- 君の名前を -


*** Mr. Autumn ***

 ハルの展覧会は、大成功だったと言えるだろう。春の歌が終わった後、最初の社交辞令を感じる拍手とは違う、盛大な拍手をもらえたし、何人かは泣いてくれている人もいるようだった。藤岡も、ハルの同窓生たちも、目を赤くしていた。僕の友人の杉浦なんて、号泣しながらスタンディングオベーションをしていた。
 その後も、春の友人や、僕の友人や、花見に来た観光客等で店は賑わった。おじいさんと春は給仕に追われ、僕も臨時ウェイターとして動いた。
 初日の土曜日は夜の十時までフル稼働し、その日は疲れ果てて寝袋できなこと眠り、翌日日曜日も、お客さんの入りは衰えることはなかった。例年でも桜の時期は満席になるらしいから、頑張って宣伝もした今年は余計多いんだろう。
 中には、ハルの絵を買い取りたいとまで言ってくれるお客さんもいた。僕が決める事ではないのかもしれないが、ハルの絵をお金と引き換えに人に渡すなんて考えられないので、丁重に断った。絵は、おじいさんに相談して、今後もこの店に飾ってもらうことにした。その方が、色んな人に観てもらえるだろう。
 日曜の夜は、少し早めの夜九時に店を閉めた。二日目も来て最後まで残ってくれた藤岡を含めて、関係者で打ち上げを行った。おじいさんの話によると、この喫茶店を始めてから最高の売上になったらしい。よかった。きなこは打ち上げの終わりと共にどこかへ去って行った。
 その日は終電でアパートに帰り、ひさしぶりに自分の布団でゆっくりと眠った。


 月曜日、朝早く起きた僕は春と待ち合わせ、約束通り春と二度目のモネの丘へと向かった。大学は、新学期が始まったばかりなので大した講義はなく、配られるプリント類も友人にもらっておくよう頼んでいるため問題ないのだが、春の音楽学校は大丈夫なんだろうか。少し心配だったので聞いてみたら、一日休んだくらいなら単位に影響はない、とのことだった。
 高校に向かう坂道にも、桜が咲き乱れている。もうお昼前くらいの時間なので、通学している学生もいない。春とゆっくり、桜色の坂道を歩いた。春の木漏れ日の暖かさに、ハルも傍に寄り添って、共に歩いてくれているような気もした。
 高校の敷地に入るのは、前回土曜日に来た時よりも緊張した。今回も、見つかって怪しまれたら僕の恩師の名を出して、挨拶に来たと言う作戦だったが、幸い誰にも見つかる事はなかった。今の時間は授業中なのか、校舎はとても静かだ。
 モネの丘は、変わらず美しい風景を湛えていた。独り立つ小柄な一本桜も、自慢げに満開の花を揺らし、遠くに見える山も、部分的に薄桃色に染まっているのが見える。ここから見える全ての景色が、春という季節を喜び、優しく微笑んでいるようだった。数日前に春に見せてもらった、海を見下ろす高台の桜にも劣っていないと思えた。

「わあー、やっぱり綺麗だねぇ。この辺りの桜は今が一番ピークなんじゃないかな。いい時期に秋と来れて良かったー」

 春は桜に駆け寄り、幹に優しくその手を触れ、輝く風景を見下ろした。
 春、ありがとう。君に逢えて本当に良かった。君のおかげで、僕は救われた。感謝の気持ちでいっぱいだ。
 丘に佇む桜は、太陽の優しい光を全身に浴びて、キラキラと、嬉しそうに揺れている。ここの桜が今年も花開いた事をハルも喜んでいるように思えて、気が付くと僕も微笑んでいた。
 ハル、ありがとう。君に逢えて本当に良かった。君のおかげで、僕は素晴らしい青春を送れた。僕は君を忘れないけど、君のいない世界で、僕が前に歩き出す事を、許してくれるかい。僕が幸せになる事を、喜んでくれるかい。
 風に吹かれて、桜の花びらが舞い散った。ひらひらと揺れる小さな花びらで、ハルが返事をしてくれたような気がしたけど、それは考えすぎかもしれないな。
 視線を春に向けると、桜を揺らす優しい風が、春の髪を撫でて、サラサラと、煌めいている。
 春と出会い、衝突したこともあった。でも次第に、ハルの面影を求めるのでなく、春の明るさや、優しさに触れ、彼女への想いは膨らんでいった。今日、感謝と共に、この気持ちを伝えよう。もし、いい返事をくれたら、早速だけど、帰りに家に寄って両親に紹介しよう。
 もう僕は、後悔はしない。僕のベクトルは前へ。限りなく前へ。優しい君へ。
 春の穏やかな空気を胸一杯に吸い込んで、大切な人の名前を呼ぶ。
 柔らかく、暖かく、桜色の優しい季節のその名前を。

「……春!」
「なぁに、秋?」

 振り返って膨らんだ春のスカートに、桜の花びらが舞った気がした。