- ハルはここで死んだのに -


 外が暗くなったので、コーヒー代を払って帰ろうとしたが、春もおじいさんも頑なに受け取ろうとしなかった。逆に夕飯を食べて行けと二人に勧められたが、帰宅に二時間以上かかることを告げたら諦めてくれた。

「それなら、駅まで送るよ! それならいいでしょ」

 駅までは、ここから二十分以上かかるはずだ。帰りは彼女一人。もう外は暗い。女の子を一人で歩かせるわけにはいかない。

「それを言うなら、さっきまでフラフラだった男の子を一人で歩かせるわけにもいきません! 私は歩き慣れてるから大丈夫。送らせないって言うなら泊まっていきなさい! さあ、どっちがいいの?」

 困った顔でおじいさんを見ると、

「この時間ならまだ大丈夫でしょう。春、帰りは気をつけるんだよ」

 おじいさんの承認が下りた。仕方ない……。

 帰り道、春と並んで歩きながら、春の話を聞いていた。
 高校卒業後、音楽の専門学校に通っていること。祖父の営む喫茶店でバイトとして働き、お小遣いをもらっていること。店の近くに桜の名所があり、満開の時期にはお店がかなり賑わうこと。
 あの喫茶店で、おじいさんと二人だけで暮らしているのかと疑問に思い、聞いてみた。

「春は……あ、いや」

 そういえば、彼女の名を呼んだことがない。ハルと、名前も容姿も似ているせいか、つい下の名前で呼んでしまった。

「ごめん。宮里……さん、だっけ……は、あの店で」
「あははっ」

 急に春が笑い出した。

「春で、いいよ。そう呼んでほしいな。私、この名前好きだし」

 街灯も少ない夜の道の中でも、春が笑顔になっているのが見えた。
 彼女が笑うと、心が少し暖かくなった。

「……そうか。春は、あの店で」

 言いかけた時、ハルを殺したカーブに差し掛かった。
 なんだか急に、ハルに申し訳なくなってきた。僕は、何をしているんだ。
 足が止まる。胸がズキズキと痛む。
 ハルに似た女の子に優しくされ、少し、浮かれすぎていた。
 ハルは、ここで死んだのに。どれだけ痛かっただろうか。怖かっただろうか。どれだけ、悲しかっただろうか。寂しかっただろうか。最期の時、何を思っただろうか。
 十六という若さで、未来を永久に奪われたこと、どれだけ悔しいだろうか。
 叶えられなかった夢は、届かなかった願いは、どうすれば報われるのか。
 ハルは、自分が生きた証を残したいと言った。両親ももういない。友達も、ハルのために泣いてくれたあの保健委員の子も、いずれはハルを忘れるだろう。僕だけでも、ハルを、想い続けなきゃいけないのに。僕は何をしているんだ。僕は、泣き続けていなきゃいけないのに!
 息ができないほど、胸が苦しい。涙が溢れ出す。

「あの店で、何?」

 少し前を歩いていた春が、振り向いた。

「あれ……どうしたの!」

 こちらに駆け寄る。心配そうな顔で。ハルと同じ顔で。泣きそうな顔で。もうやめてくれ。君の全てが、僕を苦しませる。

「痛いの? 大丈夫? 秋くん!」

 春がその手で、僕の左腕を掴んだ。思わず振り払う。

「やめろ! その名前で呼ぶな!」
「えっ、でも秋くんがそう名乗ったんじゃ……」
「うるさい!」

 両手で頭を抱える。世界を遮断したかった。

「……何でだよ! わかんないよ!」

 春が声を荒げた。ハルと同じ声で。心も頭も滅茶苦茶になりそうだ。

「お前には分からない! お前に何が分かる!」
「分かるわけないじゃん! だから教えてよ!」
「お前に何が分かる! ハルはここで死んだのに!!」

 今までに出したことのない大声で叫んだ。
 春が、はっと息を飲むのを感じた。

「そう、だったの……。ごめん……。ごめんね」

 何故君が謝る。君は何も悪くない。
 僕の愚かな行動に巻き込まれ、振り回されただけだ。
 悪いのはいつだって僕だ。
 春は嗚咽を漏らし、泣き出した。そしてそのまま、小走りで、走り去っていった。
 女の子を泣かせてしまった。きっともう会えないだろう。
 胸が痛い。胸が痛い。涙が止まらない。苦しい。寂しい!

「うわあああああああああ!」

 僕はその場に泣き崩れ、しばらく後悔と孤独と悲哀と怒りのぐちゃぐちゃに混ざった、泥の津波のような感情に溺れ、叫び続けた。
 人も車も、誰も通らなかったのが、せめてもの救いだった。