- 幽霊? -
気がつくと、私はガードレールの傍に立って、海を見つめていた。
自分が誰なのか、なんていう名前なのか、頭からすっぽりと抜けてしまったみたいに、何も思い出せない。記憶喪失というやつだろうか。自分が人間の女性であることは、無意識のうちにも理解できた。言葉も忘れていないみたいだ。自分が日本人だということも分かる。
ここはどこだろう。私はここで何をしているんだろう。
何だか、すごく怖いとか、悲しいとか、痛いような気持ちが、心のすぐ近くに潜んでいるような感じがして、不安になる。自分が色んな事を忘れているのは分かるんだけど、思い出したくない気もする。
今はお昼くらいだろうか、太陽が真上にある。空は綺麗な青で、白い雲がふわふわ浮かんでいる。綺麗。
誰か、忘れてしまった人に会いたいような気持ちが、ムズムズと心に湧き上がってくる。
お父さんだろうか、お母さんだろうか。二人はどんな顔で、どんな声だったかな。
それとも、別の誰かかな。
辺りを見渡してみると、ここが車道のカーブ地点ということが分かる。真ん中に白い線が引いてあるから、二車線道路ってやつだ。後ろを見ると、コンクリートで出来た灰色の崖みたいな壁が見上げるくらいの高さまであって、その上には木が覗いてる。赤く色づいたモミジの綺麗さに、今が秋なんだと分かった。
崖から車道を挟んで、道沿いに白いガードレールが続いてる。ガードレールの向こうは二メートルくらい下がっていて、その先には白い砂浜と、波打つ海が見える。海も綺麗だな。左側にガードレールが途切れている所があって、そこから石造りの階段が砂浜に続いてる。そこから海に降りられるのか。
空も、雲も、赤いモミジも、白い砂浜も、青い海も、全部綺麗。
誰かに、この素敵な景色を見せてあげたい。誰かと一緒に見たい。
誰なんだろう。すごくすごく大切な事に思えるのに、全然思い出せない。
寂しい。とりあえず、どこかに移動してみようか。誰か人がいたら、事情を話して、警察か病院にでも連れてってもらおうか。病院……。ホント、なんで私、こんなことになっちゃってるんだろう。
右の方に民家が何軒か見えるから、そっちに行ってみよう。そう思って歩き出すと、暫くした所で見えない壁みたいなものにぶつかった。
「わっ、なに、これ?」
目の前には何もなく、道が続いているだけなのに、前に進めない。恐る恐る手を出してみると、確かに何かに当たる。少しひんやりしていて、サラサラとした手触り。なんだろうこれ。
少し場所を変えてみても、やっぱり何かに阻まれる。車は全然通らないから、車道の真ん中まで行ってみる。透明な壁がある。コンクリートの崖の方まで行ってみる。ここもだ。
少し力を入れて見えない壁を叩いてみたけど、音も鳴らずに跳ね返される。どうして……? なんなの、これ?
仕方ないからこっちは諦めて、反対の方に行ってみよう。
とぼとぼと歩く。どうしちゃったんだろうか、私は。この世界は。寂しい。寂しいよ。
最初に気が付いた場所を横切って、砂浜に降りる階段を通り過ぎて、カーブを曲がる。最初はコンクリートの崖で見えなかったけど、こっちは民家とかは無くて、何もない道が暫く続いているみたいだ。その先に小さいスーパーマーケットのような建物が見える。とりあえずあそこまで行ってみよう。カーブを曲がり切って歩きだすと、
「あうっ」
透明な壁にぶつかった。こっちもだ。道路の上を横断してくまなく触ってみたけど、どこにも壁が途切れている場所がない。もう、なんなの、この壁。
遠くに見えるスーパーマーケットには、誰も人が出入りしていない。寂しい場所だ。誰もいないのだろうか。
スーパーの正面にも石の階段があって砂浜に続いているのが見える。もしかしたら、夏は海水浴に来る人で賑わうのだろうか。スーパーの前の砂浜は、こちらの方まで続いている。
「あっ、もしかして」
僅かな希望を持って、砂浜に続く階段の所まで走って、一段ずつ早足で降りる。柔らかい砂浜を踏みしめて、スーパーの方向に歩いてみたけど、暫くしたらやっぱり壁にぶつかった。
「うう、だめか……」
さっき、道路の上でぶつかった場所とだいたい同じだ。繋がってるようだ。
そのまま砂浜を歩いて、反対側の、民家がある方向にも行ってみたけど、やっぱりだめだった。海の方は試してないけど、きっと同じだろう。それに私、泳ぐの得意じゃないし。頑張って泳げたとしても、海の向こうに何かが見える訳でもない。コンクリートの崖の方を見てみたけど、とても登れそうにない。
――私、閉じ込められてる? どうして? どうやって? 誰が?
誰かいないの? どうして誰も通らないの? 寂しいよ。誰か私を見つけて。私を助けてよ。
涙が出てきた。泣きながら思いっきり叫んでみようか。
そう考えていると、自分じゃない泣き声が遠くから聞こえた。微かに足音もする。誰か来る!
砂浜を走って、石の階段を駆け上がる。
スーパーのある方の道から、女の子が一人歩いてきた。左手に買い物袋を提げて、涙を拭おうともせずに、泣きながら歩いている。
制服は着てないけど、高校生くらいだろうか。なんだか、見覚えのあるような顔だ。私の知ってる人だろうか。この子は、壁に当たらずに来れたんだろうか。
向こうもタダ事じゃないみたいだけど、思い切って、声をかけてみよう。
「ね、ねえ、ちょっといいかな」
女の子は私の呼びかけに答えずに、階段の前で足を止めて、海を眺めた。涙が流れ続けている。目が真っ赤になってる。なんだかすごくかわいそう。
「ねえ、その、大丈夫? 何かあったの?」
女の子は何も言わずに、階段の半分辺りまで降りて、そこに座った。
膝を抱えて、腕の中に顔を埋めて、声を上げて泣き出してしまった。
「お母さん……」
お母さんに何かあったんだろうか。胸が締め付けられるみたいに痛い。私も涙が出てきた。
何か、力になってあげたい。慰めてあげたい。階段を降りて彼女の横にしゃがみ、細く震える肩に手を乗せた。
――つもりだったのに、私の手は女の子の肩を素通りして、今、彼女の体の中に埋まっている。
「えっ! なにこれ、なんで?」
驚いて、急いで手を引き抜く。女の子はさっきと変らず泣き続けている。
自分の手を見てみるけど、特に変わった所はない。不安と怖さで心臓がドキドキしている。
「ね、ねぇ、あなた、何ともなかった?」
恐る恐る聞いてみたけど、やっぱり彼女は何も言わない。
試しに、もう一回だけ手を肩に置いてみるけど、やっぱり素通りした。
もしかして……。
背筋が急に寒くなる。
立ちあがって後ろ歩きで階段を上る。女の子から目を離せない。
もしかして、この子……、幽霊?
気がつくと、私はガードレールの傍に立って、海を見つめていた。
自分が誰なのか、なんていう名前なのか、頭からすっぽりと抜けてしまったみたいに、何も思い出せない。記憶喪失というやつだろうか。自分が人間の女性であることは、無意識のうちにも理解できた。言葉も忘れていないみたいだ。自分が日本人だということも分かる。
ここはどこだろう。私はここで何をしているんだろう。
何だか、すごく怖いとか、悲しいとか、痛いような気持ちが、心のすぐ近くに潜んでいるような感じがして、不安になる。自分が色んな事を忘れているのは分かるんだけど、思い出したくない気もする。
今はお昼くらいだろうか、太陽が真上にある。空は綺麗な青で、白い雲がふわふわ浮かんでいる。綺麗。
誰か、忘れてしまった人に会いたいような気持ちが、ムズムズと心に湧き上がってくる。
お父さんだろうか、お母さんだろうか。二人はどんな顔で、どんな声だったかな。
それとも、別の誰かかな。
辺りを見渡してみると、ここが車道のカーブ地点ということが分かる。真ん中に白い線が引いてあるから、二車線道路ってやつだ。後ろを見ると、コンクリートで出来た灰色の崖みたいな壁が見上げるくらいの高さまであって、その上には木が覗いてる。赤く色づいたモミジの綺麗さに、今が秋なんだと分かった。
崖から車道を挟んで、道沿いに白いガードレールが続いてる。ガードレールの向こうは二メートルくらい下がっていて、その先には白い砂浜と、波打つ海が見える。海も綺麗だな。左側にガードレールが途切れている所があって、そこから石造りの階段が砂浜に続いてる。そこから海に降りられるのか。
空も、雲も、赤いモミジも、白い砂浜も、青い海も、全部綺麗。
誰かに、この素敵な景色を見せてあげたい。誰かと一緒に見たい。
誰なんだろう。すごくすごく大切な事に思えるのに、全然思い出せない。
寂しい。とりあえず、どこかに移動してみようか。誰か人がいたら、事情を話して、警察か病院にでも連れてってもらおうか。病院……。ホント、なんで私、こんなことになっちゃってるんだろう。
右の方に民家が何軒か見えるから、そっちに行ってみよう。そう思って歩き出すと、暫くした所で見えない壁みたいなものにぶつかった。
「わっ、なに、これ?」
目の前には何もなく、道が続いているだけなのに、前に進めない。恐る恐る手を出してみると、確かに何かに当たる。少しひんやりしていて、サラサラとした手触り。なんだろうこれ。
少し場所を変えてみても、やっぱり何かに阻まれる。車は全然通らないから、車道の真ん中まで行ってみる。透明な壁がある。コンクリートの崖の方まで行ってみる。ここもだ。
少し力を入れて見えない壁を叩いてみたけど、音も鳴らずに跳ね返される。どうして……? なんなの、これ?
仕方ないからこっちは諦めて、反対の方に行ってみよう。
とぼとぼと歩く。どうしちゃったんだろうか、私は。この世界は。寂しい。寂しいよ。
最初に気が付いた場所を横切って、砂浜に降りる階段を通り過ぎて、カーブを曲がる。最初はコンクリートの崖で見えなかったけど、こっちは民家とかは無くて、何もない道が暫く続いているみたいだ。その先に小さいスーパーマーケットのような建物が見える。とりあえずあそこまで行ってみよう。カーブを曲がり切って歩きだすと、
「あうっ」
透明な壁にぶつかった。こっちもだ。道路の上を横断してくまなく触ってみたけど、どこにも壁が途切れている場所がない。もう、なんなの、この壁。
遠くに見えるスーパーマーケットには、誰も人が出入りしていない。寂しい場所だ。誰もいないのだろうか。
スーパーの正面にも石の階段があって砂浜に続いているのが見える。もしかしたら、夏は海水浴に来る人で賑わうのだろうか。スーパーの前の砂浜は、こちらの方まで続いている。
「あっ、もしかして」
僅かな希望を持って、砂浜に続く階段の所まで走って、一段ずつ早足で降りる。柔らかい砂浜を踏みしめて、スーパーの方向に歩いてみたけど、暫くしたらやっぱり壁にぶつかった。
「うう、だめか……」
さっき、道路の上でぶつかった場所とだいたい同じだ。繋がってるようだ。
そのまま砂浜を歩いて、反対側の、民家がある方向にも行ってみたけど、やっぱりだめだった。海の方は試してないけど、きっと同じだろう。それに私、泳ぐの得意じゃないし。頑張って泳げたとしても、海の向こうに何かが見える訳でもない。コンクリートの崖の方を見てみたけど、とても登れそうにない。
――私、閉じ込められてる? どうして? どうやって? 誰が?
誰かいないの? どうして誰も通らないの? 寂しいよ。誰か私を見つけて。私を助けてよ。
涙が出てきた。泣きながら思いっきり叫んでみようか。
そう考えていると、自分じゃない泣き声が遠くから聞こえた。微かに足音もする。誰か来る!
砂浜を走って、石の階段を駆け上がる。
スーパーのある方の道から、女の子が一人歩いてきた。左手に買い物袋を提げて、涙を拭おうともせずに、泣きながら歩いている。
制服は着てないけど、高校生くらいだろうか。なんだか、見覚えのあるような顔だ。私の知ってる人だろうか。この子は、壁に当たらずに来れたんだろうか。
向こうもタダ事じゃないみたいだけど、思い切って、声をかけてみよう。
「ね、ねえ、ちょっといいかな」
女の子は私の呼びかけに答えずに、階段の前で足を止めて、海を眺めた。涙が流れ続けている。目が真っ赤になってる。なんだかすごくかわいそう。
「ねえ、その、大丈夫? 何かあったの?」
女の子は何も言わずに、階段の半分辺りまで降りて、そこに座った。
膝を抱えて、腕の中に顔を埋めて、声を上げて泣き出してしまった。
「お母さん……」
お母さんに何かあったんだろうか。胸が締め付けられるみたいに痛い。私も涙が出てきた。
何か、力になってあげたい。慰めてあげたい。階段を降りて彼女の横にしゃがみ、細く震える肩に手を乗せた。
――つもりだったのに、私の手は女の子の肩を素通りして、今、彼女の体の中に埋まっている。
「えっ! なにこれ、なんで?」
驚いて、急いで手を引き抜く。女の子はさっきと変らず泣き続けている。
自分の手を見てみるけど、特に変わった所はない。不安と怖さで心臓がドキドキしている。
「ね、ねぇ、あなた、何ともなかった?」
恐る恐る聞いてみたけど、やっぱり彼女は何も言わない。
試しに、もう一回だけ手を肩に置いてみるけど、やっぱり素通りした。
もしかして……。
背筋が急に寒くなる。
立ちあがって後ろ歩きで階段を上る。女の子から目を離せない。
もしかして、この子……、幽霊?