- 願い事 -


 高校に入学し、初めての夏が来た。僕は夏が好きじゃない。何より暑すぎる。流れる汗が気持ち悪い。日焼けする。
 夏休みというパラダイスも存在するのだが、何しろ暑いせいで、何もする気が起こらない。
 そういう訳で、高校生初めての夏休みも、無為にダラダラと過ごしていたのだが、今年の夏はそれだけでは終わらない。何故なら、美術部の夏合宿があるからだ。もちろん、ハルも参加する。
 合宿先は、山にするか、海にするか、部員内で揉めに揉めたが、夏は海だろうという顧問の一声で、海に決定した。とはいえ、運動部でもない我々は、海水浴をする訳でもない。きっと涼しい屋内で黙々と絵を描くんだろう。なので、水着シーンは存在しない。……期待していた訳ではない。

 とある海辺のセミナーハウス、部屋に荷物を置いた部員達は、何故か炎天の下、屋外での作品作りに勤しんでいた。

「何故だ。何故今屋外なんだ」

 ハルは相変わらず、僕の右隣に陣取ってくれていた。

「暑いねー」

 彼女は白いノースリーブのワンピースを着ていた。これはマズイ。非常にマズイ。男心を鷲掴み過ぎる。
 初めて見る私服というだけでなく、少し日焼けした肩や腕や首筋が、真夏の太陽に照らされて、眩く光っているように見えた。とても、直視できそうにない。
 狙ってやっているのか、天然なのか、時折胸元の服を摘んでパタパタとやっているのが、視界の端に映る。反則だ。
 心臓の辺りが苦しい。今すぐその細い腕を引き寄せて、思い切り抱きしめたい。君の名前を叫びたい。
 それまで、綺麗な、ガラス細工のような繊細なもの、と、漠然とした憧れと共に彼女を見てきたけど、この日初めて、狂おしいような感情の暴走を感じた。冷静に絵なんて描いている場合ではなかった。これは、夏のせいなのだろうか。
 彼女の気持ちについても、今までに考えなかった訳ではなかった。何故、いつも隣に座るのか。何故、一緒にいてくれるのか。何故、優しくしてくれるのか。それらを前向きに捉えると、いつでも同じ結論に辿り着くのだが、それを直接聞き出す勇気はなかった。
 もしかしたら、ただの気の合う友達と思っているだけかもしれない。期待しない答えが返ることへの僅かな不安が、十分に心地良い現在の関係が壊れることを、恐れさせていた。それは、自分の気持ちを伝えないでいる理由と同じだ。
 この、苦しいまでの気持ちを伝えた時、もし、ハルが困った顔をしたら、もう二度と隣で絵を描くことなんて出来ない。

 夕方には、部員達でお互いの作品の品評会を行った。言うまでもなく僕の作品は、未完成も甚だしい酷いものだった。ハルは相変わらず、透明感のあるパステルカラーの見事な桜の水彩画だった。彼女は僕の隣にいて、心乱れることはないんだろうか。そう思うと、少しばかり寂しくもあった。
 やがて夕飯と風呂を終え、自由時間となった。
 街外れの建物なので、夜空の星がとても綺麗らしい。部員みんなで、二階の部屋の窓から抜け出し、一階部分の屋根の上に繰り出した。
 夏の夜の気持ちいい風が吹き、どこからか波の音がする。
 なだらかな傾斜のある屋根に寝転がり、空を見上げると、夏の星空が一面に広がっていた。

「わあ!」「すごいな」「綺麗……」

 全員が感嘆の言葉を上げていたが、しばらくするとある人は早々に眠りに落ち、ある人は宇宙の話題で隣人と盛り上がり、ある人はスマホに夢中になっていた。
 僕はと言えば、絵を描いている時よりも少し近くに感じるハルの気配を意識しながら、果てしなく深く暗い夜空に見入っていた。茫洋とした宇宙の中の、ちっぽけな存在である僕から、何万光年も離れるあの星まで、何も遮るものがない。寝転んでいるという感覚が次第にぼやけていき、ゆっくりと空に落ちていってしまいそうな、少し怖くもある景色だ。
 ハルは、何も話さなかった。彼女も、この星空に見とれているんだろうか。横を向いて、ハルの顔を見たかったけど、空から目を放せずにいた。
 それでも胸の辺りに溢れ返る想いを少しだけ逃がそうと、彼女に聞こえないよう波音に紛らせて、静かにゆっくりと、ため息を吐き出した
 やがて、白い線が一瞬だけ、夜空に現れた。

「あっ」「あっ」

 僕と、ハルと、同時だった。声になる前の微かな音。流れ星だ。
 他の部員は気づいた様子はない。
 真夏の夜の涼やかな時、二人で同じ流れ星を見つける事が出来たのが、何だか嬉しかった。
 ハルと話したくて、周りに聞こえないように小さく、声をかけた。

「願い事、言う暇なんて、なかったね」
「うん……」

 久しぶりに聞いた気がするハルの声は少し掠れていた。どことなく、悲しげに聞こえたのは何故だろう。その、消え入りそうな彼女の声が、僕の心をかき乱す。愛おしさを加速する。

「願い事……、何?」

 耳を澄ましていないと波音に消えてしまいそうな声で、ハルにそう聞かれた。
 僕は、素直には答えられなかった。
 流れ星が、願いを叶えるなんて本気で信じているわけじゃない。だから本当は、真夏の夜空で燃え尽き行く星に届けたい願いは無かった。
 それでも、僕に願いがあるとすれば、それは。
 桜の季節に出会った、美しい季節の名を持つ彼女。
 いつの間にか心に溶け込み、隣にいてくれるのが当たり前になっていた。
 できることなら、これからもずっと、僕の隣にいてほしい。
 できることなら、高校を卒業しても、その先もずっと。
 その、華奢な体、穏やかな目、桜色の唇。細い指。風に揺れる髪。
 涼しげな苗字。暖かい名前。
 柔らかな仕草。耳をくすぐる心地良い声。
 彼女の全てが、僕の心を優しく掴んで、離さなかった。
 この願いを叶えるのは、空で消え行く星ではなく、僕自身の行動だろう。
 いつかは、この、幸福で曖昧な関係に、変化を与えなくてはならない。

   *