牛丼屋のテーブル席とカウンターを拭いてまわっているとき、女の客が手招きをしていることに気づいた。

 またあの女だ。

 この一週間で、もう三回は来ている。だいたい七時過ぎくらいに、いつも一人で来る。

 水商売っぽい。年齢は三十代の後半から四十くらい。妖しげな真っ赤なルージュ。

 なんのクレームかと思って近づいていくと、

「あなたがタイプなの。これ電話番号。必ず電話してね」

「…………」

 小宮清伸は、無言で紙切れを受け取った。

 バイトが終わると自転車で安アパートに帰り、電話した。

「もしもし。先ほど電話番号を渡されたものです」

「あら、嬉しい!」

「お名前を訊いてもいいですか」

「海野多美。あなたは?」

「小宮清伸です。海野さんは、いい声ですね」

「ありがとう、キヨノブさん。そう呼んでいい?」

「さんなんてつけなくても、呼び捨てでいいですよ」

「じゃあクンにするよ。キヨノブくん。キヨくん。キーくん。どれがいい?」

「……最後の、かな?」

「キーくん? じゃあそうするね。わたしは多美でいいよ」

「多美さん」

「ねえ、会いましょうよ。あなたのおうちに行っていい?」

「あ……はい」

 住所を教え、車を駐車できる場所を伝えた。

 心の準備をしようと努めた。大人の女性にどう接したらよいか――自分には縁のないことだとあきらめていたので、想像もできなかった。

 シルバーのフィアット500で、多美さんは来た。

 部屋に上げた。この部屋にはスリッパも座布団もなかったことに、初めて気づく。

 近くに坐られた。

 昂奮と恐怖。

 抱きつかれて、唇が寄ってきた。

 その瞬間。

 どういうわけか、友華ちゃんの死顔が浮かんできた。

 自殺したお母さんの、悲しそうな顔も。

 刑務所で、男たちに無理やりされた汚いことと、させられたことの映像も。

「待って! ぼくは前科者なんです!」

 たまらず多美さんを押しのけて、叫んだ。

「あの、ぼくはそれを黙ったまま、そういう関係になりたくないです。せっかくぼくを好きになってくれたあなたを、騙したくない」

 多美さんは、目を丸くした。

「前科って――」

「殺人です。嘘だと思ったら、ネットで検索してください。小宮清伸って」

 初めて他人にしゃべった。なぜ突然告白する気になったのか、自分でもよくわからない。

「わたし、ネットの情報って信じないの。直接キーくんの口から聞かせて」

「幼女の誘拐殺人です」

 言った。すると、言葉が勝手にあふれてきた。

「ぼくは、小さい女の子を育てるのが夢だったんです。でもどうせぼくなんか結婚できないと思ってて、十七歳のときに、どうしても我慢できなくなって、女の子をさらってきてしまったんです。ほんの何日かで帰すつもりで。そうしたら、誰かにその子を殺されて、警察にぼくがやったっていうストーリーを作られて、母親に自殺されてどうでもよくなって、嘘の自白をして刑務所に行きました」

「……嘘の、自白?」

「あ、でも、もうどうでもいいんです。その子の死に責任があることは、まちがいないですから」

「罪は償ったのね」

「一応。でも賠償金も払えてないし、遺族に謝罪させてももらってないし。こんな状態で、女の人とお付き合いなんて、とてもできません」

「誠実なのね」

「全然ちがいます」

「夢はどうするの」

「夢?」

「女の子を育てたいんでしょ。さっき、そう言ったじゃない」

「それは、でも……」

「わたしね、シングルマザーなの。今はちょっと親に預けてるけど、純っていう、生後半年になる女の子がいるの。キーくん、育ててみない?」

「えっ?」

 驚いて多美さんを見た。

 ポカンとあけた口を、真っ赤なルージュの唇でふさがれた。

 その夜、初めて女性を知った。