彼女は手紙を眺めている。
 切手だらけの封筒と、気色の悪い言葉が連なる便箋。ストーカーからの殺害予告だ。

「これが泥棒がかけた真の呪い。盗品が辿るはずだった未来の「記録保管」さ」
「記録保管?」
「ああそうさ。つまりは「それが盗まれなかった世界で起こるはずだった出来事」を見るということだ」

 説明を聞いている間も、映像は動き続けた。
 ストーカーからの手紙に一瞬肩を震わせ、天月はそれを机に置く。
 そこに僕がやってくる。
 彼女は僕を家に招き入れて、夏休みの計画を練る。その後ろには、殺害予告の置かれた勉強机。

「これ、いつの出来事ですか?」
「終業式後の出来事さ。泥棒が盗まなかったら、君たちは一度詩乃ちゃんの家に集まることになっていた」

 それ自体は大したことじゃないよ。
 哀しげにシケモクを燻らせた。煙がまた濃くなって、今度は僕らの周りに映像が展開する。水族館みたいに幻想的な、どこか暗い光景だった。

「ここからが、彼女の運命を大きく変えるんだ」

 それは、今やもう存在しなくなったifの未来。
 手紙が存在し続けたその世界で、天月は誰にも手紙の存在を打ち明けなかった。親にも、学校にも。
 だからストーカーの存在なんて誰も気付かなかったし、ましてや殺害予告をされているなんて想像すらされなかった。
 ただ天月ばかりが恐怖を溜め込み──そして、八月十二日。

「ああ……」

 声にならない声。
 知っている。
 見たことがある。
 一人で吹かした紫煙の中に。
 悪夢みたいに現れた、あの幻覚。
 これは「天月が殺される未来」だ。

『詩乃、迎えに来たよ』

 天月詩乃は殺された。
 雨前の冷たい風の中、暗い夜道で殺された。
 逃げることも、抗うこともせず。ただ、諦めたように殺された。
 ストーカーはそれを『受け入れられたんだ!』なんて喜びながら、何度も天月を突き刺す。
 天月の瞳から、一筋の涙が零れる。

 僕はそれを、ただ見ていた。
 胃袋は雑巾みたいに捻られて、視界はクラクラと回る。

「これ、これって……幻覚じゃ」
「おや? もうそんなところまで行ってたか。なるほどどうして、筋がいいね」

 言葉が出ない。
 次に口を開けば、間違いなく吐いてしまう。

「──そう、これが彼女が歩むはずだった未来さ。最初の一通を盗んだって、ストーカーの殺意は揺るがなかったがね」

 ザハロフさんがそっと吐息を注ぐ。。
 僕らを包み込んでいた煙が晴れていく。
 夢を見ているようだった。
 足の裏から感覚が消えた気がした。
 けれど鮮明なその仮想現実は、間違えなく現実のもので。握り締めた手のひらに食い込む爪は、確かに痛くて。
 泥棒が盗み保管した未来の中で、天月は死んだ。
 いつか僕が見た幻覚と、同じように。

「もうわかったろう。天月詩乃との関係は危険だ、金輪際「泥棒探し」は止めることだね」

 天月詩乃は危険な存在。
 確かにそれは、的を射た言葉なのだろう。お陰で僕もストーカーの神経を逆撫でしてまった。
 けれど、ここまで来て、

「ここまで来て、退けるわけないじゃないですか」

 初めからわかっていた。
 天月詩乃は元から危険な女の子だ。
 初対面の人間をイジメに巻き込むし、何よりあまりに優しくない
 それでも、一度それを受け入れたのは僕だ。
 今さら危なくなったから引き返すだなんて、目覚めが悪い。

「ほほーう、面白い! 想像力の欠如も、ここまで来りゃ才能だね!」

 トーンの上がった声音とは裏腹に、ザハロフさんの歯は剥き出しになっていた。

「じゃあ教えてくれよピエロ。何故そこまで天月詩乃に固執するんだい?」
「固執なんかじゃないです」
「オイオイ頼むよ。この期に及んでまだるっこしいのは、無しだぜ」

 ザハロフさんの溜め息が地面に落ちる。
 ゾッとするほど冷たい目が僕を掴む。

「私は建前が聞きたいんじゃあない、本音が聞きたいんだよ」

 わかっていた。
 彼女を避けようとしていた理由だって、この感情の名前だって。
 「答え合わせの日」を決めた理由だって、始めから全部わかっていた。
 でもその言葉は、他のどの言葉より純粋で。だからこそ、口に出すのは難しくて。

「それは」

 言い淀む、と言う言葉はきっとこう言う時のためにあるんだと思った。
 そして沈黙は、相手を逃がさないためにあるんだ、とも。
 ザハロフさんと僕の間に沈んだ、重い沈黙。
 それは僕の心臓を「答え」で埋め尽くすには、十分な時間だった。

「天月が、大切だからですよ。僕が彼女に何かをしてあげられない限り、この感情に付く名前はそれだけです」
「つまんね」

 口が言葉を生んだ瞬間、ザハロフさんの声がそれを噛み殺した。
 相変わらず気味の悪いピエロだ。自然と舌打ちが溢れる。

「つらまん、つまらんよ二条君。誤魔化すなって、言ったろうよ」
「……人を弄んで、楽しいですか?」
「楽しいはずがないだろう? 人間なんて大っ嫌いさ。自分も含め、みんな死ねばいいと思ってるよ」

 忌々しいと言うよりは悲しげな顔で、ピエロは泣き顔を形作った。
 表の店に出る時は笑い、裏の盗品窟に出る時は泣く。
 一体どっちがザハロフさんの本当なのだろう?

「ま、からかい過ぎたとは思ってるし、悪いとも思ってるよ」

 お詫びに、昔話をしてあげよう。
 邪悪な笑みを潜めて、シケモクを摘まんで灰皿に返して。
 窓辺に落ちた月明かりを手に取るように、道化はそっと物語を紡ぎ出す。

「あるところに、一人の少女がいた──」


 年端もいかないその少女は父親から暴力を受け、母親からは疎まれて育った。
 十歳になる前から町に出てはシケモクを拾って売り、ホームレス相手に小銭を稼いだ。

 十五の年、彼女は天涯孤独になった。
 両親が出してはいけない金に手を出して、廃棄物処理場のバスタブに溶けたから。
 どうやら複数の金貸しから同時に一発トビを企て、捕まったらしい。
 処理を見ていた男に湯屋へ連れていかれ、そこで働き。ようやく首が回るようになったのは、二十四の冬。
 追い出されるように仕事を辞めた時には、少女は大人の女になっていた。

《おや、これはかわいそうに。人に愛されない子供は、どこにでもいるもんだ》

 なんの救いも、面白味もない人生。
 住み着いたあばら屋で縄を結んでいた時、頭の中に声が響いた。

「誰」

 《泥棒です》と声は笑った。姿は見えない。

「あげるもんなんて何もないわよ」
《貧乏ったれから物盗るほど落ちぶれちゃあいないよ。それに私が盗むのは「誰かのいらないもの」さ》

 声は言う。
 それはオムライスのピーマン、忘れてしまいたい記憶、忘れられない恋心。あるいは、七月七日の催涙雨。なんだって盗んでしまう。
 苦しくて、悲しくて。抱えきれなくなった感情や、思い出を盗む。けれどもう辛くて見れなくなった、かつての「大切」を盗む。
 盗まれたものは泥棒の懐に。ただ世界はその存在を忘れて、なかったことになってしまう。

《それが忘れん坊の泥棒さね》
「あっそ」

 折れそうな梁にぶら下げた縄を持って、女は吐き捨てた。
 今さら、生きて体験する事に興味なんて湧かなかったのさ。

《おや、まさか死ぬ気じゃあるまいね?》
「サーカスでエアリアルでもするように見える?」
《にひひひひ、面白いことを言う嬢ちゃんだねぇ!》

 けたたましい老婆の笑い声が、頭を殴った。まるで呪いだ、と女は舌を叩く。 

《だがね、その梁はあんまりにもボロすぎる。羽のように軽い嬢ちゃんの体重でも、折れちまうだろうさ》

 泥棒は饒舌だった。
 けれどそこに暖かさはなかった。

《そして首吊りは体の中のモン全部吹き出しても、まだ死ねないよ?》

 誰が死ぬも、誰が生きるもどうでもいい。冷たい雪の下に沈んだ、孤独な諦観。
 少し自分と似ている、と女は思った。

「生きてる方が苦しいから、死ぬのよ。わかるでしょ」

 女に身寄りはなかった。
 与えられた家もあばら屋で、食い扶持もない。

 ──食わせて欲しけりゃ、事務所に顔出せ

 あばら屋をくれた男の言葉を思い出す。
 真っ平御免だ。
 どうせ生きていても、また誰か人間に辱しめられるだけ。それなら関わった人間を皆呪って、この苦界とさよならしたかった。

《気に入った、アタシが面倒見る》

 だと言うのに、この老いた泥棒は中途半端な言葉をちらつかせる。
 ふざけないでよ、と思った。もう誰の指図だって受けたくないの、と。

「恨むから」

 憤った女は首に縄をかける。足場にした椅子を蹴る。
 視界がブレて、足が死神に引っ張られて。石鹸を着けなかった縄の摩擦で、首が歪む。
 食い込んだ縄が、体の中に残った命の欠片を吸い取っていく。
 意識を失う刹那。
 女が「タバコ吸いたい」と思ったのは、きっと生への願望なんかじゃなかったはずだ。

 女が目を覚ましたのは、雲に隠れた月の夜。
 一瞬にして女は自らの自殺未遂を悟る。自分の首から、縄が消えていたから。
 犯人だってわかっていた。同時に、腹も立った。

(私を助けて、自分の存在を証明したって訳?)

 声は出なかった。
 だが、思考ははっきりしていた。首の痛みだって、最初から存在しなかったように消えている。

「死ぬなんて甘い事、許しゃあしないよ」

 タバコの紫煙が漂った。
 甘く、少し渋いバニラの香り。
 女は上体を起こす。見上げた視界は暗い。だがその中に、一人の影が立っている。
 泥棒だ、と直感した。声が頭に響かなくなっていたから。

「どろ、ぼ……」
「ご名答、縄を盗ませてもらったよ。自分のために死を選ぶ負け犬なんざ、見たかないからね」

 掠れた声を見下ろして、泥棒は嗤う。
 女は、死ぬ権利を盗まれたのだと思った。老いた泥棒の底知れない力に、女は戦慄くしかない。

「嬢ちゃんの命は、アタシが頂戴した。生きるも死ぬも、アタシから逃げてから好きにしな」

 涙が溢れた。
 悲しいのか、怒っているのか。その感情を知るには、女が自らに被せた蓋が厚すぎて。
 枯れたはずの涙は、訳もわからず流れ続けた。

「アタシは、忘れん坊の泥棒アリョーナ・イワーノヴナ」

 風が吹く。
 雲が流れて、月が覗く。
 暗いあばら屋に冷光は落ちて、泥棒の影が色を着る。

「さあ嬢ちゃん、アタシと一緒に踊ってもらおうかい?」

 その問いに女は答えなかった。
 それが答えだったのかもしれない。
 ただ、次の日からも女は生きていた。生かされていた。
 あばら屋には駄菓子が並び、裏の倉庫には忘れん坊の泥棒が盗んだ「要らないもの」が佇む。
 子供が来れば菓子を売り、裕福な物乞いが来れば盗品を売った。
 誰も愛せなくなった女には、伝えられなかった臆病な恋心を。
 誰も憎めず敵を作れない弱虫には、燃え上がるような憎悪を。
 子の出来ない夫婦には、家族に愛されなかった少女を。
 泥棒と女。それと金で手に入れた「大切なもの」で、成長した気になる負け犬共。
 その卑怯さと臆病を自嘲して、盗品窟は「jude kiss」を名乗った。

 最初は、人間に復讐できると思っていた。
 だがそれも、御門違いな夢だと悟っている。端から叶うことなんてなかっただろう。
 それでも、女が『ユダの接吻』を見守るのは──

 *

「私が泥棒を受け入れるのはね、二条君。
 あの日死ぬはずだった私は、復讐に全てを賭けた。私は、あの日の自分に背を向けたくないのさ」

 ザハロフさんの虚ろな瞳が、僕を見つめる。
 いつしか止まっていた息を吐き出して、僕は目頭を押さえた。
 情報量が多すぎる。「jude kiss」の成り立ちも、ザハロフさんの生い立ちも。
 そして彼女を救った、忘れん坊の泥棒も。
 あまりにも遠いと思っていたものが、一気に近付いたような気がした。

「混乱してるね」
「当たり前ですよ。話がややこしくなりすぎです」

 最初は、ただ忘れん坊の泥棒を見つけて、盗んだ物を返してもらうだけだった。
 それがいつしかストーカーが絡み、そして遂に泥棒の実存にも言及されるようになった。
 バラバラだった目的は、どれも忘れん坊の泥棒に繋がっている。

「ま、深く考える必要はないさ。今は事情も変わってる」

 言いながら、ザハロフさんは一冊の文庫本を手渡す。
 手に取った表紙には「罪と罰」とあった。

「それもこのjude kissの商品。誰かから盗んだ盗品さ」
「これ、大切なものなんですか?」
「もちろん」

 鷹揚に頷いたザハロフさんの手には、一つのお守り。
 褪せて擦りきれたそれを見せながら、彼女は僕に説明する。

「お守りと一緒さ。その本の中には、誰かの『勇気』が入ってる」
「勇気」

 僕に足りないものだ。
 答え合わせの日を言い訳に、天月との関係の核心から逃げ続け。
 ストーカーへの対策は、不気味なピエロに頼るしかない。この弱い僕に、一番足りないものだ。
 でもそれは、

「蛮勇です」
「ほう?」

 挑戦的な瞳が僕を射抜く。

「勇気なんて所詮は生存本能の麗句です。持たざる人間が後付けで勇気を手に入れても、それを冷静に使うことはできませんよ」

 きっと勇気なんてものは後付けの記号に過ぎなくて。
 本当はただ、自分自身に吐いた前向きな嘘を、人は勇気と言うのだろう。
 美しい蛾が蝶にもなれず、蜂が鳥にもなりきれないように。僕が得た小さな蛮勇は、勇気と言うにはあまりにも弱い。

「ですが、これは有り難く頂きます」

 受け取った「罪と罰」。
 僕の新しいお守りを手に、財布を出す。

「うんうん、結構結構。人間は嫌いだが、抗い続ける人間は嫌いじゃあない」

 頻りに頷くザハロフさんに、財布を押し戻される。

「お代は結構。気を付けて帰りなさ」
「有り難う御座います。じゃあ、お休みなさい」
「ああ、お休み」

 暗い店を出る。
 月明かりと申し訳程度の該当が、粗いアスファルトの道を照らし出す。

 ──蛮勇

 自分が使った言葉を反芻する。
 手に持った文庫本を軽く握った。

(蛮勇上等だ)

 天月を守れるのなら、なんだって使う。
 盗品だって、忘れん坊の泥棒だって、何にだってすがろう。
 盗品窟で手に入れた誰かの勇気は、不思議と僕を前向きにさせた。

 *

 明けた夏空の日付は、八月十二日。
 夏休み中の勉強に怠りがないか確かめる、休暇中登校の日。

『大型で非常に強い台風十九号は依然として勢力を保ちながら──』

 付けっぱなしの天気予報を聞き流して、久しぶりの制服に身を包んだ。
 寝起きの髪を整える。定期をポケットに、教科書筆記用具を鞄に。
 思い出したように「罪と罰」を鞄に突っ込んで家を出たのは、蝉が歌い出した朝の六時半頃。
 朝鳴きのヒグラシが、夏の終わる未来を感じさせる。

 校門は八時半までに通ればいいから、何もこんな早い時間に家を出る必要はない。
 それでも僕が家を出たのは、少し寄る所があったからだ。

 ──何なら明日、泥棒が盗んだ七夕竹でも返しておこうか?

 昨日の夜、ザハロフさんが叩いた軽口に、僕は乗った。
 催涙雨に流された、七月七日の小さな七夕祭り。幼い天月が楽しみにして、けれど叶うことのなかった短冊の願い。
 その全ては忘れん坊の泥棒に盗まれて、存在そのものも消えてしまった。
 それを盗品窟の女主人は返してくれると言う。
 あの空っぽのうら寂れた盗品窟が本当に盗品窟なのか、見定めるいい機会になる。

『加賀美宮~、加賀美宮~。あお出口は~、あ左側、です。開くドアにぃご注意ください』

 十人十色のアナウンスを聞き流して、スーツの群れに紛れ込む。
 どこまでも続く青空と、途切れを知らない蝉しぐれ。水につけたドライアイスみたいに膨らんだ入道雲、古びたハイツ達の影が濡らすアスファルト。
 初めて忘れん坊の泥棒を探した日と同じ風景。ただ時間だけがあの日より少し早くて、僕の隣に、天月はいない。

『ここです、ここに七夕の竹が飾られていました』

 数の減ったスーツの列を抜けて、大通りを右に曲がって。七夕竹があったコンビニに辿り着く。
 猥雑な音の群れが、蝉時雨の向こうの消えた。

「嘘だろ……?」

 コンビニが、ない?