同棲一日目。
多美さんのアパートはきれいだった。少しだけ、煙草が匂った。
「買い物に行ってくるから、純を見てて」
生後半年の女の子と、二人で残された。
寝顔に吸い寄せられる。透きとおるような唇の薄い皮膚を、目を近づけて見た。
甘い息を嗅いだ。
やっぱり幼女はいい。
この世で最高の生き物だ。
と、純が急に泣きだした。
おしっこだろうか?
おむつの上から局部に手を触れてみた。濡れているかどうかは、わからない。
おむつをゆっくりと外した。黄色いうんちをしていた。
おむつ拭きを取ってきて、優しく拭いた。何度も何度も、丁寧に。
ドアのあく音がして、ビクッと振り返った。多美さんが帰ってきたのだ。
ああ……二人っきりの時間が、終わってしまった。
「ねえ」
多美さんに言った。
「ぼく、専業主夫になってもいい?」
「主夫? 結婚して、籍入れたいの?」
「そういうことじゃなくって、子育てに専念したいんだ」
「バイトを辞めたら、賠償金の送金ができないんじゃなかった?」
「せめて、純ちゃんが幼稚園に入るまでは、ちゃんと育てたい。だから」
「わかったわ。わたしが働くから、キーくんが育児に専念してね」
* * *
多美さんは、母乳をあげなかった。
清伸がミルクを作った。
離乳食も作った。
お歌を聴かせ、抱っこであやした。
夜泣きをすると、純をおんぶひもで担いで散歩に出た。
多美さんは仕事から帰ってくると、テレビばかり観ていた。
お風呂に入れるのも、一緒に寝るのも、すべて清伸がする。
* * *
三年が経過し、純は三歳半になった。
ふと、友華ちゃんと同い年になったな、と思った。
* * *
純の首を絞める夢を見た。
そうすれば、永遠に、純は三歳のまま。
八月の中頃の、土曜日の朝だった。
起きると、布団に純がいなかった。
トイレかと思ったらちがった。多美さんの布団にもぐったかと思って見に行ったら、多美さんもいなかった。
多美さんが純を連れてどこかに行ったらしい。伝言もなく、朝七時に。こんなことは、かつて一度もなかった。
携帯に電話した。何度も何度もかけた。多美さんは出ない。
まさか――家出?
タンスの抽斗を開けた。ない。普段はそこにしまってある、カメオが。
あれは多美さんが、昔イタリア旅行に行ったときに買ったもので、それがいちばんの宝物だと言っていた。その貴婦人の横顔のカメオがない。
やられた。
男ができて、そっちに走ったのだろうか?
ふと、三年前に一度だけ会った、勝間田章吾の顔が浮かんだ。
あの男は明らかに、多美さんを知っていた。もしかすると、今度の家出につながるようなことも、知っているかもしれない。
名刺を探して電話をかけた。
「はい、勝間田です」
出てくれた。
「小宮清伸です。以前取材の依頼を受けました、村松友華ちゃん事件の犯人です」
「ああ」
勝間田が、意外そうな声をあげた。
「取材にはなんでも答えます。その代わり、教えていただきたいことがあるのです」
「もしかして、海野多美さんのこと?」
やはりなにかを知っていたのか、すぐに言った。
「そうです。彼女が家出したんです。三歳の子を連れて」
「きみと、海野さんのあいだに……子ども?」
「いえ、その子は連れ子というか、シングルマザーの彼女と出会って、三年前から同棲していたんです」
「…………」
勝間田が考え込むように、しばらく沈黙した。
やがて、
「あの、小宮くん。身体の調子はおかしくない?」
「え、ぼくですか? 全然」
「そうか。ひょっとして、砒素でも盛られてるんじゃないかと心配してたけど」
「……どういうことですか?」
「きみは、海野多美さんを愛しているの?」
「え……それはまあ、はい」
「すぐに別れて逃げなさい。殺される前に」
「殺される?」
「海野さんは村松和樹氏の愛人だよ。友華ちゃんの父親の」
「ええっ?」
勝間田の声が、急に遠くなったように感じた。
「彼は残酷な男だ。きみの母親も、手紙で追いつめて自殺させたそうじゃないか。そういう彼だからこそ、自分の愛人も平気できみに差し出せたんだ。村松氏と海野さんは、あの事件前から付き合っていて、村松氏が離婚するとすぐにくっついた。まるであの事件を、いいきっかけにしたみたいにね」
そういうことがあったのかと、清伸は初めて知った。
「海野さんの連れ子というのは、女の子?」
「……はい」
「二人の子なのかな。それはきっと、生け贄だよ」
「生け贄?」
「村松氏は、きみに対する復讐を考えていた。もしきみが、成人になって二度目の殺人を犯せば、今度こそ必ず死刑になる。そう考えて、幼女と二人きりになる環境を作りあげたんだよ」
「そんな」
思わず、声が裏返った。
「ぼくはそもそもやってないし、それに純のことは、本当に愛してるんだ。そんなこと、絶対にするわけがない!」
「まあまあ。だから彼の復讐計画っていうのは、その程度のものだったんだ。杜撰で誤算だらけ。しかしそれがうまくいかなかったとすると、今度は強引な手段に出てくる危険がある。彼の報復感情は、強烈だからね」
「……例えば、どんなことを?」
「そうだな。村松氏はあくまで完全犯罪を目指してたから、自分が殺人罪で捕まるようなことはするまい。事故を装うだろう。あ、そうだ!」
「なんですか?」
「大人を事故に見せかけて殺すのは難しい。しかし子どもなら、簡単に殺せる」
「どういうことでしょう?」
「その子は元々、きみに殺させるつもりだった。ところが逆に、まるでわが子のように愛するようになったのを、海野さんは知った。そこで計画を変更し、その子を事故を装って殺すことにした」
「どうして純を?」
「三歳の娘を突然殺された父親と同じ苦しみを、きみにも味わってもらう。村松氏なら、きっとそう考えるだろうね」
「なんてことを……」
純が死ぬ。そんなこと、あってたまるもんか。
「おそらく彼は、決して証拠の残らない方法でやるだろう。とにかく相手は正気じゃない。警察に相談するか?」
「いえ」
即座に言った。
「警察は、なにかあってからでなくては動きません。純を殺させないためには、ぼくが直接交渉するしかないんです」
「危険だぞ」
「いつかは会わなくちゃいけない人だったんです。ぼく自身は殺されても文句は言えないけど、純の命だけは、救けたい」
「そうか」
電話を切った。いよいよそのときが来た。
友華ちゃんの父親と会う。
ずっと弁護士に止められていた。警察にも警告された。
が、今や清伸には、村松和樹と交渉できるカードがあった。
それは、ほんのかすかな、疑惑程度にすぎなかったけれど。
携帯で、多美さんにメールを送った。
多美さん。
彼氏が、村松和樹さんであることを知りました。
ぼくが純を殺すのを待っていたこと、そしてぼくにその徴候がないので、三歳の娘を殺された父親と同じ苦しみを味わわせようとしていることも、知っています。
それを実行する前に、どうか村松さんと交渉させてください。ぼくはどうなっても構いません。どうかこの携帯に、電話をくださるようお願いします。
待った。一時間。二時間。三時間。
夕方になった。五時。電話の着信音。出る。
「小宮か」
心臓も凍るような、冷たい声。
「おまえ、この電話を録音してるか?」
まず第一に、謝ろうと思っていた。しかしいきなり質問されて頭が真っ白になり、すみませんの一言が出なかった。
「……録音は、してません」
「どうだかな。おれたちのことは、勝間田から聞いたのか?」
「……はい」
「で、どうした? 警察か弁護士に言ったか」
「いえ、誰にも言ってません」
「嘘つけ!」
恫喝に、背すじまで痺れる。
「おれと交渉したいとは、どういう意味だ」
「あの、純の命と引き換えに、ぼくを差し出そうと」
「はあ?」
憎々しげに唇を歪めた顔が、見えるようだった。
「なあ、小宮。おまえとは一度話したかったんだ。あとでそっちへ行くから待ってろ。ドライブでもしようぜ」
電話が切れた。
深夜一時まで待ったとき、チャイムが鳴った。
ドアの外に立っていたのは、多美さんだった。
もう二度と会えないのかな、と思っていたので、胸が詰まった。
「ごめん」
出てきたのはそれだった。
「純のことばっかり考えて、多美さんをほったらかしちゃって。ちっとも幸せにしなかった。ぼくはこんなに幸せにしてもらったのに。ほんとにごめん」
「ばかな人」
多美さんはそう言うと、くるっと背を向けた。
多美さんのあとから階段を降りる。駐車場にシルバーのフィアット500。後部座席のチャイルドシートで、純が寝ているのが見えた。
「あ、純。生きてるの?」
「寝てるだけよ」
運転席に、男の横顔がちらっと見えた。
この人が、村松和樹――
気がつくと、アスファルトに膝をついていた。
「ごめんなさい!」
土下座した。
すると運転席のドアが開き、痛いほど腕を引っ張られた。
「目立つことすんじゃねえ。早く車に乗れ!」
『ぼくと手をつないだら、子どもができちゃうよ』
不思議な超能力者に連れられて、多美が探偵事務所に行くと、頭のおかしなチビがそう言ったらしい。
が、しばらくすると、多美は本当に身籠った。相手が誰かなんてことは知らない。
運よく女が生まれた。計画どおりだ!
女児を差し出して、自由にできる環境をつくれば、小宮は必ずイタズラをする。
そしてバレることを恐れて、いつかは殺す。
和樹はそう信じていた。
ああいうやつの性癖は治らない。刑務所に行ったくらいで決して反省なぞしない。だから必ずやる。そうしたら今度こそ死刑だ。
ところが多美のほうが、待てなくなった。
「もう無理」
電話で訴えてきた多美に、和樹は待てと言った。
「絶対に小宮はやる。あともう少しだけ待つんだ」
「嫌よ」
多美はきつい口調で言った。
「あれはただのいいパパよ。一緒に住んでるわたしのほうが、和さんよりよっぽどわかってるから。それより最近純が、色々わかるようになってきたの。死なせるんなら早くして。これ以上大きくなったら、わたし、つらすぎるかも」
「……わかった」
ある程度予想はしたことだが、多美に母娘(おやこ)の情が生まれてきている。仕方がない。子どもは処分しよう。
すっかりパパ気分でいる小宮に、死体をプレゼントしてやる。
そうだ。愛する娘を突然殺される苦しみを、あいつにも味わわせてやるのだ。復讐としては物足りないが、今回はこれで我慢してやる。
子どもの次は、おまえだ、小宮。
これはそういうメッセージになる。純の死体を見た小宮は、この先一生、復讐の手が自分に伸びることを恐れて、毎日ビクビク脅えて暮らすことになるのだ。
和樹はそう決めて、電話で多美に言った。
「折を見てこっちのアパートへ来い。人に見られないように注意してな。おまえは同棲相手に嫌気が差して、子どもを連れて家出した。そういうことにするんだ」
「……それで?」
「ノイローゼになったおまえは、海が見たくなって堤防に坐り込む。気がつくと子どもの姿がない。誤って海に落ちたってわけさ」
「わたしが落とすの?」
「いや、おれがやる」
「……捕まらない?」
「目撃者さえいなければ大丈夫だ。そこのところは、おまえがしっかり見といてくれ」
八月の第二土曜日の深夜に決行となった。その日の昼前、多美の携帯に、小宮からのメールが入った。
〈多美さん。彼氏が、村松和樹さんであることを知りました〉
舌打ちが出た。くそっ。勝間田の野郎だ。きっとあいつが、余計なことをしゃべったにちがいない。
小宮に会って、とことん恐怖を植えつけなければ。
幼女の溺死に関して、もし警察におかしなことを言ったら、どれほどの苦痛が待っているか――そいつを骨身に沁みてわからせてやる。
もうすぐ小宮に会う。ついに、あの野郎と……
二十三時。アパートを出る予定時刻の一時間前になったとき、和樹は玄関に立った。
「どこに行くの?」
「どうも落ち着かなくてな。ちょっと外の空気を吸ってくる」
当てもなく歩く。目の前を、小宮の母親の顔がちらつく。電車に飛び込んで自殺した、無責任な女の顔が。
「くそっ。おれのせいじゃねえぞ。あいつは勝手に死んだんだ」
気がつくと、どういうわけか、教会の前に立っていた。
牧師を殴ったのが、つい昨日のことのように思える。
あれで和樹は、ローマ法王にクソを投げつけようと思い、イタリア旅行を計画したのだ。
イタリアではカメオを買い、多美を小宮への復讐に引きずり込んだ。多美もまた、地獄行き決定か――
「くそっ。神様がなんだ。おれの悲しみを知らないくせに、罰だけ下そうってのか。おれは神なんて恐くねえぞ!」
アパートに戻ったときは、深夜零時をとっくに過ぎていた。
小宮に会うことや、子どもを殺すことを考えると、歩く足がどうしても遅くなったのだ。
アパートの駐車場に目をやる。すると、シルバーのフィアット500に、もう多美が乗っていた。
運転席に乗り込んで、後部座席を振り返って言う。
「ガキも乗せたのか。おれが帰ってくるのを待てなかったのか?」
「和さんと同じよ。和さんの部屋にいても落ち着かないから、外の空気を吸いに出たのよ」
「誰にも見られてないだろうな?」
「ええ」
「そのスポーツバッグはなんだ?」
「家出を装うんだから、適当に荷物を入れたの」
するとスポーツバッグが、小刻みに揺れた。
「ん?」
猫でも入ってるのか、と一瞬思ったが、そんなはずはない。ただ多美の足がバックに当たって、動いたように見えただけだろう。
車を発進させて、小宮のアパートに向かった。深夜一時。多美が車を降りて階段を昇っていき、やがて小宮を連れて階段を降りてきた。
と、駐車場に小宮が這いつくばり、大きな声を出した。
「ごめんなさい!」
人目につきたくなかった。急いで手を伸ばし、小宮の腕をとった。
「目立つことすんじゃねえ。早く車に乗れ!」
おぞましさに震えが起こる。
友華を殺した野郎の肌に、触れてしまった。
村松さんに握られた肘に、しばらく感触が残った。
友華ちゃんの父。
多美さんの愛人。
母を殺した復讐者。
間近で見たその男の顔に、衝撃が走る。前に飛び出した鼻、横に大きく裂けた口、尖った牙、頬を覆い尽くすヒゲ――まるで狼じゃないか!
狼が、清伸のすぐ横で、ハンドルを握っている。
まるで現実感がない。
どこへ行くのだろう。
とにかく、純を殺させないことだ。
なにか言わなければ。
「あの……さっきはすみません」
狼は、フロントガラスをにらみつけている。
「突然あんな場所で、土下座なんかしまして。もっと前に、きちんと謝罪すべきでした」
狼がこっちを向く。
「うるせえ! 殺すぞ!」
* * *
車を土手道に上げた。
川沿いの一本道。夜中には、人も車もほとんど通らない道。
助手席でビクビクしている小宮。
まるで小動物のよう。脅えたネズミみたいだ。
もしこいつが、罪を悔い改めていたら?
心を入れ替えていたら?
死んだあと、天国に行くのか?
冗談じゃねえ!
「おい、小宮」
「は、はい」
「おまえ裁判のとき、嘘をついたろう」
「――え?」
「全部正直に言ってないだろう。ここならおれと多美しかいない。正直に言ってみろ」
「…………」
「友華を殺した動機はなんだったんだ? いたずらしようとして騒がれたんで、気が動転して首を絞めたと言ったらしいな」
「……はい」
「ちがうだろう? 元々殺す予定だったんだろう? 顔を見られた友華を帰す気なんか、最初からなかったんだろう?」
「ちがいます」
「隠さなくてもいい。裁判のやり直しはないんだ。刑務所に入り直すこともない。全部しゃべってスッキリしたらどうだ」
「はい。そうします」
小宮を見た。まともに目が合う。
和樹は顔を背けた。
「正直に言います。裁判では自分が殺したと嘘をついてしまいましたが、ぼくにはとてもそんなことはできません。あれをやったのは、ぼくの家から逃げた友華ちゃんをたまたま見つけた、平気で人を殺すことができる人間だったんです」
決まった。こいつは地獄行きだ。
車を停めた。小宮を車から引きずり出し、気を失うまでぶん殴ってやる。
「やめなよ、和さん」
後ろで多美の声がした。
「土手の下には家が並んでるんだから、ここで大きな声でも出したら、あっという間に警察が来るわよ」
そのとおりだった。多美にはいつも助けられる。
よし、もう海に行こう。
ケリをつけてやる。
* * *
車が土手道を降りた。どこへ行くのだろう。
もしかすると、森の奥にでも連れ込まれて、木に縛りつけられ、目の前で純をなぶり殺されるんじゃなかろうか――
「あの、村松さん」
「なんだ」
「ぼくをめちゃくちゃに殴ってください」
「言われなくてもやるよ」
「本当は、村松さんには、十五年前にそうされるべきだったんです。刑期を務めたからって、そこから逃げてはいけないんだと今わかりました。どうか誰もいないところへ行って、思う存分やってください」
沈黙。それが五分も続いたころ、村松さんが言った。
「潮の匂いがしてきた」
「……え?」
「窓から匂ってくるだろ。海が近いんだよ。おれはこの匂いを嗅ぐと、子どものころを思い出すんだ。海水浴が好きで、よく連れて行ってもらったからな」
急に打ち解けた話をされて、どぎまぎした。
村松さんの気分に、なにか変化があったのだろうか?
ともかく清伸は、
「あ、ぼくも大好きでした。波打ち際でじーっとしてると、時間が経つのも忘れちゃって」
「なんでじっとしてるんだ。泳げよ」
「海で泳ぐのって、怖くないですか?」
「なにが?」
「なんか、水が多すぎて」
「そりゃ海だからな」
「でも泳がなくても、お腹がすごくすくんですよね。ぼくは海の家でラーメンを食べるのが楽しみでした」
「おれもよく食ったよ」
「何ラーメンですか?」
「味噌」
「いいですね。ぼくは塩です」
「塩? あんなもの、ラーメン食った気がしないだろう」
「母が好きだったんですよ。父は必ず醤油で。いや懐かしいなあ。潮の匂いが強くなってきましたね。ぼくは海は好きだけど、このへんに住もうとは思わないですね。服とか家の中とかが、全部この匂いになっちゃいそうで」
「おい、小宮」
「はい?」
「この先に、臨海公園ってのがあるのを知ってるか?」
「いえ、知りません」
「海賊船があるんだよ」
「公園に、船が?」
「船の形をした遊具だ。昼間来れば、たくさん女の子が遊んでるのを見られるぞ。もしおまえらの子が死んだら、ここに見に来ればいいよ」
「…………」
「でも夜には誰も来ない。泣いても叫んでも人に聞かれることはない。今からそこで、おまえをぶん殴る」
和樹は舌打ちした。
つい小宮と、おしゃべりなんぞをしてしまった。
狭い車内で並んで坐っているせいだ。だからおかしな気分になる。さっさとドライブを終わろう。
海賊船が見えてきた。
だだっ広い駐車スペースに車を駐める。ほかに車は一台もない。エンジン音が止まると、完璧な静寂が来た。
「人っ子一人いないな。公園をおれたちで独占だ。さあ降りるぞ」
小宮に言ってから、後ろを振り返る。
「どうする? おれたちは公園で遊んでるけど、多美はあっちに散歩にでも行くか」
海に突き出た堤防のほうを顎で示す。
多美がじっと和樹を見返す。
いよいよ子どもを殺す。その覚悟ができた、いい顔をしている。
多美はうなずいて、
「和さんが偵察して、よさそうだったら電話して。そしたら行くから」
「わかった」
キーを多美に渡して、車を降りた。
と、風を全身に感じた。
爽やかな八月の夜の風。
その潮っぽい匂いを吸い込んで、またしても子ども時代を想った。
あのころは、良かった。
不安も怖れも憎しみも、なんにもなかった。
小宮が助手席から降りてきた。
おやと思った。顔に怯えがない。
こいつもまた、覚悟の決まった顔をしている。
さあ殺してくださいと、言っているように見えた。
「本当だ。船だ」
妙に明るい声。和樹はつられてそっちのほうを見、
「おまえ、駆けっこは得意か?」
「ビリしかとったことありません」
「でもまだ三十そこそこだろ。五十近いおれよりは、いくらなんでも速いだろう」
「遅い自信はあります」
「逃げてもいいんだぞ」
「そしたら純はどうなります?」
「さあな。夜は暗くて危険だ。母親がちょっと目を離した隙に、どんな事故が起こるかわからない。もし海に落ちたら、救かるのはまず無理だろうな」
「村松さん、それは殺人です」
「だから?」
「警察に話します」
「ならおまえも事故に遭うよ、必ず」
「ぼくは死ぬまで殴ってもらっていいんです。だけど、純には触れないでください」
「おまえが頼む立場か。天にでも祈ってろ」
公園の入口に向かった。小宮がついてくる。
晴れた星空が広がっている。その下を、娘を殺した男と歩いている。
陸風が、服の隙間を抜けていく。
公園に足を踏み入れる。軟らかい砂の感触。
不意に、友華を初めてここに連れてきたときのことを思い出した。
強い風に吹かれた砂粒が顔を襲い、
『お砂パチパチ痛い!』
と叫んで、それ以来友華はここを、お砂パチパチの公園と呼ぶようになった。
『砂が目に入らないようにして、あのお船にのぼってごらん。高いところに行ったら、お砂は来ないよ』
『パパ、抱いてのぼって。恐い』
三歳の娘を左腕に抱き、右手で手すりを握って海賊船にのぼった。
あれは面白かった。
公園で遊ぶ楽しさを、三十過ぎて再発見した。
そうだ。あのとき思ったのだ。幸せとはすなわち、自分の子どもと公園で遊ぶことなのだと。
それなのに、愛人に走った。たまたま街で知り合った、海野多美に溺れた。
いったいどこで、なにをまちがったのだろう?
* * *
「純さん」
多美さんの声がして、スポーツバッグのチャックが開けられた。
「ふう」
ぼくはようやく大きく息をついた。ずっと折り曲げていた首の後ろが、ミシミシと鳴る。
「二人は出て行ったわ。ひとまず純は大丈夫よ」
「良かった」
バッグからそっと腕を抜き、脱皮をするように上半身を出した。
「二人を尾行して。たぶん、年上のほうが年下のほうを殴るけど、もしやりすぎて殺しそうになったら、うまく止めて」
「任務変更だね」
「できる?」
「そりゃまあ、探偵だから」
車を降りて歩く。
陸風が心地良い。
さて、どこに身を隠して二人の男に近づこうかと考えていると、子どものころによくやった、公園でのかくれんぼを思い出した。
海賊船のそばに来た。
ひんやりとした手すりに触れる。
「おい小宮、のぼってみろ」
小宮が無言で階段に足をかけた。
和樹は反対側の、幅の狭いはしごからのぼった。
上に着くと、小宮は遠くを見ていた。
「あの水の下には」
小宮が海を指差して言う。
「どれだけ多くの生き物がいるんでしょうね。地上の何倍とか、何十倍とかですかね」
黒い海に目をやる。
「さあな。生物学者じゃないから知らん」
「ぼくは昔から、不思議なんですよ。どうして海には、あんなにたくさんの生き物がいるんだろうかって。しかもものすごく、奇妙な形のがいるじゃないですか」
「知らないよ」
「不思議じゃないですか?」
「そんなこと言ったら、なんでも不思議だよ。なんで地球があるのかだって」
「宇宙はどうしてあるんでしょうね」
「さあな」
「あの、村松さん」
「なんだよ」
「ぼく、いつか、こういう話を誰かとしたかったんです。ずっと前から。それがやっと、今日できました」
「なんの話だって?」
「宇宙です」
情けなくなった。
どこでまちがったんだろうと、また思った。
ずっとこいつを、八つ裂きにしたかった。
人生を棒に振っても、復讐したかった。
でも自分が刑務所に入る気はなかった。だから計画を練った。
ところが計画は狂った。小宮に殺させる予定だった子どもを、自分で殺すことになった。
が――
その、なにがなんでも苦痛を与えたかった相手と、なぜか海を見ながら宇宙の話をしている。
風が休むことなく吹いている。
赦そうか。
ふと、そんな考えが降ってきた。
とたんに胃液が逆流した。
苦い酸を飲みくだす。
どうしてそんなことを思う!
せっかく仇(かたき)と二人っきりになったというのに。
こいつに人間を感じてはならない。こいつは踏み潰すべき毒虫だ。毒虫を赦して、自分もまた神に赦してもらおうなどと、そんなふやけた考えに誘惑されてはならない。
「ああ、子どものころに帰って、もう一度海の家のラーメンを食べたいなあ」
能天気な声を出した小宮を、にらみつける。
と。
海賊船の向こう端に、青白い顔が見えた気がした。
さっと振り返る。顔は消えていた。
気のせいか?
が、残像はある。闇にぼうっと浮かんだ、やけに頬のこけた小さい顔が――
ゾッとした。
こんな時間に、人がいるはずがない。しかも振り向いたら、一瞬で消えた。
あれは人間じゃない。
死神だ。
小宮を赦さず、死ぬまで殴るのを、手ぐすね引いて待っているのだ。
もしかして、ずっと自分は、あいつに魅入られていたのだろうか?
「どうしたんですか?」
小宮が顔を覗き込んでくる。
心配そうな顔。
殺人鬼の顔。友華を殺った――
殴った。
小宮がギャッと言い、尻餅をついた。
その顎を蹴りあげる。
後ろにひっくり返る小宮。ゴンという音が響く。
小宮が頭を下にして、すべり台になっている坂をずり落ちていく。
和樹も滑る。
下は一面の砂だった。小宮はそこに落ちたまま、人形のように動かない。
頬を叩く。反応がない。
口のそばに手をやった。息をしていないようだ。
気配。
反射的に振り向く。
縄ばしごの陰に、またしてもあの青白い顔。
くそっ。あいつはずっと、ああやって見ているのだ。
小宮の口に指を入れた。
唾液がつく。おぞましい。それをこらえて、歯をこじ開けた。
小宮がほうっと息をした。
和樹もふうっと息をした。
どうやら、一時的な脳震盪だったらしい。
指についた唾液を、砂で何度もぬぐった。
* * *
記憶が飛んだ。
憶えているのは、村松さんの険しい顔。次の瞬間、目の奥で火花が散った。
夢らしきものを見た。
陽射しの強い海岸にいた。波打ち際で、膝を抱えて坐る。
波が寄せ、引いていく。尻の下の砂の動きが面白い。
「太陽はすごいよなあ」
突然声がした。見上げる。海パン姿の村松さんが、腰に手を当てて立っていた。
「あんなに地球から離れてるのに、これほどの熱と光が届く。おい、小宮。このエネルギーのおかげで、おれもおまえも生きられるんだぞ」
「そうですね」
「今日一日生きる力を、太陽はくれるんだ。おれもおまえも、散々嫌なことがあったけど、今日またこうして生きている。太陽のおかげだと思わないか?」
「思います」
「不思議だよな」
「不思議ですね」
「おい、小宮」
「はい」
「水に流せるといいよなあ、この波みたいに」
「…………」
「百発殴って終わりにしよう。それでいいか?」
「はい、お願いします」
「よーし、いくぞ。娘を返せ! この変態野郎!」
村松さんがのしかかってきた。
ポカポカと立てつづけに殴られた。よけようとしても、砂に身をとられて動けない。
でもそれほど痛くない。案外村松さんは力がないな、と思って見ると、村松さんは泣いていた。
ちょうど百発で攻撃は終わった。
村松さんが波打ち際に坐る。その隣に坐った。
「もういいんですか?」
「なにが」
「もっと殴っていいんですよ」
「疲れた。あとは純とやらを殺す」
「え? 約束がちがいますよ」
「やっぱり流せないよ。友華に申し訳ない」
「だから純を?」
「それしか終わりにする方法はないよ」
村松さんと並んで太陽を浴びる。今こそ、あの疑惑を話すときだ。
「あの、村松さん」
「なんだ?」
「友華ちゃんの事件があったのも、こういう暑い日だったですよね」
「八月のな、気が狂いそうに暑い日だった」
「あれは、ぼくにとっては夏休みでした。世間にとってはなんでしたか?」
「……意味がわからん」
「お盆でしたよね? 一般的な会社は休みになる。だから村松さんも、一日中家族と過ごして、一緒にスーパーに買い物に行ったんじゃないですか?」
村松さんが首を捻る。真剣に考えている。
次の瞬間、
「おまえ、なにを言うつもりだ!」
再びのしかかってきた。そして砂だらけの手を、ぐいぐい口に押し込んできた。
救けて!
叫ぼうとしたとき、意識が戻った。
目を開けると夜だった。
満天の星空と、海賊船。
ああ。さっきのは、夢だったんだな。
横に村松さんがいた。夢とちがって服を着ている。でも砂の上に坐っているのは夢と同じだった。
村松さんは砂をいじりながら、小声で鼻歌を唄っていた。
まるで子どもみたいだな、と思った。
清伸は、寝転がったまま訊いた。
「なんの歌ですか?」
村松さんが、ちらりと一瞥をくれた。
「正義はいいねーって歌だよ。なんだか疲れちまった」
村松さんは手についた砂を払い、ため息をつくと、
「なんかさ、なにかに見られてるような気がするんだよ。死神だか神だか。そんなのが、本当にいるのかどうかも知らんが」
立ち上がって、空を見上げる。
清伸も同じ空を見た。
満月が、蒼白く光っていた。
「おまえを赦す気はない。が、とりあえず復讐は中止してやる。決意が鈍った」
どう返事をしていいのかわからない。
世間の誰もが赦さない幼女殺人犯を、村松さんは見逃してくれた。
こんな人が、ほかにいるだろうか。
「あっちの突堤で」
村松さんが指差す。
「誰も見てないことを確認して、子どもを落とす予定だった。でもやめた。さて、元々おまえに殺させるつもりで多美に産ませたあれを、どうするか。おまえにくれてやる義理はないし、おれにとっては邪魔なだけだ。なにかいい考えはないかな」
* * *
「あの、その話、ベンチでしませんか」
小宮が言った。反対する理由もないので、そうした。
「今夜は満月ですね」
くだらないことを言う。
「それがどうした」
「ぼくがあの事件を起こしたときも、満月でした」
「よく憶えてるな」
「八月の半ばだったんです。ぼくは夏休みの最中で、世間でもお盆休みと呼ばれて会社などが休みになる時期でした」
「だから?」
「盲点だったと思うんです。一つの町に、二人も変質者がいるわけない。幼女を誘拐したやつがいたら、女の子を殺したのも、そいつにちがいないっていう」
「なにが言いたい?」
「いたんですよ、もう一人。でもその人は変質者じゃない」
小宮の顔を見た。その瞬間、初めて思った。
こいつは案外、バカじゃない。
「ぼくには誘拐する動機はあっても、殺す動機はありません。そして、その一線を越えることは、どうやってもできない人間なんです。だけど、それを知っているのはぼくだけです。ぼく以外の人すべては、実際に女の子が殺されてるんだから、小宮清伸はそういうことのできる人間だと思い込んだのです。だから、ほかに犯人がいるかもしれないなんてことは、考えもしなかった」
「証拠はどうなんだ」
「思い込みのせいです。唯一の物的証拠は絞殺に使われたドライヤーでした。ぼくがそのコードをうっかり触っただけで、凶器を使用した証拠にされました。あとは、全部警察と検察のストーリーどおりに自白したせいで、有罪になったんです」
「じゃあ真犯人は誰だ」
「ぼくも今夜まで、真相は知りませんでした。でも今は知っています。事件当時、村松さんには愛人がいました。事件後すぐに、二人は同棲を始めました」
自然と手が拳(こぶし)になる。
「多美さんは、会社のお盆休みを使って、愛人の家庭を盗み見ることにしました。普段の村松さんが、奥さんや娘さんとどういうふうに過ごしているか、見てみたかったのです。楽しそうにスーパーで買い物をする三人。ところがそこで、とんでもないものを目撃します。友華ちゃんが、怪しげな男のあとについていくところです」
「…………」
「多美さんはそれを追って、ぼくが家に友華ちゃんを連れ込んだことを知ります。多美さんは驚きましたが、村松さんに知らせることも、警察に通報することもしません。おそらくぼくが友華ちゃんを殺すことを期待したのでしょう。多美さんは知っていました。子どもさえいなくなれば、村松さんが妻と別れて、自分と一緒になってくれることを」
「…………」
「彼女は誘拐事件がどう進展するのか気になります。そこでときどき、ぼくの家をこっそり見に来ます。あるとき、ぼくが家から出てくるところを見ました。友華ちゃんにビデオを観せておいて、買い物に出たときです。いつもはビデオに夢中になって、ぼくが出て行くのにも気づかなかった友華ちゃんでしたが、そろそろ両親のところに帰りたくなったのでしょう。その日は鍵を開けて家から出ました。それを見た多美さんはハッとします。誰かが友華ちゃんを見つけて保護すれば、自分の期待とは正反対のことが起こる。村松さんがますます子どもを大事にするようになり、家族の絆がいっそう強くなるのです。それを考えると絶望します。唯一の解決策は、子どもが無事に還らないことです。多美さんは友華ちゃんに近づき、危ないから家に戻りましょうねなどと声をかけ、急いでぼくの家に入ります。誘拐犯の家で子どもを殺せば、殺人容疑は自ずとその誘拐犯にかかる。今やれば安全だとの判断から、多美さんは殺害を決意し、ぼくの部屋に行って、友華ちゃんの首をドライヤーのコードで絞めました」
「……証拠は?」
「物的証拠はありません。目撃証言もありません。ですが、多美さんが村松さんの愛人だと知った瞬間に、ぼくには一気に真相がわかったのです。多美さんだけに、動機と機会がありました」
「それだけで、犯人とは言えない」
「そしてなによりも、多美さんは子どもを殺せる人です。死なせる目的のために、純を妊娠して産むことができたのです。多美さんには幼女殺しができる、ということを、この復讐計画全体が証明しているのです」
そう。多美ならできる。そして、やったろう。
多美。
満足していればよかった。公園で子どもと遊ぶ幸せに。なのに、愛人に溺れた。
子どもさえいなければ別れるんだがなと、何度も寝物語に言った。
「……小宮」
小宮の膝に、手を置いた。
「赦してくれ。おまえの母さん、殺しちまった」
「ぼくこそ、友華ちゃんを誘拐しなければ」
「多美を赦してやってくれ。おれが唆したようなものなんだ」
「多美さんのおかげで、ぼくには純という生きる希望ができました」
「あの子を育ててくれ。頼む」
「はい」
小宮と二人、ベンチを立って、並んで歩いた。
海賊船の横を通って、駐車場に戻った。
車がない。
シルバーのフィアット500が駐めてあった場所に、なにかが落ちていた。
拾って見た。イタリアで多美に買ってやった、カメオだった。
悟った。
多美が、自分の子どもを連れて、永遠に去ったことを。
きっと、小宮が真相に気づいたことを、女の勘で知ったのだろう。
バカな男どもを嘲笑うかのように、鮮やかに逃げた。
と――
駐車場に、えらく痩せた、ちっちゃな男が歩いてきた。
ぎょっとした。
海賊船で見た死神だった。
「多美さん……純……」
死神は、呻くように言ってうずくまった。
そこへ。
どこから現れたのか、金髪の大女がぬっと立ち、
「サ、純亜、帰るよ」
死神の手を引いて立たせると、よっこらしょと背負い、夜の闇に飛んでいった。
(了)