――あの時、どうして私は助かったんだろう。

 幼かった私は、通っている幼稚園の通園バスの中にいた。車窓から見えたのは、勢いよく迫ってくる、黒い濁流。大地震の発生によって引き起こされた津波だった。

 バスはその波にあっさりと飲み込まれ、すぐに車内は泥だらけの水に支配された。必死にもがくも、小さな私はすぐに呼吸ができない苦しみに意識を失いかけ、波と一体になろうとしていた。

 ――だけど、その時。

 きれいな何かが。美しい誰かが。無慈悲な黒い水を割って突然現れた気がする。まるでシャボン玉の中にでもいるかのように、彼と私の周囲にだけ空気が生まれた。

 ……夢かもしれない。津波から助かった後にこのときのことを周囲に説明したら、そんなことあるわけがないって大人たちには言われた。事故のショックで夢でも見たのだろうって。

 今になって私だってそう思う。記憶だってはっきりしない。その時に現れた人物の顔だって、定かではない。

 ――だけど。

 彼の放った言葉だけが、やけに耳に残っていた。あの時彼は私に、こう言ったんだ。包み込むような優しさを湛えた微笑みを浮かべて。

 ――君には世話になった。助けに来たよ、陽葵(ひまり)。