ひも解き靴屋の履き心地




   4.



 ランニングシューズの修理完了日より数日だけ予定を早めて、鞘香は『鞣革製靴店』を再訪した。

 JR実ヶ丘駅からすぐそばの商店街は、心なしか客足が寂しくなった気がする。もともと大手デパートや歓楽街に客を取られつつあると聞いていたが、なるほどこれが地域競争か、と今さら社会科で習ったことを実感する鞘香だった。

 無論、単に客の少ない時間帯なだけかも知れない。すでに夜のとばりが下りて、夕方の書き入れ時を過ぎている。

 シャッターを下ろす店舗がちらほら見受けられることから、靴屋も閉店時間を過ぎてやしないかと鞘香は焦燥した。自然と早足になる。

「靴屋さんの閉店時間、聞くの忘れてたね。踏絵は知ってる?」

「し、知らない……個人経営のお店って結構早めに閉めちゃうから、こんな時間に行くよりは、日を改めて訪ねた方が良いんじゃないかしら……?」

 踏絵の返事が頼りない。

 むしろシャターが下りていれば良いのに、くらいの語調に聞こえたのは、鞘香の曲解だろうか?

 アーケード街の中ほどに辿り着くと、場末と違って多少の賑わいは残っていた。とはいえ店じまいの準備に取りかかる店舗がほとんどだ。商品棚や看板を片付けている。

 鞘香は焦りを隠せず、しきりに目を動かした。

「居た! 店主さーん!」

 目的地を見付けて滑り込む。

 鞘香が大手を振って挨拶すると、今まさに軒先でシャッターを下ろそうとしていた鞣革靼造と目が合った。

 相変わらずの鉄面皮である。愛想のアの字もない唐変木だが、あいにく鞘香には通用しない。パーソナルスペースが近い彼女の天真爛漫さは、こういうときに便利だ。

 踏絵が眩しそうに鞘香を眺めつつ、自身もおっかなびっくり追いかけた。

「どうした二人とも」

 店主は眉間にしわを寄せて女子高生を見返した。

 想定外の来客だったせいだろう、強面がさらにメンチを切っているが、これは本人の表情が無駄に硬いだけであって、歓迎していないわけではない。

「ちょっと早いんですけど、様子が気になって来てみました!」

「心配は無用だ。納期は若干余裕をもって契約するから、実際は早めに出来上がる。その際はこちらから電話連絡を入れる」

「あっ、そうなんですか! 早いと助かります!」

 鞘香は店主の手を握って、ぶんぶんと揺すった。

 そろそろ大会のレギュラー発表がある。誰が選ばれるかは判らないが、本番に向けた最終調整をするためにも、ランシューが早く戻って来ることに越したことはない。

 鞘香は店主の手を掴んだまま、彼の仏頂面を覗き込んだ。

 上目遣いで見上げられた店主は、こんな鬼面に見入る女子高生の心境が理解できず、ますます眉間にしわを寄せる一方だ。

「我輩の顔に何か付いているかね?」

「いいえ! 私が好きで眺めてるだけです」誤解されそうなことを平気で言う鞘香。「それでですね店主さん! 例の犯人候補がいくつか浮上したんで、話を聞いて下さい!」

「何だ、その話で来たのか」

 店主は安堵の息を漏らした。

 雰囲気がほんの少し和らぐ。次いで店主にしては珍しく、シニカルな冷笑を湛えてみせたから驚きだ。

「かんらかんら、かんらからからよ。ではその候補とやらを教えてもらおうか。靴の破損と照らし合わせて、我輩個人の見解を述べてやろう」

「はい! 後輩部員の忍足さんと、ライバル校の足高っていう子です!」

 鞘香は遠慮なく容疑者の名をさらした。

 忍足と足高――いずれも鞘香へ敵意を剥き出しにする食わせ者だ。

「本当は人を疑いたくないんですけど、頑張って候補者を選びました――どうですか?」

 閉店間際で活気のない店頭は、しんと静まり返った。

 鞘香の相談を真っ向から受け止めた店主は、しばし考え込んだ。その間も決して瞑目せず、まっすぐな鞘香の瞳から目をそらさない。

 やがて店主が出した結論は、やはり皮肉(シニカル)な微笑だった。

「かんらかんら。君は本当に良い子だな。お人よし、と言い換えることも可能だが」

「え?」

「人を疑いたくないと言うが、性善説論者なのか? 君は幸せな環境で育ったのだな。そのせいで、人を悪く解釈できない。ゆえに、犯人候補も誤った人選になってしまう」

「誤った……? 私の予想は外れてるんですか!」

「甘いと言わざるを得ない。だからつい笑みがこぼれる。かんらからからだ」

 店主はきびすを返した。

 レジカウンターにある丸椅子へ腰かけ、エプロンを外す。ワイシャツと蝶ネクタイ、そしてサスペンダーで吊るしたスラックスとブーツでくつろぐ店主は、立ったままの鞘香と踏絵を手で招き、正面からこう説いた。

「君は他人との距離感が狭い。パーソナルスペースが近い、とも言い換えられる」

「あっはい、よく言われます!」素直に頷く鞘香。「それが何か問題でも?」

「大ありだ。君のパーソナルスペースは、どこで(つちか)われた? 昔からそうだったのか?」

「昔っていうか――両親が他界してから、ですね! 親が居ない寂しさを、お兄ちゃんや近所の人と過度(かど)に接することで紛らわせてたんです! そしたら、いつの間にかそれが当たり前になっちゃって」

 なるほど――それが鞘香の原点か。

 パーソナルスペースが異様に近くなった理由。

 人恋しさの余り、徐々に接触する範囲が拡大した案配だ。肉親から近隣住民へ、近隣住民から友人知人へ、友人知人から学校関係者へ、学校関係者から店の主人へ――。

「君は運が良かった。人に裏切られたことも騙されたこともないのだろう? もしも接触した人が悪意を持っていたら、無防備な君は真っ先に危害を喰らうに違いない」

「えっ? そんなこと――」

 鞘香は否定しようとしたが、言葉を詰まらせた。

 現に今、彼女へ悪意を抱く何者かがランニングシューズを傷付けたのだから、反論のしようがない。いや、これでもまだ被害は軽い方だ。無条件に胸襟を開く鞘香へ手傷を負わせることなど、赤子の手をひねるより容易なのだから。

 店主はただでさえ武骨な剣幕を、さらに語気を強めて忠告した。

「以前、ランシューが『靴紐以外にも傷を付けられていたのかも知れないな』と話したのは覚えているか?」

「はい! それを聞いたときはショックでした」

「修理中、本当に何箇所か故意と思われる傷跡が見付かった」

「ええっ!」

「ランシューの消耗を隠れ(みの)にして、繰り返し縫製(ほうせい)を切り裂く『犯人』が居たのだ」

 まさに『木を隠すなら森に』を体現していたのだ。

 さり気ない傷であれば、よほどつぶさに観察しなければ気付かない。それらは消耗による汚損と見分けが付かず、鞘香はこの静かなる悪意を知らずに過ごして来た。

「これほど断続的に、日常的に切り刻むとなると、君に近しい間柄(・・・・・・・)でなければ不可能だ。先ほどライバル校の選手が挙がっていたが、頻繁に顔を合わせていたのかね?」

「いいえ! 公式大会くらいでしか見かけませんよ。せいぜい年に数回です!」

「その子は候補から外して良いぞ」

「じゃあ、残った犯人は後輩の忍足さんですか! 同じ部だから、私のランシューに手を伸ばす機会も多いですし!」

「まぁ待ちたまえ。我輩が今述べたことをもう一度反芻(はんすう)して、候補者を洗い直すべきだ」

「洗い直すんですかっ?」

「君のランシューを執拗に切り刻めるのは、部活だけでなく全ての生活で『そばに寄り添っている人物』だ。隙を見ていつでもランシューに(・・・・・・・・・・)手が届く身近な者(・・・・・・・・)だ」

「それって、私の家族とかですか?」

「さぁな。少なくとも後輩の忍足は、条件を満たしていない」

「うーん、誰だろ? いつも私のそばに居るのって、お兄ちゃん以外は親友の踏絵くらいしか浮かびませんけど――……ん?」

 親友の踏絵。

 鞘香は無意識のうちに、彼女だけは犯人のはずがないと思って除外していた。誰だって親友を疑いたくはない。

 しかれども、店主の語った条件に照らし合わせると――?

「まさか!」

 鞘香は踏絵に体ごと向き直った。

 踏絵はと言えば、青ざめた形相で首を引っ込め、肩をすくめ、膝を笑わせている。すくんだ上半身は肯定も否定もしていないが、呼吸すら止めて紫色に染まった唇は、親友がただならぬ緊張に見舞われていることを意味していた。

「踏絵? どうしたの? しっかりしてよ!」

「あ、あたしは……ち、違うわ、あたしじゃない……!」

「落ち着いて踏絵! 顔色が悪いよ?」

「鞆原踏絵さん」椅子からねめつける店主。「君は普段から刃物を携行している(・・・・・・・・・)ね?」

「は、刃物……? まさかそんな……あっ」

 震え上がる踏絵は、おぼつかない手付きで小物入れに触れた。

 なぜか店主の視界から隠そうとしたのだ。しかし張り詰めた空気のせいで五指が滑り、中身を床にばらまいてしまった。

 携帯用のソーイングセット(・・・・・・・・)が、店主の足元まで散らばった。

 マチ針や縫い糸、そして糸切りバサミが白日の下にさらされる。

 ハサミ――。

 ――刃物、である。

 鞘香は目を(みは)った。

(そうだわ! 踏絵は常にソーイングセット(・・・・・・・・)を持ち歩いてた! ついさっきも更衣室でリボンの糸を縫い直してたわ!)

「縫製用のハサミか」

 店主は腰をかがめて、足元に転がった糸切りバサミをつまみ上げた。

 踏絵が消え入るような声で「触らないで……!」と抗議するも、もう遅い。

 店主はハサミを手中でもてあそびながら、見せびらかすように鞘香へ問いかけた。

「ランシューの縫製を断ち切るには、おあつらえ向きの凶器だと思わないか?」

「ま、待って下さい……」必死に取り繕おうとする踏絵。「携帯用の糸切りバサミなんかじゃ、ランシューの外皮に歯が立ちませんよ……!」

「一度に切ろうとすれば、な」

「!」

「この脆弱なハサミだと、一回で刻めるのは引っかき傷程度だろう。だが、それを毎日続けたら(・・・・・・)どうなる? (ちり)も積もれば山となる。やがて大きな損傷へ発展する。少しずつ段階を経て深める傷跡だから、傍目には経年劣化にしか見えない」

 千里の道も一歩から。

 踏絵は、人目を盗んでこつこつとランシューにハサミを入れていたのだ。

「で、でも鞘香のランシューは本番用で、家に置いて来る日の方が多かったですよ……」

「君が親友なら、鞘香さんの家へ遊びに行く(・・・・・・・・・・・・)ことだってあるのではないかね?」

 店主は事もなげに断定した。

 踏絵は今度こそ息の根を止められた。反論すればするほどボロが出る。心臓を鷲掴みにされたような顔面蒼白で、図星を指された彼女は動けなくなった。

 念のため、店主は鞘香に確認を取る。

「鞘香さん、この子が君の家に来る頻度はどのくらいだったかね?」

「しょっちゅう来てました! 春休みはほぼ毎日! 試験の勉強会とか、お泊まり会も頻繁に――……もしかして踏絵は親友の振りをして、私のランシューを狙ってたの!?」

 以前から、二人は家で遊んでいると話していた。あれは伏線だったのだ。

 鞘香は友に裏切られた。踏絵は友達の仮面をかぶった伏兵だ。面従腹背のユダなのだ。

 二人の友情も、絆も、信頼も、何もかも演技だった――?

「踏絵、答えて!」

「だ、だってあたしも、記録が伸び悩んでたから……」

 ついに動機が語られた。否、踏絵は以前から話していたことだ。引っ込み思案な性格が災いし、人前で実力を発揮できずにくすぶっていた。だから一人で黙々と練習に没頭するしかなかった。その壁を破って接近したのが鞘香なのだ。

「し、しょうがないじゃない……! 鞘香はパーソナルスペースが近いから、あたしにどんどん迫って、いつの間にか親友ポジションに収まったのがいけないのよ!」

「私の性格のせいだってこと? パーソナルスペースが事の発端?」

「あたしは本来、一人でストイックに打ち込むタイプだったのよ……なのに鞘香が土足で踏み込んで来た! そのせいであたしは調子が狂って、タイムが停滞したの……!」

 こんな状態では大会に出られない。それは困る。踏絵も夏に有終の美を飾りたいのだ。

「そこであたしは、鞘香を妨害することを考えた……あたしはずっと鞘香の走りを見て来たから、細工する箇所も目星は付いてた……例えば鞘香のすり足(・・・)にかこつけて、ランシューの靴底をこすって摩耗させた……鞘香のX脚(・・)を利用して、インナーやかかとに裂け目を入れた……エジプト型(・・・・・)の大きな親指で靴が圧迫されたように見せかけて、トゥー部分を切り刻んだ……!」

「なるほどな」腕組みする店主。「君は、本当は足癖の知識があった(・・・・・・・・・・・・)のに知らない振りをして、我輩の様子を窺っていたのか」

 すり足、X脚、エジプト型――足癖に関する数々の講釈さえも、踏絵が店主の知識量を測るための会話だったことになる。何もかも伏線なのだ。

「ずるい手だとは思ったわ……卑怯な女だと自分を嫌悪したわ……けど、鞘香が靴の破損で戦績を落とせば、顧問は鞘香を見限るかも知れない……そうなれば、あたしがレギュラーに選ばれやすくなる……!」

「壊れたランシューに足を取られて、私が怪我する可能性もあったのに?」

「そ、そんなつもりはなかったの……! 本番のタイムが落ちれば充分だったの……!」

 だとしても、この仕打ちは酷い。

 どんなお題目を(かか)げようとも、彼女は親友の足を引っ張った。仲間としての信頼は地に堕ちたし、良識(モラル)を著しく欠いた軽挙妄動だと断言できる。

「踏絵さん」口を挟む店主。「君が鞘香さんの靴屋巡りに同行した理由は、単なる友達付き合いではなく、ランシューに入れた傷跡がバレないか監視するためではないか?」

「うっ……べ、別にそれだけじゃないです、けど……」

「我輩から靴の納期を聞き出し、修理後にもう一度破損させる猶予はないか探ったな?」

「それだけじゃありません……! あたしは初めて出来た友達に感謝しつつ、その友達を罠に嵌める後ろめたさと葛藤して……相反する感情で板挟みになってたんです!」

 せめぎ合う両極端の思惑。

 踏絵の脳内で天使と悪魔が戦っていたようだ。

「ずっと悩んでた……妨害しなきゃいけないけど……鞘香は(ひと)りぼっちのあたしに声をかけてくれた『親友』だったから……!」

 踏絵も苦心していたのだ。だから鞘香と親しく同行しながらも、こっそり鞘香の靴を傷付けるという相反する行動を取っていた。

 だが――それは所詮、詭弁(きべん)である。

 言い訳にもならない。

 大切なのは、被害を受けた鞘香がどう思うか、だ。

 嫌がらせされた鞘香が――信じた友に裏切られた彼女が――何と言うのか。何を感じたのか。それを尊重しなければならない。

 店主は鞘香に視線を投げた。やぶにらみの三白眼はすこぶる恐ろしいが、鞘香はそれを苦もなく受け止める。

「踏絵」ゆっくり息を吐く鞘香。「私って、踏絵の邪魔だったかな? 踏絵は独りで居た方が幸せだったのかな? 私が話しかけない方が、円満に暮らせたのかな?」

「違う、違うの……! 一人の方が集中できるけど、部活も教室も独りぼっちで辛かった……だからパーソナルスペースの近い、気の置けない親友が出来たときは嬉しかったの」

 一人(・・)は平気だが、独り(・・)は嫌だ。

 それが踏絵の本音であり、懊悩の根幹だった。

「あたしは、鞘香と知り合えて幸せだったのよ……!」

 鞘香の物怖じしない性格は、確実に踏絵を救っていた。

 決して邪魔な存在ではない。踏絵は本心から鞘香の友人でありたいと願ったし、二人で過ごすひとときが高校生活を充足させたのは疑いの余地がない。

 ただ、それに反比例して、友人のぬるま湯に甘んじて練習に打ち込めなくなった。友達を意識する余り、自分の力が出しきれない。一人の世界に入れない。

 孤高でなければ、踏絵は本領を発揮できない性分だった。

「ごめんね、踏絵」

「!」

 鞘香は親友を抱きしめた。甘酸っぱい香りがした。

「私って、いつもそう。人に愛想よく振る舞って、誰にでも心を開いちゃうから、相手の気持ちを考えずに距離を詰めちゃって、裏目に出るのよね」

「な……なんで鞘香が謝るの? 悪いのはあたしの方……あたしが謝るのが先よ……!」

「けど踏絵――」

「ううん、あたしが悪いの! 鞘香、ごめんなさい。あたしが犯人。軽蔑していいよ……それほどの悪行を、あたしはしてしまったから……!」

「そんなこと言われても」抱く力を強める鞘香。「私は踏絵のこと、嫌いになれないわ」

「…………っ!」

 踏絵の双眸に涙が浮かぶ。

 店主に見られているのも構わず、大粒の涙を垂れ流した。

 号泣。嗚咽。慟哭。

 余りにわんわんと泣き叫ぶものだから、往来にまで声が響いた。通行人が何事かと店内を覗くより早く、店主が立ち上がってシャッターを閉める。


 人目を気にしないように。二人の世界を邪魔しないように。

 鞘香は親友を許した。彼女は人を憎めないのだ。どうしようもない性善説の信奉者は、必ず自分から歩み寄るパーソナルスペースの近さがアイデンティティなのだから。

(うつわ)が違うな」

 店主は鼻で笑った。

 踏絵もすっかり毒気を抜かれて、鞘香に謝罪を繰り返した。泣き疲れて憑き物が落ちたように、おずおずと両手を鞘香の背中に伸ばす。抱き返したのだ。

 やがて抱擁が終わったあとも、名残り惜しそうに手を差し伸べた。

「こ、こんなあたしでも友達で居てくれますか……?」

「もちろん!」速攻で握手する鞘香。「ただし、二度とランシューを傷付けないでね?」

「し、しないよっ……絶対にしない……!」

 靴を直し、友情も直った。

 店主の洞察が、こじれた女子高生の交友関係を修繕した瞬間だった。

「こじれた紐を解けば、靴の履き心地も良くなるものだ」

「はい! 店主さん、ありがとうございました!」

 鞘香は店主にも手を伸ばす。店主が形だけ握り返してやると、鞘香は大喜びして両手を振り上げた。

 踏絵と店主に繋がれた手――それは二度と離れることのない、信頼の鎖だ。

「私と踏絵は必ずレギュラーになるんで、店主さんも地区予選を見に来て下さいね!」

「気が向いたらな」

「あははっ、本当に無愛想ですね!」

 鞘香は快活に笑い飛ばすと、最後にもう一度礼を述べてから退店した――シャッターが閉まっていたので、店の裏口から出してもらう。

 踏絵と手を繋いだまま、夕闇へと帰って行く。路上に伸びた影法師は、どこまでも二人をくっ付けていた。もう、あの二人は心配いらないだろう。

 店主は戸を閉め、店の片付けを始めた。工房に立ち入って掃除を済ませる。作業机を(せい)(とん)する最中、修理がほぼ完了した一足のランニングシューズに目をとめた。

 古びた外皮こそ手付かずだが、靴底とトゥー部分は鞘香の足型に合わせて補強されている。完全ではないが、鞘香が大会に出ればポテンシャルを充分に引き出せる逸品だ。

「かんらかんら、かんらからからよ」

 ――靴にちなんだ客人の悩みを紐解いて(・・・・)、最高の履き心地を提供する。

 それが『鞣革製靴店』。

 後日、レギュラー入りを報告に来た彼女は、さっそく新生ランシューを試し履きした。

 その履き心地は、地区予選で如何(いかん)なく発揮されることになるのは言うまでもない。



第一幕――了





   1.



「おい! あんたがこの靴屋の店主かい?」

 男が店へ立ち入るなり、商品ではなく店主めがけて一直線に突き進んだ。

 五月頭――ゴールデンウィークの真っ只中である。昼間は客足も増え、商店街が最も賑わう時間帯だ。つまり、新顔の客人が訪れやすい。靴屋もまた例外ではなく、珍しく常連ではない訪問者が闖入した。

 店主――鞣革(なめしがわ)靼造(たんぞう)――が堂々たる体躯をもたげて工房から顔を出すと、その男は最初から店主との会話が目的だったかのごとく間合いを詰める。

 二人に面識はない。もしかしたら過去に話したことがあるかも知れないが、来客の顔を全て覚えている店主に限って、それはあり得ない。


「どちらさんだい」

 店主は抑揚なしに問い返す。

 ただでさえ無愛想だの朴念仁だのと揶揄される上、客に向かってぞんざいな口の利き方をするのは接客態度としてお世辞にも褒められたものではない。

 さりとて今さらこの性分を変えられるはずもなく、ましてやぶしつけに店へ怒鳴り込むような不審者に愛想を振りまく道理もなかった。

 店主は服装こそ紳士的ないでたち――ワイシャツに蝶ネクタイ、サスペンダーで吊ったスラックス、分厚い革のブーツ――だが、不機嫌な面構えで相手を上から下まで詮索する強面だから怖い。靴屋らしい牛革の匂いと合成樹脂の匂いが、体躯から漂っている。

 一方、男はまだ二〇代半ばほどの青年だった。店主ほどではないが上背の高い、そして腕っぷしの強そうな力こぶをTシャツからはみ出させている。髪は短い刈り上げだ。アクセサリの類は身に着けていない。無地のTシャツと破れたジーンズ、そして足元は裸足にサンダル。いずれもスーパーで安売りされているファストファッションだ。

 靴屋としてはサンダルをもっと見栄えのするものに履き替えさせたいが、肝心の客人が商品棚には目もくれないため、勧めるのも(はばか)られた。

「僕のことはどうでもいいだろ」

 青年は店主の質問を邪険に跳ねのけた。

 いや、どうでも良くないから「どちらさんだい」と尋ねたのだが、青年はこちらの都合などまるで気にせず、言いたいことだけをまくし立てる。

「店主さんって年齢は三〇代か? いかつい顔してるなぁ」

「二八歳だ」不愉快に答える店主。「買い物が目的ではないのなら、出て行ってくれ。こう見えて我輩は忙しい。奥の工房で修理の仕事が控えている」

「修理! そうそう、それだよそれ」

 青年は刈り込んだツンツン頭を大きく揺らして、うんうんと頷いた。

 何が「それ」なのか見当も付かない。店主は眉根を寄せ、口をへの字に曲げた。険しい仏頂面が輪をかけて歪む。普通の人間ならば恐れをなして遁走するに違いない。

「おっ、出た出た、その表情! ひたすら怖い唐変木だけど、何だかんだで会話には応じてくれるって僕の妹が言ってたよ」

 ――妹?

 店主は新たな名詞にこめかみを疼かせた。

 そこらへんのチンピラにしか見えない青年が「僕」というかしこまった一人称を使っているのも気になったが、もろもろ裏事情があるようだ。

「妹とは誰のことだ」

「おいおい、忘れたとは言わせないぜ? 何せあんたは、僕の大切な妹をたぶらかした張本人なんだからさぁ!」

「たぶらかした、だと?」

「妹はまだ高校生でさ。大人に手ぇ出されたら、周りが止めるに決まってるだろ!」

「は?」

 店主は腹の底から一音だけ絞り出した。

 何を言っているのだ、この男は。

 全く身に覚えがなかった。難癖にもほどがある。そもそも店主が高校生と接した記憶と言えば、先月ランニングシューズを修理した女子高生・跡部(あとべ)鞘香(さやか)くらいなもの――。

「ああ、あの女か」

 ――まさに鞘香が条件に当てはまったので、店主は手を叩き合わせた。

 鞘香には兄が居ると聞いた。四年前に両親を亡くし、それ以来ずっと兄が家計を支えて来たという。

 当時の兄は大学生だったが、中退して工場に就職した。それから四年経てば、二〇代半ばの青年にも合致する。よく見れば、目許や顔の輪郭が鞘香に似ていた。

 一人称の「僕」も、もともとインテリ大学生だったと考えれば腑に落ちる。髪型がやけに短いのも、工場帽をかぶるときに長髪では邪魔になるからだろう。

「我輩は、おたくの妹をたぶらかした覚えはないのだが」

「またまた、はぐらかそうとしたって無駄だぞ?」ずいと顔を寄せる兄。「鞘香の奴、連休に入ってからずっと、靴屋とあんたのことを自慢げにのろけるんだ! 食事のときも(だん)(らん)のときも、寝る前の挨拶でさえいちいち話題に出して褒めそやすんだよ!」

 そんな事態になっていたのか。

 店主は数日前、鞘香が抱えた悩みを紐解いて(・・・・)やったことがある。靴の修理を承るついでのサービスだったが、彼女のこじれた友人関係を和解へと導いた。

 鞘香が店主に甚大な恩情を抱いたのは言うまでもない。今頃は直したランニングシューズで陸上部に専念しているはずだ。その勇姿を想像すると、店主の仏頂面にも頬をほころばせる余地が生じた。

「あっ、今ニヤけたな? 僕の妹を思い浮かべてよこしまな笑みを浮かべただろ!」

「よこしまではない。誰だって笑うときくらいある」

 いちいち食ってかかる青年が鬱陶しい。せっかくの微笑も一瞬で引っ込んでしまった。

 この兄は、何が言いたいのだ?

 大事な妹が年の離れた靴職人に惚れているとでも勘違いし、心配しているのか?

 とんだ誤解である。鞘香は常人よりパーソナルスペースが近いせいで、誰とでも仲睦まじく接しているだけだ。

「僕が妹に買ったランニングシューズを、別物同然に改造したそうじゃないか」

「客人の足癖に応じてカスタマイズしただけだ。メーカーで修理しても仕様通りにしか修復されないが、我輩のような靴職人ならば、客一人一人に即したアレンジも可能だ」

 そこがメーカー修理と個人経営店の大きな違いである。この利点がなければ、並み居る量販店の大攻勢に、店主は瞬く間に滅ぼされていただろう。

「妹が僕にランシューを見せびらかしながら言うんだよ。『お兄ちゃん、ランシューが生まれ変わったよ』ってさ! 僕が購入した限定レアモデルが見る影もない!」

「まぁデザインが一部変わってしまったのは申し訳ないが」

 貴重な限定モデルに手を加えたのは、店主も恐れ多い気持ちではある。

 それでも昔から靴職人は、修理と称して靴を改造し続けて来たし、そもそも客の要望でもあるのだから咎められるいわれはない。

「客人よ。あのランシューは高校三年間ずっと酷使され、見るも無惨な有様だった。あのまま履き続けても鞘香さんは好成績を出せない。そこで我輩が修理したのだ」

「言うねぇ。だから僕は思ったのさ! ランシューをいじった奴のツラを見てみたい、ってね! なぜ妹がそこまで入れ込むのか、じきじきに話してみようってさ――」

「ちょっとお兄ちゃん! 先走り過ぎ!」

「――げ。鞘香」

 青年が店主の胸倉に手を伸ばそうとした矢先、店外から溌溂とした女声が轟いた。

 それは店主も記憶に新しい女子高生の声である。

 跡部鞘香だ。

 まだ五月なのにキャミソールとカットジーンズ一丁という、肌を大いに露出した薄着で店内へ駆け込んだ。

 鞘香の私服姿を拝んだのは初めてだ。相変わらず元気いっぱいの健脚で、小麦色の柔肌が目に眩しい。切り揃えたショートヘアは天真爛漫な鞘香にぴったりだ。

 兄と同様、アクセサリを一切身に着けない質素ないでたちは、貧しい生活が忍ばれる。

「鞘香、もう追い付いたのかよ? 早いな」

「そりゃ私は短距離走の代表だもん!」

 走って来たのに息一つ切らさない鞘香は、兄の手をぐいと引っ張った。

 触れ合い(スキンシップ)も日常茶飯事なのだろう、鞘香は兄をあっという間に店主から引き剥がし、代わりに彼女が間近に滑り込んだ。店主のそばに立つ。パーソナルスペースが近い。

 なるほど、これは誤解されかねない。鞘香は人懐っこ過ぎる。

「お兄ちゃんってば、私の話をちゃんと聞いてから動いてよね! 店主さんは私の恩人なの! くれぐれも無礼な振る舞いはやめてちょうだい!」

「けど、鞘香――」

「店主さん、お兄ちゃんが粗相(そそう)をしませんでしたか? ご迷惑をおかけして済みません」

 鞘香はぺこぺこ謝り倒した。

 この子は健気だ。自分に非がなくとも、先に謝罪してしまう優しさがある。だがそれは心苦しいし、彼女に謝られてもお門違いなので、店主は鞘香の頭をそっと()でた。

「謝ることはない。我輩は平気だ」

「良かったぁ! お兄ちゃんのせいで私まで嫌われたらどうしようって、気が気じゃなかったんですよ!」

 きゃっきゃと飛び跳ねる鞘香が無邪気すぎる。ほっと胸を撫で下ろし、店主に撫でられた頭部を見上げては、えへへと嬉しそうにはにかむのだ。

 兄がそれ見たことかと気勢を荒げた。

「やっぱり僕の妹とイチャ付いてるじゃないか! 淫行め!」

「お兄ちゃんは黙ってて!」

「だが鞘香――」

「いいから黙って!」

「お、おう……」

 兄はたじたじである。どうやら妹に頭が上がらないらしい。

「大体ねぇ、お兄ちゃんは目的がすり替わってるのよ! 私は店主さんに改めてお礼を言いに来たの! あと修理したい靴があれば、私が仲介してあげるって話だったでしょ!」

「あ、ああ。そう言えばそんな話だっけか」

 ――修理の仲介?

 店主は鞘香から発せられた一言に耳をそばだてた。

「何だ、新たな修理の依頼でも持って来たのか」

 そう切り出すと、鞘香がぴょんと反転して店主に向き直った。店主と話せるのが楽しくて仕方ないという風体だ。

「実はそうなんです! 私、お兄ちゃんや友達にも布教してるんですよ! 修理したい靴があれば『鞣革製靴店』をぜひ、って!」

 (くち)コミの(かがみ)である。

 誠実な仕事をすれば評判を呼ぶ。店主の善行が巡り巡って自分の利益に繋がるのだ。情けは人のためならず、とは良く言ったものである。

「では、今日は兄君《あにぎみ》の靴を修理しに来たわけか? 部活動はどうした?」

「部活は休憩日(インターバル)です! 適度に休むことも大会前は重要だぞって顧問に叱られちゃって」

 ぺろりと舌を出す鞘香がお茶目だ。

 だから骨休めのために、私服で商店街へ出かけたわけだ。ついでに兄を伴って、靴の修理を依頼しに来た、と。

「言っとくが、靴の修理は僕じゃないぞ」言い訳がましく弁解する兄。「改めて自己紹介しようか。僕は跡部赳士(たけし)、二四歳。鞘香が世話になったと聞いて顔を出したまでさ!」

「では、誰の依頼なのかね?」

 とっとと先を促す店主が素っ気ない。

 赳士の依頼でなければ、鞘香は誰の修理を仲介するのだろう――?

「実はもう一人、連れが居るのさ!」

 赳士が後ろを振り返った。

 遥か遠方、商店街の往来からようやく最後の人影が近付いて来た。

 三人目の到来だ。

 女性である。年齢は赳士と同じくらい。鞘香とは対照的なロングヘアーで、フリルの多いガーリーなブラウスとスカートを着ている。汗一つかかない鞘香に対し、その女性は急いで来たせいかハンカチで首筋を拭いていた。

 元が良いのか化粧は薄い。片手には日傘をさしている。肩にはトートバッグ。その中から、壊れた靴のようなものが垣間見えた。

「ふぅ、やっと追い付いたわ。タケくんも鞘香ちゃんも、靴屋が見えた途端、血相を変えて走って行っちゃうんだもの……」

「ああ、済まなかったね歩美(あゆみ)

 赳士が女性をそう呼んだ。

 それが彼女の名前のようだ。さり気なく店主は足元を観察すると、歩美はミュールを履いていた。なるほど、走りづらいわけだ。

 普通、置き去りにされたらもっと激昂しそうなものだが、歩美は走り疲れたせいか――あるいはすでに兄妹と親しい間柄ゆえか――怒ったりはしなかった。

「兄妹揃って足が速いんだもの、呆れるしかないわね」

 歩美は日傘を畳んでトートバッグにしまうと、中にあった壊れた靴がさらにはみ出た。

 店主は目ざとく確認してから、遠慮なしにズイと巨躯を歩美へ寄せる。やにわ長身の仏頂面が迫ったせいで、歩美は表情を凍り付かせた。あからさまに青ざめている。

「わっ、怖……! この方が鞘香ちゃんの言っていた店主さん? 噂通りの鬼面ね」

「その肩に()げているのが、直したい靴かね?」

 店主は噂を無視して、トートバッグを俯瞰した。

 壊れた靴は、一足のパンプスだった。左右両方ともヒールがぽっきり折れている。

「ヒールの砕けたパンプスか」

「そうよ……鞘香ちゃんの評判を聞いて、わたしも修理してもらおうかなって」

「歩美は僕の婚約者(フィアンセ)なのさ!」

 赳士が歩美の隣に肩を並べた。

 青ざめた彼女を支える勇姿は、確かに恋人らしい所作だ。ぴったり寄り添ったことで、歩美は安堵したように顔色を回復させた。

「ほう、婚約者」

 店主が復唱すると、赳士はことさら相槌を打った。

「その通り! 僕は工場で家電を製造し、歩美は営業をやってるのさ」

 職場恋愛というわけか。だとしても製造の現場と外回りでは接点がなさそうだが、そんな疑問も当人の口から即座に解説された。

「わたしが営業で売り込むときは、必ず担当商品の製造工程を視察してるのよ……そうすれば品物をより深く理解できるし、取引先にも詳細な説明が出来るでしょう?」

 今の時代、上辺だけの宣伝では売れない。具体的に何を気遣って製造したのか、何を売りに設計したのかを商談で語れれば、売り込みにも説得力が増す。若い身空で熱心だ。

「歩美の工場視察は、僕が案内してるのさ。それが二人の馴れ初めになった」

「ふむ。ではその壊れたパンプスは、さしずめ外回りに履く一足かね?」

「ええ……そうよ。取引を結びたいときに履く『勝負靴』だわ」

 歩美は神妙に認めた。

 見た所、パンプスのヒールは細くて長い。いかにも(もろ)そうだ。外回りならば歩数も半端ではないし、使い込めばあっさり折れてしまうのも詮なきことだった。

「わたしは脛永(はぎなが)歩美、ヒールを直したいんだけど……頼んでも大丈夫? 鞘香ちゃんの紹介だから来てみたものの、タケくんはこの店を怪しんでるわよね……店主の顔も怖いし」

 無愛想な店主に気圧(けお)されながら、歩美は半信半疑で問うた。

 新たな仕事が幕を開けようとしていたが、ほのかな暗雲もまた立ち込めていた。



   *





   2.



「本当に鞘香ちゃんの紹介を信用して良いのかしら? わたしのパンプスのヒール、しっかり直せるんでしょうね……?」

 半信半疑で問い質す歩美に対し、店主は厳格な剣幕のまま頷いてみせた。

 店主の表情が険しいのは生まれつきだとしても、やはり第一印象がもたらす悪影響は大きい。接客業に向かない威圧は客の不信感を招く。歩美は赳士の背に隠れた。

 恋人に頼られた赳士もまた、せいぜい虚勢を張って店主と対峙する。

「法外な修理費の請求や、客の個人情報を闇に流出させたりしないだろうな?」

「しない」

 店主は鬱陶しそうに断言した。

 完全にヤクザか何かと間違われている。気丈に振る舞う赳士も実は足が震えていて、内心では店主のいかつい面相に怯えているのが透けて見えた。

 さすがに鞘香が見かねて店主の前に立ちはだかると、兄と婚約者に反論した。

「もう! お兄ちゃんも歩美さんも、私の仲介なんだから顔を立ててよね! この店主さんは正当な価格で修理を引き受けるし、職人の腕前も本物よ! 多分……」

 最後にちょっぴり弱腰になる鞘香が頼りない。

 店主の世話になったのはまだ一回きりだから、たまたま初回サービスで手厚かっただけかも知れないし、職人の腕前と言っても鞘香はその道に精通していない。本当に腕が良いかなんて判断できようはずもない。

 それでも鞘香は店主を擁護した。店主がかつて、彼女を絶望の淵から救い出したのは紛れもない事実だから。

「店主さんはほんの少し無愛想なだけで、根は真面目だし、私の話を真摯に聞いて依頼を受けたのよ! だから歩美さんも心配しないで! ねっ店主さん?」

 店主の長身を見上げて、鞘香は彼の手を取った。

 思いがけず手を繋がれた店主は一瞬だけ頬をひくつかせたが、基本の仏頂面は崩すことなく「ああ」とだけ返事する。

 迎え撃つ歩美は半眼になって、店主と鞘香を交互に見比べた。

「けど、この店主さんとやらが、想像以上にちょっと、その……怖くて……ねぇ?」

 歩美が覗き込んだ店主の煽り画は、確かに不気味だ。

 偉丈夫の強面が仁王立ちしている。その(スジ)の者なのかと勘違いされてしまうのも無理はない。及び腰になる歩美を、赳士が優しく抱きとめた。

「店主ならもっと愛想良く接客すべきなんじゃないか? あ、でもその図体でニコニコしながら迫られても、それはそれで怖いか……」

 さらりと無礼千万なことをほざいている。

 だが、店主は黙って耐えていた。無理に媚びを売るよりは、自然体で営業するのが無難だと悟っている風体だ。もしかしたら、過去に愛想良く接客して失敗した経験があるのかも知れない。

 鞘香はそのことを敏感に感じ取り、ますます店主の手を強く握りしめた。

「駄目だよお兄ちゃん、歩美さん! 店主さんが困ってるでしょ!」

「……困ってる?」顔を見合わせる赳士と歩美。「ようには見えないけれど……不動のしかめっ面だし」

「ひょっとして店主さんの表情を見分けられるのって私だけ? とにかく店主さんを馬鹿にしたら許さないからね!」

 目くじらを立てた鞘香に、またもや赳士は腰を引かせた。

 妹の(げき)には弱いようだ。しばらく不満を(にじ)ませていたが、不承不承に矛を収めた。

「わ、判ったよ鞘香。僕も店主を信用するから、そんな目で見ないでおくれ……」

「ちょっと、タケくん!?」

 歩美が赳士の心変わりに動揺した。

 婚約者があっさり妹側に寝返ったものだから、歩美は裏切られたような立ち位置だ。今や店主を嫌疑の目で見ているのは彼女のみとなった。

「タケくんは恋人のわたしをさし置いて、鞘香ちゃんの味方に付くのね。わたし心細いんだけど……安心して靴を修理したいだけなのに……」

「そ、そんなつもりはないよ歩美!」婚約者をなだめる赳士。「僕も完全に心を開いたわけじゃないけど、ここは妹に免じて、修理を任せてみないか?」

「ほら、そうやってわたしより鞘香ちゃんを優先する」

 歩美はすっかりへそを曲げてしまった。

 面倒臭い事態になった。恋人の甘い雰囲気など欠片もない。外を歩く通行人は、靴屋から響く喧々諤々の声を敬遠して近付こうともしない。

 赳士は鞘香と歩美の板挟みになった。たった一人の家族と言う意味では、妹の方が比重は大きいのだろう。だが、それは歩美をないがしろにしているような錯覚を(もよお)す。

「お兄ちゃんも歩美さんも落ち着いて! 私のために争わないでってば!」

 鞘香が呆れてがなり立てた。

 別に鞘香のために争っているわけではないのだが、この子も少し思考がずれている。

「とにかく店主さんに修理の見積もりを(うかが)おうよ! どこをどう直すのか、期間や値段はどのくらいか、丁寧に話を聞けば、歩美さんも不安が解消されるわ!」

「うーん……」

 歩美はなかなか首を縦に振らなかった。

 靴の修理に来ただけなのに、あわや喧嘩別れしかねない危険さえ漂っている。

 ついに業を煮やした店主が一喝した。

「御託は良いからパンプスを見せたまえよ」

 店主は手を差し出した。鞘香に握られていない方の手だ。

 ぶしつけにトートバッグへ手を伸ばされた歩美は拒絶反応を示したが、鞘香と赳士に両方から目配せされて、仕方なく明け渡した。

 店主はバッグからパンプスをひょいと取り上げた。ヒールが根元から折れており、歩くことはおろか立つことすら出来そうにない。折れたヒールの先端はバッグの中にある。

「ヒールの先端も見せてくれ」

 店長の命令口調に、歩美はムッとしたものの――なぜ客が横柄に(ぐう)されなければならないのか――しぶしぶ従った。

 トートバッグから、ヒールの先端をつまみ上げる。左右二つ。いずれも細長いハイヒールだ。高さは一〇センチほど。かかとの接着部こそ面積が広いものの、突端につれて先細りしており、道路に触れる底辺はわずかな面積しかない。

「ふむ。これは『フレンチ』型のハイヒールだな」

 フレンチとは、文字通りフランスで発祥したハイヒールだ。細く尖った形状のため、足にかかる負担もそこへ一点集中する。接地面がそこしかないからだ。

「これを履いて一日中外回りしたら、細いフレンチに負荷がかかる。折れるのも当然だ」

 店主はシニカルな笑みをこぼした。

 馬鹿にされたような印象を受けた歩美はますます腹を立てたが、店主の言う通りなので反論は出来ない。

「そこで我輩は提案する。細いフレンチ型ではなく、もっと太くて頑丈な(・・・・・・)ヒールに取り換える(・・・・・・・・・)のだ。そうすれば足への負担も緩和するし、長時間履いても折れにくくなる」

「そんなことしたら、パンプスの洗練されたデザインが変わってしまうわ」

「嫌なら断って構わない。ただし、同じフレンチ型で復元した場合、遠からず再び折れるのは明々白々だ。予防策を講じなければ修理した意味がない」

 同じことをしたら同じ結果になる。当たり前の話だ。

 それを避けるには、次善策を考える必要がある。商品デザインを変更することになったとしても、客一人一人に即した履き心地を提供するのが彼の仕事だ。

「じゃあ、どんなヒールに付け替えるの?」

 歩美がようやく食い付いた。店主は我が意を得たり、とばかりに話を広げる。

「面積のでかいヒールを使う。足の裏全体を支える幅広の『フラット』や『スプリング』などだ。しかしこれらは、パンプス本来のシャープな美観を損ないかねない」

「出来ればかかとで体重を支えたいわ」

「足の裏全体を支えつつ接地面はかかとの比重が大きい、となると『ピナフォア』や『ルイ』『フレア』が候補になるが――おお、ならば『ウェッジ』はどうだ?」

 店主は奥の工房へ半身を引っ込めると、中からヒールの見本を引っ張り出した。

 ウェッジと呼ばれるヒールは足の裏全体に接着しつつ、爪先からかかとにかけて高く傾斜している。それでいて靴底は一直線に面状で繋がっているため、負荷も分散される。

「ウェッジヒールは最近の人気傾向でもあり、定番だ。ビジネス用のシャープなデザインも売られている。これならば折れにくいし、長時間歩いても足を痛めない」

「判ったわ……じゃあそれでお願い」妥協する歩美。「修理期間はどのくらい?」

「ヒールを付け替えるだけなら、数日あれば事足りる。ゴールデンウィーク明けの月曜には完了するだろう。用紙を持って来るから、客人の氏名と連絡先を記入してくれ」

「ヒールの高さは、フレンチと同じ一〇センチで頼むわよ」

「任せておけ。交渉成立だな。かんらかんら、かんらからからよ」

 古色蒼然とした笑い声を上げる店主に、歩美は不審そうに足をすくませていた。

「契約が成立して良かったです!」

 鞘香はと言えば未だに店主の手を離さず、一緒にくっ付いて歩く。店主が申し込み用紙と修理品の預かり証を用意する間も、そばに付きっ切りだった。

 完全に懐いている。その様子が滑稽でもあり、大人の目には奇異に映った。

嗚呼(ああ)……妹本人が選んだ男ならば、僕も認めざるを得ないようだな……」

 赳士が天井を仰ぐ。

 妹のことばかりで婚約者を顧みない彼に、歩美はますます癇癪を立てた様子だった。

 商談こそまとまったが、不穏な雲行きを呈していたのは否めなかった。



   *


 ゴールデンウィークは瞬く間に終わりを告げた。

 連休を過ぎた商店街は静けさを取り戻す。書き入れ時を脱した軒並みは臨時休業する店舗が多く、開店した場合でも時間を遅らせたり、逆に閉店時間を早めたりと言った措置を取っていた。

 そんな中、『鞣革製靴店』だけは通常営業を貫いた。

 いつも通りの平常運転を店主は好む。客が来ようと来なかろうと朝一〇時にシャッターを上げ、夕方六時には閉店する。

 ()が沈む頃、激しい夕立(ゆうだち)が降った。

 立ち込めた暗雲からはしとど水滴が落ち、アーケード街の屋根を叩く。おかげで往来は濡れずに済むが、ここへ来るまでには傘をささなければならない。

「わー、凄い濡れちゃった!」

 傘の雫を振り落としながら、鞘香が商店街を走って来た。

 昨今は温暖化の影響で、五月からゲリラ豪雨が降りしきる。鞘香は下校中とおぼしきセーラー服をびしょ濡れにして、店主のもとへ転がり込んだ。

 しかも彼女一人ではない。横には赳士と歩美の姿があった。

 赳士はジョギングのようなジャージ姿、歩美は会社帰りとおぼしきパンツスーツだ。

「店主さん、今日がパンプスの修理完了日よね? 引き取りに来たわ」

「毎度どうも」

 そのために三人揃って訪問したのか。

 赳士を挟んで左右に鞘香と歩美が分かれている。女性二人が肩を並べない辺り、先日の軋轢が尾を引いているのだろうか。主に歩美が、自分より妹を優先した赳士に対し、ぎこちなく立ち居振る舞っている。

 こちらへ手を振る鞘香を相手にせず、店主は工房からパンプスを取って来た。

 綺麗に修繕されている。従来のフレンチ型ヒールではなく、安定感のあるウェッジハイヒールに変貌を遂げていた。

 受け取った歩美は修理代を支払うと、さっそく足を通した。ここまで履いて来たビジネスシューズはトートバッグに片付ける。

「履き心地はどうかね?」

「……まぁまぁ、と言った所かしら」

 強がったような返事が、いかにも歩美らしい。いささかのわだかまりが彼女にあるようだが、店主が依頼通りの仕事を果たした点には満足していた。

「今日はこのまま履いて帰るわ。新しいパンプスの感覚に慣れておきたいし」

「毎度あり」

 事務的に接客を終えた店主は、さっさと工房へ引っ込もうとする。

 愛想が微塵もない応対に、鞘香たちは苦笑するしかなかった。

「じゃあ僕は夜勤へ向かうとするよ」

 赳士が一足先に店を出て行く。

 工場勤務はこれからのようだ。ジャージで来たのも、身軽な服装で通勤できるからだろう。職場で作業服に着替えれば良いのだ。

「行ってらっしゃいお兄ちゃん!」

 鞘香が店主に引っ付いたまま手を振った。

 その鞘香も、店主が工房へ引きこもった途端、名残り惜しそうに帰途へ着くのだが。

「私はおうちに帰って、お留守番します!」

「わたしも帰宅して夕飯のしたくをしなくちゃ……」

 女性陣も店を出た地点で解散となった。

 三者三様、それぞれの時間を過ごす。

 雨は夜中まで降り続いた。まるで波乱を示唆するように。

 店主はまだ知らない。このあと三人の身に何が起こったのかを耳に入れたのは、翌朝になってからだった。



   *



「店主さん! 大変ですっ!」

 翌日。

 雨はすっかり上がっていた。燦々(さんさん)と射し込む朝陽と抜けるような青空が眩しい。

 店主はどんな天候でも変わらずシャッターを上げ、靴の仕入れに勤しむのだが、今日は店を開けた直後、軒先にうら若き女子高生が歯ぎしりしながら立っていたので、さすがの店主も何事かと顔が引きつった。

 鞘香は店主の剣幕など目もくれず、一も二もなく彼の胸板へ抱き着いた。

 その瞳は潤んでいる。小さな肢体は震えている。汗の乾いた匂いが鼻腔をくすぐった。

「どうした?」柄にもなく戸惑う店主。「まだ平日の午前だぞ。学校に行かないのか?」

「店主さん、助けて!」

 店主の腕の中で、鞘香は訴えた。

 ただ事ではない。乙女の切実な要求に、店主は黙り込んだ。店主のエプロンを涙で濡らした鞘香が、すがるように顔を上げる。

「お兄ちゃんが昨晩(ゆうべ)、工場で怪我をしたんです……!」

「怪我、だと?」

 災難(トラブル)が起こった。雨はやんだと思いきや、降りしきる夜中のうちに発生していたのだ。

「普段は朝になれば帰宅するはずのお兄ちゃんが、ちっとも帰って来なくて……代わりに工場から電話があって、どうやら足を怪我したらしいって!」

「足を?」

「けど、私一人じゃどうしたらいいか判らなくて……歩美さんにも電話したら、今日は外せない営業があるとかですぐには顔を出せないそうです……私も混乱して学校どころじゃなくなっちゃって……ああもう! わけ判んない!」

 わけが判らないのは店主の方だ。寝耳に水の難題が降りかかった瞬間だった。



   *





   3.



「昨晩、お兄ちゃんが工場で事故に遭ったんです!」

 雨上がりの商店街に予期せぬ霹靂が襲来した。

 風雲が急を告げる。昨日で仕事を果たしたと安心しきっていた店主にしてみれば、鳩が豆鉄砲を喰らうどころか散弾銃で滅多打ちにされたような気分である。

 店主はただでさえ白い三白眼をさらに白目へと変えながら、抱き着いて離れない鞘香の頭をポンと叩いた。

「まず離れろ。そして深呼吸しろ」

「えうっ、わ、判りました……ぐすん」

 泣き腫らして真っ赤な双眸をこすりこすり、鞘香は素直に命令を聞いた。

 パーソナルスペースが近いと従順である。何がそこまで店主に親愛の情を寄せられるのかは不明だが、言われた通りに鞘香は店主から一歩距離を置き、呼吸を整えた。

 ご丁寧に両腕を振りながら、小さな胸いっぱいに空気を吸い込んで上下させる。

「落ち着いたか?」

「う、ううっ……はい、何とか、少しだけですけど!」

 返事するたびに再びがぶり寄るので、あまり落ち着いてなさそうだ。

 とはいえいくらかは頭の中が冴え渡ったようで、鞘香は順を追って説明を始めた。

「私に連絡があったのは、今朝でした! 目覚まし時計で起床した私は、登校の準備をしてたんです。顔を洗って、ご飯を食べて、お兄ちゃんの朝食も用意して……準備万端整えた直後に、お兄ちゃんの工場から電話が来たんです」

「どんな用件だ?」

「夜勤中にお兄ちゃんが転倒して、捻挫(ねんざ)したとか……! 骨は折れてないそうです!」

 捻挫か。

 思ったより軽い症状だったので、店主は不幸中の幸いに安堵の息を漏らした。

 命に別状はないが、鞘香にとってはたった一人の家族が負傷したのだから、気が気ではあるまい。ましてやあれほど仲睦まじい兄妹なのだ。

 足を怪我したら、しばらくはまともに歩けない。そうなると工場で働くのは難しい。最悪の場合、完治するまで欠勤せざるを得なくなる。

 工場の多くは日給月給制だから、欠勤している間は給料が出ない。兄妹二人きりの赤貧生活を送っている現状、大きな痛手となるのは間違いなかった。

「転倒した原因は何だね?」

「工場から手短に聞いた感じですと、もともと昨夜は出勤直後から、お兄ちゃんは足元がおぼつかないというか、歩きにくそうにしてたらしいんです」

「ふむ。夜勤だから眠かったのか……?」

「やがて夜が明ける頃、お兄ちゃんの緊張の糸が切れたのか、資材を運ぶ最中に足を取られて盛大に引っくり返ったそうです――ああもう! お兄ちゃんってばドジ!」

 身振り手振りで兄の行動を再現する鞘香が健気だった。

 実際に見たわけでもないのに、兄が転ぶ瞬間も実演しようとして、制服のスカートがめくれ上がったのは見なかったことにしてあげた。

「それで私、今日は学校を休んで、お兄ちゃんの看病をするつもりです! 今は診察結果待ちだから、その間に店主さんにも(しら)せようと思って来店しました!」

「……なぜ我輩に報せる必要があるのやら」

 店主は肩をそびやかすしかない。

 鞘香の兄とは先日会ったばかりで、何の義理もない。されど鞘香は、一度会えばもう友人とでも考えているのか、他人にもパーソナルスペースの近さを当てはめている。

「だって私、お兄ちゃん以外に信頼できる男性は店主さんしか居ませんから!」

「何だ、男手が欲しいのか?」

「えっと、まぁ、捻挫したお兄ちゃんを支えて帰らなきゃいけないじゃないですか。ちょっと私一人だと苦労するかなって――」

「やれやれ。仕方ないな」

 店主は面倒臭そうに頭を掻いたが、しぶしぶ折れた。

 エプロンを外し、軒先のシャッターをおもむろに下ろす。店内に閉じ込められた鞘香がぽかんと(ほう)けるのを尻目に、店主は鞘香を裏口へ手招きした。

「今日は臨時休業にする。他の店舗も連休明けで閉店ばかりだから便乗しよう。医者のもとへ案内してもらおうか」

「やった! 店主さん大好き!」

 歩き出す店主へ全速力で飛び付いた鞘香は、なるほど陸上部らしい俊足だった。

 勢い余って店主を壁際まで追い詰める突進力だったが、店主は喉元までこみ上げた文句をどうにか呑み込んで、抱き着く鞘香を引きずりながら外出した。



   *



 赳士が受診している整形外科医院は、さして遠くない。

 職場こそ街外れの工場だが、診療先は家の近くを選んでもらえたらしい。

 工場から運ばれた彼は作業服のまま、右足の(すね)から爪先までギプスで固められていた。

 靴は当然履けないが、工場の下駄箱から通勤用のスニーカーを持ち帰っている。

「スニーカーは左足だけ履くよ。ありがとう鞘香――おや?」

 妹に支えられて医院を後にした赳士は、出口付近に仏頂面の靴職人が待ち構えていることに気付いた。

 外には駐車場があり、その一つに安いセダンが停まっていた。店主はその後部座席のドアを開け、跡部兄妹に「乗れ」と無言で(あご)をしゃくっている。

「これはこれは店主さん。鞘香が連れて来たのか?」

「そうよお兄ちゃん! その足で家まで帰るの大変でしょ? だから……」

「うわ、それは恐縮だね。店主さんには頭が上がらないや。やっぱり本当は鞘香と付き合ってるんじゃないだろうな――?」

「下らん勘繰りをぬかす暇があるなら、さっさと乗れ」

 店主がどやしつけた。

 雷が落ちたかのような胴間声(どうまごえ)に、たちまち赳士は背筋を凍らせる。すごすごと乗り込んでからも、怖気付いたまま一言も口を利かなかった。ときおり店主が運転席から「君たちの家はどっちだ」と尋ねたときのみ、道を教えたきりである。

 かくして到着した跡部家は、木造モルタル二階建て、庭のない一軒家だった。

 車庫はあるが車はなかったので、店主はそこに停車させる。

「昔はクルマもあったけど、親の遺産処分で手放したんだよな……家だけは残したけど」

 赳士が感慨深そうに呟く。

 店主は耳も貸さず、率先して赳士に肩を貸した。赳士のギプスをかばいつつ、玄関まで突き進む。鞘香が支えるより何倍も手際が良く、赳士も安心して体重を任せられた。

「さすが店主さん! 頼りになりますね!」

 鞘香はこんなときでも黄色い歓声を忘れない。スカートの裾を翻し、踊るような足運びで玄関のドアに回り込むと、鍵を開けて中へ招き入れた。

 (かまち)を上がり、両親の仏壇が据えられた和室の横を通り抜けて、リビングに到達する。

 赳士をそっとソファに座らせる店主めがけて、鞘香はもう一度ラブコールを送りつつ、台所の冷蔵庫から麦茶をもてなした。

「お疲れ様です!」

 盆に乗せてテーブルに並べられたコップ三杯を、それぞれが手に取る。なぜか鞘香は店主の隣に腰を下ろした。赳士は店主の真向かいだ。

 店主は麦茶を一口で飲み干した。お代わりを持って来ようとする鞘香を手で制し、とっとと本題に取りかかる。

「赳士殿、だったな。一体何があった? それと婚約者はまだ来られないのかね?」

「いやぁ、連休明けで仕事の(かん)が戻らず、作業中に足がもつれちゃいました……もちろん歩美には電話しましたよ。あいにく彼女は外回りが忙しくて、融通が利かないようです」

 赳士は店主に運ばれた恩からか、言葉遣いが丁寧になっている。

 その言葉に嘘偽りはなさそうだ。店主と鉢合わせて以降、このような質問をされるに違いないとあらかじめ予測していたのかも知れない。

 店主は鵜呑みにせず、じろりと赳士を睨み付けた。

「作業服のまま帰宅させられた割に、靴は私用のスニーカーだったな。職場でもスニーカーを履いているのか?」

「まさか。仕事用の安全靴が支給されてますって。でも靴は簡単に脱げるけど、作業服は着替えるのに時間がかかるから、作業服のまま医者に運ばれたんです」

「安全靴は今どこにある?」

「工場の下駄箱に戻してありますよ。それが何か?」

「いや……ちょっとな」瞑目(めいもく)する店主。「工業用の安全靴と言えば、足の甲に鉄板を仕込んで防護された武骨な履き物だ。普通の靴より何倍も重いし、慣れないと歩きづらい」

「あ~、連休明けで久々に安全靴を履いたから、感覚が慣れなかったのかなぁ」照れ臭そうに頬を掻く赳士。「履いたとき、ちょっと違和感があったんですよ。連休前より靴のサイズが違ってたような……」

「靴のサイズが? それは確かか?」

「うーん、感覚的なものだから曖昧です……ゆうべの僕って、靴屋に寄ってから出勤したせいで遅刻ギリギリだったんですよ! だから履き心地を確かめる暇がなくて」

「安全靴に違和感……か」

 店主はうっすらとまぶたを開いた。

 鋭い眼光で赳士を見据える。その形相が傍目(はため)にも恐ろしくて、赳士のみならず鞘香まで双肩を震わせた。

「店主さん! お兄ちゃんのお話で、何か気になったんですか!?」

「ゆうべは雨だったが、傘はどうした?」

「あ、話をそらした」

 鞘香が()ねるのを尻目に、店主は正面の赳士だけを凝視した。

「傘は下駄箱の傘立てに置きっ放しです」舌を出す赳士。「朝方にはやんでたから、存在を忘れてましたよ。取りに行けるのは捻挫が治ったあとだなぁ……」

 下駄箱にある傘立て。

 きっと工場の入口は、昨夜の雨粒や泥で汚れているに違いない。

「工場の出入り口は中庭になってて、土が剥き出しなんですよ。そのせいで靴底に湿った土が付着して、下駄箱の床は泥まみれの靴跡がたくさん残ってましたよ」

「ほほう。もっと詳しく聞かせてくれないか?」

「へ? 靴跡の話をですか?」首を傾げる赳士。「変な所に着目する店主だな……あ、靴跡の中にはヘンテコな『一』の文字が書かれてました」

「一、だと?」

 店主は眉間にしわを刻んだ。

 赳士もよく判らず顔をしかめる一方だ。

「何だったんでしょうね? 泥で漢字の『一』を書いた人が居たのかな? いや、工場でそんなことする奇矯な奴なんて聞いたことないし……」

「一の文字は、一箇所だけだったのか?」

「いや、いくつも連なってましたよ。入口から下駄箱のふもとまで」

「そうか……君はそれを見たあと、どうした?」

「そのあとは……普通に下駄箱でスニーカーを脱いで、安全靴に履き替えて、タイムカードをギリギリで押して……ああ、そこで同僚と鉢合わせました」

「同僚とは?」

腰越(こしごえ)っていう仕事仲間で、僕と同い年なんですよ。もともと奴が歩美の工場視察を案内してたんですけど、途中から僕が任されるようになって……だから一時期『三角関係』でしたね。恋のライバルだったんです」

 赳士は懐かしそうに思い出を語った。

 よくよく話の脱線する男である。今回の事故もあまり深刻には捉えていないようだ。

 鞘香が一番腰を抜かしていた。

「ええっ? 歩美さんとお兄ちゃんって、最初から相思相愛じゃなかったの?」

「歩美にどっちの男が良いか選ばせたんだ。あのときは心臓が止まるかと思ったね。まぁ腰越は今でも歩美に熱視線を向けるときがあるけど、恋の争奪戦は僕が勝ったよ」

「ほう。そいつは怪しいな」

 店主が不穏当な疑義を唱えた。

 え、と鞘香が振り向くと、店主は一心不乱に赳士へ目の焦点を当てている。

「怪しい、って何がですか?」

「その同僚とやら、本当に恋心を諦めたとは思えんな。少なくとも君の話しぶりからは、水面下で横恋慕している可能性を匂わせているだろう?」

「そんな!」店主の腕を引っ張る鞘香。「お兄ちゃんの婚約者に横恋慕するなんて――」

「ははっ、さすが店主さんだ、僕の意図を簡単に読んじゃいますね」

「――お兄ちゃん!?」

 赳士が認めた。

 店主の述べた通り、赳士の話しぶりは同僚を疑わざるを得ないような語り口だった。あたかも誘導するかのごとく。

 違和感のある安全靴。その直後に出くわした同僚、かつての恋敵――。

僕の安全靴に細工をした犯人(・・・・・・・・・・・・・)は、腰越だと思います。転んで怪我しやすいように、ね」

「ええっ!」

 たまげたのは鞘香のみだ。

 店主は赳士に深く首肯する。想定内の結論だったらしい。

「安全靴はきつかったかね? ゆるかったかね?」

「きつく感じました。僕の足って二九センチあるんですよ。工場にもほとんど居ない大きなサイズだから、足に合わないとすぐ判ります」

「――安全靴をすり替えられた(・・・・・・・)証左だな。二九センチの代替品など滅多にないため、小さいサイズと交換されたのだろう」

 店主はあっさり断言した。

 鞘香が恐れをなして、ますます店主の腕にしがみ付く。座る位置もどんどん密着して暑苦しい。それでも店主は鞘香に目もくれず、淡々と赳士に質問を浴びせた。

「では次に、安全靴の重さはどうだったかね? 軽かったか?」

「軽くはないですが、足の甲に敷かれた鉄板がグラグラして邪魔でした。ちゃんと内部で固定されてなかったです。歩きにくくするために腰越が壊したのかなぁ?」

「仕事中に安全靴が壊れた場合、どうするのかね?」

「工場の裏に廃棄場があるんで、そこに捨ててます。新しい安全靴は申請すれば取り寄せてもらえますけど、さっき言ったように二九センチは珍しくて支給が遅れがちですね」

「なるほど。つまり『犯人』は廃棄場から適当なボロ靴を拾って、君の靴と入れ換えた。小さいサイズの壊れた靴しか廃棄場になかったのだろうな」

「鉄板が壊れてた理由は、廃棄品だったせいか……僕が転びやすいように!」

 道理で歩きにくかったわけだ、と赳士は自嘲した。店主はさらにこう続ける。

「君は遅刻寸前で慌てていたから、履き心地を気にする暇がなかった。靴のきつさに耐えながら持ち場を動き回ったのだろう?」

「はい。加えて連休明けで意識が散漫だったことも、敵の罠にかかりやすい条件でした」

 そのもくろみは的中し、赳士はまんまと怪我を負わされた。

 久々の夜勤、慣れない安全靴に足元がおぼつかず――。

「恐らく『犯人』は、君がドジを踏むだけで満足だったに違いない……だが実際は怪我して欠勤、職場に穴を開けてしまった。予期せぬ大事となり、犯人も驚いているはずだ」

「腰越が『犯人』なんですよね? 僕にこんなイタズラをする奴なんて、かつての恋敵であり、今も歩美に未練がある腰越しか考えられない――」

「かんらかんら、かんらからからよ」

 不意に店主が立ち上がった。

 高らかに哄笑を湛えながら。そのシニカルな笑い声と、腕にしがみ付く鞘香ごと起立した堂々たる体躯は、あたかも鬼がそそり立つようだ。見る者全てを恐怖に陥れる威容。

「何がおかしいんですか店主さんっ?」

 問いかける鞘香に、ようやく店主は一瞥をよこす。

「これが笑わずに居られるか。君たちは実に早計だ。先入観が過ぎる」

「へ?」

「我輩はまだ一度も『犯人』の名を断言していない。腰越氏はまだ怪しいだけで、確たる証拠がない。まずは現場の写真を撮影して、細かく検証したい所だ」

「写真を? 誰が?」

「決まっている――腰越氏にメールで送ってもらうのだ」

「腰越に!?」

「表向きは友人なのだろう? 水面下では恋敵だとしても、頼まれれば断るまいて」

 店主はしれっと提案した。

 嫌疑の渦中にある人物へ、わざわざ犯人探しの協力を申し込むというのだ。何ともはや、豪胆と褒めるべきか、底意地悪いと(そし)るべきか。

「挑発的だなぁ店主さんは。で、どこの写真を撮らせる気ですか?」

「二つある」指を二本立てる店主。「一つは下駄箱周辺の靴跡。早く撮影しないと清掃されてしまうかも知れないから急げ。もう一つは赳士殿、君の安全靴だ」

「僕の……?」

「現物を見るのが一番だが、外には持ち出せないだろう? 靴のサイズや外観を撮影してもらえば、すり替えられた靴かどうか判るはずだ――あとは歩美さんを待つだけだ」

 店主は思い出したように付け加えた。その双眸は赳士を見据えたままだ。

「歩美が必要なんですか?」

「彼女に尋ねたいことがあるのでな。事件の(・・・)真相に関わる(・・・・・・)重大な質問だ」

「ちょっと店主さん! それって――」

 鞘香が嫌な予感に面相をしかめた。可愛い小顔が台なしだ。

「――まさか歩美さんが『犯人』だとか言わないですよねっ?」

「なぜそう思うのだ?」

「だ、だって腰越さんか歩美さんしか工場関係者は居ません! つまり犯人は二択――」

「落ち着きたまえよ。写真と役者さえ揃えば、真実はおのずと判明するだろう――こじれた靴紐をほどけば履き心地が良くなるように、こじれた謎も紐解こう(・・・・)ではないか」

 それが鞣革靼造の流儀である。いつぞやも聞いた『紐解き』の決め台詞に、鞘香は不安と期待をない交ぜにされた気分だった。



   *





   4.



 脛永歩美が跡部邸に着いたのは、午後をだいぶ回ってからのことだった。

 これでも早く来てくれた方だと感謝するしかない。営業ノルマを早めに済ませ、余った時間でこっそり立ち寄ったのである。

 赳士は夜勤明けだったこともあり、歩美が来るまでリビングのソファで仮眠を取っていたが、恋人の到着を知るや否や飛び起きて、大手を振って歓迎した。

 彼は彼女を微塵も疑っていない。疑惑の目を向けたのは鞘香だけだ。

 歩美は屋内に充満する緊張感が居心地悪そうだったものの、来た以上はすぐに退散するわけにもいかず、お見舞いに持参した菓子折りをテーブルに広げた。

 駅前のデパートで買ったクッキー詰め合わせを(さかな)に、ちょっと遅めのおやつとなる。鞘香がお茶のお代わりを運んだ頃、ようやく空気が和らいだ。

 頃合いを見計らい、靴屋の主人が重い唇を開く。

「我輩は地元商店街の人間だ。競合相手である駅前デパートの菓子をあてがうのは、何かのあてつけかな?」

「あら、そんな解釈をなされるのは心外ね」

 赳士の隣に座した歩美は、店主の勘繰るような強面にも慣れたのか、(おく)さず見返した。

 店主は挑発して、何かを探っている。やはり歩美が『犯人』の最有力候補なのか……と鞘香は店主の小脇でおろおろと見守った。

「時に赳士殿、腰越氏から写真は送られて来たのかね?」

「あ、ああ……それなら僕が寝てる間に」

 赳士はポケットからスマートホンをまさぐり出した。

 画面をタップすると、メール受信画面に一件の新着が表示されていた。画像添付ありのメールだ。開いてみると、そこには二枚の写真が同封されていた。本文には短いお見舞いの言葉も添えられている。

『よう、ゆうべは散々だったな。足が完治するまで赳士が抜けちまうのは大変だが、何とか現場は持たせるよ。ゆっくり療養してくれ!』

 いかにも友人らしい、気の置けない文体である。とても三角関係には見えない文章を見るに付け、彼が犯人とは思えなかった。

 添付画像を見やすいよう、赳士はテーブルの中央に置いた。

 指でスライドすれば、下駄箱の周辺および安全靴の写真を交互に閲覧できる。

「犯人当てに直結する写真をためらいなく提供するとはな」一同を見回す店主。「つまり腰越氏は()()だ。下駄箱で赳士殿と鉢合わせたのも他意はない、単なる偶然だろう」

「なぜ断言できるんです? あいつは外面を取り繕うのが上手なんですよ!」

 頑として赳士は同僚を疑い続けた。

 本当に友人なのだろうか? むしろそっちに疑問が湧きそうだった。

「歩美も言ってくれよ、腰越に言い寄られて困ってたんだろ?」

「ええ……わたしはタケくんを選んだし、きっぱり腰越くんには断りの返事を出したんだけど、今もときどき二人きりで飲みに行かないかって誘われたり、デートまがいの外出を迫られてるわ」

 腰越の横恋慕は本当に継続中なのだった。

 三角関係のしこりは現存している。店主はこれをどう捉えるか――。

「写真を見てみよう」指差す店主。「まずは安全靴からだ。うむ、真上から俯瞰するように撮られているので判りやすいな。古びてボロボロだ。足の甲……甲被(こうひ)に仕込まれた鉄板も割れていて、外観がいびつに膨らんでしまっている」

 通常だとまっすぐ鉄板が挿入されているため、甲被も平らになるのだが、この安全靴は割れた位置が不自然に盛り上がっていた。

「靴の中にはサイズも表記されている。二七センチと書かれているな……赳士殿、君の足はいくつだったかね?」

「二九センチです。やっぱりすり替えられてたんだ!」

「それを踏まえた上で、下駄箱の写真を見るとしようか」

 店主は赳士のスマホを勝手にタップした。

 下駄箱周辺の足場が露呈される。雨粒と泥にまみれた床。無数の靴跡がびっしりと残されていた。清掃される前に撮影できたのは僥倖だ。

数多(あまた)の靴跡が入り乱れる中、赳士殿が言うには『一』と書かれた痕跡もたくさん残っていたそうだが」

「そうですよ、ほらここ! こっちにもありますよ!」

 赳士は身を乗り出し、スマホ画像を指で拡大表示した。

 床に残された真一文字の群れがくっきり見える。工場の入口から下駄箱まで、一の字がいくつも羅列されていた。他の靴跡に潰されて認識できない『一』もあるに違いない。

「ねぇお兄ちゃん、床に記された『一』の文字って、本当に『犯人』の遺留物なの?」

 鞘香が率先して問いかけた。赳士は妹を半眼で見やる。

「それが判らないから議論してるんだよ。僕が思うに、腰越が残したミスリードだろう」

「ミスリード……?」

「そうさ。こんな印を残す人間は今まで工場内に存在しなかった……すなわち外部犯の仕業だと思い込ませて、内部犯(こしごえ)から目をそらす魂胆なのさ!」

「そうかな?」顎に指をあてがう鞘香。「よくあるミステリーだと、この手の文字はダイイング・メッセージだったりアナグラムだったりしない?」

 事件のヒントになる暗号を、犯人に隠滅されないようこっそり書き残す――それがダイイング・メッセージやアナグラムと呼ばれるものだ。

 しかし本件では誰も死んでいないし、被害者である赳士自身、こんな文字を書き残した様子はない。

「――そもそも、それが本当に数字の『一』だと思うかね? ただの棒線かも知れんぞ」

 店主が根本から覆す異議を唱えた。

 目からうろこが落ちたように、鞘香がまぶたをしばたたかせた。

「それは新説ですねっ店主さん! だとすると、単なる横線? 縦線かも知れないですよね! 何本も連ねると記号になるとか? モールス信号? 地図記号? うーん……」

 鞘香の推測に答えられる者は居ない。

 不毛な時間ばかりが過ぎ去った。建設的な意見が出ない中、いよいよ店主が膝を叩く。

「これだけ(あお)ってもまだ解けないかね? 数字だの記号だのという先入観(・・・)から離れたまえよ。もっとも、歩美さんは答えを判っていても答えにくいのかも知れんがな」

「え……」

 突然、聞こえよがしに批判された歩美はドキリと上半身を動揺させた。血相を変え、店主の鬼面を瞠目する。まばたき一つしない焦りようだ。

「なんでわたしの名を」

「知れたこと――その真一文字は『靴跡』だからだ」

「!」

「靴跡だってぇ?」素っ頓狂に声を荒げる赳士。「靴跡ってのは普通、ひょうたん型の靴底模様だろう? 真一文字の靴跡なんてあるのか……?」

「赳士殿、世迷言も大概にしたまえよ? これは通常の靴跡ではなく、ウェッジヒールの靴跡(・・・・・・・・・・)だろうに」

「ウェッジヒール!」

 その場の全員が息を呑んだ。

 ウェッジヒールは、かかとから爪先まで一直線(・・・)の底上げ加工が施される形態だ。

 一直線――真一文字の足跡(・・・・・・・)

 入口から下駄箱まで『一』の字が連なっていたのは、ウェッジヒールのパンプスで往復したからに他ならない。

「工場にハイヒールで立ち入る女性は限られる。そう、歩美さんくらいだな」

 言い当てられた歩美は絶句したきり、目を泳がせるのが精一杯だった。

 赳士も気まずそうに沈黙し、必然的に鞘香だけが歩美を問い詰める格好となる。

「どういうことですかっ歩美さん! ウェッジヒールの足跡は、迷わずお兄ちゃんの下駄箱まで歩み寄ってますよね? 安全靴をすり替えたのは歩美さんなんですか?」

「ち、違うわ。わたしじゃない……」

 かろうじて歩美が反論した。

 蚊の鳴くような声ではあったが、ゆっくりと慎重に言葉を選んでいる。

 鞘香はますます怪しんだ。敬愛する兄を怪我させた『犯人』が婚約者だとしたら、とんでもない背徳行為である。

「動機は何ですか? 実は腰越さんとよりを戻そうとしてお兄ちゃんが邪魔になった?」

「だから違うってば!」

「じゃあ何ですか? もしかして靴屋で揉めたから? お兄ちゃんと歩美さんは最初、私の仲介した修理を不安視してたけど、お兄ちゃんが折れて私の味方に付きました。それが歩美さんには不愉快だったとか?」

 あのとき、歩美は最後まで店主の腕前を信用していなかった。

 赳士も妹にほだされて妥協したため、歩美はやむを得ず修理に出したのだ。

「そんなこともあったわね。でも結果的に満足の行く修復はされたから問題なしよ」

「たとえ結果オーライでも、歩美さんの意志が軽視されたのは事実です。靴屋で私の味方に付いたお兄ちゃんが、あたかも歩美さんを(・・・・・)裏切ったように見えた(・・・・・・・・・・)んじゃないですか?」

「それでわたしが怒り狂って、腹いせにタケくんの安全靴をすり替えた……と?」

「違いますか?」

 鞘香の推理が続いた。

 勢いに任せて押し切ろうとしている。歩美は鞘香が本気で喋っていると気付き、困惑する一方だった。

「待って鞘香ちゃん。わたしは昨日、まっすぐ帰宅したのよ?」

「帰った振りして工場へ先回りしたのかも知れません。廃棄場から壊れた安全靴をくすねて、お兄ちゃんの下駄箱に忍ばせた……でもお兄ちゃんの足は二九センチで、同じサイズの安全靴がろくになかったのが誤算でしたね! せいぜい二七センチを発掘するのが手一杯だったんじゃないですか?」

「わたしじゃないわ! わたしはやってない……!」

 押し問答が繰り広げられる。

 鞘香はもう一押し足りなかった。靴跡だけでは決定的な証拠にならない。

 歩美も否定するばかりで(らち)が明かない。何か後ろめたい事情はあるようだが、知らぬ存ぜぬの一点張りだった。

 見かねた店主が、鞘香では紐解けないと踏んで口火を切った。

「やれやれ。兄妹間の問題だから任せてみたが、これでは堂々巡りだな。どれ、我輩が手を貸してやろう」

 そう告げるなり、店主は鞘香の頭をポンと叩いた。

 鞘香はスイッチを押された機械のように口を閉ざし、店主を見上げる。

 歩美も赳士も、彼を注目した。

 店主は皮肉げに冷笑すると、強面から声を張り上げた。

「かんらかんら、かんらからからよ。ここまで話がこじれたのに、未だに真実を隠し通すつもりとはどういう了見かね――……赳士(・・)殿?」

「!」

 赳士を敵視する店主の眼光は、いつにも増して鋭かった。

 歩美が青ざめた赳士を振り向く。鞘香も白い顔色で兄を見つめた。

「えっ? お兄ちゃん? お兄ちゃんが何か知ってるの?」

「ぼ、僕は……」

 言葉に詰まる赳士を、店主は決して見逃さない。大胆不敵に彼を指差し、堂々と断罪してのけた。



「――これは赳士殿の自作自演(・・・・)だろう?」



 自作自演!

 店主以外の全員が、生気をなくした表情で凍り付く。

 赳士は複数の注目に耐えられなくなり、ギプスに巻かれた右足を呆然と見下ろした。

「どうして……判ったんですか」

「お兄ちゃん!?」

 白状する兄に、妹が悲痛な声を上げた。

 被害者自身が『犯人』――?

 自作自演とは、要するに狂言だ。自分で損害を演出し、誰かに罪をなすり付ける。

 そう、赳士はしきりに「腰越が怪しい」と吹聴していたではないか。

「犯人が腰越氏でも歩美さんでもない場合、消去法で残されたのはただ一人――赳士殿をおいて他に居ない。実に論理的な帰結だ。赳士殿は、表向きこそ腰越氏と仲直りしたものの、密かに横恋慕を続ける彼に嫌気がさしたのではないかね?」

「……その通りだよ」

「そこで赳士殿は被害者を(よそお)い、腰越氏に犯人のレッテルを貼って悪評をばら撒こうとした。それは足を捻挫する程度のイタズラでちょうど良かった。それ以上大きくなると警察沙汰になりかねんし、(あら)が出て自作自演だと露見するからな」

 だから安全靴を交換されて転んだ、という些細な怪我で済んだのだ。

「じゃあ店主さん! 出勤時間が遅刻ギリギリで安全靴を確かめもせず履いた、というお兄ちゃんの発言は方便だったんですか!」

「ご名答だ、鞘香さん」首肯する店主。「さらに言えば、赳士殿が下駄箱を上がってすぐ腰越氏と鉢合わせた、という話も印象操作だな。腰越氏は単に、遅刻寸前だった友人を案じて下駄箱付近まで探しに来ただけだろう」

 腰越と出くわしたのは偶然だった。

 しかし赳士は、あたかも腰越が下駄箱付近で怪しい動きをしていたかのような喋り方をしてみせた。まるで彼に冤罪を着せる(・・・・・・・・)かのごとく――。

「僕は腰越に腹が立ってたんだ……歩美に言い寄る腰越を殴ろうかとも思ったけど、それだと僕が暴行犯になってしまう……だから被害者を装うことにしたのさ」

「本当にお兄ちゃんがやったの!? じゃあウェッジヒールの足跡は何だったのよ?」

 鞘香が混乱して頭を抱え込んだ。

 もだえ苦しむ女子高生を店主は見下ろしながら、素っ気なく回答する。

「それは赳士殿の動機に由来する。赳士殿は歩美さんに相談されていたのだろう? 腰越氏に今なお迫られていることを」

 ちらりと歩美を一瞥すると、彼女はとうとう観念した。

「ええ……タケくんに腰越くんのしつこさを打ち明けたわ。そうしたらタケくんが奮起して、腰越くんにお灸をすえるための『自作自演』を発案したのよ」

「発端は歩美さんだったというわけだ」

「けど連休中、靴屋の修理でタケくんに裏切られて(・・・・・)以降、しばらく気まずくて倦怠期だったのよ。だからタケくんが本当に自作自演を実行してくれるのか心配で――」

「計画を見届けるために、工場へ舞い戻ったのだな?」

 店主が図星を差した。

 歩美は黙って相槌を打つ。

 やはり歩美は帰宅せず、工場へ立ち寄ったのだ。ただしその目的は、下駄箱に先回りして赳士の自作自演を見届けるため。決して彼女が仕込んだ罠ではない。

「わたしは下駄箱の物陰に忍び込んで、タケくんを監視したわ。タケくんは約束通り、自分の安全靴を廃棄場に捨てて、代わりに二八センチの破損品を拾って履いたのよ」

 赳士は倦怠期でもなお、歩美との約束を守った。

 恋人の意志を尊重してくれたことに、歩美はすっかり機嫌を直したのだ。

「わたしは感動したわ! 軽い捻挫だとしても、自分の体を傷付けるのって勇気がいることよ。しかも勤務中に! タケくんの勇気に惚れ直したわ。彼は勇者よ!」

 歩美は赳士に寄り添った。赳士は照れ臭そうにそれを受け止め、抱き寄せる。

「僕は歩美の靴跡に気付いたけど、これも腰越のミスリードに利用しようと考えたのさ」

 赳士も判っていたのだ――『一』の字の正体を。

「何よ、それ!」

 納得が行かないのは鞘香だった。

 二人に振り回された挙句、学校まで休んでしまった。店主に至っては臨時休業してまで家に同行させたのだ。その結果がこれ? 到底、呑み込めるものではない。

「お兄ちゃん! 罪もない友人に濡れ衣を着せただけじゃなく、工場や店主さんにも迷惑をかけたのよ? 少しは反省したらどうなの?」

「そりゃ申し訳ないけどさ、元はと言えば兄離れできない鞘香のせいでもあるんだぜ?」

「は? 私のせい?」

「鞘香はパーソナルスペースが近くて、兄である僕にベッタリだったよね? 僕も仕方なく鞘香の肩を持ってた……そのせいで靴屋の修理依頼では、恋人の歩美を(ないがし)ろにしてしまった。歩美の機嫌を直すためには、自作自演を(・・・・・)決行しなきゃ(・・・・・・)いけなかった(・・・・・・)のさ!」

「そんな……私とお兄ちゃんは唯一の家族だもん、仲が良いのは当たり前でしょ!」

 鞘香は誰とでも親交を深められるパーソナルスペースの持ち主だが、そのせいで過剰な親密さを演出してしまい、歩美の機嫌を損ねたのだ。

 すぐ店主に抱き着くのも誤解を招いたし、鞘香は人を勘違いさせやすい欠点がある。

「僕は今まで、妹を甘やかし過ぎてた。僕は今後、結婚して歩美を第一優先にしなきゃいけなくなる。だから鞘香も兄離れして、自立すべきだよ」

 赳士が歯切れ悪く弁明した。

 自作自演の主犯である彼が言い逃れする姿は、とても悲しく映った。歩美の目には彼が勇者に見えるのかも知れないが、鞘香の目には落伍者にしか映らない。

「むぅ~っ! いいもん、私には店主さんが居るし!」

 あてつけがましく店主の腕をたぐり寄せる鞘香が、ますます勘違いを増大させた。

 不意に密着された店主は、仏頂面を一層しかめさせる。やっぱり付き合っているんじゃないのかと赳士に不審な視線でなじられたのは、店主にとって心外だ。

 それでも鞘香を邪険に扱わないのは、店主の秘めたる優しさに他ならない。

「やれやれ。こじれた紐を解いたは良いが、新たなこじれを生んでしまったようだ」

「何ですかその言い方! 店主さんだけは私の味方で居てくれますよね!? ゴールデンウィークが明けて、とうとう来週は陸上部の地区予選があるんですよ! しっかり私の足をサポートして下さいねっ?」

 鞘香は意固地になって叫び続けた。

 一件落着こそしたものの、鞘香が家族から自立するための試練は、まだまだ続きそうである。



第二幕――了





   1.



 市立実ヶ丘(みのりがおか)高校三年一組の担任教師は、陸上部の顧問でもある。

 最前列のど真ん中に席を構えた跡部(あとべ)鞘香(さやか)、および後ろの席に座る鞆原(ともはら)踏絵(ふみえ)は、教壇に立つ御年(おんとし)二八歳の男性教師をじっと見つめていた。

 六時間目のレクリエーション、主に学校行事や進路相談に()てられる五〇分は、ゴールデンウィーク明けで身の締まらない生徒たちへ新たな試練を与えようとしていた。

「よく聴けお前ら。かねてから伝えていた通り、明日から三年生は課外授業が始まるぞ」

 学校指定のジャージで立ち居振る舞う男性教師は、飾らない気さくな好青年である。

 ジャージの胸元には名札が貼り付けられ、その存在を主張している。

徒跣(はだし)八兵(はちへい)

 ――難しい苗字だ。

 ご丁寧に()仮名(がな)まで振られていた。本人も難読を見越しているのだろう。

「明日から三日間、職業体験学習だ! それぞれ希望した職場へ出かけてもらうぞ。あいにく人数調整の都合で、希望通りにならなかった生徒も居るとは思うが、なぁに三日の辛抱だ。存分に社会勉強を楽しんでくれ」

 職業体験学習。

 最近とみに増えた課外授業は、日々叫ばれる地域交流と決して無関係ではない。

 高校生ともなれば、アルバイト等で社会に関わり始めるし、早ければ高卒から働き始める生徒だっている。前もって労働に触れておくことは大切だ。

「工場からスーパーの品出しまで、幅広い企業がお前らを受け入れて下さる。くれぐれも迷惑をかけないように! さもないと受け入れ先から苦情が入って、内申に響くぞ」

 徒跣は、連休明けの五月病真っ盛りな教室に喝を入れた。

 三年生が学校を巣立つ下準備として、職業体験学習が授業そっちのけで組まれている。受験生には手痛いが、幸いにも鞘香と踏絵は胸躍る気持ちで待ち望んでいた。

「踏絵、楽しみだね!」肩越しに振り返る鞘香。「私たち、同じ職場を選んだのよね!」

「さ、鞘香……教卓の目の前で堂々と振り向くのやめなよ……」ずり落ちたメガネを押し上げる踏絵。「あっほら、徒跣先生がこっち睨んでる……」

「こらぁ跡部! 俺が教壇に立っているというのに、よそ見をするとはいい度胸だ!」

 さっそく叱られて、鞘香は首をすくめた。

 たちまち教室中がどっと()く。笑い声に包まれる中、徒跣は教卓から上半身を乗り出して、正面席の鞘香に遠慮なく顔を寄せた。鼻息が荒い。

「俺はお前の担任だけでなく、陸上部の顧問(・・・・・・)でもある! 必然的に距離感も近くなって気が緩むのかも知れないが、授業中は私語を慎むように心がけろ。いいな?」

「はうっ済みません済みません」

 鞘香は両手を合わせて拝み倒した。何を隠そう、この徒跣の指導によって鞘香は短距離走で頭角を現した経緯があるため、頭が上がらないのだ。

「接客系の体験学習は、主に実ヶ丘商店街が受け入れ先として協力して下さった」

 徒跣は改めて声を張った。

 すでに周知されていたことだが、生徒たちは見慣れた地元の商店街を思い浮かべ、明日からの就労風景に思いを馳せる。

「公立校と商店街が地域密着することで、理解を深め合う狙いもある。地域活性化の一環だな。職業体験は受け入れ先の厚意があって初めて成立する。何度も言うが、くれぐれも迷惑をかけないように!」

 はーい、と生徒たちは紋切り型の返事を寄越した。

 地元の実ヶ丘商店街――。

 鞘香と踏絵は、その一角に並々ならない奇縁を持っている。言うまでもなく職業体験もその店舗を嘱望していた。

「いよいよ明日だね――鞣革(なめしがわ)製靴店の職業体験!」

「……鞘香はどのみち、あの店でアルバイトする予定なんでしょ?」

「うん! 本格的に働く前に、課外授業として疑似体験できるのは良い機会だわ!」

 鞘香は小さな胸を弾ませた。来週には陸上部の地区予選が幕を開けるが、その後は靴屋のアルバイトも予定に入っている。ランニングシューズの修理代金を返済するためだ。

「なお、きちんと就労しているかどうか、先生たちも見回りに行くぞ。手を抜くなよ?」

 徒跣が釘を刺すように脅した。

 時間によっては回り切れない場所もあるだろうが、生徒たちは身が引き締まる思いだ。

「商店街は店が集中しているから、見回りもしやすいな。挨拶がてら先生が付き添うこともあるだろう。特に跡部、お前は誰にでも馴れ馴れしく接触する悪癖があるから、俺が見てやらんといけないしな!」

「え~? そんなことないですよ!」

「……あるわよ」

 後ろの踏絵にも釘を刺された。

 鞘香はパーソナルスペースが近いため、人懐っこく緊張感に乏しい。職業体験中に妙な騒ぎを起こしやしないか、周りに心配されるのも詮なきことだった。

 現実はそんな危惧すら遥かに上回る事態へ発展するとも知らずに――。



   *



「見事に陸上部ばかり残ったな」

 徒跣が同行する実ヶ丘商店街は、大半の生徒が普段から利用しているため、見慣れた風景に誰もがだらけていた。

 挨拶回りに失礼がないよう、徒跣はジャージではなくワイシャツ姿で歩いていた。ノーネクタイのクールビズだ。厳密なフォーマルではないが、とりあえず格好は付く。

 受け入れ先の店舗へ到着するたびに一人抜け、二人抜け……と教え子たちが散らばって行き、かくして最後まで残った一行が、奇遇にも陸上部員だらけだった。

「陸上部・男子のエース、起田渉(おきだわたる)!」

「はい」

 徒跣の点呼に、やたら足の長い男子生徒が応じた。

 学ランの襟を正すまでもなく、礼儀正しい着こなしの品行方正な青年だ。日に焼けた肌はいかにもアスリート然としており、同じく小麦色の鞘香と並ぶと、とても絵になる。

「同じく陸上部・女子のエース跡部鞘香!」

「はい!」

「予選出場に何とか滑り込んだ鞆原踏絵!」

「あっ、はい……」

「陸上部のマネージャー、踘谷(きくたに)鞠子(まりこ)!」

「はぁい」

 最後に返事したのは、教師に応じるのが面倒臭そうな女子生徒だった。

 セーラー服のリボンがゆるんでいる。しかし縮毛矯正された茶髪は寝癖一つなく完璧にセットされており、ときどき吹き抜けるそよ風になびいていた。

 スカート丈は鞘香より短いが、あらわになった足は日に焼けておらず、鍛えられてもいない。なるほど選手ではなくマネージャーだと察しが付く。

「そして陸上部顧問の俺、徒跣八兵!」ドンと自分の胸を叩く徒跣。「奇遇だな。陸上部の面子が揃って同じ靴屋を志望するとは。お前ら示し合わせたんじゃあるまいな?」

「偶然ですよ、ははは」

 和やかに答えたのは起田である。

 彼は鞘香たちをぐるりと見渡してから、顧問に向き直ってこう告げる。

「陸上部は誰よりも『靴』に気を遣いますからね。ランナーにとって、靴は足を守る大切な道具です。興味が湧くのは当然じゃないですか?」

「確かにな」

 徒跣は素直に引き下がった。

 部のエースである起田は、顧問からの信頼も厚い。

 見れば、踏絵と鞠子が惚れ惚れするような表情で、起田の顔をうっとりと眺めていた。

(二人とも、起田くんにぞっこんなのね)

 鞘香には今いち判らない感情だが、彼女も起田に悪い気持ちは抱いていない。部を背負って立つエースどうし、親しく交流するよう心掛けている。

「確か、跡部さんが先日、この靴屋でランシューを修理してもらったと聞いたよ?」

 その起田が、鞘香に話を振った。

 彼の耳にも入っていたようだ。鞘香はここの店主から助力を得たことがある。愛用のランニングシューズを直してもらってからまだ間もない。

「うん! だから実は顔見知りよ!」

 鞘香は起田に寄り添って頷いた。パーソナルスペースが近い。

 エースどうし仲良く歩く姿は、打って変わって踏絵と鞠子の不興を買った。

「ちょっと跡部さん、起田くんから離れなさいよ」

 特に鞠子からは、蛇蝎のごとく睨まれている。愛しの男子に近付く鞘香が疎まれるのは仕方ないが、当の鞘香はこれが通常の距離感なので、なぜ嫉妬されるのか理解できない。

「こらこら、お喋りするな」

 徒跣が強引に割り込んで、このツーショットは終了した。起田と鞘香が離れたことで、鞠子も殺気を引っ込めてくれる。

 徒跣は意外と生徒を観察している。今の割り込みも、空気を悪くしないためだろう。

 鞠子はと言うと、空位になった起田の隣へちゃっかり歩み寄ったのが抜け目ない。すると踏絵も負けじと、鞠子の反対側から起田に隣接した。静かな修羅場だ。

「お前らの向かう靴屋が、最後の受け入れ先だ。くれぐれも失礼のないようにな、跡部」

「む。なんで私だけ名指しで注意するんですか」

「お前は人との距離感が近すぎるからな。特に異性と仲良くすると要らんトラブルを招きかねん。親しい男は顧問の俺一人で充分だ」

「えー、何ですかそれ」

 冗談ともつかない顧問のドヤ顔に、鞘香はたまらず吹き出した。だが、異性と近いせいで余計な勘違いを生みやすいのは事実だ。今も起田のことで女性陣から睨まれたし。

 間もなく靴屋の軒先が見えて来た。軒先には長身の男性が突っ立っており、鞘香たちの到着を今や遅しと待ちぼうけていた。

「やっと来たか」

 無表情のまま、唇の筋肉だけを動かす。

 横柄な物言いである。いかにも気難しい唐変木だ。服装はワイシャツにネクタイ、サスペンダーで吊るしたスラックス。靴は工房用の安全靴だ。店名の入ったエプロンをかけている。前髪の間から輝く鷹の目のような眼光が、これまた近寄りがたい印象だった。

 顔のせいで三〇代に見えるが、実際は二八歳である。明らかに外見で損をしている。

「その四名が、我輩の受け入れる職業体験生で相違ないか?」

「ええ、よろしくお願いします」深々と頭を下げる徒跣。「おい、お前らも一人ずつ挨拶しろ! この方が店主の――」

「はい、私知ってます!」溌溂と挙手する鞘香。「店主さん、おはようございます! 跡部鞘香、また来ちゃいました!」

 言うが早いか店主に駆け寄る始末だ。挨拶もへったくれもない。

 場をわきまえない親密なそぶりに、徒跣も店主ものっけから頭を悩ませた。

「あ……あたしも店主さんと知り合いです、よろしくお願いします……」

 踏絵もおずおずと手を振ってみせる。徒跣に睨まれてすぐ引っ込めたが。

 鞠子が一人、呆れ顔で酷評した。

「跡部さんって、起田くんにも馴れ馴れしいくせに、年の離れた店主にまでベタベタするなんて最低ね。天然の男タラシだわ」

「おい踘谷、愚痴ってないで挨拶しろ」

 徒跣に注意されて、鞠子は仕方なく会釈する。

「踘谷鞠子です、よろしくお願いします」

「最後は僕かな。起田渉と申します、これから三日間、ご指導ご鞭撻のほどよろしくお願いします」

「うむ」

 店主は最も礼儀正しくお辞儀した起田にのみ、大きく相槌を打った。

 無表情で堅苦しそうな店主は、とにかくふてぶてしい。懐いているのは鞘香だけだ。踏絵も顔見知りだが、引っ込み思案な彼女は一定の距離を置いたきり近付こうともしない。

 必然的に鞘香だけが悪目立ちして、徒跣と鞠子から顰蹙(ひんしゅく)を買うのだった。

「おいお前ら! 俺はもう行くが、問題だけは起こすなよ? 特に跡部! 受け入れ先の店主と良からぬ噂(・・・・・)が立ったりするのは御免だぞ!」

「良からぬ噂って何ですか?」

「いいから黙って従え! お前と起田は、陸上部のエースなんだ。変な問題を起こされると来週の地区予選に支障が出る!」

 徒跣は何度も警告しながら店を去った。

 遠ざかる顧問の背中を見送る間も、鞘香は店主にくっ付いて離れない。さすがに起田が見るに()えず、問いかけた。

「えっと、跡部さんは店主さんと仲がいいけど、親戚とかじゃないんだよね?」

「違うわよ? 店主さんは私の恩人なの!」

「それだけで、こんなに仲良しなのか……」

 起田が大いに落ち込んだように見えた。

 鞘香は誰にでも愛想を振りまくため、男女問わず嫉妬されやすい。天然の男タラシ、と評した鞠子はあながち間違っていないし、徒跣が口を酸っぱくして注意したのも頷ける。

「で、今日から何をすれば良いんですか?」

 その鞠子が店主に対峙した。朴念仁に微塵も怯《ひる》まない女子マネージャーは豪胆だ。

 踏絵ですら未だに慣れない店主の強面は、暫時あって唇を開閉させた。

「正直な所、四人も来るとは正直思わなかった」

「は?」

「何しろ小さな店なのでな。店頭業務に四人は多すぎる。そこでだ――」

 店主は(きびす)を返した。

 長身の彼が身を翻すだけで、山が動いたような威容である。鞘香だけが彼の周りを楽しげに飛び跳ねる中、起田たちは恐る恐る付いて行った。

 店の突き当たり、奥の壁に扉が見えた。

工房(アトリエ)

 という表札がかけられている。店主は肩越しに生徒らを振り返った。

「――今日から三日間、諸君らには革靴の製造を体験してもらう」

「か、革靴の製造!?」

 鞘香と踏絵が異口同音に驚嘆した。

 意外な提案である。てっきり接客業だとばかり考えていた高校生たちは、まさかの製造業務に目を白黒させる一方だった。

「無論、革靴を一から造ると膨大な時間がかかる。そこで諸君らには、ところどころ端折(はしょ)って、めぼしい作業のみを学んでもらう」

「わぁ! 靴を造るなんて靴職人ならではの体験ですね! 工房に入るのも初めて!」

 鞘香が真っ先に賛辞した。

 太鼓持ちのような役割になっている。よほど店主を慕っているらしい。

「革靴の製造、か――」

 起田が感慨深い面持ちでうつむいた。

 視線の先には、足元が映る。フォーマルな学ラン姿なのに、なぜかカジュアルなスニーカーを履いていた。目ざとく店主が見とがめる。

「少年よ、何か言いたいことがあるのか?」

「実は僕、制服に合わせる革靴がなかったんで、造れるなら願ったり叶ったりです」

「革靴がない? それはまたどういう――」

「僕の足、ちょっと他の人と違うらしくて、すぐ革靴が駄目になるんです。しょっちゅう靴擦れも起こすし……だから仕方なくスニーカーを履いてたんです」

「ほう? それは興味深いな」

 一介の靴職人として触発されたのか、店主は物好きそうに視線をからめた。

 武骨な店主にしげしげと詮索されて、起田は居心地が悪そうだ。

「うちのエースをじろじろ見ないで」かばうように立ち塞がる鞠子。「あんたはカリキュラム通りにわたしたちを体験学習させれば良いんだから」

 つっけんどんな口調である。

 鞠子にとって、嫉妬対象である鞘香と仲睦まじい店主は信用できないに違いない。

 店に舞い込んだ四名の生徒は、どいつもこいつも一癖も二癖もある猛者だらけだ。従順な子供ばかりでは退屈だから、店主もこれには快哉を上げた。

「かんらかんら、かんらからからよ」

「て、店主さん?」

「なかなかどうして、我輩の店には奇矯な者ばかり(つど)うものだ。面白い、まずは起田少年の足の具合を見てみよう。その上で、彼の足型に合った革靴を製造しようではないか!」

 かくして数奇な三日間が幕を開けた。

 靴職人の根幹である『靴の製法』にまつわる一幕が――。



   *





   2.



「まずは起田少年の足の具合を見てみよう」

 靴の製造へ取りかかる前に、店主は起田の足を観察することにした。

 一同を工房へ余さず引き入れてから、店のシャッターを閉める。これから生徒に付きっきりとなるため、営業はしないようだ。学校から報酬をもらっているのだろうか。

 店主は手近な丸椅子を手繰(たぐ)り寄せ、起田に座るよう勧めた。起田は恐縮した面持ちで従う。だが視線は店主ではなく、工房の風景に注がれていた。彼だけではない。鞘香たち全員が眺め回している。

 珍しいのだ。靴工房なんて滅多にお目にかかれない。陸上部の顧問もさんざん靴の重要性を説いていたのだ。工房に目を輝かせるのも当然と言える。

「見たことのない機械や工具がたくさんありますね!」

 鞘香がぴょんぴょん飛び跳ねながら言う。

 壁際に吊るされたなめし皮、棚に並んだ様々な靴の木型、ヘラ、コテ、ワニ、トンカチと言った工具が箱に詰め込まれている。靴を縫い合わせる太い糸と針もあった。

 工房の中央にはひときわ大きなテーブルがしつらえられ、上には巨大なミシンが据えられている。靴底は手で縫うが、革靴の外皮はこの機械で縫合するのだ。

 牛革を貫通させる武骨なミシンは、家庭用ミシンとは重量感が段違いだ。踏絵が尻込みしながら「え……これがミシンなの?」と表情を曇らせた。ソーイングが得意な彼女でさえ、このサイズは物々しくて愛着を持てなさそうだった。

 針と糸が分厚いのも、革に穴を通す強度が必要だからだ。小脇のゴミ箱には、ほつれた糸くずや折れた針が捨てられていた。

 片隅には段ボールが積まれ、(ふた)()きっ放しの中身は牛革が詰め込まれていた。黒革と茶革の二種類。これを切り取って革靴の外皮にするのだ。革の匂いが色濃く漂う。

「起田少年よ、右足を見せたまえ」

「はい、靴を脱げば良いんですか?」

 起田は丸椅子に着席した姿勢から、右足を伸ばした。

 店主はその場にしゃがみ込むと――それはまるで起田の足元にひざまずくような体勢だったので鞘香はおかしかった――起田の靴下をするりと脱がす。

 さらされた起田の素足は、陸上部で鍛えられたおかげで筋肉質だ。足の指が太い。走る際に大地を踏みしめ、蹴り飛ばす訓練を繰り返した証だ。

 太い五指は互いにせめぎ合い、密着している。指と指の間にゆとりが少ないため、先の細いトゥシューズを履いたら痛めそうだ。

 何より特筆すべきは、甲の厚みだった。

 足の甲が常人より膨らんでいる。決して怪我や腫れではない。筋肉が発達して盛り上がっているのだ。

「よく鍛錬されている。少年はいささか足の甲が分厚いな」

「一目で判るなんて、さすがですね」照れ臭そうに頬を掻く起田。「実は僕、足の甲がでかくて、革靴がキツイんです。運動靴なら伸縮するんですけど、革だとね……。爪先を広くデザインした靴は多いのに、足の甲にスペースを割いた革靴は見当たらなくて……」

「ふむ。この足の甲では、靴の上面……靴紐の下に敷かれた()()がこすれて痛むのだろうな。なるほど、普通の革靴が足型に合わないのも合点が行った」

 店主がすらすらと症状を看破してみせた。

 起田は素早い鑑定に舌を巻くと同時に、改めて感服する。

「そうです、その通りです! 凄いですね、さすが本職の靴屋さんだ。的確な洞察です」

「我輩はシューズフィッターの民間資格を持っている。人それぞれの足型にフィットする靴造りを(にん)ぜられた証だ」

 こともなげに告げた店主だが、やはり資格があると顧客の信頼度が段違いである。

 国家資格ではないにせよ、何らかの技能を認められた保証書が提示されるのは安心だ。

「いつまで起田くんの利き足を触ってるのよ?」

 丸椅子の後ろに構える鞠子が、店主をねめつけた。

 ひざまずく店主に対し、鞠子は起田のそばで屹立している。あたかも見下ろすような角度から、鞠子は刺々しく物申すのだった。

「さっさと革靴の製造に取りかかったらどうなの?」

「これはまた気の強いお嬢さんだな。何だ、愛しのカレシの足を、どこの馬の骨とも判らない男にベタベタまさぐられるのが不愉快だったかね?」

 店主がシニカルに鼻で笑った。

 言い返された鞠子は図星だったらしく、カッと顔面を赤く染める。せいぜい「そ、そんなんじゃない……あるけど」などと小声で呟くのが精一杯だ。

 すると今度は、鞘香の横に居た踏絵が、もじもじと動揺し始めた。

「鞠子も起田くんが好きなのね……あたしも負けてられないわ……!」

「では、こうしよう」たしなめる店主。「足の甲が痛むのは()()がこすれるせいだ。対策としては、緩衝材である中敷きをかかとの部分に入れることだ」

「甲の対策なのに、かかと?」

 鞘香が後ろから覗き込んだ。店主は見向きもせずに頷く。

「ああ。中敷きでかかとを持ち上げれば、逆に爪先や足の甲は沈む。甲の上部に空間(ゆとり)が生じてこすれにくくなる」

「ああ~、そっか! さすが店主さんですね!」

「それだけではないぞ。さらに念を入れて、()()のない革靴を造ろうではないか。()()がなければ、足の甲にこすれる心配もない」

()()のない革靴……?」

 起田は珍しそうに首を傾げた。

 先ほど店主が述べた通り、()()とは靴紐の下部から足首正面にかけて伸びる内皮のことだ。まるで履き口から舌を出しているように見えるため『()()』と呼ばれている。

 それをなくすということは、足首の正面を野ざらしにするということだ。見栄えが悪くなるのではないか――?

()()のない革靴は、いくつも実在するぞ」

 店主は腰を持ち上げた。

 起田の右足が解放されたので、即座に鞠子が甲斐甲斐しく起田へ靴下を履かせてやる。起田は自分で出来るよと遠慮したものの、鞠子は世話焼き女房よろしく構うのだった。

 それを遠巻きに眺める踏絵が、嫉妬にかられたのか頬を膨らませている。

 陸上部のエースともなれば、女性にモテるのもさもありなんと言った所だが、鞘香だけは恋の争奪戦から外れて、能天気に店主の動向を目で追った。

()()のない革靴って、どんなのがあるんですか?」

「良い質問だ。今からサンプルを見せようとしていた所だ」

「やった、褒められたっ」

 鞘香は起田そっちのけで店主との会話に興じる。

 当の起田が、目を丸くして鞘香を見つめる。同じエースどうし親しみを感じていたのだろうが、あいにく鞘香は起田のことなど眼中になきがごとしの振る舞いだ。

 起田は、ちょっと傷付いたような面持ちになった。

「これを見たまえよ」

 店主が両手の指にそれぞれ革靴の見本をぶら下げて戻って来た。奥の棚には、いろいろな革靴のサンプルが陳列されている。

「革靴と言えばローファー、オックスフォード、スリッポンなどが有名だな。諸君らの履いている通学用の革靴も、大抵はこの三つだろう?」

「はい! そうです!」

 鞘香が元気よく挙手する。

 足を見下ろせば一目瞭然だ。茶色い牛革で縫製されたシンプルなフォルム。足首を革帯(ベルト)とサドルストラップで()めており、その下から()()が顔を出している。

「鞘香さんはローファーだな。ストラップを靴紐に変えればオックスフォードやバルモラル型シューズとなる」

「あ、あたしの靴がそれかしら……?」

 踏絵が恐る恐る足を前に出した。

 彼女の革靴は靴紐が結ばれており、結び目の革がVの字に開いていた。

「踏絵さんはブラッチャー型だ。履き口がV字に開いた靴は基本的にバルモラルだが、ブラッチャーはV字部分が両サイドに向かって開いているのが特徴だ」

「へぇ……似たような靴でも細かな違いがあるんですね」

 踏絵が感嘆の声を上げる。

 一口に革靴と言っても、デザインや使用目的によって種類が分かれる。普段そこまで意識して買う者は少ないため、高校生には新鮮な話題だろう。

「御託はいいから、とっとと()()のない靴とやらを教えなさいよ」

 鞠子がツンケンした態度で非難した。

 話の腰を折られた店主は、わずかにこめかみを疼かせた。青筋がうっすらと見える。

「こちらのサンプルを見たまえ。()()のない革靴と言えば、有名なのは二つある。一つはサイドゴア・ブーツだ。かのビートルズが来日したときに履いていて人気を博した」

「びーとるずって何よ。昔のバンド?」

「知らないなら良い。ブーツなので丈が長く、()()を必要としない。サイドゴアは足首の両側に切り込みを作り、そこにゴムを貼り付けて伸縮性を実現している」

「ブーツか……」難色を示す起田。「高校の通学にブーツを履くのは、仰々しいですね」

「確かにな。制服に合わせるならば、丈の短い靴にしたい所だ」

「じゃあ――」

「そこで二つ目の『ギリーシューズ』を勧めよう」

 最後に掲示された靴型は、靴紐を結ぶのではなく絡めて縛り付ける(・・・・・・・・)タイプの、一風変わった革靴だった。

 紐を絡める都合上、()()が存在しない。また外皮も、先端の飾り革から両脇のスロートラインのつなぎ目、かかと、月型芯の接続面ごとに縫い跡や穴がわざと残されており、その模様が幾何学的なデザインを醸していてオシャレだった。

 模様の少ないローファーとは大違いだ。

「変わったデザインですね」

 起田が一目惚れしたようにまじまじと見入る。

「ギリーはもともと狩猟用に開発された靴なのだ。()()のないデザインは足を束縛せず走りやすい。紐を結ぶのではなく絡める形だから、足の甲を圧迫しないのも利点だ」

「へぇ~」

「やがてギリーは、狩猟のみならず舞踊(ダンス)競技でも好んで履かれるようになった。足の激しい動きに適したデザインというわけだ」

「そんな革靴があったんですね。競技用なら足の負担もかかりませんし!」

「うむ。起田少年はこれを造って履くべきだ。――他の生徒らは何を造るかね?」

 店主が首を巡らせると、鞘香と踏絵は決めあぐねた様子を見せた。

 二人は特に足型で困っていない。とはいえ、せっかく造るなら自分の用途に合ったものを手掛けたい所だ。

 そんな彼女らを尻目に、一足早く決断したのは鞠子だった。

「わたしも起田くんと同じギリーを造るわ。靴のペアルックよ!」

「ほう」

「えっ?」

 店主が感心し、起田が声を裏返した。

 鞠子は好きな男子と同じものを造ることで、共通の話題を増やしたいのだろう。

 たちまち恋愛模様に火がついたのか、踏絵も一念発起したように宣言する。

「あ……あたしもギリーを造ります! お、起田くんとお揃いを履きたいです……!」

「そうか」肩をすくめる店主。「残るは鞘香さんだが」

「えーと、じゃあ私も同じにします。私だけ違うの造ったら、店主さんが大変でしょ?」

 決める理由まで店主に寄り添う辺り、さすが鞘香は距離感が近い。

 実際、一人だけ別だと指導方法が異なり、手間がかかる。店主は何か言いたげだったが結局、鞘香の意思を尊重した。

「跡部さんも僕と一緒か。良かった」

 起田が嬉しそうに微笑んだ。彼はエースどうし、鞘香に特別な感情を抱いているのだ。鞠子や踏絵よりも断然、鞘香と同じ靴を造れることに喜んだ。

 そのことを察知した鞠子が、嫉妬丸出しの視線を鞘香にぶつけた。あいにく鞘香本人はのほほんとしていて気付かないが。

 ついでに踏絵も、遠慮がちではあれど「むぅ……あたし、少しだけ鞘香と距離を置こうかしら……起田くんの恋敵(ライバル)として……」なんてことを真剣にぼやいている。

 起田を巡る争奪戦が水面下で進んでいた。

「次はいよいよ製法の説明だ」

 店主はサンプルを元の棚へ片付けると、製造手順について教示した。

 工場生産ではない手作業は、昔ながらの工具を使った『職人芸』が求められる。そのため道具の取り扱いや作法には細心の注意が欠かせない。

「製造は昔ながらの『グッドイヤーウェルト製法』を用いる」

「ぐっどいやー?」

 鞘香が聞き返すと、店主は簡潔に語って聞かせた。

「靴の内側にコルクを敷く。履けば履くほどコルクが沈んで、履き主の足型にフィットする。靴擦れを起こしにくく、長持ちする仕様だ」

「おお~っ!」

「それだけではない。グッドイヤーは縫製が細かい。シンプルな縫合のマッケイや接着剤で付けただけのセメント靴とは比べ物にならない丈夫さを誇る。また、グッドイヤーは靴底を剥がすのが容易で、靴底がすり減ったときに修理・換装しやすいのも利点だ」

「……でも、そんな複雑な縫製を初心者が出来るんでしょうか……?」

 踏絵がもっともな質問を投げた。

 縫製が得意な彼女でも尻込みする無数の縫い目が、ギリーシューズには溢れている。

「我輩の指導に従えば問題ない。三日で主要な工程を体験できるよう、細かな工程は我輩が夜なべして進めておく。諸君らは初日に木型を使って足型を測定し、靴の採寸を取る。その晩、我輩が大まかな縫合を済ませる。諸君らは二日目に残りを手縫いしてみよう。三日目は靴の塗装を体験できれば理想的だが、そこは時間との勝負だろうな」

「時間……?」

「オーダーメイドで靴を造る場合、普通は一~二ヶ月かかるのだよ」

「え! そんなに!」

 だから主要な工程だけを掻い摘んで体験するのか。

 店主が万全のサポートを敷いてくれるからこそ、今回の課外授業が実現した案配だ。とはいえ四足もの革靴を店主一人で補助するのも、大変な労力に違いない。

「グッドイヤー最大の難関は、何と言っても手縫いだ。大まかな縫合はミシンを使うが、細かい箇所は『すくい縫い』と『出し縫い』という手作業を行なう。中でもアウトソールをウェルトで『出し縫い』する工程が難しく――」

「ち、ちょっと待って下さい……いきなり言われても判りませんって……!」

 踏絵が抗議の声を上げた。裁縫の得意な彼女でさえちんぷんかんぷんなのだから、他の生徒にはなおさら意味不明だろう。

「これは失敬。いったん能書きは後回しにして、今日の予定である足型の採寸を済ませるとしよう。床に紙を敷くから、その上に素足を乗せたまえ」

 さっそく実習が始まった。

 丸椅子が人数分用意され、そこに座った鞘香たちは紙の上に足の形を鉛筆でなぞらされた。さらに巻き尺で足の幅や長さ、太さを計測し、紙の余白に記入して行く。

「採寸が済んだら、その足型に最も近い『木型』を持って来るのだ」

 店主が棚の上に積まれた木型を指差した。

 木型とは、足の形状を模したマネキンである。昔は木製だったが、現在は合成素材が主流だ。自分の足型に似た木型をもとに、自分の足と瓜二つの肉付けを施す。

「個人の肉付きや骨の出っ張りに合わせて、木型に合成革を貼りたまえ。完成したらすぐに剥がし、別の型紙に乗せてなぞるのだ。それこそが足型の最終デザインとなる」

 言われた通りにこなせば、型紙には各自の足型を写し取った線画が出来上がる。

「次に型紙を牛革へ乗せろ。銀ペンでトレースして切り抜けば、それが靴の外皮となる」

 店主は試しに起田の型紙を取り上げて、箱詰めされた牛革の一枚に重ねようとした。

「牛革の色は黒と茶色、どっちが良い?」

「まだ高校生なので、明るい茶色がいいですね」

「了解した」

 店主は茶色の牛革を取り出して、型紙を銀ペンで強くなぞる。

 すると牛革に銀ペンの線がくっきりと残された。それに沿って裁断すれば、外皮のパーツを採取できるのだが、これがまた生徒たちにとって重労働だった。

「牛革を切り抜くのは、工具のヘラを使う。ヘラの先端は鋭利に磨かれており、強く押し当てれば切れる。全て手作業だ。根気が()るぞ」

「こ……これは疲れますね……」

 踏絵がさっそく()を上げた。

 鞠子がそれを横目に「そんなへっぴり腰じゃ起田くんと同じギリーを造るなんて言語道断ね」と挑発している。その起田も慣れない作業に手間取っているのだが。

 この工程が本日、最も長い時間を要した。実は採寸するだけでもとっくに昼を過ぎていたのだが、牛革の裁断を終えた頃には夕刻を回っていた。

「今日はここまでにしよう」壁時計を見上げる店主。「牛革の切り出しまで終えれば上出来だ。今夜中に我輩が四人分の牛革を、ミシンで縫い合わせておこう」

「あの物々しいミシンですね!」

 鞘香が指さしたので、店主は頷いた。

「ああ。何なら起田少年の牛革で、さわりの部分だけ実演してみせよう」

 店主は中央テーブルに置かれた巨大ミシン機の電源を入れた。バイクのエンジン音さながらの重低音が鳴り響く。

「靴専用の、十八種というミシン機だ。革は布と違って、一度でも穴をあけたら縫い直しがきかない。ゆえに線が歪まぬよう、慎重に縫わねばならない」

 店主は語りながら、慣れた手付きでミシンを動かした。

 バラバラだった牛革の各部位が、一つに繋がれて行く。爪先の飾り革、横に広がるスロートライン、靴紐を通す鳩目、アキレス腱を包む月型芯――それぞれが糸で縫合され、靴を平面図に展開したような形を成した。

 これを折り畳めば、革靴になる。

 折り畳んだものを明日、手縫いで縫い合わせるというわけだ。

「諸君らの牛革は、そこの作業机に置いて帰るように」

 店主は縫い終えた起田の牛革を、壁際の作業机に安置した。机の右端だ。

 鞠子が素早く歩み寄って、その隣に自分の牛革パーツを置く。

 出遅れた踏絵が右から三番目、最後に鞘香が左端に牛革を置いた。

 机は何もない。せいぜい奥側に、塗装用のインク瓶やワックス瓶が保管されているのみだ。塗料独特の匂いが鼻に突いた。壁際なので、上部に四角い窓枠が開いている。

 この窓にはガラスがなかった。

 格子(こうし)を何本か立てただけだ。外はとばり(・・・)で塞がれていた。昔ながらの意匠である。とばりは持ち上げれば簡単に開閉するが、格子が邪魔して泥棒に入られる心配はない。

「ふうん、一応プロなだけあって作業の手際は良いわね」

 鞠子がミシンにずかずかと立ち寄った。

 珍しく興味を持ったらしい。ゴミ箱へ捨てられた糸くずにも興味津々で、ごそごそと手で漁ったりしている。

「この糸で、起田くんの牛革を縫ったのね」

 もう一度だけ作業机に舞い戻り、起田の牛革をまじまじと見下ろした。

「何をしている、早く帰れ」

 店主が入口から声をかけた。

 みんなはすでに退出を済ませている。鞠子もやむを得ず、名残り惜しそうに工房を立ち去った。鞘香と踏絵には目もくれず、起田にだけ頭を下げる。

「ごめんね起田くん、もたもたしちゃって」

「うん、早く帰ろう。これから学校に寄って活動報告しなきゃいけないんだから」

 初日はこうして終了した。一見すると何事もないが、火種は確実に仕込まれていた。



   *



 ――二日目の朝、再び鞘香たちは鞣革製靴店へ集まった。

 鞘香はセーラー服ではなくジャージで馳せ参じた。工房で制服を汚さないためだ。起田も同じくジャージで来たので、期せずしてペアルックの様相を呈した。

 踏絵と鞠子が烈火のごとき嫉妬を込めて、鞘香を睨む。咄嗟に起田が弁明した。

「ゆうべ跡部さんにメッセージを送って、実習はジャージがいいって結論になったんだ」

 起田の爆弾発言がまた辛い。

「鞘香……起田くんとメッセしてたのね……いつの間にスマホのID交換したの……?」

「踏絵、目付きがものすごく怖いよ」

 人気者が特定の女子と会話していたら、やっかまれるのも致し方ない。

 これも鞘香のパーソナルスペースが近いせいだが、最も逆鱗に触れたのは鞠子だった。

「起田くん、わたしを差し置いて跡部さんとばかり懇意にしててずるい!」

「僕らは部のエースどうしだから話しやすいんだよ。選手の気持ちを分かち合えるし」

「ひどい、マネージャーのわたしは所詮、起田くんを支えられないってこと?」

 鞠子は憤慨しながら、大股で靴屋に乗り込んだ。

 今日は裏口から入る。店が開いていないからだ。終日閉店して実習に専念する予定なのだろう。店主もまた裏口の前で待っていた。

「よく来たな。工房へ案内しよう」

 店主の先導も待たず、彼の脇をくぐるようにして鞠子がすり抜けた。

 鞠子は一足先に工房へ踏み込む。起田のつれない態度に腹を立て、半ば振り切るような闖入だった。窓際の作業机へ肉迫し、自分の牛革を確認する。

 昨日は起田の牛革しか縫われていなかったが、店主の夜なべによって全員の牛革がミシンで縫製されていた。

 されていた――のだが。

「きゃああっ! 何これ!?」

 鞠子が悲鳴と同時にたたらを踏んだ。

 床に尻もちを突く。制服が埃にまみれた。ジャージで来た鞘香を羨ましく思った。

「どうした?」

 店主が駆け寄った。追いかけるように鞘香と踏絵、最後に起田が乗り込んだ。

 そして――異変を目撃した。

「インク瓶が引っくり返ってる!?」

 机の奥にあったインク瓶が、倒れていた。

 蓋が外れ、黒いインクが机上の右端へぶちまけられている。

 机の右端――起田の牛革が安置されていた場所だ。

 茶色いはずの牛革が、ドス黒く塗り潰されていた。しかもすでに乾ききっている。

「僕の牛革が、インクまみれで台なしだ!」

 革靴を塗装する特殊なインクである。通常のインクより粘着力が強く、色も濃い。ひとたび乾いたが最後、専用の薬剤でなければ除去できない。

「瓶が倒れただと?」仏頂面をさらにしかめる店主。「ゆうべ地震でもあったのか?」

「けど店主さん! 地震なら、隣のワックス瓶も一緒に倒れるはずじゃないですか?」

 鞘香の言う通りだ。ワックスの瓶は微動だにしていない。インク瓶だけが倒れている。

 謎だった。しかもインクがかかったのは起田の牛革だけ。他の牛革は(しずく)一つない。

 一体何があったのか――紐解くべき謎が、眼前に提示されていた。



   *





   3.



 起田渉の手掛ける牛革が、見るも無惨な姿に変わり果てていた。

 真っ黒だ。

 茶色い牛革を選んだのに、ドス黒く汚染されている。

 原因は机上に置かれていたインク瓶が何らかの衝撃あるいは振動で転倒し、蓋が外れて中身をぶちまけたのだと推察できる。

 それはちょうど、机の右端に置いた起田の牛革だけが直撃をかぶる角度だった。

 何ともはや、運が悪いとしか言いようがない。

「何ですか、これ」渋面で呟く起田。「僕の革靴が台なしじゃないですか!」

「申し訳ない。なぜ瓶が倒れたのかは不明だが、そもそも瓶の近くに置くべきではなかったという意味においては、我輩の落ち度だ」

 店主が珍しく頭を下げている。

 しかし店主とて、このような危険予知くらいは出来たはずだ。瓶は安定した場所に置かれている。よほどのことがない限り倒れないからこそ、ここに保管したのだ。

 ゆえに鞘香は、店主の肩を持つことに決めた。集まった一同からいち早く飛び出すや、店主の腕にしがみ付く。彼に染み付いた牛革の匂いと合成樹脂の香りが安心感を与えた。

「私は店主さんの味方です! インク瓶が不自然に倒れてるのも、きっと理由がありますよ! それに牛革はまだ製造途中です、造り直すなりインクを拭くなりすれば――」

「それはその通りだが」女子高生にくっ付かれて罰が悪い店主。「昨日の作業が丸ごと無駄になったのだ。これでは予定通りに実習が進まない。無論、三日で完成しないのは織り込み済みではあるが――」

 店主は珍しく歯切れの悪い口調だった。

 何事にも動じない超然とした印象だったが、鞘香は店主の意外な一面を目の当たりにして、なおさらいたたまれなくなった。

「跡部さん、そいつから離れなよ」

「起田くん……?」

「やっぱりおかしいよ、年の離れた大人にべったりな高校生なんてさ。同じ部の僕より、そいつの肩を持つのかい?」

「えっ? 私は年齢なんかで人を判断しないよ! 第一、失敗は誰にだってあるわ。一つの失態でネチネチいじめる方が私は好きじゃないわ」

「そりゃあ仕事に失策は付き物さ。けど実習本番で、僕にギリーシューズを勧めておきながら、速攻で台なしにされるなんて、お粗末すぎて笑えないよ」

「店主さんを悪く言わないで!」

 鞘香は売り言葉に買い言葉で、つい反目してしまった。

 だから彼女は気付かない。起田が怒る根幹には、牛革よりも鞘香の去就(きょしゅう)があるのだと。

 起田は鞘香に好意を持っている。パーソナルスペースが近くて人懐っこい、鞘香の天真爛漫さに惚れているのだ。

 そんな彼女が、自分よりも店主をかばうのだから、虫の居所が悪くなるのも当然だ。

「と……とにかく今、先生を呼んでます」

 踏絵がスマホ片手に声を張った。

 実習先で揉め事が起きた場合、学校へ連絡するよう徹底されている。

「それが一番ね」嘆息する鞠子。「先生は陸上部の顧問でもあるし、商店街周辺を見回りする担当でもあるから、すぐに駆け付けてくれるはず――」

「何だ何だ、何の騒ぎだ!」

 ――噂をすれば影が差す。

 工房の外、店の裏口からずかずかと上がり込んで来たのは徒跣(はだし)先生だった。

 昨日と同様、クールビズで来訪する。なぜか片手には高枝切りバサミを携えており、杖代わりに床を突きながら歩いていた。

 高枝切りバサミは長さが四〇センチほどだが、(つか)のパイプを伸ばせば一メートル以上になる。高所の木の枝を伐採するために使う道具だ。

「おはようお前ら! 裏口が開いてたんで勝手に入ってしまったがご容赦あれ!」

 ガニ股で闊歩する徒跣は、工房の扉をくぐってすぐ店主と対峙した。

 両雄は互いに一歩も引かない。どちらも二八歳の屈強な外見で、気が強い。唯一おかしな点を挙げるとすれば、店主の腕には鞘香が未だに抱き着いている点か。

 朝っぱらから教え子が大人といちゃ付いていたので、あからさまに徒跣は憤慨した。

「おい店主さんよぉ! いつからうちの生徒に手ぇ出した?」

「人聞きの悪いことを言わないでいただきたい」

「そう言われてもねぇ……おい跡部!」

「はいっ?」

 シャキッと背を伸ばす鞘香だが、それでも店主の腕を離さない。

 ますます徒跣は呆れ果てた。

「未成年が成人男性に密着するな。お前はそうやって誰にでも媚びを売るから、周りの男たちは勘違いするんだぞ? なぁ起田!」

「な、なんで僕に聞くんですか!」

「だってお前、跡部のこと好きだろ?」

「こ、こんな所でバラさないで下さいよ!」

 起田が顔を真っ赤にする。やはりこのエースは鞘香のことが好きなのだ。

 それを見た踏絵と鞠子が、絶望的なまでに肩を落とし、舌打ちを繰り返した。

 鞘香は知らぬ間に遺恨を刻んでいる。のちの部活動に悪影響がなければ良いが、それを望むことすら(はばか)れる空気になりつつある。

「ま、それはそれとしてだ。本題の実習トラブルについて話が聞きたい」

 徒跣は居住まいを正した。ここへ呼ばれた理由は、牛革の汚染に対する抗議である。片手に携えた高枝切りバサミをガツンと床に打ち付け、場の喧騒を静粛にした。

「待ちたまえよ、その高枝切りバサミは何かね?」

 今度は店主が物申す番だった。

 工房に余計な刃物を持ち込まないでもらいたい、と暗に苛立っている。指摘された徒跣も、初めて高枝切りバサミを見下ろした。

「ああ、これか? 別の生徒たちの実習先が造園業者でさ。しかも店頭が植木道具を販売するワークショップだったから、庭の手入れ用に購入したんだよ昨日」

「なぜそれを靴屋に持ち込むのだ?」

「それがさ、家に帰ったら同じものがすでにあったんだよ! だから返品するつもりで持って来たんだが、その道中に靴屋から連絡が来たんで、立ち寄ったまでだ」

「工房には不要なので外へ出していただきたい」

 店主が断固拒否したので、徒跣はいったん屋外へ引き返した。

 再び工房へ戻って来ると、改めて店主に向かい合う。

「済まんね。でだ、靴屋でトラブった状況を確認したいんだが?」

「存分に見学してくれ」

 店主が場所を譲った。今度こそ徒跣は工房内を見て回る。

 主に壁際の作業机を捜索した。

 机の奥にはワックスを詰めた瓶が置かれている。隣には倒れたインク瓶。視線を上げると、壁には前述もした窓枠がくり抜かれていた。

 格子窓だ。現在はとばりが上げられて、陽光が射し込んで非常に眩しい。

「瓶の手前に並んでいる牛革が、生徒たちの作成物か?」

「そうだ」

 店主は右から順番に、起田のインクにまみれた牛革、鞠子の牛革、踏絵の牛革、最後に左端が鞘香の牛革だと説明した。

 いずれもミシンで縫い合わされている。これは店主が夜なべして行なったものだ。すなわち昨日、生徒たちが帰ったあとに店主は牛革を触っている。

「ミシンで縫合した牛革を机に戻す際、インク瓶にぶつけて倒したんじゃないか?」

「それはない。我輩が瓶を倒したのなら、その場で気付くだろう」

 店主は理路整然と疑惑を否定した。確かにその通りなので、徒跣は反論しない。

 次に徒跣は首を回して「ミシンとは、これか?」と武骨なミシンに手を伸ばした。

「勝手に触るな」

「おお、怖い怖い」

 徒跣は反射的に手を引っ込め、軽く笑い飛ばす。

 触らない代わりに、ミシンの細部を嘗め回すように観察した。脇にはゴミ箱があり、使い古しの糸くずや針がまとめて捨てられている。

「なるほどねぇ。で? インクがこぼれていたのを最初に発見したのは誰だ?」

「わたしです」

 鞠子が名乗り出た。

 徒跣は鞠子へ方向転換し、彼女の手を握るなり作業机へ取って返す。

「こぼれたインクはどんな状態だった? 固まっていたか? まだ濡れていたか?」

「すでに乾いてました」

「てことは、インクがこぼれてから何時間も経過していたわけだ! 倒れたのは夜中!」

「ああ。それがどうかしたか?」

 店主は問い返した。現場の捜査に余念がない徒跣を、虎視眈々と注視している。

 まるで徒跣が探偵のようだ。昨日の現場にはおらず、極めて客観的な第三者という立場は、なるほど探偵役に適任だった。

「この机は壁に面しているだろ?」壁を叩く徒跣。「外から壁を強く叩けば、振動でインク瓶が倒れるんじゃないか!? 夜中にこっそり誰かが来て――」

「さすがにそこまで建て付けは悪くない。振動で倒れたのなら、一緒に置かれたワックス瓶が微動だにしていないのが不自然だろう」

「なら、実際に外から叩いてみようじゃないか! 壁には格子窓が開いているから、外から見ても目印になる」

 完全に徒跣が場を仕切っている。

 主導権を奪われた店主は、首を傾げつつも追従した。彼と手を繋ぐ鞘香が後続し、親友の踏絵も付いて行く。最後に鞠子と起田が、ここに居ても仕方ないと頷き合い、どちらともなく足を運んだ。

 裏口を出て、店の壁伝いにぐるりと回り込む。

 ――あった。とばりの上がった格子窓だ。

 そこは店の裏庭で、店主の所有するセダンが駐車されていた。

 徒跣は芝生を踏みにじるように歩くと、格子窓のそばに両手を突いた。

「せーの、っと!」

 壁に全体重を押し付ける。体当たりもしてみたが、手ごたえはなかった。

 格子窓の中を覗いても、眼下の作業机に振動が伝わった様子は一切見られない。

「チッ、振動は無理か」あっさり切り替える徒跣。「となると、他に手がかりを探さなきゃならんなぁ――」

 徒跣は芝生にしゃがみ込んだ。目を皿のようにして、遺留物がないか捜索している。

「何を探してるんですか先生?」

 鞘香が興味を惹かれた。店主から手を離すや、無警戒に徒跣のもとへ歩み寄る。

 この子は誰にでも距離感が近い。徒跣へ顔を寄せるや否や、徒跣は芝生から一本の糸くずを拾い上げた。

「見付けたぞ。物的証拠だ!」

「糸、ですか?」

 じっと見入る鞘香の頭を、徒跣は勝ち誇った面構えで撫でた。髪が乱れるほどに。

「その通りだ! 店主さんも見てくれ! これはミシンの縫い糸と同じものだよな?」

「ミシン糸だと?」

 店主は眉間にしわを刻んだ。

 仏頂面が険しくなる。踏絵がヒエッとおののくのも構わず、店主はさらに眼光をたぎらせた。徒跣にずかずかと肉迫し、彼の手から糸くずをもぎ取った。

 糸は太く、長さも両腕を広げるくらいはあった。だがゴミ箱ではなく店外に捨てられているのは、通常では考えられないことだ。

「馬鹿な。なぜこんな所に縫い糸が落ちているのだ?」

「聞いているのはこっちだよ店主さん。あんたの仕業じゃないのか? そこの、格子窓から投げ捨てたとかさ」

「我輩は必ずゴミ箱に捨てる。外に投げ捨てたら店の周りが汚れるではないか」

 確かにそうだ。

 店主は屋内にゴミ箱を用意していた。外に捨てる意味がない。

 ではなぜ糸くずが落ちていたのか、判然としなかった。何もかも意味不明だ。調べれば調べるほど不可解なことばかり湧いて出る。

「糸と言えば、裁縫が得意な子が居たな」

 店主は踏絵を振り返った。

 やにわ指名された踏絵は、肝を潰したように奇声をわめく。

「ふぁっ? あ、あたしですか?」

「うむ。ソーイングセットを持ち歩くほど裁縫が好きだったではないか」

「え……だからって革靴に使うような糸は持ってませんけど……」

「だが、以前の一件で、君は鞘香さんと我輩に軋轢を抱いたのではないかね?」

 以前の一件――。

 ランニングシューズを巡る、鞘香と店主の出会いにまつわる事件である。

 あのとき、鞘香に同伴した踏絵は、取り返しの付かない過ちを犯した。そのことを店主に推理され、踏絵は大いに反省したが、実はまだ心にわだかまりがあったのか――?

「加えて君の態度から察するに、同じ部の起田くんに気があるのではないかね?」

「えっ?」

「う……」

 名指しされた起田が驚き、言い当てられた踏絵は頬を紅潮させた。

 ついでに起田の隣に居た鞠子も発奮のあまり顔を真っ赤にした。

「もしかしてここに居る女子は全員、起田くん狙いなの!?」

「私は違うよ!」

 鞘香が否定した。起田は「跡部さんは違うのか……」と一人で勝手に落ち込んでいる。

 店主は剣呑な青少年たちを見渡して、さらに憶測を重ねた。

「つまり踏絵さんは、自分を差し置いて鞘香さんに懸想する起田少年を逆恨みした。そして我輩にも私怨を持っており、実習の妨害を企んだ。その結果が――」

「だ、だからあたしが、起田くんの牛革にインクを塗ったと……? 事実無根です!」

 踏絵は身の潔白を訴えた。

 彼女は鞘香の親友であり、二度と裏切らないと誓った人物だ。今回、起田を巡る嫉妬があったとしても、今さら他人に迷惑をかけるとは思えない。

「ふむ。君ではないのだな?」

「と、当然ですっ」

「ならば、今の戯言(ざれごと)は撤回しよう」

 店主はかまをかけたのだ。

 本気で踏絵を疑ったわけではない。あえて推理を外すことで、踏絵を『犯人』候補から除外した。こうやって一人ずつ消去法で絞るのが良いと判断したに違いない。

「店主さんよ、もう一回工房に戻ろうか」

 徒跣が先陣を切って歩き出した。

 まただ。またこの教師が現場を仕切っている。店主にとって、この男はどうにもやりにくかった。生徒のためとはいえ、ここまで率先できる原動力は何なのか。

「工房に戻ってどうするつもりかね」

「牛革に塗られたインクを()がしたい。色を落とせば、何か判るかも知れないだろ?」

「インクを拭くには専用の薬剤が必要だ。やるなら我輩に任せてもらおう」

「もちろん、餅は餅屋だ。乾いたインクの下に、俺は秘密が隠されていると思うね」

 果たして徒跣の述べた通り、工房でインクを落とす作業に入った店主は、驚天動地の大発見をする羽目になる。

 あたかもそれは、徒跣の掌で踊らされているかのようだった。

 この場では、奴が探偵役なのか?

 店主はただの脇役に落とし込まれてしまったのか?

 そもそも黒インクは、色あせた靴の修理に使う代物だ。ワックスだってそう。光沢のなくなった革靴に輝きを取り戻すだけでなく、これらの塗料によるコーティングは防水・撥水効果も兼ねている。

 そうした『思いやり』や『心遣い』の象徴であるインク瓶が、いかなる経緯で起田の牛革を汚辱(おじょく)したのか――?

 その一端を、店主は目の当たりにした。

「インクの下から、文字が見えて来たぞ!?」

 店主は息を呑んだ。

 薬剤を染み込ませた布巾(ウェス)で牛革を拭くうち、元の茶色い革地が復元したのみならず、そこにしたためられた落書きまでもが発掘されたのだ。

 刃物(ナイフ)か何かで牛革に切り込まれた、たどたどしい文字列だった。

 普通のマジックインキやボールペンでは革に文字が乗らないし、インクを拭き取ると同時に字も消えてしまうだろう。それを防ぐ意味でも、刃を立てて革に文字を刻んだに違いなかった。

 一体誰が――何のために?

「店主さん! 何て書かれてるんですか!」

 鞘香が背後から飛び付いた。

 作業机に座り込んだ店主は、起田の牛革を握ったまま、しばし逡巡する。

「読み上げても良いのかね? この落書きを?」

 店主は乗り気ではなかった。

 特に起田へ配慮しているらしく、ちらちらと彼の顔色を窺っている。

 起田はそんな店主と、彼の背中に密着する鞘香を羨ましそうに眺めてから、やがて不貞腐れたように吐き捨てた。

「いいですよ、教えて下さい。僕も腹をくくります」

「了解した……では」咳払いしてから重苦しく朗読する店主。「”起田は地区予選を辞退せよ。さもなくば今後も、お前の革靴に(・・・・・・)細工をし続ける(・・・・・・・)”……だそうだ」

「――え?」

「確か、起田少年の履く革靴はことごとく足に合わないという話だったが、それはどうやら何者かによる(・・・・・・)イタズラ(・・・・)のせいだったようだな」

「ほ、本当ですか!」

 驚いたというより愕然とした面持ちで、起田はその場にくずおれた。

 すぐさま鞠子と踏絵が両脇から駆け寄り、彼を介抱する。

 鞘香だけは起田を見向きもせず、店主と共に落書きへ目をすがめた。

「起田くんへの脅迫状、ってことですか?」

「ああ」

「おいおいおい、こいつは陸上部の顧問として見過ごせないぞ!」

 二人の間へ分け入るように、徒跣が机上へかじり付いた。わざとらしく鞘香を店主から遠ざけようと引き離す。ご苦労なことだ。

 刃物による落書きのため、筆跡鑑定も出来ない。(つたな)く彫られた字面には、無機質な悪意が宿っていた。もはやこの牛革は廃棄決定だ。起田は一から造り直しを余儀なくされた。

 徒跣がますますいきり立つ。熱血教師らしい一面を見せた。

「これは俺の沽券に関わる大事件だ! 陸上部の顧問として、ひいてはお前らの担任として、俺が『犯人』を暴いてやる!」

「待ちたまえ、我輩の店で勝手なことをするんじゃない――」

「この場は俺が預かった! 店主さんも協力してくれるよな!?」

 店主の忠告など聞く耳を持たず、徒跣による一大推理が幕を開けた。



   *





   4.



 陸上部の顧問は熱血漢だ。

 課外授業のトラブルを親身に大立ち回りする姿は、なるほど生徒たちに慕われるのも得心が行く。当の店主には煙たがられているものの、熱心さは伝わった。

「もう一回、昨日の状況をおさらいしたい。実況見分ってやつだな! 牛革を机に置いたあとの動向を教えてくれないか?」

 徒跣はすっかり探偵気取りである。

 ここを誰の店だと思っているのか。とりあえず店主が監視しているものの、徒跣は鞘香たちを当時の配置に立たせ、昨日の帰り支度を再現させた。

「ええと、確か」

 事細かに全ての動きを覚えているわけではないため、起田はぎこちなく出口へ向かう。

「僕らは店主さんに促されて、牛革を机に保管してすぐ工房を出たんだっけ?」

「そ、そうです」付き従うように工房を出る踏絵。「帰りがけに学校へ寄って活動報告しなきゃいけない……って話しながら……」

「うんうん! それで机から一直線に退室したのよ!」

 鞘香も同調し、そのように移動した。

 途中で店主をちらりと眺め、間違っていないか思案するのが可愛らしい。

 見つめ合う二人を遮断するように、徒跣が素早く回り込んだ。邪魔だ。

「おう。確かに昨日の夕方、学校でお前らの進捗状況を聞かせてもらったな!」

 つまり徒跣は、靴屋での流れは大雑把に把握していたわけだ。昨日の時点ではさぞ順風満帆な報告だったに違いない。

「わたしが最後に工房を出たんだっけ?」

 鞠子がふと、再現に躊躇した。

 記憶が曖昧なのか、動こうともしない。単に言動をあれこれ詮索されるのが嫌なのか。それとも何か不都合でもあるというのか。

「どうした鞠谷、早く再現しろ」

「ううっ……」

 徒跣に強くせがまれ、やむを得ず鞠子は足を運んだ。

 ミシンの前で立ち止まり、ゴミ箱を覗き込む。そのあと作業机へ立ち寄って、起田の牛革をまじまじと見入ってみせた。

「わたしは店主の使用するミシンを見学してから、起田くんの牛革を観察し直して、最後に退出したわ――」

 申し上げにくそうに、鞠子は呟いた。

 確かにその通りだった。そのことは誰よりも店主が記憶している。

 徒跣は店主に顔を向けた。

「今の話は本当か?」

「ああ。そこのお嬢さんがなかなか退室しなかったので、我輩が声をかけたのを覚えている。彼女が出て行ってようやく、我輩は工房の電気を消し、扉を閉めたのだ」

 鞠子が最後まで工房に残り、ミシンや牛革を見入っていた――。

 今思えば、あからさまに怪しい行動ではないか。鞠子は自分が疑われるのが嫌だから、実況見分をためらったのだ。

「なるほどな!」腕組みする徒跣。「あまり言いたくないが、踘谷鞠子が『犯人』だ!」

「!」

 徒跣が何の臆面もなく名指ししたので、室内がざわついた。

 注目に耐え切れず、鞠子は普段の勝気さもどこへやら、よろよろと足をふらつかせた。

「何てこと言うんですか、先生!」

 鞘香が反射的に抗議する。

 次いで起田も、鞠子の肩を支えながら顧問へ眼力をたぎらせた。

「先生、今の言い草はひどいですよ。僕らは陸上部の仲間なのに……まぁこの子はマネージャーであって選手ではないけど……」

それ(・・)だよ」

 徒跣は手を叩き合わせた。

 起田の発言を待ってましたとばかりに笑いかける。起田は意味が判らず硬直した。鞘香も店主も、頭上にハテナマークを点灯させている。

 徒跣の論説はこうだ。

「踘谷はマネージャーであって、選手ではない。それが密かにコンプレックスだったんじゃないか?」

「そ、そんなことはないですけど……」

 鞠子は取り繕うように抗弁したが、どうにも歯切れが悪い。

 徒跣がしたり顔で、ますます付け入った。

「お前は起田に惚れていた。だが起田は、同じ部のエースである跡部鞘香に好意を抱いていた――要するに三角関係だな! ああ、そこの鞆原踏絵も起田に懸想していたな?」

「う……」

 踏絵まで指摘されて、顔面が爆発したように赤らんだ。

 さすがは顧問である。人間関係の惚れた腫れたまで手に取るように掌握している。

「起田は『選手』の跡部鞘香と仲が良かったな! どんなにマネージャーが献身しようとも、結局は『選手』が一番なのだ。マネージャーでは起田の心を掴み取れなかった!」

「そう言われると反論できませんけど、でもわたしは――」

だから踘谷は脅迫状を書いた(・・・・・・・・・・・・・)んだろう!」

 徒跣は叱咤を重ねて、鞠子の反駁を打ち消した。

 それはもはや恫喝だった。強く抑圧する語調だ。有無を言わさぬ、教師の立場を利用した糾弾と言っても良い。

「起田に出場を辞退させれば『選手』ではなくなる! 三年生は夏大会で引退だから、踘谷と同じ立場になる。対等な立場で恋愛に臨めるわけだ」

「わたしはやってません!」

「日頃から起田の革靴にイタズラし、靴擦れを誘発したのもお前だろう? 起田が足を故障すれば『選手』ではなくなるからな!」

「わたしじゃないです! ミシンを観察しただけで犯人呼ばわりされるのは不本意です」

 鞠子の抗弁が虚しく響く。

 みんな戸惑っていた。鞘香に至っては唐突に自分が三角関係に名を連ねられて首を傾げており、全く理解が及んでいない。

 鞘香はパーソナルスペースが近いため、異性との関係を勘違いされやすい。そのことが毎度、周囲の誤解を生んで要らぬ揉め事に発展してしまっている。

 見かねた店主が、顧問の前に立ちはだかった。

「この女子マネージャーがいかにして牛革へ落書きをしたのだ? その手口(トリック)は?」

「簡単なことだ。踘谷はミシンだけでなく、横のゴミ箱も見ていた。その際に、こっそり糸くずを拾ってポケットに忍ばせたんだ」

「ゴミ箱の糸くずを?」

「それが外の芝生に落ちていた糸の束だ!」

 先ほど屋外で収拾したばかりの糸くずを、徒跣は店主に突き付けた。

「糸を何に利用したのかね?」

「順を追って説明してやる――踘谷は糸くずをゴミ箱から拾って作業机に行き、起田の牛革を眺める振りをしつつ、手元でこっそり糸を輪っかに結び、牛革へくくり付けた!」

「糸くずを牛革に?」

「そう! そして、糸の反対側は格子窓まで伸ばし、格子の一本に結んでおく!」

 喋りながら、徒跣は自分で実演をしてみせた。

 長い糸くずの片側を、起田の牛革に巻き付ける。反対側の末端は、格子窓まで引っ張って、格子の一本に結び合わせた。

「踘谷が最後まで工房に残ったのは、この細工をするためだったんだ! その後は店主に呼ばれて工房を立ち去り、学校で俺に活動報告した――……が!」

 が。

 徒跣はくるりと体を反転させ、全員の顔を順番に見据えた。

 探偵の舌鋒、ここに極まれり。徒跣は名推理に陶酔するかのごとく、声高に提唱する。

「店主が夜なべを終えて眠ったあと、踘谷は人目を忍んで靴屋にとんぼ返りした! そして格子窓のとばりを外から押し開け、格子に結んでおいた糸を引っ張り上げたんだ!」

 糸を引っ張り上げた――?

 店主はその光景を想像した。革の縫い糸は頑丈だから、その先端に革靴サイズの牛革が縛られていても、余裕で引っ張り出せる。

「糸に繋がれた牛革を、格子窓の隙間(すきま)からサルベージした踘谷は、携帯用のペーパーナイフやカッターナイフなど何でもいい、刃物で牛革に脅迫状を刻み込んだ!」

「出来なくはないが……格子窓に結ばれた糸を、我輩が夜なべ中に気付かなかったと?」

「起田の牛革はすでに裁縫済みだったから、店主は触りもしなかったんじゃないか? なら気付かないのも無理はない!」

「むう……」

「そして脅迫状を書き終えた踘谷は、最後に牛革の糸をほどき、格子窓から作業机に元通り投げ落とせば、犯行は完了だ――だが、ここで一つの誤算が生じた」

「誤算?」

「牛革を作業机に落としたとき、インク瓶にぶつかって倒したんだよ!」

 瓶を倒した。

 そのせいでインクがぶちまけられ、起田の牛革はドス黒く染められた――?

「落書きはインクに埋もれたが、踘谷は気付かずに退散した。糸くずもその場に捨てた。大方、捨ててもバレやしないと高をくくったんだろう。それを俺が発見したわけだ!」

「わたしじゃないです! どうして信じてくれないの!」

「お前しか動機がないんだよ。エースの起田を追い詰めたがる陸上部員なんてな」

「ひどい!」

 鞠子は双眸を涙で潤ませた。救いを求めるように起田へ視線をさまよわせるも、あいにく起田は汚物でも見るような侮蔑を返すのみだ。

「起田くんまでわたしを疑うの?」

「ああ。僕は先生の推理を信じるよ。先生は僕をエースに育ててくれた恩師だからな!」

「…………っ!」

 鞠子は想い人にも見捨てられ、立ち直れないほどの痛痒(つうよう)を受けた。

 たたらを踏み、起田から遠ざかる。周りの目も冷たい。唯一、鞘香だけは心配そうな眼差しを向けていたが、鞠子にとって鞘香は恋敵だ。(あわ)れみなんか受けたくなかった。

「わたしは違う! わたしじゃないっ!」

 鞠子は脱兎のごとく逃げ出した。

 工房を退散し、裏口から走り去る。思ったより足が速い。もしも選手だったら芽が出たかも知れない……などと鞘香は場違いな感傷にふけった。

「逃がすか!」

 徒跣が急いで追いかける。

 二人の靴音が遠のく中、取り残された起田たちは、どうしたものかと店主を見やった。

「やれやれ。現場の後始末は我輩任せか。あの顧問にも困ったものだ」

 店主は渋面を崩さず、不機嫌そうに吐き捨てた。

 今日はもう、実習どころではない。時間もだいぶ押している。おまけに実習生の一人が逃亡してしまった。日程は完全に破綻したと言って良い。

「どうする? 今からでも実習の準備をやってみるかね?」

「ま、まぁ出来るならやりたいです……」おずおずと意見する踏絵。「課外授業の成果も内申に響くので……」

「そんな理由かよ」呆れる起田。「僕は正直、手に付かないです。やる気が湧きません」

「ええっ! じゃあサボっちゃうの?」

 鞘香が非難するように起田を見た。

 起田はそこまでは言っていないのだが、鞘香に面と向かって誤解されたとあって、ますますモチベーションを低下させてしまう。

 駄目だ。皆、心ここにあらずだ。

「仕方ない。諸君らはいったん学校に戻れ。学校で検討して、今後の方針を決めるのだ」

 店主はシッシッと手で追い払う仕草をした。

 トラブルが起きて教師を呼んだ以上、店主はもう生徒たちを預かれる立場にない。

「店主さん、本当にお開きなんですか?」

 鞘香が残念そうに店主へすがり付こうとする。

 店主は彼女の接近を手で制し、無言で拒絶するしかなかった。泣きそうな顔をされた。



   *



 実習が潰れたため、店主は通常営業することにした。

 店さえ開けていれば、ときどき来客がある。今日の損失を少しは補填できるだろう。

 のんべんだらりと一日を過ごした店主は、張り合いのない風体で閉店時間を迎えた。ふてぶてしい鉄面皮も心なし落ち込んでいる。溜息をこぼし、夜のとばりを下ろした――。

「店主さんっ!」

「うおっ」

 ――とばりの外に、見慣れた女子高生が立っていた。

 工房の格子窓である。とばりを外から押し開けられ、鞘香が顔を寄せた。

「私、やっぱり事件のことが気になって、戻って来ちゃいました!」

「こんな時間にか? 学校はどうだった?」

「あれから大変でしたよ! 鞠子がとにかく罪を認めなくて。実習がぶち壊しになったから、先生も処理に難儀したようです。店主さんへ一報する暇さえなくて」

「まぁその件は明日にでも正式に電話が来るだろう。今日の不始末をどう帳尻合わせるのかも含めて、な」

「それで、店主さん――」じっと格子の合間から見つめる鞘香。「――実際の所、店主さんは事件についてどうお考え(・・・・・)ですか?」

「……考え、とは何のことだ」

真犯人(・・・)ですよ! 鞠子は一貫して否認してます。てことは、真犯人が居るはずです!」

「我輩に聞くな。部活の揉め事を『紐解く(・・・)』には、いかんせん情報が足りない。我輩は学校関係者ではないのだからな」

「店主さんの思考が及ぶ範囲で結構です! 私は『店主さんの推理』が聞きたいです!」

 鞘香は(わら)にもすがるような深刻さを醸していた。

 人を藁扱いするのは失礼だが、店主はやむを得ず、無言で顎をしゃくった。

 裏口へ回れ、と指示したのだ。

 裏口の鍵は開いていた。暗がりの店内へ踏み込んだ鞘香が、真っ先に店主の胸元へむしゃぶり付く。

「私、ずっと不安でした! みんなギスギスしちゃって、こんな調子で来週の地区予選を戦えるのかなって! 私にはもう、店主さんしか頼れる人が居なくて――」

「我輩も憶測しか言えんぞ。試しに踏絵さんにかまをかけたが、彼女は潔白だったしな」

 店主は先刻、裁縫が得意な踏絵を疑ってみせたが、あれはただの余興だ。怪しくない人物を容疑から除外するために、あえて推理を外したに過ぎない。

「それでも私は、店主さんに紐解いて欲しいんです!」

 鞘香は店主の胸元から顔を上げた。

 せっかくの美貌がくしゃくしゃに歪んでいる。涙と嗚咽、焦燥と恐慌に満ちていた。こんな顔を見せられては、放り出すわけにも行くまい。人懐っこさは武器か凶器か。

「かんらかんら、かんらからからよ」

「……店主さん?」

「これが笑わずに居られるか。良いだろう、我輩で良ければ紐解いてやる。ただし、これは飽くまで我輩の想像に過ぎない。決して公言しないと約束できるかね?」

「もちろんです!」

 鞘香は白い歯を見せて笑った。

 今は店主の『紐解き』さえ聞ければ良いのだ。鞘香を安心させるだけなら、推理の真偽は二の次である。

 店主は椅子を二脚持って来て、廊下に腰かけた。鞘香もスカートを押さえながら尻を落とし、店主のしかめっ面をじっと窺う。

 やがて店主は、口火を切った。



「真犯人は――顧問の先生(・・・・・)だ」



「えっ!?」

「鞘香さんは自覚がないだろうが、あの顧問は君に劣情を抱いている(・・・・・・・・・・)向きがある」

「ええっ!?」

「君はパーソナルスペースが近いから、男は勘違いしやすいのだよ」

「えええっ!? けど、相手は先生ですよ?」

「あの顧問は、我輩と君がくっ付いているのを見て、明らかに嫉妬していた」

「あ……言われてみれば、いちいち怒って邪魔して来ましたね!」

「君は女子陸上部のエースだ。顧問は君をエースに育てた自負がある。君を特別な目で見ている(・・・・・・・・・)のだよ。君も顧問に親しく接していたから、その気にさせてしまったのだ」

「あの先生が、私をそんな風に見てたなんて――」

 鞘香は目をぱちくりさせた。

 やはり彼女は無自覚だった。そのせいで揉め事に巻き込まれる店主の身にもなって欲しい。トラブルメーカー気質のヒロインにはほとほと困ったものである。

「さらに鞘香さんは、起田少年にも親しく接していたな」

「はい」

「そのことも顧問は気に食わなかった」

「それも嫉妬なんですか?」

「恐らくな」溜息を()く店主。「だから顧問は、起田少年の革靴にイタズラして、靴擦れを誘発させたのだ」

「先生が起田くんに細工を――!?」

 顧問が犯人だと知らされるや、鞘香は居たたまれなくなった。

 何もかも自分が発端だからだ。積極的に人の輪を形成したい鞘香は、あろうことか異性に略奪愛の火種を()いてしまった。その結果が今回の事態である。

「されど起田少年は、イタズラに屈しなかった。良いタイムを出せば、顧問は彼をエースに選ばざるを得ない。表向きは起田少年を評価しつつ、裏では憎んでいたのだろうな」

「信じられません、あの面倒見のいい先生が……」

 鞘香は人間不信に陥りそうだった。

 今の推理は店主の仮説に過ぎないが、鞘香は店主を誰よりも信奉している。

「脅迫状を書いた動機も、察しが付くだろう? 本当は起田を出場させたくない(・・・・・・・・・・・)からだ」

「動機は判りましたけど、手口(トリック)が不明です! 先生は昨日、一度も工房に入りませんでしたよ? ミシン糸を牛革にくくり付ける下準備が出来ないです!」

 そうなのだ。徒跣は昨日、実習生を店主に預けると、他の見回りへ移動してしまった。

 これではミシン糸を入手できないし、格子窓に結んでおくことも不可能だ。

「格子窓の外から牛革を引き上げる方法は、糸だけとは限らない」

「え?」

「顧問教師は、高枝切りバサミを持っていただろう? あれは伸ばすと一メートル以上になる。グリップを握れば、先端のハサミが可動する仕組みだ」

「じゃあ先生は昨晩、店主さんが寝静まったあと店へ忍び寄り、高枝切りバサミを格子の隙間から差し込んで、牛革を掴み上げたんですか!」

「正解だ。あらかじめハサミを布で(くる)んでおけば、牛革を(はさ)んでも傷付かない。そうやって牛革をハサミでつまみ上げ、格子窓から引っ張り出したのだろう」

 そのあと手持ちのナイフなどで、牛革に脅迫文を切り刻む。

 再び格子の隙間から牛革を作業机に投げ落とせば、犯行は完了だ。

「けど店主さん、それだと裏庭で発見された糸くずが説明できませんよ?」

「裏庭に糸くずなど、初めからなかった(・・・・・・・・)

「……どういうことです?」

「今朝、顧問は工房を調べ回り、ミシンとゴミ箱も漁っていた。その際、密かに糸くずを回収し、そのあと裏庭で糸くずを拾ったように見せびらかしたのだ」

「あ! 本当は糸くずなんか落ちてなかった(・・・・・・・・・・・・・)んですね!」

 裏庭には元来、何もなかった。しかし工房から糸くずを盗んだ徒跣が、さも芝生で発見したような白々しい芝居を打ったのである。

「なぜ先生がそんなことを――?」

「理由は二つある。一つは、脅迫状の犯人を誰かに押し付けるため」

「鞠子は濡れ衣を着せられたんですね! 糸を使ったトリックを捏造されて――」

「そしてもう一つは、インク瓶が倒れたせいだ」

「インク瓶?」

「顧問が牛革を作業机へ落とした際、インク瓶に接触してしまった。おかげで文字がインクに埋もれてしまった。これでは脅迫状の意味がない」

「だから先生は探偵役を買って出て、インク(・・・)を洗うよう誘導した(・・・・・・・・・)んですか!」

 全ては脅迫状を白日の下にさらすためだ。

 探偵ごっこをして、インクを拭き取る提案を持ちかける。その結果、晴れて脅迫状が日の目を見た。何もかも顧問による茶番劇だったのだ。

 鞘香は床の上で地団駄を踏んだ。

「これって、ミステリで言う所の『探偵が犯人だった』っていうパターンですよね! 犯人のくせに探偵役をしゃしゃり出て、嘘の解答をでっち上げて他人に罪をなすり付けようとする誤誘導(ミスリード)ですよ!」

 鞘香は基本的にアウトドアなアスリートだが、インドアでは推理小説をたしなむ趣味があるらしく、謎解きへの造詣が深い。兄が誇れるような妹に育つべく文武両道を志して来たことが、思わぬ雑学知識を身に着けたようだ。

「その通りだ。踘谷鞠子嬢は、まんまと顧問の『生贄』(スケープゴート)として犯人役を押し付けられたに過ぎない」

「なんであのとき指摘しなかったんですか、店主さん!」

「証拠がないからな。これは飽くまで我輩の邪推だ。それに起田少年は、顧問を恩師として尊敬している。恩師が犯人だなんて彼は信じてくれまい」

「そんな――」顔を両手で覆う鞘香。「あんなに生徒思いな徒跣(はだし)先生が、姑息なイタズラをする悪漢だったなんて――!」

「今、何と言った?」

 やおら、店主が聞きとがめた。

 鞘香は何事かと顔を上げる。店主の剣幕はいつにも増してしわが寄り、恐ろしかった。

「何がですか店主さん?」

顧問教師の名前(・・・・・・・)だ。何と言った?」

 店主は今、徒跣の名を初めて耳に入れた。

 そう言えば、徒跣は店主に一度も自己紹介をしていない。また、徒跣はクールビズだったこともあり、ジャージの名札すら見せていない。

 生徒たちも彼を「先生」としか呼ばなかったため、店主は知らずに居たのだ。ようやく今、鞘香が口に出した次第である。

「ご存知なかったんですか? 徒跣八兵という珍しい氏名で――」

「ハダシ・ハチヘイだと!!」

 店主は勢い込んで立ち上がった。

 椅子が後ろに転倒する。けたたましい騒音が反響して、鞘香は思わず身をすくめた。

「どうしたんですか店主さん?」

「八兵……まさか、奴が? 苗字が変わっている? そうか、婿(むこ)入りしたのか……」

 ぶつぶつと呟く店主には、もはや鞘香の姿など映っていなかった。

 徒跣と店主は、知り合いなのだろうか?

 だが、店主が徒跣と対面したときは、お互いに無反応だった。つまり、少なくともここ数年は会っていない――人相を覚えていない――間柄ということになる。

「我輩は、八兵と高校時代の旧友だった」

「え?」

「二人とも同じ部に所属していたが、一人の女性を巡って争った結果、奴が勝った(・・・・・)

「三角関係だったんですか!」

 それは期せずして、起田を巡る女子部員の様相と酷似していた。性別が逆なだけだ。

 今も昔も、高校生のやることは大差ないという皮肉だろうか。

「女性の家名が『徒跣(・・)』なのだ! 大手シューズメーカーの大株主で、結婚するには養子縁組が必須だった――八兵は(・・・)徒跣家に(・・・・)婿入りした(・・・・・)のだ」

「え、徒跣先生は独身だったはず――?」

「風の噂で、女性は病気により夭折(ようせつ)したと聞いた。八兵は徒跣家に籍こそ残しているが、妻を亡くした『独り身』なのだ。君に似た容貌の溌溂とした女性だった」

「私に似てたんですか!? けど店主さん、私と初めて会ったとき無反応でしたよね」

「我輩は無愛想な鉄面皮だからな」

「ああ~それでかぁ」

「八兵は今なお伴侶のことを忘れられず、彼女そっくりな君になびかれたと思われる」

「言われてみれば先生も店主さんも二八歳ですもんね! 同学年だったのも納得です!」

「あれから成人して何年も経てば、人相や体格は変化する。そのせいで我輩は、大人になった八兵の顔を見抜けなかった……だが、奴は店名を(・・・・・)見て気付いた(・・・・・・)はずだ。我輩の氏名と因縁を、な」

 職業体験学習を受け入れる際、店の事業者名が学校側に提出される。

 つまり、店主の名は教員に周知されているのだ。徒跣が彼の名前を見て、何も思い出さないわけがない。

「鞘香さん、八兵には用心しろ。我輩はかつて、あの男にとんでもない怨嗟(えんさ)を生んだことがある……来週の地区予選は何が起こるか判らんぞ。絶対に気を許すな!」

 人生経験から(にじ)み出た警告を、店主は悪鬼羅刹のごとき形相で訴えた。

 同時に鞘香は驚嘆する。この靴職人がどんな高校時代を過ごしたのか、今初めて聞いたからだ。鞣革靼造の出自も、故郷も、学歴も、交友関係も、趣味も、特技も、好きな食べ物さえも、鞘香は何一つ知らなかった。

 鞘香は唖然(あぜん)と店主を見上げた。謎に満ちた人生を、もっと知りたい衝動に駆られた。



第三幕――了(第四幕へ続く)