亜子は、気が遠くなるような感覚に襲われて、テーブルの端をつかんだ。
お母さまがまちがっている。
そんなはずはない。だとしたら、木村亜子の人生は、全部まちがっていたことになるではないか。
「おまえの母親は」
変に甲高いその声は、鼓膜を通して脳に突き刺さるようだった。
「娘が命に危険があるほどガリガリに痩せても、ほっといている。これは虐待だ。イジメだ。きみは二十年間、イジメっ子と暮らし、支配されてきた。そこから逃げろ。イジメをするようなやつとは、きっぱり縁を切るんだ」
亜子は椅子を立った。これはもう、限界でございます。
吐き気がしてきて、洗面台に走り込んだ。
すると、鏡に映った自分の顔が見えた。
まあ。なんて醜い豚でございましょう。死んだほうがマシでございます。
「吐くな」
異常な殺人鬼の殿方が、後ろに来て言った。
「吐けばまた痩せる。今より痩せたら死ぬぞ」
「嘘おっしゃい!」
足元に、体重計がおいてあるのが見えた。体重計を見ると乗らずにはいられない。一日に何度でも体重を確認し、そこで自信を得ることによってのみ、かろうじて生きていた。
――二十六・二キロ。
その場に崩れそうになった。
そんなバカなでございます。今朝より一キロ以上も増えている!
迂闊だった。赤沢さまに手作りスパゲッティを出されたとき、どうせあとで吐くからと、豚みたいに全部食べてしまった。
トイレに立つタイミングが遅かったのかもしれない。それで吐く前に吸収された。こんなに努力してきたのに、たった一回の油断で、すべてが水の泡になった。
ちくしょう。二十六キロなんて、そんなデブ、絶対アイドルになれませんわ。
「部屋に戻ろう」
殿方に手を引かれた。抵抗する気力は、もはやなかった。
「状況を整理しよう。きみはアイドルになりたくて、つてを求めて赤沢に電話した。会うのは今日が初めてで、会ったところを見た人間はいない。きみは赤沢にいやらしいことをされた。襲われて、気でも失ったのかな? それはともかく、赤沢は誰かに殺された。犯人はきみではない。ここまではいいか?」
「はい」
「気がかりなのは、赤沢のオフィスの電話だ。そこには、芸能人に関する情報提供の電話もかかってくるだろうから、通話を録音している可能性は大きい。警察がそれを調べて星王子に連絡し、娘の存在を確認すれば、赤沢と今日会う約束をした女性がきみということはわかってしまうな」
「……はい」
「しかし星王子が、あくまでもわたしには娘などいないとしらを切れば、きみの存在が知られることはない」
「でもお父さまは、きっとわたくしのことを話すでしょう」
「どうして?」
「嘘をついて、警察の捜査に協力しない理由はございませんから」
「それはわからんぞ」
殿方がそう言って、なにがおかしいのかケロケロと笑ったとき、再びドアノブがまわった。
今度は鍵がかかっていなかったので、あいた。
ドキッとした。蝶舌さまだわ。
どうしましょう。殺人鬼さんがいることを、教えて差し上げなければ。
でももう遅い。ドアがためらうように、ゆっくりと開かれると――
亜子は息を呑んだ。
ちがった。蝶舌さまではない。
どういうわけか、母親の木村由利子がそこに立っていた。
お母さまは、不機嫌でいらした。
決して外では見せないあの表情、娘の亜子だけに見せる、あの、人格否定の罵詈雑言を浴びせる直前の、鬼の形相をしていらっしゃった。
「悪い子ね」
ドアを閉めるなり、言った。
「なによ、人が殺されてるって。一生懸命育てた挙句にこんなことになって……この親不孝者!」
お母さまは、そばにいる殿方のことなど目に入らない様子で、わめいた。
「あんたって子は! こうやって、わたしを苦しめるために生まれてきたの? 殺人事件に巻き込むなんて、恩を仇で返してんじゃないのよっ!」
亜子は、怒られて腹が立つとか悲しいとかよりも、羞ずかしい思いが先に立った。
お母さまのいつものヒスを、ついに他人に見られてしまった。
羞ずかしいからやめて、と言いたかった。
でも、その一方で、お母さまの本当のお姿を、誰かに見てもらいたくもあった。
「うるさいぞ」
殿方が言った。
「ここは殺人現場だ。大きな声を出して、近隣の注意を引くのはやめてもらおう」
するとお母さまは、殿方をまともににらみつけて言った。
「わたしに命令しないでよ、ひとでなしのくせに」
これにはびっくりした。
お母さまは、この犯人さんを知ってる?
「ひとでなしはどっちだ」
犯人さんもまた、お母さまのことを知っていらっしゃるようだった。
「娘をストレスの吐け口にして、イジメて楽しんできたことがよーくわかった」
「あんたに言われる筋合いはないわよ」
唾でも吐きそうな感じで言うと、お母さまはリビングに入ってこられた。
「変な匂い……なにこれ、やだ、すごい血じゃない」
と、案外に冷静に死体を見ると
「あんたがやったの?」
いきなり言ったのでぞっとした。
まずいですわ、お母さま。殺人鬼さんに向かって、そんなふうにストレートにおっしゃるのは。
そう思ってお母さまを見たら、お母さまはじーっとこっちを見ていた。
え? まさか。
「あんたがやったのって……わたし?」
混乱した。実の母親が、娘を疑っている?
「だってさあ」
お母さまがいつものように、亜子をどこまでも見くだした口調で言った。
「このデブに襲われそうになったんでしょ? それで抵抗したら、はずみで頭を打って死んだ。テレビドラマでよくある設定じゃない」
「ちょっと待ってよ!」
悲鳴に近い声が出た。
「それならどうして、お腹が切れてるの!」
「わたしに訊いたって知らないわよ。たまたまあんたの手に、ナイフでもあったんじゃない? で、むちゃくちゃに抵抗したら、ズバッと切れた」
「ひどい……」
いったいどうしてお母さまは、こんなにひどいことを言うのだろう。
(きみは二十年間、イジメっ子と暮らしてきた)
殿方のおっしゃったセリフが、頭の中をぐるぐるとまわる。
「お母さま」
涙声になった。だけど、泣く子は大っ嫌い、と言われた幼いころから、ずっとお母さまには涙を見せないできた。だから、必死にこらえた。
「どうしてここがわかったの? どうしてわたくしが、赤沢さまに襲われそうになったって知ってるの?」
「はあ?」
心底あきれたという顔で、
「あんたが自分で電話してきたでしょ。男に襲われて、気がついたらそいつが殺されてた。駅からこの家までの道順はこうだって。だから来てやったんじゃない」
「わたくしが……お電話を?」
確かに蝶舌さまにはかけた。だけど、お母さまにかけた記憶はない。
もはや、なにがなんだかわからなくなって、スマホを見た。
と、蝶舌さまにかけた十分前に、お母さまにかけた履歴が残っていた。
足から力が抜けた。絨緞の上にへたり込む。
そこへ、お母さまの声が降ってきた
「とぼけてるんじゃないようね。じゃあ本当に忘れたんだ。このデブを殺したショックで、ちょっとした記憶喪失になったのね」
「ちがいますわ」
首を振った。ショックで記憶を失った、というのは確かにそうだろう。でもそのショックは、きっと死体を見たせいで、自分が殺したからではない。
蝶舌さまに電話したことは憶えてるのに、お母さまにかけたことは憶えてない。じゃあほかにも、なにかとっても大事なことを、忘れてしまっているのだろうか?
「だけどさあ、人が死んでるから来てって言われても、わたしじゃどうすることもできないじゃない。かといって、他人に一緒に来てもらうわけにはいかないし。だから、ほとんど二十年ぶりに、こいつに電話したのよ。番号が変わってなくて、こいつの声が出たときは、正直ムカっとしたけどね。あんたの娘が殺人現場にいるらしいから、行ってなんとかしなさいよって言ったら、よし任せろだって。バカにしてると思わない? わたしたちを捨てといて、ごめんなさいの一言もないのよ」
あんたの、娘?
じゃあ、この殿方が……星王子?
お父さまなの?
殿方を見る。優しい眼差しとぶつかる。
おまえのことは、パパがすべてわかっているぞという目。
そうだわ。顔はそんなに似ていらっしゃらないけど、内面に、わたくしと同じものを秘めている感じがする。人間社会になじめない、決して心から幸せになれない、暗い、名づけようのないなにかを。
それを瞬時に理解して、亜子は胸が熱くなった。
「ありがとう……」
お父さまに言った。お父さまはうなずく。良かった。犯行現場に戻ってきた、殺人鬼さんじゃなかったのね。
カチャリ、と、ドアノブがまわる音した。
ハッと振り向く。
ドアが開く。玄関に、蝶舌純亜さま。
ジーンズにTシャツという、いつものラフな恰好。
が、服に包まれたその身体は、もはやハンペンのように薄かった。
「久しぶり、亜子ちゃん」
蝶舌さまは、蚊の鳴くような声で言った。
「また痩せたなあ。ダメじゃないか、ちゃんと食べなきゃあ」
亜子の目から、不意にぽろりと涙がこぼれた。
するとお父さまが右手を上げ、
「ヤア、探偵」
と言った。
え、どうして知ってらっしゃるのと驚き、お父さまと蝶舌さまを交互に見た。
すると蝶舌さまも驚いたように目をむき、
「……デャーモン」
と言った。
腹が減っていた。
ペコペコで死にそうだった。ラーメン、ピザ、ハンバーガー、フライドポテト。
頭の中には、食べ物のことしかなかった。
早く亜子ちゃんを説得して、なにか食べさせよう。もう痩せなくていいんだよ、充分きみはキレイだよ、少し太って健康的になったほうが魅力的だよ、そのほうがきっとオーディションにも受かるよ。
亜子ちゃんが食べることに同意したら、二人で外食しよう。
最初は野菜がいいかもしれない。山盛りのサラダを注文しよう。
胃袋が慣れてきたら肉もいい。肉汁たっぷりの柔らかいステーキ。いや、それよりも、お寿司のほうがいいかな。
が、とりあえず今は、仕事だ。
殺人事件に巻き込まれたと言っていた。でもぼくは、十八歳で探偵になってからおよそ二十年間、殺人事件は一度も扱ったことがなかった。
だって、小説ならいざ知らず、それは百パーセント警察の仕事だから。
だからどうしていいかわからない。怖いけど、まずは死体を見てみるか。
でもその前に、
「どうしてあなたがここに?」
三年ぶりに、実に意外な場所でばったり会ったデャーモンに訊いた。
デャーモンはクツクツ笑いながら、
「おれ様ハ、デャーモン名義で宇宙メタルをやる前に、星王子という芸名でロカビリーをやってイタ。ほかにも別名で、演歌やポップスをやったこともアルぞ。そしてこちらは」
二人の女性のほうを手で示し、
「星王子のコロに付き合った女と、そのあいだに産まれた子ダ」
ガツンと、頭を殴られたような衝撃があった。
亜子ちゃんが、デャーモンの娘?
ぼくが命をかけて愛しぬいた亜子ちゃんが、この変人の――
「とり憑かれたナ、探偵」
デャーモンの甲高い声が、カロリー不足でよく働かない脳みそに響く。
「おれ様の娘なんかに惚れるカラ、そんなハンペンみたいに痩せちまって」
「いや、ちがう。これはダイエットだ」
ハードボイルドらしくやせ我慢を貫いたとき、デャーモンが横に動いて、お腹から血をもりもり出した死体が見えた。
「これはひどい……」
思わずつぶやくと、デャーモンが状況を説明した。
「そんなバカな」
ぼくはあきれて言った。
「亜子ちゃんが抵抗したほずみで殺しちゃったって? バカバカしい。腕なんて、こんな紐みたいに細いんだぞ。そんな力あるはずがない」
「ダガな、探偵」
デャーモンは、父親のくせに娘をかばおうともせずに言った。
「もし亜子が、男に襲われそうになった瞬間に理性がフッとんで、普段は眠っている力を爆発させたら、このくらいは朝飯前にできたダロウ」
「バカバカしい」
さっきと同じセリフが出た。いくら理性がふっとんで、獣のように本能で行動したとしても、お腹をこんなふうに切るはずがない。
「じゃあ、兇器の刃物はどこにあるんだ」
「刃物? ナンの話だ?」
デャーモンが首を捻る。察しの悪いアメリカ人だ。
すると亜子ちゃんの母親の木村由利子が、
「もしあんたが、記憶喪失の状態でやったんなら、手に血の匂いが残ってるんじゃない?」
実にむごいことを言った。これでもこの女は、人間だろうか。
亜子ちゃんは悲しげに立っていたが、やがて手をゆっくりと鼻に持っていき、
「……本当だわ。すっぱい変な匂いがする。わたくし、記憶喪失のまま手を洗ったんでしょうけど、匂いは落ちなかったのですね」
そう言うと、どこか吹っ切れたような顔をぼくに向け、
「ありがとうございます、蝶舌さま。わたくしが犯人だったようでございます。自首して刑務所に参ります。どうせこれでもう、アイドルにはなれませんし、だったら死刑になっても一緒でございますから」
「なにを言う」
ぼくは本気で叱った。
「もし仮に、きみが抵抗したはずみで死なせたとしても、それは正当防衛じゃないか。それにぼくは、どう考えても、きみが犯人とは思えない」
「マアマア、探偵」
デャーモンが、馴れ馴れしく肩に手を置いてきた。
「亜子はおれ様の血を引いてるんだ。アメリカ人は、力が強いのサ」
「そうよ、探偵さん」
由利子までもが言う。
「この状況じゃ、亜子以外に犯人がいるとは思えないし、そろそろ自分がやったっていう記憶も戻ってくるんじゃないかしら」
「きみたちは」
ぼくは怒りで目の前が暗くなるのを覚えながら言った。
「自分の娘を信じないのか」
「いいのでございます」
亜子ちゃんが笑顔で言った。やつれてはいても、その笑顔は、やっぱり奇跡のように美しかった。
「わたくし、また一キロも太って、醜くなったのです。死んだほうがいいのです。ですが、この三年間は、蝶舌さまがいたので頑張れました。亜子はとっても幸せでしたわ」
「バカッ!」
ぼくは手を振りあげた。
亜子ちゃんが目をつぶる。
ぼくは死体に近づいて、振りあげた手を、丸々太ったお腹の上に降ろした。
「見ろ」
亜子ちゃんが目をあける。
「ぼくの手には、びっちょりと被害者の血がついた。すなわちこれが、ぼくが犯人である証拠だ」
フフッとニヒルに笑うと、亜子ちゃんが息を呑む音がした。
「実はぼく、きみのストーカーだったんだ。そうしたら、男とこの家に入っていくのを目撃した。そして自分も、探偵のピッキング術を使って侵入した。すると男がきみを襲った。きみは気を失った。ぼくは男を後ろから殴って気絶させ、庖丁でお腹を切った。だからきみはやってない。やったのはぼくだ」
「どうして……」
「ぼくは無能な探偵で、どうすりゃきみを救けられるかわからない。きみの依頼を果たすには、自分が犯人になるしかないんだ」
つまりはそれが、ぼくのピュアな愛なのさ。亜子ちゃん。
「無理スンな」
デャーモンが言う。
「証拠なんて気にしなくてイイさ。死体なら、宇宙墓場に棄てといてやるヨ。亜子のこともおれ様に任せろ」
「おれに任せろだって?」
由利子が、さも軽蔑したように鼻を鳴らして言った。
「二十年間、全部わたしにやらせたくせに。あんたの血の混じった子を育てるのがどんなに大変だったか。あんたこそ、刑務所へ行けばいいのよ」
「なにヲ!」
デャーモンが怒って腕を突き出すと、由利子は壁までふっとんで気絶した。
「亜子だってこれくらいはデキる。おれ様の子だもの」
そう言うと、優しい眼差しを亜子ちゃんに向け、
「人を死なせたショックで、気を失ったんダナ。かわいソウに。一時的に記憶をなくしたおまえは、本能のままに行動シタ。つまり、めちゃくちゃに腹が減っていたので、冷蔵庫をアサって体重が一キロ増えるくらい食ッタ。でも充たされなかった。すると、目の前に、豚さんが倒れてイル。こいつはおれ様のライブの常連だったが、みんなが二度見するほど豚そっくりダッタ。だからそれが、猛烈に腹のヘッタおまえに、豚の丸焼きに見えたのも仕方がない。おまえは味つけして食べヨウと、冷蔵庫からケチャップを出してかけた」
ケチャップ?
ぼくは急いで自分の手を鼻に持っていった。ツーンとすっぱい匂いは、まぎれもなくケチャップのそれだった。
「そこでおまえは、フッと我に返った。すると人が死んでイル。その記憶がナイおまえは、びっくりして、まだ朦朧としている頭で母親に電話をカケた。そのあと、だんだん意識がはっきりシテくると、探偵を呼ばなくてはと考えるようになった。そのときには、母親を呼んだ記憶も消えてイタ」
デャーモンは、そこでニヤリと笑い、
「この豚が死んだのは、おれ様の娘に悪いことをしようとした罰ダ。亜子、おまえはこいつのことナンカ気にしないで、おれ様の国に来い。イジメっ子の母親がいなければ、きっと幸せにナレる」
「お父さま」
亜子ちゃんが、デャーモンの目を真っ直ぐに見て言った。
「お父さまのお国で、わたくし、アイドルになれるでしょうか?」
「もちろん! 亜子なら絶対、宇宙的な人気者にナレるぞ」
「参りますわ!」
抱き合った父娘を見て、ぼくは黙って家を出た。
アメリカに行くんじゃしょうがない。ハーフは無理だと言ったミス・コケティッシュの忠告は、やっぱり正しかったようだ。
ぼくも腹が減った。なにか食べよう。
駐めておいた愛車の赤いカプチーノに乗り込んだとき、スマホが鳴った。
ミス・コケティッシュかな、と思ったらちがった。
彼女だった。
三年前に、あの言葉を聞いたきり。
『本当に、元気な女の子が産まれたわ! ありがとう、坊や』
ぼくの子どもを産んだ、海野多美さんからだった。
(第二部終わり。第三部 多美篇に続く)
もう時間は零時に近かった。しかし多美さんは、今すぐ来てほしいと言った。
「わたしと純亜くんの子が殺されるかもしれないの。わたし一人の力じゃきっと止められない。だから、急いでうちに来て」
一刻の猶予もないのだと言う。ぼくは空腹で死にそうだったが、ともかくカプチーノを走らせた。
事情はまったくわからない。せめてこの先どうなるかをミス・コケティッシュに視てもらおうと思ったが、まだぼくに怒っているのか、電話をかけても出なかった。
多美さんのアパートに着いた。二〇三号室のインターホンを押す。彼女がドアを開ける。ドキンと心臓が跳ねた。
ぼくの子を産んだ女性。ぼくより五歳年上の、大人の女性。
やっぱりこの人と、結婚しよう。
「痩せたのね、坊や」
声がとても、色っぽい。
「今ぼく、十三キロだよ」
「ほんとに?」
「多美さんは変わらないね、ちっとも」
「ありがとう。寝てるけど、見る?」
「なにを?」
「わたしたちの子」
胸に抱いてきた。寝ていた。閉じた目がキュッとつりあがっている。
「よく寝てるね。しゃべってても起きない?」
「全然。地震でも雷でも起きないわ」
「三歳?」
「そう。名前はね、純っていうの」
「え?」
「純亜くんから一文字とったのよ。さあ、時間がないの。今すぐわたしの車に乗って」
純ちゃんを抱いた多美さんの後ろから階段を降り、アパートの駐車場に行った。多美さんの車は、シルバーのフィアット500だった。
後部座席のチャイルドシートに乗せられるあいだも、純ちゃんは熟睡していた。
「純亜くん、スポーツバッグに入れる?」
「バッグ?」
多美さんが紺色のスポーツバッグを持ってきた。果たしてこんなものに、大人の男が入ることなどできるだろうか?
楽々入れた。
「すごい、ハンペンを曲げたみたい」
多美さんにチャックを締められ、ひょいと持ちあげられた。
「息ができるように、少しチャックを開けとくからね。いよいよ純が危ないとなったら全開にするから、そしたら出てきて」
「ごめん、状況を教えてくれる?」
後部座席の床に置かれて、まるで密入国する犯罪者になった気分で訊くと、
「説明してる暇はないの。今からこの車に、殺人犯と、そいつに子どもを殺された父親が乗ってくるから。この二人がドライブするのは避けられない運命だったの。とにかく純亜くんは、純を守って。わかった?」
なに一つわからない。
わかっているのは、ただ一つ。
首尾よく務めを果たせたら、ぼくは多美さんを妻にして、一緒に純ちゃんを育てるのだ。
村松和樹は、警察署の死体安置所で娘と対面した。
殺風景なタイル張りの部屋の、幅の狭い寝台に、友華(ともか)は寝ていた。
首に黒い痕がある。なにか紐状のもので絞められたらしい。いったいどうして、なんの罪もない三歳の女の子がこんなことをされるのかと、理解に苦しんだ。
名前を知らない刑事に肩を叩かれた。
「奥様が倒れられました。過呼吸を起こされたようです。署内の保健室のほうへお運びしますけど、村松さんもいらっしゃいますか?」
妻を保健室のベッドで休ませて、ソファで放心していると、熊野刑事が来た。
「村松さん、被疑者は逮捕されました」
「……はい」
「被疑者自ら通報してきたのです。友華ちゃんの死体を発見したと。友華ちゃんは被疑者の自宅にいました。被疑者がさらってきたのです」
スーパーのトイレだった。あそこで和樹がちょっと目を離した隙に、友華は変質者に誘拐されたのだ。
「被疑者は市内の高校に通う十七歳の少年です。あくまで死体は『発見』したと言っています。でもすぐに自分の犯した罪を認めるでしょう。われわれは少年だからといって手加減はしません。全力で締めあげます」
お願いしますと頭を下げると、熊野刑事は大股で歩き去った。
少年か。ぼんやりと思う。前科十犯の凶悪犯だったら良かったのに。それだとおそらく死刑になる。
少年だとならない。確か死刑相当の罪でも、無期懲役に下げられるのではなかったか。
ふと、熊野刑事に頼んで、そいつと密室で二人っきりにしてくれないかと考えた。
ほんの一分でいい。熊野刑事が部屋を出て行って、そっとドアを閉める。そしたらそいつの喉に指をかけて、思いっきり絞めあげる。
殺せる、と和樹は思った。おれにはできる。おれにできる唯一の正しい行動が、それだ。
やがて唐木署に、妻の両親と義弟が来た。
義母が保健室に駆け込んで、貴美子と抱き合って泣いた。
義弟の雅斗くんの運転する車で妻の実家に帰るとき、雅斗くんが言った。
「ニュース速報で出ましたよ。犯人は高校二年生だって。本当におれ、チャンスがあったら、そいつを殺しますよ」
雅斗くんは電気工事の仕事をやっていて、元柔道家の、俠気(おとこぎ)のある青年だった。うちに取材に来たマスコミにも、迷惑だから帰れと言って追い返してくれた。
「そいつの家とか名前は、すぐわかりますよ。ネットに出ますから。おれ、とことん調べますよ。犯人の家にも行ってみます」
ありがたい、と思った。しかしそいつはもう警察の手中にある。いくら殺したくとも、そのチャンスはなかった。
「ねえ、和樹さん。たぶんそいつ、刑務所に行っても、十年かそこらで出てくるでしょ? 今十七だから、三十前には晴れて自由の身ですよ。だからおれ、そのころになったら探偵を雇って、いつ刑務所を出るかを調べて、出てきたら殺します。おれも、十年後じゃまだ若くて力もありますから、やりますよ」
「雅斗くんは身体を押さえてくれ。おれが首を絞める」
実家に着いたら、貴美子の脚に力が入らず、車から降りられなかった。それを支えて立たせようとすると、激しく頭を振って叫んだ。発狂状態だ。
雅斗くんと二人でかかえて車から降ろす。玄関から和室へ。義母が布団を出す。妻を横にすると、ワーッと吠えて身をくねらせ、
「あんたが目を離したからっ! なんでっ! 常識でしょ! 気をつけてっていつも言ってたのに! あんたが殺したのよっ!」
どす黒い怒りが湧いた。
近所中に聞こえる声で言いやがって。それが夫に対する口の利き方か。
「和樹くん」
義父に腕を引っ張られた。気がついたら、拳を握っていた。
「今は普通の状態じゃない。すまんが、貴美子に感情を吐き出させてやってくれ」
つまり、と和樹は思う。このおれが友華を殺したっていうのが、妻の吐き出したかった本音だ。
「和樹くん。きみも泣いていい。泣くべきだよ」
義父を押しやって外へ出た。どいつもこいつも、ぶっ殺してやりたい。
門に着く前に、雅斗くんに追いつかれた。
「一緒にパソコンで、犯人のことを調べましょう。犯人は高二だ。車を持ってない。だからきっと、家も和樹さんちの近くですよ」
二階に行き、雅斗くんが出してくれた座蒲団に坐る。ぼんやりと、壁に貼ってあるロックスターのポスターを眺めた。スペース☆キングという名前らしい。その鋭く目を細めた反逆児のような面構えに、なぜか共感を覚えた。
携帯が鳴る。熊野刑事からだった。明日の午後には司法解剖が終わり、遺体を返せると言う。死因は絞殺でしょうかと訊くと、おそらくそうでしょうとのこと。取調べはわたしがやります、全部吐かせますよと、犯人への怒りを滲ませて言った。
警察よ、頑張ってくれ。あわよくば、法律も変わってくれ。裁判が始まる前に少年法が改正されて、十七歳だろうが十歳だろうが死刑が可能になれば、遺族は自分の手で復讐しなくても済む。
が、むろんそれは、無理な願いだった。
「和樹さん、訊いていいですか」
雅斗くんが、パソコンの画面をにらんだまま言った。
「友華ちゃんがいなくなったのは、川原町(かわらまち)のスーパー森ですよね。あそこのトイレに行ったあと、姿が見えなくなったんでしたね」
うんとうなずく。あんたのせいという言葉が浮かび、胸にキリが刺さる。
「まだ逮捕されて時間が経ってないんで、そんなに情報は出てないですけど、どうやら市立商業の二年生らしいという書き込みがあります。今からスーパー森に行ってみて、近くに市商(いちしょう)の生徒が住んでないか、聞き込みしてこようと思います」
「おれも行こう」
腰が浮いた。ここにいてもしょうがない。犯人の家がわかるかもしれないと聞くと、居ても立ってもいられなかった。
犯人自身は警察にいる。だが親は家にいるかもしれない。自宅が殺害現場なら、警察の検証にたった今も立ち会っている可能性がある。
行ってやる。親の顔を見てやる。
車がスーパー森に近づくと、雅斗くんがあっと声をあげた。
「テレビカメラですよ。マスコミが来てます」
「そうだな」
「あっちに人が集まってますね。犯人の家があるんじゃないでしょうか?」
「行ってみよう」
スーパーの駐車場に車を停めて、人家の並ぶ路地に入っていく。道に多くの住民が出ていて、好奇の目を路地の奥のほうへ向けていた。
曲がり角にマスコミらしき集団。テレビカメラ。マイク。
パトカー。青いシートで窓を隠された家。警察官。黄色いテープ。「立入禁止 KEEP OUT」の文字。
駈け寄る。大柄の警察官がさっと振り向く。両手を前に出して制止。
「立ち入り禁止です。下がってください」
「村松友華の父です!」
上ずった声が出る。光と音で、シャッターを一斉に焚かれたのがわかった。
「現在捜査中ですので、ここへはどなたも入れることはできません。お父さまには、のちほどご連絡がいくかと思います」
「犯人の親はいるんですか? 中に」
「いえ、いません」
「ではどこにいるのか、教えていただけませんか」
「それは、まだ被疑者ですので……」
「あなたではわからないのですね? では丸山署長に頼みます」
警察官に背を向けて携帯を出そうとした瞬間、人が大勢寄って来ていたのを知って、ぎょっとした。
「今、容疑者に対して、どんな思いですか?」
マイクが何本も突き出された。顔、顔、顔。頭が混乱する。これは今、テレビに流れているのか?
「容疑者の親に、なんと言いたいですか?」
記者だかリポーターだかが迫る。そいつの発した容疑者の親というフレーズが、和樹に火をつけた。
「未成年にやられたら、いったい誰が責任をとるんですか? この国は人殺しを護るんですか? 息子が死刑になんなきゃ、親が殺さないとだめでしょう!」
背後から抱きすくめられた。なにをする、と振り向いたら、雅斗くんだった。
「正式なコメントは警察を通して出します。これは放送しないでください。無断で流したら訴えます! どうぞ遺族のプライバシーにご配慮をお願いします!」
引っ張られて、マスコミの群れを抜けた。みんなに見られながらスーパーの駐車場に戻る。車に乗ろうとしたとき、「村松和樹さん」と低い声で呼び止められた。
振り返る。茶髪の男。スーツ姿だがネクタイはしていない。男が名刺を出した。
「フリーライターの勝間田章吾(かつまたしょうご)と申します。村松さんは正しいことをおっしゃいました。犯人は、未成年だろうと殺すべきなんです」
すっと背中が伸びた。相手を見つめる。髪の色などで若そうに見えるが、どことなく貫禄もある。おそらく和樹と同じ三十代だろう。
「わたしは凶悪犯罪の悪質化、低年齢化に対する警告を発し、悪法たる少年法の改正を訴える活動をしています。それに関する著書もあります。一緒に闘いましょう」
差し出された手を、ほとんど無意識に握った。すると勝間田は、
「犯人であるコミヤキヨノブの情報については、詳しく教えます。なにか知りたいことがありましたら、名刺にある番号に電話するかメールしてください」
「……ありがとう」
礼を言って、車に乗った。ついに犯人の名前がわかった。コミヤキヨノブ。
運転しながら、雅斗くんが言った。
「彼から情報を得られれば、ぼくたちが動かなくてもいいので確かに楽です。でも相手はライターですから、色々と見返りを求めてくるでしょう」
「見返りというと?」
「和樹さんの生の感情を聞かせてほしいと言うでしょう。そういうものを集めて、少年法の改正を訴える自分の活動に利用しようとすると思いますよ」
「それは別に構わない」
むしろ、大いにやってほしかった。
携帯が鳴った。熊野刑事からだった。
「村松さん、お怒りは充分わかりますが、ここはひとつ冷静になっていただけますか」
突然の懇願に困惑した。
「被疑者の家に行くことは、どうぞ控えてください。なにか声明がありましたら、まずわたしに伝えてください」
一方的に切れた。犯人について訊きたかったが、そのタイミングがなかった。
勝間田の名刺を見て、電話した。
「村松です、先ほどはどうも。少し教えていただきたいのですか」
「どうぞ」
「コミヤキヨノブとは、どう書きますか?」
「小さいに、宮様の宮。清いに、身長が伸びるの伸です」
「市商の生徒ですか?」
「そうです。これから同級生たちに当たって、情報収集に努めたいと思います」
「写真も手に入りますか?」
「必ず」
「両親のことも調べられますか?」
「さっき近隣の方からお話を聞くことができました。父親は、一人息子の清伸が中学二年のときに肝臓癌で亡くなったので、母子家庭のようです。母親の名前はアキコ。表彰状の彰に子と書いて彰子です。四十四歳という話ですが、確実なことはこれから調べます。どういうことから先にお知りになりたいですか?」
「小宮清伸の写真。評判。性格。あと母親の写真も」
「わかりました。ある程度まとまったら、この番号におかけします」
電話を切った。妻の実家が見えてきた。と、テレビクルーの姿も目に入った。
「なにを言われても答えないで、家に入ってください」
雅斗くんにそう言われて、車を降りた。
「村松さん、容疑者に一言!」
無視した。顔をあげて歩く。
「親が責任をとって殺すべきだと、今もお考えですか?」
ああ、そうとも。心で言って、ドアノブに手をかける。
「できることなら、犯人をどうしたいですか?」
しつこさにカッとなった。わかりきったことを訊きやがって。
「八つ裂きでもまだ足りないよ! 皮剝いで切り刻んでやる!」
雅斗くんが開けたドアから中に入った。フラッシュが追ってくる。被害者の親にしか言えないことを言ってやった。誰だろうと、正義の声を殺すことはできない。
玄関ホールに義父が立っていた。
「頼むから、休んでくれ。みんな限界なんだ、もう」
暗に、和樹が迷惑をかけたと言っている。身内は世界を敵にまわしても味方でいてくれるかと思ったが、ちがった。
この世は狂ってる。みんなきちがいだ。
雅斗くんと二階に行った。スペース☆キングのポスターが出迎える。この人の曲をかけてほしいと頼んだ。雅斗くんがCDをセットした。
横になって目を閉じる。妙に甲高い声が振り絞られた。
ポンポロポッピッピー
あー、正義は正しいよー、正義はいいねー
正しいことはー、正しいってー、いつも言いたいねー
ポンぺロパッピッピー
そのまま死んだように寝てしまい、起きたら朝の七時だった。
妻はどうしたろう。少しは眠ったろうか。
そう考えながら階段を降りて、リビングのドアを開けた。和樹の両親が来ていた。義父、義母、雅斗くんもいた。そして貴美子。
貴美子が和樹を、燃えるような目でにらんだ。
「新聞に大きく出ちゃったわよ。自分がなにをしたのか見て!」
貴美子が新聞を投げつけた。屈辱に顔が火照る。
新聞を拾って広げる。
『犯人のヤロー、八つ裂きでもまだ足りないぜ。皮剝いで切り刻んでやる! 被害者のおっさん、堂々の殺人宣言!?』
「あんたがペラペラしゃべったことで、わたしたちがどういう目で見られるか想像がつかない? バッカじゃないの。できもしないこと言わないで!」
和樹は二階に戻った。妻を殴ってしまう前に。
熊野刑事に電話をかけると、すぐに出た。
「村松です。教えられる範囲で結構ですので、現在の状況をお伺いしてもいいですか」
「いいですよ」
「小宮清伸は自白しましたか?」
新聞にも載っていない名前を出して訊くと、一瞬詰まったような間があったが、
「誘拐・監禁についてはほぼ認めていますが、殺害については濁してます。まあ、今から取調べでギューギュー締めますよ」
「殺人で有罪にできますね?」
「凶器となったドライヤーのコードから、指紋が検出されています。あとは自白させれば」
「動機は?」
「それもこれからですがね。言わせますよ」
「わいせつ目的で誘拐して、バレたくなくてやったんでしょうか?」
「そんなところでしょう」
「精神障害とかで、無罪はないですね?」
「絶対ありません」
「生育歴で、情状酌量されてしまうとか」
「幼児の殺害に、同情すべき事情なんかありませんよ」
「向こうの親に会うことはできますか?」
「弁護士に言っときましょう」
「誘拐まで認めてるんなら、容疑者などではなく犯人です。できるだけ早くなんらかの行動をしてほしいと、母親に伝えてください」
「言っときましょう」
「小宮はこれからどうなります?」
「明日の午後に送検します。検察の調べがあって、その翌日こっちに戻されて、最大二十日間の勾留となります」
「未成年者の場合、裁判などにちがいがありますか?」
「まず家庭裁判所で非公開の少年審判があります。罪が軽ければそこまでですが、殺人だと、そのあと必ず刑事裁判になります。村松さんもそこで裁判を傍聴することができますけど、被告人の顔が見えないような措置がとられる可能性もあります。あと成人とちがうのは、犯人の未熟さや更生などについてかなり考慮されるということです」
「刑が、軽くなるのですね」
「でも重罪ですからね。なんとも言えませんが、十年くらいかと」
「軽いですね」
「まったくそのとおりです」
「行くのは少年院ですか?」
「いえ、少年院は保護処分となった少年を入れる施設ですから、今回のケースでは少年刑務所になるでしょう。少年といっても、成人も収監される刑務所です」
「メシ、風呂つきの生活ですね」
「おっしゃるとおりです」
「いつごろ仮釈放になります?」
「十年だとしたら、九年目くらいでしょうか」
「それでもう自由の身ですか?」
「ですね」
「幼女を誘拐して、殺したやつが?」
「そうです」
「ああいうのは拭いがたい性癖で、治るものではないと聞きますが」
「かもしれません」
「再犯なんかされたら、とんでもないじゃないですか」
「今度やったら無期、もしくは死刑もあるでしょう」
「そのときになって死刑判決が出ても、第二の友華が出てからじゃ遅いじゃないですか」
「本当にそうです」
「できるだけ罪が重くなるようにしてください。殺人だけじゃなくて、乱暴もきっとやってます。全部暴いてください」
「全力でやります」
お願いしますと言って電話を切り、続けて勝間田に電話した。
「小宮の写真は手に入りましたか?」
「ええ。パソコンで送りましょうか」
和樹はパソコンに詳しくなかったので、雅斗くんを呼び、雅斗くんのパソコンで勝間田とやりとりができるようにしてもらった。
「お礼はどうしましょう?」
「なに言ってるんですか。ぼくは被害者をむしるハイエナじゃありません。村松さんのために、できるかぎりのことをさせてください」
嬉しい言葉。
「小宮の評判なんかは聞きましたか?」
「昨日話してくれた女子生徒がいました。学校では、おとなしくてほとんどしゃべらない生徒だったようです」
「非行歴は?」
「調査中です。もう少し情報を集めてから、メールで送りますよ」
礼を言って電話を切ると、雅斗くんが引き締まった顔で、
「勝間田さんからメールが来ました」
画面に写真。
「今年五月に撮影したクラスの集合写真で、後列の右から三人目が小宮だそうです」
歯を食いしばって見る。伸びた前髪が眉を隠している。細い目。低い鼻。薄い唇。他の生徒はほとんどが笑ってるのに、小宮だけが暗い。
おそらく学校では、誰からも相手にされていまい。女子にも男子にも。家で一人で異常なマンガでも読んでいそうだ。部屋のベッドの下には、児童ポルノが大量にしまってあるんじゃなかろうか。
おまえみたいな人間は、この世にいてはいけない。
一階に降りると、みんなで友華の写真を囲んでいた。ピアノを弾く友華。水遊びをする友華。バレエのポーズを決める友華。パパとママの絵を描く友華。
「写真見ても、生き返りゃしない」
無念さがそう言わせた。それほど小宮の野郎は、取り返しのつかないことをした。
「あんたはもう、友華を忘れたの?」
妻が、またしてもにらんできた。
「あんたは友華を愛してなかった。だから平気で目を離した。皮を剝ぐとか切り刻むとか、気持ち悪いことばっかり考えてる。犯人と一緒なのよ、あんたは」
犯人と一緒――小宮と。
殴った。
床に倒れた妻に背を向けて家を出た。門の外にマスコミがいた。スコップを振りまわして追い払った。
車は自宅に残してきたので、タクシーを呼んだ。
十分ほどで来たタクシーに乗り込んだとき、念のため、
「もしマスコミが尾けてきたら撒いてくれ」
と頼んでおき、愛人の海野多美のアパートの住所を告げた。
アパートに多美はいなかった。合鍵で入る。九時を過ぎていたので、彼女はオフィスにいる時間だった。帰りを待っていたら夜になってしまう。
電話をすると多美は出た。
「おれだけど、今日休める?」
「大丈夫? その……」
当然、友華がどうなったかは、ニュースで知ったろう。友華が誘拐されてから一切連絡していなかったので、きっとずっと心配していたにちがいない。
「電話しなくてごめんな。最悪の結果になっちまった」
「…………」
「あのさ、おれ今アパートに来てるんだ、多美の」
「……わたしの?」
「会いたくて。でないと、どうかなっちゃいそうで」
「すぐ行く」
多美の声は、仕事中だけに低く抑えられていたが、はっきりと愛情が籠っていた。それに飢えていた。
棚を開けると赤ワインがあった。コップを出してつぐ。
一気に飲み干した。こういう飲み方は初めてだ。しかし止まらない。二杯目を飲み干したときに携帯が鳴った。妻の実家から。電源を切る。
酔いがきた。
床に寝そべる。ドアノブがまわる音。多美。身体を起こそうとする。できない。
「和さん」
多美が寄ってきて、心配そうな顔で見降ろしてきた。
「母親が具合悪くなったと言って帰ってきたの。ちょうどお盆の休みが終わったばかりなんだけど、うちの会社はけっこう休めるから」
「ごめん、水持ってきてくれ」
コップ。差し出されたが頭が上がらない。それを見ると、多美は自分で水を含み、口移しで和樹に飲ませた。
こんなこと、絶対に貴美子はするまい。
「おれ、犯人を殺すよ」
「だめよ。そしたら和さんが――」
「抱いてくれ」
抱かれた。多美は筋肉質だ。とくに太ももがパツンパツンに太い。
七面鳥のもも、あるいは、ブラジルのサンバダンサーを思い出す。三羽の七面鳥とサンバを踊る多美――妙な空想が湧いて、ふっと気持ちが和んだ。
そのあと風呂に入り、一緒にメシを食った。
夜の七時になったとき、タクシーを呼んだ。
キスをして多美と別れる。タクシーの中で携帯の電源を入れた。貴美子からのメールが三件入っていた。読まなかった。
ひとまず自宅へ。マスコミがいないのでほっとする。
風呂場に行って湯を張り、そこに自分の髪の毛を落とす。アリバイ工作だ。
車で妻の実家へ。しつこいマスコミに中指を立てて、家に入る。
貴美子はリビングにいた。
和樹に半分だけ顔を振り向けて、紙切れを差し出してきた。
離婚届。
「わたしは殴られたことを赦さない。赦したらあんたはまたやる。どんな言い訳も、暴力を正当化することはできない。だからこれは決定。話し合いの余地はないのよ」
「待てよ。おれが手を出した原因が、そっちには一パーセントもないというのか?」
「何時間も前に、友華が帰ってきたのよ。あんたなにしてたの? 何回も電話したのに。こんなときに出て行くなんて、もう友華の父ですらないわ」
忘れていた。遺体が午後に戻ってくると、警察に教えられていたのだった。
家中に和樹を責める空気。カッとなった。
「友華が帰ってきたからって、なんだよ。ただの死体じゃないか。もう安置所で見たよ。生きた友華が帰ってくるんじゃなけりゃ、なんの意味もねえ」
言いながら、感情が抑えられなくなってきた。
「葬式も出ないからな。死体なんてただの物体だろうが。そんなもん囲んで、女どもがキチガイみたいにヒーヒー泣くのに付き合ってられるか!」
離婚届をひったくってリビングを出ようとした。すると雅斗くんが、
「待ってください。少し落ち着きましょう。この状況を作り出したのは小宮です。怒るべきは小宮に対してであって、家族で言い合ってる場合じゃないです」
「そうだ、勝間田さんからメールは来てたかな。パソコンを見ていいか」
返事を待たずに二階へ行った。雅斗くんが来るのを待つあいだに、熊野刑事に電話した。
「友華のことで、新たにわかったことはありますか?」
「亡くなられたのは昨日の正午前後という推定です。コードで窒息させられたのが死因で、そのほかに外傷はありません」
「いたずらされた形跡は?」
「傷などはありません」
「それは友華が抵抗しなかったからですか?」
「わかりません。わいせつに関することは、なにも供述していませんので」
「女の子を誘拐して四日間、ただ眺めていたと?」
「お菓子やおもちゃを与えて、遊んであげていたと言うのですがね。そこは被疑者にしかわからない部分ですから、なんとしても勾留中に白状させますよ」
「頼みます」
「あとですね、弁護士に村松さんのお気持ちを話したんですが、村松さんの報復感情が強すぎるという理由で、母親に会わせることはできないというんですね」
「なんですって? 謝る気がないんですか?」
まあお気持ちは察しますなどと、遺族でもない刑事がわかったようなことを言うので、電話を切った。壁を蹴る。
雅斗くんが来てパソコンをつけた。
小宮清伸に関する調査報告。まだ一日しか経っていないが、勝間田はよく調べてあった。
現在十七歳と二か月。身長は百六十センチ弱、体重は五十キロ前後。高校二年生にしたら、かなり小柄だ。
成績は中の下。スポーツは不得意。趣味は読書と音楽鑑賞。親しい友人はなし。
中学一年生でイジメの標的になる。不登校にはならず。二年生に進級すると集団によるイジメ行為は終わったが、それ以降も同級生と会話することはあまりなかった。
近所の住民によると、小宮は小学生のときからつい最近まで、幼児を相手に公園で遊ぶなどしていた。その様子からは優しいお兄ちゃんという印象しか受けなかったので、三歳の女の子を殺したことはまことに意外だった。
ここからわかること。小宮清伸という背の小さい男は、イジメたくなるような性質を持っていた。同級生たちは、後年幼児を殺すに至るような不気味さを、いち早く嗅ぎとっていたのかもしれない。
小宮は自分より小さく弱い相手に、慰めを求めた。同年代の女に相手にされないことは明らかだから、自然と幼児がその対象となる。性的な欲求が高まる。女の子を誘拐し、欲望を果たす。処置に困って首を絞める――
メールには画像が添付されていた。小宮の母親の顔写真。
四十四歳ということだが、童顔な印象。目も鼻も口も小ぶり。地味な顔。
「雅斗くん、紙とボールペンをくれ。あと封筒も」
が、雅斗くんは動かない。
「それよりも姉のことですけど、離婚届書いたの、きっと後悔してると思いますよ」
「もう遅い」
「でも別れちゃったら、一緒に闘えないじゃないですか。おそらく裁判が終わるまで、一年以上かかるでしょうし」
「どうせ死刑にはならないんだろ? 裁判なんか見るだけ無駄だ。そんなら刑務所を出てきたときに殺そうって、雅斗くんも言ってたじゃないか」
雅斗くんが目を伏せた。
「まさか、もう気が変わったの?」
「……すみません。よく考えずに言ってました」
失望。
「まあいいや。紙をくれ」
小宮彰子に手紙を書いた。
拝啓。友華の父です。まだ謝罪がありませんね。あなたの家では誰かを傷つけたとき、ほっとけばいいよと教えましたか? そしたらあんな息子が育ちましたか? イジメられていたそうですが、人に謝れないからそうなったんじゃないですか? あなたがこれを読んでいるということは、まだ生きていますね? 生きているということは、食べたり飲んだり寝たりしているわけですね? われわれはこんなに苦しんでいるのに、あなたは寝ているのですね? 随分立派な家に住んでいますが、それを売ってわれわれに少しでも償おうという気は起こりませんか? 三歳のなんの罪もない子が猛烈な痛みと恐怖の末に殺されて、下劣な殺人犯が平気で生きていることはどう思いますか? あなたの息子がしたことを謝ってください。人として行動してください。われわれは死にそうです。死んでください。死んでください。死んでください。死んでください。死んでください。死んでください。死んでください。死んでください。死んでください。死んでください。
封筒に手紙を入れて宛名と住所を書き、車でコンビニへ行って郵送を頼んだ。
ついでに酒を買って車に戻ると、勝間田に電話した。
「たくさん調べてくださって、ありがとうございます」
「お役に立てたなら嬉しいです」
「一度お会いしたいですね。犯人の野郎を殺したいと思うのですが、そういう自然の感情を抑えつけようとする圧力が内外にありましてね。勝間田さんでしたら、きっとこの気持ちをわかってくださると思いまして」
「被害者の会の方を紹介しましょうか?」
「それはいいです。いつ会えるでしょう。明日の朝九時では?」
「いいですよ」
海野多美のアパートで会うことにした。自宅にはマスコミが来る可能性があったし、外で会う気にはなれなかった。話を多美に聞かれることは構わない。
多美のアパートに行った。
「妻とは別れる。今日から一緒に住もう」
多美が息を呑んだ。唇をつけると、チューチュー吸われた。
寝た。
翌朝、勝間田が来ることを多美に話し、職場に電話した。上司を呼び出して退職の意志を告げる。
「退職じゃなくて、休職にすればいい」
「いえ、もう二度と働きたくないのです。みんなわたしの娘が殺されたことを知っています。そんな悲劇の主が近くにいたら、誰も冗談さえ言えない職場になるでしょう」
すると明らかにほっとした声で、
「残念だなあ。気が変わったら、いつでも戻って来いよ」
あとはもう、どこからの電話にも出たくなかったので、携帯の電源を切った。
午前九時、約束どおりの時間に勝間田は現れた。黒のスーツ姿だった。
「ハハハ、葬式みたいな恰好ですね。気を遣わなくても、わたしなんてジーパンですよ」
勝間田は和菓子の箱を差し出しながら、
「笑顔を見て安心しましたよ。村松さんは、実に立派ですね」
「リッパ? どこがです?」
「この状況によく耐えておられます。さぞ苦しいでしょうに」
「フフ。妻と離婚を決めて、愛人のアパートに転がり込んだところですよ。今日からは愛人じゃなくて、なんだろう、彼女かな? 海野多美といいます。多美、勝間田章吾さんにご挨拶して」
互いにぎこちない表情で会釈した。
事件の話をした。小宮のことをどう思うかと、勝間田に訊いた。
「あんな異常なことをする輩は、モンスターですよ」
「更正の見込みは?」
「ありません」
「再犯の可能性は?」
「あります」
「じゃあ殺したほうがいいですね」
「死刑にできればどれだけいいか」
「法律が変わる可能性はありますか?」
「難しいです。ですが、例えば小宮のようなやつが出所後に二度目の殺人を犯せば、少年法を変えろという大合唱が起こるでしょう」
「待ってられないな。ところで小宮が出所したら、インターネットに情報が出ますかね」
「でしょう。そのころは今より相当ネットも進化してるでしょうから、性犯罪者がどこに住んでどんな仕事をしてるかも、わかるようになるかもしれませんよ」
「そりゃあいい。いつでも殺しにいける」
「ハハハハ。やるなら完全犯罪でね。それで村松さんが捕まったら、どうにもやるせないですから」
「そうよ。和さんがやったら絶対にだめよ」
多美が口を挟んだ。この女は道連れにしたい。多美という女には、そう思わせるところがある。一緒に堕ちる相手は多美だ。
「じゃあさ、実行犯はお願いしていいかな。あいつが出所してきたら、色仕掛けで誘い出すとかして」
多美が反射的に笑った。まるで今のを冗談にするように。だが冗談ではなかった。
「どうでしょう、村松さんの今の率直なお気持ちを、わたしのする講演会の中でお話しくださることはできないでしょうか?」
勝間田が言ってきた。即座に首を振った。
「せっかくですが、お断わりします。人前に出るつもりはありません」
「では、手記をお書きになるのはどうですか?」
「同じです。わたしは存在を消したいのです。復讐するんですから」
勝間田は、わかりました、また会いましょうと言って去った。だがまた会うのは危険かもしれないと感じた。
つい正直な気持ちを言いすぎてしまった。将来やるべき完全犯罪が、こういうことから崩れてしまってはいけない。
勝間田が帰るとやることがなく、小宮の母親に糾弾の手紙の第二弾を書いて、ポストまで歩いた。そのときふと、小さな教会が目に留まった。
ちょうど無料の講演会をしているようだったので、入った。
演壇に牧師ふうの初老の男がいた。五十人ほどが行儀よく坐って聴いている。
やがて講演が終わった。演壇にまっすぐ向かう。
すると牧師が満面の笑みで、
「ようこそおいでくださいました。初めての方ですね?」
和樹は相手の目を正面から見据え、
「神様は、どんな罪でもお赦しになりますか?」
牧師が真剣な顔になる。
「赦されない罪もあります。ですが、ほとんどの罪は赦されます」
「赦されない罪とは?」
「神に対する冒瀆です。意図的に神に反逆し、神を辱める道を歩みつづけるなら、赦しは得られないでしょう。ですがたいていの過ちは、悔い改めることで赦されます」
「殺人は赦されますか」
「心から悔い改めるなら」
「悔い改めるだけで、いいんですね?」
「神から見て本当に心を入れ替えたならばです。生き方も、人格も変えなければなりません。ですから自分一人の力では無理でしょう。神の救けが必要です」
「人を殺しても、神に救けを求めたら赦されるよと、あなたは教えているのですか?」
「わたしの考えではありません。み言葉にそうあるのです」
「殺されたものの家族はどうなります? 殺人犯が神に赦されたら、たまったもんじゃないでしょう」
「わたしたちはみな罪人です。その罪を神は赦してくださいます。事実、神の大きな赦しがなければ、わたしたちは生きていけないのです。それなのに、誰かを決して赦さないとするなら、その人自身はどうして神に赦しを求められるでしょう」
「ちょっと待った! たとえばおれが、娘を殺されたとしよう。おれは殺人犯を決して赦さないと誓う。それによって神に赦してもらえなくなる。ところが犯人のほうは神に救いを求めて、心を入れ替えた結果、神に赦されたとする。するとどうなる? おれは地獄に堕ちて、そいつは天国に行くのか?」
牧師の目に驚きの色が浮かんだ。近所で起きた殺人事件に思い至り、和樹が誰だか見当がついたのかもしれない。しかし牧師は声の調子を変えず、
「すべては神の目から見てどうかです。犯人の方がどうなるか、被害者の方がどうなるかは、それぞれの心によって最終的に神が――」
みなまで聞かずに牧師を殴った。女たちの悲鳴が響いた。