- このはなの -


   *

  このはなの
  ひとよのうちに
  ももくさの
  ことぞこもれる
  おほろかにすな

 ある日、隣でいつものように桜の絵を描いていたハルが、聞いた事のある和歌を口ずさんだ。

「なんだっけ、それ。古典でやった気がする」
「万葉集の一首だよ。桜って、昔から色んな歌や詩に使われてるよね。きっと、昔も今も、人は色んな想いで桜を見つめて、桜に色んな想いを託してきたんだろうね」
「うーん、そうかもな。ちなみにさっきのは、どういう意味?」
「この桜の花には、たった一つの枝の中にも、沢山の言葉が、私の想いが、込められているのです。だから、どうか、大切にして下さいね。……っていう感じかな。万葉集の中で、私、この歌が一番好きだな」

 少し、胸が締め付けられた。ハルが桜の絵を描き続ける事と、何か関係があるのだろうか。君はその桜の枝に、どんな言葉を、想いを、込めているのだろう。

「へえー。昔の人って、現代よりもロマンチックな感じがするよね」
「うん。私もそう思う。まあ実際は、優雅な暮らしをしていた、ごく一部の貴族だけなんだろうけどね」


 お互いに、決して活発ではない性格の二人は、教室内では交流することはなかったが、部活時間での会話はよく弾んだ。絵を描くことが好きで、中学の頃から美術部だったことも聞いた。

「絵ってね、すごいんだよ。ただ綺麗で感動するってだけじゃなくて、悩んでる人の心を慰めたり、清々しい気持ちにしてくれたり、元気をくれたりするんだよ。私も辛い時はよく、綺麗な風景画をぼーっと眺めて癒されてたの。だから、いつか私も、そんな絵を描けるようになりたいんだ」
「そうか。ちゃんと考えてるんだな。すごいな」
「すごくなんてないよう。アキは、何で美術部に入ったの?」
「う、ハルの理由を聞いた後だと、ものすごく情けないんだけど……」
「いいじゃん。気にしないから、教えて?」
「うーん……、絵を描くっていう行動が、何となく格好いいと思ったからかな。経験もないし、漠然とした憧れだけだよ」
「ふふ、そういうのもいいんじゃない? 実際ね、集中して絵を描いてるアキは、ちょっと、……格好よかったよ」
「そ、そうか。それはよかった」

 平静を装ってはいたが、嬉しさと恥ずかしさで、心臓の鼓動が苦しいくらいだった。顔が熱くなってくるのを感じ、急いで話題を変えてみた。

「ところで、ハルはよく桜を描いてるけど、風景スケッチじゃないよな。ここじゃなくても、部室でも描けるんじゃないのか?」

 ハルは少し目を見開き、僕を見つめた。言ってから後悔してしまった。これじゃあまるで、ここでなくてもいいんだから部室に行けよと言っているようだ。ハルに嫌な印象を与えてしまっただろうか。ハルは少し考えている。ヒヤヒヤした。

「えっとね、屋内じゃ感じられない空気とか雰囲気が、ここにはあるんだよ。風のにおいとか、木々のそよぐ音とか、移り変わる空の色とか。そういうのを感じ取って、絵に変えていくの。だから、ここじゃないと描けないの。……もしかして私、アキの邪魔しちゃってた?」
「いやいやいや、まったくもってそんなことはないよ。ごめん、変なこと言ったな。全然気にしなくていいからな」

 必死で否定した。出来ればずっと、隣にいて欲しいくらいなんだから。

「そうか。それはよかった。ふふっ」

 僕の口真似をして、ハルは笑った。心の底から安堵した。また少し、彼女に向かう心のベクトルが、大きくなるのを感じた。
 ハルはいつも僕の右隣にいた。同じ部活の友達が「お前ら付き合ってんの?」と揶揄するほどだった。いつもハルは顔を赤くして否定していたが、その度に、僕の胸は、少しだけチクリと痛んでいた。実際付き合っているわけではないから、仕方ないんだけど。

   *

 初夏の夕焼けが燃えるモネの丘で、いつものように二人で、僕はカンバスと、ハルはスケッチブックと向き合っていたある日。
 ハルは、将来の夢について聞かせてくれた。自分の描く桜の風景画で、個人の展覧会を開きたいそうだ。未来について漠然としか考えていなかった僕には、夢を持つ彼女が羨ましく、とても輝いて見えた。
 明確な目標に向かい努力する彼女と、何となく生きている自分を比較して、惨めさや焦燥を感じたりもしたが、何よりも、その夢を応援したい気持ちになった。その夢を、叶えてあげたかった。

「アキは、夢とかないの?」
「僕は……。今は、特に無いかな。普通に大学に行って、普通にサラリーマンになるのかなぁなんてぼんやりと考えているだけだよ」
「絵は、やめちゃうの?」
「わからないな。その時楽しければ続けるだろうし、楽しくなくなればやめるだろうな」
「そっか……」

 それからハルはしばらく黙っていたが、突然椅子から立ち上がり、僕が描いていた景色とカンバスの間にヒラリと割り込んだ。風に乗ってふくらんだスカートに、桜の花びらが舞った気がした。

「じゃあさ、私が個展を開いて、その時までアキが絵を描いていたら、アキの絵も飾ってあげるよ」

 黄金の夕日が彼女を照らす。その風景の美しさに、少し胸が苦しくなる。

「僕の絵なんて、そんな大層なものじゃないよ」
「絵はね、腕じゃないんだよ。心だよ!」

 ハルはビシっという効果音が似合いそうなポーズで、人差し指を立てた右手を僕の方に突き出した。普段はお淑やかという表現が似合うハルには珍しい行動だ。思わず笑みが零れてしまう。

「それにさ、自分の生み出した作品が人の目に触れて、世に残るって、とっても素敵なことだと思うんだ。私がこの時代、この場所に、確かに生きていたんだっていう、証明になるみたいな感じ。誰かがこの絵を観てくれて、私という存在を認識して、覚えててくれる……。ね、素敵だと思わない? だからさ、アキも、ね?」
「はは、わかった。覚えておくよ」

 ハルは嬉しそうに微笑んで、自分の椅子に戻った。
 彼女の夢と、絵に対する想い、情熱を思い知らされたと共に、

「私がこの時代、この場所に、確かに生きていたんだっていう、証明になる」

 その言葉が、何故だか重く、心に残った。

 自分が生きていたということを、誰かに知っていてもらいたい。
 それは、とても繊細で、儚く、悲しい願いのように、僕には思えた。
 彼女のその想いを、願いを、僕は心に刻む事にした。
 たそがれが、レンブラントの光の矢となって降り注ぐ、初夏のある日の出来事だった。

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