お母さまは、不機嫌でいらした。
決して外では見せないあの表情、娘の亜子だけに見せる、あの、人格否定の罵詈雑言を浴びせる直前の、鬼の形相をしていらっしゃった。
「悪い子ね」
ドアを閉めるなり、言った。
「なによ、人が殺されてるって。一生懸命育てた挙句にこんなことになって……この親不孝者!」
お母さまは、そばにいる殿方のことなど目に入らない様子で、わめいた。
「あんたって子は! こうやって、わたしを苦しめるために生まれてきたの? 殺人事件に巻き込むなんて、恩を仇で返してんじゃないのよっ!」
亜子は、怒られて腹が立つとか悲しいとかよりも、羞ずかしい思いが先に立った。
お母さまのいつものヒスを、ついに他人に見られてしまった。
羞ずかしいからやめて、と言いたかった。
でも、その一方で、お母さまの本当のお姿を、誰かに見てもらいたくもあった。
「うるさいぞ」
殿方が言った。
「ここは殺人現場だ。大きな声を出して、近隣の注意を引くのはやめてもらおう」
するとお母さまは、殿方をまともににらみつけて言った。
「わたしに命令しないでよ、ひとでなしのくせに」
これにはびっくりした。
お母さまは、この犯人さんを知ってる?
「ひとでなしはどっちだ」
犯人さんもまた、お母さまのことを知っていらっしゃるようだった。
「娘をストレスの吐け口にして、イジメて楽しんできたことがよーくわかった」
「あんたに言われる筋合いはないわよ」
唾でも吐きそうな感じで言うと、お母さまはリビングに入ってこられた。
「変な匂い……なにこれ、やだ、すごい血じゃない」
と、案外に冷静に死体を見ると
「あんたがやったの?」
いきなり言ったのでぞっとした。
まずいですわ、お母さま。殺人鬼さんに向かって、そんなふうにストレートにおっしゃるのは。
そう思ってお母さまを見たら、お母さまはじーっとこっちを見ていた。
え? まさか。
「あんたがやったのって……わたし?」
混乱した。実の母親が、娘を疑っている?
「だってさあ」
お母さまがいつものように、亜子をどこまでも見くだした口調で言った。
「このデブに襲われそうになったんでしょ? それで抵抗したら、はずみで頭を打って死んだ。テレビドラマでよくある設定じゃない」
「ちょっと待ってよ!」
悲鳴に近い声が出た。
「それならどうして、お腹が切れてるの!」
「わたしに訊いたって知らないわよ。たまたまあんたの手に、ナイフでもあったんじゃない? で、むちゃくちゃに抵抗したら、ズバッと切れた」
「ひどい……」
いったいどうしてお母さまは、こんなにひどいことを言うのだろう。
(きみは二十年間、イジメっ子と暮らしてきた)
殿方のおっしゃったセリフが、頭の中をぐるぐるとまわる。
「お母さま」
涙声になった。だけど、泣く子は大っ嫌い、と言われた幼いころから、ずっとお母さまには涙を見せないできた。だから、必死にこらえた。
「どうしてここがわかったの? どうしてわたくしが、赤沢さまに襲われそうになったって知ってるの?」
「はあ?」
心底あきれたという顔で、
「あんたが自分で電話してきたでしょ。男に襲われて、気がついたらそいつが殺されてた。駅からこの家までの道順はこうだって。だから来てやったんじゃない」
「わたくしが……お電話を?」
確かに蝶舌さまにはかけた。だけど、お母さまにかけた記憶はない。
もはや、なにがなんだかわからなくなって、スマホを見た。
と、蝶舌さまにかけた十分前に、お母さまにかけた履歴が残っていた。
足から力が抜けた。絨緞の上にへたり込む。
そこへ、お母さまの声が降ってきた
「とぼけてるんじゃないようね。じゃあ本当に忘れたんだ。このデブを殺したショックで、ちょっとした記憶喪失になったのね」
「ちがいますわ」
首を振った。ショックで記憶を失った、というのは確かにそうだろう。でもそのショックは、きっと死体を見たせいで、自分が殺したからではない。
蝶舌さまに電話したことは憶えてるのに、お母さまにかけたことは憶えてない。じゃあほかにも、なにかとっても大事なことを、忘れてしまっているのだろうか?
「だけどさあ、人が死んでるから来てって言われても、わたしじゃどうすることもできないじゃない。かといって、他人に一緒に来てもらうわけにはいかないし。だから、ほとんど二十年ぶりに、こいつに電話したのよ。番号が変わってなくて、こいつの声が出たときは、正直ムカっとしたけどね。あんたの娘が殺人現場にいるらしいから、行ってなんとかしなさいよって言ったら、よし任せろだって。バカにしてると思わない? わたしたちを捨てといて、ごめんなさいの一言もないのよ」
あんたの、娘?
じゃあ、この殿方が……星王子?
お父さまなの?
殿方を見る。優しい眼差しとぶつかる。
おまえのことは、パパがすべてわかっているぞという目。
そうだわ。顔はそんなに似ていらっしゃらないけど、内面に、わたくしと同じものを秘めている感じがする。人間社会になじめない、決して心から幸せになれない、暗い、名づけようのないなにかを。
それを瞬時に理解して、亜子は胸が熱くなった。
「ありがとう……」
お父さまに言った。お父さまはうなずく。良かった。犯行現場に戻ってきた、殺人鬼さんじゃなかったのね。
カチャリ、と、ドアノブがまわる音した。
ハッと振り向く。
ドアが開く。玄関に、蝶舌純亜さま。
ジーンズにTシャツという、いつものラフな恰好。
が、服に包まれたその身体は、もはやハンペンのように薄かった。
「久しぶり、亜子ちゃん」
蝶舌さまは、蚊の鳴くような声で言った。
「また痩せたなあ。ダメじゃないか、ちゃんと食べなきゃあ」
亜子の目から、不意にぽろりと涙がこぼれた。
するとお父さまが右手を上げ、
「ヤア、探偵」
と言った。
え、どうして知ってらっしゃるのと驚き、お父さまと蝶舌さまを交互に見た。
すると蝶舌さまも驚いたように目をむき、
「……デャーモン」
と言った。
決して外では見せないあの表情、娘の亜子だけに見せる、あの、人格否定の罵詈雑言を浴びせる直前の、鬼の形相をしていらっしゃった。
「悪い子ね」
ドアを閉めるなり、言った。
「なによ、人が殺されてるって。一生懸命育てた挙句にこんなことになって……この親不孝者!」
お母さまは、そばにいる殿方のことなど目に入らない様子で、わめいた。
「あんたって子は! こうやって、わたしを苦しめるために生まれてきたの? 殺人事件に巻き込むなんて、恩を仇で返してんじゃないのよっ!」
亜子は、怒られて腹が立つとか悲しいとかよりも、羞ずかしい思いが先に立った。
お母さまのいつものヒスを、ついに他人に見られてしまった。
羞ずかしいからやめて、と言いたかった。
でも、その一方で、お母さまの本当のお姿を、誰かに見てもらいたくもあった。
「うるさいぞ」
殿方が言った。
「ここは殺人現場だ。大きな声を出して、近隣の注意を引くのはやめてもらおう」
するとお母さまは、殿方をまともににらみつけて言った。
「わたしに命令しないでよ、ひとでなしのくせに」
これにはびっくりした。
お母さまは、この犯人さんを知ってる?
「ひとでなしはどっちだ」
犯人さんもまた、お母さまのことを知っていらっしゃるようだった。
「娘をストレスの吐け口にして、イジメて楽しんできたことがよーくわかった」
「あんたに言われる筋合いはないわよ」
唾でも吐きそうな感じで言うと、お母さまはリビングに入ってこられた。
「変な匂い……なにこれ、やだ、すごい血じゃない」
と、案外に冷静に死体を見ると
「あんたがやったの?」
いきなり言ったのでぞっとした。
まずいですわ、お母さま。殺人鬼さんに向かって、そんなふうにストレートにおっしゃるのは。
そう思ってお母さまを見たら、お母さまはじーっとこっちを見ていた。
え? まさか。
「あんたがやったのって……わたし?」
混乱した。実の母親が、娘を疑っている?
「だってさあ」
お母さまがいつものように、亜子をどこまでも見くだした口調で言った。
「このデブに襲われそうになったんでしょ? それで抵抗したら、はずみで頭を打って死んだ。テレビドラマでよくある設定じゃない」
「ちょっと待ってよ!」
悲鳴に近い声が出た。
「それならどうして、お腹が切れてるの!」
「わたしに訊いたって知らないわよ。たまたまあんたの手に、ナイフでもあったんじゃない? で、むちゃくちゃに抵抗したら、ズバッと切れた」
「ひどい……」
いったいどうしてお母さまは、こんなにひどいことを言うのだろう。
(きみは二十年間、イジメっ子と暮らしてきた)
殿方のおっしゃったセリフが、頭の中をぐるぐるとまわる。
「お母さま」
涙声になった。だけど、泣く子は大っ嫌い、と言われた幼いころから、ずっとお母さまには涙を見せないできた。だから、必死にこらえた。
「どうしてここがわかったの? どうしてわたくしが、赤沢さまに襲われそうになったって知ってるの?」
「はあ?」
心底あきれたという顔で、
「あんたが自分で電話してきたでしょ。男に襲われて、気がついたらそいつが殺されてた。駅からこの家までの道順はこうだって。だから来てやったんじゃない」
「わたくしが……お電話を?」
確かに蝶舌さまにはかけた。だけど、お母さまにかけた記憶はない。
もはや、なにがなんだかわからなくなって、スマホを見た。
と、蝶舌さまにかけた十分前に、お母さまにかけた履歴が残っていた。
足から力が抜けた。絨緞の上にへたり込む。
そこへ、お母さまの声が降ってきた
「とぼけてるんじゃないようね。じゃあ本当に忘れたんだ。このデブを殺したショックで、ちょっとした記憶喪失になったのね」
「ちがいますわ」
首を振った。ショックで記憶を失った、というのは確かにそうだろう。でもそのショックは、きっと死体を見たせいで、自分が殺したからではない。
蝶舌さまに電話したことは憶えてるのに、お母さまにかけたことは憶えてない。じゃあほかにも、なにかとっても大事なことを、忘れてしまっているのだろうか?
「だけどさあ、人が死んでるから来てって言われても、わたしじゃどうすることもできないじゃない。かといって、他人に一緒に来てもらうわけにはいかないし。だから、ほとんど二十年ぶりに、こいつに電話したのよ。番号が変わってなくて、こいつの声が出たときは、正直ムカっとしたけどね。あんたの娘が殺人現場にいるらしいから、行ってなんとかしなさいよって言ったら、よし任せろだって。バカにしてると思わない? わたしたちを捨てといて、ごめんなさいの一言もないのよ」
あんたの、娘?
じゃあ、この殿方が……星王子?
お父さまなの?
殿方を見る。優しい眼差しとぶつかる。
おまえのことは、パパがすべてわかっているぞという目。
そうだわ。顔はそんなに似ていらっしゃらないけど、内面に、わたくしと同じものを秘めている感じがする。人間社会になじめない、決して心から幸せになれない、暗い、名づけようのないなにかを。
それを瞬時に理解して、亜子は胸が熱くなった。
「ありがとう……」
お父さまに言った。お父さまはうなずく。良かった。犯行現場に戻ってきた、殺人鬼さんじゃなかったのね。
カチャリ、と、ドアノブがまわる音した。
ハッと振り向く。
ドアが開く。玄関に、蝶舌純亜さま。
ジーンズにTシャツという、いつものラフな恰好。
が、服に包まれたその身体は、もはやハンペンのように薄かった。
「久しぶり、亜子ちゃん」
蝶舌さまは、蚊の鳴くような声で言った。
「また痩せたなあ。ダメじゃないか、ちゃんと食べなきゃあ」
亜子の目から、不意にぽろりと涙がこぼれた。
するとお父さまが右手を上げ、
「ヤア、探偵」
と言った。
え、どうして知ってらっしゃるのと驚き、お父さまと蝶舌さまを交互に見た。
すると蝶舌さまも驚いたように目をむき、
「……デャーモン」
と言った。