「それじゃあ、また明日ね!」
ファミレスの入り口で解散したのは19時前。すっかり薄暗くなった街で、近くの個人商店はシャッターを下ろす準備を始めている。
颯士さんが自転車で、桜さんと月居は別々のバス停だったな。俺は電車だから向こうに……
「あれ?」
月居が俺の少し先を歩き始めた。俺が声を出したことに気付いてこちらを向く。「家こっちじゃないよね?」という質問を読み取ったらしく、リュックを開けようとしていた手を止めた。
「書店行きたくて」
「あ、ああ、そっか」
そして前に向き直り、バッグからヘッドホンを取り出す。それを見ながら、ふと、ある思いが過り、大急ぎで脳内で文章を練っていく。
これは、あれを伝えるチャンスじゃないか?
言いたいことがある。なあなあにしないで、言わなきゃいけないことがある。
「月居、あのさ」
5歩前、ヘッドホンを耳に当てようとしていた彼女を呼び止めた。温度の低い風が、明るい栗色の髪をふわりと撫でる。
「今更なんだけど、先週のSEの、アレ、ごめんな」
彼女がチラと振り向く。目が合って緊張が増したせいで、続きの言葉が喉に張り付く。でも、ちゃんと謝らなきゃ。
「正直、あの時は本当に、なんていうか……どれでもいいじゃんって思ってた。音声だけじゃなくて、台詞や設定の一つ一つの細かい意味とか理解しようともしないで、フィーリングで全部できてるって勘違いしてた。でもあの後、読み込んでいって、みんながどれだけ脚本に潜ってるか分かったし、その……俺もそうなりたいって思ったよ」
考えながら話す俺の言葉を、月居は黙って聞いている。
すぐに返事を被せてくるタイプじゃなくて良かった。焦らず話せる。
「SEも自分なりにやってみた。難しいけど、脚本から想像を膨らませて選ぶの、楽しかったよ。それを『どれでもいい』なんて、ひどい言い草だった。だから、その、ごめんなさい!」
言い切って頭を下げる。道を通る人に見られるのは恥ずかしかったけど、ずっと引っかかってたこのことを言えないままモヤモヤしている方がずっと嫌だった。
「……大丈夫よ」
頭の上から聞こえてきたのは、ポツリと囁くような静かな声。
頭を上げると、月居は穏やかな表情でフッと鼻から息を吐く。
「SEの話、桜さんからも聞いてたわ。それに、脚本修正の話し合いにもちゃんと混ざってたし、ちゃんと読もうとしてたの分かってる。だから、もう怒ってない。それに」
そして、口を真一文字に結び、目線を少し下げた。
「ワタシこそごめん、あの時あんな言い方しちゃって。夢中で脚本読んでたから、神経昂ってたのかも」
「あ、いや……元はと言えば俺の方だから」
謝らせる気なんてこれっぽっちもなかったので、激しく両の手を振って打ち消す。やがて彼女と再び目が合い、お互い少しだけ顔を綻ばせた。
「撮影、よろしくな。色々教えてくれ」
「うん、分かった」
またね、と言って、ヘッドホンを付けて本屋へと駆けていく。
5分くらいの短いやりとり。だけど、心のしこりが取れると体も随分軽くなるらしく、俺は大きなストライドで結構な距離のある駅に向かった。
翌日の放課後。昨日のファミレスから一転、今日は学校での部活。ただし、部室ではなく、北校舎1階の集会室に集まっていた。
理由は単純、部室には人が入りきらないから。
「改めて、今回は『きっと見抜けない』の撮影に協力頂き、ありがとうございます」
机を少し前に移動し、椅子だけを7つ、円状に並べる。俺達4人に加え、役者を担当する3人がソワソワしながら座っていた。
小豆里高校の演劇部は40人以上の部員を有する大所帯。役者の他、大道具・小道具、音声・照明など、幾つかの班に分かれている。
役者が一番多いけど、登場人物が10人以下の作品をやることが多く、8~10人の3チームに分けているらしい。今回の3人はそれぞれ違うチームだからお互いもそんなに面識ないらしいよ、と桜さんが事前に教えてくれた。
「えっと、ソウ君とスズちゃんは打診しに行ったときに1回会ってるよね。キリ君は……」
「あ、脚本と絵コンテ渡しに行ったときに」
そうね、とパンッと手を叩く桜さん。
「それじゃ、今日が正式な顔合わせってことで。キャストを担当してくれる、演劇部の役者陣、2年生3人です! もう全員で脚本の読み合わせとかしてくれてるって!」
彼女は舞台挨拶の司会さながら、立ち上がっている3人を正面から撫でるように手を動かした。
同じ学年だけど、知り合いはいない。月居もいないらしく、人見知り気味に会釈していた。
「簡単に自己紹介お願いします!」
「じゃあ私から」
まずは、一番右にいた黒髪ショートの女性がペコリとお辞儀する。
飛び抜けた美人ってわけじゃないけど、大きい目、高い鼻、よく通るやや低めの声で、全体的に凛とした雰囲気を持っていた。
「えっと、佳澄役の藤島です。映画の主演なんて緊張しますけど頑張ります、よろしくお願いします!」
続いて真ん中にいた黒髪の男子が「次、俺だな」と小さく手を挙げた。
颯士さんと同じくらいの短髪だけど、ワックスで持ち上げていないので、朴訥とした印象に見える。
「和志役の永田です。劇の方でも主演級は経験ないので、貴重な経験させてもらいます!」
そして、これまでの2人に一番大きな拍手を送っていた、最後の1人。
背は藤島さんよりちょっと低め。ビターチョコレートみたいな色のミディアムヘア、顔立ちも一番派手、というか華やかだった。
「後輩の陽菜ちゃんやります、雪野です! あ、名前みたいですけど苗字ですよ。結構面倒な女子の役っぽいんで、魔性スキル上げてやっていこうとおもいまーす!」
「いよっ、魔性!」
颯士さんが歌舞伎の大向こうのような掛け声をかけ、教室は一気に笑いに包まれる。
ああ、キャストは最後の年の3年生を除いた中から、桜さんが直接顔見て選んだって言ってたっけ。3人とも、作品の役にとても合っている。
「続いてうちの部員ね」
桜さんが俺達を順番に紹介してくれる。「今回キーになるロケ地を教えてくれたの」と一言添えてくれたのが、ちょっとくすぐったかった。
「最後に私、香坂桜。脚本・監督・演出を務めます。ここから1ヶ月、この7人で最高の映画を撮れるよう、精一杯やっていくので、よろしくお願いします!」
全員からの大きな拍手。部員4人とキャスト3人、このメンバーで、俺は初めて映画を創る。
ふと、半月前を思い出していた。この集会室で、広報委員会に参加していたっけ。
あのとき、桜さんと話していなければ、スマホで渓谷の写真を見ていなければ、そもそも、桜さんが旅行スポット特集を提案していなければ、俺は今ここにいないで、どこかで本でも読んでいただろう。
世界はちょっとしたことで軌道を変えて、自分の想像が及ばないところまで広がっていく。俺の世界の果てはどんどんその突端を伸ばして、愛理が好んで居着いていた場所にまで届きそうだった。
「…………」
「どうした、葉介?」
「あ、いや、なんでもないです。楽しみだなって」
楽しそうな顔を張り付けたままフリーズしていた俺を気にかける颯士さん。
彼女と少しオーバーラップしたことで、脳内では、幾度となく繰り返していた1つの疑問がまた鎌首をもたげていた。
なぜ愛理は事故に遭ったのだろうか。あの時彼女が準備していた作品には、川の中を映すシーンなんてこれっぽっちもなかったのに、なんでわざわざ靴を脱いで、自分から川に入ったんだろうか。
あまりにも理由が分からず、少しの間、学校で自殺説が流布されたこともある。そんなバカなことがあるものか。映画にあんなに打ち込んでいた愛理が、自分からそんな選択をするはずがない。
でも、世の中に「絶対」などなくて。ひょっとしたら、何か抱えていたのかもしれない。俺が自分の話ばかりして、彼氏らしいコミュニケーションもできなかったときに、芸術肌だった彼女が自分1人で持て余していた鈍色の想いがあったのかもしれない。
そこまで思い描くと、自分を責める自分と、それを否定したがる自分というアンビバレントな2つが混じって思考はどんどん深みに嵌まってしまい、取れそうなほど首を振って現実に立ち返る。
考えても答えの出ないものは一旦脳内の小さな箱にしまおう。今は、目の前のことに集中しないと。
「ではまず始めに、撮影のスケジュールと、それぞれの予定ロケ地を説明しますね」
手書きのスケジュール表のコピーを配り、全4回の撮影工程を説明していく。キャストの3人も真剣な表情になり、メモを取っていった。
「……と、まあこれはあくまで予定なので、天候や撮影によって変動します。集合場所などは直前に連絡回しますね。で、差し当たって今週末の撮影ですが、天候が良ければ土曜にやりたいと思います。今のところ晴れそうですけど、明日の昼に天気予報確認して、最終連絡します」
雪野さんが「明後日かあ、緊張する!」と宙に浮かせた足をバタバタさせる。それを見た藤島さんがクスクスと、握った右手を口に当てた。
「それじゃ今日の本題、脚本と絵コンテの話! ここからはフランクにいきたいから、敬語はやめるわね」
その瞬間、役者3人の表情が変わる。
藤島さんと雪野さんはギラギラしているようにも見える楽しそうな表情で脚本を捲り、永田君は心まで見通すかのように目を見開きながらボールペンを取り出してカチッカチッとノックした。
「読んでて気になったところ、何でも聞いてね」
3人ともすぐに手を挙げる。一昨日の夕方に配ったばかりなのに、相当真剣に読み込んできていることが窺えた。
「まず藤島さんから」
「カット25なんですけど、佳澄が和志に気づかれないように溜息つきますよね。このカットって、どんな表情でやればいいですかね? 絵コンテにも指定がなくて」
「ああ、そこね。んっと……イメージしてたのはちょっと怒ってる感じ。怒ってるっていうか、むくれてる、くらいかな。『もっとこの服のこと食い付いてよっ』って」
「そっかそっか、悔しい感じですね」
藤島さんだけでなく、他の2人も、そして俺達4人も、絵コンテに書き加えていく。どんどん情報が増えていき、この紙の中にある世界が色を帯びて、俺達からも手が届くようになっていく。
「次は……雪野さん」
「はい! 陽菜のところもあるんですけど一旦置いておいて、一番気になったところは、と……」
ゆっくりとノートを見返す。やがて「あ、そうそう、カット234!」と自分の冊子を指差した。
「ここ、和志が『よし』って小さく呟いてますけど、ここって黙ってた方が良くないですか? 実際に声出す人いないだろうし、リアリティーに欠けるっていうか」
彼女の質問に面食らい、思わずカットを探す手を止めてしまった。
雪野さんが演じる陽菜は回想シーンのみの登場で、最後の方は出てこない。なのに、こんな終盤の絵コンテまできっちり読み、和志のカットに関して質問している。
「さすが演劇部! ここね、迷ったのよ。和志が自分自身を鼓舞するために意図的に声を出したって設定にしてるの。自分に向けたおまじないみたいな感じね。ただ、リアリティーが下がるのは間違いないからバランスが難しいわね……ソウ君、どう思う?」
「複数パターン撮ってもいいと思うぞ。拳をぎゅっと握るとかでも、これから和志がギアを入れるってところは伝わると思うから、台詞とアクションを両方撮って、映像見て決めるとかな」
「ん、それがいいかもね、ありがと」
役者ってすごい。本気でみんな、演じに来ている。だからこそ俺達も、全力で舞台を用意しないといけない。
その覚悟を自身に言って聞かせると、煙でいっぱいになった実験中のフラスコみたいに、胸に昂揚感が満ちてくる。
「永田君、質問お願いできる?」
「あ、はい。カット189、佳澄と2人で森にいるシーンなんですけど……」
質問に答えていき、各自が特に気になる部分をその場で演技練習して、木曜の夕方は瞬く間に過ぎていった。
「さて、昨日まで良い感じだったけど、どうかな……お願いっ!」
金曜日の昼休み。飲んだかと思うほど超高速で弁当を食べ終え、部室に来た。
4人で集まり、おしくらまんじゅうしながら部長の小さいスマホ液晶を見ている。
更新したのは天気予報のサイト。明日の天気を全員で確認するために、この場に集まった。
「はい来た!」
「どうだ香坂! よく見えねえ!」
後ろで颯士さんが首をひょこひょこ左右に動かしている。
ややあって、一気に花弁が開いたかのような桜さんの明るい声が響いた。
「…………終日晴れ! 降水確率、午前10%、午後0%!」
「っしゃおらあああああ!」
「やったああああ!」
勢いに任せて颯士さんと3回、桜さんと2回ハイタッチする。月居も小さくガッツポーズを取っていた。
「じゃあ撮影は明日13日に決定! まずは学校内のシーンからだね。キャストに知らせないと」
素早く7人のグループトークに連絡を送る桜さん。それが終わると、俺達に向き直った。
「今日の部活、スズちゃんとキリ君は休みにするわ」
「えっ、休みですか?」
「私とソウ君で撮影場所の確認やるから。この作業はそんなに人数要らないしね」
「でも……」
撮影前日なのに何も手伝えないなんて、という思いがはっきり顔に書いてあったんだろう。彼女もまた、気持ちは分かるよ、と言わんばかりに寂しげに微笑んで見せた。
「スズちゃんとキリくんは、しっかり身体休めてほしい。キリ君も、初めてのことだらけでバタバタだったと思うけど、明日からもっとバタバタだから。今日の夜はゆっくりして、心を落ち着かせるといいわ」
「分かりました。桜さんも夏本さんも、体気を付けてくださいね」
隣の月居にこう言われたら、俺だけ抵抗するわけにもいかない。「俺も全力で休みます!」と返すと、「葉介、全力でやってどうするんだよ」とツッコまれた。
「じゃあまた明日! 何かあったら連絡してね!」
そこで臨時の部活は解散。全員で部室を出て、渡り廊下渡って北校舎へ。3階に上がっていく先輩2人を見送り、月居と2人でそれぞれの教室に戻る。
「…………」
「………………」
そうだった。月居は別に喋るのが嫌いってわけじゃないんだけど、自分からはそんなに話さないんだよな。俺から話題を出さなきゃ。
「明日、晴れて良かったな」
「うん、良かった」
ダメだ、会話が続かない。苦悩しつつも嘆いていると、彼女がパッと目線をこちらに向ける。
「撮影、楽しみね」
「だな、ワクワクするよ。俺、ホントに初めてだから!」
彼女は俺の食い気味な返事にやや気圧されながら、小さく首を縦に振った。
「それにしても、桜さんタフだよなあ。脚本書いて、すぐに絵コンテ用意して、今度は撮影だろ。ずっと気を張りっぱなしだもんな」
「体力ももちろんだけど、エネルギーとか集中力がすごいと思う。映画にかける情熱っていうか」
「そう、すごいよ!」
あまりの同意っぷりに、自分で思っているより大きな声が出てしまった。
「脚本、細かいところまでしっかり考えて書いてるし、絵コンテだってあんなに大変なの一気呵成で仕上げるなんて信じられないよ。でもって、部長として制作スケジュールもちゃんと管理してるし、あんなに綺麗なのに——」
そこまで口に出して、急に会話を止めた。あれ、何か普通のトーンで変なこと言ってしまったような……。
「………………」
月居は、無言のまま鼻でふうっと息を吐いた。その溜息の意味は何だろう? 何か呆れられたかな?
「と、とにかく、明日はよろしくな!」
すべてをテンションで包み隠してその場を立ち去ろうとする俺に、月居は静かに呼びかけた。
「桐賀君」
「んあ?」
「……撮影、楽しいから、期待してていいと思うよ」
微かに口元を緩めた彼女。俺も思いっきり歯茎を見せて笑顔を作る。
「おう、期待しておく」
彼女の教室の前で別れる。ああ、月居も、いいヤツだなあ。
「よし」
興奮で浮き上がりそうな体を、足を前に踏み出して地面に押さえつけながら進んでいく。
明日が、撮影初日。待ちに待った、クランクイン。
「……おはよう!」
特に意味もなく、自分自身に向かって挨拶してみた。
6月13日、土曜日。ピピピピとうるさかった時計を見ると6時、平日よりも早い時間。
二度寝しないよう、起き上がってカーテンを開ける。黄色と白の混じったような朝日の光が目に飛び込んできて、昨日の天気予報が間違っていなかったことを教えてくれた。
すぐにTシャツとジーンズに着替えて出発準備。リビングに行き、テレビをつける。旅番組でおいしそうな海鮮丼を食べているのを見ながら、調理時間1分の卵かけご飯。
「いってきまーす」
親が起きるのなんて待っていられない。入園式を控えた3歳児みたいなワクワクを詰め込んで、玄関を飛び出した。
ついに撮影だ。映画の撮影シーンとか、テレビで何度か見たことあるけど、オフショットとかワイワイはしゃいでて面白そうだったもんな。ドラマのNG集でも「ごめん、ミスっちゃったー」なんて言ってスタッフの爆笑も起きてたし。
今日はずっと笑っていられる予感。1日目、張り切っていこう。
「おはようございます!」
「よお、葉介!」
「おはよう、桐賀君」
学校に着いたのは、いつもの登校より早い8時。集合場所の正門で、撮影機材らしき道具を地面に置いて話していた颯士さんと月居に挨拶する。
颯士さんは薄ベージュのポロシャツ。もともと180あるのに、カーキ色のチノパンが細身なので余計に足が長く見える。
月居は7分丈くらいの黄色いダボッとしたTシャツ。下は俺と同じようなライトブルーのジーンズで、夏の女子高生って感じだ。
「あれ、桜さんはまだですか?」
「学校の中を見てくるってさ。そろそろ戻って——」
「キリ君、おはよう」
爽やかな朝をそのまま音に乗せたような、快活な声が響く。監督が、正門に向かって走ってきた。
「おはようございます」
「キリ君、ただでさえ遠いのに、朝早いのごめんね」
「いえいえ、全然ですよ」
ボタンで胸元まで留められるようになっている赤のプリントTシャツに、チェック模様がおしゃれなライトグレーのガウチョパンツ。明るいトーンの服装は、ギラギラとエネルギーを灯した目によく似合う。
「キャストは30分後に来るから、今のうちに予定確認するわよ」
今日のスケジュールのおさらい。まずは学校で高校の回想シーンを撮ってから、外に出てメインの大学生のシーンを撮影する。
移動含めて、17時過ぎまでぎっちり予定が入っている。今日で70カットくらい進めないといけないんだもんな、ハードになるわけだ。
「流れはこれでいいわね? じゃあ最初に撮る教室に行きましょう」
「あ、俺これ持ちますよ」
スパイ道具でも入っていそうな銀色のアルミケースを肩から掛け、シューズロッカーに向かう。私服で学校に入るのは何か変な感じ。
「誰もいませんね」
「まあこの時間だしな」
他の部活もそんなには来ないだろうな、と続ける颯士さん。防犯の関係で、休日に校舎に入るには事前に学校に申請しないといけない。「ヤバい、申請書!」と昨日の昼休みに慌てていた桜さんを思い出す。
「じゃあまずはここね」
入ったのは3階、3年生の教室。桜さんのクラスらしい。そっか、いつもここで授業受けてるんだ。
窓から近くの木が見えない光景は新鮮で、運動部は他の場所で練習試合でもしているのか、グラウンドは砂色のキャンバスのようだった。
「やっぱりここは日当たりがいいわね。撮影にはちょうどいいわ」
「よし、機材準備するぞ。葉介、手伝ってくれ」
颯士さんに促され、持ってきた銀色のアルミケースをガパッと開ける。そこには、テレビ番組で見る、肩に担げるような大型のカメラが収められていた。
「おおお、映画っぽい!」
「映画っぽいってなんだよ」
ぶはっと思いっきり吹き出す颯士さん。
「しばらく家で手入れと撮影テストしてたから、葉介は見るの初めてだもんな」
「これ、デジタルシネマカメラってヤツですか?」
「調べたのか、勉強熱心だな。でもこれは違うぞ、ハンディビデオカメラだ」
「どう違うんですか?」
俺の質問は、カメラ担当の颯士さんのハートに火をつけたらしい。
コホン、と咳払いし、フィクションの探偵のように人差し指を立てて説明を始めた。
「ハンディは、要は運動会で父親が使うような小さいヤツの延長線にある。デカい図体の割に、操作が簡単だ。デジタルシネマカメラってのはまさに映画用のカメラだな。ピントの調整とかが細かく出来て映画っぽい映像になるんだよ。その代わり、フォーカスとか露出とか、撮影のための設定は1つ1つ手でやらなきゃいけない」
「なるほど、アートとしてじっくり取り組むにはいいですけど……」
そうそう、と相槌を打ちながら、彼は三脚を組み立て始める。
「俺達みたいに短期間でガーッと撮影するのには向かない。それに」
「それに?」
「デジシネは高い」
「あー……」
納得。趣味として映画撮影を続けている大人もいるってサイトで見たし、カメラも凝れば凝るほど高くなっていくのだろう。
「100万円超えもザラだからな」
「そんなするんですか!」
「ハンディなら20~30万くらいからあるからな。部費とかバイト代でなんとかなるわけよ。ほい、三脚完成! 月居、マイク取ってくれ」
「はい」
月居が布ケースから取り出したのは、ちょっと長いキュウリくらいの大きさのマイク。
カメラのジャックに差したそれにスポンジを被せて竿に付けると、これまたバラエティー番組でよく目にするマイクになった。
「スズちゃん、音声頼むわね」
桜さんにコクッと頷き、彼女はいつも通り、赤いヘッドホンを首にかけた。
「っと、忘れるところだった」
颯士さんがカバンから出したのは、3つのテニスボール。
「撮影の小道具ですか?」
「ふっふっふ、コイツはもっと役に立つものだぜ」
意味深な低音で返し、1つをこちらに放る。キャッチした瞬間に違和感を覚え、よくよく触ってみると、1ヶ所に穴が開いていた。
「え? 割れてる?」
「そうそう、こうやって使うんだよ」
スッとしゃがみ、三脚の1本の脚を持ち上げる。そしてテニスボールの穴に、その脚の先をぐいっと差し込んだ。「最後の1つ」と促され、俺もベコッとハメてみる。
「こうやっておくと、脚引きずっても床が傷付かないだろ? それにボールが黄色いから目立って、俺達が移動するときも躓(つまづ)きにくくなる」
「へえ!」
カメラとボール。一見無関係なこの2つを組み合わせるアイディアに、素直に感心してしまう。よく使うテクニックらしいけど、考えた人すごいなあ。
「で、外付けのモニターをくっつけて、と」
「これでカメラは準備オッケーね。あとは細かい道具と……」
桜さんが床に置いた道具を指差し確認していると、廊下から声が聞こえてきた。
「おはようございます!」
先頭を切って入ってくる雪野さん。そしてその後に、藤島さんと永田君も続く。
「おはようございます。今日はよろしくお願いします!」
手を止めて3人のもとへ行き、しっかり頭を下げて挨拶する桜さん。
映画監督ってエラそうなイメージがあるけど、学生のうちは頼んで出てもらう側なので、こういう謙虚な姿勢はすごく大切だと思う。
「雪野さん、撮影午後からなのに、朝からありがとね」
「いえいえ。クランクインの瞬間には立ち会いたいですし、それに先に見ておけば撮影の雰囲気掴めるかなって。あ、必要なら何でも手伝いますからね!」
「ありがと、助かるわ。そしたら藤島さんと永田君、一度絵コンテ見ながらカット67からリハーサルしよう。雪野さんも気付いたところあったら教えて。ソウ君達、準備任せるね。カメラセッティングできたら声かけて!」
「うい」
教室の端っこで練習を始めた藤島さんと永田君。俺達はその間に、撮影準備を進めていく。
「桐賀君」
月居に呼ばれて振り向くと、丸型の布ケースを渡された。
「この教室の撮影では、照明やってもらうね。勢いよく飛び出すから、人がいないあっちで開けて」
何を言っているのかよく分からないまま、指示された場所まで移動し、ジッパーを開ける。中に入っていたのは、くるっと捩って折り畳まれている白っぽい布。それを広げようと、少し力を入れて捻ってみる。
ボンッ!
「うわっ!」
爆発したかのような音をあげて、とんでもない勢いで広がった。颯士さんが「おお、誰しもが通るレフ板ドッキリだな」とサムズアップしてみせる。
「月居、これ何……?」
黒い枠に囲まれた、直径50cmくらいの円状の板。片面は真っ白、裏面は銀の色折り紙のようなシルバー。
「レフ板。逆光の場所とかで撮影すると、影が射して役者が暗く映っちゃうの。そういうときにこれを使えば、向かってくる逆光を反射させて顔を明るくできるのよ」
「そっか、照明って明かりを照らす役かと思ったら、こういう仕事もあるのか」
「もちろん、明かりを使う撮影もあるけど、うちの部には無いわ。人もお金も足りないからね」
「撮影って物入りだな……」
このレフ板だってそれなりの値段するんだろう。今はスマホがあれば動画撮るのも投稿も簡単だけど、映画となると勝手が違うんだな。
「よし、機材は大丈夫だな。撮影準備に入るぞ。カット67からだ」
絵コンテを見ながら、カメラを三脚ごと移動させる颯士さん。月居と協力して、カットに描かれた構図通りに机と椅子を並べる。
颯士さんが取り付けたモニターに映る映像を見ながら「机はもっと奥、椅子同士の距離開けてくれ」と指示を受けて微調整する。
「香坂、カメラはオッケーだ」
「こっちもリハはオッケー。じゃあ配置につくわよ!」
藤島さんと永田君が椅子に座った。
一番始めに撮るのは、休日の演劇部の休憩時間、役者のヒロイン、佳澄と大道具担当の相手役、和志が話しているシーン。
「2人の映り方、確認してくれ」
手招きされた桜さんが映像をチェックし、満足そうに二度頷いた。
「じゃあキリ君、レフ板のシルバーを上にしてその辺りに立ってくれる? 佳澄に光当ててほしいの」
「こ、こうですか?」
指定された場所に立ち、角度をアレコレ変えてみる。レフ板に反射した陽光が藤島さんに当たり、彼女は少しだけ眩しそうに目を細めた。
「オッケー。キリ君、腕は辛くない? そのままの体勢キープね」
これでカメラと照明は準備完了。あとは……音声か。
ん? あれ? 月居どこにいったんだ?
「スズちゃんは——」
「ここにいます」
「……おわっ!」
視線の斜め下、カメラに映りこまないようしゃがみ込みながら、マイクをキャストの2人に近づけている月居の姿が。び、びっくりした。こんなところまで近づくのか……。
「夏本さん、ワタシ、映ってないですか?」
「ああ、大丈夫だ。マイクもそれ以上高さ上げなければ問題ない」
「じゃあ、ここで音声チェックします」
座った姿勢のまま、マイクと同じようにカメラからコードの伸びているヘッドホンを付ける。
「機材の最後はカメラ、と……」
言いながらカバンを漁る颯士さん。やがて、30cm四方の灰色のカードを取り出し、カメラに映している。
「この魔法のカードの秘密は後で教えてやるよ」
俺の好奇心を見透かしたように、彼は楽しそうにカードを振って見せた。
「うし、香坂、準備完了だ!」
「ありがと! じゃあ撮影始めます! ……っと、大事なの忘れてた」
今度は桜さんがカバンを漁る。先輩方のカバン、映画の秘密道具が全部入ってそうだな。
「はい、キリ君、これはなんでしょう?」
ティッシュ箱くらいの大きさの、黒板のような板。白い線で幾つかのエリアに区切られていて、上には蝶番で留められた拍子木のようなものがついている。
「カチンコ!」
「正解!」
すぐ準備しちゃうね、と言って白チョークで数字を書いていく。何のために使うのか、知りたいな。あとで聞いてみよう。
「大変長らくお待たせいたしました。いよいよ撮影開始です! 最初のカチンコは記念で私にやらせて。あとは手の空いてる人にお願いするから。藤島さんも永田君も、準備はいい? 撮影班も大丈夫?」
全員、無言で頷く。桜監督はそれを確認すると真上を向き、この張り詰めた緊張感を全部味わってやるとばかりに大きく深呼吸した。
そして、手だけカメラに映るように、カチンコを構える。
「カット67! よういっ……アクション!」
カチン、と長旅の出発を祝福する甲高い音が鳴り響き、「きっと見抜けない」の撮影がスタートした。
『ねえ、大学行っても大道具続けるの?』
『俺? そのつもりだけど。お前は役者は?』
『もちろん、続けるよ。演劇楽しいしね』
「…………カット! 良かったと思う。みんなで映像チェック!」
桜さんがよく通る声で叫ぶと、藤島さんと永田君はふうっと肩の力を抜いた。
さすが演劇部。演じる役も演劇部ということも大きいかもしれないが、自然体の会話が撮れている。
「ソウ君、再生して」
カメラに取り付けられた、少年コミックくらいの大きさのモニター。これなら全員で見られる。
「大丈夫かな? じゃあ、オッケーです! これでカット70も終了、と」
自分の絵コンテに赤いボールペンでバツ印をつける桜さん。これでカット67から4連続、NG無しで進んでいる。
基本的には、動きと台詞の確認→撮影→映像の確認→問題なければ次のカット、という流れだけど、5~6秒の短いカットなので比較的スムーズに撮れていた。
「んっと、次は……そのままカット71、佳澄がカーテンに巻き付いて遊ぶシーンね。まったく、誰よ、こんなはしゃいでる高校生書いたの」
自虐ネタに、カチンコを持った雪野さんがニヤッと口角を上げた。2回目以降、桜さんは監督らしくずっと演技を見る役に徹し、唯一手の空いていた彼女が担当になっている。
「ここは始め佳澄ソロで、あとから和志が接近ね。ソウ君、カメラ移動。今のうちにカチンコ直しちゃうわ。佳澄は今のうちに動きの練習しておいて」
ミニ黒板消しで白チョークを落とす桜さん。「SCENE」「CUT」「TAKE」と印字された欄に数字を書き込んでいく。
「昔の撮影道具のイメージなんで、今も使ってるとは思いませんでした」
「そんなことないわよ、意外と大事なの。これを画面に入れておけば、動画再生したときに、すぐにどのシーンか分かるでしょ? 後でどれがどのカットを撮ったものか確認するのに役に立つわ」
そうか、たしかに映像見ただけじゃすぐにどのカットか分からないもんな。
テイク数も書いておけばどれが監督オッケー出たものかも分かるし。
「もちろん『雰囲気が出る』ってのも大きいけどね」
「分かります。『映画っぽい』ですよね!」
「ふふっ、ねー!」
笑顔で首をクッと傾ける。こうやって無邪気にしていると、年下みたいな可愛らしさもあるなあ。
「よし、カメラ位置はここだな。葉介、さっきのカード、教えてやるよ」
颯士さんに呼ばれ、カメラの前まで行くと、彼はスマホでWEBサイトを開き、2枚の写真を見せてくれた。
「これは光の色を調整するための設定なんだ。光ってのは人間には大体白っぽく見えるんだけど、種類によって若干違うんだぜ。ほら、この写真、電球と自然の光で全然違うだろ?」
「……ホントだ!」
電球の光が当たっているテーブルクロスの写真では、クロスが黄色く見える。一方で、太陽の当たってる雪山の方は、雪が青っぽく見えた。
「人間の目は高機能だからどっちも白って認識するけど、カメラは色味をそのまま映すから、肉眼で見るよりも黄色や青が強く見える。そうすると、屋内と屋外とか、朝と昼とか、カットごとに違う『白っぽさ』になるんだよ」
「ああ、それは見てる人も気になるかもしれませんね」
「だから、こうやって基準になる灰色のカードをカメラに映して、その色をもとに『今の場所では、これが白、これが黒』ってのを設定するんだ。そうすれば場所や時間が変わっても同じトーンになる」
立て板に水で話す颯士さんの話を聞きながら俺の胸に去来したのは、賞嘆と嫉妬だった。
映画はカメラさえ準備できればいいと思ってたけど、そんなことはなかった。
照明や光にも気を遣って、マイクの位置も考えて、それぞれ準備していく。「高校生なのに、ここまでやるのか」という軽く呆れるほどの拘りと、それを当たり前のようにやっている部員のみんなの職人気質。
スポーツでプロ選手並の超絶技ができるとか、楽器で心躍るソロ演奏ができる、みたいな華やかさはないけど、なんだかとても憧れる。
「でも颯士さん、カット数多いけど、このペースでいけば順調に終われそうですね」
「いやあ、どうかな」
彼はカメラのボタンを幾つか押しながら、小さく首を傾げる。
「この4カットは役者もカメラもほとんど動きがなかったからな、肩慣らしみたいなもんだ。これからNGも出てくるはず」
「そっか。NG大賞に出てくるようなミスが出たら映画の最後にネタで流したりしたいなあ」
あれは有名な俳優や女優がトチってるから笑えるんだろ、とツッコまれる。
「この部活入ってから、テレビでよくああいう番組見るんですよ、撮影風景とかも。みんな冗談とか言い合ってるし、スタッフも笑いが絶えない感じで面白そうだなって」
「……まあな」
簡単に相槌を打って、颯士さんは苦笑いする。俺にはその表情の理由がよく分からなくて、「まあそもそもNGなんてない方がいいんですけどね」と自分で意味を解釈して補足を口にした。
「はい、じゃあカット71、いきまーす! 動き入るシーンだからね、気合い入れていくわよ」
窓を下まで覆うレースカーテン。カメラは、そのそばで待機する佳澄へ。
今度はしゃがんでいてもフレームに入り込んでしまうので、月居も離れた場所から竿を伸ばし、上からマイクを近づける。俺も映らないギリギリの場所でレフ板を構え、光を反射させた。
「よういっ……アクション!」
佳澄が軽く勢いをつけてレースのところまでスキップする。そしてレースのカーテンをくるっと体に巻き付けた。
『一緒の大学、とか? ごめんなさい、もう1回やらせてください』
台詞にない言葉が足されていて、首を傾げる。そしてすぐ、それが藤島さんのNG申告だと分かった。
「すみません、動きの方に意識がいきすぎてました」
「そうよね、私もそう感じた。もう1回ね」
え? 台詞も間違ってないのに? そんなに変だったかな?
「テイク2! よういっ……アクション!」
『一緒の大学、とか?』
レースのカーテンをドレスのように纏ってみせる佳澄に、和志が数歩近づく。
『そうなったら面白いよな』
「カット! 映像見るわ」
すぐに全員でモニターのもとへ。
手で口を押さえながら撮ったばかりの映像を見ている桜さんの表情は、徐々に渋いものになっていった。
「……ダメね、カメラの移動が少し遅れてる。佳澄を追えてない」
「だよなあ、ちょっと遅いと思ったんだ」
一番後ろでよく分からなかったので首を傾げていると、「キリ君、見てみる?」ともう一度再生してくれた。
「ほら、ここの部分、途中の2秒くらい佳澄が左に寄っちゃってるでしょ?」
「あ、え? あ、はい……」
俺の率直な感想は、「このくらいのことで?」だった。
確かに、少しだけ左に寄って映ってしまっている。でもすぐにカメラが追い付いて真ん中に戻るし、指摘されなければ見ている人は気にも留めないレベルの話だと思う。
さっきの佳澄の演技といい、合格の基準が高すぎる気がする。
とはいえ、みんなリテイクに向けて動いている中でそんなことを言うのも憚られて、その場は頷いてやりすごした。