喫茶店〈ルイーズ〉のドアをくぐった。

 二人用のテーブル席に案内される。メニューを広げて、なるべく苦くなさそうなコーヒーを探す。

「ぼくは、ウインナコーヒーにするよ」

「わたしはエスプレッソで」

 香織ちゃんの顔が、すぐ正面にある。ぼくはさっと視線を逸らした。十五年経ってもちっとも色褪せない、ぼくらの聖母。その尊顔はまぶしすぎて、とてもこの至近距離からは見られなかった。

「高松刑事がさ」

 ぼくは場をもたせるために、早口でしゃべった。

「修一の取調べをしたんだ。修一は一切言い訳せず、傷害の罪を認めたらしい。なんでも、自分が人を殺す寸前までいったことに怖くなって、刑務所で頭を冷やしたくなったんだって。妻と娘には会わせる顔もない、妻が望めば離婚してもいいと言ったそうだよ」

 香織ちゃんは返事をしなかった。白いブラウスの襟元を握り、遠くを見つめている。

「修一がそこまで殊勝になるとは、意外だったよ。ぼくとしては、ほっとけば香織ちゃんや早紀ちゃんの身を害する危険が大きいと、警察に証明できればいいと思ったんだ。そのために、暴れたくなるライブ会場に行かせて、デャーモンの口から挑発的な告白を聞かせたんだけどね。いやあ、彼の歯茎が偶然ぼくとそっくりだったこともあって、予想以上に修一を興奮させちゃって、もう少しで、本当にデャーモンを喰い殺すところだったよ」

「デャーモンさんはどうしてるの?」

 香織ちゃんが、心配そうに尊顔を曇らせて訊いた。

 ぼくは笑った。

「アメリカ人は丈夫だね。ピンピンしてるよ。実はぼく、デャーモンと同じメイクをしてみたんだ。超そっくりになったよ。あとは、スキットルでつぶつぶオレンジを飲んだりして、ぼくの変装に気づかせる予定だった。友だちがばかげたメイクをして騙したとわかったら、余計にカッとなると思ってね。それがぼくの考えた作戦。ところが、デャーモンにそれを話すと、その役はぜひ自分にやらせてほしいと頼んできたんだ。彼、人を騙すのが三度のメシより好きなんだって。ミス・コケティッシュも、そういう危ないことはコイツにやらせりゃいいって言うもんで、作戦を変更したんだ。本当はぼく、修一に一発殴られてやるつもりだったんだけどね」

 それは、ぼくの罪滅ぼしにもなる予定だった。十五年前に、修一を裏切って、香織ちゃんと手をつないだことに対する。

 しかし、いくらなんでも、喉笛を喰いちぎられるつもりはなかった。

「ぼくは、修一が控室に入ってくる前から、高松刑事とロッカーの中に隠れていた。高松刑事には、窃盗や詐欺グループに関する情報を何度も教えてあげたことがあって、ぼくのことを全面的に信用してくれている。情報源は、もちろんミス・コケティッシュだけどね。今回も、傷害の現行犯逮捕をしてもらいたいと言うと、二つ返事で引き受けてくれた。正義のためなら手段を気にしない、ナイスガイさ」

 デャーモンが、ぎりぎりまで止めに来るなと言ったせいで、結果的にほとんど殺人未遂の現行犯になってしまったけど。

 テーブルに、そっとウインナコーヒーが置かれた。顔をあげずにウエイトレスに会釈する。生クリームの表面に、ザラメの粒が浮いている。スプーンで軽く掻きまわして一口啜る。甘い。

「あの、唐突だけどさ」

 心臓がバクバクして、口から出そうになる。でもここは、蝶舌純亜の一世一代の場面だぞと、スカイツリーから飛び降りる気持ちになり、

「ぼくと、結婚してくれる?」

 まだ正式に離婚も決まってないうちに、言うべきことではなかったかもしれない。でもぼくは、決めていた。

 香織ちゃんの夫になる。早紀ちゃんのお父さんになる。

 彼女たちが望めば、危険な探偵稼業もやめる。手堅い仕事に就く。残りの人生を、二人のために捧げる。

 そうするのが当たり前だった。だってぼくたちは、手をつないだんだから。

 香織ちゃんは、エスプレッソを見つめている。その肩が揺れている。泣いてる? と思ったら、やがて声をあげて笑い出し、

「ありがとうね。でも離婚はしないから。早紀がね、デャーモンファンのお友だちから、パパがライブ会場でノリノリだったっていう話を聞いて、デャーモンの良さがわかるんだって、すっかりパパを見直しちゃって。わたしたち、たぶんこれで、やり直せると思う。純亜くんのおかげよ」

「え?」

 ぼくは頭が白くなりながら、なんとか言葉を絞り出した。

「でも早紀ちゃんの父親は、本当はぼくで――」

「なに言ってんの」

 香織ちゃんの目が、急にきつくなった。

「夢でも見たの? わたしたち、なにもなかったでしょ」

 本人を前にして、堂々と事実を否定した。

 ガラガラと音を立てて、なにかが崩れた。

 香織ちゃんはもはや、聖母ではなかった。保身のために平気で嘘をつく、どこにでもいるただの女性に成り下がってしまった。

「あのことを否定するんだね。じゃあぼくたち、二度と会わないほうがいいね」

「変な人。ええ、あなたがそう言うんなら、もう会いません」

 香織ちゃんは、謝礼の入った封筒をテーブルに叩きつけると、後ろを振り向くことなく大股で去って行った。

 しばらく茫然とした。

 ギターが弾きたい。そしてライブに行って、思いっきり暴れたかった。

 ちきしょう、ミス・コケティッシュのやつ。

 この結末も視えてたくせに、どうして教えないんだ。

 冷めたコーヒーを一気に飲み干して、ぼんやり天井を見上げたとき、ウエイトレスが空のカップを下げにきた。

 ハッと息を呑んだ。

 スタイル抜群の、超絶かわいい女の子が、そこにいた。

(第一部終わり。第二部 亜子篇に続く)