「誰もいない、か」

 19時ちょうどの南校舎3階、部室にはダイヤル錠がかかっていた。もしみんながいたら何て言い訳をしようか、電車に乗っている間幾つか考えていたけど、杞憂に終わったことにどこか安堵する。

 電気を点けて中に入ると、俺の脚本と絵コンテは長テーブルの端に揃えて置かれていた。その横には、編集に使ったのか、渓谷の写真をプリントアウトしたものが数枚。


 本当にこの渓谷には振り回されてばっかりだな、と思いつつ、俺はさっき見た彼女の動画を思い出していた。



 愛理、君の動画をもっと早く見ておけば良かったよ。

 そうしたら、もう少し早く、俺は動けていたかもしれない。自分から興味を持って映画制作部に入ったかもね、吹っ切れて他の人と恋愛もしたかもね。


 でも、ちょっと遅くて、縁でこの部活に入ったけど、気付いたときには失恋だ。
 君のときも、桜さんのときも、俺はいつも肝心なときに近くにいなかったり、間に合わなかったりして、何やってるんだろうって感じで。


 部活からも色恋からも、君からも逃げてしまって、タイミングを逃してばっかりだけど、この映画はちゃんと作るよ。
 そして、使い方は違うけど、俺が勝手に引いた"イマジナリーライン"を越えて、もうどこからも逃げない。



「ふうう……すう……」


 今日一番大きな深呼吸をすると、頭が少しだけ冴える。随分カッコ悪い自分の中にいる素直な本体と、しっかり向き合える。


 乗り越えなきゃいけない。明日には何気ない顔で桜さんと接さなきゃいけない。これも一つのイマジナリーラインってヤツかな。越えなきゃいけないものがたくさんある。


 明日は乗り越えよう。明日でいい、今すぐに乗り越えなくていい。


 だから、今日は泣こう。うん、よし、思いっきり泣こう。


「ふ、う、う……うぐ……うああ…………ああああ…………」


 自分を正当化して、もっともらしい理由をつけて、電気を消して座り込んで下を向く。心の揺らめきは涙腺に繋がり、呼吸は嗚咽へと変わった。

 さっきは数滴で済んだのに今回の涙は簡単には止まりそうになくて、雪山のゲレンデのように頬にシュプールを残していく。


 愛理のこと、桜さんのこと。2人の顔が交互に浮かんでは、ない交ぜになった喪失感と寂寥感が喉までせり上がり、堰を切ったように泣く。

 一緒にいたかった、好きって言いたかった、もっと話したかった、付き合いたかった、悲しい、寂しい。


「うあああ……あ、あ………」


 ガラッ


 不意に、部室のドアが開く。バッと後ろを振り向くと、そこに立っていたのは涼羽だった。

「す、ずは…………どしたの?」

 すぐに顔を擦って、目一杯に平然を装う。

「近くの店でSE集レンタルしてきたから、帰る前にここで聞こうかなって。家にCD流せるの無いし」

 月明りで俺の目は見えるはずだし、そもそも暗い中で座っている時点でおかしい。声も揺れてるから泣き腫らしているのはバレてるだろうけど、彼女は叫ぶでも驚くでもなく、冷静に話してくれた。

「そ、っか」
「そっちこそどしたの?」
「いや、俺は、その……」

 しどろもどろになる。もう何を言い訳しても変だし、どう足掻いてもカッコ悪い。

「……帰ろうか?」
「いや、気にしないでいいから。音声な、俺も選ばないと」

 動揺を隠せないまま、必死にBGMを選ぶふり。手元にあった絵コンテを手繰り寄せ、スマホのロックを解除する。


「…………そう」

 その時、カポッと頭に何かを被せられた。

「……え? あ?」


 頭頂から耳まですっぽり覆っているそれは、いつも彼女が付けているヘッドホン。彼女はといえば、別のイヤホンを自分のノートパソコンに差して音を聴こうとしていた。


 ヘッドホンから流れているのは、雨音。ただの、雨音のSE。シトシトと降る音が、ノイズのないLとRの世界に響く。目を瞑ると、そこはひたすらに暗闇の雨の空間だった。



 雨が降ってきた日、石名渓谷で急遽雨宿りのシーンを追加したのを思い出す。石名渓谷のロケハンを桜さんと2人でしたのを思い出す。石を渡ろうとした彼女の手を、繋ぐか迷ったことを思い出す。その繋ぐ相手は、俺じゃなかった。


 そして、雨の渓谷は2年前、桜さんと同じように映画が好きだったアイツを飲み込んでしまった。きっと新作の準備に夢中なまま、どんなアングルで河原を映そうか、最後までワクワクしながら川に入っていた愛理を。


「……ふっ…………ふっく…………ひっ…………」


 涼羽に見つかって目の奥に押し込めていたはずの涙が勝手に零れてくる。隣にいる彼女は、イヤホンをはめたままずっと画面を見ていて、何も言わない。敢えて聞かないで、放っておいてくれてるのかもしれない。


「うあ……ああ……ああああ………」


 さっき泣こうと決めた分、簡単には止まりそうにもなくて、今はこの状況に甘えてもいいと自分を許して、ずっとずっと、泣いていた。