地獄と言うものがあるのなら。
 きっとこの手紙がそうだ、と僕は思う。
 マイナスの感情の全てを安直に混ぜた、最も想像しやすい地獄だ。

『好きだよ、愛してる。君が僕を見付けてくれた日をずっと忘れない。昂った自分を押さえるのに必死だ僕を見つめる黒い瞳、白い肌。僕が守らなきゃ折れてしまう肢体。今もあの日の君の眼を思い出して自分を慰めているよ。
 君に何かあったら、僕は真っ先に飛んでいくよ。子供は二人欲しいね。君との愛の結晶を二人で育んでいこう。
 いつか君を迎えに行くよ。君を殺して、僕も死んで。天国で二人一緒になるんだ、待っててね』

 子供が書いたみたいな鏡文字。
 抑揚と、前後の脈絡の欠けた文章。ミスマッチなほど馴れ馴れしく、身勝手な内容。
 便箋の裏に隙間なく貼られた82円切手。当然送り主の名前はなく、どの切手にも消印はない。
 つまり──直接投函されている。

(サイコパスか、気持ち悪……っ)

 腹のそこから込み上げる嫌悪感と、得体の知れない物への恐怖。
 存在そのものが支離滅裂になった紙切れに、吐き気すら覚える。

「天月」
「はい?」

 そっと封筒に手紙を戻して、天月に目を向ける。

「あの、人の家に来といて悪いけど、お茶もらってもいいかな」
「あ、はい。二条くん、大丈夫ですか?」
「何が?」
「顔、青いです」

 当たり前だ。
 自分の意思で天月の家に上がり込んで、手紙を見たとして。
 一枚目からこんな不気味な手紙を見て、気分が悪くならない方がおかしい。

「大丈夫だよ」

 それでも、天月を不安にさせる訳にはいかなくて。
 何も出来ない僕には、ただ「大丈夫」と言う事しか出来なくて。
 込み上げるぬるい何かを堪えながら、嘘を吐く。

「無理しないでくださいね」

 一言だけ残して、天月は部屋を出ていった。
 軽い足音が、くぐもった蝉の時雨に消えていく。

「こんな手紙があと何枚も……」

 雲行きが怪しい。
 これが最初の一本目なら、天月に送られてくる殺害予告は、きっと限りなく本物に近い。
 これを見て取り乱さない親がいるのなら、それはきっと親じゃないだろう。

「これは……?」

 窓際の勉強机に目をやる。
 強い日差しが遮光カーテンに遮られた先で、薄く照らす一枚の茶封筒。
 一枚の82円切手で丁寧に宛てられた天月詩乃への封筒から、一枚のレシートが飛び出していた。

「ノーベル。ザハロフさんか」

 悪いと思いつつ、レシートを確認する。
 普通の、駄菓子のレシート。
 けれどおかしい。ザハロフさんは、基本的にレシートを渡してくれない。
 そんな彼女からレシートが、しかも郵送されてくるなんて。

(裏には何が?)

 気になって、裏をめくる。
 そこには綺麗な文字で一文だけがしたためられていた。

『君宛の憎悪が盗まれた、気を付けろ』

 意味はわからない。けれどこれが、決していいものではないことはわかる。
 そしてその正体が、何かの手がかりになることとも。

「元カレ君、麦茶でいいですかー?」

 とたとたと軽い、天月の足音。
 くぐもった声が足音と共に近付いてきて、僕を現実に引き戻した。
 慌てて手にしたレシートをポケットに入れ、座布団に座る。

「大丈夫だよ」

 少し大きな声で答えると同時に、天月が部屋に入ってきた。

「無理はダメですよ」
「ありがとう」

 白い指から麦茶を受け取って、一口飲む。
 緊張でからからにカラカラに乾いていた喉を、冷たい麦茶が通っていく。
 家毎で味の違いがある麦茶。天月家の麦茶は、少しだけ鼻に残るような甘い風味があった。

「落ち着いたよ、ありがとう」
「いえ、それならよかったです」

 微笑みをくれた天月を見ると、ぶつけようのない苛立ちが湧いた。
 もちろん天月に向けてじゃない。天月に気味の悪い手紙を出した、気持ちの悪いストーカーに対してだ。

「……君はこれ、全部見た?」

 怒りを抑えて天月に尋ねる。首肯が返ってきた。

「はい、見ました」
「どう思った?」
「ストーカーだと思うんですけど、心当たりはないです」

 直接投函されていると言うことは、基本的に天月の情報はほとんど知られているはず。
 けれど天月に心当たりがない限り、警察は動きづらそうだ。

「違うよ天月」

 でも、違う。僕が聞きたいのは、素直な彼女の本心だ。

「怖いとか、気持ち悪いとか、そう言う感情の話だよ」

 天月の目を見据えて問いかける。
 少しの沈黙。困惑する天月の表情。
 細くしなやかな指が、ベージュのスカートに深いシワを寄せる。

「……少し、怖いです」

 ようやく発した言葉。その目は揺れて、とてもじゃないけど「少し」だけ怖いようには見えない。

「少しだけ?」
「ええ、はい」
「少し、しか怖がってるようには見えないよ」

 問い詰めるのは、ストレスになるかもしれない。
 目を背けていた恐怖に向き合わせるのは、残酷かもしれない。
 けれどそれも、天月がこの「優しくない世界」から逃げ出すための手段になるのなら。僕はいつだって鬼になる。

「本当は、もっと怖いんじゃないかな」
「大丈夫です」
「我慢するのは、優しさなの?」

 そこまで言うと、天月は俯いた。
 さすがの天月も、優しさがそんな優秀なものではないと知っているんだろう。
 一般に「優しい」と呼ばれる行為も、行為そのものが優しいだけ。
 「優しい」と言う言葉自体に、言い訳に使える程の優しさはない。

「難しいですよ、そんなの」

 俯いた顔のまま、天月が立ち上がる。

「どうしたら、いいんでしょうね」

 心臓が冷えた。下から覗いた天月の右頬の泣きぼくろが一瞬、本物の涙に見えた気がしたから。

「寝て起きたら、全部解決しませんかね……」

 崩れるようにベッドに沈んで、天月は力なく溢す。
 天月だって怖くないわけがない。ただ怖がることが解決に繋がらないと知っていて、本心を抑え込んでいるだけだった。

「神様は残酷だね」
「そんな神様、いないですよ。きっと」
 
 気休めを吐く。不安を紛らわすためのジョーク。
 返ってきた声は、悲しげだった。

「この世界にもしも神様がいるのなら、きっと世界を治めたりなんかはしなくて。
 ただ世界の記憶を共感して、全部記憶するだけだと思うんです。
 誰かが笑った記憶も、誰かが悲しみに狂った記憶も」

 深い海の目が、僕を見つめている。
 一言一言を噛みしめるように、悲しみに寄り添うように。
 澱みなく丁寧に話して、終わり際。天月は嘆息した。

「だから神様は、この世で一番幸せで、一番かわいそうなんです」

 言葉が出なかった。
 そんなこと、考えたこともなかったから。ただぼんやりと、理不尽とほんの少しの憧憬を溶かして、万能とされるその存在に救いを求めていた。
 それはきっと、行き過ぎた嫉妬なのかもしれない。

 けれど天月は考えていた。僕の考えないことも、考える機会すらないことも。
 きっと彼女が優しくないのは、考えすぎるからなのかもしれない。
 とにかく僕は、彼女の言葉に反応できなかった。
 それほどまでに彼女の言葉が、的を射たもののように思えてしまったから。

「本当に神様がいて、万能だったとしたら。私もきっと、素直に怖がれたんでしょうね」
「そうだな。きっと、そうだ」

 それは限りなく本心に近い、天月なりの強がりだった。
 本当は怖くて、でも伝えることが解決にならないことは知っていて。
 だから強がりの中に、本心の恐怖を溶かした。

(今のところは、それが分かればいいか)

 内心の安堵に、はたと思い出す。
 殺害予告なんてどうでもよかった。
 それどころか、本当だとも思わなかった。
 どうせ多感な年頃の高校生が、あることないこと盛り上げて、面白おかしく噂してるんだろう。そう思っていた。
 けれどあんな手紙を見た後、僕の頭は自然とストーカーへの対策を練り上げていた。

「怖がったら、全部解決しませんかね」
「君が猫被って怖がったら、皆動いてくれるかも」
「そんなことしなくても、元カレ君は動いてくれるでしょ?」
「悔しいな、今回はその通りだよ」
「やっぱり元カレ君は優しいです」

 僕のことを「元カレ君」と呼ぶ時、天月は僕に試すような目線を向けてくる。

「ねえ、元カレ君」

 それはある種挑発的と言うか、なにか悪戯を企んでいるような瞳だった。
 けれどその目が揺れているのを、僕は見逃さない。

「親、今日帰ってこれないみたいです」

 確認していたスマホを投げて、天月はそう言った。

「へえ、なんで?」
「親戚中に助けてくれる人を募ってるみたいです」
「お父さんは?」
「父は母を諌めてるらしいですが、ああなった母は聞きませんよ」

 田舎特有の親戚の近さを利用して、天月のお母さんは親戚中に相談しているらしい。
 もっとも近いと言えど密集している訳じゃない。県を跨ぐから、帰りは明日になるそうだ。

「お父さんも大変だね」
「まあ、傷心の母の隙を突いて時出来たカップルですから、仕方ないです」

 天月のお母さんは、若い頃に妹さんを亡くしてから、ずっと心配性だと聞いた。
 多分ここまで慌てるのは、過去のトラウマにも関係するのだろう。
 それにしても、随分天月の口調が冷たい。

「お父さん嫌いなの?」
「嫌いでは、ないですよ」

 言いつつ、枕に顔を埋める天月。
 続きの言葉を待つ僕に、彼女のスマホが差し出された。
 着信中の画面。「父」の表記。
 嫌な予感が、実態を帯びて迫り来る。

「これを?」
「出てください」
「出て?」
「父から話があるそうです」
「話が、誰に?」
「二条くんしかいないじゃないですか……」

 それだけ言うと、天月の顔はまた枕に埋もれていった。
 既に着信中だ、受け取るしかない。早く出ないと切れてしまう。
 感情を殺して、画面をスワイプした。

「はいもしもし。お電話、天月詩乃さんに代わって出ています、二条です」
『……ああ私だ、変わらないな君は』

 ゆっくりした重みのある声。
 記憶にある天月の父親、修治さんの声だ。

「お久し振りです」
『久し振りだな、君は今うちに居るようだが?』

 早速話を切り込まれる。
 修治さんにその気はなくとも、話している側には威圧感がある。正直、あまり得意じゃない。

「はい、勝手にお邪魔してすみません」
『いいさ。どうせまた詩乃の無茶ぶりだろう』
「はい……あ、いえ」
『やっぱり君は嘘が下手だな。俺とよく似てる』

 電話越しで小さく修治さんが笑ったような気がした。
 「絶対に似てない」と思いつつ、逸れた話を切り返す。

「あの、話って」
『ああ、そこに詩乃はいるか?』
「はい」

 チラリと天月を見る。
 僕にスマホを渡したきり、枕に顔を埋めたままだ。白い足だけがパタパタと揺れている。

『じゃあすまないが、少し部屋を出てほしい』
「わかりました」

 嫌な予感。
 それは間違いなく何か大事な話で、天月に聞かれると不味いことなのだろう。

「ちょっと外で話してくるよ」
「はい~」

 くぐもった声と、ひらひらと振られる手に送られて部屋を出る。
 ぬるい熱気が頬を撫でた。外の無人の喧騒が、耳を蝕む。

「出ました」
『ありがとう。では手短に聞こう』

 空気が変わった。
 固い空気に、さらに重みが増したような感覚。プレッシャーとも言えるその空気に、胃が小さく鳴った。

『君は詩乃が死ぬと思うか?』

 その質問は、大きな振り子みたいに、少し遅れて僕の胸を殴った。
 昨日までは即答できていた答え。ただ一言「いいえ」と言えば済んだ話。
 けれどそれも、手紙の束を見て勝手が変わってしまった。

「正直、信じてませんでした」
『うん』
「でも手紙を見せてもらって、考えが変わりました」

 信じていなかった現実。信じたくなかった現実。
 その二つはとても似ていて、けれど正反対に立っている。
 一度でも信じてしまえば、現実への拒絶反応はなかなか無くならない。
 それは、僕が天月に抱く感情と似ている。

『詩乃が殺されるって?』
「はい」
『そうか』

 今ここに修治さんがいたら、殴られるんじゃないかと思った。
 それほどまでに彼の口調は静かで、重い。嵐の前の静けさ、と言う言葉がよく似合った。

『娘が初めて殺害予告を受けたのは三ヶ月前だ』
「三ヶ月……」

 反芻した言葉を呑み込んでも、まだ実感は湧かない。
 気の遠くなる時間だ。そんな長い時間を、天月はずっと独りで抱え込もうとしていたのか。

『最初は妄想を拗らせた告白文だったが、徐々に脅迫めいて過激になっていった』

 電話口に嘆息が溢れた。
 それはどちらのものだったか。とにかく長く、怒気を含んだ嘆息だった。

『その時バカな私は迷っていた。娘と男の痴情のもつれに手を出すべきなのか、と。しつこい男をストーカーと考えもせずに』

 他人に表情を読ませない天月から引き出せる情報は、あまりにも断片的だ。
 周囲の人間が気付けないのも無理はない。

『娘がストーカーの被害にあって二ヶ月目。ようやく私が気付いた時には、ストーカーは過激になっていた。私は鈍すぎたんだよ』

 それは憔悴しきった声だった。
 直接顔を合わさなくてもわかる。娘の助けになれない情けなさが、父親の心を蝕んでいた。

「天月、さんはわかりません。何もかも、他の誰より繊細で、誰よりも頑固です」
『私もさ。未だに、詩乃をどう扱っていいかわからない』

 腸の底から響くような、深いため息だった。

『普通の優しい女の子として扱うべきなのか、ストーカーに狙われる哀れな少女として扱うべきなのか。あの子なら間違いなく前者を選ぶだろう。だがそれがあの子の寿命を縮めてしまいそうで、私は怖いんだ。妻は生きてさえいればいい、と思っているようだがね』

 確かにそれは、天月が望んでいることだった。
 ただ一人の「天月詩乃」として見て欲しい。それが異常に優しさに執着する天月の、深い根の部分だった。

『あの子にとっての本当の幸せが、今を自由に生きることなのか。それとも束縛の中に小さな幸せを拾って、安全に生きることなのか。親としてできる限りの事はしてやりたいが、本当は出来るだけ危ない目に遭って欲しくないんだ』

 ままならない、と思った。
 見上げた天井に影が這って、一筋の斜陽がその影を割っている。もう夕暮れ時だった。

『君の意見を聞かせてくれないか』
「僕、は」

 即答するだけの勢いはなかった。
 大きく息を吸い込んで、肺に空気を詰め込む。

「僕はあの手紙を見てから、天月さんが心配になりました。でもそれは天月さんの命だけで、それを動かす「心」には気をかけてないのかもしれません」

 乾いた笑いが、スマホの向こうで弾けた。

『私もだよ。人間の存在にタグをつけるのは、いつだって外見や、環境と言った外的要因に過ぎない』

 違う、と言いたくて。でも言えなくて。
 背にした扉にもたれかかる。

「心が死ねば、命も死ぬと思います。人間は脆過ぎます」
「親としては、生きてさえいてくれれば嬉しいんだよ。命っていうのは、そんなに難しいもんじゃないんだ」

 心の死は、命の死と同じ。
 かつて一人の狂った医者は、人の魂の重さを21グラムだと言った。
 なんの科学的根拠もない俗説でも、一定数の人々がそれを信じたのは、誰かの死に負う傷を少しでも小さくしたかったからかもしれない。

「それでもせめて、諦めたくはないじゃないですか……」

 絞り出すように落ちた声が自分の声だと気付くまで、少し時間がかかった。

『だから君たちは「泥棒探し」を続けるのか』

 少しの沈黙を置いて、電話口の声が尋問口調になる。 

「それは……」

 知られていてほしくはなかった、泥棒探し。
 けれどそれもとっくにバレていて、逃げ道はどんどんと狭くなっていく。それでも、逃げる訳には行かなかった。

「多分、そうだと思います」

 泥棒を探すこと。そして、受け入れること。
 それは世界を優しくするためなんかじゃなくて、もっと簡単なことのため。

「大人になるために、僕らは忘れん坊の泥棒を探します」

 歳や周りに流されてじゃない。
 答えのない問題に頭を抱えて、それでも諦めず何かを探し続けられる。
 停滞しない大人になるためだ。

『じゃあ、続けるんだね?』
「はい、修治さんの意見に真っ向から反対する形になってすみません」
『ハハッ、いいさ』

 そこで初めて修治さんは笑った。

『止めても詩乃は聞かんからな』
「はい、本当に強い女性です」

 なんとなく、僕らの想像する天月詩乃のイメージが一致した気がして、僕らは笑った。
 いつも仏頂面のイメージがある修治さんも、こんな風に笑うんだ、と思った。

『どうかな。最近のあの子が本心で笑うのは、きっと君の前でだけだ』
「そうですかね。僕には普通に見えますけど」

 学校での天月は、無駄口を効くことはない。
 けれど話しかられればきちんと応えるし、誰かを助ける時も笑っている。
 ただ普段の表情や、常識がないだけだ。

『いや、全く違う。そもそもあの子は家族以外を家に上げたことがないんだ』
「……そこまでの友達がいないだけですよ、多分」

 ぞくりとした、嬉しかった。そして少し、恥ずかしくもあった。
 減らず口を叩いても、むず痒いような、暑いような感覚が収まらない。
 
「だから、聞いたんだ。『二条君はお前にとってなんだ?』と」
「それは」

 直球過ぎる、聞きたくない。
 叫びそうになる心を抑えて、唾液で喉を潤した。
 答えは、拍子抜けだった。

「『憧れの男の子です』だそうだ」
「憧れ」

 天月の言葉を想像して反芻する。
 彼女がどんな感情でその言葉を口にしたのかは、何となく想像できる。
 でもそれを天月自身が「本心で」口にする場面は想像できなかった。

『あの子がそんなことを言うのは信じがたいが、今日君に話を聞いてはっきりしたよ』

 電話口の声が静かに笑う。
 笑った時の息遣いは、天月とそっくりなんだ、と気付いた。

『あの子の言葉に、嘘はない。あの子が「普通の女の子」としての姿を見せ、年相応に「好き」を言葉にするのなら。それはきっと君に向けてだろう』

 ヤバイ。
 こんな感情も、こんな短絡的な感想も僕の中にはもうないはずなのに。
 「ヤバイ、嬉しい」の言葉が、頭の中を駆け回る。
 ニヤニヤが、止まらない。
 こんな気持ちの悪い自分を、諌める自制心はどこかへ行っていた。
 天月にとっての僕が、何か特別な存在になれているのかもしれない。
 確証はなくたって、天月への好意が恋でなかったとして。誰か第三者からそんな事を教えられたら、嬉しいに決まってる。

『ストーカーが絡む以上、危険な事だ。だから、君が危なくない範囲だけでいい。これからもあの子のわがままに、少しだけ付き合ってやってほしい』

 頼む。
 威厳も体裁も、何もかもかなぐり捨てて。僕みたいな子供に、一人娘を託した「大人」の気持ちを、僕は一生考え続けるだろう。

「わかりました」

 事態が忘れん棒の泥棒とは関係なくたって、僕の感情がどうなっていたって。
 そんなことは関係ない。
 ただ守りたい、と思った。
 人が何か大切な一歩を踏み出す時。深い理由はいらないのだと、その日僕は初めて知った。