僕と天月。
十六の春の二人の出会いに、きっと運命的なものなんて一つもない。
僕らが住む遠光台周辺には、小学校は三つ、高校は一つしかなった。だから別々の中学に通ってた僕たちも、必然的に一つの高校に集まることになっている。
だからその出会いに、運命的なものなんて一つもない。
天月詩乃は奇妙な少女だった。
中学を卒業して、高校に上がった男女の間には、恋愛に対する興味が沸き起こってくる。
けれど彼女は、そう言った年相応の感情に興味を示さなかった。
優しさに執着し、けれど、他人に対する興味というものが欠けている。
他人への優しさではなく、優しさそのものを求めていたのだから。
そんな天月も、高校一年の春。同じクラスの男子に告白されたことがある。
相手はクラスの女子達からも人気の、優秀な少年。
けれど彼女は、悩むことすらしなかった。
「え? んー、メリットがないから、やめときます」
そこからだった。彼女が女子達からイジメられるようになったのは。
聞こえよがしに陰口を叩かれ、物を隠され、体操着に穴を開けられ、靴を奪われた。
それでも彼女は泣きもせず、怒りもせず、ただ真っ向から「何の意味があるんですか?」と尋ねた。イジメはエスカレートした。
「ねえ、あの子達はなんでこんなことするんでしょう?」
当時の席替えで隣り合わせになっていた僕を、彼女は無遠慮に巻き込む。
当時の僕たちは初対面で、会話もそれが初めてだった。
「君がフッた男の子が、あの子達のリーダー格のお気に入りだったんだよ」
「そうなんだー、知らなかったです」
「だろうね」
正直、巻き込まれたくはなかった。
けれど彼女と話すにつれ、自分がどんどん彼女に引き込まれていると悟った。
それでも彼女との会話を拒絶しなかったのは、イジメの片棒を担ぎたくなかっただけに過ぎない。
「君は、優しいですね」
その一言は、唐突だった。
「何が?」
「私と口を利いてくれるじゃないですかー。皆、嫌がって喋ってくれないんですよ」
天月はイジメられている。クラスでも上位のヒエラルキーに位置する女子達に。
だから、厄介事に巻き込まれたくない他の生徒や教師達は、彼女を腫れ物みたいに扱う。
孤立する彼女を隣席で眺めさせられる僕にとっては、ただただ不快でしかない。
「勘違いするなよ。イジメられてる人間=価値が低い人間、って訳じゃない」
いい加減、限界だった。
汚い所を恥ずかしげもなく晒すイジメっ子達が。自分大事に、お得意の偽善すらも示せなくなった同級生達が。自分の仕事が増えるのを嫌って、イジメを黙殺する教師が。
そして何より、何の行動もしない、天月自身が。腹立たしくて仕方なかった。
「君は、このままでいいのか?」
長らく眠っていた「拒絶」が、もう一度鎌首をもたげた音がした。
「このままって?」
「苛められたままってことだよ」
「そりゃあ嫌ですよー。君が優しいから、余計に」
遠巻きに眺めるイジメっ子達を見て、天月は微笑んだ。
挑発でもなく、軽蔑でもない。何か理解できない、けれど整合性のある笑みだった。
きっと人は、理解できないそれを、怪物と呼ぶのだろう。
そして怪物は、拒絶される運命にある。
翌日から、イジメはピタリと止んだ。
まるで、イジメその物がなかったみたいに。
イジメっ子であった女子達も、何事も無かったかのようにバラバラになって、主犯格は不登校になって。
中には天月と会話しようとする奴さえいた。
「ねえ、私あの子達に嫌がらせされてませんでしたっけ?」
怪奇現象に遭遇したみたいに、怪訝な顔をした天月が話し掛けてきた。
「確かにそうだね」
「じゃあ、なんで急に馴れ馴れしくなったんでしょう?」
「さあ。もしかしたら、罪悪感があったのかもしれない」
「ひょっとして、君が何かしたんですか?」
「まさか、僕にそんな勇気はないよ」
天月詩乃、と少女は名乗った。
思えば、この時からだったのだろう。僕が彼女を気にかけるようになったのは。
人は見たこともないもの、経験したことのないものに興味を覚える。僕の場合は、たまたまそれが天月だっただけ。
それなのに気付けば、いつも視界には彼女がいて。
全く違うことをしていた時でも、授業中でも。前を向いても後ろを向いても、気付けば僕の視界には、いつも天月が映っていた。
どこかで誰かが困る度に、彼女はその手を差し伸べた。何度でも、どこにいても。
ある時は木に掛かった風船を取ってあげ、またある時は車に轢かれた野良犬を看取る。その綺麗な姿を、隣で見ていたかったのかもしれない。
けれどその優しさは後付けのブックカバーみたいで、取って付けられた物でしかなくて。
用が済めば、彼女は助けた人間に見向きもしない。
彼女はただ、純粋な優しさだけを求めていたのだから。
「涙は呪いです」
と彼女は言った。優しさがあれば、涙なんていらない、と。
僕は言った。
「涙は恩恵だよ」
涙は優しさを教えてくれる、先生なんだ。
つまるところ、僕たちの意見はいつだってすれ違っていた。
けれど僕らは、それでよかった。お互いに決定的な価値観の違いを持つからこそ、いつだって新鮮な言葉を知ることが出来る。
僕には、それで十分だった。そう、思ったふりをしていた。
「ねえ、二条くん」
けれど、彼女は、天月は決して足踏みをしない少女だった。
「私たち、付き合い、ませんか?」
夏の蝉時雨。群青に沈む、暮れの空。
少しうつむいた、天月の顔。その頬が赤らんでいるように見えて、思わず息を飲む。
彼女を好きになったのは、好きと言われてからだったような気もするし、ずっと前からだった気もする。
気付けばいつだって視界の端には天月がいたし、いつの間にか彼女を目で追っていたこともあった。
教室に入れば真っ先に彼女を探した。見付けた時は、心が踊った。
何の気なしに話しかけようとして、でもその「何の気なし」が、一番難しくて。
冷静に考えれば、なんでそんなに話しかけたいのかもわからなくて。
そんな自分に気付くたびに、鼓動は叫んで、痛みにも似た感覚が心臓を刺して。
目を離しても、心臓はチクチクと落ち着かない。
思い返せば、もうこの時の僕は、自分の感情を抑えきれなくなったのかもしれない。
この人と一緒にいたい──と、純粋に想う自分。
「好き」以外の言葉でこの感情の名を探す自分。
二人の自分が、胸の中で喧嘩する。
ひどく素直に、けれど、残酷なまでに。彼女を綺麗だと思う自分に、気付いてしまっていた。
「うん、よろこんで」
たぶん、心からの返事ができたと思う。
自分の事も、相手の事も、過去も未来も気にせずに。純粋な好意で、返事ができたと思う。
「え、本当に、いいんですか? 私、あまり相手の事考えられませんよ?」
告白は天月からだった。けれど、彼女には自信がなかった。
もじもじと指を絡ませて、頬をより一層紅潮させる。
「知ってるよ、今さらだ」
それに、その誰にも汚されない美しさに惚れたのだから、僕が言うべきことはない。
「迷惑だって、かけるし……」
「それも今さらだ」
「それでも、私なんかで、いいんですか?」
不安げに見上げた瞳が、熱を帯びて僕を見つめる。僕はきっぱりと言い切った。
「なんかじゃないさ、天月詩乃がいいんだ。他の誰でもない、君だけが」
天月でいい。そんな妥協案じみたものじゃなくて、天月が、いい。天月が、好きだ。
蝉時雨が途絶えた。一瞬の静寂。地を這う乾いた風が、天月の顔にかかった黒髪を撫でる。
柔らかに揺れた黒髪の隙間から、ビー玉みたいに濡れた瞳が覗いた。
「じゃあ、よろしく、お願いします……」
「こちらこそ、よろしく」
照れ隠しに差し出された細い手を握り返す。
「メリットは、見つかった?」
「んむぅ……、優しいのに意地悪ですね、君は」
赤らんだ頬を押さえつつ、天月が睨み付けてくる。
僕は笑う。つられた彼女も、恥ずかしそうにニシシと笑った。
──不意に。
けれど、当然の事のように、僕らの距離が縮まる。
どちらから歩み寄ったのかもわからない。
初めからこの距離だったのかもしれない。
いや、或いは。僕たちの距離は、初めから一歩だって縮まっていなかったのかもしれない。
そんなことは、今も当時もどうでもよくて。
僕たちはただ、吸い寄せられるように自然に──
「……フフッ。これでオトナ、ですか?」
「さあ。どうだろうね?」
凍っていた蝉時雨の激流が、溶け出すように押し寄せる。
あの頃の僕たちはどこまでも純粋で、不器用で。後の事なんて、考えた振りだけして放り出していた。
達観した気でいて、その実僕たちは、どうしようもない所で子供だった。
だから僕らは、ほんの些細な違いに、息を詰まらせていった。
付き合う前は平気だった彼女の他人への冷たい優しさにも、モヤモヤした焦りばかりが募るようになってしまった。
──あんまり他の男に優しくしないでほしい
僕は少し、けれど確かに嫉妬している。
本当は、面と向かって彼女にそう言うべきだったのだろう。
けれどその思いが、醜く見えて、喉につっかえて。最後まで、言葉にすることはできなかった。
言葉が埋めるはずだった距離。
言葉が埋められなかった距離。
触れるほど近くて、声が届かないほど遠い距離。
僕らが埋められなかった距離は、気付けば越えられないほど遠くなって。
いつしか僕は、彼女に背を向けて目を閉じた。
好きという感情に蓋をして、天月詩乃から離れてしまった。
『大丈夫ですか?』
『別れるって、そんな急に……!』
『私、楽しかったです』
彼女は声をかけてくれた。けれど、そのどれも核心には触れてくれなかった。
きっと僕たちは、不器用すぎたのだろう。
『もう、友達に戻ろう』
夏に始まった僕らの関係は、その年の冬には冷たい雪に埋もれた。
季節は巡る。
けれど僕らの恋は巡らず、未だに冷たい雪に埋まり続けて。
けれど不器用な僕らは、その宝物を取り出す方法を見付けられないでいる。
寒い、と思った。
見上げた視界に、彼女はいない。
代わりに、見知った駄菓子屋が佇んでいる。
看板だけが真新しい軒先で、一人の女性が箒を片手に笑っている。
「駄菓子屋ノーベル」。そこが僕の、目的地だった。
十六の春の二人の出会いに、きっと運命的なものなんて一つもない。
僕らが住む遠光台周辺には、小学校は三つ、高校は一つしかなった。だから別々の中学に通ってた僕たちも、必然的に一つの高校に集まることになっている。
だからその出会いに、運命的なものなんて一つもない。
天月詩乃は奇妙な少女だった。
中学を卒業して、高校に上がった男女の間には、恋愛に対する興味が沸き起こってくる。
けれど彼女は、そう言った年相応の感情に興味を示さなかった。
優しさに執着し、けれど、他人に対する興味というものが欠けている。
他人への優しさではなく、優しさそのものを求めていたのだから。
そんな天月も、高校一年の春。同じクラスの男子に告白されたことがある。
相手はクラスの女子達からも人気の、優秀な少年。
けれど彼女は、悩むことすらしなかった。
「え? んー、メリットがないから、やめときます」
そこからだった。彼女が女子達からイジメられるようになったのは。
聞こえよがしに陰口を叩かれ、物を隠され、体操着に穴を開けられ、靴を奪われた。
それでも彼女は泣きもせず、怒りもせず、ただ真っ向から「何の意味があるんですか?」と尋ねた。イジメはエスカレートした。
「ねえ、あの子達はなんでこんなことするんでしょう?」
当時の席替えで隣り合わせになっていた僕を、彼女は無遠慮に巻き込む。
当時の僕たちは初対面で、会話もそれが初めてだった。
「君がフッた男の子が、あの子達のリーダー格のお気に入りだったんだよ」
「そうなんだー、知らなかったです」
「だろうね」
正直、巻き込まれたくはなかった。
けれど彼女と話すにつれ、自分がどんどん彼女に引き込まれていると悟った。
それでも彼女との会話を拒絶しなかったのは、イジメの片棒を担ぎたくなかっただけに過ぎない。
「君は、優しいですね」
その一言は、唐突だった。
「何が?」
「私と口を利いてくれるじゃないですかー。皆、嫌がって喋ってくれないんですよ」
天月はイジメられている。クラスでも上位のヒエラルキーに位置する女子達に。
だから、厄介事に巻き込まれたくない他の生徒や教師達は、彼女を腫れ物みたいに扱う。
孤立する彼女を隣席で眺めさせられる僕にとっては、ただただ不快でしかない。
「勘違いするなよ。イジメられてる人間=価値が低い人間、って訳じゃない」
いい加減、限界だった。
汚い所を恥ずかしげもなく晒すイジメっ子達が。自分大事に、お得意の偽善すらも示せなくなった同級生達が。自分の仕事が増えるのを嫌って、イジメを黙殺する教師が。
そして何より、何の行動もしない、天月自身が。腹立たしくて仕方なかった。
「君は、このままでいいのか?」
長らく眠っていた「拒絶」が、もう一度鎌首をもたげた音がした。
「このままって?」
「苛められたままってことだよ」
「そりゃあ嫌ですよー。君が優しいから、余計に」
遠巻きに眺めるイジメっ子達を見て、天月は微笑んだ。
挑発でもなく、軽蔑でもない。何か理解できない、けれど整合性のある笑みだった。
きっと人は、理解できないそれを、怪物と呼ぶのだろう。
そして怪物は、拒絶される運命にある。
翌日から、イジメはピタリと止んだ。
まるで、イジメその物がなかったみたいに。
イジメっ子であった女子達も、何事も無かったかのようにバラバラになって、主犯格は不登校になって。
中には天月と会話しようとする奴さえいた。
「ねえ、私あの子達に嫌がらせされてませんでしたっけ?」
怪奇現象に遭遇したみたいに、怪訝な顔をした天月が話し掛けてきた。
「確かにそうだね」
「じゃあ、なんで急に馴れ馴れしくなったんでしょう?」
「さあ。もしかしたら、罪悪感があったのかもしれない」
「ひょっとして、君が何かしたんですか?」
「まさか、僕にそんな勇気はないよ」
天月詩乃、と少女は名乗った。
思えば、この時からだったのだろう。僕が彼女を気にかけるようになったのは。
人は見たこともないもの、経験したことのないものに興味を覚える。僕の場合は、たまたまそれが天月だっただけ。
それなのに気付けば、いつも視界には彼女がいて。
全く違うことをしていた時でも、授業中でも。前を向いても後ろを向いても、気付けば僕の視界には、いつも天月が映っていた。
どこかで誰かが困る度に、彼女はその手を差し伸べた。何度でも、どこにいても。
ある時は木に掛かった風船を取ってあげ、またある時は車に轢かれた野良犬を看取る。その綺麗な姿を、隣で見ていたかったのかもしれない。
けれどその優しさは後付けのブックカバーみたいで、取って付けられた物でしかなくて。
用が済めば、彼女は助けた人間に見向きもしない。
彼女はただ、純粋な優しさだけを求めていたのだから。
「涙は呪いです」
と彼女は言った。優しさがあれば、涙なんていらない、と。
僕は言った。
「涙は恩恵だよ」
涙は優しさを教えてくれる、先生なんだ。
つまるところ、僕たちの意見はいつだってすれ違っていた。
けれど僕らは、それでよかった。お互いに決定的な価値観の違いを持つからこそ、いつだって新鮮な言葉を知ることが出来る。
僕には、それで十分だった。そう、思ったふりをしていた。
「ねえ、二条くん」
けれど、彼女は、天月は決して足踏みをしない少女だった。
「私たち、付き合い、ませんか?」
夏の蝉時雨。群青に沈む、暮れの空。
少しうつむいた、天月の顔。その頬が赤らんでいるように見えて、思わず息を飲む。
彼女を好きになったのは、好きと言われてからだったような気もするし、ずっと前からだった気もする。
気付けばいつだって視界の端には天月がいたし、いつの間にか彼女を目で追っていたこともあった。
教室に入れば真っ先に彼女を探した。見付けた時は、心が踊った。
何の気なしに話しかけようとして、でもその「何の気なし」が、一番難しくて。
冷静に考えれば、なんでそんなに話しかけたいのかもわからなくて。
そんな自分に気付くたびに、鼓動は叫んで、痛みにも似た感覚が心臓を刺して。
目を離しても、心臓はチクチクと落ち着かない。
思い返せば、もうこの時の僕は、自分の感情を抑えきれなくなったのかもしれない。
この人と一緒にいたい──と、純粋に想う自分。
「好き」以外の言葉でこの感情の名を探す自分。
二人の自分が、胸の中で喧嘩する。
ひどく素直に、けれど、残酷なまでに。彼女を綺麗だと思う自分に、気付いてしまっていた。
「うん、よろこんで」
たぶん、心からの返事ができたと思う。
自分の事も、相手の事も、過去も未来も気にせずに。純粋な好意で、返事ができたと思う。
「え、本当に、いいんですか? 私、あまり相手の事考えられませんよ?」
告白は天月からだった。けれど、彼女には自信がなかった。
もじもじと指を絡ませて、頬をより一層紅潮させる。
「知ってるよ、今さらだ」
それに、その誰にも汚されない美しさに惚れたのだから、僕が言うべきことはない。
「迷惑だって、かけるし……」
「それも今さらだ」
「それでも、私なんかで、いいんですか?」
不安げに見上げた瞳が、熱を帯びて僕を見つめる。僕はきっぱりと言い切った。
「なんかじゃないさ、天月詩乃がいいんだ。他の誰でもない、君だけが」
天月でいい。そんな妥協案じみたものじゃなくて、天月が、いい。天月が、好きだ。
蝉時雨が途絶えた。一瞬の静寂。地を這う乾いた風が、天月の顔にかかった黒髪を撫でる。
柔らかに揺れた黒髪の隙間から、ビー玉みたいに濡れた瞳が覗いた。
「じゃあ、よろしく、お願いします……」
「こちらこそ、よろしく」
照れ隠しに差し出された細い手を握り返す。
「メリットは、見つかった?」
「んむぅ……、優しいのに意地悪ですね、君は」
赤らんだ頬を押さえつつ、天月が睨み付けてくる。
僕は笑う。つられた彼女も、恥ずかしそうにニシシと笑った。
──不意に。
けれど、当然の事のように、僕らの距離が縮まる。
どちらから歩み寄ったのかもわからない。
初めからこの距離だったのかもしれない。
いや、或いは。僕たちの距離は、初めから一歩だって縮まっていなかったのかもしれない。
そんなことは、今も当時もどうでもよくて。
僕たちはただ、吸い寄せられるように自然に──
「……フフッ。これでオトナ、ですか?」
「さあ。どうだろうね?」
凍っていた蝉時雨の激流が、溶け出すように押し寄せる。
あの頃の僕たちはどこまでも純粋で、不器用で。後の事なんて、考えた振りだけして放り出していた。
達観した気でいて、その実僕たちは、どうしようもない所で子供だった。
だから僕らは、ほんの些細な違いに、息を詰まらせていった。
付き合う前は平気だった彼女の他人への冷たい優しさにも、モヤモヤした焦りばかりが募るようになってしまった。
──あんまり他の男に優しくしないでほしい
僕は少し、けれど確かに嫉妬している。
本当は、面と向かって彼女にそう言うべきだったのだろう。
けれどその思いが、醜く見えて、喉につっかえて。最後まで、言葉にすることはできなかった。
言葉が埋めるはずだった距離。
言葉が埋められなかった距離。
触れるほど近くて、声が届かないほど遠い距離。
僕らが埋められなかった距離は、気付けば越えられないほど遠くなって。
いつしか僕は、彼女に背を向けて目を閉じた。
好きという感情に蓋をして、天月詩乃から離れてしまった。
『大丈夫ですか?』
『別れるって、そんな急に……!』
『私、楽しかったです』
彼女は声をかけてくれた。けれど、そのどれも核心には触れてくれなかった。
きっと僕たちは、不器用すぎたのだろう。
『もう、友達に戻ろう』
夏に始まった僕らの関係は、その年の冬には冷たい雪に埋もれた。
季節は巡る。
けれど僕らの恋は巡らず、未だに冷たい雪に埋まり続けて。
けれど不器用な僕らは、その宝物を取り出す方法を見付けられないでいる。
寒い、と思った。
見上げた視界に、彼女はいない。
代わりに、見知った駄菓子屋が佇んでいる。
看板だけが真新しい軒先で、一人の女性が箒を片手に笑っている。
「駄菓子屋ノーベル」。そこが僕の、目的地だった。