海賊船のそばに来た。

 ひんやりとした手すりに触れる。

「おい小宮、のぼってみろ」

 小宮が無言で階段に足をかけた。

 和樹は反対側の、幅の狭いはしごからのぼった。

 上に着くと、小宮は遠くを見ていた。

「あの水の下には」

 小宮が海を指差して言う。

「どれだけ多くの生き物がいるんでしょうね。地上の何倍とか、何十倍とかですかね」

 黒い海に目をやる。

「さあな。生物学者じゃないから知らん」

「ぼくは昔から、不思議なんですよ。どうして海には、あんなにたくさんの生き物がいるんだろうかって。しかもものすごく、奇妙な形のがいるじゃないですか」

「知らないよ」

「不思議じゃないですか?」

「そんなこと言ったら、なんでも不思議だよ。なんで地球があるのかだって」

「宇宙はどうしてあるんでしょうね」

「さあな」

「あの、村松さん」

「なんだよ」

「ぼく、いつか、こういう話を誰かとしたかったんです。ずっと前から。それがやっと、今日できました」

「なんの話だって?」

「宇宙です」

 情けなくなった。

 どこでまちがったんだろうと、また思った。

 ずっとこいつを、八つ裂きにしたかった。

 人生を棒に振っても、復讐したかった。

 でも自分が刑務所に入る気はなかった。だから計画を練った。

 ところが計画は狂った。小宮に殺させる予定だった子どもを、自分で殺すことになった。

 が――

 その、なにがなんでも苦痛を与えたかった相手と、なぜか海を見ながら宇宙の話をしている。

 風が休むことなく吹いている。

 赦そうか。

 ふと、そんな考えが降ってきた。

 とたんに胃液が逆流した。

 苦い酸を飲みくだす。

 どうしてそんなことを思う!

 せっかく仇(かたき)と二人っきりになったというのに。

 こいつに人間を感じてはならない。こいつは踏み潰すべき毒虫だ。毒虫を赦して、自分もまた神に赦してもらおうなどと、そんなふやけた考えに誘惑されてはならない。

「ああ、子どものころに帰って、もう一度海の家のラーメンを食べたいなあ」

 能天気な声を出した小宮を、にらみつける。

 と。

 海賊船の向こう端に、青白い顔が見えた気がした。

 さっと振り返る。顔は消えていた。

 気のせいか?

 が、残像はある。闇にぼうっと浮かんだ、やけに頬のこけた小さい顔が――

 ゾッとした。

 こんな時間に、人がいるはずがない。しかも振り向いたら、一瞬で消えた。

 あれは人間じゃない。

 死神だ。

 小宮を赦さず、死ぬまで殴るのを、手ぐすね引いて待っているのだ。

 もしかして、ずっと自分は、あいつに魅入られていたのだろうか?

「どうしたんですか?」

 小宮が顔を覗き込んでくる。

 心配そうな顔。

 殺人鬼の顔。友華を殺った――

 殴った。

 小宮がギャッと言い、尻餅をついた。

 その顎を蹴りあげる。

 後ろにひっくり返る小宮。ゴンという音が響く。

 小宮が頭を下にして、すべり台になっている坂をずり落ちていく。

 和樹も滑る。

 下は一面の砂だった。小宮はそこに落ちたまま、人形のように動かない。

 頬を叩く。反応がない。

 口のそばに手をやった。息をしていないようだ。

 気配。

 反射的に振り向く。

 縄ばしごの陰に、またしてもあの青白い顔。

 くそっ。あいつはずっと、ああやって見ているのだ。

 小宮の口に指を入れた。

 唾液がつく。おぞましい。それをこらえて、歯をこじ開けた。

 小宮がほうっと息をした。

 和樹もふうっと息をした。

 どうやら、一時的な脳震盪だったらしい。

 指についた唾液を、砂で何度もぬぐった。

   *   *   *

 記憶が飛んだ。

 憶えているのは、村松さんの険しい顔。次の瞬間、目の奥で火花が散った。

 夢らしきものを見た。

 陽射しの強い海岸にいた。波打ち際で、膝を抱えて坐る。

 波が寄せ、引いていく。尻の下の砂の動きが面白い。

「太陽はすごいよなあ」

 突然声がした。見上げる。海パン姿の村松さんが、腰に手を当てて立っていた。

「あんなに地球から離れてるのに、これほどの熱と光が届く。おい、小宮。このエネルギーのおかげで、おれもおまえも生きられるんだぞ」

「そうですね」

「今日一日生きる力を、太陽はくれるんだ。おれもおまえも、散々嫌なことがあったけど、今日またこうして生きている。太陽のおかげだと思わないか?」

「思います」

「不思議だよな」

「不思議ですね」

「おい、小宮」

「はい」

「水に流せるといいよなあ、この波みたいに」

「…………」

「百発殴って終わりにしよう。それでいいか?」

「はい、お願いします」

「よーし、いくぞ。娘を返せ! この変態野郎!」

 村松さんがのしかかってきた。

 ポカポカと立てつづけに殴られた。よけようとしても、砂に身をとられて動けない。

 でもそれほど痛くない。案外村松さんは力がないな、と思って見ると、村松さんは泣いていた。

 ちょうど百発で攻撃は終わった。

 村松さんが波打ち際に坐る。その隣に坐った。

「もういいんですか?」

「なにが」

「もっと殴っていいんですよ」

「疲れた。あとは純とやらを殺す」

「え? 約束がちがいますよ」

「やっぱり流せないよ。友華に申し訳ない」

「だから純を?」

「それしか終わりにする方法はないよ」

 村松さんと並んで太陽を浴びる。今こそ、あの疑惑を話すときだ。

「あの、村松さん」

「なんだ?」

「友華ちゃんの事件があったのも、こういう暑い日だったですよね」

「八月のな、気が狂いそうに暑い日だった」

「あれは、ぼくにとっては夏休みでした。世間にとってはなんでしたか?」

「……意味がわからん」

「お盆でしたよね? 一般的な会社は休みになる。だから村松さんも、一日中家族と過ごして、一緒にスーパーに買い物に行ったんじゃないですか?」

 村松さんが首を捻る。真剣に考えている。

 次の瞬間、

「おまえ、なにを言うつもりだ!」

 再びのしかかってきた。そして砂だらけの手を、ぐいぐい口に押し込んできた。

 救けて!

 叫ぼうとしたとき、意識が戻った。