僕たちの泥棒探しが始まる数日前。
 いつもは同じだった天月との帰り道を、真逆の方向に帰った日の事。
 僕は天月と別れて、目的の場所に辿り着いていた。
 その日は今日より少しだけ蝉時雨がうるさかったことを覚えている。

「私はユダヤ人だぜ」

 落陽に濡れたアスファルトを眺めて、死の商人を名乗る女性が呟く。
 放課後の駄菓子屋「ノーベル」。飾り気のないカタカナ表記の看板が、実に田舎臭い。

「日本人にしか見えませんよ、ザハロフさん」

 言い返して、僕は手にした駄菓子のチョコレートをレジに置いた。
 レジに座る女性は「五円」と呟いて、また緋濡れのアスファルトに黄昏る。

「シェークスピア。『ヴェニスの商人』に出てくる、強欲なユダヤの金貸しの言葉さ」

 死の商人を名乗る彼女は、道化師のような女性だった。
 銀縁の眼鏡にくわえ煙草。
 色素の薄い目はいつも眠たげに垂れて、どこか泣いているようにも見える。
 けれど口元に湛えたニヒルな笑みが、彼女の表情を誤魔化していた。

「シャイロックですね」
「そ」

 僕が差し出した五円玉を受け取って、ザハロフさんは色褪せたレジに放り込んだ。
 僕らの遠光台高校の麓に佇む駄菓子屋は、ザハロフさんが一人で経営している。
 夏だと言うのにクーラーもつかないこの店は、あまり客入りがよくない。

「いつまで経っても、私はノーベルにはなれないんだ」

 白人のように白いザハロフさんの肌を、汗が這い落ちる。

「世界大戦を起こしたザハロフと、人肉を担保に金を貸したシャイロック。ダイナマイトを発明して、世界を爆発させたノーベル。
 やったことは紛れもない「悪」なのに、嫌われるのはいつも私たちユダヤ人なんだ。全く以て、損な役割さ」

 彼女はもちろん、ユダヤ人ではない。
 僕たちと同じ日本人で、プロフィールは教えてくれないけれど、きっと歳だって十も違わないだろう。
 けれどそんなことは些細なことで、一高校生である僕には、何の関係もない。

「それで、今日はこの武器商人に何の用だい?」
「忘れん坊の泥棒についてです」

 レジに併設されたカウンターに座り、本題を切り出した。
 駄菓子屋のザハロフさんは、不思議と見識が広い。その知識を活かして、よく子供たちを集めて都市伝説を聞かせては、その怯える様子を楽しんでいる。

「ふむ、そいつはまあ随分と、突飛な話だねぇ。その手の話題、ニィ君は興味ないと思ってたよ」
「まさか、僕だって年頃の高校生ですよ?」

 言いつつ、買ったばかりのチョコを口に放り込む。安っぽくて甘ったるい味が、少しささくれだった心を落ち着かせる。

「噂話くらい、興味ありますよ」
「へぇー、じゃあそのお子ちゃまは、忘れん坊の泥棒の何を知りたいんだい?」

 からかうような口調でバサロフさんは謳う。
 その言葉に、少し苛つく。初めは自分が言った事だけど、高校生とお子ちゃまは違う。

「忘れん坊の泥棒が十年前にかけた呪いの解き方と、盗んだ少女の行方を」

 あの日、忘れん坊の泥棒に呪われた男の子。男の子の見返りに盗まれた、可哀想な女の子。
 その行方を、僕は十年前から探し続けている。

「……やっぱり君は、ただのお子ちゃまじゃあなさそうだ」

 困ったような微笑と、嘆息。ザハロフさんの表情に、今度は僕が困惑する。

「どういう意味です?」
「いくら都市伝説でも、泥棒と呪いを直結させて考える高校生なんていないだろう? それに君は、泥棒が盗んだものを知ってる口ぶりだ」

 藍色の箱からショートピースを取り出して、ザハロフさんがその火口を軽く叩いた。

「おっけい、だが私が言えるのは呪いに関する事だけだ。なんでも私が知ってると思ったら間違いだよ」

 葉を偏らせた両切りのタバコを、浅く咥えて火をつける。
 時折こちらに流されるザハロフさんの目線が、いやに色っぽい。

「じゃーまず呪いについて定義してみようか。呪いとは法や祝詞が変異したものであるとされ、転じて相手に悪意を大声で伝えること、らしい。さらに現代では魔術的な側面を持ち、対象を殺害、ないし不幸にする意味に変わった、だったかな」

 咥えた煙草を軽くふかして、ザハロフさんが持ち前の饒舌を発揮する。
 ほんのりと香るバニラの甘い匂いに、ほんの一瞬だけ、それがタバコであることを忘れてしまう。

「……僕まだ未成年なんですけど、受動喫煙」
「おっと、すまないね。すぐ消すよ」

 苦笑するザハロフさんが紫煙を吐き出す。灰の煙はどこにも行けず、古い天井の上を這い回る。
 その紫煙を、帰っていく恋人のように見送ると、彼女はもう一度僕を見据えた。
 栗色に彩られた目。けれどその瞳孔は、深い黒に沈んでいる。

「ま何にせよ、この程度の呪いなら誰でも出来るさ。今みたいに、タバコを吸うだけでいい。ただ君が私に聞きたいのは、「泥棒が他者を魔術的なサムシングで不幸にするか」って所だろうね」

 乾いた唇に吸い口を転がすザハロフさんは、不思議と絵になった。
 きっと彼女のような人を、タバコを吸うのが上手い、と言うのだろう。
 タバコを知らない僕でもうっすらと勘づくほど、彼女の吐き出すショートピースは上品な匂いがした。

「このタバコだって、一種の呪いさ。受動喫煙させた人間の発がん性リスクを高める。じわじわと、相手を苦しめる」

 「ま、ショートピースみたいな両切りでやるのは、ちょっと勿体無いけどね」と溜め息がちに火を揉み消す。ザハロフさんのタバコは、かなり高いらしい。

「さて本題だが、どうだろう。彼女は自分が歪めた未来まで知っているからねぇ」

 甘い残り香が漂う中で、ザハロフさんは嘲るように嗤う。
 それは甘い紫煙と相まって、ひどく艶やかに、けれどひどく哀しげに映って見えた。

「やっぱり、泥棒は実在するんですね」
「おや、なぜそう思うんだい?」

 誘導尋問にも似た言葉に、ザハロフさんの眉がピクリと吊り上がる。

「彼女。ザハロフさん、今そう言いましたよね。なぜ性別に触れられていない都市伝説の存在を「女性」と決めつけたんですか?」

 忘れん坊の泥棒は、その逸話にしか注目されない。性別は端から噂にもならなくて、その特異性のみが独り歩きした。
 元はと言えば、僕らの通う遠光台高校の三年生が流した噂らしい。所詮は高校生が作ったような、安い都市伝説に過ぎないのだ。

「鋭い、ノーベルしょーものだ。でもそこからは、別料金だ。何か買ってきな」

 ニヒルに口角を釣り上げて、白く細い指が駄菓子の詰まった陳列棚を指さす。

「じゃあ、この五円玉っぽいチョコを」
「出た、安くて美味しい。でも売る側的には会計の度に『もっと単価高いの買ってほしいなぁ』って思う五円玉のチョコレート。毎度毎度ありがとサンでっ」

 半ばやけくそ気味の言葉は、セミの合唱に重なって消えていく。
 気にせず五円を払って、席に着いた。立て付けの悪い錆びたパイプ椅子が、キィと鳴いた。

「んじゃあ、結論から申し上げましょうか」

 猫みたいに緩慢な動作で背を逸らして、ザハロフさんは僕を覗き込む。
 栗色と、深い黒。木々の梢に覗く暗がりみたいに、彼女の茶の眼はいつも暗く沈んでいる。

「泥棒の呪い、あるよ」

 ザハロフさんの口調は、都市伝説を語るには不釣り合いなほど、確定的な何かを含んでいるように聞こえた。 

「忘れん坊の泥棒に呪われた人間は、小さな盗みを無意識の拒絶で行うようになる。そしてやがて、拒絶を恐れるようになるのさ。だが、それでも決して何かを嫌い、拒絶する気持ちは拭えない。人間だからね」

 それが半分の泥棒サ、とザハロフさんは笑う。
 まるで、今まで見てきたものを懐かしむかのように。

「それが泥棒の狙い。溜め込んだ拒絶が解放される度、半分の泥棒は忘れん坊の泥棒に近付き──」

 煙草の代わりに取り出した飴玉が、ザハロフさんの口許で小さく砕けた。

「やがて本物の忘れん坊の泥棒になるのさ」
「解呪の、方法は」

 気が逸る。
 呪いと、盗まれた少女の行方。呪いさえわかってしまえば、きっと少女の行方にも近づくはず。
 そんな気がして、僕の気はどうしようもなく逸った。

「忘れん坊の泥棒に再会すること。そして、彼を受け入れることだ」
「受け入れる?」
「そ、受け入れる。そして話の流れから察するに、忘れん坊の呪いを受けたのは──」

 ズレた眼鏡の淵に掛かった緑眼が、ニヤリと歪む。

「君だろう、ニィ君?」

 蝉の声が、最期の断末魔を残して消えた。群青がかかった緋色の空には、気の早い一番星が瞬いている。
 生ぬるい風のささやきが、あの日と同じように僕の首根っこを掴んだ。