駅についた。
 陽気な太陽光と、調子外れのアナウンス。起きない天月の頭を軽くつついて、電車から駆け降りる。
 蒸れた夏の暑さに、汗が滲んだ。

「ここは……」

 見計らったように飛び起きた天月に、手を引かれて降りた駅。
 そこは各駅停車じゃないと止まらないような、小さく古びた駅だった。
 ホームのベンチも時刻表も、錆びたりくすんだりでよく読めない。
 ホーム前の三つしかない改札を抜ければ、そこはもう街道だった。

「加賀美宮、とーちゃくです」

 聞いた瞬間、胃が痛んだ。
 昨日の夜、握り締めた鳩尾が、ズキリと痛んだような気がした。

「加賀美宮って、昨日の」
「昨日? 何かあったんです?」
「何って、殺されたじゃないか、女の人が」
「いえ、知らないですけど……?」

 スマホを取り出して検索する。
 結果一覧に出てくるニュースはどれも似ていて。けれどあの夜に流れたニュースだけが、切り取られたみたいに消えていた。

「嘘だろ……」

 震える声は疑問符を忘れていた。
 忘れられない、ニュースが吐いた不協和音。キャスターが貼り付けた、無機質な表情。

『今日未明、加賀美宮の路上で、十代の女性が男に刃物で刺され死亡しました』

 薄っぺらな紙きれ一枚で片付けられる、理不尽な命の終わり。場違いな安堵。
 その全てを、僕は確かに覚えている。

「二条くん?」

 天月の声は、少し離れたところで聞こえた気がした。

《おや、久しぶりだねぇ、坊っちゃん》

 泥棒のしわがれた声を思い出した。
 あの声は幻聴じゃなくて、あの拒絶は現実で。
 なかったことになった殺人事件だけが、現実から盗まれていた。
 そして泥棒に呪われた僕は、「盗んだものが存在し続けた未来」を記憶する。

「大丈夫ですか?」
「ああ……、うん、何もなかったよ」

 咄嗟に誤魔化した。
 殺害予告だってあるんだ。天月が知らないのなら、不安を煽る必要はない。

「それで、何か当てがあるの?」
「はい、ちょっと忘れん坊の泥棒に盗まれたものを探そうかな~、と思いまして」

 誤魔化しに対する天月の言葉が、やけに引っかかった。
 その正体は探りを入れるほど難しいものでもなくて。彼女の言葉を聞けば、一瞬で見つけられた。

「天月、もしかして泥棒が盗んだものを覚えてるのか?」
「はい。覚えてなきゃ探せないでしょ?」

 シレッと事も無げに言い残して、天月は歩き出した。
 そういえば、彼女のイジメが止んだ日の昼。
 彼女は僕に自分がイジメられていたことを確認してきた。
 天月は「記憶持ち」なのだろうか?
 だとしたのなら、忘れん坊の泥棒は、何故僕を?

「行きますよ」
「ああ、うん」

 天月の声に思考は阻まれて、僕は顔を上げた。
 どこまでも続く青空と、休符を知らない蝉しぐれ。水につけたドライアイスみたいに、膨らんだ入道雲。
 古びたハイツ達の影が濡らすアスファルトに、僕は天月を追いかける。

「昔、この先で七夕竹が飾られていました」
「七夕竹?」 

 前を歩く天月が、振り返ることなく語る。
 七年前の七月七日。かつてこの街で盗まれた、小さな雨の事を。

「その日は七夕で、前日から気の早い子供たちが短冊を飾っていました」

 一車線しかない小道で、後ろから来た軽トラが僕らを追い抜いて行く。
 どこか呆けたような天月の顏は、七年も前の七夕を見つめていた。

「私は塾で行けなかったから、七夕本番の日に短冊を飾りに行くのが本当に楽しみで、その日は上の空だったことをよく覚えています」

 けれどその翌日、この街には雨が降った。織姫彦星の涙は短冊の文字を滲ませ、落ちた短冊は空き地の土に汚れてしまう。
 そうしてそれが当然だったかのように、その日その場所には誰も来なかった。
 天月、ただ一人を除いて。

「雨に濡れた短冊達の前で、空を見るのは私だけ。それが無性に悲しくて、帰ってお母さんに泣きついたんです」

 並んだ天月の顔はまっさらで、感情がなくて。
 右頬の泣きボクロだけが、小さな悲しみの思い出に泣いていた。
 大通りに出る。加賀美宮を縦断する加賀美街道には、車の音と蝉の合唱が雑多に混じって響いていた。

「でも、お母さんは覚えてませんでした。それどころか、雨も七夕のイベントも初めからなかったよ、って。次の日見に行ったら、短冊どころか竹もなくなっていました」

 街道を出てすぐの駐車場に入って、天月は足を止めた。

「ここです、ここに七夕の竹が飾られていました」

 コンビニに備わった駐車場に、かつて七夕竹が飾られていた名残はない。
 本当に青竹があって、けれど今はもう舗装されてしまったのが。それとも本当に竹なんてなかったのか。
 今はただ、黒いアスファルトだけが、その上に白線を乗せて横たわっている。

「ね、なにもないでしょ?」
「そうだね」
「本当に、あったんですよ」
「うん、わかってるよ」

 どれだけ頷いても、そこには何もない。
 天月と、泥棒だけが大事に仕舞った、分岐する未来の一部分。
 とっくの昔に盗まれ忘れられてしまったその苦しみを、僕はただ共感することしかできない。

「今は何もない、けど。泥棒を見付ければきっと返ってきます。だから、優しい世界が返ってきた時は」

 天月が、振り返る。
 深い海を映した瞳が、夏の陽を返して煌めく。僕を、覗き込む。

「──私と一緒に、短冊を飾りませんか?」

 それはきっと、ただの七夕の約束。
 けれど今、この瞬間だけは、何かもっと別の大切な意味を持つようなものに感じられた。

「……次の七夕、来年だぞ」
「鬼が笑っちゃいますか?」

 僕の顔を覗き込むと、天月は「がっはっは」と鬼の真似をして笑った。
 蝉の時雨も、往来の喧騒も。全部がどこか遠いもののように聞こえる、この一瞬。
 これが永遠に続けばいいと思う自分と、早く少女を探せと焦る自分。二人が鬩ぎ合う中で僕はそれでも笑っていた。

「珍しいですね、元カレ君がそんなに笑うとは」

 本当に珍しいものでも見るみたいに、天月が目を丸める。

「そりゃ僕だって笑うよ。感情は豊かな方だからね」
「相変わらず嘘つきヤローですね」

 また、がっはっはと笑う。
 通りすがりのサラリーマンが、驚いたように僕らを振り返った。

「それで、何かつかめた?」
「残念ながら、核心には」

 唸りながら、天月は頭を振った。
 当たり前だ。
 そんな簡単に泥棒の手掛かりが掴めるのなら、僕だってとっくに少女を見付けている。
 世界だって、とっくに優しくなってるはずだ。

「もう、思い出せる事はない?」
「うーん、どうでしょうか……」

 眉間に小さく寄せたシワをトントンと叩いて、天月は首を傾げる。
 七年前の記憶はまだ風化しなくても、細かな所はもう欠けてしまっているのかもしれない。
 けれどそれを思い出してもらわないと、この先の行動が起こしづらくなる。

「やっぱり、もう覚えてない?」
「いえ、一つだけ、思い出せそうなんですけどね……」

 竹が立っていた地面を見つめる天月の顔は、少し苦い。

「思い出しました。あの日書いて、でも飾れず仕舞いだった短冊」
「何て書いてあったの?」
「役に立ちますかね?」

 天月の顏は不安げで、何かに遠慮しているように見える。
 それでも心の中までは見えなくて。今のこの一瞬だけでも他人の心が読めたら、と思わずにはいられない。我ながら女々しいことだ。

「可能性は十分あるよ」

 不安げだった天月の顔がパッと綻ぶ。
 釣られて綻びそうになった頬を、奥歯で噛んで誤魔化した。

「あんまり意味なかったと思うんですけどね?」

 小さくはにかみながら、天月は語る。
 雨に七夕が流れた翌日に無くしてしまったと言う、短冊の願いを。

「『優しくなりますように』って、書いてあったんです」

 「意味ないでしょう?」と天月は恥ずかしそうに笑った。
 確かに彼女の振る舞いは優しくないけど、例え模倣でも彼女が誰かを助けるのは、彼女自身の本質的な優しさに違いない。
 だって彼女は、自分の保身では人を助けないのだから。

「……ほんとだ、意味ないや」

 そんな言葉、当然口に出せなくて。誤魔化しを求める口は、冷やかしを吐いていた。
 けれど心の中では、ひょっとして天月こそが優しいんじゃないのかな、と考え始めている。
 「優しい人ならこうする」と言う天月の行動理念は、他人からの評価を気にする偽善とは正反対。
 使命感と言う呪いで縛られた分、優しさの純度は誰よりも高い。

「私、優しくないですもんねぇ。ハッハハー!」

 反り返らんばかりに高笑う天月に、その自覚はない。
 いつか自覚してほしい、と空を見上げる。笑った分上がった体温に、夏の陽が追撃を掛けてくる。

「これから、どうしましょうか?」

 ひとしきり笑った後、天月は額の汗を拭って尋ねた。

「盗まれたものを全部巡ったらイベント発生、みたいになりませんかね?」
「どうだろう? 世界は優しくないからね」
「むむっ、それもそうでした」

 難しい顔で天月は唸る。
 実際、僕も半分はお手上げの状態だった。一人が二人に増えたぐらいじゃ、所謂都市伝説の存在を探すのは難しいままだ。
 僕達二人が揃って思春期症候群である、と考えた方がまだ納得もしやすい。

「やっぱり、ザハロフさんに聞いてみるのがいいのでしょうか?」

 確かに、駄菓子屋ザハロフは何でも知っている。多分、泥棒のことも。
 彼女に助言を受けることが一番の近道であることは、想像に難くない。

「もう必要ないよ。心配かけたくないんだろう? 他に当てもないしさ」
「じゃあ、どうするんです?」

 並んだ天月が首を傾げた。
 するりと落ちた黒髪から覗く彼女の首筋は、刺すような夏の陽に折れてしまいそうなほど白く、細い。

「明日からも歩こうか。天月の記憶を辿って」
「え、ちょ、ちょっと二条君?」

 軽く背を押そうと差し出した手を引っ込めて、僕は竹があった場所に背を向けた。
 慌てて天月がついてくる。

「いいんですか? 今年は猛暑ですよ?」
「ああ、らしいね」

 その予報はニュースで聞いた。
 なんでも近年にない猛暑に見舞われるようで、気象予報士は芝居がかった調子で注意を呼び掛けていた。
 けれど毎年のように繰り返される猛暑予報に、驚くことも忘れてしまったから、今年くらいは外に出てもいい。

「もう、知りませんからねー! 歩き疲れて倒れても、ポカリ買ってあげませんからっ!」

 むくれた頬の天月が横に並ぶ。
 楽しいけれど、やっぱりまだ半分はお手上げのままだ。一人が二人に増えたぐらいじゃ、都市伝説の存在には辿り着けない。
 けれど三人になったらどうだろうか。答えはもう、近くにあるのかも知れない。あとは暗号化されたその答えを解くだけ。
 きっとこの夏の記憶を辿る旅は、その鍵を拾って周る旅になるだろう。

(見付けられるといいな)

 出来るだけ無感情を装って、七年前に盗まれた竹を見つめる。
 今は無いはずの竹が、雨の中に佇んでいるように見えて、僕は目を瞑った。

 *

 茜に浮かぶ落日を、群青色が包み込む。
 置き去りにされた蝉時雨が、忘れられた公園のブランコみたいに、夏空に揺らめては消えていく。
 一日の予定をわずか一時間もせずに終えた僕らは、山上駅から離れた河川敷を歩いていた。
 肌を撫でる風が気持ちいい。
 クーラーの送風より、川辺を流れる風の方が柔らかくて、自然な感じがする。田舎なんていい所はないと思っているけれど、この山沿いの川だけは別だ。

「はぁ~風、気持ちいいですねー!」
「ほんとだ。クーラーなんていらないや」

 季節外れの木枯らしみたいな風に髪を取られながら、天月ははしゃいでいた。
 大きな川の下流に沈む斜陽が、光芒を引いて川面を朱に染め上げる。

「まさかあんなにも早く終わっちゃうとは」
「わかってたよね?」

 「わかってましたー」と振り返り笑う天月の後ろで、水面に光彩が反射した。
 ただの水と光と太陽。ありふれたもののはずなのに、こんなにも綺麗だと思うのは何故だろうか?
 こんなにも完成された世界の中から、泥棒は何故盗んでいってしまうのだろう?
 思い返せば、泥棒はいつだって自分の欲では盗まなかった。いつだって、誰かが拒絶したものを盗んでいった。

(泥棒は、周囲に求められて盗むのか……?)

 あまりにも現実離れしていて、けれど今までの経験からすると、不思議とその仮説が一番しっくりくる。

「なあ、天月。雨で流れた七夕の日のこと、どう思った?」
「え? 七夕の日、ですか?」

 天月が目を丸くする。
 海を映した瞳は、逆光の中で深い記憶の底を見つめていた。

「さあ、あまり覚えてませんけど……」
「何でもいいよ。そこも手掛かりになるかもしれない」

 「さり気なくハードル上げないでくださいよ~」なんてぼやきつつ、天月はこめかみを抑えて悩み込む。
 風切り音と、蝉時雨。遠くを往く車のざわめきが、遠雷みたいに虚ろに悲し気に響いていた。

「雨がなかったらあったのかなぁ~、とかですかね?」

 よく思い出せないのか、天月は誤魔化すように笑って髪を撫でた。
 砂漠の小さな砂が崖を滑るように、天月の黒髪はサラサラと彼女の手を零れていく。

「そう、やっぱり……」

 やっぱり泥棒は、私利私欲のためには盗まない。
 誰かがいらないと願ったものを、代わりに盗んでいくんだ。
 忘れん坊の泥棒と言う大きすぎる存在の真実にたどり着くには、足りないピースはまだ山とあるのかもしれない。
 けれど初日の戦果としては上々、と考えていいと思う。

「明日は、どこ行こうか」

 隣に並んだ天月にそっと尋ねる。
 まだまだ距離は遠い。あの日小さなキスをした帰り道よりも、ずっと。

「そうですね。また、考えておきます」

 そっと囁くような声が鼓膜を揺すった。
 小さく揺れる綺麗な声を「鈴の音のよう」と言ったのは、一体誰なのだろうか。
 それほどの語彙力があったなら、きっと僕が探すこの感情の名前も簡単に見つけられるのだろう。
 終わった恋が付けた、霜焼けのような心の痛みの名も。恋人でもなく親友でもない、この宙ぶらりんな関係の名前も。

「ねえ、天月」
「はい、なんでしょう?」

 天月の顏は、もう見ることが出来ない。
 水面に溶けていく夕陽の名残が、眩しくて、切なくて。視界を埋め尽くす緋色に、僕はそっと目を閉じる。

「忘れん坊の泥棒が見つかって、僕らの探し物が見つかったらさ」

 そこから先の言葉は、何も出なかった。
 もしかしたら、それが答えだったのかもしれない。初めから答えなんてなかったみたいに欠落した言葉を、それでも僕は続けよう。

「──今度は、海に行こうか」

 きっとそれも、間違いではないのかもしれない。けれど間違ってないだけで、決して正解ではない。
 そんなことは、僕も天月も知っていて。それでも天月の声は、笑っていた。

「はいっ、喜んで」

 微笑み合った僕らの間を、夕陽の光華が邪魔をする。
 二人の影法師は、合わさることなく木陰の中に消えていた。

 *

 家に帰っても忘れん坊の泥棒の事を考えていた。
 初日で分かったことは一つ。
 忘れん坊の泥棒は誰かが要らないと心から願ったものを盗んでいく、と言うことだ。
 けれどそれだけでは疑問が残る。
 本当に忘れん坊の泥棒が、天月の為に七夕を盗んだとして。なぜ雨だけを盗まず、七夕の催しそのものを盗んでしまったのか? あるいは、なぜ七夕の催しはなくなってしまったのか?
 答えは未だ謎の中。むしろ辻褄が合わない分、謎は深まっている。

「うーん……」

 初日に発見があったことを喜ぶべきか、深まった謎に頭を抱えるべきか。
 まだ泥棒に遠い僕は、シワのいったベッドに倒れ込んだ。

『あの人も、優しいと言えば優しいのでしょうね』

 午前中に天月が使った言葉を思い出す。
 「優しさ」を模索する天月は、優しさの範囲が広すぎる。
 あの不気味な道化師が優しいのなら、きっとどんな悪魔だって天使になれる。
 悪魔は時に聖書を口ずさみ、天使の顔をしてやって来ると言う。
 きっとどんな悪人だって、一欠片でも優しさがあれば、それは天月にとっては「優しい人」になるのだろう。

(危ないな)

 ベッドに沈み込んだ意識の中で、少しだけ天月のことを心配した。
 僕は優しくない。