木村亜子ちゃんは、高校三年生になった。
あれほどの美貌でありながら、オーディションに落ちつづけ、まだアイドルとしてデビューしていなかった。
「わたくし、面貌が整いすぎていて、冷たい印象なのだそうでございます。親しみを持ちにくいという、そのような致命的な欠点をご指摘いただきました」
なんとも理不尽な話だが、美人すぎることが、かえって仇になっているらしい。なんならブスのほうが、親しみやすくてアイドルになれるようだ。
だとすると、亜子ちゃんは正反対だった。一つもブスの要素がない。そう思って巷のアイドルを見渡すと、驚いたことに、どれもこれもブスだった。これはまったく、意外すぎる盲点だった。
「わたくし、この世から、消えたい気分でございます!」
電話があると、いつもそう言って、泣いた。
気になって〈ルイーズ〉に足を運んだ。姿を見るたび、彼女は痩せていった。
元々三十八キロしかない。それが一年後には、三十一キロになった。
「痩せすぎだよ」
電話でそう指摘したとき、彼女は強く反撥した。
「どうして嘘を言うのでございますか。こんなに太ってるのに。太って醜くてデブだから、オーディションに落ちるのでございます」
「なに言ってんだ。きみほどスタイルのいい子が、ほかにいるか!」
「わたくしは醜いメス豚です。そう言われたのでございます」
「はあ? 誰に?」
「お母さまです」
彼女にとって、「お母さま」の言うことは絶対だった。
アイドルになろうと思ったのも、そもそも、母親の期待に応えたい一心からだった。
母親の木村由利子は、結婚せずに亜子ちゃんを産み、育てた。
亜子ちゃんから聞いた話によると、ひどい育児ノイローゼになったらしい。毎日怒られて、罰を与えられたという。
幼い亜子ちゃんにとって、母親はすべてだった。憎むことなどできず、どうやったらお母さまに気に入られるかと、必死に考えて生きた。
亜子ちゃんが小学生だったある日、由利子がテレビを観ながら言ったそうだ。
「あんた、わたしがせっかく美人に産んであげたんだから、アイドルになりな。それで、少しでもわたしを楽にしてくれよ」
その日から、アイドルになることが目標になった。いや、彼女の意識からすれば、それは絶対命令にも等しかった。
アイドルにならなければならない。お母さまを、楽にしてあげなければ。
それ以外のことを考えるのは「悪」だった。家は貧しかったから、独学で歌や振り付けの練習をし、高校に入ってバイトができるようになったら、そのお金で、平日は毎日歌とダンスのレッスンに通った。
が、いまだに夢を果たせずに苦しんでいる。母親におまえはデブだと罵られ、ガリガリに痩せていっている。
「とにかくもっと食べなきゃ。でないと声も出ないし、エネルギッシュなダンスもできないよ」
「蝶舌さまは、わたくしが醜くなって、アイドルになれなくなればいいのでございますね」
「ぼくは、亜子ちゃんに、幸せになってもらいたいんだ」
「アイドルになれなければ、死にます」
「なら食べないと」
「嫌でございます」
「あんまり痩せちゃうと、魅力がなくなるよ」
「あら。豚が魅力的でございますか?」
「よーし、わかった」
ぼくは電話口で、啖呵を切った。
「ぼくは今日から、きみと同じ食生活をする。それでぼくがどうなるかを見て、よく考えるんだ。きみが食べてるメニューを教えろ」
「ガムと飴だけでございます」
一年後、ぼくは三十四キロから十五キロ減って、十九キロになった。
「あの女とは関わるなって言ったロ!」
ミス・コケティッシュに、毎日怒鳴られた。体力を失ったぼくは、仕事をまったくできなくなり、前に不倫がばれるのを防いだ貴婦人に金をせびって、なんとか食いつないだ。
亜子ちゃんは高校を卒業して、フリーターになった。稼げるようになったぶん、レッスンの時間を倍に増やしたが、相変わらずオーディションには落ちつづけた。
さらに一年後、彼女は二十歳(はたち)になった。
「もういいだろう」
ぼくは十三キロまで落ちて、ハンペンみたいになった自分に向かって言った。
「彼女は成人した。頑張ったけど、アイドルになるには歳を食いすぎた。国宝になる見込みもない。亜子ちゃんにそれを言い聞かせて、正々堂々、求婚しよう」
ぼくは電話で、想いを伝えた。蝶舌純亜の、文字通り命を懸けた告白だった。
「まだわたくしは、あきらめませんわ」
二十五キロにまで落ちた亜子ちゃんの声は、聞きとりにくかった。
「こうなったら、女の武器を使えと、お母さまからの指令がありました」
「……どういう意味だ?」
「業界で力のある男性と、お近づきになるのです」
「近づいたらどうする。手でも握るつもりか」
「お手ぐらい、いくらでも握りますわ」
「なんだと」
身体の底から怒りが湧いてきて、空っぽの胃がヒクヒク震えた。
「デビュー前に子どもができたら、元も子もないじゃないか」
「そのようなこと……いくら蝶舌さまでも、言いすぎではございませんか」
「きみは、平気で男の手を握れるのか? そんな女なのか」
「もちろんでございます。アイドルになれましたら、ファンの方お一人お一人と、たーっぷり握手をするのが夢なんでございます」
「一人一人と、だって?」
「さようでございます。応援してくださる方全員と、心をこめて、何時間でも握手をする。そのようなアイドルになりたいと、ずっと思ってまいりました」
「このバカヤローッ!」
スマホに向かってわめいたとたん、貧血で倒れそうになった。
「く、くそ。ここで気絶してたまるか。きみはいったい何人産むつもりだ。え? それこそ豚にも劣る、犬畜生じゃないか」
「まあ」
「母親を連れてこい! どういう教育をしてるんだと、説教してやる」
「許しません」
亜子ちゃんの甲高い声が、頭蓋骨を揺らした。
「お母さまの悪口だけは、断じて許しませぬ!」
電話を切られた。それから何度もかけ直したが、出なかった。
直接〈ルイーズ〉に行ってみた。しかし、会えなかった。こうなったら、母親と二人暮らしをしているアパートを張り込もうかと思ったが、やめた。
冷静になろう。彼女は成人したが、まだ子どもなのだ。自分のやろうとしているのがどういうことなのか、わかっていないのだ。
とにかく、自棄になって手なんかつないではいけないということと、これ以上痩せたら死んでしまうという二点だけを、メールで送った。
三年間、ひたすら彼女を想って痩せつづけ、つい先日も点滴を受けたぼくの写真を添付して。
彼女からの返信はなかった。ぼくは薄暗い部屋で飴を舐めながら、ボーっとスマホを眺めて過ごした。
するとミス・コケティッシュがやってきて、無理やり口におにぎりを押し込んできた。
「なにをする!」
飯粒を吐き出して怒ったら、片手で襟首をつかまれて、ひょいと持ちあげられた。
「目を醒ませヨ、純亜。ミイラになッちゃうゾ」
「これが恋だ。ぼくは全身全霊で、亜子ちゃんを愛してるんだ」
「あれは病気サ。あんなのに付き合ってたら死ぬぞ」
「望むところだ。ピュアな日本男子の最期を、とくと研究してくれ」
と、そのとき、スマホが鳴った。
亜子ちゃんからだ。急いで出る。
「蝶舌さま……」
その声は、異様に震えていた。
「どうした?」
「お助けください。人が死んでいるのでございます。大きなお腹から、血をもりもりお出しになって……お願いでございます、来てくださいませ」
あれほどの美貌でありながら、オーディションに落ちつづけ、まだアイドルとしてデビューしていなかった。
「わたくし、面貌が整いすぎていて、冷たい印象なのだそうでございます。親しみを持ちにくいという、そのような致命的な欠点をご指摘いただきました」
なんとも理不尽な話だが、美人すぎることが、かえって仇になっているらしい。なんならブスのほうが、親しみやすくてアイドルになれるようだ。
だとすると、亜子ちゃんは正反対だった。一つもブスの要素がない。そう思って巷のアイドルを見渡すと、驚いたことに、どれもこれもブスだった。これはまったく、意外すぎる盲点だった。
「わたくし、この世から、消えたい気分でございます!」
電話があると、いつもそう言って、泣いた。
気になって〈ルイーズ〉に足を運んだ。姿を見るたび、彼女は痩せていった。
元々三十八キロしかない。それが一年後には、三十一キロになった。
「痩せすぎだよ」
電話でそう指摘したとき、彼女は強く反撥した。
「どうして嘘を言うのでございますか。こんなに太ってるのに。太って醜くてデブだから、オーディションに落ちるのでございます」
「なに言ってんだ。きみほどスタイルのいい子が、ほかにいるか!」
「わたくしは醜いメス豚です。そう言われたのでございます」
「はあ? 誰に?」
「お母さまです」
彼女にとって、「お母さま」の言うことは絶対だった。
アイドルになろうと思ったのも、そもそも、母親の期待に応えたい一心からだった。
母親の木村由利子は、結婚せずに亜子ちゃんを産み、育てた。
亜子ちゃんから聞いた話によると、ひどい育児ノイローゼになったらしい。毎日怒られて、罰を与えられたという。
幼い亜子ちゃんにとって、母親はすべてだった。憎むことなどできず、どうやったらお母さまに気に入られるかと、必死に考えて生きた。
亜子ちゃんが小学生だったある日、由利子がテレビを観ながら言ったそうだ。
「あんた、わたしがせっかく美人に産んであげたんだから、アイドルになりな。それで、少しでもわたしを楽にしてくれよ」
その日から、アイドルになることが目標になった。いや、彼女の意識からすれば、それは絶対命令にも等しかった。
アイドルにならなければならない。お母さまを、楽にしてあげなければ。
それ以外のことを考えるのは「悪」だった。家は貧しかったから、独学で歌や振り付けの練習をし、高校に入ってバイトができるようになったら、そのお金で、平日は毎日歌とダンスのレッスンに通った。
が、いまだに夢を果たせずに苦しんでいる。母親におまえはデブだと罵られ、ガリガリに痩せていっている。
「とにかくもっと食べなきゃ。でないと声も出ないし、エネルギッシュなダンスもできないよ」
「蝶舌さまは、わたくしが醜くなって、アイドルになれなくなればいいのでございますね」
「ぼくは、亜子ちゃんに、幸せになってもらいたいんだ」
「アイドルになれなければ、死にます」
「なら食べないと」
「嫌でございます」
「あんまり痩せちゃうと、魅力がなくなるよ」
「あら。豚が魅力的でございますか?」
「よーし、わかった」
ぼくは電話口で、啖呵を切った。
「ぼくは今日から、きみと同じ食生活をする。それでぼくがどうなるかを見て、よく考えるんだ。きみが食べてるメニューを教えろ」
「ガムと飴だけでございます」
一年後、ぼくは三十四キロから十五キロ減って、十九キロになった。
「あの女とは関わるなって言ったロ!」
ミス・コケティッシュに、毎日怒鳴られた。体力を失ったぼくは、仕事をまったくできなくなり、前に不倫がばれるのを防いだ貴婦人に金をせびって、なんとか食いつないだ。
亜子ちゃんは高校を卒業して、フリーターになった。稼げるようになったぶん、レッスンの時間を倍に増やしたが、相変わらずオーディションには落ちつづけた。
さらに一年後、彼女は二十歳(はたち)になった。
「もういいだろう」
ぼくは十三キロまで落ちて、ハンペンみたいになった自分に向かって言った。
「彼女は成人した。頑張ったけど、アイドルになるには歳を食いすぎた。国宝になる見込みもない。亜子ちゃんにそれを言い聞かせて、正々堂々、求婚しよう」
ぼくは電話で、想いを伝えた。蝶舌純亜の、文字通り命を懸けた告白だった。
「まだわたくしは、あきらめませんわ」
二十五キロにまで落ちた亜子ちゃんの声は、聞きとりにくかった。
「こうなったら、女の武器を使えと、お母さまからの指令がありました」
「……どういう意味だ?」
「業界で力のある男性と、お近づきになるのです」
「近づいたらどうする。手でも握るつもりか」
「お手ぐらい、いくらでも握りますわ」
「なんだと」
身体の底から怒りが湧いてきて、空っぽの胃がヒクヒク震えた。
「デビュー前に子どもができたら、元も子もないじゃないか」
「そのようなこと……いくら蝶舌さまでも、言いすぎではございませんか」
「きみは、平気で男の手を握れるのか? そんな女なのか」
「もちろんでございます。アイドルになれましたら、ファンの方お一人お一人と、たーっぷり握手をするのが夢なんでございます」
「一人一人と、だって?」
「さようでございます。応援してくださる方全員と、心をこめて、何時間でも握手をする。そのようなアイドルになりたいと、ずっと思ってまいりました」
「このバカヤローッ!」
スマホに向かってわめいたとたん、貧血で倒れそうになった。
「く、くそ。ここで気絶してたまるか。きみはいったい何人産むつもりだ。え? それこそ豚にも劣る、犬畜生じゃないか」
「まあ」
「母親を連れてこい! どういう教育をしてるんだと、説教してやる」
「許しません」
亜子ちゃんの甲高い声が、頭蓋骨を揺らした。
「お母さまの悪口だけは、断じて許しませぬ!」
電話を切られた。それから何度もかけ直したが、出なかった。
直接〈ルイーズ〉に行ってみた。しかし、会えなかった。こうなったら、母親と二人暮らしをしているアパートを張り込もうかと思ったが、やめた。
冷静になろう。彼女は成人したが、まだ子どもなのだ。自分のやろうとしているのがどういうことなのか、わかっていないのだ。
とにかく、自棄になって手なんかつないではいけないということと、これ以上痩せたら死んでしまうという二点だけを、メールで送った。
三年間、ひたすら彼女を想って痩せつづけ、つい先日も点滴を受けたぼくの写真を添付して。
彼女からの返信はなかった。ぼくは薄暗い部屋で飴を舐めながら、ボーっとスマホを眺めて過ごした。
するとミス・コケティッシュがやってきて、無理やり口におにぎりを押し込んできた。
「なにをする!」
飯粒を吐き出して怒ったら、片手で襟首をつかまれて、ひょいと持ちあげられた。
「目を醒ませヨ、純亜。ミイラになッちゃうゾ」
「これが恋だ。ぼくは全身全霊で、亜子ちゃんを愛してるんだ」
「あれは病気サ。あんなのに付き合ってたら死ぬぞ」
「望むところだ。ピュアな日本男子の最期を、とくと研究してくれ」
と、そのとき、スマホが鳴った。
亜子ちゃんからだ。急いで出る。
「蝶舌さま……」
その声は、異様に震えていた。
「どうした?」
「お助けください。人が死んでいるのでございます。大きなお腹から、血をもりもりお出しになって……お願いでございます、来てくださいませ」