彼は、車いすに妻を乗せて散歩させていた。「風が気持ちいいね、貴子」「涼しくなってきたね、もう少しで秋かな」なんて、彼は一生懸命伴侶に話しかけていた。

 しかし、車いすに乗っている彼の妻――貴子さんは、あまり彼の問いかけには反応していない。たまに喋っても「ありがとうねえ、看護師さん」なんて言っていて、やはりおじいさんのことは覚えていないようだった。

 勢いで飛び出してきちゃったけれど、私にできることってあるのかな……。よく考えたら、私みたいなお菓子作ることくらいしかできない小娘が、何かできるわけないよね……。紫月の言う通りなのかもしれない。

 ――いや。でもあんなに必死に祈っていたおじいさんのお願いを、簡単に投げ捨てたくはない。

 などと思っていたら、車いすの車輪が側溝にはまってしまった。おじいさんは必死に車いすを持ち上げようとしたが、老人の力では難しいようだった。


「大丈夫ですか!?」


 気づいたら私は、おじいさんの前に出ていた。ふたりかがりなら、きっとなんとかなるはずだ。

 そして私はおじいさんと協力して、車いすを持ち上げることに成功した。はまった側溝から無事に抜け出すことができた。

 おばあさんは自分の身に何が起こっているか理解していないらしく、空をぼんやりと眺めている。顔には皺が幾重にも刻まれているが、つぶらな瞳に形の良い小さな唇から、若い時は大層美しい人だったことが想像できた。きちんと整えられてひとつに結わえられている髪の毛に、おじいさんの深い愛を感じる。


「ありがとう、お嬢さん。ひとりだったら持ち上げられなかったよ」