校門に着く。
 二百五十四段の階段を登って、校舎に入る。
 自分のクラスに入って、席に着く。
 慣れた動作だけを繰り返して、ぼうっと深緑の黒板を眺めた。

 コンビニが、なくなっていた。
 それだけじゃない。アスファルトの駐車場も、色褪せた白線も。
 何もない。
 閉店して、貸し店舗になったんじゃない。
 建物そのものが初めから存在しなかったかのように、そこには何も存在しない。
 枯れ草色の雑草と、放置されたブラウン管テレビ。
 少し褪せた色を夏空に見せる、青い

「七夕竹……」

 夏蝉の潮騒が真夜中の砂嵐みたいに、頭を殴り付ける。

「竹がどうしたって?」

 無意識に溢れた言葉を、友崎が拾う。

「ああ、いたんだ、おはよう」
「おはー。え、「いたんだ」は酷くね?」

 で、竹がどした?
 前の席を僕の机に近付けて、友崎が尋ねてくる。

「いや、どうって……」

 何を言えばいいかわからない。
 朝起きて寄り道したら、夏休みに訪れたはずのコンビニがなくなっていた。
 しかも、それだけじゃない。
 あの一瞬に込められた情報を、精神の病気を疑われず伝えるにはどうすればいいんだ?

「ちょっと待って」
「おう、まだSHRまで十分あるぜ」

 友崎の言葉は聞いていなかった。
 思考はもう朝のコンビニにどっぷり浸かっている。 

 夏休みの始め、泥棒探しで訪れた加賀美宮のコンビニ。
 かつて空き地だったそこは、今はもうコンビニと駐車場に整地されていて、かつて空き地だった面影はない。
 そのはずだったんだ。それなのに。

『何なら明日、泥棒が盗んだ七夕竹でも返しておこうか?』

 ザハロフさんが軽口を叩いて、僕がそれに乗った翌朝。
 コンビニだったアスファルトは舗装前の荒れ地に変わって、忘れん坊の泥棒が盗んだ七夕竹が空き地の真ん中に突っ立っていた。
 まるで、初めからそこに生えていたように、雨風による劣化で色褪せて。それでもなお空き地に立ち続ける。

「すみません、ここのコンビニっていつ頃なくなったんですか?」

 たまたま通りすがったサラリーマンに声を掛けた。
 変人を見るような目で僕を見た後「コンビニ?」と尋ね返される。

「ここ、二十年前からずっと空き地だけど」
「あの竹は、七夕竹はいつからありました?」
「何年も前の七夕からだけど……あの、急ぐから」

 迷惑そうな顔でサラリーマンが去っていく。
 気にせず竹に近付いた。
 まっすぐ歩けていたとは思う。感覚も、きっと正常。
 ただ思考だけにモヤがかかって、夢現の脳が違和感に喘ぐ。

(どういうことだ……?)

 二十年前から空き地?
 七夕にはあった?
 今年の七夕も、雨だったのに?
 これが、盗品を返すと言うことなのか?
 じゃあ、八月十二日の天月は殺されないのか?
 訳はわからないけれど、この感覚には覚えがある。

「泥棒、かな……」
「あん、泥棒? 忘れん坊の泥棒か?」
「ああ、うん、そうっぽい」
「ンーだそりゃ」

 あったはずの物がなくなったり、無かったはずの物があったりする喪失感。
 或いは虚無感とも言える感覚は、幼い僕が嫌と言うほど味わった「忘れ盗み」の感覚と全く同じだ。

「それで、竹がなんだよ?」
「ああ、加賀美宮の空き地に、竹があったんだよ」
「ああ、あの空き地な。あったあった」
「知ってるのか?」

 椅子の背にお腹を預けて、友崎が頷く。

「おう、毎年七夕終わってもずっと放置されてるから、変わってんな~って」
「そうなんだ、知らなかった」

 知ってるわけがない。
 だってその空き地は、夏休みの始めまでコンビニだったのだから。

「おはよう御座います」

 朝のショートホームルーム開始の五分前に、天月が教室に入ってきた。
 僕と友崎も「おはよう」を返して、何となく彼女に目線を向ける。

「何の話してたんですか?」
「おお、加賀美宮の竹って不思議だな~、って話」

 友崎がざっくばらんに説明した瞬間、天月の目が怪訝に細まった。

「どこの竹ですか?」
「駅近くの空き地の。知らねぇ?」
「知ってますよ」
「なんだ、知らないの二条だけじゃん」

 笑う友崎を他所に、僕らは目を合わせる。
 知っていて当然だ。
 あの七夕祭りを、幼い天月は何よりも楽しみにしていたのだから。
 僕たちは「その竹がない」のを確認しに行ったのだから。

「二条君、あの」
「うん」

 何を言おうとしているかはすぐにわかった。だから、席を立つ。

「おいおいお二人さん、SHRまで後五分ねぇぞ?」
「すぐ戻るよ」

 にやけ面を置いて、僕らは教室を出た。
 SHR前で人も疎らな廊下。薄い窓が夏空を映す中に、僕らは顔を付き合わせる。

「コンビニ、ありましたよね?」

 深刻な、けれどどこか嬉しそうな天月の顔。頷きを返す。

「あったね」
「竹、無かったですよね?」
「なかったね」
「でも今は、コンビニはなくて、七夕竹がある」
「空き地、二十年前からずっと空いてるって」

 二人とも難しい顔で唸るけれど、思い浮かぶ答えは、きっと同じ。

「「忘れん坊の、泥棒?」」

 声が重なる。
 蝉の声がくぐもる。
 追い求めた答えを二人なぞって、混乱したまま握手する。
 手に覚えた互いの温度に、思い出して手を離す。

「あ、天月も覚えてたんだね」
「は、はい、もちろん」

 ドキドキした。
 何となく、世界が一つに繋がって、その先の道が見えたような気がした。

『──私と一緒に、短冊を飾りませんか?』

 あの約束だって、そう遠くはないはずだ。
 忘れん坊の泥棒を見つけて、優しい世界を返してもらって。
 そして天月の短冊を飾るんだ。
 『優しくなりますように』って。

「はいチャイム鳴ったぞー、教室戻れよー」

 チャイムが鳴った。向こうの廊下から先生が歩いてくる。

「戻りましょっか!」
「うん、そうだね」

 並んで席に戻る。
 窓際一番後ろに座る友崎が、いやらしい笑顔で僕らを見ていた。
 きっと何か下らないことを考えているのだろう。
 そしてその予感は、その日最後の授業で現実になった。

「放課後さ、居残りしねぇ?」

 五時間目の英表Ⅰをチャイムが終わらせた直後、友崎が僕の机にを突いた。

「しないよ、お菓子買って帰る」

 七夕竹は返ってきた。
 代わりに、コンビニはなかったことになった。その全てが盗品窟「jude kiss」の仕業なら、確認しない訳にはいかない。

「いーじゃん明日は雨だしー。今夜が一番綺麗なんだよー」
「何が」
「何がです?」

 後ろの席で教科書を詰め込んでいた天月が顔を出す。
 それを見て、友崎はまた満足そうに笑った。

「夏の第三角形!」

 煌めく星座の名前と、清々しい友崎の笑顔。
 その二つを理解した瞬間、僕は真っ先に帰ろうとした。
 でも、出来なかった。僕の腕を、天月が掴んでいたから。

「私、楽しみです」

 その言葉に動きが止まった僕は、即座に二人に両脇を抱えられ御用となった。
 別に、天月と過ごす時間を嫌っての事じゃない。
 本来なら八月十二日に天月が死ぬはずだったから。
 その未来が盗まれたとは言え、彼女を一人で帰らせる訳にはいかないからだ。
 そんな言い訳を必死に考えついたところで、誰もいなくなった校舎は夕暮れ色に染まった。

「ねえ、もう七時半だけど」
「ですね」
「八時が見頃だ。まだまだ夜は長いぜ?」

 人通りの少ない旧校舎の三階端。
 掃除すらも満足にされない煤けた階段の手摺に並んで、僕らはじっと機会を待っている。
 先頭に友崎、天月、僕と続く列は、映画に出てくるスパイのようだった。

「今日の見回り用務員はもっさん。奴は怖がりだから、この奥までは回って来ない」
「なるほど、もっさんさんの弱点を突いての階段ですか」
「ああ。奴は怪談とか好きな癖に、怖いものが苦手なんだ」

 どこで調べたかそんな情報を、友崎は僕らに伝えてくる。
 正直あまり知りたくない。知れば知るほど、引き返せなくなってしまう。

「もっさんが行ったら、旧校舎中央階段まで行くぞ。屋上行きの階段を登る」
「どうか、見つかりませんように……」

 今となってはもう、祈ることしかできない。
 こんな時間に許可なく敷地内にいたら、警察か警備会社が来るかもしれない。
 平気で校則を破る友崎と、好奇心の強い天月からすれば校則は怖くないのだろう。
 でも、臆病な僕には怖くて仕方ない。

(来たぞっ)

 小声で友崎が僕らに知らせる。
 続いて聞こえる重い足音。揺れる懐中電灯。
 まだそんなに暗くはないから、懐中電灯なんて要らない。確かにこの用務員さんは、かなり臆病なようだ。
 きっと僕とも気が合う。

「誰かいませんよねー?」

 心臓が跳ねた。
 近付いてくる足音に、鼓動は暴れる。
 自分の呼吸の音がうるさい。
 用務員さんに聞こえてしまうんじゃないかと思えるくらい、鼓動も呼吸も喚いてる。

「いないな~、いないよな~、いたら困るもんなーよしいない!」

 薄く揺れていた懐中電灯の光が消えた。
 足早に音が遠ざかる。踊り場まで出た友崎に、視線が集まる。

(よしっ、行け行け行けっ)

 用務員さんが階下に消えた瞬間、友崎が号令をかけた。
 なるようになれ。
 僕らは飛び出した。

(もっさんはこの後一度用務員室に戻る、今がチャンスだ!)

 今ここで用務員さんが帰ってくれば、僕らは終わる。
 静かに、けれど迅速に。
 喉を絞って呼吸を止め、脱いだ上靴を手に持てば、もう音は出ない。
 腹の底から沸き起こってくるような焦燥感に、心が浮かれる。
 不覚にも、胸踊らせる自分がいた。

(着いたぞ、ゆっくり登れよ……)

 速度を落とした友崎にならって、ゆっくり階段を登る。
 段の角に付いた滑り止めが踵に刺さる。
 二つの鍵が閉まった観音開きの扉は、夏の暮れ方に色を忘れていた。

(これ、鍵どうやって開けるの?)

 まさか、用務員さんから奪ってくるとでも言うのだろうか。
 友崎が懐から取り出したのは、一本のマイナスドライバー。それと針状に伸ばされたクリップ。

(またベタな)
(でもこのベタがこないだ、下の鍵を開けたんたぜ)

 監視頼むわ、と言い残して友崎はピッキングに取りかかった。
 突起と、それに擦れる針の音。遠い蝉の鳴き声と、鼓膜を叩く鼓動の音。
 静かに溢れる三つの吐息。

(こう言うの、なんかドキドキしますね)

 耳打つ天月の声音が、鼓膜を優しく揺らした。
 ふと、子供の頃の内緒話を思い出した。お互いの耳に小声で囁きかけ、時々笑う小さなし楽しさ。
 時々かかる吐息。
 ゾクゾクとこそばゆい、あの感覚。

(そうだね、結構、楽しい)

 童心に帰った。
 天月の耳に顔を寄せて、内緒のコソコソ話をする。
 柔らかな頬が、触れそうな距離にある。時々、触れる。

(なんか「イケナイ事」してるみたいですね)
(実際にイケナイ事をしてるんだよ)

 子供の頃は、しょっちゅうしていた「イケナイこと」。
 それも大人になるにつれて、いつしか出来なくなって。
 中途半端な羞恥心と神経質な調和に追いやられたそれを、「大人になったな」なんて笑って誤魔化す。
 そんな少し、寂しい成長。

(おっし、まず下開いたっ)

 サンチな気分になっていると、カチャリと小さな音が鳴って、鍵が開いた。
 腕時計が指す時刻は、夜の八時十九分。窓の外の空は、もう随分と暗くなっている。
 夏の大三角形が見頃を迎える時間は、夜の八時から十時にかけて。少し過ぎた時間に、焦りが生まれる。

(これ大丈夫なの?)
(おう、もうちょっと待ってろ)

 クーラーの届かない踊り場は、蒸し風呂みたいで。汗が滲むそばから、緊張と一緒に流れ落ちていく。
 古いタイプの鍵穴は簡単に開くように見えて、中々開いてはくれない。
 過ぎていく時間の中に、焦りだけが育っていく。
 いつ用務員さんが戻ってくるかもわからない。
 もしかしたら、体育の中里先生が、仕事の息抜きに近くを通るかもしれない。

 イケナイ事をしている時は、いつだってそう。
 余計な心配と背徳感に蝕まれて、集中力は長くもたない。
 きっと二人もそうなんだろう。
 いつしか僕らの間から、会話が消えていた。

(空いた、空いたぞ!)

 最後の鍵が空いた。
 静かな歓声と一緒に、緊張が高まる。
 ずっと閉鎖されていた屋上。
 慎重に開く扉の先に、未知の場所が広がっている。
 胸の高鳴りは、もう抑えられなかった。