ミス・コケティッシュがむっつりしている。

 このごろどうも、怒りっぽくなった。デャーモンへの紹介を頼んだときもそうだった。理由を言わず、ただ怒るのだ。

 それは別にいい。ぼくは全面的に、彼女のおかげでメシが食えている。文句など言えた義理じゃない。

 でも、今回ばかりはやめてほしかった。

 女神の目の前で怒るのは。

「木村亜子。十七歳。高校二年生。アイドル志望。ダカラ?」

 不機嫌さ全開の視線を、突き刺してくる。

「依頼人なら、わたし、連れてくる。純亜は、連れてこなくてイイ」

「まあまあ」

 堅苦しいこと言わずに、そこをなんとか、と頼む。

 するとミス・コケティッシュは、

「この女はあきらめナ。とても純亜の手には負えないヨ」

 実に失礼なことを言った。

「なにを言うんだ。ぼくはこの子に、指一本触れる気はない!」

 本気で腹が立った。ぼくのピュアな想いが、どうしてミス・コケティッシュには視えないのか。

「彼女はアイドルの卵だ。それと付き合おうだなんて、そんなよこしまな、卵を割っちゃうような邪悪なことをするわけがない。ただ、彼女が将来どうなるかを、ちょこっと教えてあげてほしいって頼んでるだけだ」

 亜子ちゃんがアイドル志望だということは、ついさっき、彼女がミス・コケティッシュにした自己紹介の中で知った。でも、ぼくの目にはすでに、国民的スターになった亜子ちゃんの姿が見えていた。

「アイドル? あんなモン、地球人をパーにしようと企んだ、宇宙人の発明品サ」

「またそんな、おかしなことを」

「嘘と思うカ?」

「さっきから失礼だよ。アイドルを目指すピュアな想いを、侮辱してる」

「ナンダト!」

 ミス・コケティッシュが腕を突き出した。ぼくはSFXのように宙を飛び、背中から床に落ちた。

「純亜」

 呼吸ができず、きれいな星とUFOが頭のまわりをクルクルとまわる中で、ミス・コケティッシュの声を聞いた。

「わたし、純亜気に入ったカラ、能力使う。このイケ好かない小娘のために、貴重な能力を使う気はサラサラないネ」

「おいとまさせていただきますわ!」

 木村亜子ちゃんが帰っていく。ぼくの女神が。亜子ちゃん。亜子サマ。アコ。

 A、K、O、アコ! A、K、O、アコ!
 超絶かわいい、アコちゃん!

 羞ずかしながら告白すると、ぼくはこのとき、オウオウと声をあげて泣いた。

「コレでも飲め」

 ミス・コケティッシュがアメリカン・コーヒーをテーブルに置いた。ぼくはそれを手で払った。

「拭くのは自分でやれヨ」

「ひどいじゃないか、さっきの態度は」

「純亜を守るためサ」

「嫉妬だろ。自分より若くて美人だから」

「悪いこと言わないカラ、あれだけはやめな。ハーフだから」

「ハーフ? アメリカ人との?」

「アメ……うん、ソウヨ」

「どうしてハーフを差別するんだ。かわいそうじゃないか」

「しょせんは無理なのサ」

「無理じゃない!」

「あれと関わったらとんでもない目に遭うヨ。今まで経験したことのないような、とんでもなくヒドイ目にね」

「嘘だ! 嫉妬だ!」

「忠告したからね。モウ知らないよ」

「ぼくを研究したいんだろ。だったらひどい目に遭うところを、じっくり研究したらいいじゃないか!」

 ぼくは床にこぼれたコーヒーを拭いて、自分の部屋に行った。そしてベッドに仰向けになると、木村亜子ちゃんに、今日のことをどう謝ろうかと考えつづけた。
 翌日は日曜日だった。

 平日の放課後は歌とダンスのレッスン。そして土日は正午から六時までバイトをしていると言っていたので、正午ぴったりに〈ルイーズ〉に行った。

 亜子ちゃんはいた。

 彼女がこっちを見た。そして、昨日のことなど気にしていないように、にっこり笑いかけてくれた。

 おお。蝶舌純亜よ。おまえはなんて幸運な男子だ。この果報者め。

 ぼくは人目もはばからず、嗚咽しながらウインナコーヒーを頼んだ。

 彼女がコーヒーを運んできた。と、伝票と一緒に、四つ折にしたメモをテーブルに置いていった。

 なんだろう、と思って開くと、ケータイの番号が書いてあった。

 ダン! とテーブルに額を打ちつけて、ハッと目が醒めた。あまりのことに、気を失っていたのだ。

 もう一度メモを見る。手が震えて全然数字が読めないので、震えに合わせて首を振った。それでもちっとも読めない。

 この暗号を、探偵としてどう解読すべきか。

 電話してね、純亜くん、という意味でよいのか?

 いや、木村亜子サマは、そんな下等な言葉は遣わない。

 お電話お待ち申し上げております。デテクティブ殿。

 なんちゃって。

 ぼくはハハハと声をあげて笑った。ほかの客がぎょっとしたように振り返って、すぐに視線を逸らした。ぼくは反省し、声が出ないように口を手で押さえて笑った。すると身体が揺れてカップがカタコト鳴った。でも今度は、誰も見なかった。

 いやー、愉快だ。

 まさか、女神のほうから、ぼくのほうに降りてきてくれるとは。

 いや、待て待てと、ぼくは髪が乱れるほどブンブン首を振った。

 彼女は、国民的スターになる逸材だ。

 気安く電話をかけるなんて、そんな畏れ多いことしちゃいけない。

 あくまでぼくは、応援者の立場でいるのだ。

 そう決めて、グイとウインナコーヒーを飲み干すと、亜子ちゃんには紳士的態度で目礼だけし、毅然とした足どりで自動ドアをくぐった。いや、くぐろうとした。

「あおう!」

 現実には、ドアに激しくぶつかって、変な声を出してひっくり返ってしまった。どうも身長とセンサーの関係か、それとも体重が足りないせいか、ときどき自動ドアが反応してくれないことがある。ぼくは改めてセンサーに手をかざし、ドアをくぐり直した。

 彼女に電話はかけるまい。女神に気安くはしまい。

 午後七時。我慢できなくなって、電話した。

 亜子ちゃんはすぐに出てくれた。

「昨日は大変ご無礼をいたしました。中途で退席するなどという、はしたないことを」

「無礼はこっちさ。助手がきみの美貌に嫉妬してね」

「初めて私立探偵さまにお目にかかって、わたくし、緊張してしまったのでございます」

「緊張はこっちさ。だって超絶かわゆいんだもん。わ、言っちゃった」

「蝶舌さまは、お世辞ばかりおっしゃいます」

「お世辞なもんか。ところで、困ったことがあったらいつでも言ってね。きみの依頼だったら、なんでも無料でやるよ」

「わたくし、頼りにできる大人の男性が、一人もいないのでございます。蝶舌さま、ときどき相談に乗っていただけますか?」

「おおおおお」

 ぼくは感動のあまり、勝手に声が出るのを抑えられなかった。

「おおおおオッケー! 相談二十四時間オッケー!」

「嬉しゅうございます。ぜひ蝶舌さまには、アイドルになるための助言などしていただけたらと、かようにお願い申し上げる所存でございます」

「助言なんて要るもんか。すぐなれるよ」

「もったいなきお言葉」

「きみなら絶対成功する。国宝になれる。もちろんぼくは、きみには指一本触れないよ。国宝だから」

「……わたくし、女性としての魅力が、不足しておりますでしょうか?」

「バカ言うな。魅力ならダダ漏れさ! とにかくぼくは、きみの応援者でいたいんだ。オーディションとか芸能事務所について調査が必要だったら、ぜひ言ってよ。報告は、直接会わないで電話でするから」

「会ってくださらないのでございますか?」

「それが、ピュアな愛ってやつなのさ」

 ぼくはつぶつぶオレンジをぐいと呷って、ハードボイルドのヒーローらしく、やせ我慢を貫き通した。

「たまに、喫茶店に顔を見に行くよ。でもデビューが決まったら、きっと猛烈に忙しくなって、バイトどころじゃなくなるね」

 じゃあねと言って、電話を切った。

 一生に一度、会えるか会えないかの女性。

 本音を言えば、結婚したい。そうしたら、いつ死んでもいい。

 でもその彼女には、指一本触れられない。一ファンでいることしか、できないのだ。

 苦しい。

 ぼくはだんだん食欲がなくなり、それから一年が過ぎた。
 木村亜子ちゃんは、高校三年生になった。

 あれほどの美貌でありながら、オーディションに落ちつづけ、まだアイドルとしてデビューしていなかった。

「わたくし、面貌が整いすぎていて、冷たい印象なのだそうでございます。親しみを持ちにくいという、そのような致命的な欠点をご指摘いただきました」

 なんとも理不尽な話だが、美人すぎることが、かえって仇になっているらしい。なんならブスのほうが、親しみやすくてアイドルになれるようだ。

 だとすると、亜子ちゃんは正反対だった。一つもブスの要素がない。そう思って巷のアイドルを見渡すと、驚いたことに、どれもこれもブスだった。これはまったく、意外すぎる盲点だった。

「わたくし、この世から、消えたい気分でございます!」

 電話があると、いつもそう言って、泣いた。

 気になって〈ルイーズ〉に足を運んだ。姿を見るたび、彼女は痩せていった。

 元々三十八キロしかない。それが一年後には、三十一キロになった。

「痩せすぎだよ」

 電話でそう指摘したとき、彼女は強く反撥した。

「どうして嘘を言うのでございますか。こんなに太ってるのに。太って醜くてデブだから、オーディションに落ちるのでございます」

「なに言ってんだ。きみほどスタイルのいい子が、ほかにいるか!」

「わたくしは醜いメス豚です。そう言われたのでございます」

「はあ? 誰に?」

「お母さまです」

 彼女にとって、「お母さま」の言うことは絶対だった。

 アイドルになろうと思ったのも、そもそも、母親の期待に応えたい一心からだった。

 母親の木村由利子は、結婚せずに亜子ちゃんを産み、育てた。

 亜子ちゃんから聞いた話によると、ひどい育児ノイローゼになったらしい。毎日怒られて、罰を与えられたという。

 幼い亜子ちゃんにとって、母親はすべてだった。憎むことなどできず、どうやったらお母さまに気に入られるかと、必死に考えて生きた。

 亜子ちゃんが小学生だったある日、由利子がテレビを観ながら言ったそうだ。

「あんた、わたしがせっかく美人に産んであげたんだから、アイドルになりな。それで、少しでもわたしを楽にしてくれよ」

 その日から、アイドルになることが目標になった。いや、彼女の意識からすれば、それは絶対命令にも等しかった。

 アイドルにならなければならない。お母さまを、楽にしてあげなければ。

 それ以外のことを考えるのは「悪」だった。家は貧しかったから、独学で歌や振り付けの練習をし、高校に入ってバイトができるようになったら、そのお金で、平日は毎日歌とダンスのレッスンに通った。

 が、いまだに夢を果たせずに苦しんでいる。母親におまえはデブだと罵られ、ガリガリに痩せていっている。

「とにかくもっと食べなきゃ。でないと声も出ないし、エネルギッシュなダンスもできないよ」

「蝶舌さまは、わたくしが醜くなって、アイドルになれなくなればいいのでございますね」

「ぼくは、亜子ちゃんに、幸せになってもらいたいんだ」

「アイドルになれなければ、死にます」

「なら食べないと」

「嫌でございます」

「あんまり痩せちゃうと、魅力がなくなるよ」

「あら。豚が魅力的でございますか?」

「よーし、わかった」

 ぼくは電話口で、啖呵を切った。

「ぼくは今日から、きみと同じ食生活をする。それでぼくがどうなるかを見て、よく考えるんだ。きみが食べてるメニューを教えろ」

「ガムと飴だけでございます」

 一年後、ぼくは三十四キロから十五キロ減って、十九キロになった。

「あの女とは関わるなって言ったロ!」

 ミス・コケティッシュに、毎日怒鳴られた。体力を失ったぼくは、仕事をまったくできなくなり、前に不倫がばれるのを防いだ貴婦人に金をせびって、なんとか食いつないだ。

 亜子ちゃんは高校を卒業して、フリーターになった。稼げるようになったぶん、レッスンの時間を倍に増やしたが、相変わらずオーディションには落ちつづけた。

 さらに一年後、彼女は二十歳(はたち)になった。

「もういいだろう」

 ぼくは十三キロまで落ちて、ハンペンみたいになった自分に向かって言った。

「彼女は成人した。頑張ったけど、アイドルになるには歳を食いすぎた。国宝になる見込みもない。亜子ちゃんにそれを言い聞かせて、正々堂々、求婚しよう」

 ぼくは電話で、想いを伝えた。蝶舌純亜の、文字通り命を懸けた告白だった。

「まだわたくしは、あきらめませんわ」

 二十五キロにまで落ちた亜子ちゃんの声は、聞きとりにくかった。

「こうなったら、女の武器を使えと、お母さまからの指令がありました」

「……どういう意味だ?」

「業界で力のある男性と、お近づきになるのです」

「近づいたらどうする。手でも握るつもりか」

「お手ぐらい、いくらでも握りますわ」

「なんだと」

 身体の底から怒りが湧いてきて、空っぽの胃がヒクヒク震えた。

「デビュー前に子どもができたら、元も子もないじゃないか」

「そのようなこと……いくら蝶舌さまでも、言いすぎではございませんか」

「きみは、平気で男の手を握れるのか? そんな女なのか」

「もちろんでございます。アイドルになれましたら、ファンの方お一人お一人と、たーっぷり握手をするのが夢なんでございます」

「一人一人と、だって?」

「さようでございます。応援してくださる方全員と、心をこめて、何時間でも握手をする。そのようなアイドルになりたいと、ずっと思ってまいりました」

「このバカヤローッ!」

 スマホに向かってわめいたとたん、貧血で倒れそうになった。

「く、くそ。ここで気絶してたまるか。きみはいったい何人産むつもりだ。え? それこそ豚にも劣る、犬畜生じゃないか」

「まあ」

「母親を連れてこい! どういう教育をしてるんだと、説教してやる」

「許しません」

 亜子ちゃんの甲高い声が、頭蓋骨を揺らした。

「お母さまの悪口だけは、断じて許しませぬ!」

 電話を切られた。それから何度もかけ直したが、出なかった。

 直接〈ルイーズ〉に行ってみた。しかし、会えなかった。こうなったら、母親と二人暮らしをしているアパートを張り込もうかと思ったが、やめた。

 冷静になろう。彼女は成人したが、まだ子どもなのだ。自分のやろうとしているのがどういうことなのか、わかっていないのだ。

 とにかく、自棄になって手なんかつないではいけないということと、これ以上痩せたら死んでしまうという二点だけを、メールで送った。

 三年間、ひたすら彼女を想って痩せつづけ、つい先日も点滴を受けたぼくの写真を添付して。

 彼女からの返信はなかった。ぼくは薄暗い部屋で飴を舐めながら、ボーっとスマホを眺めて過ごした。

 するとミス・コケティッシュがやってきて、無理やり口におにぎりを押し込んできた。

「なにをする!」

 飯粒を吐き出して怒ったら、片手で襟首をつかまれて、ひょいと持ちあげられた。

「目を醒ませヨ、純亜。ミイラになッちゃうゾ」

「これが恋だ。ぼくは全身全霊で、亜子ちゃんを愛してるんだ」

「あれは病気サ。あんなのに付き合ってたら死ぬぞ」

「望むところだ。ピュアな日本男子の最期を、とくと研究してくれ」

 と、そのとき、スマホが鳴った。

 亜子ちゃんからだ。急いで出る。

「蝶舌さま……」

 その声は、異様に震えていた。

「どうした?」

「お助けください。人が死んでいるのでございます。大きなお腹から、血をもりもりお出しになって……お願いでございます、来てくださいませ」
 木村亜子は電話を切った。

 時計を見る。九時四十分。蝶舌さまに、最寄りの駅から今いる家までの道順をお伝え申し上げると、三十分以内で着けると言われた。

 三十分も!

 蝶舌さまがお着きになるまで、あの汚らわしい死体と、一つ屋根の下にいなければならないなんて。ああ、なんていやらしいことでございましょう!

 亜子は、リビングのソファに横たわったまま、でもあれは本当に現実のことだったのでしょうかと、そーっと首をまわして、絨緞に倒れている物体を見た。

 やっぱり……鮮やかに死んでいらっしゃる。お顔の色が、ゾンビ殿のようでございますもの。

 死体のお名前は赤沢卓根(あかざわたくね)さま。お歳は五十歳。芸能情報誌の編集長で、失礼にも二度見してしまったほど、お顔も身体も豚さんにそっくりでいらした。

 その豚さんが、突然襲ってきた。

 イノシシさんなら、人を襲うと聞いていたけれど、豚さんが襲うとはちっとも知らなかった。だけど……

 そこから先の記憶がない。

 目が醒めると、赤沢さまは死んでいた。大きなお腹から、血をもりもり出して。

 見ているものがなんなのか、最初はわからなかった。

 でも、鮮やかな血の色と、変テコなすっぱい匂いで、これは殺人なんでございますわという、怖ろしい現実が理解された。

 凶器は庖丁? ナイフ? でもそのようなものは、どこにも落ちていなかった。

 それにしても、こんなに血が出るほど切るなんて。

 よっぽど犯人さんは、豚さんを恨んでいたのでございますね。

 木村亜子は、ぶるぶるっと震えた。

 悪魔の所業、という言葉が、頭に浮かんでくる。

 こんなことをできるのは、憎っくき悪魔にちがいませんわ!

 そう考えたとたん、亜子は、まだ見ぬ父親のことを思い出した。

『あんたの父親は、悪魔よ』

 幼いころから、お母さまによく聞かされた。

 お母さまは、ご自分を捨てた殿方が、よっぽど憎かったのでございましょう。だから娘にも、その憎しみを植えつけようとした。

 でも亜子としては、顔も知らない父親を憎む気にはなれず、その代わりに、自分には半分悪魔の血が流れているのだわという、自己否定の感情を育てた。

 思春期になり、お母さまにはない美貌が現れても、少しも自慢に感じず、これはきっと悪魔の妖しい力によるものなんだわと思った。

 わたくしには、人間社会に居場所はないのですわ。わたくしは決して幸せにはなれない。わたくしは、誰とも恋愛しちゃいけない。

 亜子は強くそう信じた。

 だから亜子には、夢も希望もなかった。ただ一つ、お母さまを喜ばせるために、アイドルにならなければならないという、胸を締めつけるような強迫観念だけがあった。

 それが果たせなければ、死ぬしかない。だって、この月の砂漠のような世界のただ中で、お母さまに見放されてしまったら、一日だって生きていられませんもの!

 だけど、その目標は遠かった。自分はアイドルになれる素材ではなかった、という恐ろしい現実が迫ると、胃が食物を受けつけなくなった。その結果、みるみる痩せていくことで、かろうじて死を選ぶ一歩手前で踏みとどまった。

 痩せて、前よりも少しキレイになった。この努力を、きっとお母さまも喜んでくださる。もしかしたら、オーディションにも受かるかもしれない。

 もはや痩せることでしか、自信を得られなかった。もし体重計に乗ったとき、前日より一キロでも増えていようものなら、死んでしまおうと思った。

 そういう日々のうちに出会った探偵の蝶舌さまが、自分に同情して痩せていったとき、亜子は一人で泣いた。

 もう蝶舌さまと関わってはいけない。わたくしは決して幸せになれないし、人を幸せにもできない。不幸にするだけなんでございます。

『もうお電話するのはやめますわ』

 何度もそう言おうと思った。でも言えなかった。それを言ったら張り裂けて、ただでさえちっぽけな自分が、消えてなくなっちゃいそうに思った。

 蝶舌さまとつながっていたい。でもあのお方を不幸にするのは、もっとつらい。

 そう悩んでいたとき、お母さまの一言は、呪文のように効いた。

『女の武器を使うしかないわね』

 それだと思った。わたくしみたいなメス豚には、その手しかない。

 それでお母さまが喜んでくださるのならそうしよう。そしてそれを、蝶舌さまに伝えよう。蝶舌さまは、きっとわたくしを軽蔑して離れていくことでしょう。それでいいのですわ。心底嫌いになってくださったら、たぶんわたくしの苦しみも小さくなる。

 といっても、誰に武器を使いましょう?

 大物プロデューサー? そのような雲の上のお方に近づく方法なぞ、とてもありそうにない。

 お父さまはどうだろう。

 実のところ、芸能界との直接のつながりは、そこしかなかった。

『あんたの父親は、星王子(ほしおうじ)という芸名の売れない歌手でね。けど、あんたが産まれる寸前で逃げやがった。あの悪魔』

 お父さまのことは、それ以上教えてくださらなかった。

 星王子という名前をネットで検索しても、大した情報はなかった。

 連絡先や住所を、お母さまに訊くことはできない。お父さまを憎んでいらっしゃるから。しかし、プロデューサーを紹介してほしいなどと、ずうずうしいことを頼めるのは、どう考えても身内しかいない。となると、お父さまの星王子を捜して、願いを話すしかなかった。

 どうやったらお父さまと連絡をとれるか。考えた末、亜子が思いついた方法は、芸能情報誌の編集部に電話することだった。

「わたくし、星王子の娘なんでございますが、父とは会ったことがないのです。一目だけでもお父さまにお会い申し上げてみたいので、協力してくださいませんでしょうか?」

 なにしろ売れない歌手のことだから、きっと相手にしてもらえないだろうと諦め半分でいたところ、意外にも編集長が食いついてくださった。

「きみ、なかなかいいキャラしてるね。芸能界に興味ない?」

 星王子のことはなにも言わずに、亜子に対して興味を示した。

「実は、アイドルになりたいのでございます」

「ホント? じゃあ、ぼくが力になれるかもしれない。一度こっちに遊びに来なさいよ」

 翌日、指定された時間に編集部のあるオフィスビルへ行くと、編集長の赤沢卓根さまが、たった一人で待っていらした。

 それにしても……

 これほど豚さんそっくりの人がいるなんて、なんだか服を着ていることが、不思議に感じられたほどでした。

「なんだなんだ、ものすごい美人じゃないか。ブヒッ! きみならすぐにでも、デビューできるぞ」

「ですが、オーディションには落ちまくりなんでございます」

「売り出し方しだいだよ。ぼくが大物にかけあってあげる」

「えっ、それは本当でございますか?」

「どうだろう、このあと食事でもしながら、じっくりその話を」

 豚さんとお食事? それはどうも、気が進まなかった。

「父の星王子とは、お会いできますでしょうか?」

「ああそれねえ、微妙な問題だからね。ぼくに任せてくれたら、うまくやってあげるよ」

「連絡先を、教えてはいただけないでしょうか?」

「ぼくに任せなさい」

 急に眉間にしわが寄って、真正面を向いた鼻の穴から、機関車のようにシューシューと息が洩れた。

「ぼくの言うことを聞いたら、お父さんにも会わせるし、大物にも紹介する。でも言うとおりにしないと、この世界に入るのは難しくなるよ。ぼくは芸能界の裏情報をたくさん持っていて、それだけに力もあるんだ。わかったね」

「……承知いたしました」

「よし、ぼくの家に行こう。ブヒヒッ」

 ビルを出て、赤沢さまの車に乗った。もしなにか怖いことがあったら、一目散に逃げましょうと考えて、必死で道を憶えた。

 赤沢さまのお住まいは、閑静な住宅街にある、二階建ての一軒家だった。ずっと独身で、一人でそこに住んでいるのだと、赤沢さまはブイブイ鼻を鳴らしながら言った。

 亜子は、覚悟を決めた。

 どうせ、女の武器を使うつもりだったのだ。その相手が大物プロデューサーではなく、豚さんであっても一緒だ。アイドルになれさえすれば、それでいいのでございます。

 でも、最初のお相手は、本当は蝶舌さまが良かったな。

 赤沢卓根さまは、スパゲッティを作って出してきた。

 亜子は無理して食べた。もちろん太るわけにはいかないので、食べ終わったら、すぐにトイレで吐いた。

 赤ワインも出された。アルコールには弱い体質だった。でも無理して飲んだ。

 頭がクラクラして、急に眠くなった。

 豚さんが近づいてきた。おやめください、と心の中で叫んでも、あまりに眠すぎて、口を開くことさえできなかった。

 ワインにおクスリを混ぜたのね、ひどいお方、と思ったのを最後に、意識が消えた。
 ふっと目があいたとき、亜子は、自分がどこにいるのかわからなかった。

 天井が見えた。LEDのライトも見える。見憶えのない景色。それで、自分の家ではないらしいわ、ということを知った。

 頭を起こそうとした。異常に重い。なんでこんなにだるいのでございましょう。そもそもここはどこ?

 ようやく上半身を起こしたとき、それが目に入った。

 お腹から血をもりもり出した死体。

 悲鳴は出なかった。まだ半分夢のようで、現実感がない。

 これはなんでございましょう。豚の丸焼き?

 思い出した。ここは赤沢さまのお宅だ。このお方に、さっき襲われそうになったんでございます。

 亜子は、自分の穿いているスカートを見た。とくに乱れてはいない。どうやら豚さんには、なにもされていないようですわ。

 いったいなにが、起こったのでございましょう?

 おクスリを飲まされた。豚さんが迫ってきた。おやめくださいと言おうとした。そこで意識が消えた。

 目が醒めると、赤沢さまは死んでいた。

 時計を見ると、今は九時半だった。このお宅に着いたのは確か七時過ぎで、ワインを飲まされたのが、だいたい八時半くらいだった。

 とすると、意識がなかったのは、ちょうど一時間。そのあいだに、誰か豚さんに恨みを抱いているお方がやって来て、刃物でエイッとやり、そのまま逃げた。

 いや、そうではないかもしれない。きっと犯人さんは、最初からこの家のどこかに隠れていらしたのだわ。リビングの収納スペースとか、和室の押入れとかに。

 赤沢さまは、芸能界の裏情報をたくさん持っていると自慢していらした。そのせいで、命を狙われてしまったのでございましょう。犯人さんは凶器を握り締めて、赤沢さまの帰りを待った。

 ところが赤沢さまは、お一人ではなく、亜子を連れていた。そのため犯人さんは、じっと待つしかなかった。

 赤沢さまが、亜子を襲おうとする。亜子はおクスリのせいで眠ってしまう。

 それを見て、犯人さんは潜んでいた場所から出る。そっと赤沢さまの背後に忍び寄り、ポカリと殴って気絶させる。そして、大きなお腹を切って逃げた。

 こんなところでございましょうか。

 さて。ではわたくしは、どういたしましょう。

 警察にお電話する。それ以外に選択肢はない。

 でも、と亜子は考える。

 この事件は、おそらくセンセーショナルに報道されるでございましょう。とくに、被害者と最後の夜を過ごした、若いアイドル志望の女の存在は、マスコミの関心を集めるにちがいない。

 二十歳(はたち)過ぎの成人だから、顔や名前も出てしまうでしょう。たとえテレビや新聞がそうしなくても、インターネットには必ず出まわる。そうなったら、もうおしまいでございます。殺人事件に関わったいわくつきの女を、いったいどこの事務所が、アイドルとしてデビューさせてくださるでしょう!

 そうなったら、生きる意味はない。アイドルになれなければ、死ぬしかないのでございます。

 だから亜子は、警察を呼ぶ代わりに、探偵の蝶舌さまを呼んだ。

 幸い赤沢さまは死ぬときに、断末魔の叫びなどはおあげにならなかったらしい。もしそうなら、ご近所のどなたかが通報して、とっくに警察がご到着されているはずだから。

 誰も亜子が、ここにいることを知らない。編集部のあるオフィスビルに入るときも、出るときも、誰ともすれちがわなかった。このお宅に入るときも、人の姿はなかった。

 赤沢さまの車に乗っていた二十分ほどのあいだに、誰か知り合いに見られたという可能性も、ほとんどない。となると心配なのは、指紋の問題と、電話だ。

 もし亜子が、このまま逃げた場合、このお宅や赤沢さまの車に残した指紋が気になる。それを全部拭き取れる自信は、とてもない。赤沢さまのものではない髪の毛や、食器やグラスに残った唾液の存在も、警察の科学捜査によって浮かび上がってくるでしょう。それらをどうしたらよいのかは、蝶舌さまの知恵に頼るしかなかった。

 そして、もっとも気になるのは、赤沢さまに昨日かけた電話だった。

 あのとき亜子は、自分の名前を言い、オフィスに行く約束をした。もしその通話内容が録音されていたら、必ず捜査線上に浮かぶ。そういう危険があるのなら、むしろ現場を逃げ出すことで、殺人容疑すらかかってくるかもしれないのだわ!

 それについての相談も、できる相手は蝶舌さましかいなかった。そこで電話をかけたのだが、ずいぶん待った気がするのに、まだいらっしゃらない。

 時計を見る。九時五十分。電話をしたのはいつ? 九時半? 何分で着くと言ってらしたっけ? ついさっきのことなのに、もう思い出せない。

 まださっきのおクスリが、残っているのでございましょう。記憶があいまいなのはそのせいだ。ああだるい。また眠ってしまいたい。

 と、そう思ったとき、玄関のドアノブがまわった。

 蝶舌さまだわ。

 ガタンと音がする。鍵がかかっているらしい。とすると犯人さんは、合鍵でも持っていらして、出ていくときにロックして帰られたのだろうか。

 亜子は急いで玄関に行って、鍵をあけた。

 ドアが開くと、中年男性の姿があった。

 ノーネクタイに黒のスーツ。カエルのようなひどい顔色――蝶舌さまではない。

 その瞬間悟った。犯人さんが、犯行現場に戻ってこられたのだ。
 恐怖で倒れそうになる身体を、その殿方が支えた。

「……大丈夫?」

 殿方のお口から、耳障りな甲高い声が洩れた。

 でもその口調は、意外にも優しかった。

「部屋に行こう。コーヒーでも淹れてあげる」

「……恐縮でございます」

 小さく言って、亜子はリビングに戻った。この殿方は、殺人鬼でいらっしゃるかもしれないけど、少なくとも、今すぐ亜子を殺しそうではない。

「ああ、これが死体だね。見事にやったもんだ」

 殿方が手で坐るようにうながしたので、亜子は赤沢さまの死体をよけて、テーブルについた。

「フンフンフン、ラララ、ケロケロケロ」

 殿方は、楽しそうに鼻歌を唄いながらお湯を沸かすと、戸棚を開けて、インスタントコーヒーを淹れた。

「殺人のあった家のカップが気持ち悪くなければ、どうぞ」

 湯気の立つコーヒーカップを置かれたけれど、やはり手は伸びない。

 あなたは誰ですの、の一言が訊けない。

 まず犯人さんにまちがいない。死体を見て、すっぱい血の匂いを嗅いでも、平然とコーヒーなんぞを淹れられるのは、それをやったお方以外にはとても考えられませんもの。

 異常者さんだ。

 それも超絶な。犯行現場に戻ってきて、ごくごくコーヒーを飲んでいらっしゃる。あちこち触って自分の指紋を残すことも、まったく気にしていない。

 この殿方は、わたくしを殺すだろうか?

 そうしない、と考える理由はない。亜子は、この殿方が犯人であることを知っている。顔も憶えた。鋭い目、鼻梁の高い西洋的な鼻、横に広い口。

 その女を、普通だったら生かしてはおかない。

 でも……

「豚の丸焼き殺人事件か。ケケケ。なかなか犯人もやるなあ!」

 まちがいなく普通ではございません。ここまで異常だと、かえって亜子を見逃してくれそうな気がする。でも逆に、気まぐれであっさり殺されそうな気もする。

 とにかく、なにを言われてもこのお方には逆らうまいと、亜子は心に決めた。

「冷めるぞ」

 殿方に言われて、亜子は慌ててコーヒーを飲んだ。

「警察は呼んだのかね?」

 亜子はむせそうになりながら、急いでカップを置いて答えた。

「いいえ、お呼びしておりません」

「ほう。どうして?」

「犯人さんと疑われるかもしれないと思ったからでございます。あと、こういうことで、世間さまに名前や顔を知られるのが怖ろしいのです」

「でもきみは、犯人じゃないんだろう?」

「もちろんでございます」

「だったら警察を呼ぶべきだ。遅くなればなるほど、立場が悪くなる」

「……お呼びしたくありません」

「なぜだ」

「わたくし、実を申しますと、アイドルデビューを目指しているのでございます。芸能誌の編集長である赤沢さまとお会いしたのは、今日が初めてなのですが、それなのに、こんな事件に巻き込まれてしまって」

「ふむ。もしきみが、事件の重要参考人ということになれば、世間の好奇の目にさらされる。そうなると、アイドルデビューの夢もついえる。それが心配だというんだな?」

「そのとおりでございます」

「なるほど。じゃあきみは、逃げるしかない」

「大丈夫でしょうか。わたくしの指紋が、きっとたくさん残っています」

「あとで、おれが拭いといてやるよ。玄関とリビングだけか?」

「あと、グラスやフォークと、トイレと、車の中と」

「車か。キーはこの豚のポケットの中かな? 探しておくよ。食器はおれが持って帰って処分する。ところできみは、警察に指紋を採られたことはあるか?」

「ございません」

「そりゃ良かった。きみがここに来たのを知ってる人は?」

「昨日お電話で、赤沢さまのオフィスに行く約束をいたしましたので、赤沢さまがそれを誰かにしゃべっていなければ」

「赤沢というのは、この死人だな」

「……はい」

「こいつはきみに、なにか変なことをしようとしたか?」

「いたしました」

「最初からそういう目的できみを呼んだのであれば、誰にも言ってないだろう。この家に入るところを、誰かに見られたか?」

「見られてない、と思います」

「なら大丈夫じゃないか」

「ですが、昨日のお電話で、わたくしの名前を申し上げたのでございます。もしそれが録音されておりましたら……」

「きみは、自分のフルネームを名乗ったのか?」

「ええと、確か木村と、名字しか言わなかったと思います」

「下の名前は言わなかったんだな?」

「わたくしは木村という者で、星王子の娘ですと、そう申し上げただけです」

「ホシオウジの娘、とね」

「昔、そういう名前の歌手がいたのです。ちっとも有名ではなくて、インターネットで探しても、画像も動画もないのですけど」

「そのことを知ってる者は?」

「いないと思います。というのは、母は父を憎んでいて、誰にも決して父の話をしなかったそうですし、わたくしにも、絶対言うなと口止めしておりましたので」

「きみはずっと、その言いつけを守ってきたんだな」

「はい。昨日までは」

「お母さんの言うことをよく聞くんだね」

「それはもちろんでございます」

「きみはお母さんが恐いのか?」

「…………」

「どうなんだ?」

「母は絶対でございますから」

「絶対正しい人間などいないだろう。反抗したことはないのかね」

「わたくしには母しかおりませんのに、反抗したら、生きていけなくなります」

「きみは、独り立ちできるように育ててもらってないのか?」

「まだ子どもですから」

「何歳だ」

「二十歳(はたち)でございます」

「立派な大人じゃないか」

「母は、まだ子どもだと申しております」

「おまえの母親は」

 殿方のお顔が、ぞっとするほど険しくなった。

「まちがっている」
 亜子は、気が遠くなるような感覚に襲われて、テーブルの端をつかんだ。

 お母さまがまちがっている。

 そんなはずはない。だとしたら、木村亜子の人生は、全部まちがっていたことになるではないか。

「おまえの母親は」

 変に甲高いその声は、鼓膜を通して脳に突き刺さるようだった。

「娘が命に危険があるほどガリガリに痩せても、ほっといている。これは虐待だ。イジメだ。きみは二十年間、イジメっ子と暮らし、支配されてきた。そこから逃げろ。イジメをするようなやつとは、きっぱり縁を切るんだ」

 亜子は椅子を立った。これはもう、限界でございます。

 吐き気がしてきて、洗面台に走り込んだ。

 すると、鏡に映った自分の顔が見えた。

 まあ。なんて醜い豚でございましょう。死んだほうがマシでございます。

「吐くな」

 異常な殺人鬼の殿方が、後ろに来て言った。

「吐けばまた痩せる。今より痩せたら死ぬぞ」

「嘘おっしゃい!」

 足元に、体重計がおいてあるのが見えた。体重計を見ると乗らずにはいられない。一日に何度でも体重を確認し、そこで自信を得ることによってのみ、かろうじて生きていた。

 ――二十六・二キロ。

 その場に崩れそうになった。

 そんなバカなでございます。今朝より一キロ以上も増えている!

 迂闊だった。赤沢さまに手作りスパゲッティを出されたとき、どうせあとで吐くからと、豚みたいに全部食べてしまった。

 トイレに立つタイミングが遅かったのかもしれない。それで吐く前に吸収された。こんなに努力してきたのに、たった一回の油断で、すべてが水の泡になった。

 ちくしょう。二十六キロなんて、そんなデブ、絶対アイドルになれませんわ。

「部屋に戻ろう」

 殿方に手を引かれた。抵抗する気力は、もはやなかった。

「状況を整理しよう。きみはアイドルになりたくて、つてを求めて赤沢に電話した。会うのは今日が初めてで、会ったところを見た人間はいない。きみは赤沢にいやらしいことをされた。襲われて、気でも失ったのかな? それはともかく、赤沢は誰かに殺された。犯人はきみではない。ここまではいいか?」

「はい」

「気がかりなのは、赤沢のオフィスの電話だ。そこには、芸能人に関する情報提供の電話もかかってくるだろうから、通話を録音している可能性は大きい。警察がそれを調べて星王子に連絡し、娘の存在を確認すれば、赤沢と今日会う約束をした女性がきみということはわかってしまうな」

「……はい」

「しかし星王子が、あくまでもわたしには娘などいないとしらを切れば、きみの存在が知られることはない」

「でもお父さまは、きっとわたくしのことを話すでしょう」

「どうして?」

「嘘をついて、警察の捜査に協力しない理由はございませんから」

「それはわからんぞ」

 殿方がそう言って、なにがおかしいのかケロケロと笑ったとき、再びドアノブがまわった。

 今度は鍵がかかっていなかったので、あいた。

 ドキッとした。蝶舌さまだわ。

 どうしましょう。殺人鬼さんがいることを、教えて差し上げなければ。

 でももう遅い。ドアがためらうように、ゆっくりと開かれると――

 亜子は息を呑んだ。

 ちがった。蝶舌さまではない。

 どういうわけか、母親の木村由利子がそこに立っていた。
 お母さまは、不機嫌でいらした。

 決して外では見せないあの表情、娘の亜子だけに見せる、あの、人格否定の罵詈雑言を浴びせる直前の、鬼の形相をしていらっしゃった。

「悪い子ね」

 ドアを閉めるなり、言った。

「なによ、人が殺されてるって。一生懸命育てた挙句にこんなことになって……この親不孝者!」

 お母さまは、そばにいる殿方のことなど目に入らない様子で、わめいた。

「あんたって子は! こうやって、わたしを苦しめるために生まれてきたの? 殺人事件に巻き込むなんて、恩を仇で返してんじゃないのよっ!」

 亜子は、怒られて腹が立つとか悲しいとかよりも、羞ずかしい思いが先に立った。

 お母さまのいつものヒスを、ついに他人に見られてしまった。

 羞ずかしいからやめて、と言いたかった。

 でも、その一方で、お母さまの本当のお姿を、誰かに見てもらいたくもあった。

「うるさいぞ」

 殿方が言った。

「ここは殺人現場だ。大きな声を出して、近隣の注意を引くのはやめてもらおう」

 するとお母さまは、殿方をまともににらみつけて言った。

「わたしに命令しないでよ、ひとでなしのくせに」

 これにはびっくりした。

 お母さまは、この犯人さんを知ってる?

「ひとでなしはどっちだ」

 犯人さんもまた、お母さまのことを知っていらっしゃるようだった。

「娘をストレスの吐け口にして、イジメて楽しんできたことがよーくわかった」

「あんたに言われる筋合いはないわよ」

 唾でも吐きそうな感じで言うと、お母さまはリビングに入ってこられた。

「変な匂い……なにこれ、やだ、すごい血じゃない」

 と、案外に冷静に死体を見ると

「あんたがやったの?」

 いきなり言ったのでぞっとした。

 まずいですわ、お母さま。殺人鬼さんに向かって、そんなふうにストレートにおっしゃるのは。

 そう思ってお母さまを見たら、お母さまはじーっとこっちを見ていた。

 え? まさか。

「あんたがやったのって……わたし?」

 混乱した。実の母親が、娘を疑っている?

「だってさあ」

 お母さまがいつものように、亜子をどこまでも見くだした口調で言った。

「このデブに襲われそうになったんでしょ? それで抵抗したら、はずみで頭を打って死んだ。テレビドラマでよくある設定じゃない」

「ちょっと待ってよ!」

 悲鳴に近い声が出た。

「それならどうして、お腹が切れてるの!」

「わたしに訊いたって知らないわよ。たまたまあんたの手に、ナイフでもあったんじゃない? で、むちゃくちゃに抵抗したら、ズバッと切れた」

「ひどい……」

 いったいどうしてお母さまは、こんなにひどいことを言うのだろう。

(きみは二十年間、イジメっ子と暮らしてきた)

 殿方のおっしゃったセリフが、頭の中をぐるぐるとまわる。

「お母さま」

 涙声になった。だけど、泣く子は大っ嫌い、と言われた幼いころから、ずっとお母さまには涙を見せないできた。だから、必死にこらえた。

「どうしてここがわかったの? どうしてわたくしが、赤沢さまに襲われそうになったって知ってるの?」

「はあ?」

 心底あきれたという顔で、

「あんたが自分で電話してきたでしょ。男に襲われて、気がついたらそいつが殺されてた。駅からこの家までの道順はこうだって。だから来てやったんじゃない」

「わたくしが……お電話を?」

 確かに蝶舌さまにはかけた。だけど、お母さまにかけた記憶はない。

 もはや、なにがなんだかわからなくなって、スマホを見た。

 と、蝶舌さまにかけた十分前に、お母さまにかけた履歴が残っていた。

 足から力が抜けた。絨緞の上にへたり込む。

 そこへ、お母さまの声が降ってきた

「とぼけてるんじゃないようね。じゃあ本当に忘れたんだ。このデブを殺したショックで、ちょっとした記憶喪失になったのね」

「ちがいますわ」

 首を振った。ショックで記憶を失った、というのは確かにそうだろう。でもそのショックは、きっと死体を見たせいで、自分が殺したからではない。

 蝶舌さまに電話したことは憶えてるのに、お母さまにかけたことは憶えてない。じゃあほかにも、なにかとっても大事なことを、忘れてしまっているのだろうか?

「だけどさあ、人が死んでるから来てって言われても、わたしじゃどうすることもできないじゃない。かといって、他人に一緒に来てもらうわけにはいかないし。だから、ほとんど二十年ぶりに、こいつに電話したのよ。番号が変わってなくて、こいつの声が出たときは、正直ムカっとしたけどね。あんたの娘が殺人現場にいるらしいから、行ってなんとかしなさいよって言ったら、よし任せろだって。バカにしてると思わない? わたしたちを捨てといて、ごめんなさいの一言もないのよ」

 あんたの、娘?

 じゃあ、この殿方が……星王子?

 お父さまなの?

 殿方を見る。優しい眼差しとぶつかる。

 おまえのことは、パパがすべてわかっているぞという目。

 そうだわ。顔はそんなに似ていらっしゃらないけど、内面に、わたくしと同じものを秘めている感じがする。人間社会になじめない、決して心から幸せになれない、暗い、名づけようのないなにかを。

 それを瞬時に理解して、亜子は胸が熱くなった。

「ありがとう……」

 お父さまに言った。お父さまはうなずく。良かった。犯行現場に戻ってきた、殺人鬼さんじゃなかったのね。

 カチャリ、と、ドアノブがまわる音した。

 ハッと振り向く。

 ドアが開く。玄関に、蝶舌純亜さま。

 ジーンズにTシャツという、いつものラフな恰好。

 が、服に包まれたその身体は、もはやハンペンのように薄かった。

「久しぶり、亜子ちゃん」

 蝶舌さまは、蚊の鳴くような声で言った。

「また痩せたなあ。ダメじゃないか、ちゃんと食べなきゃあ」

 亜子の目から、不意にぽろりと涙がこぼれた。

 するとお父さまが右手を上げ、

「ヤア、探偵」

 と言った。

 え、どうして知ってらっしゃるのと驚き、お父さまと蝶舌さまを交互に見た。

 すると蝶舌さまも驚いたように目をむき、

「……デャーモン」

 と言った。
 腹が減っていた。

 ペコペコで死にそうだった。ラーメン、ピザ、ハンバーガー、フライドポテト。

 頭の中には、食べ物のことしかなかった。

 早く亜子ちゃんを説得して、なにか食べさせよう。もう痩せなくていいんだよ、充分きみはキレイだよ、少し太って健康的になったほうが魅力的だよ、そのほうがきっとオーディションにも受かるよ。

 亜子ちゃんが食べることに同意したら、二人で外食しよう。

 最初は野菜がいいかもしれない。山盛りのサラダを注文しよう。

 胃袋が慣れてきたら肉もいい。肉汁たっぷりの柔らかいステーキ。いや、それよりも、お寿司のほうがいいかな。

 が、とりあえず今は、仕事だ。

 殺人事件に巻き込まれたと言っていた。でもぼくは、十八歳で探偵になってからおよそ二十年間、殺人事件は一度も扱ったことがなかった。

 だって、小説ならいざ知らず、それは百パーセント警察の仕事だから。

 だからどうしていいかわからない。怖いけど、まずは死体を見てみるか。

 でもその前に、

「どうしてあなたがここに?」

 三年ぶりに、実に意外な場所でばったり会ったデャーモンに訊いた。

 デャーモンはクツクツ笑いながら、

「おれ様ハ、デャーモン名義で宇宙メタルをやる前に、星王子という芸名でロカビリーをやってイタ。ほかにも別名で、演歌やポップスをやったこともアルぞ。そしてこちらは」

 二人の女性のほうを手で示し、

「星王子のコロに付き合った女と、そのあいだに産まれた子ダ」

 ガツンと、頭を殴られたような衝撃があった。

 亜子ちゃんが、デャーモンの娘?

 ぼくが命をかけて愛しぬいた亜子ちゃんが、この変人の――

「とり憑かれたナ、探偵」

 デャーモンの甲高い声が、カロリー不足でよく働かない脳みそに響く。

「おれ様の娘なんかに惚れるカラ、そんなハンペンみたいに痩せちまって」

「いや、ちがう。これはダイエットだ」

 ハードボイルドらしくやせ我慢を貫いたとき、デャーモンが横に動いて、お腹から血をもりもり出した死体が見えた。

「これはひどい……」

 思わずつぶやくと、デャーモンが状況を説明した。

「そんなバカな」

 ぼくはあきれて言った。

「亜子ちゃんが抵抗したほずみで殺しちゃったって? バカバカしい。腕なんて、こんな紐みたいに細いんだぞ。そんな力あるはずがない」

「ダガな、探偵」

 デャーモンは、父親のくせに娘をかばおうともせずに言った。

「もし亜子が、男に襲われそうになった瞬間に理性がフッとんで、普段は眠っている力を爆発させたら、このくらいは朝飯前にできたダロウ」

「バカバカしい」

 さっきと同じセリフが出た。いくら理性がふっとんで、獣のように本能で行動したとしても、お腹をこんなふうに切るはずがない。

「じゃあ、兇器の刃物はどこにあるんだ」

「刃物? ナンの話だ?」

 デャーモンが首を捻る。察しの悪いアメリカ人だ。

 すると亜子ちゃんの母親の木村由利子が、

「もしあんたが、記憶喪失の状態でやったんなら、手に血の匂いが残ってるんじゃない?」

 実にむごいことを言った。これでもこの女は、人間だろうか。

 亜子ちゃんは悲しげに立っていたが、やがて手をゆっくりと鼻に持っていき、

「……本当だわ。すっぱい変な匂いがする。わたくし、記憶喪失のまま手を洗ったんでしょうけど、匂いは落ちなかったのですね」

 そう言うと、どこか吹っ切れたような顔をぼくに向け、

「ありがとうございます、蝶舌さま。わたくしが犯人だったようでございます。自首して刑務所に参ります。どうせこれでもう、アイドルにはなれませんし、だったら死刑になっても一緒でございますから」

「なにを言う」

 ぼくは本気で叱った。

「もし仮に、きみが抵抗したはずみで死なせたとしても、それは正当防衛じゃないか。それにぼくは、どう考えても、きみが犯人とは思えない」

「マアマア、探偵」

 デャーモンが、馴れ馴れしく肩に手を置いてきた。

「亜子はおれ様の血を引いてるんだ。アメリカ人は、力が強いのサ」

「そうよ、探偵さん」

 由利子までもが言う。

「この状況じゃ、亜子以外に犯人がいるとは思えないし、そろそろ自分がやったっていう記憶も戻ってくるんじゃないかしら」

「きみたちは」

 ぼくは怒りで目の前が暗くなるのを覚えながら言った。

「自分の娘を信じないのか」

「いいのでございます」

 亜子ちゃんが笑顔で言った。やつれてはいても、その笑顔は、やっぱり奇跡のように美しかった。

「わたくし、また一キロも太って、醜くなったのです。死んだほうがいいのです。ですが、この三年間は、蝶舌さまがいたので頑張れました。亜子はとっても幸せでしたわ」

「バカッ!」

 ぼくは手を振りあげた。

 亜子ちゃんが目をつぶる。

 ぼくは死体に近づいて、振りあげた手を、丸々太ったお腹の上に降ろした。

「見ろ」

 亜子ちゃんが目をあける。

「ぼくの手には、びっちょりと被害者の血がついた。すなわちこれが、ぼくが犯人である証拠だ」

 フフッとニヒルに笑うと、亜子ちゃんが息を呑む音がした。

「実はぼく、きみのストーカーだったんだ。そうしたら、男とこの家に入っていくのを目撃した。そして自分も、探偵のピッキング術を使って侵入した。すると男がきみを襲った。きみは気を失った。ぼくは男を後ろから殴って気絶させ、庖丁でお腹を切った。だからきみはやってない。やったのはぼくだ」

「どうして……」

「ぼくは無能な探偵で、どうすりゃきみを救けられるかわからない。きみの依頼を果たすには、自分が犯人になるしかないんだ」

 つまりはそれが、ぼくのピュアな愛なのさ。亜子ちゃん。

「無理スンな」

 デャーモンが言う。

「証拠なんて気にしなくてイイさ。死体なら、宇宙墓場に棄てといてやるヨ。亜子のこともおれ様に任せろ」

「おれに任せろだって?」

 由利子が、さも軽蔑したように鼻を鳴らして言った。

「二十年間、全部わたしにやらせたくせに。あんたの血の混じった子を育てるのがどんなに大変だったか。あんたこそ、刑務所へ行けばいいのよ」

「なにヲ!」

 デャーモンが怒って腕を突き出すと、由利子は壁までふっとんで気絶した。

「亜子だってこれくらいはデキる。おれ様の子だもの」

 そう言うと、優しい眼差しを亜子ちゃんに向け、

「人を死なせたショックで、気を失ったんダナ。かわいソウに。一時的に記憶をなくしたおまえは、本能のままに行動シタ。つまり、めちゃくちゃに腹が減っていたので、冷蔵庫をアサって体重が一キロ増えるくらい食ッタ。でも充たされなかった。すると、目の前に、豚さんが倒れてイル。こいつはおれ様のライブの常連だったが、みんなが二度見するほど豚そっくりダッタ。だからそれが、猛烈に腹のヘッタおまえに、豚の丸焼きに見えたのも仕方がない。おまえは味つけして食べヨウと、冷蔵庫からケチャップを出してかけた」

 ケチャップ?

 ぼくは急いで自分の手を鼻に持っていった。ツーンとすっぱい匂いは、まぎれもなくケチャップのそれだった。

「そこでおまえは、フッと我に返った。すると人が死んでイル。その記憶がナイおまえは、びっくりして、まだ朦朧としている頭で母親に電話をカケた。そのあと、だんだん意識がはっきりシテくると、探偵を呼ばなくてはと考えるようになった。そのときには、母親を呼んだ記憶も消えてイタ」

 デャーモンは、そこでニヤリと笑い、

「この豚が死んだのは、おれ様の娘に悪いことをしようとした罰ダ。亜子、おまえはこいつのことナンカ気にしないで、おれ様の国に来い。イジメっ子の母親がいなければ、きっと幸せにナレる」

「お父さま」

 亜子ちゃんが、デャーモンの目を真っ直ぐに見て言った。

「お父さまのお国で、わたくし、アイドルになれるでしょうか?」

「もちろん! 亜子なら絶対、宇宙的な人気者にナレるぞ」

「参りますわ!」

 抱き合った父娘を見て、ぼくは黙って家を出た。

 アメリカに行くんじゃしょうがない。ハーフは無理だと言ったミス・コケティッシュの忠告は、やっぱり正しかったようだ。

 ぼくも腹が減った。なにか食べよう。

 駐めておいた愛車の赤いカプチーノに乗り込んだとき、スマホが鳴った。

 ミス・コケティッシュかな、と思ったらちがった。

 彼女だった。

 三年前に、あの言葉を聞いたきり。

『本当に、元気な女の子が産まれたわ! ありがとう、坊や』

 ぼくの子どもを産んだ、海野多美さんからだった。

(第二部終わり。第三部 多美篇に続く)