灯りのない看板を、月の灯りが淡く照らす。
 駄菓子屋ノーベル。一人の哀れな武器商人が同業者を妬んで名付けた、ちっぽけな盗品窟の、表の顔。
 僕の目的地にして、恐らくこの旅の最終目的地になるであろう場所だった。

「やあ半分の泥棒君、来ると思ってたよ」

 ふかしていたショートピースを揉み消して、カウンターのザハロフさんが微笑む。
 裏の盗品窟にいる時とは真逆の、道化の表情をしていた。

「こんばんは、武器商人さん」

 手に取った五円玉のチョコをカウンターに置いて、財布から百円を取り出す。

「おや? 五円玉の持ち合わせはないのかい?」
「いえ、これは代金です」

 ピクリとザハロフさんの眉が動いた。
 ニヒルな笑顔は変わらぬまま、試すような瞳が僕を覗き込む。

「ほーう、そうかいそうかい。もう見てきたとは、仕事が早くて結構だよ、泥棒見習い君」

 何の、とは聞かれなかったし、言わなかった。
 僕ら二人の話題なんて、一つしかなかったから。

「しかし、ちと高いね。あんな古い時期外れの竹を返して、綺麗なコンビニを頂戴したんだ、こっちとしては釣りが来るよ」

 加賀美宮に返された七夕竹。加賀美宮から盗まれた、コンビニ。
 昨日の夜にザハロフさんが持ち掛けた、盗品の証明。それは同時に、泥棒の実存も意味している。

「そのことで、お話が」
「なんだい?」

 煙草の代わりに咥えたキャンディが、カラカラと鳴く。
 それは記憶のフィルムを回す、射影機みたいにカラカラと。泥棒探しの記憶を思い出させる。

『ねえ、私あの子達に嫌がらせされてませんでしたっけ?』

 泥棒にイジメっ子達の「悪意」を盗まれ、イジメから解放された時。天月は真っ先に僕へイジメの有無を確認してきた。
 それだけじゃない。

『昔、この先の空き地で七夕竹が飾られていました』

 今日帰ってきた七夕も、消えたオムライスのピーマンも、壊された野良犬の墓標も。
 その全ての記憶を頼りに、忘れん坊の泥棒を探していた。
 つまり、天月詩乃は覚えている。世界が忘れた、行方知れずの盗品の存在を。彼女自身が関わったもの、全てを。

「天月詩乃は、忘れん坊の泥棒ですか?」
「違うよ」

 問いかける。あまりにも希薄な可能性。当然、ザハロフさんは首を振る。
 ひとまずは安心する。彼女が自覚のない泥棒だったら、事態はもっとややこしくなっていた。
 次の質問こそが、一番の命題だった。

『忘れん坊の泥棒に再会すること。そして、彼を受け入れることだ』

 僕が忘れん坊の泥棒に呪いを打ち明けた時、ザハロフさんは解呪の方を語った。
 忘れん坊の泥棒を受け入れること、と。
 そして彼女は昨日、自身が泥棒に拾われた過去を語った。
 その時の彼女の台詞を、僕はまだ忘れていない。

『私が泥棒を受け入れたのはね、二条君。あの日死ぬはずだった私は、復讐に全てを賭けた。私は、あの日の自分に背を向けたくないのさ』

 忘れん坊の泥棒を、受け入れた。
 彼女は確かにそう言った。ならば彼女こそ、ザハロフさんこそ泥棒なんじゃないだろうか?
 そう考えると、あっさりと管理下の盗品を返せたことにも合点がいく。

「じゃあ、バジル・ザハロフが忘れん坊の泥棒ですか?」

 一瞬の沈黙が、道化の顔に笑みを掘る。
 深く、邪悪な、悪魔の笑みを。噛み締めたキャンディが、ガリリと猛った。

「惜しい、実に惜しいね。バジル・ザハロフは泥棒じゃない」

 命題に突き付けられたのは偽の解。
 けれどそれを証明する式はなくて。「盗品窟の女主人が泥棒ではない」と言う証拠も、どこにもなくて。
 ただ「惜しい」と言う彼女の言葉だけが、次の方程式に対する重要なヒントとして与えられた。

「また、考えてきます」
「ああ、いいよ。若者の悩む姿とは甘美なものさ」

 噛み締めたキャンディを転がして、ザハロフさんは笑った。

「ところで、教えてくれないかい? 君が詩乃ちゃんを、どう思っているのか。その飾らない本心を」

 道化の顔から、笑みが消えた。
 いつもニヒルに笑うザハロフさんの、真剣な顔。それはきっと、隠す必要のない彼女の本心だ。

「君はどうも詩乃ちゃんへの感情を避けている。理由は、その青い本心のせいだろう?」

 避けている。
 毎晩思い出すくらい、彼女の事が好きだった。
 けれど彼女の事を信じきれないくらいに、僕は彼女を好きじゃなかった。
 だからきっと、怖くて避けていた。

「だが彼女はそれを知らない。戻るかも分からない想い人を待ち続けるなんて、可哀想だろう?」

 付き合っていた時は、互いが何を考えているのかが分かった。いや、分かったつもりだった。
 でも今となっては、彼女が何を考えているのか分からない。自信がない。
 好きな人を分かれないことが、こんなにも苦しいなんて、知らなかったんだ。
 それでも心は、静かに「好き」を叫び続けていて。近づく度に、鼓動は舞い上がって。
 天月詩乃に出会う度、僕は何度も恋をした。

「好き、ですよ」

 その言葉は、枷だった。

「好きです、好きですよ。今も昔もずっと。天月が、好きです」

 枷が外れたから、感情は堰を切ったように溢れ出した。
 喜びも、痛みも、苦しみも。全部。

「でも、怖いんですよ。怖くて、今の関係を終わらせられない」

 素直になれた。
 だから、言葉は飾らなかった。
 天月が何を考えるのかわからないから、怖い。
 怖いから、言葉を探す言葉さえ見当たらない。

「……そうかい」

 溜め息一つ。反らせた体を椅子に預けて、ザハロフさんは天井を仰ぐ。
 柔らかく、優しい声。
 子供を寝かしつける母親みたいに柔らかくて。けれどその声は、死んだ子の歳を数える母親みたいに哀しい。

「一言で片付けられる言葉なんて、得てして難しいものさ」


 盗品窟で見た色のない目が、剥き出しの梁をなぞった。

「だから大人たちはその概念を考え切らずに、小さな言葉に閉じ込めたんだ」

 天月とは少し違う、黒い瞳孔。
 天月の瞳の奥が深海なら、きっとザハロフさんのそれは夜だ。
 重ねてきた苦労の数だけ、その夜は更けていく。もしかしたら、彼女は辛いからこそ笑うのかもしれない。

「いいかい、二条君? 君は、悩むことをやめてはいけないよ」

 どんな小さな言葉でも、飾らない言葉で伝えるんだ。
 大人になるってことは、二十歳になることでも、ましてや責任感を持つことでもない。

「『一人の人間』であることだよ、二条君。それが二十九年のクソッたれた人生で得た、私なりの答えさ」

 それはきっと、ザハロフさんの願望。
 貧困と屈辱塗れの人生に垣間見た、一遍の夢物語。
 彼女の言う「人間」をどう解釈し、どう選択するかは僕次第。きっと自分で答えを出すことこそ、大人への第一歩なのだろう。
 つまるところ、大人とは人生なのかもしれない。

「さあ、天使の時間は終わりだ」

 預けた背を起こして、ザハロフさんは微笑んだ。
 意図が読めない僕は、首を傾げる。

「停滞はここまでだよ。さっきの言葉、もう一度彼女(・・)に言ってやりたまえ」
「なにを、」

 彼女?
 振り返る。
 雨前の冷たい風が、頬を撫でた。

「こんばんは……」

 天月が、いる。
 白い頬を桃色に染め上げて、絡めた指でスカートを弄んで。軒下の淡い電灯の中に、立っている。

「あま、つき」

 なんでいるんだ?
 帰ったはずじゃ?
 いつから聞いてたんだ?
 色んな疑問が浮かんでは、消えて。また浮かんでは、今そこにいる天月に集束していく。

「……」

 誰も、何も言わなかった。
 何も言えなかったのかもしれない。
 言葉の代わりに、天月が近付いてくる。
 待って。
 まだ早いから、待って。
 胸が、張り裂けそうに苦しいから。

「天月、待っ──」

 手を握られる。
 小さくて、冷たくて、けれどどこか暖かい。
 頬が、握られた手が、体全体が。暑い。
 全身の血液が、順路を無視して暴れまわったみたいな、激情。
 ザハロフさんを見る。
 彼女は軽く手を振った。

「行ってきたまえ、若者よ」

 藍色の箱から、ショートピースを一本。
 安い赤リンマッチで火をつけて、ザハロフさんは紫煙をくゆらせる。

「今の君たちは、最高にカッコイイよ」

 ザハロフさんが微笑む。
 視界から、微笑がフェードアウトする。
 天月が、駆け出していた。
 ノーベルを飛び出す。荒い目のアスファルトを蹴り進み、学校の麓を横切り、国道の大通りへ続くトンネルを抜けた。

 僕らは夜を走る。
 なりふり構わず、未練なんて置き去りに。
 叫び出しそうな心を抱えて、ひた走る。

「……ッ」

 僕の手を取る天月の手に、力が籠った。
 足元を濡らす蛍光灯が、ときどき僕らを浮かび上がらせる。
 テンポよく弾む呼吸。バタバタとアスファルトを叩く足音。
 通りすぎる車のヘッドライトに照らされて、前を走る天月の姿が、両眼に焼き付く。

「綺麗だ……」

 素直な感想は抱くと同時に言葉になって、遠い往来のどよめきを切り裂きながら、虚ろに響いた。
 天月の足がピタリと止まる。
 しまった、と思った時にはもう遅い。

「……じゃあ、教えてくださいよ」

 振り返らない天月の声は、震えていた。

「もう、答え合わせの日まで待ってられないです」

 黒い髪を照らす、ヘッドライトとテールライト。
 長く尾を引く、僕らの影。どこまでも交わらない二つの影は塀の中に立って、僕らを見つめていた。 

「この感情は、なんですか?」

 答えはきっと、とっくに出ていた。僕も、天月も。

「この苦しくて、痛くて。胸が絞られるような気持ちの名前は、なんですか? どうすれば、このドキドキは収まりますか?」

 それでも答えを確かめるのは、この気持ちに向き合うため。
 誰かに答えを教えてもらって、この感情に「好き」の言葉を繋げるための、最終確認。

「あなたが、好きです」

 天月は泣いていた。
 でも、笑っていた。
 必死に歪めた唇を震わせて、流れる涙を止めもせず。
 海みたいに深くて、けれど飴細工みたいに透き通った蒼い瞳が、僕だけを見つめていた。

(苦しい)

 海。
 肺の中一杯に広がる、辛くて苦い、海の味。
 この泡立った海の苦さを肺ごと取り出して、洗い流してしまいたかった。
 ゴポリゴポリと湧き出した、マグマみたいな言葉の奔流を、全部言葉に出来たなら。僕に悔いは残らない。

(ダメだ)

 ダメだ、もう抑えきれない。
 好きだ、好きだ。やっぱり、好きだ。天月が、好きだ!
 こんな苦しい気持ちになったのは、こんなにも幸せな気持ちになったのは、後にも先にも天月との時間だけだ。
 こんなにも好きになれるのは、天月だけなんだ。

「……もう嘘も、逃げるのも嫌だ」

 だから、終わらせるんだ。
 飾らない言葉で、この一方通行な両想いを。

「卑怯だって言われてもいい、女々しくってもいい」

 僕は、君が。
 絡めた視線に、感情を投げる。僕らの今が恋なんだ。これが「好き」の感情なんだ。
 答え合わせの日なんて、必要なかったんだ。
 だって、答えはもうわかっていたのだかから。「好き」の言葉以外で、この感情に付ける名前を、見つけられたのだから。

「もう一度、君に『恋』をさせて下さい」

 信じられないほど体が熱かった。
 熱でも出たかのように頭はクラクラして、お腹の底はフワフワと浮かれていた。
 それでも一度浮かんだ言葉を、止めたくなかったから。

 ──二条圭冴は、天月詩乃に恋してます

 その言葉は、驚くほど素直に溶け出した。
 すかさず天月の空いた手を取って、手のひらに唇を重ねる。

「二条君は、ズルいですね」

 揺れる。
 往来のどよめきが、ヘッドライトに弱る夜が。
 海を映した鮮やかな瞳が、揺れる。

「……私、吐き出すだけでよかった」

 小さな体が、倒れ込んでくる。
 受け止めた天月の体は、震えていた。

「答え合わせなんて望まない。
 ただ、あなたに聞いてもらえるだけでよかった。
 だから、バチが当たっちゃったんですかね?
 私、もうじき殺されちゃうんです。
 昨日、ストーカーから最後の殺害予告が届きました。
 刃物でメッタ刺しにした私の写真の裏に「今月コロス」って。
 今回は、もうダメな気がするんです。
 でも、思うんです。
 あなたにこの気持ちを伝えられるのなら、それでいいかなって。
 私たちの取り戻した優しい世界で、あなたが笑っていられるのなら、私が生きた意味は残ります。
 私にとっての人生は、優しいあなたそのものだったから。
 だから、二条君からの「答え」なんて、聞きたくなかったんです」

 言葉は喧騒に揺蕩う。
 感情の堰を切ったように、今までの想いも時間も、全てを吐き出して。
 天月は「普通の女の子」になっていた。

「……なのに、ズルいですよ。
 答えを、言っちゃうなんて。
 私の覚悟を言葉で崩しちゃうなんて。
 ずっとお兄ちゃんに苛められて、忘れん坊の泥棒に盗んでもらって、ようやく手にした幸せだったのに。
 また奪われるから、全部投げ出して、いつでも死ねるように覚悟してたのに。
 今度は二条君が、私に生きる楽しさを押し付けるなんて。
 もっと、ずっと、あなたのそばで生きたいなんて、思わせるなんて。

 生きたい。
 生きたい。
 生きたいですよ。
 死ぬのは、怖いですよ。
 あなたの生きる世界で、私も生きたい。
 だから──ねえ、二条君」

 言葉が消える。
 天月の声は、変わらず揺れている。
 見上げる潤んだ瞳も、絡めた指も。熱を帯びて、震えている。
 深い海の底から、水面に昇って息継ぎをするみたいに。大きく息を吸い込んで、天月は口を開いた。

「私を、盗んでください」

 唇は、すぐそこにあった。
 右頬に泣きボクロが咲いていた。
 もう、迷わなかった。

「君だったんだね」

 僕は彼女にキスをした。
 離した唇が、また触れる。
 キスして、離れて、見つめ合って、またキスをする。
 触れるか触れないかの、淡いキスを。
 好きだよ、愛してる。
 私も好きです、愛してます。
 そんな言葉と一緒に、僕らは唇を重ねた──

 *

 天月詩乃の心臓は、それから十日間動き続けた。