。チュー学生はチュチュ親の言うことを聞くべきだ!」

 香織が怯えた顔をした。気がつくと、興奮のあまり、前歯でビールのアルミ缶を喰い破っていた。

 冷蔵庫から、新しいビールを取ってきて飲んだ。

「香織」

「なによ」

「こいつは非行の始まりだ。今すぐ手を打たないと」

「どうしろって言うの?」

「ライブに行くのを禁止する。それを守らないようなら、もう親でも子でもない」

 言いながら、赤い目でねっとりと香織を見た。

「また極端なことを」

「デャーモンを選ぶかおれを選ぶかだ。いいな、本気だぞ。おまえはどっちの味方をする。おれか、デャーモンか?」

「それは話が全然――」

「おれと別の男を選ぶのか? えっ?」

 香織が椅子から立って後ずさる。修一が背中を丸め、テーブルに前肢をかけて、今にも飛びかかりそうな体勢になったせいだった。

 修一はビールを呷って、気を静めた。

「もし、どうしてもやめられないなら、脱洗脳士みたいなのに頼む。ほら、おかしな宗教から家族を取り返したりする、専門家がいるだろ」

「洗脳とはちがうでしょ」

「ある意味一緒だよ。あんなくだらない、宇宙メタルに夢中になるなんて」

「音楽ファンをやめさせるなんて、聞いたことないけど……」

 香織がふと黙ってから、あ、そうだと、急になにかを思いついたように手を打ち、

「探偵さんに頼んでみる?」

「探偵?」

「別れさせ屋みたいなことも、探偵はやるんだって。物は試しで頼んでみたら?」

「デャーモンと付き合ってるわけでもないのに、どうやって?」

「それは探偵さんに訊いて。とにかく、この問題を解決するには、娘にファンをやめさせるか、それともあなたも一緒にファンになってしまうか、二つに一つしかないのよ」

「冗談じゃない。誰があんなもの聴くか」

「じゃあ探偵に依頼するしかないわね。わたしたちの力じゃ、とてもファンをやめさせるなんてできないから」

「うむ。しかし、法外な料金を請求されないかな」

「知り合いでいるよ。安くしてくれると思う」

「探偵の知り合い?」

「うん。蝶舌純亜くん」

「え?」

 修一の毛が、ぞわっと逆立った。

「蝶舌って、あのチビか?」

「そうよ」

「なんで、あいつの職業を知ってる?」

「偶然コンビニで会ったの。で、今ぼく探偵やってるから、困ったことがあれば相談してねって名刺をくれて。事務所の電話番号は登録してあるから、かけてみる?」

「…………」

 妻の顔をじっと見た。香織は微笑んでいる。なぜかそれが、蝶舌に向かって微笑んでいるように見えてきて、身体中の血が熱くなった。

(まさか、あの噂、本当だったのか……)

 いやいやと首を振る。香織が言うように、偶然会っただけに決まってる。香織の浮気相手が、あんなガキ同然の蝶舌だったなんてこと、あるはずがない。

 でも、万が一……

 そうだ。蝶舌に会ってみよう。そしてどうにかして、あいつの歯茎を見てやるのだ。

 それがもし、早紀とそっくりだったら――

「そうだな。頼んでみるよ。久しぶりに、あいつに会いたくなった」

「友だちだったもんね」

「ああ」

 香織から番号を聞いて、修一は電話した。