3.



「昨晩、お兄ちゃんが工場で事故に遭ったんです!」

 雨上がりの商店街に予期せぬ霹靂が襲来した。

 風雲が急を告げる。昨日で仕事を果たしたと安心しきっていた店主にしてみれば、鳩が豆鉄砲を喰らうどころか散弾銃で滅多打ちにされたような気分である。

 店主はただでさえ白い三白眼をさらに白目へと変えながら、抱き着いて離れない鞘香の頭をポンと叩いた。

「まず離れろ。そして深呼吸しろ」

「えうっ、わ、判りました……ぐすん」

 泣き腫らして真っ赤な双眸をこすりこすり、鞘香は素直に命令を聞いた。

 パーソナルスペースが近いと従順である。何がそこまで店主に親愛の情を寄せられるのかは不明だが、言われた通りに鞘香は店主から一歩距離を置き、呼吸を整えた。

 ご丁寧に両腕を振りながら、小さな胸いっぱいに空気を吸い込んで上下させる。

「落ち着いたか?」

「う、ううっ……はい、何とか、少しだけですけど!」

 返事するたびに再びがぶり寄るので、あまり落ち着いてなさそうだ。

 とはいえいくらかは頭の中が冴え渡ったようで、鞘香は順を追って説明を始めた。

「私に連絡があったのは、今朝でした! 目覚まし時計で起床した私は、登校の準備をしてたんです。顔を洗って、ご飯を食べて、お兄ちゃんの朝食も用意して……準備万端整えた直後に、お兄ちゃんの工場から電話が来たんです」

「どんな用件だ?」

「夜勤中にお兄ちゃんが転倒して、捻挫(ねんざ)したとか……! 骨は折れてないそうです!」

 捻挫か。

 思ったより軽い症状だったので、店主は不幸中の幸いに安堵の息を漏らした。

 命に別状はないが、鞘香にとってはたった一人の家族が負傷したのだから、気が気ではあるまい。ましてやあれほど仲睦まじい兄妹なのだ。

 足を怪我したら、しばらくはまともに歩けない。そうなると工場で働くのは難しい。最悪の場合、完治するまで欠勤せざるを得なくなる。

 工場の多くは日給月給制だから、欠勤している間は給料が出ない。兄妹二人きりの赤貧生活を送っている現状、大きな痛手となるのは間違いなかった。

「転倒した原因は何だね?」

「工場から手短に聞いた感じですと、もともと昨夜は出勤直後から、お兄ちゃんは足元がおぼつかないというか、歩きにくそうにしてたらしいんです」

「ふむ。夜勤だから眠かったのか……?」

「やがて夜が明ける頃、お兄ちゃんの緊張の糸が切れたのか、資材を運ぶ最中に足を取られて盛大に引っくり返ったそうです――ああもう! お兄ちゃんってばドジ!」

 身振り手振りで兄の行動を再現する鞘香が健気だった。

 実際に見たわけでもないのに、兄が転ぶ瞬間も実演しようとして、制服のスカートがめくれ上がったのは見なかったことにしてあげた。

「それで私、今日は学校を休んで、お兄ちゃんの看病をするつもりです! 今は診察結果待ちだから、その間に店主さんにも(しら)せようと思って来店しました!」

「……なぜ我輩に報せる必要があるのやら」

 店主は肩をそびやかすしかない。

 鞘香の兄とは先日会ったばかりで、何の義理もない。されど鞘香は、一度会えばもう友人とでも考えているのか、他人にもパーソナルスペースの近さを当てはめている。

「だって私、お兄ちゃん以外に信頼できる男性は店主さんしか居ませんから!」

「何だ、男手が欲しいのか?」

「えっと、まぁ、捻挫したお兄ちゃんを支えて帰らなきゃいけないじゃないですか。ちょっと私一人だと苦労するかなって――」

「やれやれ。仕方ないな」

 店主は面倒臭そうに頭を掻いたが、しぶしぶ折れた。

 エプロンを外し、軒先のシャッターをおもむろに下ろす。店内に閉じ込められた鞘香がぽかんと(ほう)けるのを尻目に、店主は鞘香を裏口へ手招きした。

「今日は臨時休業にする。他の店舗も連休明けで閉店ばかりだから便乗しよう。医者のもとへ案内してもらおうか」

「やった! 店主さん大好き!」

 歩き出す店主へ全速力で飛び付いた鞘香は、なるほど陸上部らしい俊足だった。

 勢い余って店主を壁際まで追い詰める突進力だったが、店主は喉元までこみ上げた文句をどうにか呑み込んで、抱き着く鞘香を引きずりながら外出した。



   *



 赳士が受診している整形外科医院は、さして遠くない。

 職場こそ街外れの工場だが、診療先は家の近くを選んでもらえたらしい。

 工場から運ばれた彼は作業服のまま、右足の(すね)から爪先までギプスで固められていた。

 靴は当然履けないが、工場の下駄箱から通勤用のスニーカーを持ち帰っている。

「スニーカーは左足だけ履くよ。ありがとう鞘香――おや?」

 妹に支えられて医院を後にした赳士は、出口付近に仏頂面の靴職人が待ち構えていることに気付いた。

 外には駐車場があり、その一つに安いセダンが停まっていた。店主はその後部座席のドアを開け、跡部兄妹に「乗れ」と無言で(あご)をしゃくっている。

「これはこれは店主さん。鞘香が連れて来たのか?」

「そうよお兄ちゃん! その足で家まで帰るの大変でしょ? だから……」

「うわ、それは恐縮だね。店主さんには頭が上がらないや。やっぱり本当は鞘香と付き合ってるんじゃないだろうな――?」

「下らん勘繰りをぬかす暇があるなら、さっさと乗れ」

 店主がどやしつけた。

 雷が落ちたかのような胴間声(どうまごえ)に、たちまち赳士は背筋を凍らせる。すごすごと乗り込んでからも、怖気付いたまま一言も口を利かなかった。ときおり店主が運転席から「君たちの家はどっちだ」と尋ねたときのみ、道を教えたきりである。

 かくして到着した跡部家は、木造モルタル二階建て、庭のない一軒家だった。

 車庫はあるが車はなかったので、店主はそこに停車させる。

「昔はクルマもあったけど、親の遺産処分で手放したんだよな……家だけは残したけど」

 赳士が感慨深そうに呟く。

 店主は耳も貸さず、率先して赳士に肩を貸した。赳士のギプスをかばいつつ、玄関まで突き進む。鞘香が支えるより何倍も手際が良く、赳士も安心して体重を任せられた。

「さすが店主さん! 頼りになりますね!」

 鞘香はこんなときでも黄色い歓声を忘れない。スカートの裾を翻し、踊るような足運びで玄関のドアに回り込むと、鍵を開けて中へ招き入れた。

 (かまち)を上がり、両親の仏壇が据えられた和室の横を通り抜けて、リビングに到達する。

 赳士をそっとソファに座らせる店主めがけて、鞘香はもう一度ラブコールを送りつつ、台所の冷蔵庫から麦茶をもてなした。

「お疲れ様です!」

 盆に乗せてテーブルに並べられたコップ三杯を、それぞれが手に取る。なぜか鞘香は店主の隣に腰を下ろした。赳士は店主の真向かいだ。

 店主は麦茶を一口で飲み干した。お代わりを持って来ようとする鞘香を手で制し、とっとと本題に取りかかる。

「赳士殿、だったな。一体何があった? それと婚約者はまだ来られないのかね?」

「いやぁ、連休明けで仕事の(かん)が戻らず、作業中に足がもつれちゃいました……もちろん歩美には電話しましたよ。あいにく彼女は外回りが忙しくて、融通が利かないようです」

 赳士は店主に運ばれた恩からか、言葉遣いが丁寧になっている。

 その言葉に嘘偽りはなさそうだ。店主と鉢合わせて以降、このような質問をされるに違いないとあらかじめ予測していたのかも知れない。

 店主は鵜呑みにせず、じろりと赳士を睨み付けた。

「作業服のまま帰宅させられた割に、靴は私用のスニーカーだったな。職場でもスニーカーを履いているのか?」

「まさか。仕事用の安全靴が支給されてますって。でも靴は簡単に脱げるけど、作業服は着替えるのに時間がかかるから、作業服のまま医者に運ばれたんです」

「安全靴は今どこにある?」

「工場の下駄箱に戻してありますよ。それが何か?」

「いや……ちょっとな」瞑目(めいもく)する店主。「工業用の安全靴と言えば、足の甲に鉄板を仕込んで防護された武骨な履き物だ。普通の靴より何倍も重いし、慣れないと歩きづらい」

「あ~、連休明けで久々に安全靴を履いたから、感覚が慣れなかったのかなぁ」照れ臭そうに頬を掻く赳士。「履いたとき、ちょっと違和感があったんですよ。連休前より靴のサイズが違ってたような……」

「靴のサイズが? それは確かか?」

「うーん、感覚的なものだから曖昧です……ゆうべの僕って、靴屋に寄ってから出勤したせいで遅刻ギリギリだったんですよ! だから履き心地を確かめる暇がなくて」

「安全靴に違和感……か」

 店主はうっすらとまぶたを開いた。

 鋭い眼光で赳士を見据える。その形相が傍目(はため)にも恐ろしくて、赳士のみならず鞘香まで双肩を震わせた。

「店主さん! お兄ちゃんのお話で、何か気になったんですか!?」

「ゆうべは雨だったが、傘はどうした?」

「あ、話をそらした」

 鞘香が()ねるのを尻目に、店主は正面の赳士だけを凝視した。

「傘は下駄箱の傘立てに置きっ放しです」舌を出す赳士。「朝方にはやんでたから、存在を忘れてましたよ。取りに行けるのは捻挫が治ったあとだなぁ……」

 下駄箱にある傘立て。

 きっと工場の入口は、昨夜の雨粒や泥で汚れているに違いない。

「工場の出入り口は中庭になってて、土が剥き出しなんですよ。そのせいで靴底に湿った土が付着して、下駄箱の床は泥まみれの靴跡がたくさん残ってましたよ」

「ほほう。もっと詳しく聞かせてくれないか?」

「へ? 靴跡の話をですか?」首を傾げる赳士。「変な所に着目する店主だな……あ、靴跡の中にはヘンテコな『一』の文字が書かれてました」

「一、だと?」

 店主は眉間にしわを刻んだ。

 赳士もよく判らず顔をしかめる一方だ。

「何だったんでしょうね? 泥で漢字の『一』を書いた人が居たのかな? いや、工場でそんなことする奇矯な奴なんて聞いたことないし……」

「一の文字は、一箇所だけだったのか?」

「いや、いくつも連なってましたよ。入口から下駄箱のふもとまで」

「そうか……君はそれを見たあと、どうした?」

「そのあとは……普通に下駄箱でスニーカーを脱いで、安全靴に履き替えて、タイムカードをギリギリで押して……ああ、そこで同僚と鉢合わせました」

「同僚とは?」

腰越(こしごえ)っていう仕事仲間で、僕と同い年なんですよ。もともと奴が歩美の工場視察を案内してたんですけど、途中から僕が任されるようになって……だから一時期『三角関係』でしたね。恋のライバルだったんです」

 赳士は懐かしそうに思い出を語った。

 よくよく話の脱線する男である。今回の事故もあまり深刻には捉えていないようだ。

 鞘香が一番腰を抜かしていた。

「ええっ? 歩美さんとお兄ちゃんって、最初から相思相愛じゃなかったの?」

「歩美にどっちの男が良いか選ばせたんだ。あのときは心臓が止まるかと思ったね。まぁ腰越は今でも歩美に熱視線を向けるときがあるけど、恋の争奪戦は僕が勝ったよ」

「ほう。そいつは怪しいな」

 店主が不穏当な疑義を唱えた。

 え、と鞘香が振り向くと、店主は一心不乱に赳士へ目の焦点を当てている。

「怪しい、って何がですか?」

「その同僚とやら、本当に恋心を諦めたとは思えんな。少なくとも君の話しぶりからは、水面下で横恋慕している可能性を匂わせているだろう?」

「そんな!」店主の腕を引っ張る鞘香。「お兄ちゃんの婚約者に横恋慕するなんて――」

「ははっ、さすが店主さんだ、僕の意図を簡単に読んじゃいますね」

「――お兄ちゃん!?」

 赳士が認めた。

 店主の述べた通り、赳士の話しぶりは同僚を疑わざるを得ないような語り口だった。あたかも誘導するかのごとく。

 違和感のある安全靴。その直後に出くわした同僚、かつての恋敵――。

僕の安全靴に細工をした犯人(・・・・・・・・・・・・・)は、腰越だと思います。転んで怪我しやすいように、ね」

「ええっ!」

 たまげたのは鞘香のみだ。

 店主は赳士に深く首肯する。想定内の結論だったらしい。

「安全靴はきつかったかね? ゆるかったかね?」

「きつく感じました。僕の足って二九センチあるんですよ。工場にもほとんど居ない大きなサイズだから、足に合わないとすぐ判ります」

「――安全靴をすり替えられた(・・・・・・・)証左だな。二九センチの代替品など滅多にないため、小さいサイズと交換されたのだろう」

 店主はあっさり断言した。

 鞘香が恐れをなして、ますます店主の腕にしがみ付く。座る位置もどんどん密着して暑苦しい。それでも店主は鞘香に目もくれず、淡々と赳士に質問を浴びせた。

「では次に、安全靴の重さはどうだったかね? 軽かったか?」

「軽くはないですが、足の甲に敷かれた鉄板がグラグラして邪魔でした。ちゃんと内部で固定されてなかったです。歩きにくくするために腰越が壊したのかなぁ?」

「仕事中に安全靴が壊れた場合、どうするのかね?」

「工場の裏に廃棄場があるんで、そこに捨ててます。新しい安全靴は申請すれば取り寄せてもらえますけど、さっき言ったように二九センチは珍しくて支給が遅れがちですね」

「なるほど。つまり『犯人』は廃棄場から適当なボロ靴を拾って、君の靴と入れ換えた。小さいサイズの壊れた靴しか廃棄場になかったのだろうな」

「鉄板が壊れてた理由は、廃棄品だったせいか……僕が転びやすいように!」

 道理で歩きにくかったわけだ、と赳士は自嘲した。店主はさらにこう続ける。

「君は遅刻寸前で慌てていたから、履き心地を気にする暇がなかった。靴のきつさに耐えながら持ち場を動き回ったのだろう?」

「はい。加えて連休明けで意識が散漫だったことも、敵の罠にかかりやすい条件でした」

 そのもくろみは的中し、赳士はまんまと怪我を負わされた。

 久々の夜勤、慣れない安全靴に足元がおぼつかず――。

「恐らく『犯人』は、君がドジを踏むだけで満足だったに違いない……だが実際は怪我して欠勤、職場に穴を開けてしまった。予期せぬ大事となり、犯人も驚いているはずだ」

「腰越が『犯人』なんですよね? 僕にこんなイタズラをする奴なんて、かつての恋敵であり、今も歩美に未練がある腰越しか考えられない――」

「かんらかんら、かんらからからよ」

 不意に店主が立ち上がった。

 高らかに哄笑を湛えながら。そのシニカルな笑い声と、腕にしがみ付く鞘香ごと起立した堂々たる体躯は、あたかも鬼がそそり立つようだ。見る者全てを恐怖に陥れる威容。

「何がおかしいんですか店主さんっ?」

 問いかける鞘香に、ようやく店主は一瞥をよこす。

「これが笑わずに居られるか。君たちは実に早計だ。先入観が過ぎる」

「へ?」

「我輩はまだ一度も『犯人』の名を断言していない。腰越氏はまだ怪しいだけで、確たる証拠がない。まずは現場の写真を撮影して、細かく検証したい所だ」

「写真を? 誰が?」

「決まっている――腰越氏にメールで送ってもらうのだ」

「腰越に!?」

「表向きは友人なのだろう? 水面下では恋敵だとしても、頼まれれば断るまいて」

 店主はしれっと提案した。

 嫌疑の渦中にある人物へ、わざわざ犯人探しの協力を申し込むというのだ。何ともはや、豪胆と褒めるべきか、底意地悪いと(そし)るべきか。

「挑発的だなぁ店主さんは。で、どこの写真を撮らせる気ですか?」

「二つある」指を二本立てる店主。「一つは下駄箱周辺の靴跡。早く撮影しないと清掃されてしまうかも知れないから急げ。もう一つは赳士殿、君の安全靴だ」

「僕の……?」

「現物を見るのが一番だが、外には持ち出せないだろう? 靴のサイズや外観を撮影してもらえば、すり替えられた靴かどうか判るはずだ――あとは歩美さんを待つだけだ」

 店主は思い出したように付け加えた。その双眸は赳士を見据えたままだ。

「歩美が必要なんですか?」

「彼女に尋ねたいことがあるのでな。事件の(・・・)真相に関わる(・・・・・・)重大な質問だ」

「ちょっと店主さん! それって――」

 鞘香が嫌な予感に面相をしかめた。可愛い小顔が台なしだ。

「――まさか歩美さんが『犯人』だとか言わないですよねっ?」

「なぜそう思うのだ?」

「だ、だって腰越さんか歩美さんしか工場関係者は居ません! つまり犯人は二択――」

「落ち着きたまえよ。写真と役者さえ揃えば、真実はおのずと判明するだろう――こじれた靴紐をほどけば履き心地が良くなるように、こじれた謎も紐解こう(・・・・)ではないか」

 それが鞣革靼造の流儀である。いつぞやも聞いた『紐解き』の決め台詞に、鞘香は不安と期待をない交ぜにされた気分だった。



   *