明けて七月二十一日、夏休み初日。
 蝉は相変わらず盛り続けて、遠光台全体が蝉の海岸になったみたいに喧しい。
 夏休みの初日から「泥棒探し」を開始する僕たちは、JRの駅前に集合することになっていた。

『着?』

 ズボンのポケットに入れたスマホが震えた。

『着』

 簡素過ぎるメッセージを返して、白い空を見上げる。
 JRの駅前に設置された彫像が、夏空の下で茹っていた。
 駅前のこの彫像は、地元でもちょっとした待ち合わせスポットになっている。
 渋谷駅前のハチ公と同じだ。

『みーつけた』

 感嘆符のない、シンプルな文面。
 まるでどこかの物語に登場するサイコパスみたいだった。

「おはよーです、元カレ君」
「おはよう、天月」

 見上げた視線を、声のした方に下げる。
 久しぶりに見る天月の私服は、その白いブラウスが白い太陽に溶けているようだった。

「似あ──」

 似合ってるよ。
 その言葉は、喉に詰まって出てこなかった。
 恋人でも、恋人でなくても。その言葉を口にする事は、多分そんなに珍しいことじゃない。
 だとすれば、そう。これは単なる「気恥ずかしさ」だ。

「どうしました?」

 見つめる先で、天月が首を傾げる。
 そこで始めて「天月を見詰めている」と言うことに気付いて、慌てて目を逸らした。
 白い空も、茹る銅像も。何も頭に入ってこない。

「……いや、何もないよ」

 歯切れ悪く誤魔化して、日陰に足を踏み入れる。
 遅れて歩き出した天月が僕に並んだ。

「どこ行くんです?」
「とりあえず、駅に入ろう。暑くて溶けそうだ」
「さんせーです。泥棒より、クーラーが欲しいです」

 陰を縫うようにして駅の構内に入る。
 古びた田舎の駅には、湿気た空気が行き交う人波と一緒に舞っていて、お世辞にも涼しいとは言えない。
 
「元カレ君、何か当てないですか?」

 自販機のソーダを二人分買って、天月は僕に尋ねた。
 130円を渡そうとすると、自販機横のベンチに座った天月が「いらんです」とソーダを遠ざける。

「悪いよ」
「いえ、これは情報料ですよ」
「情報がなかったら?」
「私が二本飲みます」

 天月が器用にプルタブを起こす。
 ぷしゅっと炭酸の逃げる音。海の水泡みたいに弾ける、炭酸の飛沫。
 汗か炭酸か。一筋の雫が伝う、白く細い首筋。
 ふっくらとした胸の膨らみから腰の曲線を目線でなぞって、ハッと顔を上げる。
 天月が両手に缶を持って、首を傾げていた。

「情報、あります?」

 触れる距離に天月がいる。
 彼女の海みたいに綺麗な瞳には、僕だけが写っている。
 それだけで、心臓が狂ったように暴れだす。言葉が、喉につっかえる。

「あるには、ある。けど」
「けど?」
「あんまり役には立たなかったな」

 天月は無言になった。
 けれどその目の煌めきは、まるでほしいオモチャを見つけた子供みたいに、話の続きを急き促す。

「ノーベルだよ。その手の話は、ザハロフさんが詳しい」
「……アリョーナさんですか、あの人も悪趣味ですね」

 ザハロフ、或いはアリョーナと呼ばれる駄菓子屋は本名を明かさず、常に名乗る名前を人によって変える。
 ある時は世界大戦を引き起こした武器商人や、人肉を担保に金を貸した、強欲なユダヤの金貸し。
 またある時は、最新鋭の大砲で新興国を軍事大国に変えた大砲王。物語の序盤で主人公に殺される、高利貸のロシアの老婆。
 その全ては、人の人生を狂わす卑しい商人に関連していて、そのせいか彼女は、自分自身を「死の商人」と呼んでいる。

「あの人も、優しいと言えば優しいのでしょうね」
「君は優しいの範囲が広すぎるよ」

 天月が優しい世界を探すのは、たぶん言葉にするほど大それた事じゃない。
 きっとそれは、子供の頃に夢中になった「探検ごっこ」の延長に過ぎないのだろう。
 いつか僕らも大人になって、冒険心はどこかに置き去りにして。
 着実に進む時間の中で、周りの人達に合わせて歩き出す。それは丁度、この駅を行き交うスーツの群れみたいに。
 そんなことはきっと天月も知っていて、だからこそ泥棒を探すのだろう。
 それが彼女なりの、子供だった自分自身へのサヨナラの仕方なのかもしれない。

「やっぱり払うよ、130円」
「提案はしてもらったので、いいですよ」
「ザハロフさんの名前しか出してないよ」
「十分です」

 天月の反対を聞き流して、手渡されたサイダーに口をつける。
 強炭酸のはずのサイダーからは、もうすっかり炭酸も逃げ出していた。どれだけ振ったんだ、そしてなぜこっちを渡したんだ。

「じゃあ、これから僕がする質問への情報料、とでも思ってくれればいい」

 飲み口に口をつけたまま喋ると、中で反響した声が歪に歪んで聞こえた。
 それはまるで、僕が今から天月に投げる質問への、どうしようもない煩悶みたいだった。

「殺害予告されたって、本当?」

 改札の閉じる電子音が残響を引いて、僕たちの間に寝転がった。
 天月の顔には、無が印刷されていた。

「何で知ってるんです?」

 嘘だろ、と思った。
 これは質の悪いドッキリで、実は今も、友崎が柱の陰からカメラを回してるんじゃないか、としか思えなかった。
 だって、そうじゃないか。
 芸能人でもない、ただの女の子が、誰かの殺しの対象になるなんて信じられない。現実味が、ない。

「否定しないの?」
「ええ、だってほんとですもん」

 けれど天月は否定しなかった。
 大切な人の死を知らない僕にとって、死は余りにも遠い、蜃気楼みたいな存在。
 それを目の前の、ずっと近くにいた少女が一番死に近いかもしれないなんて、どうしても考えられない。

『話、聞いてやれよ。それができんの、二条だけじゃん』

 友崎の言葉を思い出す。
 言われた瞬間だって、一夜明けた今だって、僕が話を聞く意味は分からない。
 けれど、天月が僕の立場なら。きっと彼女は声をかけるのだろう。
 だから僕は、精一杯平静を装って声をかける。

「犯人に心当たりはないの?」
「ない、ですね」

 無表情に答えた天月は人形みたいで、まるで自分のことなんて興味がないようだった。

「最近何か変わったこととかは?」
「ないです」
「警察はなんて?」
「実害がないから人員は裂けない、って」

 警察も優しくないですねぇ、と缶に口付ける。
 天月の声音は、どこまでも他人事のような白々しさを滲ませていた。

「やっぱり、現実味、ないよ」
「わかってます」

 起伏のない表情を目の前の改札に向けて、天月は呟く。
 首肯しないその小さな頭からは、長い黒髪が滝のように流れ落ちている。

「でも、どうせ世界が優しくなったら、私はその世界にいられませんから」
「自殺でもするつもり?」
「あー、それもいいかもですね」

 内心の動揺を、隠すように発した冗談。
 けれどそれは、何の感情もない声に同意されてしまう。
 ふざけるな、と思った。それじゃあ初めから、天月は死ぬつもりなんじゃないか、と。

「勝手にしろよ」
「冗談ですよ」
「冗談でも、言っていいことと悪いことがあるよ」

 本当に言いたいこと。けれど、言えなかったこと。
 返す言葉が見つからないのなら、その全てはどうでもよくて。ただ居心地の悪い話を終わらせようと、僕は言葉を吐き捨てる。
 ベンチを立つと、止まっていた時間が動き出した気がした。
 人々は通勤通学に改札を抜け、蝉時雨はうるさいくらいに降り頻る。

「帰りますか?」

 まだベンチに座っていた天月が僕を見上げる。
 天窓から漏れた陽の光に反射して、薄い青の散った瞳は、水面のように煌めく。

「帰らないよ」

 天月が一度口をつけてから、ずっと振り続けていた缶が止まった。
 行き場を失って停滞した炭酸が、しゅわしゅわと弾けている。

「変わった人ですね。私みたいなのと一緒じゃ疲れるでしょ」
「一緒にいて疲れない人間なんていないよ」

 どうせ疲れるなら、退屈しない方がいいに決まってる。その分の徒労感も強いけれど、軽く心地よくすらある。
 友達と遊んだ日の夜みたいな、あの懐かしい徒労感と、少し似ているのかもしれない。

「結局は惰性で付き合える人が、僕は一番いいと思うよ」
「とんだひねくれやろーですね」

 笑いながら、天月が立ち上がる。
 「どこ行くの?」と聞くと、「秘密です」と返ってきた。

「せっかく駅に来てるんです、少し遠出しましょう」
「いいよ、行こうか」
「決まりです!」

 目を輝かせた彼女に促されるまま、改札を超えた。
 出張販売のたこ焼きやパン屋から漂う匂いに、行き交う人々のざわめきが混じる。
 急に遠出するのは気が引けるけど、止めたところで天月が素直に従うはずがない。
 女の子一人で遠くに行くのは、あまりにも危険だ。着いて行くしかない。

(殺害予告だって……)

 考えて、途中でやめた。
 そんな非現実的なこと、考えたって無駄だ。
 今は、泥棒探しに集中しよう。僕が探す女の子だって、まだ見つかっていないのだから。

 それから僕たちは、ローカル電車に飛び乗った。
 他愛もない会話でお茶を濁し、パーソナルスペースぎりぎりの距離で吊革を握る。
 発車と同時に揺れる電車に、跳ねる天月の体。
 時々触れる、肩と手の甲の滑らかな感触。

「クーラー、効いてないね」
「ね」

 触れ合えるほど近くて、けれどきっと、気持ちは届かないほど遠い。
 いっそ天月の事、嫌いだったら楽だったのに。そんなことを考えていると、前の席に座っていたサラリーマン達が降車していった。

「座りなよ」
「元カレ君は座らないんですか?」
「いいよ。僕はまだそんな歳じゃない」
「それ遠回しに私のこと「おばあさん」って言ってません?」

 いいから座ってください。
 天月の冷たい手が、僕の手を引いた。
 決して強くはないのに、けれどその手には逆らえなくて。引き寄せられるままに、天月の真横に腰を落とす。
 周囲の空気が揺れて、シャンプーが匂った。

「これで元カレ君もおじいさんですね」

 小さな顔が傾いて、長い髪が揺れて。僕の胸が、少し高鳴って。
 けれどそんなことは知らない夏の陽が、陽気に僕らを包み込む。

 ──ちょっと、近いよ

 遮光版に阻まれた陽光に、羞恥心と高揚感が燻し出される。
 窓外を流れる田園地帯と、抜けるように青い空。地元の協賛企業の宣伝音声が、計ったように一瞬止んだ。

「ちょっと、近い、ですかね……?」

 ヘヘヘ、と笑う天月の横顔が、赤く染まる。
 電車が路面の小さな凹凸に跳ねて、天月の小さな体も一緒に跳ねて。
 節電で灯りの落とされた車内で二人、触れる肩を強張らせる。

「離れ、ようか?」
「ううん」

 天月の小さな手が袖が引いて、僕を押し止めた。
 恐る恐る盗み見た横顔は伏せられいて、けれど黒髪から覗いたうなじすらも赤く染まりそうなほど、頬は紅潮している。

「このままが、いい、です……」

 天月の頭が、するりとしなだれかかる。
 鼓動が静かに、けれど大きく爆ぜた。天月を見ることも出来ず、体を動かすことも出来ず。
 ただ肩に乗った優しい重みを、抱えて潰さないよう、前だけを見続ける。

「天月……?」

 返事の代わりは、静かな寝息だった。
 触れ合う肩の温もりと、共鳴するちぐはぐな鼓動。小さな寝息が鼓膜を揺らして、心臓は馬鹿みたいに高鳴る。

「君が寝てしまったら、僕はどこで降りればいいんだ……」

 面映ゆい羞恥心を誤魔化して、そっと息をつく。
 この熱さは、きっと夏だけのせいじゃない。