- それでも -


*** Mr. Autumn ***

 桜が、咲き始めた。
 今年は例年並みの開花状況らしく、三月の終わり頃につぼみが開き出した。長かった春休みも、もうすぐ終わる。春と話し合い、展覧会は今週末の土日、四月の第一週末に行うことにした。いよいよか。
 これまで、春と作ったチラシを配ったり、大学の自由掲示板にポスターを貼ったり、知り合いに声をかけたりして営業活動を行ってきた。

「『鈴村ハル展覧会 桜の風景画展』? ……なんだこりゃ」

 大学の友人にも声をかけ、チラシを渡したこともあった。

「見ての通りだよ。鈴村ハルって人の、桜の絵の展覧会。ヒマだったら来てくれよ」
「うーん、お前がこんな活動的なのは珍しいな……。鈴村ハルって、お前の知り合い?」
「まあ……、そんな所だ」
「もしかして、彼女か? 出来たのか?」
「お前はまたそれか……」
「それとも、前言ってた好きな子なのか?」
「はぁ、そんな話よく覚えてるな。まあ、似たようなもんだ。悪いけどそれ以上突っ込まんでくれ。突っ込まれれば来る気がないと見なして僕はこの場を去る」
「おおお……。待てよ待てよ。非常に気になるぜ。気にはなるんだが、俺は絵にまったく興味がないからなぁ」
「私にもちょっと見せて」

 以前杉浦に紹介された彼女が顔を出した。まだ付き合っていたのか。

「へえ~、海辺の喫茶店だって。お洒落じゃない。あ、桜の名所が近くにあるの?」
「ああ、そうらしい。僕もまだ見たことないんだけど」
「いいなー、素敵で楽しそうじゃん。ね、行ってみようよ」
「お、おう。じゃ、行くか」
「ありがとう。入場料とかは特にないからな。ただ、喫茶店を借りてるから何か一品は頼んでくれよ。ここはコーヒーもパスタもすごく旨いんだ」
「いいね! 私パスタ好き!」

 こんな感じで、僕たちはお客様をゲットしていった。春も、音楽学校で宣伝をしていたそうだ。


 そしていよいよ、展覧会前日。今日は金曜日だが、大学の講義が終わり次第学校を飛び出して駅に走り、海辺の喫茶店へ向かった。明日、ついに、ようやく、ハルの夢が叶う。楽しみだけど、怖くもあり、また懐かしさと、愛しさと、未来への希望も入り混じり、早くなった鼓動をなかなか静められなかった。
 いつもの駅に降りると、春が迎えに来てくれていた。

「やあ。ついに明日だね。ドキドキしちゃうね!」
「そうだな。僕も緊張してるよ。ところで駅まで迎えに来るなんて初めてじゃないか?」
「だってもう夕方だし、いつもの階段で待ってるのは寒いよ。それに何だかソワソワしちゃって、動き続けてないと落ち着かないんだ」

 土曜日以外にここに来るのは初めてだ。今日は、明日の朝から始まる展覧会の準備のためということで、おじいさんの許可を貰って春の家に泊まらせてもらうことになっている。泊まりといっても、同じ部屋で寝る訳ではない。僕は一階の店舗部分に寝袋を敷いて眠ることを許可された。渋るおじいさんを、春が一時間程の説得で何とか納得させたらしい。

「おじいさん、機嫌悪くなってないか?」
「おじいちゃんは人格者だから大丈夫。ふふ、今までにこれ何回言ったかな」

 ハルを殺したカーブに差し掛かる。今日は階段には寄らないが、少し足を止め、ガードレール越しに春の海を眺めた。今日は少し波が強いけど、怖さよりは優しい力強さを感じた。オレンジ色の夕焼けが、雲を黄金に照らして、波を紅く染めている。
 ハルのいない世界は今日も廻り続け、僕や春や、何億もの人々を生かしている。
 ハルはもういないけど、それでも世界は美しく、太陽は燃えて、星は煌めき、風はそよぎ、季節は巡っている。何度でも、何度でも。

「さ、行こ。もたもたしてられないよ」
「ああ、ごめん。行こう」

 ハルには、もう二度と会えないけれど、今なら、共に前に歩いていけるような、そんな気さえしている。


 『cafe cerisier』に入ると、おじいさんは店内のキッチンで何か作業をしていた。

「おかえり、春。秋くんも、いらっしゃい」
「お邪魔します。今日はお世話になります」
「ただいまおじいちゃん。今日は店のキッチンなの?」
「ああ、お客様がいらしているからね」
「えっ!」

 驚いた。僕がここに来て初めてのお客さんだ。でも、店内を見回してみたけど、人の影は見当たらない。

「あっ、もしかして……」

 春は音を立てないように、静かにキッチンに駆け寄っておじいさんの足元を見たあと、笑顔で僕を手招きした。僕も春に倣い、足音を殺してキッチンに忍び寄る。

「あ……」

 猫だ。薄茶色の縞模様の猫が、お行儀よく座っておじいさんを見上げていた。首輪はしていないから、野良だろうか。僕が近付いたことに気づいてチラリとこちらに振り向いたが、すぐにおじいさんに視線を戻した。

「きなこだよ」
「え?」

 意味が分からない。きな粉をあげようとしているのか?

「前話したじゃん、たまに遊びにくる猫さんがいるって。この子の名前、きなこなの」
「ああ、名前か……。春が付けたのか?」
「うん。だってこの子、きなこもちみたいな色してるでしょ」
「そ、そう……だな」

 きなこはおじいさんから視線を外さないまま、にゃーと一声鳴いた。

「ふふっ、ただいまー、きなこ。おじいちゃん、きなこのご飯作ってるの?」

 春はきなこに近寄り、喉元を撫でながら聞いた。

「そうだよ。きなこも立派なお客様だからね。まあ、お金は払ってくれないけどね」
「そんなことないよ。きなこはちゃんとお礼持ってくるもんねー。あ、今日はマーガレットなんだ、可愛い。きなこありがとー」

 春はそう言ってきなこの頭を撫でまわしている。きなこは迷惑そうににゃーと鳴いた。

「マーガレット?」

 話に付いていけてない。僕が聞くと、春が立ち上がって答えてくれた。

「うん、そこに置いてあるグラスに花が活けてあるでしょ。あれがマーガレット」

 春が指さす方向を見ると、確かにキッチンの端の方に飾り気のないグラスがあり、その中に素朴だけど白く可憐な花が一本刺してあった。

「きなこはね、たまにこうしてご飯を食べにくるんだけど、毎回季節の花をくわえて持って来てくれるんだよ。きっとご飯のお礼なんだよ!」
「そうなのか。すごいな」

 おじいさんは出来あがった料理を皿に盛り、しゃがんできなこの前に置いた。

「お待たせいたしました。若鶏とトマトのリゾットでございます。冷ましてはありますが、まだお熱いので十分にお気を付け下さい」

 きなこは嬉しそうににゃーと鳴いた。おじいさんは立ち上がり、マーガレットを眺めた後、

「どこかのおうちで育てている花とかじゃなければいいんだけどねぇ……」
「大丈夫だよ。きなこはその程度の常識はわきまえているよ。ねー」

 きなこはリゾットの熱さと格闘しているためか、何も言わなかった。

「さて、私たちの夕飯も作るとするよ。秋君も、夕飯はまだだよね?」
「あ、はい。すみません、いつもありがとうございます」

 おじいさんは笑顔で頷いた後、二階に上がって行った。この人には頭が上がらない。おじいさんはお金を受け取ろうとしないから、今度は僕も何かお菓子と一緒に季節の花を持って来よう。

「じゃあ、ご飯が出来るまで準備してよっか」
「そうだな」

 僕は持参した荷物の口を開ける。僕たちの展覧会を、最高に素敵なものにするために。