- 君の名はライラック -


*** Mr. Autumn ***

 何時間泣いていたか分からない。一生こうしているわけにもいかないので、心が落ち着いてきた頃に、とぼとぼと駅へ歩いたが、辺境の駅はとっくに終電を終えており、僕は朝まで駅前のベンチで眠った。
 翌日、日曜日は、ボロボロの心と体でハルの絵に囲まれながら、天井を眺めて過ごした。涙は、硝子玉のように転がった。牢獄のような窓から見える空は、凍えるような自由と孤独を湛えていた。

  ライラック。君の名はライラック。
  僕たちは、思っていたよりもずっと、
            ずっと遠いね。


 月曜日、大学の講義中にスマホが震えた。LINEだ。


【Haru Miyazato】
この前は、何も知らずにひどいことをしてしまい、本当にごめんなさい。
あなたが海を見ていた理由、泣いていた理由が分かった気がして、胸が痛みました。
無理にとは言いませんが、もし、辛くなければ、また、あの海に来て下さい。
話すことで、楽になることもあると思います。
私はいつでも大丈夫です。
連絡待ってます。


 春と名乗ることも、僕を秋と呼ぶこともないそのメールは、土曜日に会った春からは想像できない余所余所しさを感じた。なぜ、君が謝るんだ。ひどいことをしたのは僕の方だ。
 もう会えないと思っていたから、このメッセージは少し嬉しかったが、喜んでしまう自分の弱さを、また嫌悪してしまう。春に会うのは、やめよう。その優しさに甘えても、きっと、誰も幸せにならない。
 春も、いずれ僕を、忘れるだろう。


 その週の土曜日は、海に行かなかった。
 大学の友達連中をカラオケに誘い、一日中歌い続けた。声が嗄れるほど叫んだ。
 どれだけ声を出しても、馬鹿みたいに笑っても、心の中の暗雲は、一向に晴れない。
 春のLINEに、返事は出していなかった。
 会うまいと決めたのに、胸がチクチクと、チクチクと痛んだ。


 日曜日はまた、ハルの絵を眺めて過ごした。
 ハルの桜の絵は、どこまでも綺麗で澄んでいるのに、僕の心を清々しくしてはくれない。ハルの目標だった、人を元気付ける絵。この絵には、きっとその力があるのに、僕の淀みきった心が、美しい景色を濁らせているのかもしれない。
 心の中のハルは、いつも寂しげな表情をしている。ここは、自分で選んできた道なのに、何かが間違っている気がして、でもそれが何なのか、僕には、分からない。
 手を伸ばして、その手を掴みたい。暗く冷たい水の底から、ハルを引き上げてあげたい。ハルを、救いたい。
 突然、机の上に置いていたスマホが振動し、静寂を打ち破った。驚いた。慌てて手に取る。LINEだ。


【Haru Miyazato】
おじいちゃんが、新作のメニューを作りました。
季節の栗とカボチャを使った和風のパフェだよ。
すごく美味しいから、よかったら食べにきてね。
甘いもの、好き?


 画像が添付されている。見てみると、本文で言っていたパフェと思われる写真だ。
 ……どうでもいい。スマホの電源を切り、布団に潜り込んで、果てなく遠い、ハルを想った。



*** Miss Spring ***

 あれから、アキは今までよりも笑わなくなった。学校で会う友達にも、少しぶっきら棒に接するようになった。
 それに、私を閉じ込める透明な壁の円周が、前よりも狭くなったような気がする。どうしてだろう。私の、アキへの執着、未練が強くなったのだろうか。それとも、アキの、私の魂を縛る何かが、強くなったのだろうか。
 アキには、私を忘れてほしくない。
 アキが私を忘れたら、私の思い出が、輝いてた短い青春が、なかったことになってしまいそうで、怖い。だけど、私の過去が、アキの中の私の存在が、アキを縛って苦しめているなら、解き放ってあげたい。でも、どうしたらアキを救えるのか、私には、分からない。
 アキが、部屋に飾った私の絵を眺めている。私もアキの傍に行き、自分の絵を眺めてみる。
 悩んでる人の心を慰めたり、清々しい気持ちにしたり、元気をくれたりする、そんな絵を描くことを目標にしていたけれど、私の絵には、何の力もないみたいだ。大好きな人も、自分自身の心でさえ、私の絵は救えない。
 私の夢は、もう叶わない。アキ、ごめんね。もう捨てていいんだよ、こんな絵。



*** Mr. Autumn ***

 月曜、火曜の授業をこなし、水曜日。
 休み時間に校舎を移動していると、友達に呼び止められた。スマートで長身で、眼鏡をかけた見た目はインテリだが、中身は体育会系な男、杉浦だ。

「おう。これ、俺の彼女。お前にも紹介しておこうと思ってさ」

 そう言って、杉浦は横にいる女性を自慢げに指差した。その人は少し恥ずかしそうに、僕に軽くお辞儀をした。確かに自慢できそうな美人ではあるが、ハルには遠く及ばないな。
 杉浦は僕の肩に腕を回し、彼女から少し遠ざかって小声で言う。

「おい、お前も彼女作れよ。いいもんだぞ。お前も見た目は悪くないんだから、ちょっと積極的になればすぐに出来るって。何なら、誰か紹介してやろうか?」
「余計なお世話だよ。放っといてくれ。そして耳元で囁くなよ気持ち悪い」
「ん~、なんだ? 好きな子でもいるのか? どこの誰だよ。俺の知ってる子?」

 僕の腹部を小突きながら嬉しそうに訊いてくる。入学当初に無理して作った友人だが、非常に鬱陶しい。

「僕なんかに構ってると、彼女が他の男に取られるぞ」

 振り返ると、知らない男が彼女に声をかけている所だった。

「おいマジかよ! ちょっとあんた、俺の女に何の用だ!」

 肩が解放された隙に、その場を立ち去った。
 恋人という存在に、憧れないことはない。ハルが、生きていれば……。同じ授業を受けて、同じサークルに入って隣で絵を描いて、図書館で一緒に勉強して、近所の公園を散歩して……。そんな考えは今までにも何度もした。
 ハルは死んだのに、僕は、僕を含む世界は、今も生き続けている。ハルだけを暗い所に残して、みんな、明るい世界で笑って生きている。心臓が、引き絞られるように痛い。
 学校でこの状態になると辛い。誰にも心配されたくないから、早足で人気の無い中庭に向かい、備え付けてあるテーブルに手を付き、息を整える。
 ポケットのスマホが鳴った。また、春からのLINEだ。


【Haru Miyazato】
授業中だったらごめんね。
私は音楽学校の休み時間です。
最近寒さが増してきたよね。体に気をつけてね。
学校の近くの公園に、綺麗なもみじがあるんだよ。
写真撮ったから送るね。


 メッセージの下に添えられた写真には、青い空を背景に、赤く染まった楓が輝いていた。しばらく眺めてからスマホをしまい、ふと見上げると、この中庭にも楓が赤く燃えていた。なぜか分からないけど、涙がひとつ零れた。胸の痛みはいつの間にか消えていた。


 土曜日。また僕は海に行かなかった。
 ハルの絵に囲まれていたが、時折、春の笑顔や、僕を驚かせた言葉や、夜の泣き顔が心に浮かんだ。
 謝りたかった。何もしてやれなかったハルにも、泣かせてしまった春にも。
 日曜日。LINEの受信音で目が覚めた。


【Haru Miyazato】
やっほー、元気かい?
歌詞を考えてくれるって約束、
よもや忘れてはおるまいな!
待ってるからね


 今までとは打って変って、明るい雰囲気だ。
 何でこの子は、こんな僕を構うんだろうか。暗いし、後ろ向きだし、ひどいことも言ってしまった。
 ひとつ、長い溜息を吐き出し、一度も聴いていなかったカセットテープを鞄から引っ張り出した。実家から持ってきていたコンポに挿入し、再生ボタンを押す。カセットを聞ける機器がうちにあってよかったな、春。
 少しノイズがかってはいたが、喫茶店で聞いた優しい春の歌声が部屋を満たす。あの時は堪えたが、今は部屋に僕一人。思う存分涙を流した。でも、不思議と悲しい涙ではなかった。頬を伝う跡も、温かかった。
 ほんの少しだけ、胸のつかえが取れた気がする。
 壁に飾ったハルの絵も、少し輝いて見えた。
 僕の心の混沌と、その中の笑わないハルと、それら全てを救う光が、その先にある気さえ、その瞬間は感じていた。


【Aki】
覚えてるよ
考えてみる


 簡素すぎるが、一応返事を出した。
 カセットを巻き戻し、また先頭から再生する。
 布団にもぐり直し、目を閉じて、美しい旋律に乗せる言葉を、思い浮かべた。
 今度、パソコンで録り直して、スマホに入れよう。


 その日の夜、夢を見た。
 大学に入学してからも、何度か見ていた、空を飛ぶ夢。
 灰色の工場地帯のような場所で、上空からハルを見つけ、彼女の前に降り立ったけど、目の前に佇む女の子が、ハルなのか、春なのか、分からなかった。
 彼女は僕を見つけると、ふわりと笑った。舞台は突然モネの丘に切り替わり、画面いっぱいに桜が咲き乱れた。
 胸の苦しさで目が覚めると、頬を流れていた涙が、過去に棚引く後悔なのか、未来に向かう切望なのか、僕には分からなかった。
 カーテンの間から差し込む月の光の中に、夢で見た桜の花が一つ浮かんでいるように見えて、手を伸ばしたけど、すぐに消えてしまった。寝ぼけていたんだろうか。