御子柴香織ちゃんは、小学五年生のときに転校してきた。

 ほどなくして、クラスの男子全員が好きになった。

 もちろん、ぼくも、修一も。

 かわいかった。しかも抜群に性格がいい。

 かわいい×性格いい=最強。

 天使、いや聖母の降臨に、女子もみんなひれ伏した。最強にケチをつけるのは、全男子を敵にまわすも同然だったからね。

 ぼくはそのころ暗かった。

 女の子とは、どんな話をしたらいいかわからなかったし、男子のする話は、下品すぎて意味がわからず、全然ついていけなかった。

 ぼくは無口な読書少年になった。いろんな本を読んだけど、とくに探偵の出てくるのが好きだった。男にも女にも強くって、颯爽と行動する探偵の姿に夢中になった。

 ところが、である。

 遠足のときだ。

 香織ちゃんがぼくの横に来て、話しかけてくれたのである。

 ピュアな男子にとって、これがどんなことか、おわかりだろうか?

 まず、心臓が、跳ねあがる。

 脈拍が百八十を超える。ハッハッハッハという呼吸だ。

 手足はしびれ、やがて冷たくなる。足の裏の感覚がなくなるので、ふわふわと地面から浮いてる感じになる。宙にも浮く想いというのは、すなわちこれだ。

 羞ずかしさに口は閉じる。しかし内心はあふれる感謝でいっぱいである。

(ぼくなんかに話してくれてありがとう。でもぼく、ちっとも面白いことを言えないんだ。ごめんなさい、ああごめんなさい)

 そんなふうに思うものだから、感情が混乱して、涙と鼻水が勝手にだらだらと流れる。

「大丈夫、純亜くん?」

 そう言って、ハンカチで涙を拭かれたのであるよ。

 わかるか!

 香織ちゃんが使ったハンカチで、拭かれたのであるよ?

 そのとき吸い込んでしまった匂いの記憶は、一生消えない。

 小学五年生という時代をなんだと思うか。

 諸君はお忘れか?

 あのころ、好きになった音楽、スポーツ、映画、本。

 今でもそれが、いちばん好きではないだろうか?

 ぼくは人権宣言のように宣言する。ぼくらは、小学五年生のときのぼくらに、支配されることを認めるものである。

 その生ける証拠がぼくである。ぼくの身長と体重は、ジャストあの時代のままだ。

 ああ。

 香織ちゃんは、ぼくに話しかけることによって、その笑顔によって、永遠に消えないものを、ぼくという人間の深い部分に刻んでしまった。

 誰にも絶対に消せない。

 ぼくは現在、三十三である。年齢的には立派なおじさんだ。

 が、そのおじさんは、十一歳のときの甘い記憶に、日々慰められているのである。

 甘くて、ほろ苦い。

 まるでビターチョコレートだ。

 その苦さとは、

「御子柴」

 修一の声。突然後ろから走ってきて、ぼくと香織ちゃんのあいだに割り込んできた。

 ヤなやつである。

 今から思えば、たんにわがままなガキだ。なんでも自分のものにしたがる。クラスの聖母がぼくにしゃべっているのが気に食わず、強引に奪いにきた。

 でも香織ちゃんは、性格がものすごくいいので、そんな修一にも優しかった。

 ぼくは二人からそっと離れた。

 たったの五分間。人生で最高の思い出。永遠の記憶。

 告白なんかできやしない。聖母にそれは畏れ多い。

 中学に上がってクラスが変わった。その一学期のこと。

 香織ちゃんと修一が、付き合っているという噂が聞こえてきた。

「修一が、無理やり抱きついたんだって。香織ちゃんはピュアだから、付き合わないといけないと思ったらしいよ」

 噂だった。真相はわからない。

 ただ痛かった。ただただ悲しかった。

「女子たちは、香織ちゃんが好きなのは、純亜だったって言ってるけど」

 そんなわけはない。ぼくは耳を塞いだ。

 ぼくは突然、ギターをやりたくなった。

 激しい音楽に心を惹かれた。ひずんだでかい音が安らぎになった。

 香織ちゃんを見ないようにして、中学時代を過ごした。そして高校が別になると、実際に一度も見なくなった。

 ぼくはギターを続けたが、プロになるような腕もなく、夢もないまま高校を卒業した。

 およそ三年ぶりに彼女の姿を見かけたのは、コンビニでだった。

 目が合って、思わず「あ」と声が洩れた。

「純亜くん」

 向こうもぼくがわかって、笑顔になった。

 おわかりか。

 再び心臓をつかまれたのである。

 香織ちゃんは、ますますキレイになっていた。ほかの子とは断然ちがった。

「変わらないのね、ちっとも」

 コロコロ笑う声に、また涙が出そうになるのをこらえた。ぼくの顔も身体もあのころと変わらないのは、きっと香織ちゃんに、心臓を射貫かれたからだよと思いながら。

 あの遠足の続きを、したかった。

 ふと、二人とも、無言になった。

(ぼくのことを好きだったっていう噂、もしかして、本当だったんじゃ……)

 そんなことがよぎったり、それをすぐさま打ち消したりした。

「わたしね」

 やがて香織ちゃんが言った。

「修一くんと結婚するの。式は来年」

「…………」

 ぼんやりしていた。香織ちゃんの顔、どうしてちっとも嬉しそうじゃないんだろう?

「あ、ごめん。えーと、おめでとう」

 慌てて言うと、香織ちゃんが目を伏せた。

「修一くんの強引さに負けちゃった。純亜くん、ごめんね」

「……ごめん?」

 香織ちゃんが伏せた目をあげたとき、そこに涙が光っているように見えた。

「握手しよ」

 両手を差し出してきた。ぼくは反射的に、その手を握った。

(わ、こんなことしていいのかな。子どもができたりしないかな? どうしよどうしよー)

「さようなら、純亜くん」

 あれから十五年。目の前に、そのときできた子どもが坐っている――