イマジナリーラインを越えて ~恋と渓谷と映画制作~

「おお、ここから河原なのね」

 山を下り、平日の喧騒を洗い流すかのごとく穏やかに流れる川に到着する。

 もう少し下流に行くとまた全然違う姿を見せるのだろうが、ここでは5mほどの川幅に、俺の太ももくらいまでの深さ。

4人のお年寄りグループが一眼レフを構えたり軽食をとったりしていたが他に人気(ひとけ)はない。日の光を吸い込んだように輝きを放ちながら水面が揺れ、ショロロロ……と小さな音が響く。


「ほら、桜さん、あそこ渡れるんですよ。飛び石みたいなのがある」

 少し先、かつて意図的に置かれたであろう大きな岩を指すと、彼女は「ホントだ!」と楽しそうに目を見開いた。

「向こうの河原の方が広いわね」
「フッフッフ、実はそれだけじゃないんですよ」
「なになに、気になるなあ」
「行ってからのお楽しみです」

 やや甘ったるいやりとりに、昔の思い出を垣間見る。女子と過ごすというのは、こんな感じだっただろうか。

「じゃあ俺先に行きますね」

 そこまで間隔の開いていない、6つある岩の2つ目を渡ったところで振り向く。彼女が1つ目の岩にぴょんと移ったところだった。

「あ……」
「どした?」


 脳が瞬時に迷う。手を差し伸べるのが優しさか、それはしない方がいいのか。

「落ちないでくださいね」
「ちょっとちょっと、私の運動神経甘くみてるわね。大丈夫だって」

 よっと勢いをつけて、彼女はこちら側に飛び移る。そのまま軽快に跳んでいき、丸石の並ぶ反対側の河原に降り立った。



『川遊び注意! 水難事故がありました!』

 雄大な自然に無粋とも言える、水色背景に太字の大きな看板。いつも2年前を思い出させるものの、今となっては唯一の彼女がここにいたという痕跡でもあり、嫌いにはなりきれなかった。



 こちらの気持ちなどどこ吹く風で流れる川を見つめる。愛理がいたのはこの辺りだろうか。

 当時の現場の証言がないから、なぜ彼女が川に入ったのか、全然想像できない。謎だけ残して、こことは違う別の川の反対側に消えてしまった。

 友達が亡くなった、とは伝えているから、桜さんが少し心配そうに視線を向けているのが分かる。大丈夫、また高校2年生の俺に戻ろう。


「桜さん、あそこ登りますよ」
「えっ、キリ君、待って、あの坂?」

 彼女の質問は聞こえないフリをし、背の高い草の絨毯が出迎える土の急斜面を斜めに上がっていく。

 滑らないように気を付けながら登りきったそこは、俺がいつも来ている土手。今渡ってきた川を見下ろし、切らしていた息を整える。


「あっ、ここ! 写真で見せてもらったところ!」
「写真より川がよく見えますよね。2人が話すシーンに合ってると思います」

 軽快な足取りで、桜さんは土手の反対側の景色を確認する。

「そっかそっか、こっちは川でこっちは隣の山の入り口に続くのか。ならこっち側から撮れば高校の回想のカットに使えそうね……よし、ちょっとここで描いてみようかな」

 彼女は左右に歩いて数枚写真を撮った後に座り、リュックから紙の束を2つ取りだす。片方が脚本で、もう片方は4コマ漫画のように四角い枠が4つ入った白い紙。枠の横には「アクション」「アングル」「オーディオ」という列がある。

「それ、絵コンテですね」
「正解!」

 昨日、「脚本も大分固まってきたから、今日帰ったら絵コンテに入るわ」と話していたっけ。

「シーンごとに描くんですか?」
「ううん、シーンをさらに細かいカットに分けるの。で、誰がどんな風に動くか、その時カメラはどう動いて、BGMやSEは何を流すのか、1カットずつ埋めていくの。こんな感じね」

 既に書き上がっている序盤のシーンの絵コンテを何枚か見せてもらう。

 佳澄が和志を待ってウロウロ歩いている絵や、駅を出た和志が手を挙げて近づいてくる絵が、ラフなスケッチで描かれていた。「アクション」の列には「スマホで時間を確認しつつ緊張して待つ」、「オーディオ」の列には「BGM(未定)」といった説明が書かれ、「アングル」の列には「パン・フォーカス」「右にティルト」とよく分からない文言が並んでいる。




「すごい、こうやって事前に決めておくんですね」
 じっくり見ていると、桜さんが「絵、雑になっちゃったね」と苦笑した。

「当日考えながら撮ることもできなくはないんだろうけど、ストーリー順に撮るわけじゃないから、前後のカットで整合性が取れてなかったりすると怖いしね。こっちでは右手出してたのに次は左手になってた、とか。だからやっぱり、この絵コンテが指南書代わりかな」

「なるほど、確かに先に考えておかないと現場でパニくっちゃいそうだ。何カットくらい描くんですか?」
 その質問に、彼女は「んー」とペンを顎に当てる。

「大体、250とか300カットくらいかなあ」
「にひゃ……」

 なんとなく50~60くらいだろうと思っていたので、予想の遥か上をいく答えに唖然としてしまった。この絵を250も描くの……? アクションやアングルの説明も加えて……?


「えっと、30分映画だから1800秒で、250カットなら1カット平均……7秒くらい……?」
「お、キリ君暗算速いね。実際は30分の中にエンディングテロップとかもあるし、6~7秒ってところね」

 1カットで6~7秒。普通の映画もそのくらい短かっただろうか。会話の応酬や長台詞もあるから、もう少し長い気がする。

「普通の映画やドラマの1カットはもっと長いの」

 俺の疑問はお見通し、と言わんばかりに心の声に同調してくる桜さん。「スズちゃんも初めてカット数聞いたときにビックリしてたなあ」と思い出してようにクスリと笑った。

「2つ理由があってね。1つは見る人への配慮。いずれ学校でも上映しようと思うんだけど、じっくり映画を見るのが苦手な人もいるでしょ。だから、カットを細かくして映像のテンポを上げるの。せっかくなら、年近い人が楽しんでくれる映画作りたいしね」
「そっか、俺達の世代に合わせるんですね」

 Yourtubeでもアプリでも、編集された短い動画を見慣れている。届けたい人に向けてカットの構成を変えるなんて、考えもしなかった。

「で、2つ目が役者への配慮かな。うちはこの部員数だから、役者は演劇部にお願いするのね」
「演技に慣れてますしね」
「でも、演劇部は9月下旬に全国大会の予選があるから、この時期にあんまり負担かけたくないのよね」
「負担? あ、長い台詞を減らしてるのか」

 閃きを声に出すと、彼女は「ご名答」と言わんばかりに目配せしてみせた。

「もちろん、演出上どうしても長く話してもらいたいときはそうするわ。だけどそれ以外は、なるべく覚えなくてもいいようにしてるの。台詞間違いのNGも減るから撮影も短くなるしね」

 そう言って彼女はパラパラと絵コンテを捲り、枠だけ書いてある白紙のページを一番上に持ってきた。


 普段、何気なく目にしている映画。予算や規模は違えど、それがこんな風に作られている、というのを知れるのは興味深い。

 そして、なんとなく「学生映画=雑なもの」という印象だったけど、それは間違いだった。むしろスタッフも期間も限られているからこそ、細やかな気遣いが必要で。奥深さに感銘を受けるとともに、その調整を一手に担っている桜さんへの敬愛の念が胸の中で膨らんだ。



「………………」

 黙り込んだ彼女の視線は白紙から動かなくなり、アイディアが降ってくるのを待ち構えるように、取り出したシャーペンのクリップ部分をカチカチと弾いている。

 集中しているなら、俺ができることは一つ。邪魔しないことだけ。10歩ほど距離を置き、何度も見返して曲がり目のついた脚本を、カットの区切りの想像しながら読み始めた。




「ごめんねキリ君、待たせちゃって。何シーンか描けたわ」
「収穫あったなら良かったです。遠くまで来た甲斐ありましたね!」
「うん、イメージもついたし、後半のロケはここで決まりだね!」

 満足そうに頷く彼女に、俺は気になっていた質問をぶつけてみた。

「あの、脚本のアイディアってどうやって思いつくんですか? 漫才とかコントみたいに短くないから、そんな簡単に浮かばないんじゃないかなって」

 それを聞いた桜さんは目を見開く。そしてややあって、「ふふっ」と吹き出した。

「すごい偶然ね、その単語がセットで出るなんて。今回のきっかけはコントだよ」
「え?」

「勘違いのネタを見たんだよね。オフィスに泥棒が2人入ったんだけど、どっちも相手のこと警備員だと思ってるの。それ見て『笑いが作れるなら、悲しいのも作れるかなあ』って。で、悲恋なら書けそうだな、実はお互い好きってことにして……ってどんどん膨らんでいったのよ」


 驚いた。俺と同じようにテレビを見ていても、ただ笑うだけじゃなくて、創作に転化できる人もいる。

 それを人は簡単に「センス」と名付けるのだろうけど、この1週間だけでも彼女がどれだけ考え抜いてこの脚本を作ったか見てきたので、そんな単純な単語で片づける気にはなれなかった。きっと、いつもアンテナを張って、映画の種になるものはないか無意識に探しているのだろう。


「桜さん、映画作るの好きなんですね」

「うん、大好き」

 パッとこちらを振り向き、目をキュッと細める。その言葉に、目は瞬きを忘れ、口は呼吸を忘れる。心がグッと背伸びしたように揺れた。

「大変だし、絵コンテとか正直、心折れそうになるときもあるけど、みんなでこうやって新しいもの作りあげるの、一番の贅沢な趣味じゃないかと思うなあ」

 そうやって夢見心地のような表情で川を眺めている、映画制作部の部長。ひどく動揺してしまって、うまく返事ができなかったけど、こんな幸せそうな横顔を見られたなら、それも些末なことのような気がした。


「それじゃキリ君、もう少し案内してくれる? そうそう、佳澄が演劇の台詞を練習してるシーン撮りたいんだけど、人目に付きにくい場所とかあるかな?」
「ええ、ありますよ、ちょっと坂下るんで気を付けてくださいね」

 順に何箇所か案内していき、ロケハンは夕方前まで続いた。




「ふう……」

 ほぼ満月に近い丸い月が雲を()けて家々を照らす夜。ベッドで横になりながら、今日の出来事を思い返す。

 長い半日だったけど、部に貢献できたなら何よりだし、桜さんの映画に懸ける熱量や、制作の気遣いを知ることができたのも嬉しい。

 「大好き」と言っていた、あの顔を思い浮かべる。動悸が速いのは、うつ伏せで胸を押し付けているからではないだろう。


「どうしようかな、送るかな……」
 横になったまま、スマホを顔の前に置く。

 大した用もないのに送るのは変かな。いや、でもそんな風には思わないでくれるかな。


 散々迷った挙句、感謝と激励を伝えるために、LIMEをタップした。

『今日はありがとうございました! 絵コンテ、頑張ってください!』

 枕にスマホをバフッと置いて、ベッドから起き上がる。返事が来るまで宿題も手につかないし、夕飯を食べ始めて通知を見逃したくもない。ただただ、イヤホンから音楽を流して、意味もなく雑誌の広告ページを眺める。

 ちらちらとホーム画面をチェックする。短い振動に急いで覗き込むと、登録してるニュースの新着通知。無駄足を踏んだ鼓動に落ち着くよう言い聞かせて、また体勢を戻す。

 大したことを送っていないから大した返事が返ってくるわけでもないのに、不思議と緊張感が増幅する、どうしようもない一人相撲の時間。


 ブーッ


 しばらくしてふいに鳴ったバイブ音に、ビーチフラッグのように飛び起きる。

『こちらこそ、案内してくれてありがとう! ゆっくり休んで。また月曜日ね!』

 こんな30文字くらいの挨拶だけど、それだけで空っぽのカラフェに水を注いだように、心が満たされた。



 この感情の正体を、それが本物なのかを、確かめた方がいいのだろうかとも思うけど、それをするのはなんだか怖い。

 愛理に義理立てなんて考えたこともないけど、なんだかあの事故以来、前に進めていないのは確かで。


 でも、辞めていた部活をもう一度始めた。こっちで一歩踏み出せたなら、こっちも一歩踏み出せるのでは、なんて思考がぐるぐる回って、オーバーヒートの煙の代わりに一つ溜息をついた。



「よお、葉介」
「あ、颯士さん」

 お昼休み、体育のせいでお弁当では到底足りなかったので総菜パン目当てに並んだ購買部。
 後ろから肩を叩かれ振り向くと、前髪をグッと掻き上げた颯士さんがニッと白い歯を見せた。こういうピーカンに晴れた夏日に、彼の茶色っぽい髪色はよく似合う。

「土曜日、うまくロケハンできたか?」
「はい、バッチリです!」
「そかそか、香坂も絵コンテ進んでるみたいだし、スケジュールはキツいけど順調だな」


 週も開けて火曜日。昨日は桜さんが「絵コンテに全力投球する!」と連絡が来て部活はお休みになった。今日は今のところやる予定だけど、桜さん予定通り進んでるかな。

「そういえば、撮影の予定日とか決まってるんですか?」
「お、それ聞いちゃう?」

 無事にソースたっぷりの焼きそばパンを買い、2人で端に寄る。緑色のラバーシートの床が、上履きで擦れてキュッと痛そうな鳴き声をあげた。


「今週末の土日からだ」
「えええっ!」

 土曜ってあと4日? 4日後から撮影? 俺、まだ役者さんも知らないんだけど……

「かなりハードですね……撮影遅らせることできないんですか?」
「ダメだ。来月の17日には完成版の提出だからな。13日か14日にクランクインして、編集まで考えても結構ギリギリだぞ。特に梅雨の時期だから、思うように撮影できないリスクもあるしな」
「あと1ヶ月……」

 たっぷり時間があるように見えて、授業や期末テストを考えたら部活に使える時間はそんなに多くない。

「だから今は香坂が頼りだ。そろそろ仕上がると思うけどな」
「大丈夫ですかね?」
「大丈夫だって」

 俺の問いに、颯士さんはけろっと確信を口にする。まるで、桜さんが書き終える瞬間を目の当たりにしている未来人のように。こういう信頼関係、丸2年一緒にやってきた仲間ならではって感じで、なんか良いな。

「どうだ葉介、映画は楽しいか」
 目線もまっすぐ、直球で放たれた言葉に、同じく真っ正直に返す。

「……難しいです」
 彼は一瞬フリーズした後、すぐに「そか」と口元を緩めた。

「なら良かった。それは楽しいってことだからな」
「ですかね」

 難しいから楽しいなんて、勉強では感じたことがない。でも、言いたいことは理解できて、つられて歯を見せた。


「オレもここからが本番だ。カメラも編集も、気合い入れて頑張らないと」
「カメラってやっぱり大変なんですか?」

 返事を分かっていて投げた質問に、「」ちょっとエラそうに胸を張ってみせる。

「ふふんっ、録画ボタン押してるだけに見えて結構技量が要るからな。今回の撮影では葉介にも撮影の奥深さを知ってもらうぜ」
「うう、頑張ります……」

 肩を落とす俺の背中を、床に打ち付けるようにバンバンと叩く。

「昼休み邪魔して悪かったな。また部活で」
「はい、また!」

 我らが良き兄貴分、颯士さんは、ホイップクリームのパンを咥えながら、軽快に階段を上がっていった。




「桜さん、遅いわね……」

 部室でスマホを見た月居が、小さく声をあげる。ショートホームルームが終わってすぐ、15時半には部室に来たが、1時間以上、部長は顔を見せていない。

 休みの連絡は回ってきていないのできっと部活はあるのだろうと思いながらも、どこで何をしているのか、絵コンテはどこまで進んでいるのかが気になって仕方がなかった。


「何か手伝えることあるといいんですけど——」
「それはないな」

 颯士さんの乾いた声が部室に響く。ドライにも思えるけど、実際それは悔しいほど正しい。
 この絵コンテは、脚本と監督を務める桜さんが1人でやらなければいけないことだから。


 脚本のどこからどこまでを1カットにして、どのように撮るか。絵コンテを描いたことがない俺でも、これを決めるのがどれだけ大変かは想像かつく。

 風景画なんかはその風景で1カット、と簡単に決められるけど、役者の動きが加わるとそうもいかない。結局、頭の中で模擬撮影するしかないのだ。

『アクション(Action)、アングル(Angle)、それにオーディオ(Audio)。絵コンテに入れる3つのAって呼んでるけど、その中でもアングルが一番大変かな』

 桜さんも石名渓谷の帰りに話していた。脳内ロケ地に脳内役者を配置して、脳内カメラを回す。
 カメラを回す、なんて簡単に言うけど、位置と高さを調節すればXYZ軸どの座標からでもカメラを映せるわけで。さらに撮影中にカメラ自体を動かしたりすることもできるのだから、パターンは無限大にあると言っていい。

 誰がどう動いて、アングルがどう変わって、1つのカットが終わるのか。それを200も300も絵に起こしていくなんて、面白いかもしれないけど、果てのない孤独な作業だった。



「17時か……」

 颯士さんの小さな声が漏れる中、短針が間もなく5に到着しようとしている。

 月居はヘッドホンをつけて静かに揺れ、颯士さんは「撮影とアングルの基礎が分かるビデオサロン」という厚めの本を捲っている。俺はと言えば「映画制作 虎の巻!」というサイトに見入っていた。
 部屋に響くのは、秒針がテンポよく走る音と、ページを捲る音だけ。

「お待たせ……」
「桜さん!」
「香坂!」

 よろよろと入ってきた彼女を、全員で立ち上がって迎える。月居も心配そうにヘッドホンを外した。

「ふう……」
 精も根も尽き果てたような表情、から一転、ニイッと胸元でピースサインを出す。

「絵コンテ、完成した!」
「デカした!」
「っしゃあ!」
「ありがとー! 280カット終わったよー!」

 まるでコンテストで金賞でも取ったかのような大はしゃぎ。全員でハイタッチする。おとなしい月居も、腰のところで小さくガッツポーズしてるのがなんだか可愛らしかった。

「香坂、ザッと読ませてくれ!」
「俺にも見せてください! 月居もほら!」
「はいはい、慌てない慌てない。原本破かれたら困るから、こっちのコピーの方見て」

 受け取った紙の束を3つに分け合う。4コマ全部埋まってるページと、シーンの区切りで2コマや3コマで終わってるページ、それらが入り混じる絵コンテを捲りながら、ちょっと跳ねたクセのある字を読んでいく。桜さんが一度脳内で撮った「きっと見抜けない」が、紙の中で再現されていた。


「へえ、結構凝ったアングルもあるな、これは撮影楽しみだ」
「へへっ、もちろんソウ君がその場で別のアイディア出してもいいからね。活躍の場はたっぷりあるよ」
「いやあ、香坂先生のアングルにケチつけるなんてそんなそんな……」


 3年生ふたりの冗談を聞きながら先のページを見ていくと、絵コンテの用紙とは異なる普通のルーズリーフが1枚混ざっていた。

 それぞれ丸で囲まれた「佳澄」「和志」という図形が平行に並び、その2つを真っ直ぐ通るように直線が引かれている。そしてその線の下側に、「カメラ」と書かれた四角とそこから伸びる矢印のセットが幾つか描かれていた。


「ああ、それはイマジナリーラインのメモ書きね」
「イマジナリーライン?」

 夢中で読んでいる颯士さんと月居の間を通り、桜さんが俺の前まで来てその絵を指す。

「2人が映る構図を撮るときに、その2人を結ぶ想像上の線よ、名前の通りね。んっと……簡単に言うと、カットを割る時に、この線を超えてカメラを移動させちゃいけないの。ちょうどいいわ。スズちゃん、ソウ君、ちょっと写真撮らせてね。2人とも向かい合って」

 そう言って、桜さんはブラウスのポケットからスマホを取りだし、まずは今いる場所から颯士さんをカシャリと撮影した。

 続いて再び2人の間を通り、奥に行って今度は月居を撮る。カメラを向けられるのは苦手らしく、月居は素早くふいっと視線を外した。


「ほら、見てこれ」

 2枚の写真をスワイプする桜さん。どっちの写真も、左を向いている。

「あ、そっか、カメラを反対に移動しかたら向きが同じになるのか!」

 閃いた俺に、「そういうこと」と、今日の授業のポイントに気付いてもらえた先生のように満足気に頷く。


「これをやると、お客さんからしたら変な風に見えるのよ。2人が映ってたとしても向きが統一されてなくて『これって一体どういう位置関係なの?』ってなっちゃう。そういうことがないように、イマジナリーラインを引いて制御するのね」

 編集の仕方でラインを越えることもできるけどな、と颯士さんが向きをくるくる変えておどけて見せた。


「さて、全カット揃ってるなら、撮影に向けて早速準備だな。まずは印刷室だ」
「印刷室? 何するんですか?」

 颯士さんは、まとめ直した絵コンテの束を、お面を被るようにバサッと自分の顔に当てた。
「出来たものを冊子にするんだよ」




「うん、脚本が20ページ、絵コンテが88ページ。どっちも冊子型にするにはちょうどいいわね」

 職員室の隣にある印刷室で、桜さんがブラウスの袖を(まく)る。大量に印刷することは、掛け持ちで全く顔を出さない幽霊顧問に許可を取っているらしい。

「スズちゃん、紙は用意した?」
「はい、A3を500枚」

 A3を半分に折ってA4の冊子にする。ってことは、A3にA4が4ページ分入るってことだな。

「部数は私達4名とキャスト3名、予備2部で計9部! 冊子型で真ん中にホチキス綴じ!」

 プリンターを操作してコピーモードにする颯士さん。でも勝手に出てくるならこんな狭いところに4人来なくても……

「よし、じゃあいくぞ。葉介、月居、ホチキスよろしくな」
「はい?」
「このプリンター、ホチキスが壊れてるんだよ。そこに中綴じ用のホチキスあるから、紙出てきたら折って真ん中でガッチャンしてくれ。紙のスピードに負けるなよ」

 何その雑用……でも、なんか燃えるじゃん。


「よし、月居、一部ずつ交代でやっていくぞ!」

 俺の提案に、彼女は静かに首を振る。祈るように両手を組んでグッグッと握っている。

「ホチキス1台しかないから、使いまわすのはタイムロスよ。ワタシが折る担当やるから、ホチキス担当お願いできる?」

 ふっふっふ……月居も本気でやる気だな!

「オッケー、俺が全力で綴じる。西部のガンマン並の速さと正確さを見てろよ」
「ふはっ、キリ君、ホチキスのガンマンって」

 桜さんが吹き出しながら「私も折るの一緒にやるわ」とプリンターの排出口近くに立った。

「よし、紙が詰まったりしたらオレが直すからな。全員気合い入れろよ。レディ……ゴー!」

 次の瞬間、この部活はちょっと変な人達の集まりに変わった。印刷するのにこんなに全力になってる高校生がいるだろうか。

「はい、桐賀君」
「サンキュ、月居!」
「キリ君、こっちも1部! ソウ君、そっちは?」
「そろそろもう1部印刷終わるぞ! 月居、取ってくれ!」

 でも、こうやってみんなでバカやるの、面白いな。
 愛理が言ってた、「みんなでワイワイやるのが楽しいんだよ」って、こういうことかな。



「よし、両方9部完成したな。時間は18時過ぎ……香坂、演劇部は?」

 印刷室にかかっている時計を見上げる颯士さんに、桜さんは出来上がった冊子をパラパラとチェックしながら「まだ間に合う、と思う」と返す。


「よし、オレと月居で印刷枚数の報告とか後片付けやっておく。葉介、それ持って香坂と一緒に行ってくれ」
「行くって、どこへですか?」
「演劇部の役者に渡すの。そろそろ解散かも、急ぐわよ」
「あ、ちょっと!」

 言うが早いか引き戸を開けて飛び出した桜さんを、計18部の冊子を抱えて追いかける。

 窓の外では太陽が、沈み始める前の最後の自己主張をしていた。オレンジの光線が廊下に差し込み、走っている2人のくっきりした影を作る。

「南校舎2階の東側、一番端っこ!」
 階段を駆け上がる彼女が、ちらと振り向いて上を指差した。

「分かりました。じゃあ先に行きます!」
「お願い!」

 声を掛け合いながら一段飛ばしで昇り、踊り場を過ぎて2階へ向かう。
 絵コンテ完成の時から溢れ続けているアドレナリンが、息急き駆けるスピードを緩めようとしなかった。



 愛理の一件で歩みを止めていたことが、少しずつ、でも確実に動き出している。部活に入ること、仲間と深く関わること、そして……。

 俺の中にあるイマジナリーラインを越えて前に進めたら、それはどんなに大きな変化で、どんなに嬉しいことで。



「失礼します! 急にすみません、映画制作部です! 週末からの撮影にキャストで出てもらえる3人の方、脚本と絵コンテ持ってきました!」

 ちょうど終わる前の片付けをしていた部室に滑り込み、「お待たせしました!」と冊子を渡す。それは正に、映画撮影の「役者が揃った」瞬間だった。



「いよいよ今日から、撮影に向けた打ち合わせに入ります!」

 マダム層も多い15時台のファミレスのソファー席。サーブされたフライドポテトをフォークで刺しながら、桜さんが高らかに宣言した。

 絵コンテ完成から一夜明けた、10日水曜日。特にこの店に用事があるわけではないけど、「ずっと部室だと飽きちゃうから、気分転換ね」という部長の提案で、学校から一番近いこの店に来ることにした。

 移動中に「ファミレスで打ち合わせって、なんかカッコいいよね」と浮かれ気味に漏らしていたので、おそらくそっちが本当の理由だろう。


「まずは撮影予定の話ね。今週の土日、13日か14日から撮影開始で、7月の4日か5日まで、週に1回土日のどっちかに撮影。つまり計4回で考えてるわ。ソウ君、それでいいよね?」
「ああ、それでいいと思う。土日両方だと役者の負担が大きすぎるしな。みんな演劇部の準備だってあるだろうし」

 白ブドウスカッシュとジンジャーエールを混ぜた炭酸をグッと飲み干し、颯士さんが首肯する。土日のどっちにするか決まっていないのは、天候が読めないから。


「あくまで予定だけどね、土日どっちも雨だったり、撮影が思いっきり押したりした場合には、役者さんにもお願いして追加の撮影日を設定しましょ」
「4日間で280カット……結構ハードですね」

 月居が唇を口の内側に巻き込みながら呟く。1日70カット、1カット5分だとしても6時間かかる、かなりのボリュームだ。

「まあ風景のシーンとかはキャストいなくても撮れるから、そこは別の日に撮ってもいいしね」

 斜め前のソファー席に座る、小豆里高校の制服の男子5人グループ。撮影という言葉が気になるのか、スマホをいじりながらもちょこちょこ俺達の方を見ていた。そうだよな、当たり前に口にしてるけど、撮影って日常で使う単語じゃないよな。


「で、役割分担だけど、基本的にはソウ君はカメラ、スズちゃんは音声ね。ただ、スズちゃんにも少しカメラ経験してほしいから、どこかのシーンは任せると思う」
「分かりました」

「で、キリ君」
「は、はい」
 シャーペンをカチッとノックして芯を調整し、ノートに近づける。

「メインは照明をお願いしようと思うけど、私達のサポート含めて。映画撮影でやること、一通り経験してもらおうかな」
「分かりました」

 照明か。昼間の撮影だからライトは必要なさそうだけど、何をやるんだろうか。本番を楽しみにしていよう。

「そうしたら、ここからは明日明後日の準備と、撮影初日の予定について相談ね。まずは……」

 話し合いにも熱が入り、瞬く間に時間が過ぎていく。炭酸と野菜ジュースでお腹をたぷたぷに満たしながら、ノートを黒炭で染めていった。




「それじゃあ、また明日ね!」
 ファミレスの入り口で解散したのは19時前。すっかり薄暗くなった街で、近くの個人商店はシャッターを下ろす準備を始めている。

 颯士さんが自転車で、桜さんと月居は別々のバス停だったな。俺は電車だから向こうに……

「あれ?」

 月居が俺の少し先を歩き始めた。俺が声を出したことに気付いてこちらを向く。「家こっちじゃないよね?」という質問を読み取ったらしく、リュックを開けようとしていた手を止めた。

「書店行きたくて」
「あ、ああ、そっか」

 そして前に向き直り、バッグからヘッドホンを取り出す。それを見ながら、ふと、ある思いが(よぎ)り、大急ぎで脳内で文章を練っていく。


 これは、あれを伝えるチャンスじゃないか?
 言いたいことがある。なあなあにしないで、言わなきゃいけないことがある。




「月居、あのさ」

 5歩前、ヘッドホンを耳に当てようとしていた彼女を呼び止めた。温度の低い風が、明るい栗色の髪をふわりと撫でる。

「今更なんだけど、先週のSEの、アレ、ごめんな」

 彼女がチラと振り向く。目が合って緊張が増したせいで、続きの言葉が喉に張り付く。でも、ちゃんと謝らなきゃ。

「正直、あの時は本当に、なんていうか……どれでもいいじゃんって思ってた。音声だけじゃなくて、台詞や設定の一つ一つの細かい意味とか理解しようともしないで、フィーリングで全部できてるって勘違いしてた。でもあの後、読み込んでいって、みんながどれだけ脚本に潜ってるか分かったし、その……俺もそうなりたいって思ったよ」

 考えながら話す俺の言葉を、月居は黙って聞いている。
 すぐに返事を被せてくるタイプじゃなくて良かった。焦らず話せる。


「SEも自分なりにやってみた。難しいけど、脚本から想像を膨らませて選ぶの、楽しかったよ。それを『どれでもいい』なんて、ひどい言い草だった。だから、その、ごめんなさい!」

 言い切って頭を下げる。道を通る人に見られるのは恥ずかしかったけど、ずっと引っかかってたこのことを言えないままモヤモヤしている方がずっと嫌だった。

「……大丈夫よ」

 頭の上から聞こえてきたのは、ポツリと囁くような静かな声。
 頭を上げると、月居は穏やかな表情でフッと鼻から息を吐く。

「SEの話、桜さんからも聞いてたわ。それに、脚本修正の話し合いにもちゃんと混ざってたし、ちゃんと読もうとしてたの分かってる。だから、もう怒ってない。それに」

 そして、口を真一文字に結び、目線を少し下げた。

「ワタシこそごめん、あの時あんな言い方しちゃって。夢中で脚本読んでたから、神経(たかぶ)ってたのかも」
「あ、いや……元はと言えば俺の方だから」

 謝らせる気なんてこれっぽっちもなかったので、激しく両の手を振って打ち消す。やがて彼女と再び目が合い、お互い少しだけ顔を綻ばせた。

「撮影、よろしくな。色々教えてくれ」
「うん、分かった」

 またね、と言って、ヘッドホンを付けて本屋へと駆けていく。
5分くらいの短いやりとり。だけど、心のしこりが取れると体も随分軽くなるらしく、俺は大きなストライドで結構な距離のある駅に向かった。




 翌日の放課後。昨日のファミレスから一転、今日は学校での部活。ただし、部室ではなく、北校舎1階の集会室に集まっていた。
 理由は単純、部室には人が入りきらないから。

「改めて、今回は『きっと見抜けない』の撮影に協力頂き、ありがとうございます」

 机を少し前に移動し、椅子だけを7つ、円状に並べる。俺達4人に加え、役者を担当する3人がソワソワしながら座っていた。

 小豆里高校の演劇部は40人以上の部員を有する大所帯。役者の他、大道具・小道具、音声・照明など、幾つかの班に分かれている。

 役者が一番多いけど、登場人物が10人以下の作品をやることが多く、8~10人の3チームに分けているらしい。今回の3人はそれぞれ違うチームだからお互いもそんなに面識ないらしいよ、と桜さんが事前に教えてくれた。


「えっと、ソウ君とスズちゃんは打診しに行ったときに1回会ってるよね。キリ君は……」
「あ、脚本と絵コンテ渡しに行ったときに」
 そうね、とパンッと手を叩く桜さん。

「それじゃ、今日が正式な顔合わせってことで。キャストを担当してくれる、演劇部の役者陣、2年生3人です! もう全員で脚本の読み合わせとかしてくれてるって!」

 彼女は舞台挨拶の司会さながら、立ち上がっている3人を正面から撫でるように手を動かした。
 同じ学年だけど、知り合いはいない。月居もいないらしく、人見知り気味に会釈していた。


「簡単に自己紹介お願いします!」
「じゃあ私から」

 まずは、一番右にいた黒髪ショートの女性がペコリとお辞儀する。
 飛び抜けた美人ってわけじゃないけど、大きい目、高い鼻、よく通るやや低めの声で、全体的に凛とした雰囲気を持っていた。


「えっと、佳澄役の藤島です。映画の主演なんて緊張しますけど頑張ります、よろしくお願いします!」

 続いて真ん中にいた黒髪の男子が「次、俺だな」と小さく手を挙げた。
 颯士さんと同じくらいの短髪だけど、ワックスで持ち上げていないので、朴訥とした印象に見える。

「和志役の永田です。劇の方でも主演級は経験ないので、貴重な経験させてもらいます!」

 そして、これまでの2人に一番大きな拍手を送っていた、最後の1人。
 背は藤島さんよりちょっと低め。ビターチョコレートみたいな色のミディアムヘア、顔立ちも一番派手、というか華やかだった。

「後輩の陽菜ちゃんやります、雪野です! あ、名前みたいですけど苗字ですよ。結構面倒な女子の役っぽいんで、魔性スキル上げてやっていこうとおもいまーす!」
「いよっ、魔性!」

 颯士さんが歌舞伎の大向(おおむ)こうのような掛け声をかけ、教室は一気に笑いに包まれる。

 ああ、キャストは最後の年の3年生を除いた中から、桜さんが直接顔見て選んだって言ってたっけ。3人とも、作品の役にとても合っている。

「続いてうちの部員ね」

 桜さんが俺達を順番に紹介してくれる。「今回キーになるロケ地を教えてくれたの」と一言添えてくれたのが、ちょっとくすぐったかった。

「最後に私、香坂桜。脚本・監督・演出を務めます。ここから1ヶ月、この7人で最高の映画を撮れるよう、精一杯やっていくので、よろしくお願いします!」

 全員からの大きな拍手。部員4人とキャスト3人、このメンバーで、俺は初めて映画を創る。

 ふと、半月前を思い出していた。この集会室で、広報委員会に参加していたっけ。

 あのとき、桜さんと話していなければ、スマホで渓谷の写真を見ていなければ、そもそも、桜さんが旅行スポット特集を提案していなければ、俺は今ここにいないで、どこかで本でも読んでいただろう。

 世界はちょっとしたことで軌道を変えて、自分の想像が及ばないところまで広がっていく。俺の世界の果てはどんどんその突端を伸ばして、愛理が好んで居着いていた場所にまで届きそうだった。




イマジナリーラインを越えて ~恋と渓谷と映画制作~

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