- きなこ -


 さっきからずっと泣いているし、何かとても悲しいこととか、未練があるのだろうか。この世に心残りがあると、魂が成仏できずに残るって、記憶はないけどテレビで聞いたことがあるような気がする。もちろん、幽霊なんて本気で信じてる訳じゃないけど。でも、さっきの手がすり抜ける現象は、どう考えても……
 怖いけど、でも、とてもかわいそう。私の言葉は届かないみたいだけれど、傍に、いてあげようか。どうせ私もここから動けないみたいだし。

 階段を降りて、女の子の隣に座った。
 触れなくても、手を伸ばして、彼女の頭を撫でた。
 聞こえなくても、声をかけた。

「私ね……、どうしてか分からないけど、記憶が無いんだ。気が付いたらここに立ってた。家族も、友達も、誰も思い出せない……。でね、どこかに移動しようとしたら、見えない壁みたいなのがあって、どこにも行けないんだよ。ひどいよね」

 話しながら、いやな予感がザワザワと心の底に湧いてくる。もしかして……
 いやだ。その先は、考えたくない。不快な思いを振り払うように、言葉を続けた。

「だ、だからね、あなたが来てくれて、ちょっと嬉しかったんだよ。私は、たぶん、しばらくここにいるから、あなたに何があったのかとか、何が苦しいのか、私に話してくれて、いいからね」

 言い終わると、女の子はゆっくり顔を上げた。少し落ち着いたのか、ぼーっと海を眺めてる。

「帰らなきゃ」

 女の子がポツリとそう言った。手でぐしぐしと涙を拭って、買い物袋を掴んで立ち上がる。

「え、もう行っちゃうの? どこに行くの?」

 私も立ち上がる。いやな予感がザワザワと心を満たす。女の子は階段を上り始めた。

「ねえ、もうちょっと居てよ。どこか行く所があるの? 私も連れて行って」

 私も階段を上り、民家のある方に向かう彼女の後ろに付いて歩く。心に浮かんだ予感が怖い。私にそれを思い知らせないで。
 最初に壁にぶつかった場所まで来た。女の子は、やっぱり普通に通り過ぎた。急いで手を伸ばすけど、冷たい壁に阻まれる。
 女の子はどんどん遠ざかってしまう。いやだ、行かないで。これじゃあ、まるで私が……

「ねえ、待って! 私が見えないの? 私の声が聞こえないの?」

 大声で叫んで、見えない壁を何度も叩くけれど、女の子は振り返らないまま歩いていって、遠くに見える茶色の建物の扉を開けて中に入った。
 ちょっと待ってよ……。これじゃあまるで、まるで私が……


「あら、あなた、バクレイね」


 背後で突然声がした。

「ひゃあ!」

 驚いて振り返ったけど、誰もいない。小学生くらいの女の子の澄ましたような声が聞こえた気がしたんだけど……

「下よ、下」

 また声がした。視線を下に向けると、足元に一匹の猫さんがいた。目元と背中が茶色の縞々模様で、鼻先からお腹が真っ白の綺麗な体。私の目をまっすぐ見上げている。

「え、もしかして……」
「まったく、人間っていうのは既成の概念に捕らわれすぎる傾向があるわね」

 声は間違いなく猫さんの所から出ている。耳じゃなく、頭に直接流れてくるような声だ。

「あ、あなたが、喋ってるの?」
「そうよ。あたし以外誰もいないじゃない」
「で、でも」

 猫さんは口を動かしていない。しゃがんで、猫さんの体を見回してみた。何かスピーカーみたいな機械でも付いてるのかと思ったけど、何もない。

「猫が喋るのがそんなにおかしいかしら?」

「そ、それはそうだよ。ありえないよ」
「なぜ? 猫も犬も、鳥や虫だって、みんな喋ってるわよ。それを知らないのは、あなたたち人間だけよ」
「そ、そう、なの? でも、今まで猫さんの声が聞こえたことなんて、なかったような……」

 記憶はないけど、こんなに驚いているんだから、きっとそうなんだろう。

「それは、あなたがバクレイだからよ」
「ばくれい……。さっきも言ってたような気がするけど、何なのそれ?」
「たぶん人間のあなたなら知ってると思うけど、肉体が滅んだ後、宿っていた精神に後悔や未練が残っていると、物質と剥離して、独立して動き出すそうよ」
「え、それって……」

 猫さんが喋ったという衝撃で忘れかけていた、いやな予感がまた胸を埋め尽くす。

「未練の対象によって、種類があるみたいね。一部の場所や建物に執着があれば、地バクレイ。誰か自分以外の他人に執着があれば、人バクレイ。あたし達で言えば猫バクレイかしら。あと珍しいけど物バクレイとか時バクレイなんてのもあるらしいわね」

 やっぱり、そうなんだ。幽霊は私だったんだ。
 手がすり抜けたことも、声が届かなかったことも、そういう事だったんだ。
 私、死んじゃってたんだ。
 涙がぽろぽろと出てきた。幽霊でも涙は出るんだな。

「あら、どうして泣くの?」
「だって、私、死んじゃったんだよ。なんでだろう。どうして死んじゃったんだろう」
「死んじゃった事が悲しいの?」
「そうだよ……。当たり前じゃん」
「そう。やっぱり人間は面白いわね」
「え……?」
「まあ、こんな所でしゃがんでないで、こっちにいらっしゃい。話を聞いてあげるわ。あたし今日機嫌がいいのよ」

 そう言って猫さんは、浜辺に続く階段に向かい、半分程降りた所で振り向いた。さっきまで私と女の子が座っていた所だ。
 私も階段を半分降りて、猫さんの隣に腰を下ろす。女の子には触れなかったけど、こうして地面を歩いたり座ったりは出来るみたいだ。猫さんは私が座るのを見届けてから、口を開けずに話し出した。

「今日はね、あたしのカレに朝ご飯を作ってもらったのよ。カレ、料理がすごく上手なの」
「へえー、猫さんの彼氏さんなの?」
「そうよ。人間なんだけどね。遊びに行くといつも美味しいご飯を作ってくれるのよ。カレは、あたしを愛してるの」

 胸がズキンと痛んだ。なんでだろう。

「あたしもカレのこと好きだから、いつも花を持って行くのよ。季節の花をね」
「そうなんだ。素敵だね」
「あら、話を聞くって言ったのにあたしの話しちゃったわね。どうぞ、好きなだけ話しなさい。何でも聞いてあげるわよ」
「うん……。でも私、記憶がなくて……。自分が誰なのか、何で死んじゃったか、ここがどこなのかも分からないの」

 また、涙が零れた。寂しい。私、世界に独りぼっちだ。

「そう。バクレイにはよくあることらしいわよ。でも、哀しんでても仕方ないじゃない」
「どうして? 悲しいよ! 自分が死んじゃってるんだよ! それも、何かの未練を残して。それが何なのかも分からずに……」
「そうね。でもあたし達猫からしたら、未練なんて引きずってても何の得にもならないと思っちゃうわ。大事なのは今を楽しく過ごすことだけよ」
「それは……何となくわかるけど。でもそんな風に考えられないよ、私、人間だし……。お父さんとお母さんに会いたい。友達とか、誰か大切な人に会いたい。でもみんな、どんな人だったか思い出せないんだよ……」

 涙が溢れる。両手で顔を覆った。自分の体は触れるんだ。

「人間って難しいのね。ま、だからって泣いていても何も解決しないわよ。気楽に気長に待っていれば、そのうち誰か来てくれるんじゃないかしら。その、あなたの会いたい人が」
「そうかなぁ」
「ええ、きっとそうよ。あたしもたまに遊びにきてあげるから、元気を出しなさい」

 猫さんに慰められている自分の状況が、ちょっと面白く思えた。なんだか、おとぎ話みたいだ。少し気持ちが軽くなった。

「ふふ、そうだね。ありがとう猫さん。ところであなたの名前はなんていうの?」
「キルシュテン・ナグルファル・コーエンスタン十三世よ」
「わぁ、すごい名前なんだね。覚えられるかな」
「冗談よ。人間は何故かあたしを『きなこ』って呼ぶわ。なんで大豆を挽いた粉の名前で呼ぶのか理解に苦しむけどね。あなたもそう呼んでいいわよ」
「わかった、きなこ。私は可愛い名前だと思うよ」
「そう、ありがとう。あなたは……そうか、忘れちゃったのよね」
「うん……。だから、きなこの好きなように呼んで」
「あら、いいの? じゃあ――」

 きなこは少し考えながら前足で顔を拭いた後、続けた。

「イワシ、でどうかしら」
「う、それはちょっと……。もっと可愛いのがいいな」
「きなこは可愛いのにイワシはダメなの? 人間ってフクザツね」
「ふふ、ごめんね」
「そうねぇ、じゃあ」

 きなこは私を見つめた。見た目から連想しようとしているのだろうか。そういえば私、どんな顔してるんだろ。

「あなた、髪に何か付けてるわね。桜の花かしら?」
「え……」