腹が減っていた。
ペコペコで死にそうだった。ラーメン、ピザ、ハンバーガー、フライドポテト。
頭の中には、食べ物のことしかなかった。
早く亜子ちゃんを説得して、なにか食べさせよう。もう痩せなくていいんだよ、充分きみはキレイだよ、少し太って健康的になったほうが魅力的だよ、そのほうがきっとオーディションにも受かるよ。
亜子ちゃんが食べることに同意したら、二人で外食しよう。
最初は野菜がいいかもしれない。山盛りのサラダを注文しよう。
胃袋が慣れてきたら肉もいい。肉汁たっぷりの柔らかいステーキ。いや、それよりも、お寿司のほうがいいかな。
が、とりあえず今は、仕事だ。
殺人事件に巻き込まれたと言っていた。でもぼくは、十八歳で探偵になってからおよそ二十年間、殺人事件は一度も扱ったことがなかった。
だって、小説ならいざ知らず、それは百パーセント警察の仕事だから。
だからどうしていいかわからない。怖いけど、まずは死体を見てみるか。
でもその前に、
「どうしてあなたがここに?」
三年ぶりに、実に意外な場所でばったり会ったデャーモンに訊いた。
デャーモンはクツクツ笑いながら、
「おれ様ハ、デャーモン名義で宇宙メタルをやる前に、星王子という芸名でロカビリーをやってイタ。ほかにも別名で、演歌やポップスをやったこともアルぞ。そしてこちらは」
二人の女性のほうを手で示し、
「星王子のコロに付き合った女と、そのあいだに産まれた子ダ」
ガツンと、頭を殴られたような衝撃があった。
亜子ちゃんが、デャーモンの娘?
ぼくが命をかけて愛しぬいた亜子ちゃんが、この変人の――
「とり憑かれたナ、探偵」
デャーモンの甲高い声が、カロリー不足でよく働かない脳みそに響く。
「おれ様の娘なんかに惚れるカラ、そんなハンペンみたいに痩せちまって」
「いや、ちがう。これはダイエットだ」
ハードボイルドらしくやせ我慢を貫いたとき、デャーモンが横に動いて、お腹から血をもりもり出した死体が見えた。
「これはひどい……」
思わずつぶやくと、デャーモンが状況を説明した。
「そんなバカな」
ぼくはあきれて言った。
「亜子ちゃんが抵抗したほずみで殺しちゃったって? バカバカしい。腕なんて、こんな紐みたいに細いんだぞ。そんな力あるはずがない」
「ダガな、探偵」
デャーモンは、父親のくせに娘をかばおうともせずに言った。
「もし亜子が、男に襲われそうになった瞬間に理性がフッとんで、普段は眠っている力を爆発させたら、このくらいは朝飯前にできたダロウ」
「バカバカしい」
さっきと同じセリフが出た。いくら理性がふっとんで、獣のように本能で行動したとしても、お腹をこんなふうに切るはずがない。
「じゃあ、兇器の刃物はどこにあるんだ」
「刃物? ナンの話だ?」
デャーモンが首を捻る。察しの悪いアメリカ人だ。
すると亜子ちゃんの母親の木村由利子が、
「もしあんたが、記憶喪失の状態でやったんなら、手に血の匂いが残ってるんじゃない?」
実にむごいことを言った。これでもこの女は、人間だろうか。
亜子ちゃんは悲しげに立っていたが、やがて手をゆっくりと鼻に持っていき、
「……本当だわ。すっぱい変な匂いがする。わたくし、記憶喪失のまま手を洗ったんでしょうけど、匂いは落ちなかったのですね」
そう言うと、どこか吹っ切れたような顔をぼくに向け、
「ありがとうございます、蝶舌さま。わたくしが犯人だったようでございます。自首して刑務所に参ります。どうせこれでもう、アイドルにはなれませんし、だったら死刑になっても一緒でございますから」
「なにを言う」
ぼくは本気で叱った。
「もし仮に、きみが抵抗したはずみで死なせたとしても、それは正当防衛じゃないか。それにぼくは、どう考えても、きみが犯人とは思えない」
「マアマア、探偵」
デャーモンが、馴れ馴れしく肩に手を置いてきた。
「亜子はおれ様の血を引いてるんだ。アメリカ人は、力が強いのサ」
「そうよ、探偵さん」
由利子までもが言う。
「この状況じゃ、亜子以外に犯人がいるとは思えないし、そろそろ自分がやったっていう記憶も戻ってくるんじゃないかしら」
「きみたちは」
ぼくは怒りで目の前が暗くなるのを覚えながら言った。
「自分の娘を信じないのか」
「いいのでございます」
亜子ちゃんが笑顔で言った。やつれてはいても、その笑顔は、やっぱり奇跡のように美しかった。
「わたくし、また一キロも太って、醜くなったのです。死んだほうがいいのです。ですが、この三年間は、蝶舌さまがいたので頑張れました。亜子はとっても幸せでしたわ」
「バカッ!」
ぼくは手を振りあげた。
亜子ちゃんが目をつぶる。
ぼくは死体に近づいて、振りあげた手を、丸々太ったお腹の上に降ろした。
「見ろ」
亜子ちゃんが目をあける。
「ぼくの手には、びっちょりと被害者の血がついた。すなわちこれが、ぼくが犯人である証拠だ」
フフッとニヒルに笑うと、亜子ちゃんが息を呑む音がした。
「実はぼく、きみのストーカーだったんだ。そうしたら、男とこの家に入っていくのを目撃した。そして自分も、探偵のピッキング術を使って侵入した。すると男がきみを襲った。きみは気を失った。ぼくは男を後ろから殴って気絶させ、庖丁でお腹を切った。だからきみはやってない。やったのはぼくだ」
「どうして……」
「ぼくは無能な探偵で、どうすりゃきみを救けられるかわからない。きみの依頼を果たすには、自分が犯人になるしかないんだ」
つまりはそれが、ぼくのピュアな愛なのさ。亜子ちゃん。
「無理スンな」
デャーモンが言う。
「証拠なんて気にしなくてイイさ。死体なら、宇宙墓場に棄てといてやるヨ。亜子のこともおれ様に任せろ」
「おれに任せろだって?」
由利子が、さも軽蔑したように鼻を鳴らして言った。
「二十年間、全部わたしにやらせたくせに。あんたの血の混じった子を育てるのがどんなに大変だったか。あんたこそ、刑務所へ行けばいいのよ」
「なにヲ!」
デャーモンが怒って腕を突き出すと、由利子は壁までふっとんで気絶した。
「亜子だってこれくらいはデキる。おれ様の子だもの」
そう言うと、優しい眼差しを亜子ちゃんに向け、
「人を死なせたショックで、気を失ったんダナ。かわいソウに。一時的に記憶をなくしたおまえは、本能のままに行動シタ。つまり、めちゃくちゃに腹が減っていたので、冷蔵庫をアサって体重が一キロ増えるくらい食ッタ。でも充たされなかった。すると、目の前に、豚さんが倒れてイル。こいつはおれ様のライブの常連だったが、みんなが二度見するほど豚そっくりダッタ。だからそれが、猛烈に腹のヘッタおまえに、豚の丸焼きに見えたのも仕方がない。おまえは味つけして食べヨウと、冷蔵庫からケチャップを出してかけた」
ケチャップ?
ぼくは急いで自分の手を鼻に持っていった。ツーンとすっぱい匂いは、まぎれもなくケチャップのそれだった。
「そこでおまえは、フッと我に返った。すると人が死んでイル。その記憶がナイおまえは、びっくりして、まだ朦朧としている頭で母親に電話をカケた。そのあと、だんだん意識がはっきりシテくると、探偵を呼ばなくてはと考えるようになった。そのときには、母親を呼んだ記憶も消えてイタ」
デャーモンは、そこでニヤリと笑い、
「この豚が死んだのは、おれ様の娘に悪いことをしようとした罰ダ。亜子、おまえはこいつのことナンカ気にしないで、おれ様の国に来い。イジメっ子の母親がいなければ、きっと幸せにナレる」
「お父さま」
亜子ちゃんが、デャーモンの目を真っ直ぐに見て言った。
「お父さまのお国で、わたくし、アイドルになれるでしょうか?」
「もちろん! 亜子なら絶対、宇宙的な人気者にナレるぞ」
「参りますわ!」
抱き合った父娘を見て、ぼくは黙って家を出た。
アメリカに行くんじゃしょうがない。ハーフは無理だと言ったミス・コケティッシュの忠告は、やっぱり正しかったようだ。
ぼくも腹が減った。なにか食べよう。
駐めておいた愛車の赤いカプチーノに乗り込んだとき、スマホが鳴った。
ミス・コケティッシュかな、と思ったらちがった。
彼女だった。
三年前に、あの言葉を聞いたきり。
『本当に、元気な女の子が産まれたわ! ありがとう、坊や』
ぼくの子どもを産んだ、海野多美さんからだった。
(第二部終わり。第三部 多美篇に続く)
ペコペコで死にそうだった。ラーメン、ピザ、ハンバーガー、フライドポテト。
頭の中には、食べ物のことしかなかった。
早く亜子ちゃんを説得して、なにか食べさせよう。もう痩せなくていいんだよ、充分きみはキレイだよ、少し太って健康的になったほうが魅力的だよ、そのほうがきっとオーディションにも受かるよ。
亜子ちゃんが食べることに同意したら、二人で外食しよう。
最初は野菜がいいかもしれない。山盛りのサラダを注文しよう。
胃袋が慣れてきたら肉もいい。肉汁たっぷりの柔らかいステーキ。いや、それよりも、お寿司のほうがいいかな。
が、とりあえず今は、仕事だ。
殺人事件に巻き込まれたと言っていた。でもぼくは、十八歳で探偵になってからおよそ二十年間、殺人事件は一度も扱ったことがなかった。
だって、小説ならいざ知らず、それは百パーセント警察の仕事だから。
だからどうしていいかわからない。怖いけど、まずは死体を見てみるか。
でもその前に、
「どうしてあなたがここに?」
三年ぶりに、実に意外な場所でばったり会ったデャーモンに訊いた。
デャーモンはクツクツ笑いながら、
「おれ様ハ、デャーモン名義で宇宙メタルをやる前に、星王子という芸名でロカビリーをやってイタ。ほかにも別名で、演歌やポップスをやったこともアルぞ。そしてこちらは」
二人の女性のほうを手で示し、
「星王子のコロに付き合った女と、そのあいだに産まれた子ダ」
ガツンと、頭を殴られたような衝撃があった。
亜子ちゃんが、デャーモンの娘?
ぼくが命をかけて愛しぬいた亜子ちゃんが、この変人の――
「とり憑かれたナ、探偵」
デャーモンの甲高い声が、カロリー不足でよく働かない脳みそに響く。
「おれ様の娘なんかに惚れるカラ、そんなハンペンみたいに痩せちまって」
「いや、ちがう。これはダイエットだ」
ハードボイルドらしくやせ我慢を貫いたとき、デャーモンが横に動いて、お腹から血をもりもり出した死体が見えた。
「これはひどい……」
思わずつぶやくと、デャーモンが状況を説明した。
「そんなバカな」
ぼくはあきれて言った。
「亜子ちゃんが抵抗したほずみで殺しちゃったって? バカバカしい。腕なんて、こんな紐みたいに細いんだぞ。そんな力あるはずがない」
「ダガな、探偵」
デャーモンは、父親のくせに娘をかばおうともせずに言った。
「もし亜子が、男に襲われそうになった瞬間に理性がフッとんで、普段は眠っている力を爆発させたら、このくらいは朝飯前にできたダロウ」
「バカバカしい」
さっきと同じセリフが出た。いくら理性がふっとんで、獣のように本能で行動したとしても、お腹をこんなふうに切るはずがない。
「じゃあ、兇器の刃物はどこにあるんだ」
「刃物? ナンの話だ?」
デャーモンが首を捻る。察しの悪いアメリカ人だ。
すると亜子ちゃんの母親の木村由利子が、
「もしあんたが、記憶喪失の状態でやったんなら、手に血の匂いが残ってるんじゃない?」
実にむごいことを言った。これでもこの女は、人間だろうか。
亜子ちゃんは悲しげに立っていたが、やがて手をゆっくりと鼻に持っていき、
「……本当だわ。すっぱい変な匂いがする。わたくし、記憶喪失のまま手を洗ったんでしょうけど、匂いは落ちなかったのですね」
そう言うと、どこか吹っ切れたような顔をぼくに向け、
「ありがとうございます、蝶舌さま。わたくしが犯人だったようでございます。自首して刑務所に参ります。どうせこれでもう、アイドルにはなれませんし、だったら死刑になっても一緒でございますから」
「なにを言う」
ぼくは本気で叱った。
「もし仮に、きみが抵抗したはずみで死なせたとしても、それは正当防衛じゃないか。それにぼくは、どう考えても、きみが犯人とは思えない」
「マアマア、探偵」
デャーモンが、馴れ馴れしく肩に手を置いてきた。
「亜子はおれ様の血を引いてるんだ。アメリカ人は、力が強いのサ」
「そうよ、探偵さん」
由利子までもが言う。
「この状況じゃ、亜子以外に犯人がいるとは思えないし、そろそろ自分がやったっていう記憶も戻ってくるんじゃないかしら」
「きみたちは」
ぼくは怒りで目の前が暗くなるのを覚えながら言った。
「自分の娘を信じないのか」
「いいのでございます」
亜子ちゃんが笑顔で言った。やつれてはいても、その笑顔は、やっぱり奇跡のように美しかった。
「わたくし、また一キロも太って、醜くなったのです。死んだほうがいいのです。ですが、この三年間は、蝶舌さまがいたので頑張れました。亜子はとっても幸せでしたわ」
「バカッ!」
ぼくは手を振りあげた。
亜子ちゃんが目をつぶる。
ぼくは死体に近づいて、振りあげた手を、丸々太ったお腹の上に降ろした。
「見ろ」
亜子ちゃんが目をあける。
「ぼくの手には、びっちょりと被害者の血がついた。すなわちこれが、ぼくが犯人である証拠だ」
フフッとニヒルに笑うと、亜子ちゃんが息を呑む音がした。
「実はぼく、きみのストーカーだったんだ。そうしたら、男とこの家に入っていくのを目撃した。そして自分も、探偵のピッキング術を使って侵入した。すると男がきみを襲った。きみは気を失った。ぼくは男を後ろから殴って気絶させ、庖丁でお腹を切った。だからきみはやってない。やったのはぼくだ」
「どうして……」
「ぼくは無能な探偵で、どうすりゃきみを救けられるかわからない。きみの依頼を果たすには、自分が犯人になるしかないんだ」
つまりはそれが、ぼくのピュアな愛なのさ。亜子ちゃん。
「無理スンな」
デャーモンが言う。
「証拠なんて気にしなくてイイさ。死体なら、宇宙墓場に棄てといてやるヨ。亜子のこともおれ様に任せろ」
「おれに任せろだって?」
由利子が、さも軽蔑したように鼻を鳴らして言った。
「二十年間、全部わたしにやらせたくせに。あんたの血の混じった子を育てるのがどんなに大変だったか。あんたこそ、刑務所へ行けばいいのよ」
「なにヲ!」
デャーモンが怒って腕を突き出すと、由利子は壁までふっとんで気絶した。
「亜子だってこれくらいはデキる。おれ様の子だもの」
そう言うと、優しい眼差しを亜子ちゃんに向け、
「人を死なせたショックで、気を失ったんダナ。かわいソウに。一時的に記憶をなくしたおまえは、本能のままに行動シタ。つまり、めちゃくちゃに腹が減っていたので、冷蔵庫をアサって体重が一キロ増えるくらい食ッタ。でも充たされなかった。すると、目の前に、豚さんが倒れてイル。こいつはおれ様のライブの常連だったが、みんなが二度見するほど豚そっくりダッタ。だからそれが、猛烈に腹のヘッタおまえに、豚の丸焼きに見えたのも仕方がない。おまえは味つけして食べヨウと、冷蔵庫からケチャップを出してかけた」
ケチャップ?
ぼくは急いで自分の手を鼻に持っていった。ツーンとすっぱい匂いは、まぎれもなくケチャップのそれだった。
「そこでおまえは、フッと我に返った。すると人が死んでイル。その記憶がナイおまえは、びっくりして、まだ朦朧としている頭で母親に電話をカケた。そのあと、だんだん意識がはっきりシテくると、探偵を呼ばなくてはと考えるようになった。そのときには、母親を呼んだ記憶も消えてイタ」
デャーモンは、そこでニヤリと笑い、
「この豚が死んだのは、おれ様の娘に悪いことをしようとした罰ダ。亜子、おまえはこいつのことナンカ気にしないで、おれ様の国に来い。イジメっ子の母親がいなければ、きっと幸せにナレる」
「お父さま」
亜子ちゃんが、デャーモンの目を真っ直ぐに見て言った。
「お父さまのお国で、わたくし、アイドルになれるでしょうか?」
「もちろん! 亜子なら絶対、宇宙的な人気者にナレるぞ」
「参りますわ!」
抱き合った父娘を見て、ぼくは黙って家を出た。
アメリカに行くんじゃしょうがない。ハーフは無理だと言ったミス・コケティッシュの忠告は、やっぱり正しかったようだ。
ぼくも腹が減った。なにか食べよう。
駐めておいた愛車の赤いカプチーノに乗り込んだとき、スマホが鳴った。
ミス・コケティッシュかな、と思ったらちがった。
彼女だった。
三年前に、あの言葉を聞いたきり。
『本当に、元気な女の子が産まれたわ! ありがとう、坊や』
ぼくの子どもを産んだ、海野多美さんからだった。
(第二部終わり。第三部 多美篇に続く)