村松さんに握られた肘に、しばらく感触が残った。

 友華ちゃんの父。

 多美さんの愛人。

 母を殺した復讐者。

 間近で見たその男の顔に、衝撃が走る。前に飛び出した鼻、横に大きく裂けた口、尖った牙、頬を覆い尽くすヒゲ――まるで狼じゃないか!

 狼が、清伸のすぐ横で、ハンドルを握っている。

 まるで現実感がない。

 どこへ行くのだろう。

 とにかく、純を殺させないことだ。

 なにか言わなければ。

「あの……さっきはすみません」

 狼は、フロントガラスをにらみつけている。

「突然あんな場所で、土下座なんかしまして。もっと前に、きちんと謝罪すべきでした」

 狼がこっちを向く。

「うるせえ! 殺すぞ!」

   *   *   *

 車を土手道に上げた。

 川沿いの一本道。夜中には、人も車もほとんど通らない道。

 助手席でビクビクしている小宮。

 まるで小動物のよう。脅えたネズミみたいだ。

 もしこいつが、罪を悔い改めていたら?

 心を入れ替えていたら?

 死んだあと、天国に行くのか?

 冗談じゃねえ!

「おい、小宮」

「は、はい」

「おまえ裁判のとき、嘘をついたろう」

「――え?」

「全部正直に言ってないだろう。ここならおれと多美しかいない。正直に言ってみろ」

「…………」

「友華を殺した動機はなんだったんだ? いたずらしようとして騒がれたんで、気が動転して首を絞めたと言ったらしいな」

「……はい」

「ちがうだろう? 元々殺す予定だったんだろう? 顔を見られた友華を帰す気なんか、最初からなかったんだろう?」

「ちがいます」

「隠さなくてもいい。裁判のやり直しはないんだ。刑務所に入り直すこともない。全部しゃべってスッキリしたらどうだ」

「はい。そうします」

 小宮を見た。まともに目が合う。

 和樹は顔を背けた。

「正直に言います。裁判では自分が殺したと嘘をついてしまいましたが、ぼくにはとてもそんなことはできません。あれをやったのは、ぼくの家から逃げた友華ちゃんをたまたま見つけた、平気で人を殺すことができる人間だったんです」

 決まった。こいつは地獄行きだ。

 車を停めた。小宮を車から引きずり出し、気を失うまでぶん殴ってやる。

「やめなよ、和さん」

 後ろで多美の声がした。

「土手の下には家が並んでるんだから、ここで大きな声でも出したら、あっという間に警察が来るわよ」

 そのとおりだった。多美にはいつも助けられる。

 よし、もう海に行こう。

 ケリをつけてやる。

   *   *   *

 車が土手道を降りた。どこへ行くのだろう。

 もしかすると、森の奥にでも連れ込まれて、木に縛りつけられ、目の前で純をなぶり殺されるんじゃなかろうか――

「あの、村松さん」

「なんだ」

「ぼくをめちゃくちゃに殴ってください」

「言われなくてもやるよ」

「本当は、村松さんには、十五年前にそうされるべきだったんです。刑期を務めたからって、そこから逃げてはいけないんだと今わかりました。どうか誰もいないところへ行って、思う存分やってください」

 沈黙。それが五分も続いたころ、村松さんが言った。

「潮の匂いがしてきた」

「……え?」

「窓から匂ってくるだろ。海が近いんだよ。おれはこの匂いを嗅ぐと、子どものころを思い出すんだ。海水浴が好きで、よく連れて行ってもらったからな」

 急に打ち解けた話をされて、どぎまぎした。

 村松さんの気分に、なにか変化があったのだろうか?

 ともかく清伸は、

「あ、ぼくも大好きでした。波打ち際でじーっとしてると、時間が経つのも忘れちゃって」

「なんでじっとしてるんだ。泳げよ」

「海で泳ぐのって、怖くないですか?」

「なにが?」

「なんか、水が多すぎて」

「そりゃ海だからな」

「でも泳がなくても、お腹がすごくすくんですよね。ぼくは海の家でラーメンを食べるのが楽しみでした」

「おれもよく食ったよ」

「何ラーメンですか?」

「味噌」

「いいですね。ぼくは塩です」

「塩? あんなもの、ラーメン食った気がしないだろう」

「母が好きだったんですよ。父は必ず醤油で。いや懐かしいなあ。潮の匂いが強くなってきましたね。ぼくは海は好きだけど、このへんに住もうとは思わないですね。服とか家の中とかが、全部この匂いになっちゃいそうで」

「おい、小宮」

「はい?」

「この先に、臨海公園ってのがあるのを知ってるか?」

「いえ、知りません」

「海賊船があるんだよ」

「公園に、船が?」

「船の形をした遊具だ。昼間来れば、たくさん女の子が遊んでるのを見られるぞ。もしおまえらの子が死んだら、ここに見に来ればいいよ」

「…………」

「でも夜には誰も来ない。泣いても叫んでも人に聞かれることはない。今からそこで、おまえをぶん殴る」