駅前の三十階建てタワーマンション。

 大型のショッピングモールが、すぐ目の前にある。修一の給料では、到底住むことの叶わぬ場所だ。

 てっきり、どこかの雑居ビルの一室に、事務所を構えているのだと思った。それがまさか、こんな高級マンションに呼び出されるとはと、修一は気後れしながら最上階のドアのインターホンを押した。

「ドウゾ」

 ドアを開けた人物を見あげて、思わずたじろいだ。

 デカい。外人だ。しかも見たことのないような、超絶美人。それが、全身黒ずくめの、革の服に身を包んでいる。

 女スパイか、はたまたコウモリか。しかしそんなものがどうして蝶舌の探偵事務所にいるのかと、不審に思いながらその美女についていくと、

「やあ」

 広さ十畳ほどのこざっぱりとした部屋に、蝶舌純亜がいた。

 会うのは中学三年生のとき以来だったから、およそ二十年ぶりだ。が、呆れるほどまったく変わっていない。

「久しぶり、修一。しかしまあ……ずいぶん変わったねえ」

 修一は、ヒゲをピクッと震わせた。自分の容貌の変化を指摘されるのは、たまらなく不快だった。

 蝶舌は、Tシャツにジーンズというラフな恰好で、ブラウンの革張りのソファに埋まるように坐っている。

 テーブルはあるがデスクはない。探偵の事務所なら、盗聴器や小型カメラなどがあるのかと思ったが、そういうものは見当たらない。代わりに、変わった形のエレキギターが一台、部屋の隅に置いてあるのが目についた。

「まあ、坐ってよ」

 うながされて、向かいのソファに坐る。革がひんやりと冷たい。

 蝶舌が、ジーンズの尻ポケットから銀色の容器を出し、中身を一口飲んだ。

「なんだよ、昼間っから酒か?」

 すると蝶舌は嬉しそうに笑い、

「つぶつぶオレンジだけどね。スキットルで飲むと、ハードボイルドっぽいでしょ」

「ハードボイルドって?」

「かっこいい小説のことさ」

 蝶舌が照れてペロッと舌を出したとき、さっきの美女が来て、「ほら、飲めヨ」と、ドンとコーヒーを置いた。

「紹介するよ。彼女はミス・コケティッシュ。ぼくの助手をしてくれている」

「おまえの……助手?」

 こんな超絶美人を雇うなんて、探偵ってのはどんだけ儲かるのだろう。どうせはした金で、ネズミみたいにコソコソ浮気調査でもしてるんだろうとタカを括っていただけに、同級生に出世した姿を見せつけられたようで、修一は激しく嫉妬した。

 美人助手がドアの向こうに消えると、蝶舌が訊いた。

「ところで、香織ちゃんは元気?」

 おまえには関係ないだろうと、つい怒鳴りそうになるのをこらえて、

「ああ」

 とだけ言い、熱いコーヒーを啜った。

「性格は昔のまんま?」

「さあ。昔のことなんか忘れたよ」

 蝶舌と香織の話をする気はなかったので、すぐ本題に入った。

「娘のことだけど、できるのか」

「憧れのミュージシャンを、嫌いにさせるんだね?」

「そうだ」

「いいよ」

 蝶舌が、さも簡単そうに請け合う。

「娘さんは早紀ちゃんといったね」

「ああ」

「早紀ちゃんはさ、囚われの捕虜になったんだよ」

「捕虜?」

「宇宙メタルの虜になったってこと。このままだと、親の言うことを聞かなくなるだけじゃない。二十四時間デャーモンのことを考えて、勉強は手につかず、頭がパーの人間のクズになっちゃうだろうね」

「そこまで?」

「そうさ。ぼくも一時期激しい音楽にハマってたからわかる。音楽の力っていうのは恐ろしいんだ。ライブに行ったことはある?」

「ない」

「ミュージシャンの、さあバカになれっていうメッセージを受けて、みんなバカになる。酔ってるわけでもないのに、頭を振って騒いだり、絶叫したり泣いたりする。中には失神するバカもいる。どう考えてもマトモじゃない。ぼくはつい、こんな想像をしちゃうんだ。音楽っていうのは、地球を乗っ取ろうと考えた宇宙人が発明した、地球人をバカにする最強のツールじゃないかってね」

「まさか」

「いや、ありえる。ちゃんとした親だったら、子どもに音楽なんか聴かせるべきじゃない。修一は、早紀ちゃんがクズになってもいいのか?」

「それは困る」

「だったら、今すぐ手を打たないと。いやー、ぼくに連絡してくれて良かったよ。すんでのところで、罪のない一人の少女の人生を救えた」

「どうやって、ファンをやめさせるんだ?」

「デャーモンに会わせる」

「え?」

 蝶舌は、意外すぎることを言った。

「早紀ちゃんは、デャーモンを天才だと思ってる。地球でいちばん才能のある男だと信じてるんだ。ところが実際に会ってみたら、普通のオジサンで、臭いオナラを連発したらどうだ? 百年の恋もたちまち冷めるでしょ?」

「ていうか、会っちゃくれないだろ」

「助手のミス・コケティッシュが、知り合いなんだ。同じアメリカ人のよしみでね」

「ホントか?」

「むちゃくちゃ熱い友情で結ばれている。すでに今回のことも頼んで、無料でやってくれることになったんだ。早紀ちゃんの前でボンボン屁をこいて、たちどころに幻滅させてやるって、今からやる気満々さ」

「もう? だって、おれがおまえに電話したの、つい昨日じゃないか」

「アメリカ人は即決なんだよ。まあ、舞台裏をバラしちゃうと、うちのミス・コケティッシュは、なんでも視えてね。今度の作戦に修一が乗ってくることも、デャーモンが引き受けてくれることも、すべてお見通しだったのさ」

「全然意味がわからん」

「わからなくても大丈夫。修一はただ、ぼくの言うとおりにしてくれたらいい」

「おれがなにかするのか?」

「実はデャーモンが、早紀ちゃんに会う前に、父親にもライブを体験してほしいと言ってきたそうなんだ。ただでやってくれるんだから、そのくらいの条件は呑まないとね」

「おれが……宇宙メタルのライブに?」

「ライブ終了後に、控室で二人っきりで会ってくれるらしい。そこで打ち合わせをしてから、いよいよ早紀ちゃんに会ってもらう段取りさ」

「おれとデャーモンが二人で……」

 修一のヒゲが、またピクピク震えた。動物的な勘で、なにやらひどく禍々しいことが起こりそうな予感がし、腹をすかせた猫を前にしたように震えが止まらなくなった。
 夜の七時。蝶舌が、封筒でライブのチケットと一緒に送ってきた地図を見ながら、狭い通りに入っていく。居酒屋やカラオケ店などがあり、若者の姿が目立った。

 おれはなんで、こんなところを歩いてるんだろう。

 修一はふと、香織と蝶舌がグルになって、自分を罠に嵌めたんじゃないかと思った。おれはただ、早紀が本当に自分の娘なのかどうか、知りたかっただけだ。それがどこをどうまちがったか、デャーモンとかいう得体の知れない野郎と、二人っきりで会うハメになった。

 正直、怖い。

 さっきから、背中の毛が逆立ってしょうがない。なぜ恐怖を感じるのかは、自分でもよくわからない。ただただ本能が、危険を警告していた。

「ここか」

 地下ライブハウス〈DEEP HO〉の看板を見つけた。

 下へ延びる暗い階段を見つめる。これを降りていって、わけのわからぬ輩の集まっている会場に入り、大嫌いなやかましい音楽を聴かされるのは、拷問にも等しい苦行だった。

 修一は、重い後ろ肢で階段を降りて行き、開け放たれたドアの向こうを覗いた。

 入口にカウンターのようなものがあり、金髪で、顔も金色の女が坐っていた。

 なんだありゃ。金粉でも塗ってんのか?

 これが若者文化なのだろうか。全然意味がわからない。宇宙メタルのライブっていうのは、受付の女にまで、宇宙人っぽいメイクをさせるようだ。実にくだらん。

「これは……ここで出すんですか?」

 ポケットからチケットを出して見せると、

「ヨコセ」

 甲高い声でぶっきらぼうに言ってひったくり、半分ちぎって半分返してきた。信じられない態度である。こいつ、これでも人間かと思った。

「ソっから入レ」

 金色女が、黒いカーテンを指差した。呆れることに、指まで金色だ。

 修一は、こわごわカーテンをかきわけた。真正面にステージが見えた。

 ステージの高さは、およそ一メートルくらい。中央にドラムセット。左右にスピーカー。あとは用途のよくわからない機材がいくつか。ライブハウスのステージというものは初めて見たが、えらくたくさんスポットライトがあるな、というのが第一印象だった。

 客はすでに八十人ばかりいた。どいつもこいつも若造だ。男女比は、だいたい七対三で、男のほうが多い。

 椅子はないので、みんなてんでバラバラに立っている。会場の照明が暗くしてあるのではっきりとは見えないが、黒っぽい服を着ている人間が多い。どこか陰気だ。普通のコンサート会場とは、なにやら異質な感じが漂う。

 修一は、自分と同じ三十代の人間はいないだろうかと、目で探しながら歩いた。いない。というか、年齢不詳の人物ならちらほらいる。年齢も職業も、そもそも何者なんだかさっぱりわからぬ人間どもが。

 あるやつは、顔、首、両手両足と、服から出ている部分すべてに、蛇のうろこのような入れ墨をしていた。ガリガリに痩せていて、メシなど食ったことがないように見える。

 かと思うと、太りすぎて顎をなくした男がいた。顔が、特殊メイクかと二度見してしまったほど、豚そっくりだった。蛇と豚は知り合いらしく、小さな声でなにやら語り合っていた。

 またある女は、耳をピンととがらせていた。パーティグッズかなにかだろう。その耳を、どういう仕掛けでか、ウサギみたいにあちこちに向けている。まったくどいつもこいつも、人間以下の動物にしか見えん。

 マニアどもめ。早紀はどうして、こんなものに惹かれたんだ。おれの理解を超越している。いよいよあいつとは、血がつながっていないという確信が強まった。

 ライブ開始の直前になって、どっと客が会場へ入ってきた。百人がキャパと思える部屋に、百二十人ぐらいがすし詰めにされた。まるで満員電車だ。

 と、突然会場が真っ暗になり、それと同時に耳を聾する騒音がして、修一は床から跳びあがった。

 なんだなんだと思ったら、マニアどもがステージに向かって、いっせいにこぶしを突きあげた。

「デャーモーン!」

 客が口々に叫ぶ。それで今の騒音が、これから出てくるやつが鳴らしたギターの音であるらしいと、見当がついた。

 スポットライトがつく。レインボーカラーの光線。キャーッという女の悲鳴。列車が走りだしたみたいに、満員の客たちが揺れる。嫌悪とともに恐怖も感じて、修一の毛はもはや、ハリネズミのようになって服を刺した。

 気がついたら、ドラムセットに男が坐っていた。

 いや、たぶん男だろうと想像しただけだ。見た目はタコである。全身真っ赤で、手足が八本。火星人のつもりだろうが、仮装に凝りすぎだ。

 そいつが六本のスティックでめちゃくちゃにドラムを叩くと、客がこぶしと首をぶんぶん振りだした。それが前後左右から当たるので、修一の頭はくらくらした。

 続いてステージ脇から、ギターとベースが現れた。

 ギターは半魚人。ベースはミノタウロス。

 ギターがジャーンと巨大な騒音を出すと、目の前の女が失神した。すると女は、まわりのやつらに頭上に差しあげられて、バケツリレーの要領で出口のほうへと運ばれた。

 バカめ。バカどもめ。やっぱりおまえらは、蝶舌の言ったように人間のクズだ。

 ウォーという歓声が轟いた。

 驚いてさっと振り返る。するとステージの真ん中に、緑の小男が立っていた。

 デャーモン、チャチャチャ、デャーモン、チャチャチャ。

 するとこいつがデャーモンか。えらくちっちゃい。ちょうど蝶舌と同じくらいだ。世の中には、案外背の低いやつがいるもんだ。

 緑色の全身タイツを着たデャーモンが、頭から立てたアンテナを小刻みに震わせながら、表情の窺えない緑色の顔をマイクに近づけた。

「それでは聴いてください。おれは宇宙のはみ出し者」

 耳に障るキンキン声だったが、意外ときれいな日本語で言った。

 と、客たちが、いっせいに跳びはねだした。

 地震が来たように会場が揺れる。ドラムがまためちゃくちゃに叩かれる。ベースの指が異常な速さで動く。ギターが真っ赤な口を開けて弦をかき鳴らす。

 修一は、朦朧としはじめた頭の片隅で、なんとなく、ギターの形に見憶えがあるぞと思った。そういえば、蝶舌の事務所に置いてあったのも、あんなふうにボディがVの字をしていなかったっけ?

「おれは宇宙のはみ出し者〜。みんながおれを嫌ってる。おれはみんなを好きなのに。ああ、なんて、宇宙はちっちゃい。おれにはちっちゃすぎるんだ〜」

 みんながデャーモンの下手くそな歌にノッている。修一は荒波に呑まれたように翻弄され、たちまち船酔いした。

「ああ、なんて、ちっちゃい。そうさ、はみ出してやるんだ〜」

 唄いながら、デャーモンは身長を伸ばした。

 どういうトリックだろう。まったく見当がつかない。最近のマジックは、ずいぶん進化したようだ。

「はみ出してやる〜、はーみ出してやる、はみ出してやる〜」

 デャーモンは調子に乗って、どんどん長くなった。すでに頭は天井についている。

 すると客たちのボルテージも、ぐんぐん上がった。

 横の男に挟まれる。前の女がぶつかる。後ろの誰かが押す。ああ吐きそう。だが、なぜか修一は、一種の解放感のようなものを味わっていた。

 こんなバカな世界があるんだ。

 その真っ只中に、おれもいる。

「はーみ出してやる〜。乱してやる〜。実出してやる〜」

 人間とは、実はバカなんじゃないか。この人間以下の、動物みたいな姿こそ、本来の人間の姿なんじゃないのか。

 だとしたら。

「ハ! ハ! ハ! 見だしてやる〜、身出してやる〜、診だしてやる〜」

 小賢しい悩みなんて、どうでもいいじゃないか。早紀が誰の子だって。おれは妻と娘を愛してるんだ。だから、いいじゃないか。

 修一の目から、涙がこぼれた。

 くそお。愛が欲しい。愛してるって言ってくれさえしたら、早紀が誰の子だって、おれは香織を赦してやるのに。

「葉! 歯! 波! 乱してやる〜、実出してやる〜、み出汁てやる〜」

 愛をくれ!

 修一は、前の女を押した。すると女が、思いっきり押し返してきた。

 横の男にアタックする。すると両側から、ギュウギュウに潰された。

 修一は人知れず、天に向かってチュウと哭いた。

 くそお。誰もが羨む結婚をしたのに。

 それなのに、幸せは来なかった。哀しい。おれという生き物は、一匹の、哀しい獣だ。小さく、哀しく、悲惨だ。

 そして、この会場にいるやつらも、きっとそうなんだ。

 おれたちは、哀しい獣さ。

 デャーモンは、それをわかって、唄ってくれてるんだろう。きっと。

 なあ、そうだろう?

 破!
 刃!
 覇!
 耳がよく聴こえない。身体がふわふわとする。

 まるで水の中にいるような、変な感覚だった。

 丸三時間も大音響にさらされたせいで、聴覚が戻らず、骨や内臓まで、まだビリビリと震えている感じがした。

 音楽が残っている。

 狂乱のステージが終わり、ライブハウスに明かりがついて日常の世界が戻っても、身体の芯ではずっと宇宙メタルの余韻が続いていた。

 うずうずしている。

 もう一度、あの不思議なリズムにノッて、若者たちとおしくらまんじゅうをし、獣のように本能で暴れたかった。

 デャーモンはすごい。

 そんな尊敬の念すら、持ってしまった。

 そのデャーモンと今、二人っきりで、ステージ裏の控室にいる。

 デャーモンの命令で、人払いがされていた。

 ミュージシャンたちが、出番前に着替えやメイクをする部屋なのだろう。ロッカーや鏡が並んでいる。

 折り畳み式の長机の上には、菓子や飲みかけのペットボトルが乱雑に散らばっている。それを挟んで、互いにパイプ椅子に座り、修一とデャーモンは向かい合っていた。

 デャーモンは、再び元のサイズに戻っていた。信じがたいことだが、汗一つ掻いていない。顔面の緑色は、おそらく特殊なペイントだと思われるが、まるで塗りたてのペンキみたいに艶々としていた。

 同じく緑の光沢を放った全身タイツ姿のまま、脚を大きく開き、腕組みをし、瞑想するように目を閉じている。対する修一は、入れと言われて入り、坐れと言われて坐ったきり、声を奪われた人魚姫のようになにも話せないでいた。

 どう声をかけていいのかわからない。

 ライブ終わりのアーティストは、どういう精神状態にあるのだろう。下手なことを言ったら怒鳴られるのではないか、と思うと、緊張して口が利けないのだった。

 やがてデャーモンが薄目を開けて、

「ドウだった?」

 ステージそのままの、甲高い声で訊いた。

 むろん地声ではあるまい。本名はなんというか知らないが、デャーモンでいるあいだはこの声で話す、というマイルールを、どうやら貫いているらしい。

「良かったです」

 頭を下げて言ったとたん、驚いた。喉がすっかり潰れていて、かすれた声しか出なかったのだ。それほど修一は、デャーモンの歌に合わせて、全力でシャウトしていたのである。

「どこがヨかった?」

「はい。わたしたちの哀しみを、わかってくれている気がしました」

 思ったままの感想を述べると、

「ソウか」

 無表情だが、どこか満足げな様子でうなずいた。

「バカになるのもいいもんダロ?」

「そうですね。こういう音楽は、聴かずに敬遠していましたが、娘が夢中になるのもわかる気がしました。中には、音楽なんて、地球人をクズにするための宇宙人の陰謀だ、なんて珍説を唱える輩もおりますが」

「ム……宇宙人なんて、いるわけなかろう」

「ハハハ。もちろん冗談です」

「ところで、おまえの娘の早紀とヤラだが、おれのライブを体験した今でも、ファンをやめさせたいと思ってるカ?」

「…………」

 宇宙メタルを褒めはしたが、それとこれとは話がちがう。やはりまだ中二の娘に、夜の十時十一時まで出歩いてもらいたくはない。

 あんな、父親の言うことを無視するよそよそしい娘ではなく、かつてのような、パパパパと言って甘えてくる娘に戻ってもらいたかった。

 あれが本当の娘なら、そうなれるはず。赤の他人のデャーモンよりも、このおれを選んでくれるはずだ。

「はい。ライブに出かけるのは、禁止するつもりです」

「娘を愛してるんダナ」

 デャーモンはそう言うと、机から銀色の小さな容器を取って、ゴクゴクと飲んだ。あの容器の名称はなんといったろう。そうだ、スキットルだ。

「その愛するチュー学生の娘を、おまえはちゃんと、大事に扱ってるノカ?」

 デャーモンがゲップをした。柑橘系の香りが漂う。よく見ると、緑色の唇の端に、オレンジ色のつぶがくっついていた。

 おかしい。

 正面に坐る男を、じーっとにらんだ。

 ペイントで隠された素顔。宇宙人のマネのような変な裏声。

 小学生の身長。スキットル。つぶつぶオレンジ。

「探偵ってのは」

 かすれた声で、修一は言った。

「こんなバカな変装までするのか、蝶舌」

 しばらく見つめ合った。

 修一のヒゲが震える。すると、向かいの男の頭のアンテナも、小刻みに揺れた。

 やがてそいつは裏声のまま、

「おれ様はデャーモンだよ」

 オレンジの匂いをさせながら、そう言った。

 あくまで芝居を続ける気でいる。

「なぜだ」

 訊いたが答えない。

 修一はぞっとした。

 蝶舌は、なぜこんなことをしているのか。

 香織から、最近のおれが妻や娘に当たるようになったのを聞き、おれに説教しようとして、こんな手の込んだことを? にしても、やり方が異常すぎる。

 わざわざデャーモンに扮して、あの狂乱のライブをやってみせるとは。

 いや。

 確かに蝶舌は、学生時代にバンドを組んでギターをやっていた。しかしその程度で、ファンの目をごまかせるほど、完璧にコピーできるはずがない。

 とすると――

 入れ替えトリック。

 さっきステージに立っていたのが本物のデャーモンで、控室で待っていたのが蝶舌。そうだ。これはそういうトリックなのだ。

「なぜだ、蝶舌」

 もう一度訊いた。

「なぜこんな芝居をする。香織に頼まれたのか?」

「ちがう」

 首を振り、ゆっくりと、おかしなことを言った。

「ぼくを殺させるためさ」

 まだ裏声を崩さない。そこに狂気を感じる。

 蝶舌のやつ、どうやら狂っちまったらしい。

「修一。おまえはこのままでいくと、香織ちゃんや早紀ちゃんを喰い殺してしまう。そこでぼくは考えた。ぼくを殺させて、殺人罪で刑務所に行かせちゃえってね」

「頭がどうかしたのか、蝶舌」

 修一の喉は、カラカラだった。

「殺すとかなんとか、意味がわからん」

「わかってるはずだよ。鏡を見ろ。おまえはもうネズミさ。ぼくが香織ちゃんのことを好きだったの、修一も憶えてるよね」

「…………」

「おまえといたら香織ちゃんの身が危ない。ぼくはそれから香織ちゃんを救うために、おまえに殺されてやるのさ。わかったか、修一」

 わかるはずがない。マジキチめ。

「それが究極の、ピュアな愛ってやつなのさ」

「ほざけ、蝶舌」

 怒りの感情が、だんだん抑えがたくなってくる。

「おまえなんか、ただのチビじゃねえか。香織どころか、誰にも相手にされるもんか」

「相手にされなくたっていい。ただ、香織ちゃんのためなら、ぼくは死ねる」

 言いながら、のっそりと立ち上がった。

「さあ、ぼくを殺してよ」

「殺さないよ」

 修一も椅子から立ち、後ろに下がった。

「そんな気持ち悪いことしないし、刑務所に行くつもりもない」

「喉笛に喰らいつきな。そうしたいはずだよ」

「したくない」

 蝶舌が長机をまわってこようとする。その同じ距離だけ、逃げた。

「デャーモンのライブに来させたのはそのためさ。宇宙メタルには力がある。人を熱狂させて、暴れさせる力がね」

「おれは帰る。付き合ってられん」

「殺せええ!」

 突然蝶舌が、信じられないスピードで迫ってきた。

 肩をつかまれた。全身の毛が逆立つ。

「よく聴け、修一! 早紀ちゃんは、ぼくの子だあ!」

 なにを叫んでいるのか、頭に入ってこない。

「おまえと結婚する直前に、香織ちゃんとコンビニで再会したんだ。ぼくたちは、そこで手をつないだ。ああ、そうさ。つないだとも! そのときできたのが早紀ちゃんだ。その証拠に、ぼくの歯茎を見ろおおお!」

 ライブでシャウトするときのように、くわっと大口を開けた。

 あらわになった歯茎――見まちがえようもない。早紀そっくりだ。

 身体中の血が頭にのぼる。

 今、この瞬間、わかった。

 自分を苦しめてきたものの正体が。

 蝶舌だ。

 香織の心にいたのは、蝶舌だった。

 香織はおれを裏切っていた。

 小学校のときから、おれじゃなく、こいつのことが好きだったのだ。

 香織と蝶舌。

 こいつらは、二人して、おれをコケにした。

 早紀はおれの子じゃない。このクソ野郎の子だ。

 ずっと自分の娘と信じて、育ててきたのに。

 殺してやる。

 身体の芯に残っていた音楽が、再び大音量で鳴りだした。

 宇宙メタル。

 ドラム、ベース、ギターが、荒々しく襲いかかってくる。

 暴れてやる。

 なにもかも、ぶっ壊す。

「チュウウウウウウ!」

 目の前の、緑の男を殴った。

 渾身のストレート。まともに顔の中央に入る。

 鮮やかなKOパンチ。

 蝶舌は宙を飛び、背中から床に落ちた。

 修一は跳びかかった。

 緑色の喉が見える。

 咬みついた。

 前歯が深く食い込む。

 もうすぐだ。

 あともう少し力を込めたら、蝶舌は死ぬ。

 復讐は遂げられる。

 そう思ったとき、このバカバカしい変装を、ジャマに感じた。

 喉から口を離して、服の袖で蝶舌の顔をこすった。

 が、色は一つも落ちない。えらく強力なペイントだ。

 無性に腹が立った。アンテナを両手で持ち、ぐいぐい引っ張った。

 全然取れない。いったいどうやってつけてるんだ。

 緑のタイツに爪を立てた。一気に引き裂いてやろうと、タイツを握り――

 ん?

 なんだこれは。皮膚?

 ガン! と音がした。

 反射的に振り向く。

「警察だ。傷害の現行犯でタイホする!」

 ロッカーの扉があいていて、大きな男と、やけに小さい男が立っていた。

 その小さなほうは、今まさに組み敷いているはずの、蝶舌純亜だった。
 喫茶店〈ルイーズ〉のドアをくぐった。

 二人用のテーブル席に案内される。メニューを広げて、なるべく苦くなさそうなコーヒーを探す。

「ぼくは、ウインナコーヒーにするよ」

「わたしはエスプレッソで」

 香織ちゃんの顔が、すぐ正面にある。ぼくはさっと視線を逸らした。十五年経ってもちっとも色褪せない、ぼくらの聖母。その尊顔はまぶしすぎて、とてもこの至近距離からは見られなかった。

「高松刑事がさ」

 ぼくは場をもたせるために、早口でしゃべった。

「修一の取調べをしたんだ。修一は一切言い訳せず、傷害の罪を認めたらしい。なんでも、自分が人を殺す寸前までいったことに怖くなって、刑務所で頭を冷やしたくなったんだって。妻と娘には会わせる顔もない、妻が望めば離婚してもいいと言ったそうだよ」

 香織ちゃんは返事をしなかった。白いブラウスの襟元を握り、遠くを見つめている。

「修一がそこまで殊勝になるとは、意外だったよ。ぼくとしては、ほっとけば香織ちゃんや早紀ちゃんの身を害する危険が大きいと、警察に証明できればいいと思ったんだ。そのために、暴れたくなるライブ会場に行かせて、デャーモンの口から挑発的な告白を聞かせたんだけどね。いやあ、彼の歯茎が偶然ぼくとそっくりだったこともあって、予想以上に修一を興奮させちゃって、もう少しで、本当にデャーモンを喰い殺すところだったよ」

「デャーモンさんはどうしてるの?」

 香織ちゃんが、心配そうに尊顔を曇らせて訊いた。

 ぼくは笑った。

「アメリカ人は丈夫だね。ピンピンしてるよ。実はぼく、デャーモンと同じメイクをしてみたんだ。超そっくりになったよ。あとは、スキットルでつぶつぶオレンジを飲んだりして、ぼくの変装に気づかせる予定だった。友だちがばかげたメイクをして騙したとわかったら、余計にカッとなると思ってね。それがぼくの考えた作戦。ところが、デャーモンにそれを話すと、その役はぜひ自分にやらせてほしいと頼んできたんだ。彼、人を騙すのが三度のメシより好きなんだって。ミス・コケティッシュも、そういう危ないことはコイツにやらせりゃいいって言うもんで、作戦を変更したんだ。本当はぼく、修一に一発殴られてやるつもりだったんだけどね」

 それは、ぼくの罪滅ぼしにもなる予定だった。十五年前に、修一を裏切って、香織ちゃんと手をつないだことに対する。

 しかし、いくらなんでも、喉笛を喰いちぎられるつもりはなかった。

「ぼくは、修一が控室に入ってくる前から、高松刑事とロッカーの中に隠れていた。高松刑事には、窃盗や詐欺グループに関する情報を何度も教えてあげたことがあって、ぼくのことを全面的に信用してくれている。情報源は、もちろんミス・コケティッシュだけどね。今回も、傷害の現行犯逮捕をしてもらいたいと言うと、二つ返事で引き受けてくれた。正義のためなら手段を気にしない、ナイスガイさ」

 デャーモンが、ぎりぎりまで止めに来るなと言ったせいで、結果的にほとんど殺人未遂の現行犯になってしまったけど。

 テーブルに、そっとウインナコーヒーが置かれた。顔をあげずにウエイトレスに会釈する。生クリームの表面に、ザラメの粒が浮いている。スプーンで軽く掻きまわして一口啜る。甘い。

「あの、唐突だけどさ」

 心臓がバクバクして、口から出そうになる。でもここは、蝶舌純亜の一世一代の場面だぞと、スカイツリーから飛び降りる気持ちになり、

「ぼくと、結婚してくれる?」

 まだ正式に離婚も決まってないうちに、言うべきことではなかったかもしれない。でもぼくは、決めていた。

 香織ちゃんの夫になる。早紀ちゃんのお父さんになる。

 彼女たちが望めば、危険な探偵稼業もやめる。手堅い仕事に就く。残りの人生を、二人のために捧げる。

 そうするのが当たり前だった。だってぼくたちは、手をつないだんだから。

 香織ちゃんは、エスプレッソを見つめている。その肩が揺れている。泣いてる? と思ったら、やがて声をあげて笑い出し、

「ありがとうね。でも離婚はしないから。早紀がね、デャーモンファンのお友だちから、パパがライブ会場でノリノリだったっていう話を聞いて、デャーモンの良さがわかるんだって、すっかりパパを見直しちゃって。わたしたち、たぶんこれで、やり直せると思う。純亜くんのおかげよ」

「え?」

 ぼくは頭が白くなりながら、なんとか言葉を絞り出した。

「でも早紀ちゃんの父親は、本当はぼくで――」

「なに言ってんの」

 香織ちゃんの目が、急にきつくなった。

「夢でも見たの? わたしたち、なにもなかったでしょ」

 本人を前にして、堂々と事実を否定した。

 ガラガラと音を立てて、なにかが崩れた。

 香織ちゃんはもはや、聖母ではなかった。保身のために平気で嘘をつく、どこにでもいるただの女性に成り下がってしまった。

「あのことを否定するんだね。じゃあぼくたち、二度と会わないほうがいいね」

「変な人。ええ、あなたがそう言うんなら、もう会いません」

 香織ちゃんは、謝礼の入った封筒をテーブルに叩きつけると、後ろを振り向くことなく大股で去って行った。

 しばらく茫然とした。

 ギターが弾きたい。そしてライブに行って、思いっきり暴れたかった。

 ちきしょう、ミス・コケティッシュのやつ。

 この結末も視えてたくせに、どうして教えないんだ。

 冷めたコーヒーを一気に飲み干して、ぼんやり天井を見上げたとき、ウエイトレスが空のカップを下げにきた。

 ハッと息を呑んだ。

 スタイル抜群の、超絶かわいい女の子が、そこにいた。

(第一部終わり。第二部 亜子篇に続く)
 百六十七センチ、三十八キロ。

 それが、あとから教えてもらった、出会ったときの木村亜子の身長と体重だった。

 見た瞬間、心臓を射抜かれてしまった。

 光を帯びた黒髪、瀬戸物のような白い肌。

 憂いを湛えた大きな目、ヨーロッパ風の高い鼻。品のある涼しげな口元。

 そして、モデル顔負けのスタイル。

 こんな子が、どうして普通の喫茶店でウエイトレスなんかしているんだろうと、不思議でならなかった。

「きみ、バイト?」

 つい訊いてしまった。なにも時給何百円で働かなくても、その美貌でいくらでも稼ぐ道がありそうなのに。

「はい、さようでございます」

 やや甲高い声で、まるで深窓の令嬢のように、そう言った。

「若そうだね。大学生?」

「いえ、まだ高校なんでございます」

「ホントに? すごく大人びてるね」

「お褒めにあずかり恐縮でございます」

「将来はモデルだね」

「めっそうもございません」

「モデルになったら、きっと日本一、いや、宇宙一になれるよ」

「オホホ。お坊っちゃまは、とてもお口がお上手ですね」

「おぼ……エヘン。ぼくは三十超えてるけど」

「た、大変失礼をばいたしました。どうかこのご無礼、平にご容赦を」

 腰を折って深々と頭を下げて謝るので、ぼくはまわりの目を気にして言った。

「別に謝らなくたっていいよ。いつものことだから。ところできみ、将来を視てもらいたくはない?」

「将来、でございますか?」

 令嬢が、心を惹かれたのがわかった。ぼくはすっかり嬉しくなり、

「うん。ぼくの知り合いに、なんでも視えるアメリカ人がいるんだ。彼女に頼めば、たとえばきみがモデルになったらどのくらい売れるかとか、なんでも教えてあげられるよ」

「まあ」

 彼女は白く美しい手を口に当てて、大きな目をさらに大きく見開いていたが、

「それはぜひ、お伺いいたしたく存じます」

 にっこり笑って言った。その瞬間、ぼくの目に、バラがいっせいに咲くのが見えた。まさしく女神の微笑だ。

 バイトは午後六時までで、そのあと一時間くらいなら時間があるという。ぼくの探偵事務所まで来るかいと訊くと、彼女はうなずいた。

 ぼくはふわふわと宙に浮きながら、喫茶店〈ルイーズ〉を出た。
 ミス・コケティッシュがむっつりしている。

 このごろどうも、怒りっぽくなった。デャーモンへの紹介を頼んだときもそうだった。理由を言わず、ただ怒るのだ。

 それは別にいい。ぼくは全面的に、彼女のおかげでメシが食えている。文句など言えた義理じゃない。

 でも、今回ばかりはやめてほしかった。

 女神の目の前で怒るのは。

「木村亜子。十七歳。高校二年生。アイドル志望。ダカラ?」

 不機嫌さ全開の視線を、突き刺してくる。

「依頼人なら、わたし、連れてくる。純亜は、連れてこなくてイイ」

「まあまあ」

 堅苦しいこと言わずに、そこをなんとか、と頼む。

 するとミス・コケティッシュは、

「この女はあきらめナ。とても純亜の手には負えないヨ」

 実に失礼なことを言った。

「なにを言うんだ。ぼくはこの子に、指一本触れる気はない!」

 本気で腹が立った。ぼくのピュアな想いが、どうしてミス・コケティッシュには視えないのか。

「彼女はアイドルの卵だ。それと付き合おうだなんて、そんなよこしまな、卵を割っちゃうような邪悪なことをするわけがない。ただ、彼女が将来どうなるかを、ちょこっと教えてあげてほしいって頼んでるだけだ」

 亜子ちゃんがアイドル志望だということは、ついさっき、彼女がミス・コケティッシュにした自己紹介の中で知った。でも、ぼくの目にはすでに、国民的スターになった亜子ちゃんの姿が見えていた。

「アイドル? あんなモン、地球人をパーにしようと企んだ、宇宙人の発明品サ」

「またそんな、おかしなことを」

「嘘と思うカ?」

「さっきから失礼だよ。アイドルを目指すピュアな想いを、侮辱してる」

「ナンダト!」

 ミス・コケティッシュが腕を突き出した。ぼくはSFXのように宙を飛び、背中から床に落ちた。

「純亜」

 呼吸ができず、きれいな星とUFOが頭のまわりをクルクルとまわる中で、ミス・コケティッシュの声を聞いた。

「わたし、純亜気に入ったカラ、能力使う。このイケ好かない小娘のために、貴重な能力を使う気はサラサラないネ」

「おいとまさせていただきますわ!」

 木村亜子ちゃんが帰っていく。ぼくの女神が。亜子ちゃん。亜子サマ。アコ。

 A、K、O、アコ! A、K、O、アコ!
 超絶かわいい、アコちゃん!

 羞ずかしながら告白すると、ぼくはこのとき、オウオウと声をあげて泣いた。

「コレでも飲め」

 ミス・コケティッシュがアメリカン・コーヒーをテーブルに置いた。ぼくはそれを手で払った。

「拭くのは自分でやれヨ」

「ひどいじゃないか、さっきの態度は」

「純亜を守るためサ」

「嫉妬だろ。自分より若くて美人だから」

「悪いこと言わないカラ、あれだけはやめな。ハーフだから」

「ハーフ? アメリカ人との?」

「アメ……うん、ソウヨ」

「どうしてハーフを差別するんだ。かわいそうじゃないか」

「しょせんは無理なのサ」

「無理じゃない!」

「あれと関わったらとんでもない目に遭うヨ。今まで経験したことのないような、とんでもなくヒドイ目にね」

「嘘だ! 嫉妬だ!」

「忠告したからね。モウ知らないよ」

「ぼくを研究したいんだろ。だったらひどい目に遭うところを、じっくり研究したらいいじゃないか!」

 ぼくは床にこぼれたコーヒーを拭いて、自分の部屋に行った。そしてベッドに仰向けになると、木村亜子ちゃんに、今日のことをどう謝ろうかと考えつづけた。
 翌日は日曜日だった。

 平日の放課後は歌とダンスのレッスン。そして土日は正午から六時までバイトをしていると言っていたので、正午ぴったりに〈ルイーズ〉に行った。

 亜子ちゃんはいた。

 彼女がこっちを見た。そして、昨日のことなど気にしていないように、にっこり笑いかけてくれた。

 おお。蝶舌純亜よ。おまえはなんて幸運な男子だ。この果報者め。

 ぼくは人目もはばからず、嗚咽しながらウインナコーヒーを頼んだ。

 彼女がコーヒーを運んできた。と、伝票と一緒に、四つ折にしたメモをテーブルに置いていった。

 なんだろう、と思って開くと、ケータイの番号が書いてあった。

 ダン! とテーブルに額を打ちつけて、ハッと目が醒めた。あまりのことに、気を失っていたのだ。

 もう一度メモを見る。手が震えて全然数字が読めないので、震えに合わせて首を振った。それでもちっとも読めない。

 この暗号を、探偵としてどう解読すべきか。

 電話してね、純亜くん、という意味でよいのか?

 いや、木村亜子サマは、そんな下等な言葉は遣わない。

 お電話お待ち申し上げております。デテクティブ殿。

 なんちゃって。

 ぼくはハハハと声をあげて笑った。ほかの客がぎょっとしたように振り返って、すぐに視線を逸らした。ぼくは反省し、声が出ないように口を手で押さえて笑った。すると身体が揺れてカップがカタコト鳴った。でも今度は、誰も見なかった。

 いやー、愉快だ。

 まさか、女神のほうから、ぼくのほうに降りてきてくれるとは。

 いや、待て待てと、ぼくは髪が乱れるほどブンブン首を振った。

 彼女は、国民的スターになる逸材だ。

 気安く電話をかけるなんて、そんな畏れ多いことしちゃいけない。

 あくまでぼくは、応援者の立場でいるのだ。

 そう決めて、グイとウインナコーヒーを飲み干すと、亜子ちゃんには紳士的態度で目礼だけし、毅然とした足どりで自動ドアをくぐった。いや、くぐろうとした。

「あおう!」

 現実には、ドアに激しくぶつかって、変な声を出してひっくり返ってしまった。どうも身長とセンサーの関係か、それとも体重が足りないせいか、ときどき自動ドアが反応してくれないことがある。ぼくは改めてセンサーに手をかざし、ドアをくぐり直した。

 彼女に電話はかけるまい。女神に気安くはしまい。

 午後七時。我慢できなくなって、電話した。

 亜子ちゃんはすぐに出てくれた。

「昨日は大変ご無礼をいたしました。中途で退席するなどという、はしたないことを」

「無礼はこっちさ。助手がきみの美貌に嫉妬してね」

「初めて私立探偵さまにお目にかかって、わたくし、緊張してしまったのでございます」

「緊張はこっちさ。だって超絶かわゆいんだもん。わ、言っちゃった」

「蝶舌さまは、お世辞ばかりおっしゃいます」

「お世辞なもんか。ところで、困ったことがあったらいつでも言ってね。きみの依頼だったら、なんでも無料でやるよ」

「わたくし、頼りにできる大人の男性が、一人もいないのでございます。蝶舌さま、ときどき相談に乗っていただけますか?」

「おおおおお」

 ぼくは感動のあまり、勝手に声が出るのを抑えられなかった。

「おおおおオッケー! 相談二十四時間オッケー!」

「嬉しゅうございます。ぜひ蝶舌さまには、アイドルになるための助言などしていただけたらと、かようにお願い申し上げる所存でございます」

「助言なんて要るもんか。すぐなれるよ」

「もったいなきお言葉」

「きみなら絶対成功する。国宝になれる。もちろんぼくは、きみには指一本触れないよ。国宝だから」

「……わたくし、女性としての魅力が、不足しておりますでしょうか?」

「バカ言うな。魅力ならダダ漏れさ! とにかくぼくは、きみの応援者でいたいんだ。オーディションとか芸能事務所について調査が必要だったら、ぜひ言ってよ。報告は、直接会わないで電話でするから」

「会ってくださらないのでございますか?」

「それが、ピュアな愛ってやつなのさ」

 ぼくはつぶつぶオレンジをぐいと呷って、ハードボイルドのヒーローらしく、やせ我慢を貫き通した。

「たまに、喫茶店に顔を見に行くよ。でもデビューが決まったら、きっと猛烈に忙しくなって、バイトどころじゃなくなるね」

 じゃあねと言って、電話を切った。

 一生に一度、会えるか会えないかの女性。

 本音を言えば、結婚したい。そうしたら、いつ死んでもいい。

 でもその彼女には、指一本触れられない。一ファンでいることしか、できないのだ。

 苦しい。

 ぼくはだんだん食欲がなくなり、それから一年が過ぎた。
 木村亜子ちゃんは、高校三年生になった。

 あれほどの美貌でありながら、オーディションに落ちつづけ、まだアイドルとしてデビューしていなかった。

「わたくし、面貌が整いすぎていて、冷たい印象なのだそうでございます。親しみを持ちにくいという、そのような致命的な欠点をご指摘いただきました」

 なんとも理不尽な話だが、美人すぎることが、かえって仇になっているらしい。なんならブスのほうが、親しみやすくてアイドルになれるようだ。

 だとすると、亜子ちゃんは正反対だった。一つもブスの要素がない。そう思って巷のアイドルを見渡すと、驚いたことに、どれもこれもブスだった。これはまったく、意外すぎる盲点だった。

「わたくし、この世から、消えたい気分でございます!」

 電話があると、いつもそう言って、泣いた。

 気になって〈ルイーズ〉に足を運んだ。姿を見るたび、彼女は痩せていった。

 元々三十八キロしかない。それが一年後には、三十一キロになった。

「痩せすぎだよ」

 電話でそう指摘したとき、彼女は強く反撥した。

「どうして嘘を言うのでございますか。こんなに太ってるのに。太って醜くてデブだから、オーディションに落ちるのでございます」

「なに言ってんだ。きみほどスタイルのいい子が、ほかにいるか!」

「わたくしは醜いメス豚です。そう言われたのでございます」

「はあ? 誰に?」

「お母さまです」

 彼女にとって、「お母さま」の言うことは絶対だった。

 アイドルになろうと思ったのも、そもそも、母親の期待に応えたい一心からだった。

 母親の木村由利子は、結婚せずに亜子ちゃんを産み、育てた。

 亜子ちゃんから聞いた話によると、ひどい育児ノイローゼになったらしい。毎日怒られて、罰を与えられたという。

 幼い亜子ちゃんにとって、母親はすべてだった。憎むことなどできず、どうやったらお母さまに気に入られるかと、必死に考えて生きた。

 亜子ちゃんが小学生だったある日、由利子がテレビを観ながら言ったそうだ。

「あんた、わたしがせっかく美人に産んであげたんだから、アイドルになりな。それで、少しでもわたしを楽にしてくれよ」

 その日から、アイドルになることが目標になった。いや、彼女の意識からすれば、それは絶対命令にも等しかった。

 アイドルにならなければならない。お母さまを、楽にしてあげなければ。

 それ以外のことを考えるのは「悪」だった。家は貧しかったから、独学で歌や振り付けの練習をし、高校に入ってバイトができるようになったら、そのお金で、平日は毎日歌とダンスのレッスンに通った。

 が、いまだに夢を果たせずに苦しんでいる。母親におまえはデブだと罵られ、ガリガリに痩せていっている。

「とにかくもっと食べなきゃ。でないと声も出ないし、エネルギッシュなダンスもできないよ」

「蝶舌さまは、わたくしが醜くなって、アイドルになれなくなればいいのでございますね」

「ぼくは、亜子ちゃんに、幸せになってもらいたいんだ」

「アイドルになれなければ、死にます」

「なら食べないと」

「嫌でございます」

「あんまり痩せちゃうと、魅力がなくなるよ」

「あら。豚が魅力的でございますか?」

「よーし、わかった」

 ぼくは電話口で、啖呵を切った。

「ぼくは今日から、きみと同じ食生活をする。それでぼくがどうなるかを見て、よく考えるんだ。きみが食べてるメニューを教えろ」

「ガムと飴だけでございます」

 一年後、ぼくは三十四キロから十五キロ減って、十九キロになった。

「あの女とは関わるなって言ったロ!」

 ミス・コケティッシュに、毎日怒鳴られた。体力を失ったぼくは、仕事をまったくできなくなり、前に不倫がばれるのを防いだ貴婦人に金をせびって、なんとか食いつないだ。

 亜子ちゃんは高校を卒業して、フリーターになった。稼げるようになったぶん、レッスンの時間を倍に増やしたが、相変わらずオーディションには落ちつづけた。

 さらに一年後、彼女は二十歳(はたち)になった。

「もういいだろう」

 ぼくは十三キロまで落ちて、ハンペンみたいになった自分に向かって言った。

「彼女は成人した。頑張ったけど、アイドルになるには歳を食いすぎた。国宝になる見込みもない。亜子ちゃんにそれを言い聞かせて、正々堂々、求婚しよう」

 ぼくは電話で、想いを伝えた。蝶舌純亜の、文字通り命を懸けた告白だった。

「まだわたくしは、あきらめませんわ」

 二十五キロにまで落ちた亜子ちゃんの声は、聞きとりにくかった。

「こうなったら、女の武器を使えと、お母さまからの指令がありました」

「……どういう意味だ?」

「業界で力のある男性と、お近づきになるのです」

「近づいたらどうする。手でも握るつもりか」

「お手ぐらい、いくらでも握りますわ」

「なんだと」

 身体の底から怒りが湧いてきて、空っぽの胃がヒクヒク震えた。

「デビュー前に子どもができたら、元も子もないじゃないか」

「そのようなこと……いくら蝶舌さまでも、言いすぎではございませんか」

「きみは、平気で男の手を握れるのか? そんな女なのか」

「もちろんでございます。アイドルになれましたら、ファンの方お一人お一人と、たーっぷり握手をするのが夢なんでございます」

「一人一人と、だって?」

「さようでございます。応援してくださる方全員と、心をこめて、何時間でも握手をする。そのようなアイドルになりたいと、ずっと思ってまいりました」

「このバカヤローッ!」

 スマホに向かってわめいたとたん、貧血で倒れそうになった。

「く、くそ。ここで気絶してたまるか。きみはいったい何人産むつもりだ。え? それこそ豚にも劣る、犬畜生じゃないか」

「まあ」

「母親を連れてこい! どういう教育をしてるんだと、説教してやる」

「許しません」

 亜子ちゃんの甲高い声が、頭蓋骨を揺らした。

「お母さまの悪口だけは、断じて許しませぬ!」

 電話を切られた。それから何度もかけ直したが、出なかった。

 直接〈ルイーズ〉に行ってみた。しかし、会えなかった。こうなったら、母親と二人暮らしをしているアパートを張り込もうかと思ったが、やめた。

 冷静になろう。彼女は成人したが、まだ子どもなのだ。自分のやろうとしているのがどういうことなのか、わかっていないのだ。

 とにかく、自棄になって手なんかつないではいけないということと、これ以上痩せたら死んでしまうという二点だけを、メールで送った。

 三年間、ひたすら彼女を想って痩せつづけ、つい先日も点滴を受けたぼくの写真を添付して。

 彼女からの返信はなかった。ぼくは薄暗い部屋で飴を舐めながら、ボーっとスマホを眺めて過ごした。

 するとミス・コケティッシュがやってきて、無理やり口におにぎりを押し込んできた。

「なにをする!」

 飯粒を吐き出して怒ったら、片手で襟首をつかまれて、ひょいと持ちあげられた。

「目を醒ませヨ、純亜。ミイラになッちゃうゾ」

「これが恋だ。ぼくは全身全霊で、亜子ちゃんを愛してるんだ」

「あれは病気サ。あんなのに付き合ってたら死ぬぞ」

「望むところだ。ピュアな日本男子の最期を、とくと研究してくれ」

 と、そのとき、スマホが鳴った。

 亜子ちゃんからだ。急いで出る。

「蝶舌さま……」

 その声は、異様に震えていた。

「どうした?」

「お助けください。人が死んでいるのでございます。大きなお腹から、血をもりもりお出しになって……お願いでございます、来てくださいませ」
 木村亜子は電話を切った。

 時計を見る。九時四十分。蝶舌さまに、最寄りの駅から今いる家までの道順をお伝え申し上げると、三十分以内で着けると言われた。

 三十分も!

 蝶舌さまがお着きになるまで、あの汚らわしい死体と、一つ屋根の下にいなければならないなんて。ああ、なんていやらしいことでございましょう!

 亜子は、リビングのソファに横たわったまま、でもあれは本当に現実のことだったのでしょうかと、そーっと首をまわして、絨緞に倒れている物体を見た。

 やっぱり……鮮やかに死んでいらっしゃる。お顔の色が、ゾンビ殿のようでございますもの。

 死体のお名前は赤沢卓根(あかざわたくね)さま。お歳は五十歳。芸能情報誌の編集長で、失礼にも二度見してしまったほど、お顔も身体も豚さんにそっくりでいらした。

 その豚さんが、突然襲ってきた。

 イノシシさんなら、人を襲うと聞いていたけれど、豚さんが襲うとはちっとも知らなかった。だけど……

 そこから先の記憶がない。

 目が醒めると、赤沢さまは死んでいた。大きなお腹から、血をもりもり出して。

 見ているものがなんなのか、最初はわからなかった。

 でも、鮮やかな血の色と、変テコなすっぱい匂いで、これは殺人なんでございますわという、怖ろしい現実が理解された。

 凶器は庖丁? ナイフ? でもそのようなものは、どこにも落ちていなかった。

 それにしても、こんなに血が出るほど切るなんて。

 よっぽど犯人さんは、豚さんを恨んでいたのでございますね。

 木村亜子は、ぶるぶるっと震えた。

 悪魔の所業、という言葉が、頭に浮かんでくる。

 こんなことをできるのは、憎っくき悪魔にちがいませんわ!

 そう考えたとたん、亜子は、まだ見ぬ父親のことを思い出した。

『あんたの父親は、悪魔よ』

 幼いころから、お母さまによく聞かされた。

 お母さまは、ご自分を捨てた殿方が、よっぽど憎かったのでございましょう。だから娘にも、その憎しみを植えつけようとした。

 でも亜子としては、顔も知らない父親を憎む気にはなれず、その代わりに、自分には半分悪魔の血が流れているのだわという、自己否定の感情を育てた。

 思春期になり、お母さまにはない美貌が現れても、少しも自慢に感じず、これはきっと悪魔の妖しい力によるものなんだわと思った。

 わたくしには、人間社会に居場所はないのですわ。わたくしは決して幸せにはなれない。わたくしは、誰とも恋愛しちゃいけない。

 亜子は強くそう信じた。

 だから亜子には、夢も希望もなかった。ただ一つ、お母さまを喜ばせるために、アイドルにならなければならないという、胸を締めつけるような強迫観念だけがあった。

 それが果たせなければ、死ぬしかない。だって、この月の砂漠のような世界のただ中で、お母さまに見放されてしまったら、一日だって生きていられませんもの!

 だけど、その目標は遠かった。自分はアイドルになれる素材ではなかった、という恐ろしい現実が迫ると、胃が食物を受けつけなくなった。その結果、みるみる痩せていくことで、かろうじて死を選ぶ一歩手前で踏みとどまった。

 痩せて、前よりも少しキレイになった。この努力を、きっとお母さまも喜んでくださる。もしかしたら、オーディションにも受かるかもしれない。

 もはや痩せることでしか、自信を得られなかった。もし体重計に乗ったとき、前日より一キロでも増えていようものなら、死んでしまおうと思った。

 そういう日々のうちに出会った探偵の蝶舌さまが、自分に同情して痩せていったとき、亜子は一人で泣いた。

 もう蝶舌さまと関わってはいけない。わたくしは決して幸せになれないし、人を幸せにもできない。不幸にするだけなんでございます。

『もうお電話するのはやめますわ』

 何度もそう言おうと思った。でも言えなかった。それを言ったら張り裂けて、ただでさえちっぽけな自分が、消えてなくなっちゃいそうに思った。

 蝶舌さまとつながっていたい。でもあのお方を不幸にするのは、もっとつらい。

 そう悩んでいたとき、お母さまの一言は、呪文のように効いた。

『女の武器を使うしかないわね』

 それだと思った。わたくしみたいなメス豚には、その手しかない。

 それでお母さまが喜んでくださるのならそうしよう。そしてそれを、蝶舌さまに伝えよう。蝶舌さまは、きっとわたくしを軽蔑して離れていくことでしょう。それでいいのですわ。心底嫌いになってくださったら、たぶんわたくしの苦しみも小さくなる。

 といっても、誰に武器を使いましょう?

 大物プロデューサー? そのような雲の上のお方に近づく方法なぞ、とてもありそうにない。

 お父さまはどうだろう。

 実のところ、芸能界との直接のつながりは、そこしかなかった。

『あんたの父親は、星王子(ほしおうじ)という芸名の売れない歌手でね。けど、あんたが産まれる寸前で逃げやがった。あの悪魔』

 お父さまのことは、それ以上教えてくださらなかった。

 星王子という名前をネットで検索しても、大した情報はなかった。

 連絡先や住所を、お母さまに訊くことはできない。お父さまを憎んでいらっしゃるから。しかし、プロデューサーを紹介してほしいなどと、ずうずうしいことを頼めるのは、どう考えても身内しかいない。となると、お父さまの星王子を捜して、願いを話すしかなかった。

 どうやったらお父さまと連絡をとれるか。考えた末、亜子が思いついた方法は、芸能情報誌の編集部に電話することだった。

「わたくし、星王子の娘なんでございますが、父とは会ったことがないのです。一目だけでもお父さまにお会い申し上げてみたいので、協力してくださいませんでしょうか?」

 なにしろ売れない歌手のことだから、きっと相手にしてもらえないだろうと諦め半分でいたところ、意外にも編集長が食いついてくださった。

「きみ、なかなかいいキャラしてるね。芸能界に興味ない?」

 星王子のことはなにも言わずに、亜子に対して興味を示した。

「実は、アイドルになりたいのでございます」

「ホント? じゃあ、ぼくが力になれるかもしれない。一度こっちに遊びに来なさいよ」

 翌日、指定された時間に編集部のあるオフィスビルへ行くと、編集長の赤沢卓根さまが、たった一人で待っていらした。

 それにしても……

 これほど豚さんそっくりの人がいるなんて、なんだか服を着ていることが、不思議に感じられたほどでした。

「なんだなんだ、ものすごい美人じゃないか。ブヒッ! きみならすぐにでも、デビューできるぞ」

「ですが、オーディションには落ちまくりなんでございます」

「売り出し方しだいだよ。ぼくが大物にかけあってあげる」

「えっ、それは本当でございますか?」

「どうだろう、このあと食事でもしながら、じっくりその話を」

 豚さんとお食事? それはどうも、気が進まなかった。

「父の星王子とは、お会いできますでしょうか?」

「ああそれねえ、微妙な問題だからね。ぼくに任せてくれたら、うまくやってあげるよ」

「連絡先を、教えてはいただけないでしょうか?」

「ぼくに任せなさい」

 急に眉間にしわが寄って、真正面を向いた鼻の穴から、機関車のようにシューシューと息が洩れた。

「ぼくの言うことを聞いたら、お父さんにも会わせるし、大物にも紹介する。でも言うとおりにしないと、この世界に入るのは難しくなるよ。ぼくは芸能界の裏情報をたくさん持っていて、それだけに力もあるんだ。わかったね」

「……承知いたしました」

「よし、ぼくの家に行こう。ブヒヒッ」

 ビルを出て、赤沢さまの車に乗った。もしなにか怖いことがあったら、一目散に逃げましょうと考えて、必死で道を憶えた。

 赤沢さまのお住まいは、閑静な住宅街にある、二階建ての一軒家だった。ずっと独身で、一人でそこに住んでいるのだと、赤沢さまはブイブイ鼻を鳴らしながら言った。

 亜子は、覚悟を決めた。

 どうせ、女の武器を使うつもりだったのだ。その相手が大物プロデューサーではなく、豚さんであっても一緒だ。アイドルになれさえすれば、それでいいのでございます。

 でも、最初のお相手は、本当は蝶舌さまが良かったな。

 赤沢卓根さまは、スパゲッティを作って出してきた。

 亜子は無理して食べた。もちろん太るわけにはいかないので、食べ終わったら、すぐにトイレで吐いた。

 赤ワインも出された。アルコールには弱い体質だった。でも無理して飲んだ。

 頭がクラクラして、急に眠くなった。

 豚さんが近づいてきた。おやめください、と心の中で叫んでも、あまりに眠すぎて、口を開くことさえできなかった。

 ワインにおクスリを混ぜたのね、ひどいお方、と思ったのを最後に、意識が消えた。