「よし、準備できたので撮影はじめまーす!」
配置も決まったらしく、桜さんが商店街の魚屋のようにパパンパンと手を叩く。おじさんはカウンターでコーヒーを啜りながら、俺達の準備を楽しそうに見ていた。
「じゃあ、まずはこっちの角度からね。和志と陽菜、隣同士で座ってくれる? 和志……や、陽菜が手前の方がいいかな」
「分かりました! 和志先輩、そこどうぞ」
もう撮影班だけでなく、キャスト同士も名前で呼び合っている。
俺達も「和志、もう少しだけ椅子ひいて」という感じで声をかけるのが当たり前で、少し時間をかけないと「あ、永田君だ」と思い出せないようになっていた。
「陽菜はいつもの感じでベラベラ和志に話しかけて。和志はちょっと一歩引いて相槌」
「この前の買い物のときみたいな感じですよね、大丈夫です」
「アタシもあのテンションでいきます!」
撮っていくうちに、自然とキャラクター像も固まっていった。細かい演技指導がなくても、佳澄と和志と陽菜はカチンコを鳴らす前にカメラの前に姿を現す。
全員がこの物語に入り込んで、色とりどりの中身が見えるように外に向けて光を照らしているような、そんなイメージ。
「キリ君」
次のカットの前に桜さんに呼ばれ、小走りで彼女のもとへ駆け寄る。
「これ終わったら近くの公園でご飯ね。買ってきてもらえる?」
「いいですよ、何にしますか?」
そうねえ、と数秒上を向いて考えた後、彼女は新しいいたずらを思いついた子どもさながらに顔をくしゃっと綻ばせた。
「よし、最後だしバカなことしよう! 向かいにモックバーガーあったでしょ? 7人だから……ハンバーガーを40個! あとは、ポテトLを7つ、ナゲット15入りを3つ!」
「何なんですかそれ……」
「ダメかな?」
「最高に楽しいじゃないですか」
だよね、と言って2人でニヤける。
「じゃあ行ってきます」
「荷物持つの大変なら連絡してね!」
心配そうに送り出されたけど、実際もっと大変だったのは、「ハンバーガーを40個、ですか?」とやや困惑気味に聞き返す店員さんと周りのお客さんの視線だった。
「はい、お昼です!」
年始の初売りで福袋を買い漁った人のように、大きな袋を2つ抱えて公園に激走する。その中身を見て、颯士さんは「ヒャッホー!」と叫んだ。
「ハンバーガーパラダイスだ!」
「ソウ君、こっち、ポテトが箱から出て海みたいになってる!」
公園の2つ並んだベンチに座り、真ん中に袋を置く。食べても食べてもなくならないハンバーガーに、涼羽は「もう飽きてきた……」と呟きながらジトーッと手元の3つ目を見つめた。
「おい月居、ノルマは1人5個だぞ。ポテトもあるしな」
「夏本さん、なんでランチにノルマ制なんですか」
「あ、陽菜、それナゲット用のBBQソースじゃん」
「フッフッフ、監督さん、よく気付きましたね。これをポテトで掬ってハンバーガーに付けて食べるんです。そうすると見事な味変!」
「おおお、なんかすごい! 俺もやってみよっと!」
休日の公園、ファストフードではしゃぐ、高校生7人。
その不自然ささえもネタにしながら、直射日光と涼羽からもらった6個目のハンバーガーでカラカラの喉を1ℓペットボトルのお茶で潤した。
17時、小豆里高校近くの商店街。あと1時間もすると、日は赤く色づき始める。
「はい、ラスト! カット170! 並んで数歩歩いてからの台詞、いきます。よういっ……アクション!」
カチン!
『……そうだ! ねえ、和志。久しぶりにあそこ行ってみない?』
『あそこ?』
『へへっ、まるで渓谷みたいな練習スタジオだよ』
「カット! 全員でモニターチェックします! ソウ君、再生!」
「あいよ」
「……うん……うん。気になるところある人いる?」
「ワタシは大丈夫です」
「俺もこれでいいと思います」
「台詞バッチリだった!」
そこまで聞いて、桜さんはすうっと息を吸う。
そして、周囲の人も気にせず、空に声をぶつけるように叫んだ。
「オッケー! 全カット撮影終了! クランクアップです!」
「おつかれさまでしたー!」
7月4日。1ヶ月弱、4回に渡った280カットの撮影は、恙なく終了した。
拍手が響き渡る中、うまく言葉にできない達成感が血液に混じって全身に行き渡る。一方で、「ああ、終わった」という気持ちのすぐ隣に「ああ、終わっちゃった」という気持ちが顔を覗かせ、まだまだやり足りない自分が心の中でシャドーボクシングをしているようだった。
「ようし、これから地獄の編集作業が残ってるけど、ちょっとだけ打ち上げするぞ。案内します!」
手早く機材を片付けた颯士さんを先頭に、全員テンションの高いままに商店街を歩いた後、バスで数分だけ移動する。やがて到着したのは、店内で食べるスペースもあるケーキ屋だった。
「最近できたらしい」
「わっ、ステキ!」
雪野さんがショーウィンドウから中を覗き、興奮気味に叫ぶ。凹凸も汚れもない綺麗な白い壁に、ファンタジーの作品に出てくるようなダークブラウンのいかついドア。店内のケーキの入ったケースには、カラフルでSNS映えしそうなケーキが並ぶ。
現実世界から迷いこんだのかと思わせる店構えに一同緊張していると、予約取っておいて良かった、と颯士さんがテーブルまで案内してくれた。
「良い店ね、ここ。藤ちゃん、演劇部でも何かで使えないかな」
「バス使わなきゃなのがちょっとなあ。あ、でも雪野ちゃんや永田君のチームの打ち上げに私達がテイクアウトで準備するとかありかも」
「それいいな。みんな写真撮りたがるだろうし、女子に大ウケな気がする」
すっかり仲良くなったキャスト達がテーブル2つをくっつけた8人掛けに並んで座る。
機材を端のスペースに置き、ひと段落したタイミングで、颯士さんが「ちょっとトイレ」と席を立った。店員さんに合図しに行ったんだろう。
「お、ソウ君戻って来たね。よし、今日はみんな好きなもの頼んでいいわ! 私は——」
「香坂」
張り切る桜さんを制す。途端、頭上の電気がバツンと落ちた。
「え? あ? え?」
素っ頓狂な声をあげてキョロキョロと左右を確認する桜さん。やがて暗い俺達のテーブルを照らしたのは、店員さんがゆっくり運んできたバースデーケーキのロウソクだった。
「桜さん、お誕生日おめでとうございます」
「えーっ! え! わっ! すごい! え!」
「せーのっ!」
「ハッピバースデートゥーユー! ハッピバースデートゥーユー!」
こんなに大人数でこんなに大声で、まるで小学生のよう。
でもそれがいい。こんなに喜んでもらえて、こんなに楽しいなら、小学生に負けないくらい全力で歌ってやるんだ。
「みんなありがとう! すっごく嬉しい! クランクアップしたし、最高の1日!」
ロウソクを吹き消すと、店員さんがカット用のナイフを持ってきてくれた。大きめに切った最初の一口を、口を縦にぐわっと開けて食べる桜さん。その様子を、全員でスマホを構えバシャバシャ撮る。
「よし、それでは全員に取り分けたところで、プレゼント贈呈!」
「えっ! そんなのまで用意してるの!」
「まずはキャストの3人から!」
「はい! 撮影お疲れさまでした! おめでとうございます!」
3人が紅茶の詰め合わせ、颯士さんが氷の溶けにくいお洒落なマグカップ、涼羽がイヤホンと、順番に渡していく。
そして最後は、俺の番。
「桜さん、おめでとうございます! 受験や新しい絵コンテに使ってください」
「なにかなー? おおっ、これカッコいい!」
袋を開けて取り出したシャーペンを、彼女は嬉しそうに持ってみせた。そして、その大きな黒い瞳で、まっすぐに俺を見る。
「ありがとね、キリ君。キリ君のおかげで良いロケが出来たから、これまででも一番の映画になると思う。最後まで頑張ろうね!」
焼けてない真っ白な肌、形の整った鼻、小さくて艶っぽい唇。綺麗な顔立ちに見惚れつつ、その言葉に胸が詰まる。
入ったばかりの自分が必要とされているというのは、大声で自慢して回りたいくらいの嬉しさで、「ありがとうございます」と返すのが精いっぱいだった。
「あ、あと、俺、仮じゃなくて正式に映画部入ります。この映画終わっても引き続きよろしくお願いします!」
「葉介、よく言った!」
「ホント! やったねスズちゃん!」
「よろしくね、桐賀君」
今度は俺に拍手が向けられる。
何もかもがうまくいっていて、疑いようもなく幸せで。もはや映画でも使われないような陳腐な表現だけど、心から、このまま時間が止まればいいのにと思った。
「よし、昨日はゆっくり休んだか? 今日から編集に入るぞ」
クランクアップから日曜を挟んだ、6日月曜の放課後。部室で颯士さんが気合いを入れるように、握った拳をグッと胸の前で振った。
来週金曜、17日がコンクールに応募する映画の郵送締切であり、2週間を切っている。撮影という大きな作業が終わったとはいえ、依然として気は抜けない。
「といっても、分担して編集したりすると統合作業とかで効率悪いからな。基本的にはオレがメインで作業するよ。みんなにはどのカットをどう編集するか、意見出しを手伝ってほしい」
言いながら、電源を入れたノートパソコンの上部をトントンと指で叩く。スタイリッシュな薄型のシルバー。改めて見ると、これ結構高いって言われてるモデルだな。
「葉介には後学のために、簡単に編集のやり方説明するからな。というわけで紹介しよう。部員4人とカメラに次ぐ6人目の部員、AEESだ!」
「AEE……?」
「小豆里(A)映画(E)エディット(E)ステーション(S)の略だな」
自慢げに正式名称を話す颯士さんの後ろで、桜さんが「毎回思うけど、なんで映画は日本語なのよ」と苦笑いする。うん、俺もフィルムの方がいいと思う。
「とりあえず隣に座って操作を見てろ。基本的なところだけ教えるから」
横にあったパイプ椅子をガタガタと移動させ、パソコンデスクの前に並んで座る。
「まずは撮影したデータをパソコンに取り込む。いやあ、いつもながら名前つけるのダルかった」
何を言っているのか分からず画面を見ていて、あっと小さく叫ぶ。
動画のファイル名が全て「001_1」や「025_3OK」とカット名に変わっていた。
「こうしておかないと編集とときにいちいち探すことになるだろ。カット数とテイク数、オッケーテイクのときはOKって入れれば分かりやすいんだ」
「え、これ颯士さんが全部やったんですか?」
「そうだよ、マジで地味な作業だ」
SEのCDを幾つか手に取りながら、涼羽が「ホントにお疲れさまです」と労った。これを280カット分……いや、何テイクも取ったヤツもあるから軽く400はやってるのか……確かに大変な作業だ……ん?
「これ、NGのカットも名前付けたり取り込んだりする必要あります? オッケー出たものだけ入れればいいんじゃないですか?」
そう訊くと、彼はチッチッチと指を振って見せた。
「……そう思ってた時代がオレにもあったよ」
「なんですかその小芝居」
哀しそうな笑顔も作って芸が細かい。
「実際にはそれじゃうまくいかないんだ。まあやっていけば分かるよ。お、取込が終わるな。それじゃあ、と……」
続いて編集ソフトらしきものを起動する。程なくして、ボタンとウィンドウがいっぱいの画面が表示された。
「ここで動画ファイルを読み込むと、ほら、帯みたいになって表示されるだろ。これで余分なところを切って順番に繋げていくんだ。葉介もちょっとやってみろよ」
「えっと、ここをこうで……ホントだ、簡単!」
帯をクリックして伸ばしたり縮めたりするだけで、後ろの数秒を消したり戻したりすることができる。直感的な操作で、3つのカットをポンポンとくっつけることができた。
「あとはここに音声ファイルも追加できる。月居の出番だな」
「え、これを繰り返していけばいいだけなんですよね?」
すぐじゃないですか、という俺の質問を見透かしたように、颯士さんはカチャカチャと操作し始めた。
「映像と音声がバラバラに編集できるっていうのが奥が深いところでさ。例えばこれ」
彼はマジックを披露するように、パチンと指を鳴らして再生ボタンを押す。序盤のカット、和志視点で佳澄がこちらを見ている。
『暑くなってきたね。もうすっかり夏本番って感じ。和志は元気にしてた?』
流れた映像に、思わず目を見開く。
彼女の台詞の途中で、映像だけが和志の顔に変わっていた。
「これ、すごいですね!」
「映像だけ途中で切って、次のカットにしてるんだ。言われた本人がどんな表情でいるのか、伝えることができるだろ。シーンによっては音声だけにして暗転させたりな」
ああ、これはどこまでも拘れるな、とすぐに分かる例だった。どこで切るか、どう繋げるかだけでも無数にパターンがある。ちょっとした差でも印象がガラリと変わりそうだ。
「それに、それ以前の問題ってこともあるんだぜ」
「……それ以前?」
「な、香坂」
後ろに立っていた見ていた桜さんが、何やら首を傾げていた。
「葉介と俺が繋いだカット、アレで問題なかったか?」
「ううん、ちょっと気になったかな……カット6、NGのもある? もっかい見ていい?」
予想通りの答えだったのか、颯士さんと涼羽が同時に顔を見合わせる。
「カット単体でオッケーでも、実際に繋いでみたらイマイチってこともよくあるんだ。NGカットが逆転採用されたりとかな」
「だから全部取り込むんですね」
なるほど、編集も結構話し合いが必要そうだな。
そしてそれが、既に楽しみだったりする。
「よし、じゃあ見やすいように、と」
DVDや脚本が置かれている棚の右下から大きな液晶モニターを持ってくる。
それをケーブルで接続すると、俺達3人がノートパソコンを覗きこまなくても済むようになった。
「じゃあオープニング除いて、カット3から順番にやっていこう。一回、カット5まで単純に繋いでみるぞ……はい、こんな感じ」
「ううん……こうやってみるとカット3から映像が平板だなあ。スズちゃん、どう思う?」
「カット4って別アングルの方がいいかもって何テイクか撮ってますよね?」
「あ、確かに撮りましたね。颯士さん、それ見せてもらっていいですか?」
「いや、でも待ってキリ君。上映開始でいきなりアングルがコロコロ変わるのも見てる人疲れるかな……」
「話してる人にフォーカスしてるだけだから自然なアングル切り替えだし、それはないんじゃないですかね?」
「繋ぎ目短くすれば、オレだったら見やすくてテンポ良い作品って感じるな」
ここに来る前は、そして入部して絵コンテができた直後でさえ、こんな風に1つ1つに時間をかけるなんて思わなかった。
今は分かる、どの部活も、これが楽しいんだ。
特訓したパスがうまく繋がるように、練習したハーモニーがぴたりと揃うように、「なんでそこまで」と思えるほど時間と情熱を費やす。その積み重ねが、俺達の「きっと見抜けない」を1秒、1分と形作っていく。
「はい次! このカット」
「……うん、なるほど。これさ、映像だけ早めに切って次のカットに繋げちゃう?」
「ワタシもそれ考えました。早めに佳澄の嬉しそうな表情見せたいなって。夏本さん、一回やってもらっていいですか?」
こうして、1カットに数分、長い時は10分かけていくうちに、窓の外では月と星のデコレーションを付けた夜が降り始めた。
***
「桐賀君」
翌日部室にいくと、すぐに涼羽から声をかけられた。
そういえば今日は七夕。こんなに快晴なら各地でやるイベントもさぞ盛況だろうな、と差し込む陽光に目を細める。
「今日の前半、SEとBGM選ぶの手伝ってくれる?」
「あいよ、音声の仕事だな」
彼女はこくんと頷き、スクールバックからかなり小さいパソコンを取り出した。そこに颯士さんから受け取った機器を付けて、中のデータを移す。
「何だこれ、動画ファイル?」
「そう、ほら」
「おおっ!」
再生されたその映像は、昨日編集が終わったカット。涼羽が音声の作業をやりやすいように準備してくれたらしい。
「こっちをやってる間に、向こうも編集進められるからね」
「そっか。ところでBGMって普通にJ-POPとか使うのか?」
「ううん、コンクールに出す作品は著作権の関係で使えないわ。でもフリー音源のサイトがあるからそこで幾らでも選べるの」
そう言って、WEBサイトを見せてくれる。
曲のトーンや楽器の音、曲の長さで絞り込める検索窓の上に「映画やゲームに自由にご利用ください」と大きく白抜きで書かれていた。
「へえ、楽曲9000曲かあ……9000曲!」
セミの声ですら十数曲だぞ。ピッタリの曲探すうちに夏が終わっちゃうよ。
「そんなにBGM入れるシーンないけどね。全部で6~7曲じゃないかな? でもさすがに1曲ごとに吟味してられないから、シーンごとに候補の曲複数ピックアップして、4人全員で話し合って決める形になると思う」
「オッケー。で、今日は何からやるんだ?」
「一旦SEを仮決めしてるけど、それで問題ないか確認するわ。一番始めは……佳澄と和志の待ち合わせするところ。桐賀君の大好きなセミよ」
「出た、セミ! 俺はこの夏でセミの鳴き声博士になれそうだな」
「頑張ってね、セミマスター」
真顔で応援しつつ、スマホのジャックにスピーカーを繋げる。
「候補はアブラゼミ3ね、映像と同時に流すわ」
そしてまた俺達は、クーラーのない部室で窓を開け放ち、セミの音を大量摂取して余計に暑苦しくなったのだった。
「ふう、やっぱりBGM決めるの難しいな。何回も聞くとどれも合ってるように思えてくる」
「分かる、そういうときは一旦他のことやってリフレッシュした方がいいよ」
昨日編集が済んだところまでは音選び終了。
BGMも、少しだけ納得いっていない部分もあるけど、これ以上は冷静に判断できそうにないのでタイムアップ。一応、候補になりそうなものは数曲見つけられた。
「テレビ局が絡んだりしてない邦画とか、学生映画とか見ると参考になるかも。低予算だからフリー音源使ってることも多いしね」
「へえ、涼羽も結構見に行くのか?」
「たまにね」
返事しつつ、パソコンをバッグにしまう彼女。片付けが終わり、桜さんと颯士さんの編集会議に加わった。
「次は、と。このカットだな」
モニターに映されたのは、佳澄と和志が向かい合って座っているシーン。お互いの部活の話になり、佳澄が以前、和志と陽菜が一緒にいるのを見たことを思い出してしまう場面だ。
「この次の回想シーンとは暗転で繋ぐことになってた。これで違和感ないか確認してくれ」
暗転を見ながら、桜さんが「んん……」少しだけ首を捻る。
「大丈夫だと思うけど……キリ君とかどう?」
「え、俺ですか?」
急に振られると緊張する。でも、映像の見方が少しずつ変わっているのか、以前と違って、自分の意見がはっきりと脳内に書き出されていた。
「んっと、佳澄ってこの時点では告白する気まんまんですよね。だから、いきなりこんなに暗いトーンで回想するかなって気がします。ちょっと引っかかるくらいで、でもここからだんだんその不安が大きくなると思うんで、ここは暗転じゃなくて白の方がいいかもなあって」
束の間の静寂。どんなリアクションが返ってくるか、自分でも分かるほど鼓動が早まっている。
「うん、確かにそうかも!」
監督が、ゆっくり頷いた。
「ソウ君、やってみてもらえる?」
「おうよ。こうして、と……はい、これでどうだ?」
同じシーンが流れる。暗転の代わりに、ホワイトアウトで回想へと遷移した。
「こっちの方が良さそうね!」
「ワタシも、こっち好きですね」
「じゃあホワイトアウトでいこう。キリ君、ナイス意見!」
「葉介、グッジョブ!」
顔が熱くなりそうな照れを隠すため、ペコッと小さく頭を下げて「うす」とだけ返す。
自分なりに考えた意見が、この映画を少しだけ変えた。観客が見る映像を直接味付けできた。それは、これまでの部活や習い事でも味わったことのない紅色の興奮だった。
「よし、今日はここまで!」
18時半。太陽が最後の輝きを放ち、窓にオレンジのグラデーションを塗りたくっている。「あっつー」と煽ぐ下敷きの風で、桜さんの黒髪がふわりと揺れた。
「ソウ君、映像の元データ、前半のだけでいいからここに入れてもらっていい?」
パソコンに外付けする端末を颯士さんに渡す。え、終わりじゃないの?
「家で見てみるよ。ちょっとペース上げないといけないし、先にじっくり考えておきたいしね」
その言葉に、消えかけていた——見て見ぬをフリをしていた——炎が蘇る。一つ、ちょっとだけ納得いってないBGMがあった。リフレッシュした頭で、もう一度候補を考えてみようかな。
「俺、少し残って曲やります。涼羽、2曲目のアレ、選び直してもいいか?」
「ん、いいよ。ワタシも家で4曲目少しやろうと思ってたし」
「キリ君もスズちゃんもやる気ね!」
イシシと歯をこぼす桜さんに、心の中で「誰のせいだと」とツッコむ。
この人と一緒にいると、妥協している自分をバシンと叩きたくなる。自分を引っ張り上げてくれる、尊敬できる先輩に出会えたことは、俺の高校生活に突然姿を現した宝物だった。
「ほいじゃ、先に帰るね。キリ君、また明日!」
「葉介、お疲れ!」
まずは先輩2人、それに続いて涼羽が赤いヘッドホンを準備しながら「じゃ」と帰っていった。
しばらくこの部室は俺だけの世界。スマホでフリー音源のサイトを開き、検索しながら佳澄と和志の距離感に合いそうな曲を選んでいく。
ふむふむ、さっき候補に選んだ曲も良かったけど、こっちもアコースティックギターの音色が心地良いな。カフェのシーンと繋がってるから、ボサノバっぽいのがマッチするかもしれない。よし、やっぱりどっちも候補に入れよう。
「映像、スマホで見られるようにしておけば良かった……あれ?」
ふと視線をあげ、テーブルに置かれていたパステルピンクの物体に目を留める。布製でスリムなそのペンケースは、桜さんのものだった。
「よし!」
バトンのように握って、部室を飛び出す。ひょっとしたら間に合うかもしれない。
あの3人、帰る方向がバラバラのはず。うまく追いつければ、桜さんと少し話せるかも。
何の根拠もないけど、間に合う気がする。今は何となく、人生が上向いてる気分。
あと2週間弱で完成、それが終わったら夏休みだ。
部活はあるのかな。会えるといいな。
こうして願望を思い浮かべていると、部活に没頭して意識しないようにしていた自分の想いが、ゆっくりと輪郭を帯びていくのが分かる。
階段を一段飛ばしで降り、1階へ。シューズロッカーに向かって廊下を走っていると、途中の窓から桜さんが見えた。駐輪場から正門へ向かっている。
ほら、やっぱり間に合った。
「桜さ——」
気が逸って窓を開ける前から名前を叫ぼうとしたその時、慌てて自分の口を押さえた。
誰かが一緒にいる。自転車を押しているその相手は、颯士さんだった。
なんで颯士さんと一緒に駐輪場に? 桜さんはバス帰りなのに?
そんな疑問は、あっという間に氷解していく。
右手でハンドルを上手に固定して、片手で自転車を押す颯士さん。その左手が、彼女の頭を撫でている。
辛うじて残っている西日のせいで、2人の楽しそうに笑う表情がはっきり見えた。
やがて彼は手を下へ降ろし、彼女の右手を握る。
そのまま、こちらに気付くこともなく、去っていった。
「あ…………」
それ以上、声は出ない。その場にへたり込んだりもしない。
ただただ、もう一人の俺が「何してるんだか」と心臓を握っているかのように、胸がぎゅっと締め付けられた。
どんなルートを辿ったかも曖昧なまま部室に戻り、ペンケースを元に戻して、力なく鞄を持ち上げる。
そういえば今日は七夕だったなあ、短冊にお願いしておけば良かったなあ、なんてバカなことを思いながら、脚本も絵コンテも置き忘れて、気が付いたら駅に向かい、家へ戻っていた。
自分の部屋に帰ってきたものの何もする気になれず、常夜灯の僅かなオレンジが照らす中、椅子に腰かけて項垂れる。
最低限の迷惑はかけないようにと「体調が悪くなっているので、明日学校に行けないかもしれません」と一言入れるのが精いっぱいの思いやり。
その後はずっと、影で塗りたくられた壁を見ていた。
ずっと、この感情に名前をつけることが怖くて、踏み込まないようにしていた。
でも今、その正体がはっきり分かる。そして、気付いたところでどうしようもないことも。
これが恋だと知ったときには、もう終わっていた。
7月8日。締め切りまで10日を切っているこのタイミングだけど、部活を休んだ。
本当は編集の相談に混ざらなきゃいけないけど、逆に言えば「混ざる」だけなので、俺がいなくてもあの3人ならできるはず。もともと俺がいなくたってやっていた。5月の状態に戻るだけだ。
食欲もなく、本もスマホも見る気にならない。全てがどうでもよくなってしまい、無気力なままベッドに溶ける。
「ふう…………ふうう…………」
深呼吸は、どこか溜息にも似ている。余白だらけの頭に、鹿威しに水が溜まっていくように、次第に様々な想いが溢れてきた。
まずは、颯士さんへの嫉妬。浅ましいと分かっていながら、消えない妬みの炎が煌々と燃える。
「なんであの人なんだ」とは思わない。カッコいいし、コミュ力だって抜群、映画への情熱も滾っている。惹かれて当然だと、くっつくのが自然だと、そう素直に思える。
それなのに、俺の頭がどうにもならない「たられば」を繰り返す。俺がもっと早く映画部を知って入部していれば、俺の転校が1年の4月で部活紹介を見ていたら、俺が中学の頃から脚本を書いていれば、俺が少し早く生まれて一緒の学年だったら。バカみたいな空想で、あったかもしれない未来を夢見る。
でも、そんな表面の感情はすぐに剥がれる。訪れるのは、悲しさ、そして、寂しさ。
告白のチャンスもなかった。「言わなきゃよかったより、言えば良かったの方が辛い」なんて言うけど、俺はどっちにもなれなかった。
近くに好きな人がいる、それがもう十分に幸運なことで。その人に自分のことを好きになってもらうなんて単純なことがどれだけ難しいか。そんなこと、分かっているのに。
それでも、ペンケースを届けようとして走ったあの時、恋を自覚しかけたあの時からほんの僅かな間、願ってしまった、求めてしまった。ずっと一緒にいたいと、ただそれだけの、直情的で取り繕いようのない短い恋煩いだった。
そして、さらに奥に眠っていた感情に手を伸ばす。
それは、今になって桜さんへの好意に気付いた自分への内省。
自身と向き合っていたら、きっともっと早く気付けたはずなのに。あまりにもギリギリで、幕切れも突然で、浮かれる時期すらなかった。
その理由も、こうして己を俯瞰で見るとよく分かる。
自分は、恋愛から逃げていたのだ。もういない愛理への罪悪感、新しい人をまた失うかもしれないという恐怖感。そうしたものに衝突し、心が沈んで深みに嵌まることを恐れ、「考えること」自体を避けていた。
部活は一歩踏み出せたけど、こっちはスタートラインにすら立っていなかった。
桜さんの顔が浮かび、愛理の顔が出てくる。脳内のもう1人の俺が「真剣に向き合わないからこうなるんだ」と失望の目で睨み、3人目の俺が「誰だって怖いことには対峙したくないんだよ! そんなに悪いことかよ!」と怒鳴り散らす。
惨めなほどぐちゃぐちゃな頭の中を世界から隠すように、全身にタオルを被った。
***
結論のない思考をぐるぐると巡らせ、狭い部屋で呼吸だけを繰り返しているうちに、いつの間にか西日が強くなっていた。17時半を少し過ぎたところ、部活も賑やかにやっていることだろう。
休むことへの抵抗もあったけど、どうせ参加しても今日は使いものにならない。
いいんだ、もういい。俺がいなくても、あの映画は完成する。撮影は終わったし、ロケハンも終わった。俺の役目は終わった。
撮影、ロケ、石名渓谷。きっかけはこれだったなあと、目の前のスマホのホーム画面を開く。LIMEで3人から「お大事にね」と連絡が来ていて、その優しさが棘になって胸を刺した。
写真を眺める。最近の撮影風景を撮ったものから過去に遡っていくと、桜さんに見せた石名渓谷が見つかった。今まで見返したのはこの辺りまで。それより前は、愛理と過ごした中学のものは、躊躇してしまって見返せていない。
ふと、もうなんでもいい、見てもいいだろうという思いに駆られた。愛理の事故の原因だって、一応自分なりの結論は持てたし、見たってこれ以上何を失うでもない。底まで沈んでいる今だからこそ、怖がりすぎずにいられる。
アルバムの画像をスワイプする。あの時から2年、初めて、昔の写真まで辿り着く。
怖い噂話も経験したら大したことがない、なんてとの同じように、実際には大した写真はなかった。文化祭ではしゃいでいる俺、体育祭で仮装しているクラスメイト、休み時間の悪ふざけ。そんな日常が切り取られている。
そして更に遡っていくと、2人で渓谷に行ったときの写真が出てきた。久しぶりに見る愛理の顔は、やっぱり記憶のままで、黒髪のマッシュショートに丸顔、大きな目と口の犬っぽい、可愛い顔だった。
「…………あれ?」
一覧で見ていくと、渓谷の写真に混じって、動画があった。サムネイルは愛理になっている。こんなもの、撮っただろうか? 記憶にない。
おそるおそる再生してみる。そこには、俺のスマホを手に持ち、渓谷の土手で自撮りしている彼女が映っていた。
『葉介が川で遊んでる間に、勝手に借りてます!』
あいつ、こんなことしてたのか。当時も写真見返すこと少なかったから、全然気が付かなかった。
『あのね、葉介』
言葉に迷うようにやや躊躇った後、彼女は画面越しにペコッと一礼した。
『いつも映画でいっぱいいっぱいで、あんまり遊べなくてごめんね』
『でも、映画作るの、すっごく好きなんだ。みんなで騒ぎながら撮るのも楽しいけど、自分なりの世界を表現するのが楽しいからね。いつか葉介にも知ってもらえて、伝わったらいいなあ』
そして最後に、浮園愛理は、まだ命が終わることを知らない彼女は、頬を掻きながら冗談っぽく笑ってみせる。
『もし、愛想尽かしたら、他の人のところに行ってね、なんて。またね!』
ポタッ、と数滴の水に濡れただけで思うように操作できなくなる。スマホってのは不便だ。
タオルケットで顔を拭き、ガバッと立ち上がる。よれた部屋着用のTシャツを脱ぎ、制服のシャツに袖を通す。
今から行っても、着く頃には部活は終わっているだろう。だから別に明日でもいいのに、そのはずなのに、忘れてきた脚本と絵コンテを取りに行きたい、すぐに手元に置きたいという衝動が自分を突き動かす。
この喪心の中で、直接関係のなかったもう1つの想いに、嘘で固めたフタをするところだった。
俺も、桜さん達と一緒に映画を完成させたい。
始めは、愛理のことをもっと知れればと思って参加したけど、今はもう、俺自身も映画制作を好きになっているから。
「学校行ってくる!」
親の返事も聞かずに家を飛び出し、夜の入り口の町を走って駅まで向かった。
「誰もいない、か」
19時ちょうどの南校舎3階、部室にはダイヤル錠がかかっていた。もしみんながいたら何て言い訳をしようか、電車に乗っている間幾つか考えていたけど、杞憂に終わったことにどこか安堵する。
電気を点けて中に入ると、俺の脚本と絵コンテは長テーブルの端に揃えて置かれていた。その横には、編集に使ったのか、渓谷の写真をプリントアウトしたものが数枚。
本当にこの渓谷には振り回されてばっかりだな、と思いつつ、俺はさっき見た彼女の動画を思い出していた。
愛理、君の動画をもっと早く見ておけば良かったよ。
そうしたら、もう少し早く、俺は動けていたかもしれない。自分から興味を持って映画制作部に入ったかもね、吹っ切れて他の人と恋愛もしたかもね。
でも、ちょっと遅くて、縁でこの部活に入ったけど、気付いたときには失恋だ。
君のときも、桜さんのときも、俺はいつも肝心なときに近くにいなかったり、間に合わなかったりして、何やってるんだろうって感じで。
部活からも色恋からも、君からも逃げてしまって、タイミングを逃してばっかりだけど、この映画はちゃんと作るよ。
そして、使い方は違うけど、俺が勝手に引いた"イマジナリーライン"を越えて、もうどこからも逃げない。
「ふうう……すう……」
今日一番大きな深呼吸をすると、頭が少しだけ冴える。随分カッコ悪い自分の中にいる素直な本体と、しっかり向き合える。
乗り越えなきゃいけない。明日には何気ない顔で桜さんと接さなきゃいけない。これも一つのイマジナリーラインってヤツかな。越えなきゃいけないものがたくさんある。
明日は乗り越えよう。明日でいい、今すぐに乗り越えなくていい。
だから、今日は泣こう。うん、よし、思いっきり泣こう。
「ふ、う、う……うぐ……うああ…………ああああ…………」
自分を正当化して、もっともらしい理由をつけて、電気を消して座り込んで下を向く。心の揺らめきは涙腺に繋がり、呼吸は嗚咽へと変わった。
さっきは数滴で済んだのに今回の涙は簡単には止まりそうになくて、雪山のゲレンデのように頬にシュプールを残していく。
愛理のこと、桜さんのこと。2人の顔が交互に浮かんでは、ない交ぜになった喪失感と寂寥感が喉までせり上がり、堰を切ったように泣く。
一緒にいたかった、好きって言いたかった、もっと話したかった、付き合いたかった、悲しい、寂しい。
「うあああ……あ、あ………」
ガラッ
不意に、部室のドアが開く。バッと後ろを振り向くと、そこに立っていたのは涼羽だった。
「す、ずは…………どしたの?」
すぐに顔を擦って、目一杯に平然を装う。
「近くの店でSE集レンタルしてきたから、帰る前にここで聞こうかなって。家にCD流せるの無いし」
月明りで俺の目は見えるはずだし、そもそも暗い中で座っている時点でおかしい。声も揺れてるから泣き腫らしているのはバレてるだろうけど、彼女は叫ぶでも驚くでもなく、冷静に話してくれた。
「そ、っか」
「そっちこそどしたの?」
「いや、俺は、その……」
しどろもどろになる。もう何を言い訳しても変だし、どう足掻いてもカッコ悪い。
「……帰ろうか?」
「いや、気にしないでいいから。音声な、俺も選ばないと」
動揺を隠せないまま、必死にBGMを選ぶふり。手元にあった絵コンテを手繰り寄せ、スマホのロックを解除する。
「…………そう」
その時、カポッと頭に何かを被せられた。
「……え? あ?」
頭頂から耳まですっぽり覆っているそれは、いつも彼女が付けているヘッドホン。彼女はといえば、別のイヤホンを自分のノートパソコンに差して音を聴こうとしていた。
ヘッドホンから流れているのは、雨音。ただの、雨音のSE。シトシトと降る音が、ノイズのないLとRの世界に響く。目を瞑ると、そこはひたすらに暗闇の雨の空間だった。
雨が降ってきた日、石名渓谷で急遽雨宿りのシーンを追加したのを思い出す。石名渓谷のロケハンを桜さんと2人でしたのを思い出す。石を渡ろうとした彼女の手を、繋ぐか迷ったことを思い出す。その繋ぐ相手は、俺じゃなかった。
そして、雨の渓谷は2年前、桜さんと同じように映画が好きだったアイツを飲み込んでしまった。きっと新作の準備に夢中なまま、どんなアングルで河原を映そうか、最後までワクワクしながら川に入っていた愛理を。
「……ふっ…………ふっく…………ひっ…………」
涼羽に見つかって目の奥に押し込めていたはずの涙が勝手に零れてくる。隣にいる彼女は、イヤホンをはめたままずっと画面を見ていて、何も言わない。敢えて聞かないで、放っておいてくれてるのかもしれない。
「うあ……ああ……ああああ………」
さっき泣こうと決めた分、簡単には止まりそうにもなくて、今はこの状況に甘えてもいいと自分を許して、ずっとずっと、泣いていた。